夕方6時集合で阪神御影駅の近くの「いく亭」でJさんと飲みました。店は初めてですが、ネットで検索して場所の見当はつきましたので家から歩いていきました。以下はその途中でシャッターを切った画像です。廃屋かと思ったら最初からこのような設計の家でした。
山手幹線の神戸方面
山手幹線の住吉・岡本方面
自前の窯で焼いている街角のパン屋さん、というかこのあたりのパン屋さんはどの店もパンは店で焼いています。
こんな花が咲いていました
外装は出来上がったような47階建ての高層マンション。戦前ここには御影師範学校があり、その後身校の校舎が、マンション建設のために取り壊された数年前まで残っていました。御影師範では詩人八木重吉が先生をしていた時期があります。
その後身校の食堂で47年前に、よく食べた50円のキツネうどんは旨かった。
店ではよく喋り、よく飲み、よく食べてひさしぶりのJさんとの飲み会を楽しみました。あまりに気持ちが良すぎたのか、帰りに家の近くで電信柱と相撲をとったらしく、今も顔中にスリ傷が・・。
詩人八木重吉(1898-1927)は、僅か30年の短い生涯ながら、珠玉の詩篇の数々を残し、愛好家も多い。生前に出た詩集は、1925年(大正14年)発行の「秋の瞳」(新潮社)のみ。しかし、死去の翌年には、自選詩集「貧しき信徒」(野菊社)が出版され、その後も多数の詩稿が発見された。死後22年目の1948年に創元社から「八木重吉詩集」が発行されている。以後、詩集、文学全集への収録など多くの出版物が刊行され、詩人八木重吉の評価は高まるばかりである。また、専門家による研究書も出版されている。
東京府南多摩郡堺村(現町田市)に生まれた八木重吉は、鎌倉師範学校(現横浜国大)を経由して東京高等師範学校(現筑波大)に学ぶ。1921年(大正10年)に同校を卒業後、御影師範学校(神戸大学発達科学部の前身)の英語科教諭となる。初めての関西移住である。御影師範教諭の時代、八木重吉は結婚し二人の子供の父となる。この時期、八木重吉は住吉や御影に住む。業務の傍ら詩作に励んだ時期でもあった。キリスト教信者であった八木重吉。作品はキリスト教精神を強く反映したものだった。
御影師範教諭から転出して千葉県東葛飾中学の教諭となったのが1925年3月。転出の翌年、八木重吉は肺結核を発病する。そして1927年10月26日に熱烈なキリスト教信者として昇天してしまう。1958年、八木重吉の生家には詩碑が建てられた。また、没後50年目の1977年10月26日に、御影師範の跡地である神戸市立御影中学校の校庭に教え子の手によって詩碑が建てられている。
(文中敬称略)websiteより引用。