知人Tさんがご逝去されました。
Tさんの奥さん(Mさん)はご主人の私物を片付けるために、何日も勤務先へ通いました。
Mさんの同僚である夫が、そのお手伝いをしました。
ほんの些細なことですが、Mさんは、夫以外の人にはそれを頼みにくかったと思います。
その片付けも終了した旨、お礼の言葉と共に、mailが届きました。
Mさんのお役に立てたことを私たちは嬉しく思いました。
Tさんは家族葬で、お香典も受け取ってもらえなかったのですが、夫がこんな形で役に立てたことを、Tさんもきっと喜んでくださっているだろうと想像しています。
私は、Mさんが喜ぶことをしてあげることが、Tさんへの供養になると考えます。
法事の度に思うのです。
法事は、故人が安らかであることを祈って行うものだと思うのですが、それ以上に、生きている人の哀しみを慰めるために行うものだと思うのです。
私は、法事を執り行ってくださる人に対して、私が大切に思っている人のことを忘れずにいてくれることを法事の度に改めて感謝するわけです。
だから、哀しみを内に秘めながら生きている人のことを思い、そんな思いの中で生きている人のためにする法事は大切な行事です。
もっとも、すべての法事参列の時に、私にその思いがあるわけではありませんけれどね。