
『ドーダの人、西郷隆盛 』(中公文庫) 文庫 – 2018/9/21
鹿島 茂 (著)
大河ドラマ「西郷どん」も終わったし、「いだてん」は12回目(視聴率低迷で11回は8.7←もう最終回かな?と思うほど面白かったのに)だし、もう西郷本はいいかな、とも思ったのだが、ドーダ学とはなんだろ?、と思い目次を開き、巻末の
特別対談「ドーダ理論こそ、最強の歴史分析ルールだ」片山杜秀×鹿島茂 を見て読む気になった。ユーモアありそうだったし。
鹿島 茂 (著)
大河ドラマ「西郷どん」も終わったし、「いだてん」は12回目(視聴率低迷で11回は8.7←もう最終回かな?と思うほど面白かったのに)だし、もう西郷本はいいかな、とも思ったのだが、ドーダ学とはなんだろ?、と思い目次を開き、巻末の
特別対談「ドーダ理論こそ、最強の歴史分析ルールだ」片山杜秀×鹿島茂 を見て読む気になった。ユーモアありそうだったし。
本書は、『ドーダの近代史』朝日新聞出版2007年6月)を改題し、文庫化したもの。(2018年9月初版)
そのころTV(ブックレビュー)で見たはずなのだが、ほとんど記憶にない。
ドーダは関西弁のドヤ顔のドヤと同じ意味だろう。(p10自己愛に源を発するすべての表現行為)のことらしい。「東海林さだおさんの『ドーダ学』確立の提唱を馬鹿正直に受け止めて」、ドーダ理論を日本近代史に当てはめてみたらどうなるのかという、軽い疑問から出発した連載をまとめたものらしい。
そのころTV(ブックレビュー)で見たはずなのだが、ほとんど記憶にない。
ドーダは関西弁のドヤ顔のドヤと同じ意味だろう。(p10自己愛に源を発するすべての表現行為)のことらしい。「東海林さだおさんの『ドーダ学』確立の提唱を馬鹿正直に受け止めて」、ドーダ理論を日本近代史に当てはめてみたらどうなるのかという、軽い疑問から出発した連載をまとめたものらしい。
水戸学:ドーダの夜明け
高杉晋作:水戸光圀の子供たち
西郷隆盛:陰ドーダの誕生
中江兆民:外ドーダ
頭山満:内ドーダへの転換
と章立てをながめれば、去年よんだ
高杉晋作:水戸光圀の子供たち
西郷隆盛:陰ドーダの誕生
中江兆民:外ドーダ
頭山満:内ドーダへの転換
と章立てをながめれば、去年よんだ
橋川 文三 (著)
などを思い出す。
また、歴史分析ルールなどといわれれば、おなじく大河をにらんだ出版と思われる
や
『逆説の日本史』全23巻
などとも通じるものがある。
いずれも流行りの西郷本の中では高質だ。
歴史を動かしたのは、正義でも理念でもなく、人間の自己愛と虚栄心なのだ!〈文庫版巻末特別対談〉片山杜秀
そう言われると、反論のしようもない。
本書は、西郷隆盛 が中心だが、(5章中の真ん中)ここまでくると、もう「ドーダ理論」は空気みたいになりド~も気にならなくなってきた。
圧巻の西郷隆盛のなかでも白眉は「陰ドーダの誕生」と、いうより「発明」だろうか。
単純な発明にみえるが、これがすごい。
上野の彰義隊が壊滅し戊辰戦争が一段落したあたりから、西郷は陽ドーダから陰ドーダへ転じる。(沖永良部島から戻っておよそ4年)
益満休之助の死を気に、江戸薩摩屋敷焼き討ち、偽官軍事件など西郷がとった「作略」について、いままで自分がつまり官軍がとってきた作戦が「覇道」であり、逆に悪党と思っていた慶喜の対応が「王道」(武力でなく徳の政治)だった、と考えてしまう西郷。
勝海舟は「西郷は覇道だが慶喜は王道だ」と言う。
「命もいらず、名もいらず、金もいらない男」は慶喜だったのではなかろうか、と西郷は思うようになる。
「命もいらず、名もいらず、金もいらない男」は慶喜だったのではなかろうか、と西郷は思うようになる。
西郷陰ドーダの始まりである。このあたりは正確には本書にあたってほしい。
(直球から変化球へ 屈折したプライド 禁欲ドーダ など)
西郷の陰ドーダの発明自体もコロンブスの卵的おどろきだが、それが以下に繋がっていく論旨の展開もあざやかだ。
それは日本が勝つ見込みのない対米英戦争を開始してしまった謎と西南戦争との関連。
これは本書のタイトルにしてもよいほどだが、文庫版あとがきには、こうあった。
p450「西南戦争は戦争ではなく、西郷隆盛の陰ドーダ公式から演繹された革命の方法論に基ずく「西南革命」であったのだが、なぜか、革命の弾圧側だった政府と陸軍は、以後、この西南戦争の方法論に幻惑され、ついに自己の論理として取り込むに至ったp450
この結論も説得力があってユニークでおもしろく、リアリズムを欠いた西郷のロマン主義的革命との説明も、それまでの水戸藩 高杉晋作 水戸光圀 西郷隆盛 中江兆民 頭山満 などの様々な日本人のドーダに確かに通じていて、逆にもう、煙にまかれたような気にさえなるほどだ。
しかし、なぜ政府と陸軍が西郷の方法論を取り込むに至ったのか、わたしは読みもらしてしまったようだ。
なぜ「幻惑され」たのか、それは第一章の水戸学 ドーダの夜明け の「貧乏自慢ドーダ」あたりにありそうだ。
西郷が江戸へ出て、橋本左内とともに、最初にその薫陶を受けた藤田東湖(徳川斉昭の側近)の水戸藩の貧乏自慢ドーダ」。
見栄っ張りの薩摩の「貧乏」とは、だいぶ違うようにも思えるのだが。
幕末における両藩の関係は、重要だ。
幕末における両藩の関係は、重要だ。
著者自身の、ドーダが小気味よくさく裂し一気に読める。
面白いだろうドーダ、深いだろドーダ、幅広いだろうドーダ、説明がわかりやすいだろドーダ、にも付き合わされるのだが、
小林秀雄の分かりずらさ、吉本隆明のいいまわしの難解さもそうなのだが、
そのほかにも、若いころ、難しさを有難がって読んだ翻訳哲学書がいまだにわからいのは自分の頭が悪いせいだけではないかもしれない、なとど留飲を下げてもらえるのも読書意欲が進む。
そのほかにも、若いころ、難しさを有難がって読んだ翻訳哲学書がいまだにわからいのは自分の頭が悪いせいだけではないかもしれない、なとど留飲を下げてもらえるのも読書意欲が進む。
シニフィアン(「記号表現」「能記」、シニフィエを「記号内容」「所記」)の人中江兆民はちょっとわかく途中でくたびれてしまったが、社会契約論が全体主義に通じ、それが西郷隆盛にも通じてしまう謎。
それでも西郷隆盛の謎はつきない。
『ドーダの人、西郷隆盛』 (中公文庫) 文庫 – 2018/9/21 鹿島 茂 (著) https://t.co/YUbYBFgA4r
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2019年3月28日