阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

力士の足袋屋・一茶・龍之介  両国ぶらぶら②

2007年10月15日 | 東京あちこち
両国の町を歩いていると、日本でもここだけにしかないという相撲関係のお店に出会います。
この店は足袋博物館でもあるそうです。

足袋屋から遠くないところにこの石碑がありました。小林一茶はここにあった借家に5年ほど住んでいたそうです。この場所に立ったとき思いました。俳句の宗匠でメシが食えるほど、当時の江戸には俳句人口があったんだ。なんとも文化水準の高いこと!確か今でも欧米の詩作者が日本を知ると、一般の国民に俳句や和歌という詩を作る詩人がこんなに沢山いる国はないと心底驚くらしい。それは既に江戸時代に定着している。そして一茶は、晩年遠い信州信濃町の故郷にここから歩いて戻ったのかと思うと当時の日本人の行動半径の広さにも驚く。(信州信濃町は殆ど越後の国境に近い)。

馬車通りの路地に古い様式の家がありました。戦前から昭和の町の木造住宅の一つの様式だと思います。

芥川龍之介が育った両国3丁目。以下はwebから引用。
「生後七力月で本所の伯父宅へ
 母ふくの突然の発病のために、龍之介は生後7ヵ月で、母の実家の芥川家に引さ取られました。場所は本所区小泉町15番地、現在の墨田区両国3丁目22番11号にあたります。 芥川家というのは、代々お数寄屋坊主として殿中に仕えてきた家系です。その芥川家で、ふくの実兄夫婦とふくの姉のふきによって彼は育てられました。特に、ふきは生涯独身で通し、母親代わりとなって龍之介を世話しました。「伯母がゐなかったら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません。」と、彼は、ふきのことを慈しみながら語っています。 幼稚園は回向院の隣っにあった江東尋常小学校付属幼稚園に通い、小学校は今の両国小学校の前身である、江東尋常小学校に入学しました。 正式に芥川家の養子になったのは彼が12歳の時。 36歳の若さで龍之介が睡眠薬自殺をしたのは昭和2年7月24日早朝、東京田端の自宅ででした。

両国橋を渡って、浅草橋へ行く途中に橋の上から隅田川の上流を見ました。
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