阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

猫の目線の先を追うと・・牛がえるが!

2011年09月15日 | 船橋社中

朝の散歩で外に出ようとした愛猫の足が止まりました。目線の先を追うと
みかけないけど何となく愛嬌のある生き物が・・。寄っていくと一挙にジャンプして
姿を消しました。近くに水路と池があるのでウシガエルではないかしら。
 (船橋の愛猫家さんからのメールです。)



ネットでヒキガエル(ガマガエル)の写真も見てみましたが、やはりウシガエルのようですね。
(船橋社主さま、お借りしました。)

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恐ろしい数のティーカップを運ぶウエイター びっくり映像シリーズから

2011年09月15日 | びっくり画像・映像
Epic Tea House Server

飲み物が入った器を、いくつまで運ぶことが出来ますか?

海外のとあるお店に、恐ろしい数のティーカップを運ぶウエイターがいました。

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斑入りヤブランも咲き出した。

2011年09月15日 | 花・草・木・生き物
ヤブランの株が三つあって、全部が咲いている。
斑入り(ふいり)藪蘭も咲きだした。










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神戸の日仏商事㈱の前社長に50年前にお会いしたことがある。(2013年6月追記あり)    

2011年09月15日 | ゲストルーム

月刊神戸っ子の9月号を読んでいたら、日仏商事という会社が取り上げられていました。



社長の名前を見ると“筒井潤”さんとあります。そのときふと“筒井ベルナール”さんの名前が頭に浮かびました。
もしかしたらお二人は親子かなと思いました。思い立ってネットで「筒井ベルナール」さんで検索すると、
「日仏商事社長」の記事が出てきました。

両方の記事から推測するとお二人は叔父と甥に当たるようです。

 筒井ベルナールさんは、昭和35,6年ごろ月に2~3回ほど、身内のフランス語の先生として、当時住吉にあった
家に来られていました。お会いした頃、ニューカレドニアからかなり前に日本に移られ、神戸に定住を決められた白皙の美青年でした。
 その後、神戸で商事会社を立ち上げられ、社長として活躍されていたようです。「神戸っ子」の取材記事のおかげで
心のどこかで、どうされておられるかなぁと思っていた方の消息が、わかって嬉しく思いました。

2013年6月22日追記

若き日の筒井ベルナールさんの写真を、平田真実さんから頂いたコメントからのリンク先で見せて頂きました。

懐かしく思い、ふと、あらためてベルナールさんのことを検索したら、ベルナールさんが昨年の9月13日に亡くなられたことを知りました。

50数年前に何回かお会いしたベルナールさんは、忘れられない方々の中のお一人です。ご冥福をお祈りします。

ネットから⇒

○日仏商事名誉会長  筒井ベルナール氏「お別れの会」
 
日仏商事⑭は10月17日、ANAクラウンプラザホテル神戸で、9月13日に79歳で逝去した同社名誉会長筒井ベルナール氏の生前の功績を偲び「お別れの会」を執り行った。

【筒井ベルナール氏略歴】
▽昭和8年3月24日ニューカレドニア・コネ村にて出生
▽昭和34年早稲田大学卒業
▽昭和44年藤井幸男氏と日仏商事⑭設立 代表取締役専務
▽昭和61年代表取締役社長
▽平成9年会長
▽平成20年名誉会長

 そして在日フランス商工会議所のHPで筒井さんのミニ伝記が掲載されているのを見つけた。

○CCIFJ / ニュース / 会員紹介
「ニューカレドニアリズムと迅速な行動」
私の履歴書 |2005年11月15日 |日仏商事株式会社 社長 ベルナール筒井氏

ニューカレドニアでの幼少時代

ベルナール筒井氏を知るには、ニューカレドニアですごした幼少時代の話からはじめるべきであろう。1933年ニューカレドニア・コネで生まれた彼は日系移民の父とフランス人の母、そして兄弟たちに囲まれ成長する。他の少年と同様、彼もまたサッカーを愛する少年で、ニューカレドニア代表としてタヒチまで遠征に行った経験も持つ。移民の子としての苦労もあったが、おおむね南太平洋リズムでのんびりとした青年時代を過ごした。

ニッケルからパンへ

当時、ニューカレドニアで産出されるニッケルを日本に輸入するため、店には日本人がよく訪れており、ほどなく彼はその日本人たちの仲介業務を手伝うようになった。彼らのアドバイスもあり、日本語と鉱学を学ぶため来日を決意したのは、24歳のときである。

早稲田大学在学中も、筒井氏はニューカレドニアからのニッケル輸入のアシスタントを続けていた。しかし、しばらくしてニッケルの暴落のため鉱業分野での仕事をやめざるを得なくなる。ただ、実際のところ、彼はそれほど鉱業分野に興味を持っていたわけではなかった。日本人上司から「君はニューカレドニアに帰りなさい。」と言われると、「はいそうします。」とあっさり、未練もなく答えていた。ニューカレドニアに戻るまで、まだ少し滞在許可期間が残っていたため、父方の親戚のいる神戸で過ごすことになった。

神戸では、近所で輸出業を営むラオス人を手伝いはじめた。そこで彼は、戦争中、敵国であったために輸入が途絶えてしまった日本からの商品を、ニューカレドニアに輸出しようと考える。当時ニューカレドニアでは日本からの商品はほとんど手に入れられない状況だった。彼は、ニューカレドニアで貿易業を営む兄へ、トランジスターラジオ、自転車、オートバイ、ジープなどの日本の物資を輸出することにしたのである。

こうして輸出業に携わっている間に、運命的な出会いがあった。株式会社ドンクの藤井幸男氏(現名誉会長)との出会いである。藤井氏の助言に加え、折からの万博景気・海外からの輸入規制緩和もあり、1969年、パンを焼くためのオーブンをフランスから輸入することになった。日仏商事株式会社の発足である。

南太平洋リズムと迅速な行動

今や118人の従業員を抱え、年商88億円の日仏商事株式会社の創立者であるベルナール筒井氏は、ニューカレドニアで釣り糸を垂らすことが好きだ。静かに、のんびりと・・・。筒井氏はあくせくすることがない。日本にいるときも、南の島のリズムだ。常に穏やかで、あわてて決断をすることなどない。

しかし、一度決断すると行動は迅速だ。新しいビジネスチャンスがフランスにあると判断すれば、翌日にはフランスへ飛ぶ。1995年の阪神・淡路大震災の際も、彼の行動は早かった。従業員のためにマンションを借り上げ、事務所を移転し、船を用意し商品を名古屋や東京へ運ぶ・・・。迅速な行動の結果、日仏商事は最悪の状態を避けることができた。

彼は常に余裕を持って熟考し、ここぞという時に迅速に行動する。ニューカレドニアリズムと迅速な行動。一見矛盾しているように思えるこの二つの要素が筒井氏の根幹を成している。そして今、日仏商事は東南海・南海地震に備え、自社の倉庫を山の手に建設中である。先手必勝だ。

- See more at: http://www.ccifj.or.jp/jp/news-japon/nouveaux-membres-articles/actus-entreprises/n/-40e6b96bf5/#sthash.uTZZyl2F.dpuf

引用元
 

コメント (10)
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