『逆説の日本史』24: 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎 単行本 ? 2018/12/17
井沢 元彦 (著)
5つ星のうち 4.4
6件のカスタマーレビュー
井沢 元彦 (著)
5つ星のうち 4.4
6件のカスタマーレビュー
まだピカピカの新着。
一
1巻(1992年週刊ポスト、→1997年小学館)から通読中のこのシリーズ。週刊誌でも連載継続中。
やっと追いついた現在の最新刊。ページの黄ばみや表紙の色あせがない。
24巻は「言霊、和、怨霊、穢れ」や歴史学会の「史料絶対主義」批判
は冒頭でまとめられ、それほど、クドクはない。
は冒頭でまとめられ、それほど、クドクはない。
かわりに各章で「朱子学中毒」が目についた。
「亡国の哲学」としてくりかえし登場する朱子学。
おかげで歴史がわかりやすく説明できるが、そろそろ
朱子学自体の詳しい内容、利点など、なぜ江戸時代あれほど
浸透したのか?も知りたくなってしまった。
「亡国の哲学」としてくりかえし登場する朱子学。
おかげで歴史がわかりやすく説明できるが、そろそろ
朱子学自体の詳しい内容、利点など、なぜ江戸時代あれほど
浸透したのか?も知りたくなってしまった。
読了から2週間ほどがたち、まとめるのはたいへんだが、
その朱子学の害毒を免れた少数の人物はなぜ免れ得たのか?
その一例だけを書いておこう。
その一例だけを書いておこう。
第一章「帝国憲法と教育勅語」_ 知られざる「陰のプランナー」←井上毅のこと。井上馨ではない。
大日本帝国憲法の伏線となった政府内対立「明治一四年の政変」p29
二章三章ももりだくさんだが、ここは、今までの既読感(くりかえし)があまりなく
新鮮で最もドラマチックで圧巻だった。
新鮮で最もドラマチックで圧巻だった。
維新の三傑が、明治10年、前後に時期を同じくして死去する。
木戸孝允、京都で病没。
西郷隆盛の西南戦争で戦没。
大久保利通紀尾井坂の変にて撃たれる
征韓論政変 西南戦争
木戸孝允、京都で病没。
西郷隆盛の西南戦争で戦没。
大久保利通紀尾井坂の変にて撃たれる
征韓論政変 西南戦争
などの目まぐるしい出来事と
自由民権運動の隆盛、帝国憲法制定国会開設
の間にあって目立たないが、
「明治一四年の政変」は「近代日本の方向性を決めたきわめて重要な事件」P45 である。
自由民権運動の隆盛、帝国憲法制定国会開設
の間にあって目立たないが、
「明治一四年の政変」は「近代日本の方向性を決めたきわめて重要な事件」P45 である。
その「プロシア派の勝利を確定させた「明治十四年政変」の主役が井上毅である。
われわれの年代ではいまいち知名度が低く、人物像もはっきりしない。
井上毅もだいじだが、ここでは下のwikipediaにゆずる。
井上毅もだいじだが、ここでは下のwikipediaにゆずる。
岩倉や伊藤とともにプロシャ流の王(皇)権拡張を目指し、
保守的で中央集権的国家を描いて突き進んだ井上毅。
保守的で中央集権的国家を描いて突き進んだ井上毅。
一方、井上毅が強く反対したのは
政府部内の大隈と在野の福澤らの、イギリス流の民権拡張路線の政党政治。
(実際はやや複雑だが)
政府部内の大隈と在野の福澤らの、イギリス流の民権拡張路線の政党政治。
(実際はやや複雑だが)
ではなぜ、
P60武士出身の大隈と福澤(早慶連合)は朱子学の洗脳から逃れることができたのか?
P60武士出身の大隈と福澤(早慶連合)は朱子学の洗脳から逃れることができたのか?
↑の”朱子学の害毒を免れた少数の人物はなぜ免れ得たのか?
その一例” だ。
その一例” だ。
ここで、福澤とあの島津重豪とのつながりを知ったのは少しおどろきだった。
薩摩藩の第8代藩主島津重豪(しげひで)
本書で唯一(というか、こういう本にも出てくるんですね。沖縄は出できません)奄美の文字が。
島津重豪(しげひで)「太平の信長として薩摩を変えた。」
「視野を広く世界に求め、幕府が太平の眠りについている間に後進国薩摩を世界とともに歩みさせ始めた。無茶もしたが、斉彬(なりあきら)や久光よりこの人こそ薩摩変革の功労者」と評価が高い。
とは言っても重豪(しげひで)は「恐ろしい独裁者であり、散財を続け奄美などの農民から収奪を繰り返した。」P162 と評価にバランスをとっている。
重豪(しげひで)が薩摩で実権をにぎり続けたのは8代将軍吉宗の死から間もない1755年から開国の足音が聞こえはじめる1833年までと長い。
学問に興味を深く示した(蘭癖(らんぺき)のことや、積極的に政略結婚をすすめる政策などによる浪費、島津のお家騒動による政治犯の奄美への遠島、下級武士の調所広郷を重用した藩財政再建(「御改革第一の根本は」(1830)奄美の砂糖収奪)のことなど
重豪は奄美も歴史を考える上でも欠かせない人物である。
重豪は、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称され、賄賂政治のあの田沼意次とも親しかったという。
重豪は、西郷が生涯忠誠を誓った斉彬(なりあきら)の曾祖父。
本書で唯一(というか、こういう本にも出てくるんですね。沖縄は出できません)奄美の文字が。
島津重豪(しげひで)「太平の信長として薩摩を変えた。」
「視野を広く世界に求め、幕府が太平の眠りについている間に後進国薩摩を世界とともに歩みさせ始めた。無茶もしたが、斉彬(なりあきら)や久光よりこの人こそ薩摩変革の功労者」と評価が高い。
とは言っても重豪(しげひで)は「恐ろしい独裁者であり、散財を続け奄美などの農民から収奪を繰り返した。」P162 と評価にバランスをとっている。
重豪(しげひで)が薩摩で実権をにぎり続けたのは8代将軍吉宗の死から間もない1755年から開国の足音が聞こえはじめる1833年までと長い。
学問に興味を深く示した(蘭癖(らんぺき)のことや、積極的に政略結婚をすすめる政策などによる浪費、島津のお家騒動による政治犯の奄美への遠島、下級武士の調所広郷を重用した藩財政再建(「御改革第一の根本は」(1830)奄美の砂糖収奪)のことなど
重豪は奄美も歴史を考える上でも欠かせない人物である。
重豪は、江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、高輪下馬将軍と称され、賄賂政治のあの田沼意次とも親しかったという。
重豪は、西郷が生涯忠誠を誓った斉彬(なりあきら)の曾祖父。
福澤の家は代々豊後国中津藩に仕える家柄。
中津藩は江戸中期から奥平氏が藩主。
その5代藩主昌高も「蘭癖大名」と呼ばれていた。
昌高は、なんと重豪の次男であったというのである。(島津家からの養子)
3代昌鹿と重豪は蘭学好きで仲がよかった。
中津藩は江戸中期から奥平氏が藩主。
その5代藩主昌高も「蘭癖大名」と呼ばれていた。
昌高は、なんと重豪の次男であったというのである。(島津家からの養子)
3代昌鹿と重豪は蘭学好きで仲がよかった。
この時代の中津藩の藩医にあの「ターヘル=アナトミア」を翻訳した前野良沢がいた。
こうした藩の環境が福澤の思想に大きな影響を与えた。
こうした藩の環境が福澤の思想に大きな影響を与えた。
福澤は中津藩大阪屋敷で、大坂商人との交渉役である父の子として生まれている。
いわゆる朱子学中毒者からは、「士農工商」の「商」にかかわる武士として白い眼でみられる立場だった。
咸臨丸に乗ってアメリカを自分の目でみて経験もある。
いわゆる朱子学中毒者からは、「士農工商」の「商」にかかわる武士として白い眼でみられる立場だった。
咸臨丸に乗ってアメリカを自分の目でみて経験もある。
福澤は西郷を高く評価している。
「明治一四年の政変」が
岩倉・井上らあ考えたであろう「国家の基本を定める憲法の上でも天皇の絶対性を確立しない限り日本もの未来はない」はやがてその権威を笠に着た軍部の主導権をゆるし、議会を圧迫し亡国に道につながる。P73
岩倉・井上らあ考えたであろう「国家の基本を定める憲法の上でも天皇の絶対性を確立しない限り日本もの未来はない」はやがてその権威を笠に着た軍部の主導権をゆるし、議会を圧迫し亡国に道につながる。P73
とは、重豪の評価もふくざつなものだ。
wikopedia井上毅
憲法設計に携わる
熊本藩下の秀才
、福澤諭吉の『民情一新』を添えて大隈の意見書との類似を指摘、イギリスに範をとる憲法制度に反対した。
漸進主義とプロイセン(ドイツ)型国家構想を主張した。
以後も大隈排斥の多数派工作のため、宮島で療養中の井上馨を訪ね、彼を大隈排斥とプロイセン型憲法の早期制定論者へと豹変させ、伊藤への説得を依頼する。続いて薩摩閥の松方正義の説得に成功、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派への工作を依頼する。
そして開拓使官有物払下げ事件が報道されると、大隈・福澤らを政府内から排撃するため、大隈陰謀説の流布に加担し、結果として10月に発生した大隈と彼に属する官僚の罷免につながる(明治十四年の政変)。
政変後は伊藤のブレーンとして活躍し12月に発足した参事院(後の内閣法制局)の議官になり、国会開設の詔を起草、明治15年(1882年)に発布されることになる軍人勅諭の起草に関わる
明治19年(1886年)5月に伊藤の呼びかけで憲法に着手、翌明治20年(1887年)5月に憲法草案に甲案・乙案を伊藤へ提出、ロエスレルも伊藤に出した草案を参考にして憲法作成は始動した