
【原文】
「今日、波な立ちそ」と、人々ひねもすに祈るしるしありて、風波立たず。今し、かもめ群れゐて、遊ぶところあり。京の近づく喜びのあまりに、ある童のよめる歌、
祈り来る風間と思ふをあやなくもかもめさえだに波と見ゆらむ
といひて行くあいだに、石津といふところの松原おもしろくて、浜辺遠し。
また、住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人のよめる歌、
今見てぞ身をば知りぬる住江の松より先にわれは経にけり
【現代語訳】
「今日、波よどうか立たないでほしい」と、人々が終日祈った甲斐があって、風も吹かず波も立たない。今、かもめが群れて遊んでいる所がある。京が近づいているのを喜んで、ある子供が詠んだ歌は、 祈り来る… (風が吹かないように祈り続けてきて、今がその吹かぬ間と言うのに、妙なことになんで群れているかもめさえもが吹く風によって波に見えるのだろう。) と言いながら行くうちに、石津というところの松原は趣があって、浜辺がどこまでも続いている。 また、住吉のあたりを漕いで行く。ある人がよんだ歌は、 今見てぞ… (今、松をみてあらためて我が身を知った。千歳経る住江の松より多く、自分は齢を重ねてしまった、と) |
◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。