生前を笑い上戸に葉鶏頭 遅足
先日の句会で、この句は日本語になっていない、という意見がありました。
生前は笑い上戸で葉鶏頭、なら分かる、とのこと。
この意見は、とても良く理解出来ました。
私も俳句を始めた頃に、全く同じ感想を持ったからです。
私も、意見を述べた方も、以前に報道の仕事をしていました。
報道の文章は、意味に、ブレやユレがあってはいけない。
正解はひとつ。正解がふたつもある記事を読まされたら、
読者は混乱してしまいます。
だから俳句には戸惑いました。
俳句は日本語じゃない。まさに名言です。
もうひとつの日本語でつくるのが俳句なんでしょうね。
これが難しいけれども楽しい。
子どもの頃から矯正されて忘れていた自分。
そんな自分を再発見していくようです。
それはどんな自分なのか?
しづかなる水は沈みて夏の暮 正木ゆう子
秋風や人行く方に道曲り 上田五千石
今、私にとって気になる句は、こんな句です。
この辺りに自分が失ったものがあるのかな?
追求する。この句の場合、助詞の「を」と「に」の関係を話し合う
のが必要なんだと思います。勿論名詞も含めて、だけど・・・
変ですかね?
別の方からも疑義がありました。
私も、まあ、そうして置こうという感じなので、
この疑義には同感するところがあります。
この場合は、もう少し推敲する必要があると
思っています。