【原文】
二十日の夜の月出でにけり。
山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。
かうやうなるを見てや、昔、阿倍仲麻呂といひける人は、唐土にわたりて、帰り来ける時に、船に乗るべきところにて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月の出づるまでぞありける。その月は、海よりぞ出でける。
これをみてぞ仲麻呂のぬし、「わが国に、かかる歌をなむ、神代より神もよん給び、今は上、中、下の人も、かうやうに、別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむ」とて、よめりける歌、
青海原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
とぞよめりける。
【現代語訳】
二十日の夜の月が出てきた。 山の端(稜線)も視界に入らず、その月は海の中から出てきた。 このような光景を見てでしょうか、昔、阿倍の仲麻呂という人は、唐に渡って、帰国する時に、乗船するはずの場所で、あの国の人々が餞別をし、別れを惜しんで、あちらのすばらしい漢詩を作ったりなどした。 それでも、名残も尽きなく思ったのであろう、二十日の夜の月がでるまで、そこにいたのだった。 その月は海の中から出た。 この月を見て仲麻呂は、「私の国では、このような歌を神代から神様もお詠みになり、今日では、上中下いずれの人でも、このように別れを惜しんだり、嬉しい時も、悲しいことがある時も詠むのです。」と言って、詠んだという歌は、 青海原 (青海原を遥か遠くに眺めますと、(月は今しも波間から昇っている。)まあ、あの月は、故国の春日にある三笠山に昇ったのと同じ月なのだなあ。) とまあ詠んだのだった。 |
◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。