いずれもパンフレットから引用☝ click ☞ 簡単な白洲次郎の伝記
白洲次郎は兵庫県芦屋の精道村で生まれ育ち 小学校は御影師範(現神戸大学発達科学部)の付属小学校を卒業して神戸一中(現神戸高校)に進んだ。
神戸一中を出た後 英国に留学しケンブリッジ大学でキングスイングリッシュを身に着けて帰国した。
その環境からか 彼は日本語の「いわゆる共通語」アクセントを知らず、日本語としては関東アクセントでしか話さない家族の中で
たった一人、生涯を関西弁を喋って過ごしたと娘さんの牧山桂子さんが何かに書いていたエピソードが可笑しい。
白洲正子の書斎に入ると、彼女の蔵書が前後左右の本棚にぎっしり詰まっていたが、 歴史書や古典や小林秀雄全集の中に
車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」や冨士正晴の「桂春団治」もあって彼女の関心の対象の多様性に驚いた。
そのほか南方熊楠の男色に関する本、ファーブルの昆虫記、神谷恵美子の著作も並んでいて これまで白洲正子の本を一冊も読んだことがなかったが
自分も知っているこういう本を読んで来た白洲正子ってどんな人だったのか興味が湧いた。
四十八瀧心中未遂
帰りは鶴川の駅から二駅離れた新神会メンバーのホームタウン「新百合ヶ丘駅」に戻った。「新神会」の名は「新百合ヶ丘」の新と、メンバー全員に縁がある「神戸」の神に由来している。
幹事さんが予約してくれていた「築地 とう庵」の離れコーナーでゆっくり食事をしながら 武相荘の話や今の日本や世界の話やなんやかんやで
3時間ほどの男の喋りタイムはあっという間に時間が過ぎた。こうして顔を合わせてお喋りが出来る有難さをあらためて感じた。
新宿で小田急に乗り換え、家を出てから1時間半で鶴川駅に降り立った。新神会の5人のメンバーは定刻前に揃ってバス停に向った。
鶴川駅は自分が想像していた以上に開けた郊外の大きな駅で駅前の広いバスターミナルにひっきりなしにバスが発着していた。
会のメンバーの皆さんに、バス路線の中では「武相荘」(ぶあいそう)に一番近いルートを探してもらったので 最寄りのバス停から武相荘までは5,6分で着いた。
武蔵の国と相模の国の両方に近い地にあるから 武の字と相の字を組み合わせて「武相荘」(ぶあいそう)、と名付けたそうだ。
白洲次郎と正子に関する出版物の何冊か読み、NHKで伊勢谷友介が好演したドラマシリーズ「白洲次郎」を楽しんだことがあるので「武相荘」とは
どんなところか行ってみたかった場所だった。
武相荘の中は撮影禁止だったので内部の模様はパンフレットから引用。
武相荘は夫妻が鶴川に土地を見つけて山荘を造ったと思い込んでいたが、行ってみて 人が住まなくなって長い豪農の家を購入して手を入れて住みだしたということを知った。
そのせいか 奢侈なところは微塵もなく 実質的にして 余裕ある住空間があった。
二人はともに当時の日本の上流階級の生まれ育ちだから 室内の随所にそれが伺えたが 恵まれた環境の中にしては
いささかも華美や豪奢に走ることがなく「ありのままに土の上に生きた」のだと感じた。確かに彼らには見栄を張らないといけないという俗世間や俗人の要素は何もない(笑)。
続く。
☝「ホテルモリノ」があるビルから見た百合ヶ丘の丘陵タウン。
久しぶりに新宿で小田急線に乗り換えたが、
新宿は昨年の11月以来だったせいか新宿駅構内でJRから小田急線への乗り換えで少し迷ってしまった。
少し早く家を出たので何とか約束の時間には新百合ヶ丘駅に着いた。
駅のすぐそばの「ホテルモリノ」のレストランでのランチを予約してもらっていた。
学生時代に知り合った元柔道部の 久しぶりに会ったYさんと、元ヨット部の長年の友人であるTさんと三人の喋りながらの昼食は楽しかった。
Tさんはついこの間わが地を訪ねてくれたし、別のグループと同じホテルにある「梅の花」clickで何回もあっているが、
50年近く年賀状を交わしてきたYさんとは何十年か前の同期会以来の顔合わせだった。レストランの食事はとてもおいしくビールとワインもすすんだ。
来年3月には3人で沿線の鶴川にある「武相荘」(白洲次郎・正子夫妻の旧居)を訪ねることを約して別れた。
帰りはふと思い立ち、代々木上原駅で向かいホームに停まっていた地下鉄千代田線に乗り換え
新御茶ノ水駅で降りて馴染みの元勤務地である神田をぶらぶらし(後日掲載) JR神田駅まで歩いてから電車に乗り帰宅した。
帰りに秋葉原の駅ホームの売店で買った「万カツサンド」は孫たちの翌朝の朝食になった。
(画像は以前のもので現在は容器と実物は小さくなっている)。
今回まわった佐倉惣五郎の事績に関する関連資料として次のようなサイトをKさんが紹介してくれました。
(義民? 怨霊? 福沢諭吉に「唯一佐倉宗五郎を鑑とせよ」と言わしめた佐倉宗吾とは?)☞こちら
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「義民ロード」を車にのせてもらってまわったあと、友人の家まではそんなに遠くなかった。以前の訪問 ☜click
お宅には今年取れた新米をご馳走になるという事で伺ったが、卓上にはフルコースが次々並べられ、そのすべてが大好物のものばかりだった。
前菜から始まったが 好きなイナゴのつくだ煮とワカサギの甘露煮に悦び、柿の実や千葉名産の茹で落花生も嬉しかった。
大きな太い竹の加工で出来た“うつわ”は昨日知り合いの方が作ってくれたばかりとのこと。
お酒は二人のかっての勤務先の先輩・故興津さんが教えてくれた「菊水」の、以前はなかったスパークリング一番搾りと諏訪の「真澄」を揃えてもらっていて嬉しかった。
料理はどの一品も旨くて遠慮なく全て心行くまで楽しんでおいしく頂いた。シャンツアイたっぷりのにんにくスープはKさんが作ってくれて旨かった。
自家栽培の茗荷の漬物も添えられた 新米は格別な味だった。
本日のメインディッシュのサンマは三軒目の店でようやく店にあったそうで これまた旨かった。
新米も美味しく、料理の品々は全て残さずお腹に納まった。
二人で2本の、日本酒のひさしぶりの昼酒の酔いは気持ちよく全身に回り 気が付くとあたりは薄暮になっていた。
帰りはJR成田線の我孫子支線の駅「安食」までミセスKの運転で送って頂き、
成田へ出て、京成線と総武線で無事に19時前に帰宅した。Kさんご夫妻ありがとうございました。
☝旧宅全面 ネットから借用 ☟旧宅内部 ほぼ400年前の佐倉惣五郎が住んだ家と説明を受けた。
宗吾から17代目にあたるミセス木内から詳しく木内家(佐倉家)の歴史の説明を聞くことが出来た。
Wikipediaから一部引用:
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?[1][注釈 1])は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物[1][4][2]。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)[3]、通称は宗吾(そうご。惣吾[1]とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが[1][4][2]、史実として確認できることは少ない[1][4][2]。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され[3]、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった[1]。
旧宅を出て甚兵衛渡しに向った。渡しがあった辺りは、今は干拓により水田が広がっていて甚兵衛公園となっている。
お咎め覚悟でひそかにいったん家に戻る宗吾を船で運んだ渡し守の甚兵衛は、送った後印旛沼に身を投げたと伝えられている。
このあたりも往時は印旛沼だった。
京成電鉄で成田駅に向かうたびに佐倉駅を過ぎると「宗吾参道駅」という駅があることに気が付いていた。
学校の日本史で習った覚えがある 一揆の親玉 佐倉宗吾の話はこのあたりのことかと思って通り過ぎていた。
コロナ禍の波はまた来るだろうが、とりあえず規制が弱まったこともあり 千葉県印旛郡栄町に住む50年を越える友人のKさんから宗吾霊堂などまわって
そのあと我が家で新米を食べませんかというお誘いを受けた。喜んで行ってきた。Kさんとは1966年の4月に四国は愛媛県の新居浜で初めて出会ってからの長い付き合いだ。
久しぶりの成田駅で10:20頃ピックアップしてもらった。
ここまではいつものように総武線を船橋で京成電鉄に乗り換え京成成田駅でおりてロータリーの向かいにあるJR成田駅まで歩く。
JRで千葉駅経由成田駅に向かうより、時間とコストを考えて いつもこちらのルートをとる。この日は最寄り駅を8:56分の電車に乗り京成成田駅には10:05頃着いた。
まず宗吾霊堂へ。国立歴史民俗博物館 佐倉のサイトから。⇒ 「義民の世界 佐倉惣五郎伝説」
5月と11月に年2回ある関東在住者主体のゼミ仲間の昼めし会に参加した。今回の参加者は5人だった。
うち三人は生まれも育ちも神戸ながら、今は川崎市、柏市、横須賀市という関東地方に住んでそれぞれもう長い。
新百合ヶ丘の「梅の花」は駅から歩いて4,5分のモリノというホテルの中にある。
メインの豆腐料理の写真は撮り忘れた。
それぞれの最近の体調の話が多かったが、一本足立ちを交互に何分間か続ける体操、
夜中3回程度の小用は頻尿ではなく高貴高齢者になれば気にすることも無いこと、ウオッシュレットの効用、など話題は
あちこち飛んだ。地域の広報活動に加え、大型団地の理事長をしているメンバーもいて、元気に社会貢献を続けていると聞くのも嬉しい。
万歩計:5617歩
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W1常盤台写真場
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W2三井八郎右衞門邸
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W3奄美の高倉
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W4吉野家(農家)
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W5八王子千人同心
組頭の家 -
W6前川國男邸
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W7田園調布の家
(大川邸) -
W8綱島家(農家)
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W9小出邸
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センターゾーン
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C1ビジターセンター
(旧光華殿) -
C2旧自証院霊屋
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C3高橋是清邸
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C4西川家別邸
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C5伊達家の門
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C6会水庵
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東ゾーン
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E1天明家(農家)
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E2小寺醤油店
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E3鍵屋(居酒屋)
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E4子宝湯
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E5仕立屋
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E6武居三省堂(文具店)
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E7花市生花店
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E8万世橋交番
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E9植村邸
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E10丸二商店(荒物屋)
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E11村上精華堂
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E12川野商店
(和傘問屋) -
E13大和屋本店
(乾物屋) -
E14万徳旅館
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掲載の建物の画像は全て「江戸東京たてもの園」のHPから引用。
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市内循環バスで駅に向った。
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はけと中村研一美術館を見に来た時と同じ店で昼食を取った
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前回来た時の店の模様⇒こちら。
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江戸東京たてもの園は思った以上に多様性のある日本の歴史的な建物のテーマパークだった。
バラではなくダリアの花だった。
欅の森に武蔵野の面影を感じる。関西では欅を見る機会は殆どなかった。
江戸東京たてもの園の入り口が見えてきた。
三井総本家の三井八郎右衛門邸 港区三丁目から移設
ボンネットタイプの以前の都営バスの現物
沢山の建物が関東各地から移設されている。
八王子千人同心の組頭の家 八王子市追分町から移設
続く
秋晴れの某日、武蔵小金井駅に降り立った。10月のoh散歩かいで「江戸東京たてもの園」と「小金井公園」を会の6人のメンバーで訪ねた。
駅からバスに乗って10分ほどでサイトに着いた。
続く
武蔵小金井駅で降りたのは2回目だった。⇒前回
町田市に住む従弟夫婦が耕作をやめた田んぼを借りて、もう15年ほどお仲間とやっている米造りのうちの稲刈りステージに応援参加したが実質は見学しかできなかった。
皆さんは軽々とやっていたが田んぼの中の作業は古代から重労働だったと感じた。
この日の作業が終わってから従弟と小田急町田の居酒屋で一杯やった。来るときは錦糸町から半蔵門線と東急田園都市線で青葉台というルートにしたが、
帰りは小田急町田から新宿へ出て中央総武線で帰宅した。小田急町田駅のホーム。👇
町田市に住む従弟夫婦が耕作をやめた田んぼを借りて、もう15年ほどお仲間とやっている米造りのうちの稲刈りステージに名目だけ(笑)応援参加した。
東急田園都市線の青葉台駅で下車してバスで現地に向った。電車は錦糸町で東京メトロの半蔵門線に乗ったので、渋谷で東急田園都市線と相互乗り入れしていて
電車は乗り換えなしに錦糸町から一本で青葉台まで行ける。
バス停横にヒマワリが
終点の鴨志田団地で降りたらそこが寺家ふるさと村の入り口だ
川崎市麻生区と町田市三輪町が横浜市青葉区に隣接している。三輪町には古墳が多く奈良県奈良市にある地名も多いと教えてもらった。
トトロの森を思わせるという里山の入り口。
続く
外房線沿線にある「土気」、初めて聞く地名だ。読み方もわからなかった。そこに「ホキ美術館」がある。
赤丸印の所が土気。場所の紹介⇒地図の引用元。
ホキ美術館は日本で唯一の写実絵画に特化した美術館だ。日本の写実絵画作家とスペインの写実絵画作家の作品には
自ずからなる違いを感じた。
それは面白い違いだった。片方には浮世絵の伝統を感じ、片方には宗教画の伝統を感じた。
圧倒的なボリュームの展示を見終わると少し疲れを覚えるほどだった、絵はあまりに緻密で
作家は一年に一作か二作しか制作出来ないという。その作家の集中したエネルギーが作品の中から
静かにあふれてくる。樹木も海も波も女性たちもその質感が凄くて絵の前でしばし佇んだ。
写実絵画は絵画の原点なんだと思った。
三人会の鎌倉からのHTさんも田無からのMさんも遠路はるばるご苦労様でした。
千葉駅で外房線に乗り換えた。