阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

大阪の地下に広がっているスペースの広さは日本一らしい。大阪駅前第2ビルから阪急梅田駅まで地下街を歩いた。

2017年03月20日 | 大阪あちこち
日曜日に大阪に出ることは殆どないので、神戸の街に比べると3倍にも4倍にも感じる人の多さに驚いた。
 駅前ビルの地下街を歩いてみると、SNSで有名になったのか列を作って待っているトンテキなどの食べ物屋がいくつもあって驚いた。









 この日は福島原発行動隊の講演と語りの会に出た。
「東京電力福島第一原子力発電所事故から6年。教訓に学び、放射線被曝に備えよう。」というタイトルの内容だ。



2017.03.12 〜 2017.03.18、閲覧記事数:12786 PV、訪問者数:1935 IP、ランキング:2496 位  / 2688808ブログ
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春は名のみの・・    早春譜  安曇野にて

2017年03月20日 | 辛好のJukebox

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず
氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃


「早春賦(そうしゅんふ)」吉丸一昌(よしまる かずまさ)作詞、中田章(なかた あきら)作曲。
作詞当時、東京音楽学校の教授だった吉丸一昌は、『尋常小学校唱歌』の編纂委員として活動していた。
吉丸は、大正の初期に長野県安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて「早春賦」の詩を書き上げたとされている。
 中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などを作曲した中田喜直の父。

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高羽の交差点の歩道橋からの定点風景。「小陽春茶房」が営業再開していたのでお粥定食。

2017年03月19日 | ウォーキングの後の楽しみ
天気と気圧の影響が膝に来るので、寒い間はなかなか散歩に出られないが、この日は「歩けそう」と言うので歩き出した。
思ったより空気が冷たかったが歩き出すと身体もあたたまってきた。
 高羽の交差点の歩道橋から。六甲アイランド方面。

ポートアイランド方面。

写真の最上部に見えるのは神戸大学の工学部キャンパス。

 阪急六甲駅までの途中にある、数年前よく行っていた「小陽春茶房」は長い間、クローズしていたが見るとやっているようなので入店した。
土曜限定メニューの「台湾式お粥ランチ 点心付き」を頼んだ。おいしいお粥で二人とも満足した。
 オーナーは台湾出身のお婆さんで4人の子供さんに5人の孫がいるそうだ。お互いの家族の話の流れの中で、長女は中華同文校からK県立高校を経て
阪大のバケ学(化学)を出ましたとニコニコされながら話された。料理が出てくるまでの時間は前と同じで「御用とお急ぎのない方」でないと困る
長い待ち時間は変わっていなかったが、昭和50年代に出張で通った台北や高雄でよく食べたおいしいお粥を思い出し、
また蒸したばかりの中身のしっかりした手作りの点心3種も旨かった。お粥にトッピングで入れる肉味噌はお粥にいい風味を出した。



お代は消費税コミ1080円也。嬉しい値段だ。この茶房の50メーター下に「チャイナダイニングHAKUBA」が出来ているのでこちら方面にはよく来ることになりそうだ。
 歩いて阪急六甲の八幡神社の横を通り、JR六甲道までぶらぶら歩き、途中でスコーンと焼き菓子を製造販売している店があったので
買って帰った。相方によると時々雑誌に出る名品だそうだ。六甲八幡神社。


 
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この時期の阪神間と淡路と播磨の季節の品は「イカナゴのくぎ煮」!!

2017年03月18日 | 身辺あれこれ
淡路島の漁師さんの家から毎年買っています。

Wikipediaから引用。
いかなごの釘煮
兵庫県淡路島や播磨地区から阪神地区にかけての瀬戸内海東部沿岸部(播磨灘・大阪湾)ではイカナゴはいかなごの釘煮という郷土料理で親しまれている。佃煮の一種で、水揚げされたイカナゴの幼魚(新子)を平釜で醤油やみりん、砂糖、生姜などで水分がなくなるまで煮込む。この際、箸などでかき混ぜると身が崩れ、団子状に固まってしまうため一切かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えることから「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。「くぎ煮」は神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社伍魚福(ごぎょふく)の登録商標である。

解禁と同時に水揚げされた2cmほどのいかなごの幼魚は、鮮度が落ちないように収穫後ただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを新子または新子ちりめんと呼ぶ。釜茹でした後に乾燥させたものはカナギ(小女子)ちりめんと呼ばれる。これより大きいもの、およそ4〜5cmの大きさのものを釜茹でしたものはカマスゴと呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際、一度炙ると香ばしさが出ておいしくなる。

阪神地区、播磨地区では春先になると各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られる。また毎年3月末頃、出荷された釘煮が阪神地区、播磨地区のスーパーに山積みされるようになると、春の訪れとして消費が盛り上がる。明石海峡大橋のたもとにある淡路サービスエリアやJR新神戸駅・新大阪駅、神戸空港、大阪国際空港、関西国際空港などの土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、生姜味のほか山椒味、唐辛子味のものもみられる。

 楽屋ネタ。




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私鉄の駅とその周辺   あるアングル。

2017年03月18日 | 神戸あちこち



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72年前の今日3月17日、神戸市の西半分がアメリカ空軍の焼夷弾による大空襲で壊滅した。

2017年03月17日 | SNS・既存メディアからの引用記事
神戸空襲の概要  引用元⇒神戸 災害と戦災 資料館

アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。

神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。

都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。

また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。

さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。
こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。  


空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,014人という大きな惨禍であった。

6月5日 中郷町(ナダタマアーカイブス)
投稿日時: 2013年8月15日
昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれを上回る凄惨なものだった。

当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちくま文庫)に収録されている。

エー、昭和20年に大空襲がございます。
神戸は6月でございました。大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい空襲でございました。
ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でございまして、まあ、職人でございますから、仕事場にでございますね。神棚がしつらえてございまして…

前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。
「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に限って
「空襲警報ォ!」
ダルゥドゥズバババババババババァー…
「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
神さんね、一番にドタッ。
落ちてこられたんでございますねえ。
嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでございますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたんですが、ねえ…
神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があったに違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございましてね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評精神。
同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。

桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む
(ナダタマ 灘文化堂「6月5日 中郷町」2011.6.6より)

引用元


フェリシモ > 神戸学校 > 野坂 昭如さん(作家)レポート

僕自身はいつも緊張して生きてるわけなんですけど、その基本のところには55年前に受けた空襲っが根っこのところにあると思うんです。

一部引用・・

野坂さん:
『火垂るの墓』、あれはいかにも僕自身が主人公みたいだけれども、僕自身が主人公だったら、あの主人公は死んじゃうわけですから、そのままじゃないわけで……。当時1歳4ヵ月だった僕の妹は確かに飢え死にしましたけども、1歳4ヵ月じゃ話にならないっていうか、会話が成り立たないから4歳って設定にしちゃったけど、ほぼあんなふうな経験に近いことを僕はやりました。ひとつだけ違うのは僕は、主人公のお兄さんみたいにやさしくはなかったですね。配給のとき1歳4ヵ月のこどもの口にはとても合わないようなものしかないんです。だし大豆のとかなんとかね。だし大豆ってのは煎って食べるんですけれども、とても1歳ちょっとのこどもの食べられるもんじゃないわけで、大人が食べたって下痢しちゃうわけですから。例えばそれを口の中で柔らかくしてやろうと思って口の中に入れて妹にやろうと思うんだけど、僕はやっぱり腹が減っているときはひゅっと飲み込んじゃうんですよ。結局は妹の食い物を僕自身が食ったという結果になっちゃったってところは、僕自身ずいぶん一種の負い目みたいな格好でいまも残っていますけどね。

それを話の上で穴埋めするみたいな格好で妙にお兄さんをやさしい兄に書いたんです。でも、本当に飢えに追い込まれてしまうと親とこどもでも親はこどもの食い物を食べますよ。つまりこどものためなら親は命はいらないっていうのは瞬間的にはぱっと思う。だけど恒常的になると、親とこどもの間において言うならば親はこどもの食べ物を食べて自分は生きぬくっていうのは、これは生物の理にかなっているわけです。親がもしも飢え死にしちゃったらこどもも飢え死にしますからね。親が生き残れば親はまた新しく生殖行為をしてこどもを産めばいいんです。だから親が生き抜く方が大事なんですね。弱い者と強い者がいて、どっちをなんとかするっていったら強い者が生き残ることがいちばんなんです。

例えば飢えてる国へ援助しますね。あの援助ってのもなかなかむずかしいんだけれども、3人飢えてるこどもがいると。そこにふたり分の食料しかないときにふたり分の食料はあくまでふたり分の食料であって、3人で分けたら3分の2ずつになるわけでしょ。3分の2ずつだったら3人とも栄養失調で死んじゃうわけですよ。だから3人の中でもってふたりを選ばなきゃしょうがない。そういう時、現実に木登りさせて、ちゃんと木が登れたスピードの順に食物を与えて、最後のひとりには食物を与えないっていう……、それくらいにきびしいもんなんです。

だから飢えというものについて言うならば、質問してくださった方には想像もできないだろうし、まったくマリー アントワネットみたいなもんで、パリ革命が起こったときに「パンが食べられないならお菓子を召し上がればいいのに」と言ったというそんな世間知らずのひとつの例として言われますが、いまの皆さんも多分米がなくなればラーメン食えばいいだろうとか簡単にそう思っちゃうかもわかんない。だけどなくなるときには1発で全部なくなりますから。アメリカがいくらこっちに輸出しているといったってアメリカがもしも取れなかったら輸出のしようがないわけで、自分の国の国民が飢えているときに日本を助けるわけがない。日本がいくら金持ちだってね。

そういう状態といったものは、当然次の世紀には来るわけで、そのためにどういう覚悟を持っておかないといけないかっていうと、結局はやっぱり自分のことは自分で考えるってこと。ほんとに食い物がなくなったら自分だけ食えればいいっていうふうに、そりゃ世の中いろいろ人がいますから、そんなふうに極端に言っちゃいけないかもわかんないけど、基本的には自分だけ食えりゃいいと。それくらいに飢えってものはすさまじいもんで、だから人間てのはこうやって生き延びてきたんですね。そんなみんなが慈悲深く自分が食わなくても他人が食ってもいいみたいな格好でもってお互いが融通し合っていたら、人類なんてこんなふうにはたくさん生き延びられなかったわけで、弱肉強食の世の中になってしまうのが飢えの時代です。

僕は、その中に放り込まれたわけで、現実問題としてこうやって生き延びています。でも、豊かな世の中になってくると僕はいわゆるご馳走っていうものを食べられないです。対談とか座談とかっていうとよく料理屋に行くんですけれどね。料理屋に行ってこれ見よがしな料理が出てくると食べられないですね。それから僕のこどもが小さいときに、クッキーをもらって、半分だけ食べてポッと捨ててるのを見ると、ものすごい憎しみを覚えましたね。あの世っていうものがあるんだったら自分の妹にこのクッキーを持っていってやりたいって気持ちは痛切にあったんですね。
そういう気持ちが『火垂るの墓』であのお兄さんをやさしくしちゃって、あれが戦争によってもたらされた悲しいお話かもしれないけれど、一方において兄弟愛みたいな形で受け取られています。
引用元

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牧羊犬の子犬が初めて仕事に就いた日    動画。

2017年03月17日 | びっくり画像・映像

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ホワイトデイにあいかたが貰ったスィーツの詰め合わせ

2017年03月16日 | 身辺あれこれ
和の素材(黒豆、黄な粉、抹茶など)を使った洋菓子。
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冬にアロエの鉢に自生してきたシャンツアイは殆ど一カ月近く元気です。

2017年03月16日 | 花・草・木・生き物
季節外れのシャンツアイ。こんなに長く持つとは思いませんでした。
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最近の夕食や酒肴は掲載してみると結構バラエテイに富んでいた。

2017年03月16日 | ある日の肴/夕食
台所の料理や 冷凍品、購入した惣菜やいろいろです。
















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木瓜(ぼけ)の花芽が十分に膨らみました。 ヒマラヤ雪ノ下の花が咲きました。

2017年03月15日 | 花・草・木・生き物



ヒマラヤ雪ノ下。

 楽屋ネタ。
 
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建築家・建築史家 藤森照信さんの半生 朝日新聞連載 シリーズ人生の贈り物 私の半生

2017年03月15日 | ゲストルーム
3月6日付朝日新聞夕刊から引用。
 2008年の夏に高過庵を訪ねた阿智胡地亭は不思議な体験を二つしました。
一つは 高過庵に近づいてある地点を越えた瞬間、全身が小刻みに震えたということです。
もう一つは 藤森さんや従兄弟たちと高過庵の茶室に座って、窓から周囲の景色を見た時、初めて見る景色なのに自分は前にここにいたことがある、
そういう思いが体一杯に広がったのです。何万年もこの地で暮らしてきた祖先の地の地霊を感じたのかもしれません。

高過庵は藤森家の土地に建っていますが、このエリアは古代から諏訪の土着神であるミシャグジさまの祠があり、明治の初めまで諏訪大社の神長官を
代々務めた「守矢家」が治める神域でした。
藤森さんの照信という名前は守矢家の先代が付けた名前だそうです。

守矢神長家の話 守矢早苗
      「神長官守矢資料館のしおり」より
こちら


神長官 守矢一族と現人神 諏訪氏 文を読む
前述の通り、建御名方神が諏訪へ侵攻していた際に、迎えうった洩矢神の末裔が守矢一族である。神長官を含む五官祝(諏訪大社上社における神職の名称。神長官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝)という制度は神社が国家神道へと変遷し制度改革の行われた明治初期になくなってしまったが、その血が絶えていないことは記述してきた通りだ。『しおり』に寄稿している守矢早苗氏は洩矢神から七十八代目である。参考までにあげれば、出雲大社の千家宮司が現在、八十四代、海部氏家系図で有名な籠神社宮司は、現在、八十二代である。いずれの社家にも劣らない。
守矢氏の祖先は、現在の前宮周辺に居を構えていた。その後、建御名方神の子孫である諏方氏に前宮を譲ると、現在の守矢家と守矢史料館のある高部扇状地に移る。この高部扇状地そのものが高部遺跡であり、縄文時代から中世までの人々の生活跡が発掘されている。古墳時代には諏訪地方の豪族の墓城でもあった。実際、この付近を歩いたが扇状地のあちこちに古墳や小さな祠(どんな小さな祠にも御柱が立っている)が点在し、少し奥に分け入れば磐座信仰の名残を残す小袋石が祀られている。古代よりここが重要な信仰の場所であったことが伺える。
前述の通り、諏訪大社の祭政体は現人神・諏訪明神に降りて来るミシャグジ神を中心に営まれてきた。そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが守矢神長官家であり、ミシャグジ上げやミシャグジ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切ってきた。この守矢家の神長官の秘法は、「真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により『くちうつし』で」(『しおり』の守矢早苗氏の文章より引用)伝承されたという。この一子相伝、くちうつしの秘法は七十六代実久氏で終焉を迎える。
一方、建御名方神の子孫である諏方氏は「大祝」という生神(つまり諏訪明神の依代)の地位に着く。諏方氏が最初に居住し、祭祀を行っていたのが現在の前宮である。ここに諏訪大社の発祥を見ることができる。
しかし、大祝は事実上の祭祀権を握ることはなかった。なぜならば、諏訪氏が諏訪明神になるには、神長官守矢氏の力が必要であった。筆頭神官である神長官の降ろしたミシャグジを身につけて初めて、現人神大祝=諏訪明神になれたのだ。そして神降ろしの力や、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされており(つまりミシャグジ祭祀は神長官のものであったために)この地の信仰及び政治の実権は守矢家が持ち続けていたのだと守矢早苗氏は言う。
諏方氏はその後、系譜が曖昧になるが、伝承によると、806年、諏訪明神が桓武天皇の皇子、有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝をもって体をなす」と神勅をくだし、大祝の中興の祖となる。現在の諏方氏の祖はここに起原を持つ。その後、また系譜が曖昧になるも、十六代頼信から現在まで諏方氏は続いている。

謎のミシャグジ神 諏訪大社 上社 本宮編」⇒こちら



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「哀炎」   尺八と十七絃の合奏曲     ❝前田舟山❞ 尺八演奏シリーズ その5

2017年03月15日 | 音楽・絵画・映画・文芸

「哀 炎」(あいえん)
1995年1月17日 阪神淡路大震災で亡くなられました方々へのレクイエムとして作曲しました。2003年作曲
作曲    前田舟山 Syuuzan
演奏    尺八   前田舟山     十七弦  桜井聰子

録音    野上圭三
映像    「月」     中 静香     「ルミナリエ」 宮城明次     「神戸」    前田 薫
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信州白馬村から神戸六甲へ移って新規開店した中華料理店「チャイナダイニングHAKUBA」。

2017年03月14日 | ウォーキングの後の楽しみ
「新しい中華料理の店が近くに出来たみたい」、とインターネットでの検索上手なあいかたが言いました。場所を聞くと阪急六甲駅のすぐ近くで散歩がてら行ける距離でした。
天気が良かったので早速ランチタイムに出かけました。久しぶりの「ウオーキング&ランチ」です。
 確か前は電気店?だったと思うところに中華料理店とは思えないスタイリッシュな外観の店が出来ていました。

 あいかたは当日限定15食のHAKUBAランチ。私は担々麺と紹興酒をオーダー。ランチも担々麺も一口食べると二人ながらに、ああこれは本物だと思いました。
まっとうな材料ぞろえと、中華の基本を押さえた丁寧な調理に、シェフの創意と遊びも加わっているような気がしました。
文句のない旨さなのでオーナーシェフの奥さんに「おいしく頂いています。店名のHAKUBAは信州の白馬と関係があるのですか」と聞くと、
「はい長野県の白馬村で33年中華の店をやっていたのですが、神戸の親が高齢になったのでこちらに戻ってきました」とのことでした。
白馬はもう長く外国人のスキー客が多く、外国人も住み着き、レストランのレベルがとても高いと聞いていましたが、
その中で33年やってこられたキャリアが伺える素敵な店が近くに出来て嬉しいことです。

特に担々麺は神戸の私の行った店のトップテンリストの中で突然同率一位の位置になりました。スープのコクが私によく合います。
奥さんとは諏訪の話もしましたが、白馬村にいる間、とうとう諏訪湖花火大会(クリック)には行けず仕舞でしたとのことでした。いつでも行けると思うとなかなか行かないものです。
HAKUBA










 



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カワウソも雪の上を滑るのが好きらしい。   動画。

2017年03月14日 | びっくり画像・映像

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