
(帰国して支持者の歓迎を受けるサム・レンシー氏(中央、メガネの男性) “flickr”より By Prachatai http://www.flickr.com/photos/39515458@N02/9321608554/in/photolist-fcHFsS)
【フン・セン首相の最大のライバルと目されているサム・レンシー氏の亡命人生】
和平後のカンボジアの政治家と言えば、強権的との批判があるものの、絶対的権力を手中にして安定政権を率いるフン・セン首相と、シアヌーク前国王の次男で、かつてはフン・セン首相と主導権を争ったラナリット殿下(現在は影響力を失い政界を引退)ぐらいしか知らなかったのですが、現在の野党第1党であるカンボジア救国党を率いるサム・レンシーという政治家がいるそうです。
****仏亡命のカンボジア野党党首、総選挙前に帰国*****
今月末に総選挙を控えたカンボジアで19日、最大野党カンボジア救国党(CNRP)のサム・レンシー党首(64)が事実上の亡命生活を送っていたフランスから帰国した。
サム・レンシー氏が率いるCNRPは、30年近くにおよぶフン・セン首相の支配体制を終わらせるべく、総選挙での勝利を目指している。
フランスから到着したサム・レンシー氏は、首都プノンペンの空港に降り立つと祖国の地面に口づけをし、空港周辺を埋め尽くした支持者らに「とても嬉しい。皆さんと共に国を救うために帰って来た」と語り掛けた。空港から市中心に通じる沿道にはCNRPの党旗を手にした数万人が集まり、「変化を!」と連呼しながらサム・レンシー氏の帰国を歓迎した。
その中の1人、サム・レンシー氏と同年の64歳の支持者は「すごく喜んでいる。民主主義の指導者の帰国を目にできて、とても興奮している」と語った。
サム・レンシー氏は2009年、人種差別を扇動し虚偽の風説を流布したなどとして起訴され、収監される恐れが出たため、フランスに出国した。同氏は政治的な策略による起訴だと主張しているが、欠席裁判で11年の禁錮刑判決が下された。だが、フン・セン(Hun Sen)首相の要請により、ノロドム・シハモニ国王が前週、サム・レンシー氏に恩赦を与え、28日の総選挙を前に帰国がかなった。
■選挙名簿に名前はなし
カンボジアへの帰国前にAFPの取材に応じたサム・レンシー氏は、恩赦を「民主主義の小さな勝利」と評価した上で、「やるべきことは、まだたくさん残っている」と語った。
フン・セン首相の最大のライバルと目されているサム・レンシー氏だが、選挙名簿から名前が削除されているため、議会による法改正がない限り今月末の選挙に出馬することはできない。
それでも同氏は、自らが党首を務めるCNRPへの支持を強化するため、帰国後はすぐに各地で遊説を行うと語った。
国連のスーリヤー・スベディ人権特別報告官は15日、カンボジア政府に対し、サム・レンシー氏の完全な政治活動を認めるよう求める声明を発表している。
■フランスと祖国を行き来する生活
サム・レンシー氏は、政治家だった父親が行方不明となった後に16歳でカンボジアを離れ、仏パリに渡った。同氏の父親は失敗したクーデターに絡み、政府機関に暗殺されたとみられている。
その後、フランスにある欧州経営大学院(INSEAD)でMBA(経営学修士)を取得したサム・レンシー氏は、パリで複数の銀行に勤務した後、自身の会計事務所を設立。内戦終結後の1992年、カンボジアに帰国し、新政府で一時、財政経済相を務めた。
フン・セン首相と対立したサム・レンシー氏は2005年にも、名誉棄損の罪で有罪となった際に国外に逃れているが、この時は翌年に国王から恩赦が出されカンボジアに帰国している。【7月19日 AFP】
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サム・レンシー氏はカンボジアとフランスの間で亡命・帰国を繰り返す人生ですが、2009年の亡命については、以下のような事情だそうです。
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2009年10月25日、ベトナムとの国境線が本来のカンボジア領よりも内側になっているとしてサム・ランシー党首が村人と共にスヴァーイリアン州チャントリア郡に設置された国境杭を引き抜いたことに対し、国民議会はランシー党首の不逮捕特権剥奪を決定、2010年1月27日に欠席裁判のまま有罪判決(禁固2年)が下された。
その後、2010年2月にランシー党首が「政府がベトナムの侵入を容認した証拠がある」として政府批判を行ったことに対し、2010年9月に禁固10年と罰金500万リエル、国家への賠償6000万リエルの支払いを命じる判決が裁判所によって下されている。【ウィキペディア】
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最初はクメール・ルージュの一員だったフン・セン首相は、カンボジア内戦時にベトナムに逃れ、ベトナムの後押しでクメール・ルージュを追い落とし、カンボジア政界を取り仕切る立場になっています。
ポル・ポトのクメール・ルージュが狂信的集団と化した原因のひとつに、極度のベトナムへの警戒心がありますが、クメール・ルージュに限らず、カンボジア国民全体にベトナムへの不信感があります。
そのあたりは、カンボジアを旅行すると実際に感じることができます。
そうした空気を背景にしたサム・レンシー氏による2009年の行動(どこまで事実化は知りませんが)でしょうが、表立ってのベトナム批判は、ベトナムの後押しを受けているフン・セン首相への批判にもなりますので、弾圧・亡命という話にもなるのでしょう。
【「フンセンは自分たちと一緒に、厳しいポルポト時代を生き抜いてきた」】
カンボジアでは今月28日に総選挙が行われるそうで、それに合わせた帰国ですが、政敵フン・セン首相が帰国を認めたということは、総選挙勝利に絶対の自信を持っているということでしょう。
そのうえで、国際的批判をかわすために、選挙戦終盤での帰国を認めたということかと憶測します。
サム・レンシー氏は、“1993年の選挙でフンシンペック党から選出された彼(サム・レンシー氏)は、経済財政大臣として政府の腐敗を厳しく追及したが、ラナリット第一首相(当時)の逆鱗に触れ、大臣の座を追放された。また国会議員資格も剥奪され、何度も命を狙われながら政府との対決姿勢を鮮明にして活動を続けてきた。不正や悪と闘う政治家とのイメージに多くの人々が改革への期待を託していることが感じられた。積極的に政治について語る人に限って言えば、サム・レンシー党の人気は圧倒的だった。”【阪口 直人氏 http://homepage2.nifty.com/naoto1016/garally/cambodia%20election%200307.htm】という、人権を重視し、不正と戦うというリベラルなイメージで人気のある政治家だそうです。
前回総選挙(2008年)では、フン・セン首相の人民党90議席に対し、サム・ランシー党は26議席を獲得し、その後、人権党(3議席)と合併しカンボジア救国党(CNRP)を結成しています。
今回選挙も、盤石の与党・人民党にある程度対抗できるのはサム・レンシー氏のカンボジア救国党しかないと見られています。
強権支配・汚職腐敗のフン・セン政権ですから、リベラルなサム・レンシー氏への支持・期待も一定にある訳ですが、フン・セン首相を政治的に追い込むような存在には至っていないようです。
その背景には、あまりにも過酷なカンボジアの内戦の記憶があるようです。
確かにサム・レンシー氏の主張は耳あたりはいいが、地獄のような内戦を終結し、現在の政治的安定をもたらしたのはやはりフン・セン首相にほかならず、実際の政治をサム・レンシー氏に委ねるのは不安だ・・・といった思いがカンボジア国民にはあるようです。
(フン・セン首相が選挙に強いのは、それ以外に、不正選挙とか、選挙対策のバラマキといった理由もあります)
下記は、2002年2月に行われた和平後初めての地方選挙のときの、あるカンボジア人の意見です。
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「フンセンは自分たちと一緒に、厳しいポルポト時代を生き抜いてきた。サムレンシーはその時、フランスでエアコンのきいた部屋にいた。ベトナムの力を借りたかもしれないが、実際にポルポト政権を倒したのは人民党だ」
「誰もが腐敗している。どれが、いちばんマシかで選ぶ。確かに汚職は深刻な問題だが、フンセン首相率いる人民党は、例えば政府予算の半分ぐらいを自分達のポケットマネーにしてしまっていても、残りの半分は実際に道路を造ったりするのに使っている。自分たち公務員の給料は8万リエル(約20US$)だが、一ヶ月一家4人で暮してゆくには300US$ぐらいかかる。今現在の給料はとても十分とはいえないが、生活を切りつめ、副業で何とかやりくりしている。もし、サムレンシーの言うように、カンボジア政府は腐敗しているので、一切の外国援助を止めてくれというような事になったら、外国援助で成り立っているカンボジア政府は、その8万リエルという給料すら人々に払えなくなってしまうじゃないか。そうしたら、どうやって生活してゆけばいいのか」
【山中ひとみ氏 http://bekkoame.ne.jp/~shida-a/gaien/kanbojia/kanbojia2.htm】
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もっとも、カンボジアも内戦終結から時間が経過し、人民党が敗北することでの政治的混乱への不安が薄れてくれば、フン・セン首相の強権的政治手法、汚職・腐敗の蔓延に対する国民の不満も顕在化してくることも考えられます。それが、今回選挙なのか、次回なのかはわかりませんが。
なお、今回総選挙では、フン・セン首相の三男、フン・マニ氏が初出馬するそうです。カンボジアでも政権世襲化でしょうか。