
「点の記」の“点”とは地図を作るときの測量の国家基準点になる三角点や水準点を意味します。 キャストは主演の数名のものしか、共通のシーンに登場することはなく、他の俳優さんたちも撮影中に別のUnitのキャストとは顔を合わすこともなかったと思います。 |
木村監督は長く映画カメラマンをしていた人で、この映画が監督としては第1作目だそうですが、晴天、好天、荒天の剱岳、雷鳥、お花畑、カモシカなどのショットはさすがに美しく、

ついに人間が初登頂を果たしたはずの一行が、頂上であるものを見つけました。それは山岳信仰の行者が千年前に頂上に残した錫の一部でした。
なんの近代装備もない千年も前の時代に、聖地である剱岳の頂上に登り、神に近づこうとした宗教者がいたことを知り、一行は深く敬虔の念に打たれ、頂上で思わず頭を垂れます。

陸軍測量部と日本登山協会の剱岳初登頂争いを縦軸にしながら、横軸に測量部の上官たちと実際に測量を実行した部員の思いの食い違いを鮮烈に画いたこの映画。
当時のマスコミに登山協会との先陣争いを煽られた「測量部の上層部」は、行者の大昔の登頂の事実を知りなんとも驚きの反応をとります。
それを見たとき、この映画の原作者「新田次郎」の思いを監督と脚本家はよく汲み取っていると思いました。
つまり、新田次郎は気象庁の富士山レーダー基地の建設責任者としてプロジェクトを完成後、しばらくして56歳で気象庁を本庁課長職で退職します。
彼は、上級職というキャリアで気象庁に就職した人間ではありません。気象学校を出て現場で鍛えられ、実務に精通した「フィールドの幹部職員」でした。
彼が気象庁に在職し、業務に精勤している時に、いつも感じていたであろうお役所の「愚劣さ」。つまり入庁時の資格(学歴)による身分差別と、
それらに対する痛烈な批判がこの映画にあるように感じました。
映画を見終わってエンドクレジットが流れた時、映画作りに携わった全てのスタッフ、キャストの名前が全員同じ大きさの活字で流れていきました。
ここにも原作者の「仕事をやった人間に上下の差や、貢献度に違いはない」という思いに対する監督の理解の深さを感じました。
原作者、新田次郎の名前と企画協力としてその息子、藤原正広、藤原正彦の名前もありました。彼らの名前も同じ大きさでした。
映画が始まると、すぐに笹野高史の顔が現れておいおいまたアンタかい、と思ってしまった。そして国村隼、鈴木砂羽など好きな俳優さんが
山岳映画として充分楽しめましたが、観客動員を考えてかの、やらずもがなのロープ切断による落下場面や、日本山岳協会員の長い長い情緒的な賞賛の旗信号のシーンなど、
そしてバックに流れる音楽はいかにも重厚そのものの正統派クラシックで、映画の底に流れるアイロニーの色合いには馴染まないのが残念でした。
映画「剱岳」を見た感想をUPしてから何人かの方からメールを頂きました。 その間の過酷な体験を書いた「流れる星は生きている」という本は昭和24年にベストセラーになり映画化もされました。私は小学生の頃、家にあったこの本を読んだ記憶があります。 新田次郎のペンネームは彼の生地、諏訪市の“角間新田”の‘新田’と藤原家の次男であったことからつけたものです。
旧制諏訪中学の出身という設定になっているのは知る人ぞ知る、いや有名な話です。 通称「スーさん」。ハマちゃんと会社で偶然知り合い、ハマちゃんの釣りの弟子になった。 その後ハマちゃんの勤める鈴木建設の社長であることが明らかになったが(厳密には、ハマちゃんが鈴木建設に何年も勤めていながら社長がスーさんだったと言う事を全然把握していなかった。 社長と分かる前は、スーさんの事を鈴木建設を定年退職した後の同社の嘱託社員(通称『上の階』)だと思っていたので、その前後でハマちゃんの態度がまったく変わらなかった。 そのためにスーさんは驚くとともに改めて感心したようである。 ハマちゃんとのプライベートの付き合いを大事にしたいあまり、昇進リストに×を付け、ハマちゃんをヒラ社員のままにした事があり、 この事で一時期ハマちゃんは『×(ペケ)社員』と一部で呼ばれてしまった。 |
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