孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ローマ法王 「アルメニア人虐殺」問題に言及 「虐殺」を否定し続けるトルコ

2015-04-13 22:22:55 | 国際情勢

(「虐殺」もしくは「不幸」のアルメニア人生存者 “flickr”より By agbu https://www.flickr.com/photos/agbu/2413784997/in/photolist-4FihbH-4ePUJ9-6hpkf3-6hzS2f-k1cJ1U-6hkaip-ehQWBP-4FXYe4-6hpkco-6hpkh3-6hpk9f-nAFbVU-kKFRAQ-ifjabA-5hhWPN-m2hZbv-e9m1ES-2nhJVW-kaVA1M-m3X9DK-a4afsY-2ndx8x-jFKaSA-HN2eu-5nXKDh-edRJyo-HN2ew-8ELcoQ-4FXY7k-cXDWJq-9AYvp6-4Fnvid-6VfkPz-4Fiheg-4FnAMQ-4Fnx2b-4FXY6V-4FnAGY-6VjrqN-6VfdN6-6VjmTU-4G395w-6Vjc1d-6VfeBp-6Vfdov-cVv3t-cTU6D-6VfphV-6VjsDG-6VffPz)

【「虐殺(ジェノサイド)」か、「戦乱の中で起きた不幸」か
アルメニアはトルコの東に位置する小さな国です。

かつてのオスマントルコ領内には多くのアルメニア人が暮らしてしましたが、アルメニア独立運動に伴う政治活動や、露土戦争によってロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきたムスリム・トルコ難民のキリスト教系アルメニア人への反感などもあって、19世紀末から衝突が絶えませんでした。

20世紀に入って第1次大戦中の1915-1917年、オスマン帝国領内の少数派・辺境住民でキリスト教徒が多いアルメニア人は、敵国ロシアと内通し、独立を画策する勢力として強制移住させられ、オスマン・トルコによって組織的に虐殺されたとアルメニアは主張しています。

その犠牲者数には諸説ありますが、100万人から150万人ほどとみる向きが多いようです。
生き残ったアルメニア人の多くは、欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだとされています。

アルメニア人移住者が多いフランスやアメリカでも、これを「虐殺(ジェノサイド)」としてトルコを非難する流れがあります。

一方のトルコは「虐殺」を否定し、アルメニア人がアナトリア東部で独立のため武装しロシアの侵略軍を支持した際に、市民間の衝突で30万-50万人のアルメニア人と少なくとも同数のトルコ人が死亡したと主張しており、双方に犠牲者が出た「戦乱の中で起きた不幸」だったとしています。

このあたりは、日本と中国・韓国の間にある歴史認識に関する論争を見るようでもあります。
立場が違えば見方も異なりますし、多くの事実があるなかで、どの事実を重視するかという問題もあります。

ウィキペディアや新聞などに書かれていること以上は知りませんので、どちらの言い分が真実・真相に近いのかは判断しかねます。

ただ、一般論としていえば、人権意識が十分でなかった当時、戦争などによって民族意識が刺激された場合、民族間で多くの衝突が起こったであろうこと、その場合、支配者側にあった方が被支配者へ過酷な扱いをしたであろうことは想像できます。

アルメニアはその後、ソ連に組み込まれ、ソ連解体後に独立を果たしています。
なお、アルメニアは東のアゼルバイジャンと、アゼルバイジャン領内にあるナゴルノ・カラバフ地区(アルメニア人居住地域)の帰属をめぐる領土問題を抱えており、この問題でもアゼルバイジャンを支援するトルコと対立する関係にあります。

対立を続けてきたアルメニア・トルコ両国ですが、2008年には国交正常化の動きがあり、国際的にも注目されました。

2008年9月7日ブログ“アメリカ・リビア、トルコ・アルメニア 「永遠の敵はいない」”http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20080907

この流れは、周辺国との関係強化を図る「ゼロ・プロブレム外交」で地域大国として影響力を強めつつあったエルドアン首相(当時)の指導力もあったと思われます。
2009年10月には、国交樹立に関する合意文書の署名式も行われました。

しかし、トルコ側が批准の条件として、アルメニアと隣国アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る両国の紛争解決進展を提起。
これに対し、アルメニアの議会与党が「前提条件なしの国交樹立という約束に反する」と反発、2010年4月にはアルメニアのサルキシャン大統領は、国会批准を凍結する大統領令に署名して国交正常化は中断しています。

その後、「アルメニア人虐殺」問題が国際的に注目を集めたのは、フランス国民議会(下院)が2011年12月、「アルメニア人虐殺」について公の場で否定することを禁じる法案を採決したときです。

2011年12月23日ブログ「フランス下院 オスマン・トルコによるアルメニア人「虐殺」の否定を禁じる法案可決」http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20111223

この法案は上院でも可決されましたが、2012年2月、フランス憲法院(憲法裁判所)は、アルメニア人虐殺否定禁止法案を「思想や発言の自由に抵触する」として違憲と判断しました。

2014年4月にはトルコ・エルドアン首相(当時)が、トルコの国家元首として初めてアルメニア人虐殺問題で哀悼の意を表明し、周囲を驚かせました。

****トルコ首相、アルメニア人虐殺に初の哀悼表明****
トルコのレジェプ・タイップ・エルドア首相は23日、第1次世界大戦中のアルメニア人虐殺について、トルコの国家元首として初めて哀悼の意を表明した。

エルドアン首相は、1915年のアルメニア人強制移住開始からちょうど99年の節目の前日に当たる同日、多方面から20世紀最初の大虐殺とみなされているこの事件を「われわれ共通の痛み」と呼んだ上で、1915年に起きた一連の出来事は「非人道的結果」をもたらしたと言明。

だが一方で、それをトルコに対する敵対心の口実に使用することは「容認できない」とも述べた。

アルメニア語を含め複数の言語で発表されたこの首相声明を、トルコのメディアは予想外のものと報じている。

アルメニアは、オスマン帝国の下で最大150万人のアルメニア人が殺害されたとして、この出来事が「ジェノサイド(大量虐殺)」であるとトルコに認めさせようとしてきた。

一方、トルコ側は死者数を50万人程度とした上で、これらの人々が第1次大戦中の戦闘と飢餓によって死亡したと主張。これを「ジェノサイド」と呼ぶことを断固として拒否している。【2014年4月24日 AFP】
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「非人道的結果」をもたらした責任が誰にあるのかまでは明らかにしていませんが、首相は哀悼の意とともに、学術的な検証を呼びかけています。

アルメニア側を含め、国内外は好意的に受け止められましたが、出馬がうわさされていた大統領選への「布石」との声もありました。

【「罪悪を隠し、否定するのは傷を手当てせずに血が流れるままにするようなものだ」】
今、再びこの「アルメニア人虐殺」問題に注目が集まっています。
今度の問題提起者はローマ法王です。

****法王、アルメニア人殺害を「ジェノサイド」と表現 トルコは猛反発***
ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は12日、100年前のオスマン・トルコ帝国で多数のアルメニア人が殺害された事件を「ジェノサイド(集団虐殺)」と表現した。

トルコ政府はこれに強く反発し、法王の認識は「史実から懸け離れている」と批判した。

オスマン・トルコ帝国によるアルメニア人の大量殺害から100年になるのに合わせ、バチカンのサンピエトロ大聖堂で催された荘厳なミサでフランシスコ法王は、2001年に当時のローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世とアルメニア教会総主教が署名した声明を引用し、同事件は「20世紀最初のジェノサイドと広く認識されている」と述べた。

第1次世界大戦中に起きたこの事件については、多くの歴史家が20世紀最初のジェノサイドと表現しているが、トルコはこの見方を強く否定している。

法王の発言に強く反発したトルコ政府は、詳しく話を聞くため駐バチカン・トルコ大使を召還すると発表。メブリュト・チャブシオール外相はツイッターに「法王の発言は、法的事実からも史実からも懸け離れており、容認できない」「宗教当局は、根拠のない主張で怒りや憎しみをあおる場ではない」と投稿した。

トルコ外務省はまた、駐トルコ・バチカン大使を呼んで説明を求めるとともに、当時のイスラム教徒やその他の宗教グループの苦しみからは目をそらした「一方的な見方」に加担したとして、法王を非難した。

フランシスコ法王は自身の言葉で事件をジェノサイドと表現したわけではないが、ローマ法王がサンピエトロ大聖堂という場で、アルメニア関連でジェノサイドという文言を使ったのはこれが初めて。

バチカン専門家のマルコ・トサッティ氏はAFPに対し、「あの事件がジェノサイドだったとはっきり繰り返したのは非常に勇気のある行為だ」と話し、「ヨハネ・パウロ2世を引き合いに出すことで教会の立場を強調し、本件に関する教会の認識を明示した」とみている。【4月13日 AFP】
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今回のローマ法王の発言の背景には、中東やアフリカでキリスト教徒迫害が激しさを増している現状への危機感があると指摘されています。

****<トルコ>バチカン大使を召還…法王「虐殺」発言に抗議措置****
トルコ政府は12日、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王がオスマン・トルコ帝国による第一次世界大戦期のアルメニア人迫害を「20世紀最初の虐殺(ジェノサイド)」と呼んだことへの抗議措置として、自国の駐バチカン(ローマ法王庁)大使を召還した。迫害を巡る法王発言は両国間の外交問題に発展した。

法王は12日、キリスト教徒が多数派のアルメニア人の迫害をホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺)、ソ連最高指導者スターリンの大粛清と並ぶ「前世紀の前代未聞の3大惨劇」と位置づけ、「20世紀最初の虐殺と広く認識されている」と述べた。その上で「罪悪を隠し、否定するのは傷を手当てせずに血が流れるままにするようなものだ」と語り、虐殺と認めないトルコを批判した。

トルコ外務省は12日、声明で「法王は第一次大戦で死亡したトルコ人、イスラム教徒の悲劇は無視して、キリスト教徒、とりわけアルメニア人の苦しみだけを強調した」と抗議。チャブシオール外相はツイッターで「史実と法的根拠からかけ離れた発言であり、受け入れられない」とバチカンの対応に不満を表明した。

法王は一昨年6月にアルメニア人カトリック聖職者とバチカンで面会した際、迫害被害者の子孫に「20世紀最初の虐殺だった」と声をかけたとされる。
だが、昨年11月のトルコ訪問ではホスト国に気配りして迫害には言及しなかった。

今回、トルコが猛反発したのは、少人数の面会ではなく、迫害100年にあたってバチカンで開いたミサという公の場での発言だったためとみられる。

法王発言の背景には、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS=IslamicState)などによる中東、アフリカでのキリスト教徒迫害が激しさを増している現状への危機感がある。

だが、バチカンにとってトルコはイスラム諸国との対話窓口であり、IS対策での重要国。「虐殺」発言は法王が推進するイスラム教との宗教間対話やバチカンとイスラム圏との関係にも影響を及ぼす可能性がある。【4月13日 毎日】
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「罪悪を隠し、否定するのは傷を手当てせずに血が流れるままにするようなものだ」・・・非常に厳しい表現です。
今のエルドアン政権には、法王の言葉を受け入れる余地はないでしょう。

なおイスラム関連で言えば、ローマ法王は仏週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃された事件については、「他者の信仰を侮辱したり、もてあそんだりしてはならない」と述べ、「表現の自由」にも一定の限度があるとして、イスラムへ配慮する考えを示しています。

****<ローマ法王>「表現の自由にも限度」他者の信仰侮辱を戒め****
イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した仏週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃された事件について、アジア歴訪中のフランシスコ・ローマ法王は15日、テロを厳しく非難する一方、「他者の信仰を侮辱したり、もてあそんだりしてはならない」と述べ、「表現の自由」にも一定の限度があるとの考えを述べた。AP通信などが伝えた。

スリランカからフィリピンへ向かう機中で、同行記者団の取材に応じた法王は、事件について「神の名をかたって行われる悲惨な暴力は断じて正当化できない」と非難。表現の自由は基本的権利であるとした上で、信仰の自由と対立する場合には制限があると主張した。

法王は隣の側近にパンチをする仕草を示しながら、「私の良き友人である彼でも、もし私の母の悪口を言えば、パンチが飛んでくるのは明らかでしょう」とユーモアを交えながら説明。

「宗教の悪口を言って喜んでいる人は、(私の母の悪口を言う人と)同じことをしている。それには限度がある」と話し、一方的に信仰心が侵害されることがないよう自制を求めた。(後略)【1月16日 毎日】
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