家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

25年前のビデオテープ

2013-11-12 07:03:09 | Weblog
VHSテープをDVDに変換している。

楽しい思い出ばかりだ。

その中から25年前の新年会の様子を撮ったテープが出てきた。

登場するのは10名と犬1匹。

10名のうち2名と1匹は現在既に他界している。

母が62歳だから、ちょうど今の私たちくらい。

そして私たちは35歳だったから、ちょうど今の長男くらい。

私たちの25年前と25年後を同時に見ているような感覚だ。

当時の母を見て比較すると体が今は、かなり縮んでいる。

勢いが減り弱弱しさを感じる。

それでも何の病気をしたわけでもないし今も健康だ。

老いという平等な宿命に沿っているだけだ。

自分を見ると、かなり太っていた。

髪もヒゲも真っ黒だった。

あまりしゃべらず 周りの様子を見て喜んでいる。

今はストレスもなく好き勝手なことをしゃべるようになったのだと感じる。

私の35歳を息子と比較すると私は幸運だったと実感する。

物質的にも経済的にも恵まれていた。

しかし私の友人たちを見まわすと私と同じような環境で生活しているから私だけが恵まれたとは思わない。

また、それは世代が同じであるなら自分だけ苦しいとは思わないようなので各世代の違いということで納得できることなのだろう。

犬も変わった。

この後夜中に徘徊しオムツ装着になった。

目は見えず耳は聞こえず、辛うじて微弱な嗅覚は残った。

完全に自分だけの世界に入り込んだ。

16歳まで生きたのだから天寿を全うしたのだろう。

「今こんなに幸せだと、これから悪いことが起こるんじゃないかと心配になる」母の口癖だ。

そう言い続けて87歳になった。

現在を満足している姿勢は正しい生き方のような気がするし誰でも将来の不安はある。

私も現在の幸せを強く感じているし将来の不安はある。

しかし母が感じていたように今の幸せを噛みしめ尚且つ、このまま幸せが持続することを母が教えてくれているように思う。

順調に老い街道を進んでいる。