隅田川と中川を結ぶ竪川の上には首都高速7号小松川線の高架道路が走っています。上の画像の水門の向こうは隅田川です。両国橋を渡っていくと向うの端に柳並木が見えました。昔「浜町河岸」があった場所のようですが、今は隅田川の高い土手やビルが並ぶだけの風情の無い通りでした。
「柳橋」を渡るとき下の川が神田川であることを知りました。井の頭公園の池から流れ始める神田川は、都市の中を流れる川としては珍しく、全面開渠のまま、ここ両国橋のたもとで隅田川に注ぐのだそうです。「柳橋」の向こうの右のビルには、もとの花町、柳橋にたった一つ残った料亭「亀清楼」がありました。
「神田川」
相方が昭和50年代後半に茨城県の藤代町から毎月材料を仕入れに通った、リボンフラワーの材料店は浅草橋の前の場所にそのままありました。
東京で13年間勤務しましたが、一回もぶらぶら歩いたことがなかった東京の下町は、所々に江戸や明治の空気が流れているように感じます。
このあと、わらじトンカツを食べて、昭和の初期に伯父が通った旧制「蔵前工業*」は、このあたりにあったのだろうかと思いながら、蔵前地区をあるいて浅草方面に向かいました。
*webで調べたら、「蔵前工業」は関東大震災後に大岡山へ移転し、校名も「東京高等工業」になっていました。但し、世間では長く“蔵前”が同校の通称として使用されています。ということで伯父は蔵前に通学したのではありませんでした。
「柳橋」を渡るとき下の川が神田川であることを知りました。井の頭公園の池から流れ始める神田川は、都市の中を流れる川としては珍しく、全面開渠のまま、ここ両国橋のたもとで隅田川に注ぐのだそうです。「柳橋」の向こうの右のビルには、もとの花町、柳橋にたった一つ残った料亭「亀清楼」がありました。
「神田川」
相方が昭和50年代後半に茨城県の藤代町から毎月材料を仕入れに通った、リボンフラワーの材料店は浅草橋の前の場所にそのままありました。
東京で13年間勤務しましたが、一回もぶらぶら歩いたことがなかった東京の下町は、所々に江戸や明治の空気が流れているように感じます。
このあと、わらじトンカツを食べて、昭和の初期に伯父が通った旧制「蔵前工業*」は、このあたりにあったのだろうかと思いながら、蔵前地区をあるいて浅草方面に向かいました。
*webで調べたら、「蔵前工業」は関東大震災後に大岡山へ移転し、校名も「東京高等工業」になっていました。但し、世間では長く“蔵前”が同校の通称として使用されています。ということで伯父は蔵前に通学したのではありませんでした。