カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

粋な計らい

2004年09月10日 | △ 旅 あれこれ ドライブ
ホテルのフロント横に掲示されているポスターが目に入った。 

夕日百選に、あるという周参見のこの地。
勿論その夕日を見たいし写真にも収めたかったけれど、台風18号の、暴風範囲に入っている日の宿泊なので、望めない。
明日の朝日に期待して、朝日の見える部屋に決める。
今度、この地を訪れたときは、美しい夕日に会いたい。

「朝日、夕日、どちらの見える部屋」
「その日の日の出、日の入りの時刻表示」
ホテルの粋な計らいが、嬉しい暴風の中の旅の宿だった。
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暴風の紀州路

2004年09月09日 | △ 旅 あれこれ ドライブ
続く地震、その上大きい台風、直撃でなくても暴風域に入ることは台風情報を見ていると分かる。それなのに、予定どうり南紀への旅を決行した。
途中ラジオから地震情報が流れ、震度4の揺れと言う。高速道路は安全点検のため50キロの制限速度と伝えている。同じなら、一般道の方が安全だろうと、42号線を走ることにした。
雨を予想していたが、時々薄日が差す空模様で、道路脇の。樹木や草の揺れ具合で、風はかなり吹いている様に見えたものの、走っている分には平気だった。

海南を過ぎた頃道路標識に暴風警報の文字が点灯。車に当たる南からの風が強くなってきている。車も数がめっきり少なくなったのは、警報のせいかもしれない。

暴風の脅威を実感したのは、休憩のため立ち寄った印南辺りの海に突き出た位置にあるレストランの駐車場だった。車のドアを開けようとしても開かない。両手で思いっきり押して体を外に出すとたんにバシャリとすごい勢いでドアが閉まる。もし指でも手でも車に残していようものなら、骨折しそうな強さである。

ゆっくりしていると目的地に着けないかも知れないという不安にかられ、早々に出発した。

南部では、雨が降っていないのに、フロントガラスが白くなり曇ってくる。高い防潮堤があるので海の様子は見えないが、風に吹き上げられた海水が霧状になって、国道に降ってきている。辺りがもやっているのはそのせいなのだ。街路樹が、大きく揺れている。
国道が海岸線から外れて田辺、白浜を走ると、強風はやや治まってほっとした。目的の すさみが近づく。トンネルの出口付近や。橋の上を通過するときには、海側からの横風をどっと受ける。ラジオでは、西日本の被害の情報が流れる。

トラックが横転したと言うニュースに、後先に走る車の無い南紀の国道を無事にすさみにつけるよう祈る気持ちだった。雨が降らなかったことだけは幸運だと思っている。
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地震・その時~~

2004年09月07日 | ★ 日々の呟き
大きな地震が二つきた。
最初のときは、怖ろしくて足がすくみ、柱にしがみ付いていた。
なぜ柱だったのか分からない。
傍に人がいたら、その人にしがみ付いていたに違いない。

2度目は寝ようとしたとたんに、ゆっさっゆっさと来たものだから、足元にあった肌布団を、頭にして外に飛び出した。
初めのよりきつい。とっさの判断だった。車庫なのか、母屋なのか隣の家なのか、がたがたと頭の上でものすごい音を立てていた。足元の地面もふみ応えが無いような感触が不安だった。

音がしなくなったので、頭の肌布団を取った。
何事もなかった。そう思った途端、背中から胸にかけて鈍痛を感じた。恐ろしさに心臓がどうかなったように思い、ゆっくり離れに戻って、上がり口に座り込んだ。ドキドキと鼓動が聞こえる。

「お母さんは怖がりやから・・・」その頃娘は、大阪から。つながららない電話と携帯メールをし続けていたと言う。
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母・優しさのルーツ

2004年09月06日 | ▼ 思い出綴り
母方の従兄弟の一周忌の法事に出席した。
法事に出席する人達も世代が代わってきていると、1年前の葬儀の時に思った。
母を知っている人も少なくなってきている今、この機会に、母の事を是非聞いておこうと思っていた。

4歳で父を、9歳で母を亡くしたと聞いていたが、その後どのように、誰に育てられたのか詳しくは聞いていなかった。悲劇の主人公のような自分の生い立ちを語りたくなかったのか、そういうことを否定する、もっと暖かいものが母の周囲を包んでいたのか、疑問に思いながら、母には尋ねなかった。

母を知る人は口を揃えて、神様のように良い人だったという。未だ嘗て、母の悪口を聞いたことが無い。両親の愛情を知らずに育った場合、人の幸せを羨んだり、僻んだりしがちな筈なのに、そんな影は、80歳で命を終えるまで無かった。

母は、叔父(父の弟)夫婦に育てられた。町で本屋を営んでいた叔父が母を引き取り、自分の子3人と同じように本屋で暮らした。料理も、裁縫も叔母に教えられた。明治生まれの母の時代、女学校に行く人が稀だったのに「親の無い女の子に教育を附けておいてやろう。何か役に立つだろう」と、叔父の考えて、県立女学校を終えた。学費は叔父が出してくれたらしい。本屋で大きくなっただけに、母は読書が好きで、晩年も書物を友としていた。

女学校を卒業した母は、大阪の商社に勤め、タイピストとして、嫁ぐ日まで働いたという。24歳で教員をしていた父の元に嫁いだ。お見合いである。当時神戸そごうの呉服部に勤めていたすぐ上の兄が、嫁入り道具の全てを調達したのだと聞いた。

母の従兄弟から、法事の食事の間に聞いた、母の生い立ち。今ならさしづめ、施設で大きくなるかもしれない境遇にあったけれど、親戚、兄弟の暖かさに包まれ、それを感謝しつつ生きてきたのだと知った。母の優しさのルーツを知った思いである。
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朝市

2004年09月05日 | ★ 日々の呟き
車で5分ほど走ると朝市の場所がある。
土、日の午前中だけ開かれている。この地区の農家の人が、新鮮な野菜や花を全て百円で販売している。
我が家の季節の野菜と、仏壇の花、神棚の榊、毎月の墓参りの花は、ここでお世話になっている。
低価格もさる事ながら、新しさが嬉しい

もう一つ、その日の当番の生産農家の人と交わす短い会話も楽しみである。
私はここで、野菜の調理や、保存などの変わった知識を得た。それは大抵、それぞれの家に伝えられた素朴なものであり、異世代同居が普通の日本の農家ならではのことと、心強く感じている。

今朝、ここに行くのが遅くなってしまった。残っている品も少ない。早い人は6時過ぎには来るという。その頃には、各農家から持ち寄った農産物が、販売所の前まで並べられおり、品数も多いと聞くが、なかなかそんな時刻には行けない。

「朝起きは、三文の得」・・・にありつけない。

それでも残った中から、目当ての品を買って、帰ろうとした時、車が1台入ってきた。
降りて来た少し高齢の男性が、当番の人と、にこやかに挨拶を交わしている。お得意さんのようだ。車のナンバーを見ると「なにわ」である。

遠くからの人も立ち寄るし、それがきっかけで、毎週のお得意さんにもなって行くのだろうと
微笑ましくなって、「さよなら」をした。
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