日本男道記

ある日本男子の生き様

照見五蘊皆空とは

2008年03月30日 | 般若心経解読
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)とは
「照見五蘊皆空」とは、「身も心もすべて空であることを見通された」という意味。
まず「照見」は、「苦難を前にして怖気づいている自分の心にカツをいれる勇気」
次に「蘊」は、「集まったものの意」で、「五蘊」は、諸存在を構成する物質的・精神的五つの要素、色(しき)・受・想・行・識が寄り集まってできた心と体を意味する。
色=色身といって、肉体のこと。
受=あらゆるものをキャッチして感受すること。
想=感受したことをあれこれ思い返して、その思いにとらわれていくこと。
行=とらわれた想いに、さらに関わっていくこと。
識=分別したことの是非、善悪を認識すること。
すなわち色は一字で体を表し、受・想・行・識の四字で心の働きをさしている。
したがって、「照見五蘊皆空」とは、みずからの人生や仕事に徹底できたとき、体も、思いも、とらわれも、すべてが解放されるということを表している。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


行深般若波羅蜜多時とは

2008年03月23日 | 般若心経解読
行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはにゃはらみたじ)とは
「行深般若波羅蜜多時」とは、観音さまが「智恵の完成の修行を極められて」という意味。
観音が行じた修行は菩薩行といわれ、上に向かっては自分自身の悟りを求めて精進し、下に向かっては多くの人々を一人残らず救済するというもので、これを「上求菩提、下化衆生(じょうぐぼだい、げけしゅじょう)」という。
すなわち、観音さまが甚深微妙なる般若の宗教を実践されたということで、単に心の眼を見開いて、般若の哲学を認識せられたのみでなく、進んで般若の宗教を親しく実践されたということ。
「深」は、漢音さまが体得された、般若の智恵の奥深いことを形容している。
また「行」は行ずることが、語るべきものでなく、歩むことであり、実践することを表している。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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観自在菩薩とは

2008年03月16日 | 般若心経解読
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)とは
「観自在菩薩」とは、一般に「観世音菩薩かんぜおんぼさつ)」という名称で知られている観音様こと。
しかし、玄奘三蔵法師が梵名アヴァローキテーシュヴァラ(अवलोकितेश्वर [Avalokiteśvara]=観察することが自在な)を「観自在菩薩」と漢訳して以降、「観自在菩薩」という名前で定着していく。
一般の「観世音菩薩」という名前は、鳩魔羅什(くらまじゅう)が「妙法蓮華経」(法華経)を漢訳したときに同じ言語を「観世音菩薩」と訳し、「観音経」として普及したために、「観世音菩薩」の名称が広く定着した。
「観自在菩薩」は、悟りによる、明らかな智恵によって何ものにもとらわれない自由自在な心の境地に到達した。
逆に、「観音経」に登場するときは、「観自在菩薩」よりも「観世音菩薩」の名がふさわしいといえる。
なぜなら「観音経」は、悩み苦しみ人々を観音さまが救済されると慈悲(楽しみを相手に与え、苦をなくす=与楽抜苦)の経典であり、「観世音菩薩」という名前にこめられた「世間の人々の救いを求める音声を観察して救済される仏」という意味に合うからである。
次に「菩薩」とは、サンスクリット語のボーディサットヴァ(bodhi-sattva)を音写したものである。これに「菩提薩埵(ぼだいさった)」という中国の漢字を当て、その中の字を抜いて「菩薩」というようになった。
「菩提薩埵」というのは、まだ悟りに達していないが悟りに向かって努力している人々、これが「菩提薩埵」という意味になってきた。
仏さまには「阿弥陀如来」等の「如来」とこの「菩薩」があるが、この違いは、「如来」は一番高い位の仏様。一方、その「如来」と、我われ衆生である人間の間に立って、いったん如来になった方が衆生を救うために、わざわざ一段身を落として、我われに近づいてきて取次ぎをしてくれるのが「菩薩」。

「観自在菩薩」 「阿弥陀如来」

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


心経とは

2008年03月09日 | 般若心経解読
心経(しんぎょう)とは
インドの昔の言葉サンスクリット語(梵語)で「フリダヤム スートラ」といい、「心髄の教え」あるいは「核心の教え」と訳されている。
すなわち、「摩訶般若波羅蜜多心経」という経題は「偉大なる智恵の完成に至る心髄の教え」という意味になる。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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波羅蜜多とは

2008年03月02日 | 般若心経解読
波羅蜜多(はらみた)とは
波羅蜜多も般若と同じく、インドの昔の言葉サンスクリット語(梵語)の「Pāramitā(パーラミター)」、の音をそのまま写したもの。
二通りの解釈がなされている。
一つはパラマ(最高の)+ター(状態)と訳し「最高の状態」、「究極の状態」「完成した状態」などを意味するもで「般若波羅蜜多」で「智恵の完成」と訳されている。
いま一つは、パーラム(彼岸に)+イター(至る)と訳し、「彼岸に至る」意味であるとするもの。
しかし、渡るのも至るのも、「此岸(=しがん、娑婆、迷い、煩悩)」を離れ「彼岸」へ行くのであり、目的は「智恵の完成」という仏の悟りであり、意味するところは同じとされている。
すなわち、煩悩を解脱して悟りの境地に達し、生死(しょうじ)の此岸を去って理想の境地涅槃(ねはん)に到るという意味になる。

本来煩悩のあふれる「此岸」の世界で苦しんでいる人間が、死んでからではなく、何とかして生きているうちに、「彼岸」に渡るために課せられた行を「六波羅蜜ろくはらみつ)」という。
□布施(ふせ)・・・・・他の人に施し与えること。物とかお金の施しを「物施・財施」、真実の幸せに生きるための教えを施す「法施」、人に優しくしたり、慰めたりの心での施しを「心施」、人が苦しんでいるのを慰めて、苦しまないようにしてあげる「無畏施(むいせ)」、いい顔で相手を和ませる「和顔施」がある。このうちから、自分のできる施しをし、人と支え合い、励ましあって生きようという教え。
□持戒(じかい)・・・・戒律を守り、常に反省すること。人間として行ってはならぬことは決して行わず、欲を断って、教えを実践していこうという教え。
□忍辱(にんにく)・・・我慢して耐えしのぶこと。物事を実行し、成就しようとすると、必ず、さまざまな妨害や障害が立ちはだかる。そのような辛さ苦しさにじっと耐えなさいという教え。
□精進(しょうじん)・・身心を精励して六波羅蜜を進修すること。努め励むこと。教えを実践しようと思ったら、なにが何でもやりぬく努力が大切という教え。
□禅定(ぜんじょう)・・座禅をする、心を安定して真理を悟ること。功をあせると、せっかくの努力も水の泡になる。心を常に落ちつけ、うまくいっても、いかなくても、心を動ずることのない生き方をしなさいという教え。
□智慧(ちえ)・・・・・物事を正しくありのままに見て、道理を正しく判断し、命の意味を把握すること。目先の損得に振り回されず、広い目、大きい目で物事を考え、世のため人のために役立つ生き方をしなさいという教え。

私たちに馴染みのある「暑さ寒さも彼岸までの」お彼岸は、春分と秋分を中心とした前後3日を含む7日間を言い、春と秋の2回あり、この7日間にも意味があり、中日(ちゅうにち)をはさんで六つの徳目、六波羅蜜を一日ずつ修行し、せめて中日ぐらいは、祖先のご恩を偲んで、それを感謝すると共に、自分の生活を静かに反省して、六つをまとめて修養すべき時が、「彼岸」という呼ばれる行事であった。
「きょう彼岸さとりの種を蒔く日かな」


『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


般若とは

2008年02月24日 | 般若心経解読
般若とは(はんにゃ)
般若とはインドの昔の言葉サンスクリット語(梵語)の「プラジュニャー」、同じく俗語のパーリ語のパンニャー」の音写。
一般には智慧といわれ、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られたさとりの智慧をいう。
私も最初はお能の面の恐ろしい「般若の面」を思い浮かべたが、般若を単に智慧といっただけでは、般若の持つ持ち味が出ないので、しいて梵語の音をそのまま写して「般若」としたらしい。
因みにお坊さんの間ではお酒のことを「般若湯(はんにゃとう)」という。

さて、「般若」すなわち「智慧」、「智慧」とは何だろうか?
馴染みのある「知恵」とも違うようだ。
ある本には「仏教の道理を深く洞察し、生命、現実世界、宇宙の真実の姿を認識する力」とある。
では、「仏教の道理」とは?
要約すれば「無常」、つまりあらゆるものは変化し移り変わるという法則。無常を深く考察すれば、私たちが生まれ、成長し、やがて老い、死んでいくというありのままの姿を、そのままに受け入れることができる。
このような、人間の思いを超えて世の中の真実の姿を見、道理に目覚め、受け入れる仏の「智慧」を「無分別知」、人間の知恵である「分別知」を「知恵」と使い分けている。



『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


摩訶とは

2008年02月17日 | 般若心経解読
摩訶(まか)とは
 摩訶とは、サンスクリット語(梵語=ぼんご)のmahaマハーをそのまま漢字に書き換えたもので、「偉大な」とか「大いなる」と訳すことができる。
それも大小を比較しての大きさではなく比較を超えた大きさ。摩訶不思議とよく言われるが、これも非常に不思議だ、というのではなく、人の思量を絶するほど不可思議であるという意味。
「摩訶波羅蜜多心経」というお経の題=経題の中で、経文の本文中の中にないのは「摩訶」だけ。
およそ「題は一部の惣標」といわれるように、書物の題、すなわちその名前というものは、その書物が示さんとする内容を最もよく表しているもの、最近は羊頭狗肉のものが多々あるが。
経題も、同様に経典の教えの要を、コンパクトに印象づけるキャッチフレーズの役割がある。
したがって、「般若心経」の内容に人々の心を一瞬で惹きつけるために、漢訳者の玄奘三蔵がインパクトのある「摩訶」を用いたのであろう。


『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


般若心経 (Han-nya singyou)とは!

2008年02月11日 | 般若心経解読
般若心経とは
 
大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つ。
古いインドのサンスクリット語(梵語=ぼんご)で書かれた原本をかの三蔵法師で「西遊記」で有名な中国の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が漢訳したありがたいお経。
宗派によって呼び方は様々あり、この他に「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」、「摩訶般若波羅蜜多心経」、「般若波羅蜜多心経」と言う。
略称として心経。
漢訳には題名に「経」が付されているが、サンスクリットテキストの題名には『経』に相当する「スートラ」の字句はない。
600巻もある「大般若経」のエッセンスを僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、一部の宗派(浄土真宗)を除き、神社も含め僧侶・在家を問わず、読誦経典の1つとして、永く依用されている。
「般若心経」の文字数は、266文字、276文字、278文字など、様々だが、266文字は経題は経文に関係ないとタイトルにすぎないとして、本文のみの字数を示している。
276文字は「摩訶般若波羅蜜多心経」という10文字の経題を含めたもの。
278文字は経題に仏説の二字を加えた数、一般的には、経題も不可欠として、276文字とされている。
また、文字の読めなかった庶民のために「般若心経」の文言を絵で表現「絵心経」も伝わっており、古来に広く一般庶民の間に普及し、徹底していたかを知ることができる。
以下は、代表的な流布テキストに句読点を施したものである。

『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

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般若心経 (Han-nya singyou)


次回以降、原文のままサンスクリット語(梵語=ぼんご)と漢字が混ざった、「般若心経」の「心」を掴み取らんとの意気込みで一字一字解読してゆく。