↑ 梅雨明けのきのう18日 「鶴瓶の家族に乾杯」龍郷編 放送
西郷隆盛上陸の地から、番組でたづねた西郷南洲謫居跡 (さいごうなんしゅうたっきょせき)のある龍郷入り口までをノーカット。(そのあと、メモリーカードの異常のためカット 後日編集予定)
きのう18日(月)「鶴瓶の家族に乾杯」
あまり熱心に見なかったのでいまいち意味がうつらんかった。
が、ゲストの渡辺えりさんが、観光ガイドがしたいとか言っていたのは
なんとなくわかるような気がした。
沖縄観光から奄美大島をおとづれるお客さんは「沖縄(本島)より自然が身近」。本島で生まれ育った沖縄のお客さんも「奄美に来ると心が洗われる、沖縄がなくした何かがある。言葉や習慣が同じい」とかおっしゃる。
で、あまりにも知られていない奄美の歴史について学ぶ。
まずは、番組にあった西郷隆盛から
薩摩藩の下級士族の出身の西郷は通称吉兵衛 号を南洲
藩主斉彬(なりあきら)に取り立てられ江戸詰め。
将軍継嗣問題で慶喜擁立運動に東奔西走。
見聞を広め、政治に対する見識を深める。
1853年(嘉永6年)ペリー来航 浦賀 1854年日米和親条約(下田、函館2港開港) 1858年(安政5年)日米修好通商条約(ハリス)井伊直弼が無勅許で。治外法権を認め、関税自主権のない不平等条約。
井伊直弼大老就任とともに始る安政の大獄で
西郷は幕吏の追及をを受け僧月照とともに帰藩。
しかし寵愛を受けた斉彬はすでになく、
佐幕論に傾いていた薩摩藩からも追われ、
1858年月照とともに錦江湾(鹿児島湾大崎鼻沖)に身を投じ自殺を図るが、ひとり息をふきかえし助かる。
藩の勤王派による西郷助命嘆願運動が功を奏し、
斉彬の父君斉興(なりおき)の裁量により
名前を菊池源吾と変えて、奄美大島龍郷に潜居を命じられる。
この時、薩摩藩は、別の罪人の遺体を西郷の遺体に擬して幕吏の検視を受ける。
(なので「オンミツ」が奄美までやってくる心配はあまりなかったのではないか)
砂糖積船「福徳丸」に身をゆだねた西郷が龍郷村アザン崎に着いたのは安政6年(1859)正月12日、彼が33歳のとき。(名瀬市誌)
「福徳丸」は阿丹(アダン)やソテツ、ガジュマルなどの自然の防風林の中の松の木(西郷松 Saigo Pine)に艫綱を結んだ。
奄美大島を訪れたなら、ぜひ行っておきたい名所のひとつである。
↑ 番組に出た 赤尾木海岸 2 年前アップ(今ではも少しうまく編集できるけど(笑)
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