家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

出合って丸6年

2013-04-02 07:53:06 | Weblog
春野と出合って丸6年が経過し7年目に入った。

あの春は今年とは違って花が咲いていなかった。

木々には蕾だけがイッパイ付いていた。

きれいに配置された庭だが売主の病気で3年ほど手入れがされてなく今ほど生き生きした情景はなかった。

それでも蕾は自分と家族の花咲く未来のような気がして迷わずに購入した。

それからは自然というものを初めて肌で感じたといえる。

今まで自然だと思っていたのは勘違いだと気づかされた。

いけばなでなく地面できれいに咲く花であっても、それは植えられたもの。

田んぼの稲や畑の野菜は、お百姓さんが植えたもの。

よく遊んだ神社の境内には植えられた松。

自生するという、その強さを見せつけられた。

また勢いの強いものに駆逐されてしまう脆弱さも併せ持つ。

自生とは生死をかけた健気な闘いである。

動物にしても犬や猫を飼ってきたが飼われていない強さと危うさを知った。

雄大な中にもピリピリした緊張感が漂う。

動物も植物も毎日の闘いが自然であるとも感じた。

そんな春野のおかげで健康になったし生活が一変した。

里山の暮らしをY爺さんから教わった。

教わるたびにY爺さんなど周りで暮らす人たちへの尊敬が増していった。

生きた勉強をしている実感。

その勉強がお金になることはない。

だが人間としての必須科目だと思う。

シイタケの出来を見ているときY爺さんが来た。

小さなシイタケを見て「まだもうちょい置くだな」と言った。

私は丸6年経過したことを思い出し帽子を取って深々とお辞儀をした。

「ありがとうございました。丸6年経ちました。これからもよろしくお願いします」と礼を述べた。

Y爺さんは、あれあれどうしたの?という顔をしていた。

その後もうちょっと置いたシイタケは全てサルに喰われた。

それも含めて自然の中にいること自体が無性に心地よい。





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2 コメント

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Unknown (山水)
2013-04-02 08:41:24
田舎暮らしにあこがれて移り住む人が 理想と違う現実に嫌気がさして帰るケースも多々あるようですが
田舎に通うことが良かったのか 相当の覚悟があったのか
なにはともあれ6年経過おめでとうございます
6年経てば小学校卒業 後3年で義務教育課程は修了です
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山水様 (無職無収)
2013-04-03 08:05:42
そうですね。これからは中学生なみです。ところが宿泊していないので現地のことを半分しか知らないとも感じます。夜を過ごすとまた生活も変わってくると思います。
嫌気がさして帰る人のようになるかもしれませんね。中学生からは宿泊を増やそうと決めています。
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