映像:精緻な細工越しに庭を覗く。この離屋も母屋と同じ位資金を要した立派なもの。
太宰治は当初妻の実家甲府に疎開そこも空襲に合いやむなくの青森金木での疎開生活
だった。彼にとってやはりふるさとは遠きにありて思うものに違いない。しかし戦争
という思わぬ事由で帰れたのである。落ち着いて暮らす幸せを彼はどの様に感じたか
検証:筆者は太宰治研究家ではないが、恩師相馬正一氏は筆者が学生の頃、新進気鋭
の太宰治研究家であり、今も活躍。勿論この『桜桃の家』の存在はご存知だと
思うのだが太宰治の青森での貴重な滞在の重要研究物件とし改めて呈示したい。
○東京三鷹禅林寺太宰治の墓前で自殺した太宰の信奉者田中秀光の訪問。
○太宰治が慕ってやまない越野たけが小泊から来訪、再開
○芥川比呂志が『新ハムレット』上演で来訪2泊
○弘前、鯵ヶ沢、黒石などで座談会開催
○太宰を敬慕するの多くの文学青年の訪問
○尊敬と畏怖の家長(長兄)の衆議院選挙当選
○姉きやう、祖母いしの死去(葬儀)・・・・・・
など、太宰の栄光と影はこの『桜桃の家』でも繰り広げられていたのだ。
映像:現存する太宰治生家(太宰治記念館:斜陽館)に近接する津島家離家(太宰疎開)。
季節は初夏、この頃になると太宰治の桜桃忌が思われる。玉川上水での衝撃的な結末。
作家太宰治が唯一、憩った家それがこの「桜桃の家」だ。今日は現在の持ち主のご案
内で取材した。驚くほどそのまま保存されていた。住まいを転々としていた太宰はこ
の家に一年半落ち着き、友と語り、執筆をしては近隣の学校で講演までしていたのだ。
愛称:現持ち主白川氏によれば『津島家新座敷』『太宰の暮らした疎開の家』がこの家
の名称として公的案内しているという。正式にはこの名称でいいとして、温泉観
光士としては、この貴重な文化資産が太宰フアンに限らずより多くの愛好家に親
しまれるよう『桜桃の家』と愛称する。(2007.6.8)
その理由として、
①何よりも世間に認知されるためには、キャッチコピー《愛称》が必要な事
②太宰が生まれたのも、死んで遺体が見つかったのも6月19日で現在の『桜桃忌』
③例年桜桃忌には東京、金木で関係者(息女園子さん含)で太宰を偲ぶ会が行われる
④『桜桃忌』は太宰ファンであれば忘れる事のできない日、名称である
この4点から正式名称は『津島家新座敷』『太宰の暮らした疎開の家』として、愛称
として『桜桃の家』とし、持ち主の白川さんにこの『桜桃の家』の愛称を進呈します。
参照 # ①太宰疎開の家床の間 ②太宰疎開の家寝室 ③太宰疎開の家椅子 ➃太宰疎開の家応接間
閉鎖:その後の調査で、震災後温泉使用不可となり、キャンプ場閉鎖
川原毛地獄からさほど離れていないキャンプ施設の中に熱湯の塔屋が
あり、熱い源泉が露天風呂に導かれていた。まだシーズン前、管理人
も居ないので、大地に許可?を頂き入湯。~ビリビリ熱湯露天風呂だ。
【Data】単純温泉 98℃ ph8.9 源泉:木地山高原温泉