7日㈰、10時から綾部八幡宮(大志万宣也宮司)の春季大祭へ。よく晴れて、良いお祭り日和だった。
綾部八幡宮は平安時代に平清盛の長男の重盛が創建したと伝わっている。重盛は現在は大本の御神体山となっている本宮山に熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の三社を建立したとも伝わっている。
綾部八幡宮では毎年、春季大祭に合わせて「お田植式」という昔の稲づくりの様子を寸劇にしたものが披露される。
次の予定のために祭礼のみ出席し、「お田植式」は失礼して帰りかけたら、神社の役員の方に呼び止められた。「息子のところに孫ができて、名前を送ってきたんやけど、それが《四方源太郎》で、ワシ、ひっくり返ったわ~」とおっしゃっていた。知る限り、四人目の《四方源太郎》くん。ずいぶん若い跡継ぎができて嬉しい。
11時過ぎに、山家城址で行われていた山家さくら祭へ行った。桜が満開で大勢の人で賑わっていた。
来賓紹介の後、餅まきをして、地元の産物を買い物した。最近流行りの「御城印」(黒谷和紙製、700円)も購入した。
山家城は戦国時代には豪族和久氏の居城であり、和久氏は現在の場所からさらに山の上に上がった場所に甲ヶ峯城(旧山家城)を築いて周辺を治めていた。
※2009年4月19日付blog「山家の城、釜輪の神事」
現在の山家城は戦国時代末期に豊臣氏から当地を与えられた谷氏が築いたもので、江戸時代には山家藩1万石の拠点となった城である。綾部市では唯一の石垣を残る城でもあり、国指定史跡の登録を目指した活動に綾部市と地元で取り組んでおられる。
谷氏は関ケ原の戦いで西軍に与し、田辺城(舞鶴城)の細川氏を攻めたが、「谷の空鉄砲」という逸話が残されているように東軍に通じていたのか、関ケ原後も山家1万石を安堵され、幕末まで続いた。
綾部市内の十倉(口上林)、梅迫(東八田)、上杉(東八田)に分家があり、江戸時代には本家・分家を合わせると綾部の全域に多くの所領を有していた。現在の地区でいうと、山家、口上林(十倉)、吉美、西八田、東八田、志賀郷、豊里(位田)が谷氏の領地である。