2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(1)

2022-10-31 04:53:31 | 政治
 2022年8月、NHKが再放送も含めて日本の戦争を検証する番組をいくつか放送していた。内容に刺激を受けて、ブログで取り上げてみることにした。ここで取り上げるのは全て番組を記事にしたものから利用することにした。(リンクはあとから)

1.2022年8月10日放送NHKスペシャル 選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(前編)
2.2022年8月10日放送NHKスペシャル 選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(後編)
3.2022年8月13日放送NHKスペシャル新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(前編)
4.2022年8月14日放送NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(後編)
5.2022年8月15日放送NHKスペシャル 選「戦慄の記録 インパール」
6.2022年8月15日放送NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」

 放送の体裁は、記事も同じ体裁を取っていることになるが、将兵や一般市民、さらに現地人等、それぞれの日記、手記、証言、尋問調書等に現れている各個人の思いや考え、主張に「エゴドキュメント」としての体裁を与えて、検証していくという手法を採っている。そこでは日米戦争の形勢悪化の過程でより露出することになった日本帝国軍隊という組織の矛盾を暴くことになり、結果としてその実相・正体がどのようなものであったかを明らかにしていく。日本は東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるとする「大東亜共栄圏」とアメリカの影響力を排する「自存自衛」を戦争の大義としたが、その構想自体が東南アジア進出当初から矛盾を見せていて、1945年8月15日の敗戦に向かう過程で手の施しようもなく破綻していく作戦の遂行に飲み込まれて有名無実化し、敗戦と共に潰え去ることになるが、日本という国家に戦争を遂行する能力も、何よりも大東亜共栄圏を概念通りに実現する道徳的精神さえも欠いていたことを番組は明らかにする。所詮、戦争を正当化するために体裁よく用意したスローガンに過ぎなかったから、構想と現実との乖離が生じることになった。

 日本はアメリカに中国大陸からの完全撤退等を要求され、呑むことができず、「大東亜共栄圏」と共に「自尊自衛」のスローガンを掲げて1941年12月8日午前3時20分(現地時間7日午前7時50分)、真珠湾を奇襲攻撃、対米開戦に踏み切ったが、時の総理大臣は東條英機。陸相と内相を兼任していた。就任は1941年10月18日。就任から2ヶ月とかからない開戦となっているが、総合的な戦略を伴わせた戦争計画の立案に関しては「大日本帝国憲法 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の規定に則って陸海軍を統率・指揮する統帥権は天皇の大権、天皇のみが許される独立した権限とされ、陸軍の場合は参謀総長をトップとした参謀本部、海軍の場合は軍令部総長をトップとした軍令部が行い、首相も陸軍大臣も海軍大臣も作戦計画には参画外にあったが、東條英機は中国では関東軍参謀長を務め、のちに陸軍省陸軍次官の地位に就き、1940年7月に第2次近衛文麿内閣の陸軍大臣に就任してたのだから、軍人の立場からのネットワークによって作戦の内容・骨格は一定程度知りうる立場にあっただろうし、一定程度の口出しも可能だったかもしれない。その上、首相就任後は天皇の意向を受けて対米和平に転じていたものの、元々は対米開戦強硬派の一人であったことと陸軍大臣を兼任していた関係から、開戦した場合はかく戦えりの対米戦争戦略は大まかには持ち合わせていたはずで、その理由は当初は陸軍大臣として天皇臨席による国の重大政策決定の場である御前会議に出席、1941年11月5日の対米和戦両構えの策を決定した第7回御前会議と1941年12月1日の対米開戦を決定した第8回御前会議には内閣総理大臣兼内務大臣兼陸軍大臣の資格で出席していたからである。

 その一定程度がどの程度か知る術は当方は持ち合わせていないが、陸海軍が構想することになったかく戦えりの戦争計画の立案、対米戦争戦略はある制約を受けることになった。戦略とは一般的には自らの人的・物的戦争資源を如何に使い、南進とか、北進とか、あるいはどこを占領して、どのような資源を確保するかといった戦争の長期的・全体的な準備・計画・運用の方法を言うが、ここでは個々の戦いに於いて国力や軍事力等を背景とした兵力の彼我の差を計算に入れて、その差をどう埋めて、どう処理し、どう勝利に導いて、長期的・全体的な準備・計画・運用の総合的な戦略にどう貢献するか、どう導いていくかの実際的戦法にも「戦略」なる言葉を用いる。その理由は個々の戦いは勝ち負けの単なる戦術を超えて、全体的な戦争目的に常に関連付けられていかなければ、戦争そのものの最終的な勝利へと結びつけることが困難となるからである。

 勿論、個々の戦いの指揮は各現地部隊の司令官に任されるが、戦争の総合的な戦略に適う戦いを可能としうるか否かの人材の配置は作戦計画の立案に関わる軍の統帥機関や現地司令部の、誰をどう用いて如何に軍を経営していくか、如何に戦争を進めていくかの組織管理能力の問題に帰す。当然、軍上層部の全体責任事項となる。

 先ず陸海軍が戦争計画の立案に基づいた対米戦争戦略にどのような制約を受けることになったかを見てみる。制約を与えたのは勅命設立の総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告である。「総力戦研究所」(Wikipedia)

 〈模擬内閣閣僚となった研究生たちは1941年7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。

 その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。

 これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。

 この机上演習の研究結果と講評は1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府及び統帥部関係者(陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、その他)の前で報告された。

 研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。

 東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。

 日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。

 戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」〉――

 「日本必敗」は実際には「戦争の不可能なること」と結論づけられた。不可能を無視した挑戦はイコール「必敗」と表現したということなのだろう。

 東條英機は1904年(明治37年)2月8日から同年9月5日までの日露戦争の時代から1940年代後半のその時代に至る兵器の発達と各性能の向上を無視して(日露戦争当時は戦車も戦闘機も存在せず、潜水艦は日露共に実用の段階に至っていなかったという)、40年近くも昔の日露戦争を参考にして、"意外裡な事"(意外の裡〈うち〉に入る事=偶然性主体の計算外の要素)に期待、合理性に基づいた戦争の進め方とは異なる気持ちの持ち方が大事だとする精神論に近い訓戒を行った。対米開戦した場合の戦争計画については一定程度の情報に接しているはずにも関わらずにこのような精神論を持ち出すこと自体、合理的な考えに立った不可能を可能とする戦略、勝てる戦略への思い巡らしに意識を向けていなかった疑いが出てくる。これが単なる疑いなのか、実際のことなのかはおいおいと分かってくる。

 このように日米戦想定の机上演習は長期戦が国力負担不可能の関係を取るという制約を対米戦争戦略に与えることになった。この関係を回避策とする戦争条件は短期決戦以外に答はないことになる。この演習約3ヶ月後に日本軍は真珠湾奇襲攻撃によって対米戦争に突入した。陸軍と海軍が策定することになった対米戦争計画は総力戦研究所の結論"戦争不可能"を覆しうる短期決戦の内容と骨格を持たせた総合的戦略に勝機を置いていたのか、あるいは結論を無視して、結論以前に策定した戦略に基づいて開戦したのか、いずれかだろうが、当たり前のことを言うと、間違っても、"意外裡な事"に勝機を置いていいはずはない。"意外裡な事"は他から偶然に与えられる経緯を取り、必ず与えられるという保証はなく、計算して自らの力で手に入れる行程を取ることはないからだ。

 ここで思い出すのが『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋/2007年4月特別号)の1941年(昭和16年)9月5日の内容である。陸海軍両総長が天皇に呼びつけられて参内した。

 昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 
 杉山元陸軍参謀総長「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
 
 昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」

 杉山元陸軍参謀総長「支那は奥地が広いものですから」

 昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」

 杉山元陸軍参謀総長は答え得ず、ただ頭を垂れたままであったという。自身も立ち会っていた総力戦研究所が行った日米戦想定机上演習の研究報告1941年8月27・28日からたった8日後の1941年9月5日のことではあったが、その報告を待つまでもなく、昭和天皇の質問内容から言って、対米戦争作戦立案と戦略構築が完成していることを前提としていることになり(この理由はあとで述べる)、その作戦と戦略に基づいて杉山元は対米戦争に於ける日本の勝利の方程式を一定程度正確に答えなければならなかった。だが、「南洋方面だけで」と地域を限定したことは他地域での戦闘を想定していることになり、南洋方面を3ヶ月程度で片付けたイコール日本の勝利と結びつけることは不可能となって、以後、戦争が続くようなら、その期間が長引けば長引く程に南洋方面の3ヶ月程度は
意味を小さくしていく。この程度の合理性に則った思考力しか見せることができないということは陸軍参謀総長としての能力と責任意識は心許なく、如何に立派な戦略を手にしたとしても、それぞれの戦闘に柔軟且つ発展的に応用できるかどうかが疑わしくなってくる。

 では、果たしてどのような対米戦争戦略に基づき、勝機をどこに置いて戦争を戦ったのか、エゴドキュメントを駆使して日本の戦争を検証したNHK放送の記事の中から探っていく。勢い、この趣旨に添う記事箇所を主に取り上げ、それ以外は伝える必要があると思った出来事のみを書き出すことになる。なお、NHK記事中の文章は次の括弧、「〈〉――」で表すことにし、必要に応じて文飾を施し、記事を意味を変えない範囲で纏めたりした。

 NHK記事に取り掛かる前に記事が取り上げている各戦闘を簡単に列挙してみる。

「真珠湾攻撃」   1941年(昭和16年)12月8日
「ビルマ侵攻」   1941年12月14日
「ラングーン攻略」1942年(昭和17年)3月8日~1941年12月14日
「ドーリットル空襲」1942年4月18日
「ミッドウェー海戦」1942年6月5日~ 6月7日
「ガダルカナル島の戦い」 1942年8月7日~1943年2月7日
「インパール作戦」 1944年(昭和19年)3月8日~7月3日作戦中止決定)
「対英ラングーン防衛イラワジ会戦」1944年12月~1945年3月28日
「イギリス軍によるラングーン陥落」1945年(昭和20年)5月2日

 ここで最初に取り上げるのはNHKスペシャルの最後の放送である2022年8月15日放送「ビルマ絶望の戦場」とするが、この番組は記事に起こしていなくて、〈NHKスペシャル「ビルマ絶望の戦場」取材班〉取扱いの《インパール作戦後の“地獄” 指導者たちの「道徳的勇気の欠如」》(NHKWEB特集/2022年8月31日 11時55分)の記事が放送番組と重なることから、この記事を利用して、その日本軍検証を眺め、自分なりの解釈を付け加えたいと思う。最初に取り上げる理由は日本軍上層部の無責任体制をイギリス軍司令官が短い言葉で的確に言い当てているからである。この無責任体制を通して日本軍の行動を見ることになる。

 インパール作戦中止から半年経過後の1945年の初頭、日本軍はミャンマー中部を流れるイラワジ河の南岸でラングーン奪還を目指すイギリス軍を迎え撃ち、インパール作戦を上回る死者を出すことになった敗戦を“さらなる地獄”として描き出した記事内容となっている。記事冒頭でいきなりイギリス軍司令官の日本軍に対する鋭い洞察力を紹介している。

 〈太平洋戦争で日本軍と戦ったイギリス軍のある司令官は、日本軍の上層部の体質を次の様に喝破していた。

 第14軍ウィリアム・スリム司令官 「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、“肉体的勇気”とは異なる“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」〉――

 大本営から始まる日本軍という組織の欠陥、その無責任体制を見事に言い当てている。「計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」と言っていることは、「失敗し、練り直しが必要な計画を練り直さないままにずるずると実行し続ける」という無責任性の指摘に他ならない。この無責任性は失敗を直視する感性の欠如――「道徳的勇気の欠如」によってもたらされる。

 また、道徳的勇気を欠如させた肉体的勇気は蛮勇でしかない。肉体的勇気が道徳的勇気を基盤としていなければ、戦争は単なる殺し合いの場と化し、陣地の取り合いではなくなる。殺し合いの場とした場合、あるいは殺し合いの場に過ぎなくなった場合、殺し合いに障害となる道徳的勇気は最初から排除される関係にあり、逆に陣地の取り合いでこそ、冷静な判断に基づいた沈着で的確な行動を生み出す肉体的勇気は道徳的勇気をこそ基盤としていなければならない。つまり「間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める」道徳的勇気こそが蛮勇とはならない肉体的勇気を導き出す。日本軍の肉体的勇気の多くが蛮勇であったのは合理的な精神に基づかない、大和魂を全ての解決策の万能薬とするような非合理で情緒的な精神論を重要な武器としていたからだろう。精神論は蛮勇を引き出す麻薬でしかない。

 〈インパール作戦が中止された1944年7月から、終戦までの1年間。その間の死者は、ビルマでの犠牲者全体の実に8割近くに上っていたのだ。ビルマ侵攻後の日本の将兵の死者は16万7000。インパール作戦のあと、さらに10万人以上もの命が失われていたのである。〉――

 計算式で出してみる。1941年12月14日ビルマ侵攻~終戦死者数=16万7000人×(インパール作戦1944年7月中止後~終戦死者数)8割=13万3600人。インパール作戦とそれ以降の攻防が如何に日本軍に不利に働き、多くの兵士を如何に無駄死にに向かわせたかが見て取れる。
 
 〈インパール作戦の後にいったい何があったのか。

 インパール作戦中止から半年がたった1945年の初頭。日本軍は、ミャンマー中部を流れるイラワジ河の南岸で、ラングーンの奪還を目指すイギリス軍を迎え撃った。〉――

 イラワジ河の日英衝突は1945年1月から1945年3月28日の約3ヶ月間。決着がついたのは1945年8月15日の敗戦約4ヶ月半前である。

 〈イギリス軍の500機に上る航空戦力の前に、日本は完全に制空権を失っていた。

 さらに、イギリスの陸上兵力は26万。

 それに対し、日本軍はわずか3万。その大半が、インパール作戦で疲弊しつくした兵士たちだった。

 補充兵としてビルマに送られたばかりだった重松一さん(当時22)は、日本軍の惨状を生々しく覚えている。

 歩兵第56連隊 元二等兵 重松一さん(99)証言「『大隊長どの、戦車が来とるとですよ。どうしますか』って聞いたら、『なら下がれ!』と言って。でも、その本人がどんどん逃げながら『下がれ』です。敵から見つけられんように逃げる一方です。日本軍が小銃で一発撃ったって、そんなものも何も役に立たない。日本の大和魂なんて、そんなものは、一切ありません」〉――

 国力の差を反映した物量の差。そして国力が保証する消耗兵器の生産回復力の差が(イギリス軍は米軍からの支援も得ていたであろう)人的・物的戦争資源の差となり、その差が当初からイラワジ河での日英衝突の戦局を大きく支配していた。当然、撤退でもなく、降伏でもなく、戦うと決めた以上、この差を縮めて、差自体を問題外とする戦略を、それがあればのことだが、立てなければならないことになる。

 〈この戦いを指揮したのは、ビルマ方面軍の田中新一参謀長。参謀本部第一部長の時、アメリカとの開戦を強硬に主張した人物だった。

 田中参謀長は、軍上層部の独断で敗北したインパール作戦の失敗の原因を「軟弱統帥にある」と分析し、強気の方針を掲げていた。

 田中新一『緬甸(ビルマ)方面軍参謀長回想録』「徒(いたずら)に消極防守に沈滞することなく、機会を捕らえて積極攻撃によって解決すべき努力が、是非必要であると思う」

 一部の将校からは、戦線をラングーン周辺にまで引いて、長期持久戦に持ち込むべきという声が上がっていた。しかし、田中参謀長は、イラワジ河のあるビルマ中部に防衛ラインを設定。イギリス軍を迎え撃つことを決めたのである。

 しかし、戦力の差を度外視した上層部の命令で、前線の士気は著しく低下していた。

 歩兵第58連隊元曹長佐藤哲雄さん(102)「日本人の兵隊同士で泥棒がはやったの。『お前もう死ぬんだから』というわけで、死にそうになっている人のものを取ってしまう。戦争というよりも自分の身を守るということが、第一にその当時はあった」〉――

 物量の差を一定程度無効にする戦略は夜間の遊撃戦(ゲリラ戦)が有効なはずで、日本軍は中国戦線で中国国民党の軍・国民革命軍の遊撃戦に散々手こずった経験があるはずである。にも関わらず、人的・物的兵力の差を無視して真正面からの「積極攻撃」を仕掛けた。子どもが相撲取りを相手にするようなもので小さな物量で大きな物量にまともにぶっつかっていった。

 〈もはや、日本軍に立ち向かえる戦力はなかった。イラワジ河での戦死者は6500にも上った。戦いは、“無謀”そのものであった。イギリスの国立公文書館に残されていたイギリス軍が日本軍の大本営参謀や現地軍の上層部ら30人に行った尋問調書。

 田中参謀長尋問調書「日本軍が、イラワジ河の防衛線を無期限に持ちこたえられるとは思っていなかった。だが、ラングーンを防衛し続けるための時間を稼ぐことはできると考えたのである」〉――

 イギリス陸上兵力26万に対して日本軍3万、イギリス軍航空戦力500機に対して「Wikipedia イラワジ会戦」によると出動可能機64機。この兵力差でラングーン防衛の時間稼ぎのためにイラワジ河防衛を徹底抗戦に持っていった。要するにイギリス軍によるイラワジ河防衛線突破もラングーン陥落も時間の問題だと予測していた。3ヶ月は持ちこたえたが、ラングーン陥落は1945年5月2日で、イラワジ敗戦からラングーン陥落まで1ヶ月程度しか持ちこたえることができなかったことになるから、合計で4ヶ月程度の時間稼ぎに過ぎなかった。

 勿論、時間稼ぎの可能期間は前以って予測困難だが、イギリス軍を撤退に追い込むことも降伏に追い込むことも不可能で、イラワジ河防衛線突破もラングーン陥落も時間の問題だと予測できた以上、時間稼ぎは物量と士気の差によって消耗戦への挑戦となる。歩兵銃やその弾丸、大砲やその砲弾の消耗等々、兵器・物資は再生産が可能とすることはできるが、味方兵士の命を無視して投入する消耗戦は命が再生産できないだけに時間稼ぎの道具とすることができたのは兵士の命に対しての責任感を持ち合わせていなかったからだろう。だが、上官の兵士の命に対するこの責任感の欠如が日本軍では通用していたことをおいおいと知ることになる。

 イラワジ河会戦の指揮を取ったビルマ方面軍参謀長田中新一が時間稼ぎによって作戦指揮の責任に応える戦略を取ったとする自負は独りよがりの思い上がりに過ぎない。もはや起死回生は不可能な状況にあることを見抜き、残された蛮勇でしかない肉体的勇気を発揮していたずらに死者の数を増やすのではなく、撤退、もしくは投降という道徳的勇気を発揮すべきだったが、できなかった。

 尤も撤退や投降は1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した、命を人質に取った最たる精神論の「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が邪魔をし、恥となることを恐れて選択肢とすることはできなかった可能性は指摘できる。戦陣訓が幅を利かしていたこと自体、日本軍の成り立ちは本質のところで精神主義に支配されていたことになる。この精神主義が合理性を持たせなければならない戦略にそれを持たせることができずに狭めることになっていた。不利な戦況下では早期の退避、早期の撤退、早期の投降・降伏等々、"計画の練り直し"を用いた臨機応変な対応で人的・物的戦争資源のより多くの温存を適宜図り、温存した戦力を以後の戦闘に利用可能な場合はその方向に持っていくといった柔軟な戦略は取り得なかった。柔軟な戦略の欠如は国力の差を国力の差のまま維持し続けることになるばかりか、ときには広げてしまう恐れも出てくる。

 イギリス軍が首都ラングーンに迫る中、現地軍の上層部は臨戦態勢にあらざる態度を取っていた。

 〈若井徳次少尉回想録「芸者を中心とした、高級将校の乱脈ぶりは、目を覆うものがあった。逆境の時の人間の犯す過ちは、何か日本人の欠陥を見る思いである」

 高級将校が通っていたのは、ラングーンにあった芸者料亭「萃香園」。もともと九州にあった料亭がラングーンに出店したものだった。

 今回、萃香園関係者の証言記録も見つかった。

 板前の回想「前線から菊部隊の兵隊さんが帰ってきました。みんなボロボロになった軍服を着ていました。ところが夜でも光々(こうこう)とあかりがついている萃香園の騒ぎぶりを見て、その中のお一人が『軍はええかげんなとこよ。作戦を練りながら女を抱いている』と、涙を流して怒られていました」

 当時、27歳だった若井少尉は、戦争のために大学が繰り上げ卒業となり、入隊していた。

 手記には、軍への失望がつづられていた。

 若井徳次少尉回想録「軍人の世界には、誠のみが支配すると信じていたが、正義以外のものがまかり通っていた。特に軍紀の頽廃(たいはい)にいたっては、欲望の醜悪さのみをさらけ出していた」〉――

 軍上層部のこのような行状も前線で命を賭して戦っている兵士の命に対する責任感の欠如を証拠立てることになる。イギリス軍が迫っていても慌てず騒がずの強がりを軍幹部として演じていたのか、迎え撃つどのような戦略も思い浮かばないままに女を交えたどんちゃん騒ぎに逃避していたのか、戦闘は現場任せの無責任さはまさにイギリス軍第14軍ウィリアム・スリム司令官 が言う「道徳的勇気の欠如」に裏打ちされた行動形態となる。その欠如は蛮勇さえ発揮できない「肉体的勇気の欠如」を伴走者とする。

 〈1945年3月27日、イギリス軍がラングーンに迫る中、日本と協力関係にあったビルマ国軍が対日蜂起する。反乱は瞬く間に全土に広がった。1か月後、ラングーンのビルマ方面軍司令部で異常事態が発生する。

 上層部数人が突如、陥落の危機が迫ったラングーンから飛行機でタイ国境付近に撤退。現地部隊や民間人は置き去りにされたのだ。司令部撤退の決定を下したのは、ビルマ方面軍の木村兵太郎司令官だった。東條英機首相が陸相を兼務していた内閣で陸軍次官を務めていた人物である。

 サイパン島の陥落で東條が失脚したのち、ビルマに派遣されていた。

 イギリス軍は、この突然の撤退についても、木村司令官から詳細に聞き取っていた。

 木村司令官「尋問調書」「寺内南方軍総司令官から電報があり、ラングーンを最後まで防衛することが急務であると言われたが、その指示には従えなかった。イギリス軍の驚異的な進軍を考えれば、ビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されないはずである。ラングーンを放棄するという私の決定は、立派に筋の通るものであると確信している」〉――

 方面軍司令部は複数の軍部隊と上下一体の関係にある。ラングーン放棄の理由はビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されなかったから。当然、司令部と軍部隊共々ビルマ方面軍全体がラングーン放棄の方向に進むのが順当な手続きとなるが、放棄したのは司令部要員のうちの幹部数人のみであった。残る司令部要員と部隊を置き去りにし、結果、この集団をラングーンで孤立させ、断絶状態に追いやった。例え無線機で指示系統は維持できたとしても、置き去りによる司令部からの孤立と断絶はそれが司令部の数人によるものであっても、司令部全体と軍部隊との物理的且つ心理的な一体性を破壊したことを意味し、軍部隊から見た司令部自体の存在意義を失わせたことになり、そういった信用喪失の経緯に木村司令官は気づかなかった。この鈍感さがビルマ方面軍を代表する自分たち司令部の幹部数人のみのラングーン放棄を「ビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されないはずである」という言葉に現れているとおりにビルマ方面軍全体のラングーン放棄と見立てるこじつけを可能とした。

 実態は「イギリス軍の驚異的な進軍」を受けて、方面軍司令部の幹部数人のみが命令・指示もなくイギリス軍の進軍のない場所へ移動したのだから、自分たちだけが生き残ることを考えた撤退そのものである。こういったことができるのは道徳的勇気の欠如がそもそもの素因を成していて、その欠如が行き着くことになる蛮勇さえも発揮できない肉体的勇気の欠如を誘ったと考える以外にない。これらの欠如には兵士の命に対する責任感の欠如も入れなければならない。日本軍上層部のこういった欠如が組み合わさって、兵士の犠牲をいとも簡単に生み出していった。

 〈一方で、撤退した上層部は、置き去りにした将兵や民間人に、ラングーンの防衛を命じていた。日本の商社・日綿実業のラングーン支店では、186人の社員が急きょ召集され、防衛隊として、首都の守備隊に加わっていた。小隊長を命じられた支店長の松岡啓一さんは、司令部に見捨てられ、多くの部下を失った無念を書き残している。

 松岡支店長回想録「軍司令官は『ラングーンを死守すべし』と命令を下したまま、ラングーンに残された吾々(われわれ)は、司令部の撤退を数日後に知り、唖然(あぜん)としたのでした。吾が部隊の行く手には、いつも敵が待ち伏せして邀撃(ようげき)し、世にいう“白骨街道 死の行進”が続きました。日綿支店員も百八十六名のうち、五十二名が戦死の憂き目を見て仕舞ったのです」

 ラングーンに海と陸から侵攻したイギリス軍は、木村司令官らの撤退から11日後、首都奪還に成功した。戦場で日記をつづっていた若井徳次少尉は、ラングーンを再び奪還するよう命じられていた。

 若井元少尉回想録「司令部は、己達のみ逃げ去っておきながら、僅かな在蘭将兵と共に此の無防備な蘭貢(ラングーン)を、『固守すべし』との一片の冷厳な命令を残して去っている。こんな矛盾した考えがどこにあろうか」〉――

 自分たちだけが撤退する卑怯な振舞いをそうと思わせないために指揮命令系統に於ける指揮の主体が誰であるかを知らしめ、自己存在を誇示するシグナルが「ラングーンを死守すべし」の命令だったのかもしれない。己たちの命が惜しくなっただけの道徳的勇気の欠如と響き合わせた肉体的勇気の欠如を本能的に隠すためには毅然とした見せかけの態度が必要となる。

 〈1945年7月。終戦まで、残り1か月。ビルマ国軍は完全にイギリス軍の指揮下に入っていた。

 司令部の突然の撤退で取り残された第28軍を中心とする3万4000の将兵と、ラングーンから逃れてきた多くの民間人は、密林でイギリス軍とビルマ国軍に包囲されていた。〉――

 〈若井元少尉回想録「時々遠く近くで爆発音が起こる。それは手榴弾による、自決者の増加を意味している。衰弱し切った病兵に、無情にも豪雨が追い打ちを掛ける。この生き地獄の転進は一体いつまでどこまで続けねばならぬのであろう」〉――

 〈将兵や民間人は、終戦を知らないまま、9月になっても撤退を続けた。死者は最終的に1万9000に達した。この惨劇について、ラングーンから撤退していた木村司令官は、イギリス軍の尋問に対して、こう語っている。

 木村司令官尋問調書「シッタン河における第28軍の敵中突破作戦は、どの地点で試みても、重大な困難に遭遇し、それに耐えることは難しいと考えていた。私は第28軍がほとんど全滅するだろうと思っていた」〉――

 撤退日本軍兵士に対してイギリス軍が追討作戦に出ている。イギリス軍の物量が遥かに優るということなら、全滅を避け、兵士の命を守るためるための残された唯一の方法は投降以外にない。木村司令官が「全滅するだろうと思っていた」だけで済ましているのは兵士の命を守るための投降という選択肢を全然頭に置かず、兵士という戦争に於ける人的資源の喪失に無頓着だったことの現れでしかない。「戦陣訓」によって植え付けられた捕虜は恥という固定観念が原因だとしても、兵士の命を無駄死にさせていた事実は変えようがない。無駄死にによる戦力低下はやれ学徒動員だ、徴兵年齢の引き下げだと人員補充によって片付けることができたとしても、訓練期間や士気の点で戦争の準備・計画・運用の方法としての戦略そのものを狭めることになる代償を支払わなければならなかったことも事実として横たわる。にも関わらず、戦争期間を通じて兵士の命を軽視し続けた。

 記事はここで前出のイギリス軍第14軍ウィリアム・スリム司令官の言葉を再び伝えている。

 〈第14軍ウィリアム・スリム司令官 「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非情で大胆である。しかし、その計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間取って、元の計画にいつまでもしがみつくのが常であった。確かに戦争では、決意のみで達成できることもあり、決意を伴わない柔軟さでは成果を上げられない。しかし、最終的な成功をもたらすのは、この2つを併せ持つときにほかならないのだ。指揮官としての最も厳しい試練は、この決意と柔軟さのバランスを保つことである。日本軍は決断力によって高い得点を得たが、柔軟性を欠いたために大きな代償を払うことになった」(「Defeat into Victory」より)

 「決意」と見えたものは精神主義に基づいた蛮勇が主体の行動力に過ぎないだろう。当然、「決意と柔軟さのバランス」など望むべくもなかった。このバランスを保持し得ていたなら、退避、退却、撤退、投降、降伏等々、より柔軟な戦略を駆使し得ていただろうし、兵士の命をこれ程までに無駄死にに向かわせることもなかった。もし真の柔軟さを体質とし得ていたなら、精神論を振り回すことも、精神論に頼ることもなかった。蛮勇を引き出す麻薬とする以外に役に立たない精神論は、当然、柔軟さ発揮の障害として立ちはだかることになっていた。 

 記事最後の言葉

 〈77年前、終戦間際という最大の逆境の中で表出していた日本軍の体質。
 これは、いま、さまざまな危機の中に生きる私たちにとって、決してひと事ではない。
 目をそらさずに向き合わなければならない歴史である。〉――

 次は8月9日放送(2021年12月4日放送の再放送)「NHKスペシャル選 新・ドキュメント太平洋戦争1941開戦(前編)」から日本軍の無責任体質を見てみる。

 前置きの言葉、〈もし80年前、太平洋戦争の時代にもSNSがあったなら、人々は何をつぶやいたのだろうか?今、研究者たちが注目するのが、戦時中に個人が記した言葉の数々「エゴドキュメント」だ。膨大な言葉をAIで解析。激動の時代を生きた日本人の意識の変化を捉えようとしている。〉 

 「エゴドキュメント」に注目する理由は表現の自由が制約された時代性から考えて"ホンネ"が散りばめられている可能性を見ての姿勢としている。

 (日中戦争から太平洋戦争までの15年間の戦争での死亡は)〈日本人だけで310万もの命が失われた。〉との記述があるが、パソコン内を調べたところ、〈日本人の軍人軍属などの戦死230万人。民間人の国外での死亡30万人。国内での空襲等による死者50万人以上。合計310万人以上(1963年の厚生省発表)〉のメモを見つけることができた。軍人軍属の死に様の多くは既に触れたように上官の兵士の命に責任を持たない戦闘方法によって無駄死にを強いられていたことと敗戦を重ね合わせると、その殆どが無駄死にそのままで占められていることは容易に想像がつく。勿論、敗戦に関連付けられたこのような膨大な死者数の積み重ねは対米戦争計画自体の不備、あるいは欠陥、計画に則って構築することになる総合的な戦略の不備、あるいは欠陥、さらには個々の戦いが戦争計画そのものに有意性を与えることが可能となる戦略を欠如させていたことを物語ることになる。

 開戦の前年は都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行していたという。いわば一般的には生活に暗い影を差していることはなかったが、1940年の後半から、「代用品、配給、外米」等々の不自由さを示す単語がエゴドキュメントに現れ始めたと記している。原因は3年に及んでいた日中戦争の影響で、1939年4月米穀配給統制法公布。1940年米穀管理規則実施、政府の管理・統制によって米穀の供出・配給制度が開始されることになったからである。

 子供が生まれて半年が経った東京の一主婦の日記に見るエゴドキュメント。このエゴドキュメントは開戦前年の2月に一人娘が出産したことで書き始めた育児日記に基づいているが、ここに記されているエゴドキュメントから世の中の状況の変化に応じた思いの変化を追っている。

 〈金原まさ子育児日記(1940年)「八月十一日。外米になってから子供の腹こわしが増えた。今月からは麦が入る。7割外米の麦入りときては大変なり。大人は我慢するが子供はかわいそうだ」〉――

 市井の人々の思いとは別に戦争を遂行する上で欠かすことのできない重要な戦争資源でもある食糧の不足を日米開戦前から既に来していた。

 1940年9月27日、日独伊三国同盟締結。記事は、〈ドイツと結んだ日本にアメリカの世論が反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に上った。飛行機の燃料やくず鉄などの重要資源の輸出禁止が矢継ぎ早に決まった。〉――と解説している。正式名「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」(コトバンク)の三国同盟は「第二条」で、「独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス」、「第三条」で、「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スヘキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国カ現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキコトヲ約ス」と、アジアでの日本の支配と「現ニ欧洲戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国」、即ち米国に日本が攻撃を受けた際のドイツとイタリア2国の軍事介入を義務としているのだから、名指ししていないものの、アメリカを仮想敵国に位置づけている関係からアメリカの世論が反発。

 記事は触れていないが、実際は1940年9月の日本軍の北部仏印進駐に対して米政府は屑鉄の対日輸出を全面禁止、続いて1941年7月の南部仏印進駐によって1941年7月25日に在米日本資産凍結と同年8月1日に対日石油輸出の全面禁止に出た。日本がフランスに対してこの進駐を容易に成し得たのは1940年5月のドイツ進撃によってフランスが降伏、ヴィシー傀儡政権成立という状況の利を受けたゆえの展開だったが、真珠湾攻撃前に日本軍は南進の一歩を踏み出していた。そしてアメリカの対日屑鉄と石油の禁輸が「資源獲得」の名のもと、日本の南進を日本の思惑以上に誘発することになった。

 1940年(昭和15年)11月15日に海軍大将に任ぜんられた山本五十六の三国同盟締結時の発言を紹介している。
 
 〈「三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様、極力ご努力願いたい」〉――

 だが、真珠湾攻撃の際の連合艦隊司令官を務めることになった。

 〈1941年、太平洋戦争開戦の年が明けると、日本はアメリカの経済制裁の影響であえぎ始める。国は不足した鉄などの資源を補うため、市民から供出させた。街中から金属が消え、経済全体が冷え込み始めていた。

 作家・永井荷風は、散歩の途中で見た光景を日記につづっている。

 「道すがら虎ノ門より櫻田(さくらだ)へかけて立ちつらなる官庁の門を見ると、今まで鉄製だったのをことごとく木製に取り換えていた。これは米国より鉄の輸出を断られたためである」

 市民の日記から、「品切れ」「枯渇」など物資不足に関する単語を抽出。1941年1月以降、増加傾向が顕著になっていく。同じ時期、戦争への関心も高まっていた。戦争に関する単語数も増加に転じていた。

 生活の不満の高まりを背景に、アメリカに対する過激な論調が目立つようになっていた。当時のオピニオンリーダー、徳富蘇峰は、1月、ラジオでこう呼びかけた。

 評論家・ジャーナリスト徳富蘇峰「米国は日本が積極的に進んでいけば、むろん衝突する。しかしボンヤリしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて、断然たる処置をとるがよい」

 さらに、当時のベストセラー作家(北村賢志のこと)が刊行した本。『日米戦わば』。

 「米国なお反省せず。我が国の存立と理想を脅かさんとすることあらば、断然これと戦うべし。日本は、難攻不落だ」

 今でいうインフルエンサー的存在。戦争をあおるような言葉が、人々を捉え始めていた。

 この頃、雑誌が「日米戦は避けられるか」というアンケートをおこなった。4割もの人々が「避けられない」と回答した。

 「米英の妨害を 断然排除して進まねばなるまい」

 静岡・伊東市で書店を営む竹下浦吉さんは不穏な未来を予測していた。

 「日本がドイツと同盟して東亜に新秩序を確立せんとする以上、どうしても米英との衝突は免れぬと思う」

 子育て中の主婦・金原さんも、危機感を抱くようになっていた。

 「日米間の情勢についてだいぶ悲観的な話を聞くようになり、ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起こったら東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子を、お医者もいない田舎に連れて行って、もしものことがあったらと思うと暗然とする。しかし、何という時代に生まれ合わせたものか!強い母にならねばならない」

 開戦の8か月前。国の指導者たちは、アメリカとの決定的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景には、陸軍が極秘でおこなったアメリカとの戦力比較のシミュレーションがあった。その報告に立ち会った将校の「エゴドキュメント」が残されていた。そこには指導者たちの「本音」が吐露されている。

 「三月十八日、物的国力判断を聞く」

 陸軍の中枢で政策決定に関わった石井秋穂中佐。この日、参謀本部で明かされたシミュレーションの結果は、陸軍の首脳に衝撃を与えた。

 「誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむをえざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる」

 資源豊富なアメリカとの戦争が2年以上に及んだ場合、日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸軍大臣・東條らは、日米戦争は回避すべきと判断した。〉――

 石井秋穂中佐の「三月十八日、物的国力判断を聞く」の発言からは、首相直轄の総力戦研究所日米戦争想定の机上演習報告が1941年8月27・28日の両日で、これより以前に陸軍がアメリカとの戦力比較のシミュレーションを行っていたという事実を窺うことができる。ネットで調べたところ、次の一文に出会うことができた。「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(牧野邦昭/摂南大学)に、〈1940年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に1941年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は1941年1月18日に「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた。〉――

 日付は一致していないが、このことを指すのだろう。要するに1941年8月末の総力戦研究所が検証・提示した対米戦争「不可能」の結論を待つまでもなく、陸軍は前者の不可能性程ではないが、2年以内の短期戦という条件づきで「対南方武力行使」に関してのみ、「概ね」という形容詞を冠して大体に於いて武力行使可能性を提示しているが、南方以外の他地域を加えた場合の長期戦は(この想定は対南方武力行使のみで対米戦争は終わりを告げないことの示唆となるが)、「大なる危険を伴う」と対米戦争の困難性を1941年初頭の段階で既に突きつけつけられていた。当然、陸軍も海軍もこの「物的国力判断」に従い、1941年初頭以降、アメリカの国力と比較した日本の国力の程度に基づいた戦争の許容年数を2年以内と区切られた短期決戦で済ます方法を取るか、大東亜共栄圏建設の自存自衛達成にはそれなりの時間の必要性を視野に入れて、「大なる危険を伴う」長期決戦を覚悟する方法を取るか、選択しなければならないが、必要に応じてどちらかを選択できるように両方それぞれの戦略の構築に取り掛かっていたことになる。

 となると、1941年(昭和16年)9月5日の時点で昭和天皇から「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」と聞かれた陸軍参謀総長の杉山元は「物的国力判断」の報告を受けてから9ヶ月を経過しているのだから、短期決戦を取る場合と長期決戦を取る場合とに分けて対米戦争に於ける日本の勝利の方程式を一定程度の具体性を持たせて説明する合理性を持ち合わせていなければならなかった。にも関わらず、「南洋方面だけで」と地域を限定すれば済むわけではないことを限定して、「3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」と対米戦争がさも簡単に片付くようなことを匂わせた感覚の持ち主を陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て歴任させ、元帥の称号を与えていたのだから、日本軍という組織の程度が想像はつく。

 「物的国力判断」の対米戦争の困難性の提示にも関わらず、日本軍は虫のいいことを考えていた。

 〈日本の物的国力では対英米長期戦を遂行できないことは秋丸機関などの研究により十分認識されており、英米を刺激しない形での南方進出が意図されていた。秋丸機関の研究は1941年前半時点では当局者に日本の国力の限界を認識させ、武力行使を抑制させる働きを持っていた。

 しかし日本側が戦争に至らない範囲での南進策と考えていた1941年7月の南部仏印進駐は対日石油輸出停止というアメリカの強力な経済制裁を引き起こした。これにより対米開戦の機運が高まり、陸軍省戦備課は東條英機陸軍大臣から11月1日開戦を前提として再度物的国力判断を求められた。この結果も「決然開戦を断行するとしても二年以上先の産業経済情勢に対しては確信なき判決を得るのみであった」と岡田は回想している。〉(同「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」から)

 2年以上の長期戦には日本の国力(=軍事力)は耐えられないという結論を克服する方法としての「英米を刺激しない形での南方進出」という虫の良さは屑鉄と石油の禁輸によって第一歩でつまづいた。当時の日本は製鋼原料として銑鉄のほかに配合比50パーセント以上の屑鉄を用いる屑鉄製鋼法が主流で、鉄源の約半分は屑鉄利用となっていて、鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして銑鉄とし、鋳物、あるいは製鋼原料とする製鉄法は小規模だったことから、兵器製造に欠かすことができない米国の屑鉄の輸出停止は勿論、戦闘機や戦車、艦船の燃料となる石油の禁輸を南部・北部仏印進駐の代償としたことは対米戦シュミレーションのいずれかの時点での予測項目としていただろうが、資源小国としては戦争の不可能性、あるいは困難性を一段と露わな形で突きつけられたことになる。だが、このような状況に反して陸軍内で「対米開戦の機運が高ま」った状況は日米戦争という事態を招くことになったとしても、2年かそこらの短期決戦でアメリカを降伏させる何らかの戦略を持ち得たということでなければならない。断るまでもなく、単なる対米反発からの感情的な対抗心ではあってはならないからだ。

 陸軍の対米戦シミュレーション「物的国力判断」の陸軍内部での最初の報告は1941年1月18日。徳富蘇峰が早期対米開戦論を唱えた日付は「1941年1月」とだけしか出ていないが、どちらが先であっても、報告が悲観的内容であることは国民には知らされていないのだろうから、徳富蘇峰の対米開戦積極論も、当時のベストセラー作家北村賢志がアメリカと戦争しても勝てる、「日本は、難攻不落だ」と強気の自信を示し得たのも無理はない反応ということになる。ましてや一般市民が「生活の不満の高まりを背景にアメリカに対する過激な論調が目立つようにな」って、鼻息だけで対米開戦を唱えたとしても、ある意味当然であろう。勿論、軍部・政府がこのような世論に押されて、開戦を当然視する動機づけの一つとしたということもありうる。

 上記NHK記事は南部仏印進駐を次のように描いている。

 〈「自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備えて、あらためて南部仏印に軍事基地を作るという要求が生まれつつあった」

 独ソ戦により、日本にとって背後のソビエトの脅威がなくなった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手に入れようと、東南アジアの資源地帯を押さえようとしたのだ。アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に反応するとは想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石井(秋穂中佐)はこう振り返っている。

 「大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を包(かか)えておった」〉――

 先の記事が取り挙げていた、英米を刺激しない形での南方進出の意図という虫のよさが石井秋穂中佐の発言の中に色濃く現れている。要するにこのような虫の良さに全面的に頼った南北仏印進駐だったことを露呈することになる。このことは日本軍がケースバイケースを想定、想定に応じた危機管理としてのそれぞれの戦略を立てていなかったことをも暴露することになる。事態を想定した上での次なる行動と想定しなかった上での次なる行動とでは長期的展望と心の準備に自ずと違いが出てくるだけではなく、対米戦争に備えた厳密な意味での戦略らしい戦略を構築していなかったのではないのかとの疑いが出てくる。

 軍人のエゴドキュメントを紹介している。

 〈海軍のリーダー永野修身「ぢり貧になるから、この際決心せよ。今後はますます兵力の差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である」

 海軍次官澤本頼雄「資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ちこたえることができるか疑わしい。日米の外交交渉の方向に向かうことこそ国家を救う道である」〉――

 前者はその時点での日米の国力の差を背景とした戦力の差を以ってしても早期の対米戦争が日本側に有利に働くと考えていた。当然、そのような条件下で日本を戦争勝利に持っていく戦略が頭にあったことになる。頭になくして早期の戦争を訴えることは無責任となる。海軍大臣や海軍軍令部総長などのを務めた海軍のリーダーなのだから、妥当性は別にして、当然、それなりの戦略は頭にあったことになる。

 一方で対米外交交渉も壁にぶち当たっていた。

 〈10月。開戦の2か月前。日米は対立を深めながらも、ぎりぎりの外交努力を続けていた。アメリカが日米交渉の条件として求めたのは「中国からの日本軍即時撤兵」。しかし、その要求は陸軍にとって受け入れがたいものだった。

 日中戦争での戦死者18万人以上。東條たち陸軍首脳は、撤兵はその犠牲を無にするものとして受け止めていた。では、アメリカとの戦争を選ぶのか。東條は悲壮な面持ちで漏らしたという。

 「支那事変(日中戦争)にて数万の命を失い、みすみす撤退するのはなんとも忍びがたい。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えねばならないが、決めかねている」

 6日後、東條英樹は決断を近衛首相に伝えた。

 「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」〉――

 要するに東條英機は中国大陸からの完全撤退は膨大な死者まで出して築き上げてきた今までの「成果を壊滅する」ゆえに認めがたいと主張した。一方で軍事力を加えた日米国力の比較から戦争の不可能性、あるいは困難性を何度か突きつけられていたことから、日米開戦したら、「日中戦争での戦死者18万人以上」に加えて、「数万の人員を失う」と計算していた。但しこの計算は開戦を決意する場合は、そして実際に開戦を決意した以上、「数万の人員を失う」ことになるが、何らかの戦略を背景に勝利し、人員喪失に何層倍もする国益を手に入れ、その国益を以って国力発展に利するという方程式を完成させなければならないし、完成させていなければならない。方程式の完成を頭に置かずにこのような発言をしたとしたら、東條英樹は陸軍大臣として無責任極まりない軍人となる。

 こういった勝利の方程式に基づいてのことなのだろう、東條英樹総理大臣のもと、1941年12月8日、真珠湾奇襲攻撃によって対米戦争の火蓋は切って落とされた。石井秋穂中佐の言葉「真にやむをえざる場合」であったとしても、戦略的に計算し尽くされていなければならない。

 市民2人のエゴドキュメントを伝えている。

 〈息子二人を徴兵され、重労働にあえいでいた米農家の野原武雄さん。

 「大戦果を得たり。まったく我が海軍の強さに驚くほかない。大東亜戦の開戦ここに始まる」

 わずかだが、暗い予感を日記に記した人もいた。長野県の教師・森下二郎さん。

 「国民は大よろこびでうかれている。しかしこれくらいの事で米・英もまいってしまうこともないから、この戦争状態はいつまで続くかわからない。あてのつかない戦争である」〉――

 宣戦布告もなく、用意万端の上、不意打ちで襲いかかった真珠湾奇襲の戦果である。ハワイを要衝の地として占領し、日本の基地としたわけでもなく、そのまま引き上げた。資源大国アメリカの国力を以ってする軍事面の回復力を計算に入れる戦略は描いていた開戦であったはずである。1940年の兵士供給源ともなる日本の人口約7200万人。対してアメリカの人口は約2倍近い1億3000人。《太平洋戦争における航空運用の実相》(防衛研究所)によると、1940年採用の零戦以降、終戦までの5年間に海軍が生産した単座戦闘機は約12300機、1941年採用の一式戦闘機以降、終戦までに陸軍が生産した単座戦闘機は約13700機。合計約2万6000機。

 対してアメリカは、《アメリカにおける航空機工業の発達(その2)宇野博二》によると、アメリカ軍の航空機生産高は、

1940年 6,019機
1941年19,433機
1942年47,836機
1943年85,898機
1944年96,318機
1945年47,714機  

 合計約30万3000機。日本の約12倍弱。1944年の96318機に対して1945年47714機と大幅に生産機数を下げたのは戦争勝利によって、生産を急ぐ必要がなくなったからなのだろう。勿論。ヨーロッパ戦線にも向ける必要性を含めた生産高だが、それだけの能力と資源を抱えていた。このような諸々の事情によって日本陸軍の日米の「物的国力判断」での対米戦争困難性や総力戦研究所の日米戦想定机上演習での対米戦争不可能性を答とするに至ったのである以上、これらの不可能性・困難性はアメリカの軍事面の回復力まで予想していたから(総力戦研究所の日米戦想定机上演習では兵器増産の見通しの日米比較を行っている)、これらの克服を可能とする戦略に立って本格的に南方進出を謀ったであろうことを前提に次は以下のNHK記事を見てみることにする。

 《2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(2)》に続く

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