カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

比翼塚(ひよくづか)

2012年06月25日 | ☆ ふるさと・大和

昨日6月24日日曜日のことです。
大学の同窓会の五條支会がありました。
まだ現職で重要なポストにある人から、90歳代(年齢を忘れました)の大先輩まで、2年に一度市内に在住している人の集まりです。
「石造文化財と、その時代」-五條地域を中心にーという演題で記念講演をしてくださるのが、五條で育ち学びそして奈良の大学校を最後に退職された、大先輩のO先生でした。

小学校では6年生を担任していただいた恩師であり、大学では教育実習のクラス指導でずいぶんお世話になった、尊敬すべき先生で、この日を楽しみにしていました。

同窓会の開始より1時間早くお出でになるとのことで、駅までお迎えに行きました。

「写真を撮りたいところがあるので、極楽寺と櫻井寺に行ってくれるかな?」
先生の著書も六冊読み、調べたいと仰ることにはとても興味がありましたし、写真も撮りたい思いも重なって、近くのお寺ですので喜んでお供しました。

上の写真は、いきなりお墓です。
忙しくて今日は今までパソコンを開けることができなかったものですから、夜のお墓が登場したわけです。
「これは比翼塚と言って、心中した人のお墓で、多分この村(その頃は村だったこの町です)の人が二人を可哀想に思って弔ってやったお墓」だと言うことを話してくださいました。
比翼塚なんて始めて聴いた浅学な私でしたが、殆ど朽ちている墓石には、文字などわからなかったのですが、以前の先生の写真では、正面からは右の石碑には「かげに添ふ つま紫や」 左には「蕗の董(この字は間違っているかも・・・)そして裏側には、右ー道忍 左ー恵忍 そして年号は寛政3年(1791)正月の末と彫ってあったそうです。
この極楽寺には、もう堂宇はなく墓石のみの広い墓地です。


これは私のブログではおなじみの町並み伝承館です。
と言うことは、ここは新町通り旧紀州街道です。


伝承館から東へ1つ目の北への道と交差する所に、こんな石標があります。

元禄8年(1695)12月9日、大坂・千日寺で、赤根屋半七と女舞三勝の心中事件がありました。
歌舞伎や浄瑠璃ファンの方ならご存じと思いますが、お園さんが舞台に出てきたところで、鐘がごーんと鳴って、「今頃は半七様どこにどうしてござらうぞ。・・・」の名場面。
竹本三郎兵衛により「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」として作られた浄瑠璃で有名なあの半七さんの家の跡が、この紀州街道にあるのです。

当時の記録によると元禄8年(1695)12月9日、二人は互いの紅裏絹の帛紗縮緬で結び合わし、共に咽喉を掻き切って死んだという。

その二人の比翼塚が、櫻井寺の墓地にあるのです。
    

こちらの方は石碑も昭和になってから、二人を哀れに思った町の人によって建てられたようですが、このお寺にはおばのお墓があるので1年に4回はお参りしていましたが、比翼塚というものがあることすら知らなかったので、
墓石の一つ一つにもいろんな人生のあることを見たような気がしました。

先生の講演内容については、興味深いことがもっと沢山ありました。
あちこちの社寺仏閣を写真に撮ってますがこれからは、また目標を持って石造物を観る楽しみができたように思いました。

櫻井寺

真夜中にお墓の話でごめんなさい。
コメント (6)
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