外国人観光客誘致策と難民政策の矛盾

2007-02-27 10:39:09 | Weblog

 安倍首相と伊吹文科相の美しくない人権感覚

 昨日2月26日(07年)の朝日新聞夕刊に『国交省、観光客1000万人計画』と題する記事が載っていた。副題は『外国人増へ道しるべ策』。「東京都中央区の日本橋地区。携帯ゲーム機『ニンテンドーDS』の画面に表れる地図上の場面を押すと、英語と日本語の音声や文字で日本銀行貨幣博物館や日本橋の記念碑などの名所・旧跡や店舗、伝統工芸などが紹介される。
 国交省が今年度、全国25カ所で実証実験を行っている『まちめぐりナビプロジェクト』の一つ。携帯端末を使って観光客や来日外国人により多くの情報を提供しようという試みで、地元のNPO法人『東京中央ネット』の提案が採択され、約1千万円の支援を受けた。(後略)」という内容である。

 観光収支が経常的に出超であるだけではなく、先進国の中で特に訪れる外国人観光客が少ないことからの試みであろうが、記事に「国交省は2010年に、来日外国人旅行者を年間1千万人に増やす『ビジットジャパンキャンペーン』の取り組む。昨年は推計730万人と初めて700万人を上回ったが、同省幹部は『上積みするには、旅行者のリピーターを増やし、一人歩きできる環境の整備が必要だ』と話す。」
 
 『平成18(2006)年版 観光白書』によると、平成16(2004)年外国人旅行者受入数の国際ランキング」では日本が「世界で第30位」の注釈付きで約610万人に対して、フランスは日本の10倍以上の世界第1位の約7500万、アメリカ約4600万人、イギリス約2700万人、カナダ約1900万人となっている。日本は「昨年は推計730万人」になっているとは言え、『世界における国際観光の状況』と題した記事には「世界観光機関(UNWTO)によると、平成16年において各国が受け入れた外国人旅行者の総数は7億6,328万人(前年比10.7%増)、各国の旅行収入の総計は6,227億ドル(前年比18.8%増)といずれも大幅増となり、過去最高を記録した。」とあるから、他の国も増加していることから推計して比率はそうたいして変わらないのではないだろうか。

 『訪日外国人旅行者の国籍(平成17年)』によると、韓国からの1747171人、構成比26.0%、次いで台湾の1274612人、構成比18.9%、アメリカの822033人、構成比12.2%、中国の652820人、構成比9.7%、香港の298810人の構成比4.4%。すべて前年比を100%超となっているが、イギリス、フランス、イタリアは前年比で100%を超えているものの構成比は3.3%、1.6%、イタリアに至っては0.7%に過ぎない。

 アジアの経済発展国に依存した外国人観光客の姿が浮かび上がってくるが、特に今回の日本の景気回復の主要因が中国特需の恩恵を受けた回復であって、韓国、台湾にしても同じ状況にあったろうから、「昨年は推計730万人」は中国特需に依存した動向と言える。中国様々である。

 それでも「世界で第30位」という赤字観光収支に経済大国のメンツにかけて、モノづくりの技術だけではないぞというところを見せるべく様々な外国人観光客の誘致にチエを絞っているのだろうが、日本にその資格はあるのだろうか。

 外国人難民や就労外国人を快く受け入れようとしないで、外国人観光客は積極的に誘致しようというのでは整合性を欠き、虫が良すぎはしないか。永住者はお断り、一時滞在者は歓迎ということなのだから、その相矛盾する態度から言って、〝お断り〟こそがホンネ部分で、〝歓迎〟は見せかけの親近表現に過ぎない。難民を含めた外国人永住者を積極的に受け入れることによって、外国人観光客歓迎は初めてその合理性を獲得することができる。

 永住者お断りは日本の難民認定数が明瞭に証明している。2005(平成17)年の難民申請者数384人に対して、認定者は46人の約12%に過ぎない。何となく恩着せがましいく、潔い認可とは思えない「人道配慮による在留」の97人を含めても143人で、38%に過ぎない。大体が世界有数の経済大国でありながら、申請数がたったの384人というのは、評判が悪くて止むを得ない用事がるとき以外は寄りつく人間のいない金持の家といったところだろう。経済大国という金持であるにも関わらず、難民という寄る辺なき人間たちに評判がよくないという逆説は如何ともし難い。

 日本に於けるこの矛盾構造を自覚する神経も持たず、一時滞在者の誘致には努力を惜しまない「観光客1000万人計画」を堂々と打ち出すのだから、虫がよ過ぎるを通り越して、面の皮が厚いと言われても仕方がないのではないか。

 永住者はお断り、一時滞在者は歓迎なる矛盾病理は伊吹文科相も巣食わせている。2月26日(07年)の朝日朝刊に「日本は同質的な国」と発言した文科相の記事が載っている。

 「伊吹文部科学省は25日、長崎県長与市で開かれた自民党長与支部大会で、『大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国』と発言した。」と出ている。「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」と述べたとも記事は書いている。

 これは「大和民族」・「日本人」に限定した極めて肯定的な価値づけを行った言葉で、そのような価値観の上に立って「同質的な国」としたのは同質性への希求が言わせた言葉であろう。同質性への希求は「大和民族」以外の民族、「日本人」以外の外国人を異質とし、そのような異質性への排除を背中合わせに持つことによって可能となる欲求である。日本は「同質的な国」ではあったが、今後は外国人を積極的に受け入れなければならないという文脈で述べたわけではない。このような意識が難民認定数に象徴される外国人排除に体現化されている。

 上記記事は伊吹文科相が改正教育基本法の「前文に『公共の精神を尊び』という文言が加わったことについては、『日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため』と説明。人権をバターに例えて『栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は「人権メタボリック症候群」になる』と述べた。」と出ているが、外国人排除に見るとおりに最初から栄養不良の貧相な日本の人権感覚・人権欠如社会なのである、とてもとても「メタボリック症候群」に罹るどころの話ではないだろう。先ずはまともな人権が摂取できる「栄養がある大切な食べ物」を口にしなければならない。

 果して日本の「統治」に関して伊吹文科相が言っていることは「歴史的に間違いない事実」なのだろうか。古代氏族の物部氏も蘇我氏も朝鮮半島系の人間だとする歴史考証もある。それが歴史的に事実だとすると、「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」は疑わしくなる。『日本史広辞典』(山川出版社)によると、蘇我稲目は自分の娘を欽明天皇の妃とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生ませ、稲目の子馬子は用明天皇没後、欽明天皇の子の穴穂部皇子を攻め滅ぼし、崇峻天皇を殺して推古天皇を擁立し、聖徳太子を皇太子とする天皇家の人事をほしいままにし、馬子の子の入鹿は自らの住まいを上の宮門(みかど)、もう一人の子である蝦夷は自宅を谷の宮門と称して、天皇以上の権勢を張っている。

 例え伊吹文科相の言っていることが「歴史的に間違いない事実」だとしても、一筋縄ではいかない日本の国の「統治」なのである。

 また「統治」の制度にしても、文書での命令・伝達、あるいは文書に記録する文字にしても、中国の統治制度(律令制)及び中国の漢字の模倣から入っているのであって、日本独自の制度・文字・思想から出発しているわけではない。元々日本人は文字を持たない民族であったのは周知の歴史的事実となっている。中国の孔子とその弟子の言行録の論語は「日本へは応神天皇の時代に伝来したといわれ、早くから学問の中心とされた」(『大辞林』三省堂)という経緯にしても、日本人の行動を律しただろうから、単純には「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」とは言えないだろう。中国という外国の制度・文化・思想を借りることで、日本の「統治」は成り立っていたのである。当然日本の歴史も伝統も文化も同じ形式を取って成り立ってきた。

 「大和民族」のみ・「日本人」のみの「同質性」を希求し、日本人が日本を「ずっと治めて」いくことを望む異質性の排除は単に外国人観光客誘致に関わる整合性の欠如の問題にととまらず、安倍内閣が掲げ、自らも内閣の一員として協同しなければならない民主主義や自由・人権といった同じ価値観を共有する国々との協力という外交上の謳い文句をも裏切る論理矛盾を犯す行為であろう。

 安倍首相にしても「同じ価値観の共有」を自分の都合だけで言っていることだから、伊吹文科相の発言を「問題ない」とすることができる。「そんなに相手を皆殺しにすることもなく、まあまあ仲良くやってきたということなんじゃないか」(asahi.com/2007年02月26日17時34分)と弁護したということだが、殺さないことだけが人権事項ではない。

 歴史としてきた権力の農民搾取、江戸幕府と明治維新政府の明治6年まで続いたキリシタン弾圧、戦争中の共産党弾圧、強制連行・従軍慰安婦問題等は「まあまあ仲良くやってきた」というお目出度い認識に反する日本の歴史風景・人権風景であろう。

 「『人権メタボリック症候群』との発言についても『全体を読んでみれば問題ない。権利には義務がつきもの。義務には規律が大切とおっしゃっている』と述べた。」(同記事)ということだが、権利・義務の関係式のみで「人権」を把えて、それだけで済ますことのできる美しくもない認識性は如何ともし難い。

 伊吹文科相は小学校5年生以上の英語必修化問題を、「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメだ」と否定的な考えを示したが、伊吹自身が「美しい日本語」をどれ程に書いたとしても話したとしても、美しい人権感覚をバックボーンとしていない「美しい日本語」は表面を美しく装う欺瞞と化す。

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安倍首相/「赤ちゃんポスト」と「再チャレンジ」の関係

2007-02-25 07:32:59 | Weblog

 熊本市の慈恵病院が設置を進めている「赤ちゃんポスト」制度のその名前に美しくない国首相安倍晋三は畏れかしこくも「大変抵抗を感じる」とのたまっていらっしゃる。「ポストという名前に大変抵抗を感じる。匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのか。大変抵抗を感じる」(2007/02/23 19:43/四国新聞・インターネット記事)

 「赤ちゃんポスト」とは子どもを産んだものの、育てたくない・育てることができない新生児を病院が預かって代わりに育児するシステムとのこと。報道によると、厚労相は認可の方向で動いている。

 美しい国日本に執着しながら、横文字が大好きな逆説性国家主義者・美しくない国首相なのだから、「赤ちゃんポスト」の名前に抵抗を感じるということなら、そのまんま直訳で〝ベイビー・ポスト〟としたら「抵抗を感じ」なくなるのではないか。

 それとも「格差」の存在に目潰しの煙幕を張る支持率低下防止政策の安倍「再チャレンジ」福祉精神からしたら、捨てられた子どもを息を引き取るまで見守るぐらいの演出は必要で、〝揺りかごから墓場までポスト〟としたら、安倍宣伝になるのではないか。お得意の横文字で言うなら、ちょっと長くなるが、〝フロム・クレードル・トウ・グレイブ・ポスト〟。少なくとも「赤ちゃんダストボックス」よりもましだろう。
 「首相は『子どもを産むからには、親として責任を持って産むことが大切ではないか』と指摘。その上で『基本的には既にそういうお子さんたちに対応するための施設などもある』と述べ、既存の施策で対応が可能との認識を示した。」(同四国新聞)と必ずしも歓迎していない姿勢らしいが、同記事は「ただ行政が対応できずに、虐待や遺棄、死に至るケースが起きているのが現実だ。」と解説している。その兼ね合いといったところだろう。

 但し責任という点から言うなら、それぞれの役目を果たさない無責任は親も政治家も官僚も同列・同罪に位置しているのではないか。美しい国日本の政治家と官僚は国・地方合わせた1000兆の借金をこしらえて、厚顔無恥の面の皮も厚く平然としている無責任さである。譬えて言うなら、無責任にも借金ポストに国のカネを1000兆円も遺棄したということだろう。

 尻に火がついて慌てて財政再建、財政再建だと大騒ぎしているが、政治的に力のない中・低所得者から税の形で有無を言わせずに剥ぎ取るアコギ政治で格差をさらに拡大し、なおのこと「再チャレンジ」で救うとゴマカシ政治を展開しなければならなくなっている。

 新生児を「赤ちゃんポスト」に預けるについては確かに親の無責任もあるだろう。妊娠・出産は頭になく、快楽追求だけが目的のセックスに熱中する。妊娠したのも気づかずにいたとか、気づいても、遊ぶのに夢中で放置しておいて中絶もできなくなった。あるいは男を引き付けておくための方便に妊娠・出産したが、育児まで考えていなかったとか、無責任例は様々に考えることができる。わざわざ飛行機と電車とタクシーを乗り継いで熊本市まで預けにいく母親も出てくるに違いない。

 しかし、産み育てる覚悟で子供を持ったものの、離婚だとかリストラだとか、予期しないその後の変転から、あるいは無慈悲な年貢の嵩上げならぬ種々の税手当ての削減や税上げ、規制緩和が逆に収入低下をもたらすとかによって生活がままならなくなり、自分で育てる自信を失って預けざるを得ない親もいるに違いない。

 そんな一人を救うために100人の無責任には目をつむる。100人の有罪者を無罪にすることになったとしても、たった一人であっても、実際に無罪の人間を有罪とする冤罪を防止するための疑わしきは罰せずの精神、推定無罪の精神の趣旨適合である。

 安倍首相はそういった趣旨適合の柔軟な寛容精神は持ち合わせていないらしい。美しくない国の美しくない首相だから仕方のないことなのか。

 中には一旦は預けたものの、後になって自分で育てようと思い直して引き取りに表れる親もいるかもしれない。そういった親の育児を支援することこそ見せ掛けではない、真の〝再チャレンジ〟ではないだろうか。

 無責任からのものであっても、止むを得ずのものであっても、少なくとも自分が育てるよりもマシという考えからの一種の遺棄、放棄だろう。だとしたら、親にとっては「赤ちゃんポスト」はなおさらの〝再チャレンジ〟に相当するのではないだろうか。それを汲み取ることもできずに、再チャレンジ政策を掲げながら、親たちの〝再チャレンジ〟に鈍感でいられる。何とも美しき国の美しき首相かなである。

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アメリカは北朝鮮に譲歩したのだろうか

2007-02-24 09:29:13 | Weblog

 拉致解決の唯一の方法

 07年2月18日の日曜日にテレ朝「サンデープロジェクト」で「独占映像 北朝鮮の大惨事」なるコーナーを設けていた。

 テレ朝寺崎貴司アナ「特集は先月撮影された独占映像で、北朝鮮で起きた大惨事を追跡します」という触れ込みである。どんな大惨事が起きたのだろうかと思わず画面に見入ってしまった。

 朝鮮問題の専門家だという重村智計早稲田大学教授がテレ朝赤江珠緒アナに6カ国協議の印象を聞きかれて、「もう数ヶ月のあとの北朝鮮は譲歩せざるを得なかったといわれてるんですね。アメリカは北朝鮮の窮状を分かっていなかったんじゃないかと言うことですね」

 (どんな窮状なのだろうか。それをアメリカが「分かっていなかった」と言うのは、アメリカの言われているところの優秀な情報収集能力から考えて、あり得ることなのだろうかというごくごく素朴な疑問を持った。実際に「分からなかった」としたら、自らの優秀な情報収集能力を裏切ることになる。)

 朝鮮中央テレビ・女性アナが朝鮮語で話した言葉を日本語のテロップで流す。「敬愛する金正日将軍様のご誕生日は主体革命の偉業にそうそうたる未来を約束してくれた民族の祝い事でした」

 崎貴司アナ「今回取材、それが出るわけですけれども、今回成果を得た北朝鮮、主張できる立場なのでしょうか」

 (いつも思うのだが、テレビの報道番組に出るスタッフは、出演者にも言えることだが、もう少し論理的に喋れないものなのだろうか。)

 男性解説「一昨日金正日総書記は65歳の誕生日を迎え、北朝鮮で盛大な祝賀行事が行われた。直前まで祝賀は質素になると見られていた。今月6日北朝鮮を訪問した西江大学・金英秀(キム・ヨンス)教授は現地の住民からこう聞いていた」

 金教授「金正日総書記から『私の誕生日は盛大にやらずに4月の金日成主席の誕生日を盛大にやりなさい』と指示が出ていたそうです。今北朝鮮は経済が厳しいため誕生日を盛大にやる余力がないのだと思います」

 (解説と正反対の見解となっている。と言うことは〝捏造〟発言ではないことを証明している。)

 テレ朝解説「ところが、実際には国民への贈り物として食用油500gなどを配給を指示したという報道もあり、大盤振舞いとなった。その背景が直前の6カ国協議だ」

 世帯ごとに食用油500g、砂糖1kg、卵5個、酒1本などの配給を指示。(朝鮮日報2月16日付)――のテロップ。

 (何もしないと言うことなら、完璧に見放される場面を覚悟しなければならないだろう。但し、北朝鮮全地域の住民に平等に支給したものなのか、ピョンヤン市民や党・軍の主だった人間のみに配給したものかのかで事情は違ってくる。)

 テレ朝解説「北朝鮮は核施設の稼動停止などの見返りに最大で重油100万トンという年間の石油輸入量に匹敵するとされる膨大なエネルギー支援を獲ち取った」
 寧辺の核施設稼動停止
 重油5万トンなど
 無能力化後に95万トン――テロップ。
 解説「さらにアメリカからは金総書記ら支配層をかつてないほど追いつめた金融制裁の一部解除も取り付けたのだ」
 ヒル国務次官「30日以内に金融制裁問題を解決」

 (中略)

 テレ朝解説「本当にアメリカに優位を主張できる状況だったのだろうか。実は去年北朝鮮にある大惨事が起きていた。日本には殆ど知られていないその惨事は大きな意味を持っていたのだ」

 「去年7月16日 朝鮮中央テレビ」夜の天気予報。
 北朝鮮テレビ・気象庁副所長「14日夜半から大雨が降り、各地で集中豪雨が降りました。特に大同江の上流地域に豪雨が降り、1990年以降、初めて大同江(テドンガン)に洪水が発生しました」
 テレ朝解説「7月中旬、北朝鮮は集中豪雨に見舞われ、首都ピョンヤンを流れる大同江に洪水が発生したと言う。数日後のニュースは復旧作業の様子が短く流れたが、映像からはその降雨量や被害の全体の規模まではよく分からない。我々は気象予報士に当時の天気図の分析を依頼した」

(中略)

 解説「洪水の1カ月半後ピョンヤンに息子(寺腰)武志さんを訪ねた寺越友枝さんは洪水についてこう聞いたと言う」
 寺腰友枝「本当にでかい雨あってえ、一集落が全部流され、人間も牛も大同江に流れ落ちてたくさん死んだよって言った」
 解説「ピョンヤンに住む武志さんも復旧活動に動員されたと言う」
 寺腰友枝「田んぼも畑もみんな被害におったもんで、もう毎日日にち、川工事に行った」
 解説「例年行われていたアリラン祭は去年突如中止になったが、武志さんはそれも洪水で水浸しになったためだと言う。こうした事態に韓国の様々な団体が洪水救援に動いた。実際には北朝鮮でどれだけの被害が出たのか、真っ先に支援に乗り出した韓国のNGO『JTS』法輪(ホン・ニュン)理事長」
 法輪理事長「北緯40度以南地域が集中的な被害を受けた。およそ380キロメートルの道路が寸断され、231個の橋が破壊された。北朝鮮の根幹を揺るがす大きな被害だったという情報もあります」

 (韓国が把握していた「大惨事」だという洪水をアメリカは把握していなかったのだろうか。)

 朝鮮総連の機関紙『朝鮮新報』去年8月7日付 
  水害による被害
  死者・行方不明者  844人
  負傷者      3043人  
  農地      23974 ha
  住宅      28747世帯

 解説「農地の被害はおよそ24000ヘクタールで八王子市と町田市を足した広大な規模なると伝えているが、このNGOによれば実態はそれ以上だという」
 法輪理事長「洪水被害について北朝鮮は政治的な理由で実際より小さな数字を発表しました。北朝鮮はミサイル発射で準戦時体制になったため、外国の支援などを受け入れて国情を外に知れたくなかったからです。数千人の軍人と人民が一瞬で押し流されたと聞きました。死者は3千人に及ぶと見られます」
解説「韓国でも大雨が降りましたが(7月15日~)北朝鮮ほどの被害は生じていない。北朝鮮ではなぜ被害が拡大したのか。北朝鮮農業の研究者は理由をこう説明する。
 農業経済研究院権泰進(クォン・テジン)博士「90年代半ばの大洪水で炭鉱に水が入ってダメになり、不足する燃料を補充するために山の木を伐採して薪にしました。したがって禿山ばかりで保水力がなく、土砂が川に流れ込み川底が浅くなりました。だから洪水が起こりやすいのです」
 解説「さらに北朝鮮では70年代半ばの初めから食糧問題解決のため次々と山を拓き、頂上まで畑に利用した。こうした農業政策の失敗が被害が拡大する原因だと石丸次郎氏(ジャーナリスト・『アジアプレス」)は言う』
 石丸「北朝鮮は国土っていうのは無理な耕作と森林伐採でですね、荒れ放題なんですね。これは天災ではなくて明かに人災だと言えますね」
 北朝鮮人被害者「山へ行って、毎日木を切って薪にしている。政府はトウモロコシなどを数キログラム出しただけで他には何もない。(トウモロコシ粥を食事にしている)切実なのは食べ物です。食べ物さえあれば、何とかなるのに――」
 「北朝鮮大飢饉発生(1996年~1998年)
 1995年に大洪水が発生。200万人とも言われる餓死者を出す。金正日は「苦難の行軍」で乗り切る」――のテロップ。

 (「脱北者――Wikipedia」によると、「北朝鮮では1993年に大水害が発生して以来、水害と旱魃が毎年のように発生し、深刻な食糧難が報じられるようになった。」と伝え、1995年に「大飢饉が報じられた」としている。)

 解説「今回の洪水で飢饉は起こるのか。取材ディレクター高世仁が(去年11月に取材)WPF(世界食糧計画)ピョンヤン事務所に聞いた」
 高世仁「飢饉の危険性を感じますか?」(英語)
 WFP平壌事務所J・P・デマジェリ所長「そこまで言うつもりはありませんが、(洪水被害は)かなり深刻でした。最大で9万トンの食糧に影響が出たと推定しました」

(WFPの本体が食糧援助に動いただろうから、アメリカの軍事衛星が怠けていたとしても、国連の各部門に連絡がいくだろうから、アメリカが「北朝鮮の窮状を分かっていなかった」ということがあるのだろうか。分かっていたとしたら、放送の前提そのものが崩れる。)

 解説「しかも洪水で収穫が減っただけではなく、制裁により海外からの食糧供給が激減している」
 J・P・デマジェリ所長「韓国からの食糧支援もありません。中国からの援助も前年に比べるとかなり減らされています」
 高世仁「どのくらい減らされたのか」
 J・P・デマジェリ所長「前年の援助の33%程度です。北朝鮮国内で100万トンの食糧不足が発生すると予想しています」
 解説「国連食糧農業機関(FAO)」、北朝鮮が最低限必要とする穀物量は年間500万トン。去年は最大で380万トンの収穫が見込まれた。不足分120万トンは各国からの支援で賄う予定だったと見られる。ところが洪水で収穫が減り、ミサイル発射で韓国が食糧支援を中断したことなどでおよそ100万トンが不足することが明らかになった。経済失政やヤミ経済の横行でただでさえ統制が乱れている中、食糧不足にさらに国民の不満が溜まり、統制が乱れることを恐れた金正日政権にとって、6カ国協議で合意を成立させ、韓国がら食糧支援を得ることは是が非でも必要なものだったのだ。制裁による食糧事情の深刻化を招いた政府に対して洪水被害者は最後にこう述べた」
 質問「政府が核実験したことをどう思う?」
 洪水被害者「核だろうが何だろうが私たちには関係ありませんよ。核実験で食べていけるようになったの?私たちは食べられさえすればいい」

 (WFP平壌事務所J・P・デマジェリ所長は洪水の食糧への直接的な被害は「最大で9万トン」と言っている。金正日にとって首都の生活維持・治安維持は至上命令だろうから、地方の食糧を更に削って、例え餓死者が出ようと9万トンぐらいは浮かすことぐらいはしただろう。洪水による「大惨事」自体が合意を急いだ理由とはならないのではないか。問題は「国連食糧農業機関(FAO)」が言う「100万トンの食糧不足」の方であろう。勿論そのような「北朝鮮の窮状」は韓国・中国・日本等も当然のこととしてその実情を把握していたはずであるし、食糧支援国として重要なカードを握っていることを認識していたはずである。なぜ重村智計早稲田大学教授が言うように「北朝鮮は譲歩せざるを得なかった」「もう数ヶ月」という期間を待てなかったのだろうか。)

 (中略)

 北朝鮮民主主義人民共和国人民保安省・主体95(2006)年11月15日/布告「電力を盗むな」)
 「この布告に従わない機関・企業所・住民世帯は電力供給を中止し、罰金を課す・厳重な(違反)者は職位・所属に関係なく労働教化刑に至るまで厳しく処す」(韓国NGO「Good Friend」HPより)
 解説「この窮状に2年前盛んに取り沙汰された後継者問題は殆ど騒がれなくなった。実は2年前は金総書記が63歳になり、金日成主席が金正日を後継指名した年を越えたために注目されたのだ。ジャーナリスト恵谷氏は今の北朝鮮の窮状では後継指名できる状況ではないと語る」
 恵谷「90年半ばと比較しても、これは比較にならないほどの経済困難に見舞われている。自分の後継者は誰だというような発表、ないしはそういう検討なんていうのはとてもできない状況にあると私は思います」

 (ものは考えようで、「窮状」を誤魔化すためには後継指名が必要ではないか。後継指名して、金正日体制は磐石だとゴマカシのサインを内外に送る。国民をも鼓舞する。腹の足しにもならないと拒絶反応を示す国民もいるだろうが、金体制を支えるために生活を保証されている軍や党の上層部は鼓舞されるだろう。だが、後継問題は確かに音無しの構えに入ってしまっている。恵谷氏が解説するとおりに「今の北朝鮮の窮状では後継指名できる状況ではない」ということだろうか。)

 まとめ・重村早大教授「結局核兵器を持っても、アメリカと対等に渡り合って見返りをもらうという教訓を残した。北朝鮮は核兵器を持てば見返りを貰えるという戦略の有効性を確認したと。こうなると21世紀は核拡散の時代になりかねない、という危険を孕んでいると言うことですね」(以上)
 * * * * * * * *
 報道内容の趣旨は、北朝鮮は去年7月の集中豪雨で大同江が氾濫し、ピョンヤンは洪水に見舞われ、経済的に大きな打撃を受けた。さらに核実験の制裁で追いつめられた状況にあり、「アメリカに優位を主張できる状況」にはなかったはずだが、6カ国語協議で譲歩したのはアメリカで、国民を餓死・飢餓に追い込みながらミサイルを発射したり核実験したりしている悪者であるはずの独裁国家の北朝鮮が要求できるはずもない多くの〝見返り〟を獲ち取った――。

 それが最初の重村早大教授の「アメリカは北朝鮮の窮状を分かっていなかったんじゃないかと言うことですね」という言葉と、寺崎貴司アナの「今回成果を得た北朝鮮、主張できる立場なのでしょうか」という解説に集約されているということだろう。ブッシュ政権に近いネオコンの立場の人間や前ボルトン米国連大使を登場させて、北朝鮮との合意を批判させているのも、上記文脈に添わせる必要があったからだろう。
 
 後継問題は北朝鮮の「窮状」を誤魔化す手段ともなり得ると言ったが、実際に後継問題が持ち上がって、後継が内定し独裁政権の父子継承が決定的となった場合、現状でも困難な状況にある拉致問題はその解決の目を失うことが予想される。拉致は金正日自身の主導によって行われただろうからである。

 いわば拉致の真相解明を最も恐れるのは拉致行為張本人の金正日自身であり、権力の父子継承によって、真相解明に蓋をする先延ばしが可能となるからである。

 北朝鮮は日本と国交正常化を果たして日本からの戦後補償と経済援助を梃子に壊滅状況にある北朝鮮経済建て直しの重要な起爆剤の一つとしなければならないことは誰の目にも明らかなことであろう。起爆剤とする唯一の条件は拉致問題の全面解決なのは言うまでもない。また北朝鮮経済の建て直しは金正日独裁体制保証の条件であるだけではなく、父親の金日成から権力を引き継いだと同じく、自分の子どもに権力を無事引き継ぎ父子継承を保証する条件でもある。

 と言うことは、拉致解決が金正日独裁体とそれに引き続く権力父子継承を保証する切って捨てることはできないハードル・条件でもあると言うことであろう。

 ところが、拉致は解決済みの態度を崩さないし、今回の6カ国協議では日本相手にせずの姿勢を取っている。拉致解決のカードを切ることで様々な保証獲得のより有利なカードに替える、誰でもそうするに違いない手を打たずに不利と分かるカードを手に握ったままでいるのは、裏を返すなら、金正日にとって拉致解決はそれ以上に不利なカードとなるからだろう。いわば日朝国交正常化が朝鮮経済の建て直しのカードとはなり得ても、金正日独裁体制保証と権力父子継承保証のカードとはなり得ないということである。ここに金正日が拉致行為張本人とする根拠がある。拉致解決は金正日を権力者の座から引きずり降ろし、決定的な悪人・無様な道化として世界史に刻み付けることになる記念碑となるだろう。

 拉致が日本人だけではなく、レバノン人、タイ人、韓国人と多岐に亘っていることと、拉致した日本人原敕晁さんになりすまして85年に韓国に入国、スパイ容疑で逮捕された辛光洙(シン・グァンス)が同年11月に死刑宣告を受けたが、「00年9月、投獄後も政治思想を改めない『非転向長期囚』63人の一人として北朝鮮に引き渡された。『太陽政策』をとる金大中大統領が金正日総書記と『南北共同宣言』に署名。北朝鮮が離散家族の再会を認めたことの見返りに、引き渡しに応じ」(02.9.25.『朝日』夕刊)させた事情、さらに「板門店であった、非転向長期囚『帰還2周年』記念集会」に出席、「辛光洙容疑者らは『将軍の惠に一千万分の一でも報い鉄石の誓いで、湧き上がっている』と発言したと言う」(同)金正日に対する忠誠心、あるいは日本の捜査当局の引き渡し要求を無視して、北朝鮮の首都ピョンヤンで開催される重要式典への出席を許し、英雄扱いしているといった事情からも、金正日が拉致に権力トップとして関わっていたことを窺うことができる。

 と言うことは、拉致の真相は金正日にとっては永遠に蓋をして置かなければならない問題である。そこへ持ってきて、評論家の田原総一郎がテレビでブッシュ政権の間、アメリカは北朝鮮と必ず国交回復すると発言しているとおりになったなら、迷宮入りとならない保証はない。

 拉致の唯一の解決方法は、金正日独裁体制が崩壊し、北朝鮮が民主化される以外に道はないということである。

 ではなぜ北朝鮮は「2年前盛んに取り沙汰された後継者問題は殆ど騒がれなくなった」(テレビ解説)のだろうか。経済的困窮をカモフラージュする有効な手ともなり得ることを考えると、ジャーナリスト恵谷氏が言うように「90年半ばと比較しても、これは比較にならないほどの経済困難に見舞われている。自分の後継者は誰だというような発表、ないしはそういう検討なんていうのはとてもできない状況にある」ということだろうか。

 金正日は中国でも一部反対している独裁権力の父子継承を6カ国協議の合意に向けた大事な時期に持ち出してアメリカやその他の国を刺激することを避けるために意図的に先延ばしにしていると言うことも考えられる。

 日本の援助なしに、他の韓国・中国・ロシア・アメリカ4カ国のみの援助である程度の経済を回復した時点で後継問題を持ち出すと言うことなのだろうか。アメリカと国交回復を果たし、経済も多少回復し、継承問題も解決という万々歳の結果ということなら、金正日独裁体制はますます磐石なものとなる。そういった状況を狙っていないことはないだろう。そのことは現在でさえも解決する気のない拉致解決はますます遠ざかることを意味する。

 だが山が「無理な耕作と森林伐採で」(石丸談)荒廃し、少しの大雨で洪水が起きやすい国土となっている上に現在の地球規模の温暖化による異常気象を原因として頻繁に起こるだろうと予測される大雨・洪水、あるいはその逆の日照り・旱魃、さらには冷夏による農作物の凶作やインフラの破壊が外国の援助に頼る国土回復まで待ってくれず、その被害が援助を相殺、あるいは上回る今までと同じサイクルを踏まない保証はない。

 いわば外国の援助がザルに水を注ぐ結果とならない保証はない。中国・韓国は金体制の突発的・暴力的な崩壊による自国への難民の大量流入を恐れて、それを避けることだけを目的とした焼け石に水の援助を続ける。かくして経済を回復させることができないままに金体制は危ういバランスの上にどうにか維持し続ける。このような展開も拉致解決に道を開くものではないのは言うまでもない。

 金正日独裁体制の崩壊が拉致の唯一の解決方法であるという条件をも含めて、上記諸状況を計算に入れて拉致の解決を図るとしたら、今回の合意でアメリカが譲歩し過ぎたとされているが、譲歩の代償に金正日の退陣、父子継承の禁止、中国への亡命を条件としたなら、解決の可能性は残される。

 だが、ブッシュ政権に近い人間たちの譲歩し過ぎとの批判を封じるために公言を禁止した上で内々に知らせておくべきを、「譲歩のし過ぎだ」、「合意は誤った選択だ」と自由に批判しているところを見ると、条件としていなかったと見るべきだろう。

 勿論金正日は自身の独裁体制の保証をアメリカに求めているが、イラクの例を出し、フセインとその一族の身の安全を保障することを条件に亡命を求めて民主的にイラク問題を解決しようとしたが、フセインが拒絶したために最終手段として我々アメリカは攻撃に踏み切らざるを得なかったと伝え、亡命後の北朝鮮の体制は保証するとの確約を与える。

 金正日のメンツを考慮して、内々に退陣と父子継承の断念、中国への亡命を合意のカードとするか、相手が拒絶したなら、退陣・父子継承の禁止を少なくとも日本とアメリカの合意の条件に据えて、そのことを公表すべきではなかったろうか。

 金正日退陣と父子継承の阻止、中国への亡命が一切ない条件下の合意なら、アメリカの国益に支障はなくても、拉致解決の望みは失う。

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「現実を直視できない」のは小泉か小沢か

2007-02-22 06:45:52 | Weblog

 昨朝(07.2.21)のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」で同日付の朝日朝刊の記事『「鈍感力が大事」小泉前首領、塩崎氏らに 「どの時代にも格差 なぜ言わない」』に関してバカげた遣り取りをしていた。記事を全文引用しておく。

 ――「支持率を気にすることはない。目先のことには鈍感になれ。鈍感力が大事だ」――。小泉純一郎前首相は20日、国会内の自民党控室で中川秀直幹事長らと会い、安倍内閣の支持率の低下に悩む政府・与党幹部に対し、「何をやっても批判される。いちいち気にするな」とげきを飛ばした。
 小泉氏は、今国会で焦点になっている格差問題について、「『格差とはどんな時代にもある』となぜ、はっきり言わないんだ。自分は予算委員会で言い続けてきた。君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」と持論を展開。「現実を直視できない小沢民主はダメだ。小沢(代表)の言ってることは社会主義そのもの、世迷言だ」と切って捨てた。
 さらに、遅れて姿を見せた塩崎官房長官には「まとめようとしてはダメだ。総論は賛成でも、(各論で)必ず反対が出る。だからまとめてはだめだ」と助言した。
 首相退任後はあまり表だった発言は避けている小泉氏だが、この日は「若い人に話して欲しい」との中川幹事長の求めに応じての「大放談」となった。――

 次に「朝ズバッ!」の遣り取り。大型ボードに貼り付けた拡大記事には全体を太い赤線で囲み、「小泉氏は、今国会で焦点になっている格差問題について、」から「と切って捨てた。」まで赤線が引いていある。女子アナが「と切って捨てた」と読み終えると、みのもんたとヒゲの岸井成格が小泉の発言を肯定したのだろう、小気味よげに笑い、もう一人の出席者の寺脇元文部官僚も軽く笑っていた。

 岸井、笑いながら、「だけどね、変人の小泉さんの後って、誰がやってもねえ、損な役回りなんですよ。だからー、(みの、声を出して笑いながら聞いている。)小泉さんの言っていることも一理あるんですね。(みの、嬉しそうに笑いながら、「ウン、ウン」と声を出して頷く。)確かにもう目先のことであれこれしてるけど、もっと墓穴を掘っちゃいますけどね。だけど、小泉さんみたいにああやって、開き直ってね、一言でボーンと言ってね、みんな唖然とするっていうのはなかなかこれやれることじゃない、芸当じゃないですよね」

 寺脇「(・・・・聞き取り不明)っていうのは鈍感の力ですから。本当は力がないから、鈍感なんです」

 みの「小泉さんが言うとさあ、そういう言葉が合うように感じちゃうから困っちゃうんですよね」――

 人並みの認識力を持たないから、「合うように感じちゃう」に過ぎないのだが、本人は気づいていないのだから、知らぬが仏の幸せ者でいられる。

 寺脇元文部官僚、31年間文部省・文科省に勤続したということだが、何言っているのか分からない。力があっても、鈍感な人間がいる。小泉純一郎がいい例ではないか。日本の首相を務め、それ相応の力がありながら、「格差とはどんな時代にもある」だけで片付けることができるのは「鈍感」そのものに出来上がっているからだろう。

 確かに格差は如何なる時代にも、如何なる社会にも存在する。それは人間が〝平等〟という理念・理想を実現させるだけの力を持たない情けない能力状況にあるからに過ぎない。だからと言って、すべての「格差」が許されるわけではなく、また「格差」の内容によって許容限度というものがある。

 「格差とはどんな時代にもあ」ったと言っているように江戸という「時代にもあ」った。「農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多。吉川弘文館)見事な「格差」状況。

 飢饉がない年であっても、多くの農民は満足に食べることができず、妊娠してしまった子を食い扶持が減ることを恐れて生まれてくると直ぐに間引きし、幼い娘を女郎に売りつけるといったことを日常的に行っていたという。それも「全国民の一割」程度の武士階級を食わせるために年貢という形で搾取されていたからだ。

 このような搾取を原因とした「格差」は絶対支配者の武士権力には許される「格差」ではあったろうが、抑圧される側の被支配農民には許すことも認めることもできない「格差」なのは言うまでもない。許容限度を超えた「格差」であったが、武士が絶対支配者であり、農民は絶対被支配者に位置していた力関係が許容させていた「格差」であったろう。

 それを「格差とはどんな時代にもある」で片付ける。長岡藩の「米百俵」物語といった封建時代の譬え話を持ち出したり、江戸末期の国学者で歌人である橘曙覧(たちばなのあけみ・1812~68)の歌が好きだという割には「どの時代」も同じに扱い、「どの時代」の「格差」も同じに扱う知識は暗すぎる。「目先のこと」としてある現在の日本社会の「格差」も「どんな時代にもある」からと許してしまう道理の暗さである。

 尤も「鈍感力が大事だ」という主張に添って言うなら、「格差」にもそれぞれに内容があり、異なった姿をしていることを無視し、一律に扱って平気いられる無神経・「鈍感力」は「大事」にしているだけあってさすがと言うべきか。

 どのような物事・事柄も様々な内容を持っているのであって、表面的な把握にとどめることによって一律に解釈する過ちは犯してはならないことを絶対命題しなければならない。ジャーナリストでございますとテレビに出て喋り、新聞に記事を書いて飯を食っている以上、絶対命題とすべきであり、当然の客観的認識性であろう。しかしそうはなっていないで、ジャーナリストでございますとシャシャリ出ている人間が多すぎる。

 「君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」一つ取っても、どこに「小泉さんの言っていることも一理あるんですね」か分からないし、「そういう言葉が合うように感じちゃう」のかも見当がつかない。

 因みに岸井成格の経歴を『Wikipedia』から一部紹介してみる。「岸井 成格(きしい しげただ、男性、1944年8月22日生まれ)は毎日新聞東京本社特別編集委員。21世紀臨調運営委員。早稲田大学客員教授。日本ニュース時事能力検定協会理事長。
東京都出身。慶應義塾大学法学部を卒業後、毎日新聞社に入社。熊本支局を経て、政治部に勤務。ワシントン特派員、政治部副部長、論説委員、社長室委員、政治部部長を歴任。その後、編集局次長、論説委員長などを経て、現在に至る。」となっている。

 経歴が泣く、あるいは何のために経歴を踏んできたのか分からないお粗末な客観的認識性となっている。

 日本は「近隣諸国」よりもはるかに早く現代的な経済国家に向けてスタートを切ったのである。朝鮮戦争特需で、それまで青息吐息だった日本の経済は一気に息を吹き返すことができた。3年間で米軍関係から支払われた金額はドル建てで約10億ドルに近かったと言う。1ドル360円の固定相場の時代だから、当時のカネで10億ドル×360円=3600億円の特需である。また金額だけではなく、トヨタあたりはジープや軍用トラックの修理・委託生産で技術を学ぶことができたろう。そしてさらにベトナム戦争特需で経済大国へに向けて確実で力強いフライトへと持っていくことができた。

 当時のカネがどのくらいかと言うと、朝鮮戦争が終わった年の前年の1952(昭和27)年8月1日に「『公務員給与ベースは1万3515円に』と人事院が勧告」(『明治大正昭和世相史』加藤英俊・岩崎爾郎・加太こうじ・後藤総一郎共著・社会思想社)と出ているが、その時代の3600億円である。

 参考までに付け加えると、同じ年の11月29日には当時の池田勇人通産相(1960年/昭和35年7月に首相就任)が「『中小企業の倒産自殺もやむをえないと』と再放言して大臣失脚」(同書)と出ている。最初の放言は1950(昭和)25年12月に「池田蔵相『所得の多い者は米、少ない者は麦を食べるように』と発言」(同書)となっている。

 当時のマスコミが報じたのだろう、「貧乏人は麦を食え」の発言となって流布することとなった。

 池田勇人の発言は「格差とはどんな時代にもある」と同じく客観的認識性を欠いているからこそ可能となる開き直り発言であって、小泉純一郎のような『鈍感力』を武器とする政治家が以前にもいたと言うことだろが、共に自民党の総裁・総理として同じ歴史・伝統・文化を担った同類なのだから、当然の話でもあるのだろう。

 経済的スタートを先行して好発進した日本とは違って、韓国は朝鮮戦争(1950・6~1953・7)で国土は荒廃し(一度は北朝鮮軍に釜山まで攻め込まれている)、1965(昭和40)年に日本との間で締結された日韓基本条約によって日本から有償・無償の合わせて5億ドルという朝鮮戦争特需で荒稼ぎした10億ドル近い金額の半分の日本からの援助によって経済回復へ向けて日本よりはるかに遅れてスタートを切った。それから10年後の1970年年代半ばの韓国は貧しくて学校へ行けない子どもたちが駅で新聞売りしたり靴磨きしたりする状況にあって、日本の戦後当時の光景だと言われていた程にまだ貧しい時代にあった。それから30年ほどしか経過していない。

 一方中国は日中戦争で国土を荒廃させられたのち、戦後もなお国共戦争で荒廃し、共産党が政権を取り幾多の紆余曲折を経て小平が改革解放経済に着手したのは1979年の、韓国と同じく今からまだ30年も前である。しかも13億もの人口と広大な土地を抱えている。

 朝鮮戦争特需とベトナム戦争特需という追い風に恵まれ、韓国・中国、あるいは他のアジア諸国を遥か後方に置いて日本が一番にスタートした絶対的に有利だった諸条件を無視して、「君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか」と「近隣諸国」を比較対象とする「鈍感力」は、首相経験者としてただ単に客観的認識性が欠如しているとだけでは片付けられない「現実を直視できない」資質と言うのはどのような逆説で育むことになったのだろうか。それとも日本の政治家だから当然な姿なのだろうか。

 「塩崎官房長官には『まとめようとしてはダメだ。総論は賛成でも、(各論で)必ず反対が出る。だからまとめてはだめだ』と助言した」ということも、どういう形であっても、反対意見を取り入れて一列に並べる纏め方であっても、あるいは足して2で割ろうと3で割ろう、こっそりと愛人の意見まで取り入れようと、纏めなければ案の形を取ることはできない。どう纏めるかは反対意見の強弱・多少によっても違う。小泉本人は郵政民営化選挙で自民党に大勝をもたらし、民営化を果たしたことを勲章として、自分の言うことは常に正しいとしたいだろうが、民営化によって日本がどう変わったと言うのだろう。民営化はコップの中の嵐に過ぎなかったのではなかったか。

 「まとめてはだめだ」を忠実に実行するなら、法案の纏め方も人事の纏め方も合い通じるものがあるだろうから、閣議での「起立できない」、「私語を慎めない」といういわゆる中川幹事長の苦言は「まとめてはだめだ」に逆行する要望ということになり、小泉流からするなら、却って励行すべき授業崩壊ならぬ、閣議崩壊となる。大いに私語しなさい、起立などするな、閣議中、勝手に席立ちせよ、のススメとしなければならない。

 こう見てくると、「現実を直視できない」のは小泉純一郎の方にこそ八百長相撲ではない正真正銘・圧勝の軍配をどうしても上げなければならないのではないだろうか。

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政権交代で日本の政治にバランスを

2007-02-21 11:09:53 | Weblog

 自民党政治によって、大企業優遇・金持ち優遇に傾いた日本の今の政治を民主党政治によって国民優遇にゆり戻す。「格差」解消の有効な方法ともなるに違いない。

 もし国民優遇に傾き過ぎ、企業の国際競争力が低下したなら、いわば逆「格差」状態になったなら、その揺り戻しに大企業優遇・金持ち優遇の自民党政治に政権を託す。

 その交代によって、日本はバランスの取れた国・社会を実現することができるのではないか。

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中川幹事長の理想形/安倍日本国内閣総理大臣殿に敬礼!!

2007-02-20 09:58:29 | Weblog

 昨日(07,2,19)のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」でのこと。発言は18日(07年2月)の仙台市内の講演ということだが、中川自民党幹事長が例の暴力団の組長のような押し出しで次のように述べている。

 中川秀直「閣僚・官僚のスタッフには日本国内閣総理大臣に対して絶対的な忠誠・絶対的な自己犠牲の精神が求められているのではないか。日本国総理大臣とかつて仲良しグループであったどうかは、あったかどうかは(と言い直す)関係はないと私は思います。内閣総理大臣が入室したときには起立できない、そんな政治家、あるいは私語を慎めない政治家、それは美しい国づくり内閣にふさわしくないと思います」

 男性解説が「その上で中川氏は自分が目指すことを最優先させる政治家に内閣・官邸から去らなければいけないと述べ、閣僚や総理補佐官は自らを犠牲にし、安倍総理に忠誠を誓う必要があるという考えを強調しました」

 内閣改造の前触れと受け取れないこともないが、「閣僚や総理補佐官」として踏みとどまる条件が「自らを犠牲にし、安倍総理に忠誠を誓う必要」であることに変わりはない。いわば天下の中川秀直幹事長にとって安倍晋三「日本国内閣総理大臣」の理想的な扱われようは安倍ジョンイルなのだろう。あるいは「全閣僚・全官僚スタッフ」に告ぐ、安倍晋三「日本国内閣総理大臣殿」にハイル・ヒトラーせよ!!――と言うことではないだろうか。「絶対的な忠誠・絶対的な自己犠牲の精神」の行き着く先の最高の理想郷はヒトラー、あるいはキム・ジョンイルの権力状況だろうからだ。

 そこまでは求めない、せめて半分程度、あるいは3分の1程度でいいとしても、権力構造自体は「絶対的な忠誠・絶対的な自己犠牲の精神」を関係成分とすることによって国家主義、あるいは全体主義の体裁を取ることに変わりはない。安倍首相自身が国家主義者の政治姿勢にあるから、そういう関係を求めるのは止むを得ないとしても、トップの指導者自体が国家主義的、あるいは全体主義的に周囲を従わせるだけの力がないということなら、如何ともし難い。キム・ジョンイルに教えを乞う以外に手はないのではないか。

 大体が「総理に対して」と言わずに、「日本国内閣総理大臣に対して」という物言いそのものが大時代に過ぎ、そのような言葉を以てして安倍晋三なる人間を権威付けようとしなければならないこと自体が、裏を返すと、地位相応の重み・威厳を有していないことを証明して余りある。

 つまり「日本国内閣総理大臣」なのだと改めて念押しすることで、周囲に対して敬意を払うよう求めなければならなかった。だが、指導力・リーダーシップは自らが備え、自らが発揮する能力であって、他から与えられるものではない。中川幹事長はそのことを勘違いして、安倍首相自身に求めるのではなく、周囲に従うことを求めている。

 授業開始時に起立もしない、授業中は席立ちや勝手な私語で小学校のクラスが授業崩壊の状況にある。生徒にただ静かにするよう、先生の言うことを聞くようヒステリックに求めることしかできない教師の指導力のなさを問題とせず、教師に代わって先生を何だと思っている、生徒が学校の教師の言うことが聞けないでどうすると従う関係のみの規律を求める教頭とか生徒指導の教師の対応と軌を一にする中川幹事長の態度内容であろう。いわば同じことをしている。

 授業崩壊したクラスの教師対生徒の関係にも同じ構造として降りかかるが、「内閣総理大臣が入室したときには起立できない、そんな政治家、あるいは私語を慎めない政治家」の態度は、言ってみれば安倍晋三という人間に対する市場原理的反応であろう。安倍晋三の指導力・リーダーシップという供給に対する「起立できない」、「私語を慎めない」需要という関係を持った相手に応じた態度であって、需給関係に無理に帳尻を合わようとする力だけ働かせて、指導者の指導力・リーダーシップを問題とする方向に力を用いなければ、自然な関係は求めようがなく、形式的・表面的な従属に堕すことになるだけである。

 安倍首相自身の指導力が問題だとすると、内閣改造の必要性を訴える声が一方にあるが、みのもんたのしても同じ番組で「組閣の遣りなおししたらどうですか」、「いい悪いは別にして、あまりにも世間の風がかまびすしいのですね。その風の元になる人には去っていただきたいと思います」と安倍贔屓の内閣改造賛成論を述べていたが、指導力は改造で解決する資質ではないから、改造当座は気持を引き締めて起立し、私語も慎むだろうが、変化なく引きずることになる指導力のなさが次第に気の緩みを誘うことになるのは目に見えている。尤も改造によって徹底的にイエスマンで周りを固める手もある。却って支持率低下を誘うだけで終わることになるだろうが。

 19日の夕方のTBS「JNNニュース」が同日午後に首相官邸で行われた政府与党連絡会議で中川幹事長は仙台での講演と同じ趣旨の苦言を呈したと伝えていた。

 男性解説「今日の政府与党連絡会議で、中川幹事長は与党の足並みが乱れていると言われないことが重要だと強調した上で、自分のことを優先する態度は決して許されないと安倍内閣の閣僚らを批判しました。昨日は閣議に臨む緊張感のなさを批判した中川氏。(18日の仙台市の講演での発言シーンを挿んだ後)今日は来年度予算の年度内成立を目指す国会の審議の足を引っ張らないようクギを刺しました」

 政府与党連絡会議後なのだろう、安倍首相の官邸での記者会見「心配していただく必要はないと思います」

 「必要はない」と本人は落ち着いた顔を装って否定したものの、中川幹事長は「閣僚・官僚のスタッフ」の態度を問題とすることで、安倍首相自身の指導力のなさを「心配」項目に入れて既に世間に一大ご披露に及んでしまっている。

 昨19日のNHKの夕方6時のニュースでは次のように伝えている。中川幹事長は「党の総務会でも政府の足並みを憂慮する意見が多く出ているが、閣僚も官僚も自分のことや出身省庁を優先することは決して許されない。安倍総理大臣を先頭に一糸乱れぬ団結で美しい国づくりに向けて頑張っていかなければならないと述べ、閣僚らは結束して安倍総理大臣を支えるよう求めた」

 最初は「絶対的な忠誠・絶対的な自己犠牲の精神」、次は「一糸乱れぬ団結」だとか、「結束」だとか、そこまで欲張って盛りだくさんに求めなければならない程に指導力の欠如は甚だしい状況にあるという裏返し状況をお粗末な手でしかないカードを止むを得ず開くように開いて見せている。中川幹事長は安倍首相の指導力のなさを世間に知らしめることになると知ってて、敢えて講演で「閣僚・官僚のスタッフ」に注文をつけたのだろうか。

 常識的に考えるなら、ただでさえ知れ渡りつつある安倍首相の指導力のなさを世間に決定的に印象づけることになる〝苦言〟なる注文は内々に求めるべき筋の要求項目のはずが、安倍首相の指導力のなさをマスコミの恰好のエサとなる市中引き回しの晒し者にしてしまっている。

 内々に処理すべきではなかったかという趣旨からすると、久間章生防衛相の「核兵器がさもあるかのような状況でブッシュ米大統領は踏み切ったのだろうと思うが、その判断が間違っていた。後をどうやってうまく処理するかの処方箋がないままだった」とアメリカのイラク政策を批判した発言や麻生外相の「ドンパチやって占領した後のオペレーションとして非常に幼稚なもので、なかなかうまくいかなかったから今も揉めている」との発言と同列に置くべき態度だったのではないだろうか。

 久間章生防衛相も麻生外相も発言には気をつけるべきだと他の閣僚や自民党内から批判を受けた。とすると、中川幹事長の発言自体も気をつけるべきうちに入るのではないだろうか。いわば自分で気づかないまま、自分を「絶対的な忠誠・絶対的な自己犠牲の精神」を示すことができない仲間に入れてしまった?自分から自分を同類にしてしまった?

 そこまで頭が回らなかったからなのか、それとも何らかの深慮遠謀があって、敢えて安部首相の指導力のなさを世間にさらけ出すことになると承知した上で、苦言を呈したのか。

 いずれにしても「入室したときには起立できない、そんな政治家、あるいは私語を慎めない政治家」にしても、総理大臣という重責を担っていながら指導力を発揮できない安倍首相の姿にしても「美しい」姿とは決して言えない。そして安倍内閣支持率もますます「美し」くない姿を取っていく。今日の朝日新聞(07.2.20)朝刊の一面トップに載っている全国世論調査の一部を引用して、その「美し」くない姿、「美しい国づくり」とはなっていない様子を紹介してみる。

 ・安倍内閣を支持37%/不支持40%
 ・今回女性の支持が初めて40%を切った。男性支持は36%
 ・60代の支持が前回の49%から38%に下降、不支持の36%
  と伯仲
 ・政策に対する期待度。「期待外れ」37%、「もともと期
  待していない」32%、「期待通り」25%、「期待以上」
  1%――何だって、「期待以上」がたったの1%?
 ・格差対策「評価せず」54%――。  

 あるいは中川発言は安倍内閣末期症状の足掻きということなのだろうか。望むところである。

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東京マラソンは石原慎太郎のケチのつき始めの中間地点なのか

2007-02-19 10:58:36 | Weblog

 人間は何かを計画すると、大体に於いて目論んだとおりのベストのシーンを予想する。予想したシーンどおりの展開に恵まれた者が幸運な人間ということになる。『太陽の季節』で華々しく新進作家としてデビューし、思い通りに芥川賞作家となり、総理大臣にはなれなかったものの、東京都知事となって、ある意味権力のトップを極めることができた。その具体化として、あるいは自らへの証明として、外国の地への出張で最高で1泊26万とかの超高級ホテルに宿泊するといった王様気分を味わうことになったのではないか。

 自らが企画した東京マラソンでも、ベストの展開を予想したに違いない。晴れた初春の朝。心地よい澄んだ大気。交通規制が敷かれ、車の姿が殆どない都会のビルだけが聳えた壮大な光景。号令のピストルを撃つ。一斉にスタート・・・・といったふうに順を追って、展開されていくシーンを頭に浮かべていく。そして頭に浮かべたとおりにうまくいくことを願っていたろう。

 だが、石原慎太郎が「東京にとっての新しいお祭り、新しい伝統のスタートです」と高らかに宣言し、スタートの号令を自ら撃った瞬間は晴れた初春の朝、心地よい澄んだ大気というわけにはいかなかった。冷たい雨が降り注いでいたからだ。今夏大阪で開催の世界選手権代表選考会を兼ねていたということだが、候補者に目されててた目ぼしいランナーが冷たい雨が原因でコンディションを崩して脱落していくというシーンは石原慎太郎の頭の中では予期しなかった展開でもあったろう。

 そして何よりも自らも望んでいなかったに違いないから、予想だにもしなかったろう展開は世界初だという優勝者への授与メダルが原価で35万円相当もする純金製の金メダルを胸にかけたのは日本人ランナーではなく、ケニアの黒人ランナーだったことだろう。2位に入った日本人ランナーは2時間11分22秒で世界選手権代表規定時間の2時間9分30秒に満たず、内定獲得ならずも予期したくもなかっただろうおマケまでつくことになった。

 石原慎太郎にとって世界発の純金製の金メダルを胸にかけることになる優勝者に外国人を望んでいなかった展開だと推測したのは、石原慎太郎自身のかつての発言が根拠となっている。毎月1回産経新聞に『日本よ』と題したエッセイを掲載していた中の2001年5月8日朝刊に載せた『内なる防衛を』は次のような内容となっている。
 
 「昨今の日本を眺めると、いかにもこの国のタガが緩んできてしまったという観が否めない。その結果私たちは多くのかけがえない美徳や美風を失いつつある。そのあるものは自発的な原因に依るものだし、またあるものは他与的なものでもある。
 失われつつある美風の一つに、かつては外国人が称賛していた治安の良さがあるが、今日これは最早伝説化しつつあるといえそうだ。治安の悪化の要因はこれまた自発的、他与的とそれぞれあるが、今日この国際化の時代にこの国における犯罪の資質が大きく変わりつつあるということに国民全体が、誰のためでもなく自分自身のためにもう少し強い関心を持つべきだと思う。
 過日、知事として初めて警視庁を視察した時いろいろ印象的なものを目にさせられたが、その一つに科学捜査研究所で見た、被害者の割り出しのための死体修復技術の成果があった。見るも無残に顔の皮をすべて剥がれて誰ともつかぬ死体の顔を科学的に分析し、その原形の顔立ちを割り出し、構成しなおして出来上がった想像写真を元に捜査を進め被害者の身元を確認したのだが、被害者は仲間割れした不法入国の中国人だった。捜査の過程でこの被害者が多分日本人ならざる外国人、おそらく中国人だろうことは推測がついていたという。その訳は、何だろうと日本人ならこうした手口の犯行はしないものですと。やがて犯人も挙がったが推測通り中国人犯罪者同士の報復のためだったそうな。しかしこうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい。(後略)」

 石原慎太郎が言うように犯罪の手口が「民族的DNAを表示する」としたなら、犯罪の手口から民族・国籍が常に特定可能となる。いわば「民族的DNA」によって犯罪の手口が決定されている。あるいは「民族的DNA」が犯罪の手口を決定する。

 この見事なまでの見識の恐ろしいところは、人間に与えられているはずの〝学習〟という才能は「DNA」がその役目を持たないと宣言したのと同じになることである。1995年3月20日にオウム真理教が東京都の地下鉄にサリンを撒いたとき、アメリカの情報当局は過激派テロ集団がサリンの製造方法と治安騒乱のための撒布を学習して実行することを恐れる発言をしたが、犯罪手口が「民族的DNAを表示する」ということなら、サリン撒布に関しては日本人以外は学習不可能となり、外国のテロ集団は警戒対象から外してもいいことになる。犯罪の手口は「民族的DNA」が決定するからである。

01年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後の01年9月18日から10月9日にかけてアメリカで炭疽菌を封入した何通かの手紙をメディア関係者や政治家に送付されて問題になったが、その手口はオウムが地下鉄にサリンを撒く以前に自らも行っている。これも犯罪手口が「民族的DNAを表示する」とすると、郵便物に封入して配達する方法がアメリカ人の「民族的DNAを表示」していて、オウムの場合はスプレーを使った撒布だったから、日本人の「民族的DNA」は撒布型としなければならない。

 だが、アメリカにも日本にも小包爆弾による犯罪が起きているのはどう説明したらいいのだろうか。ナイフを使った殺人、拳銃を使った殺人等々の同じ手口の犯罪も存在する。どこから「民族的DNA」を割り出すのだろうか。

 石原慎太郎は犯罪手口が「民族的DNAを表示する」とすることによって、「民族」に差別意識を持っていた。石原慎太郎の考えとは正反対に犯罪手口は「民族的DNA」に関係なく、あらゆる情報を通して有効ということであれば民族を超え、人種を超え、国籍を超えて学習され、最初は可能な限り忠実なマネから出発して、その場・状況に応じた改良を行い、発展させていくという考えに立つとき、「民族」に対してどのような差別意識もなく平等意識からの考察となる。例えそれが中国人特有の犯罪の手口であったとしても、それは最初の間だけのことだろう。なぜなら、「民族的DNA」が決定するわけではなく、中国で誰かが最初に用いて、中国人の間で有効と言うことで学習されていった手口だろうからである。それが日本にたまたま持ち込まれた。日本人にしても有効と言うことなら、学習していき、自らの犯罪の手口とすることだろう。だからこそ、欧米の凶悪犯罪に擬えることができような凶悪犯罪が日本でも発生することになる。 

 民族的差別意識に侵されている石原慎太郎都知事が考案し、その優秀者に世界初という純金製の金メダルを授与する第1回東京マラソンでの1位を有色人種たるケニア人が獲得した。民族差別主義者石原慎太郎にとっては決して目論んでいたベストの展開ではなかったはずである。

 テープを切ったジェンガがケニア生まれの日本育ちだとテレビが紹介していたが、その異邦的存在性と石原の「民族DNA 」論に於ける不法入国中国人の異邦的存在性が微妙に重なる部分があり、何とはなしに暗示的なものを感じる。

 望んでいたとおりの展開を一つ一つ獲得する幸運に恵まれることによって物事はスムーズに運んでいき、次の物事への良好な弾みとなる。それがトントン拍子に進んでいけば最高の展開と言うことになるのだろう。

 だが、3万人を越える参加者、ボランティア1万2千人、警察官5千人、沿道の観客178万人、用意したドリンク・食糧に関して言えば、バナナ4万2千本、ペットボトル40万本、アンパン1万2千個、人形焼6千個、そして仮設トイレ786基の大々的に行われた折角の第1回という東京マラソンは雨の天気と言い、低い気温と言い、途中棄権者を相当出したことといい、50歳代の男性二人が倒れ、そのうちの一人は意識不明に陥ったということだが、どうなったのか、前以て期待していたトントン拍子とは正反対のケチのついた場面の続出に見舞われた。

 これが最初のケチのつき始めならまだしも、石原慎太郎は既に自身の4男の都政への関与や自らの外国出張でのカネをかけた大名旅行が都政の私物化批判を受けて、朝日新聞の電話世論調査(07.2.3~4)で支持率が過去最低の53%に下落するケチがつき始めているところへ持ってきて、この東京マラソンでのケチの追い打ちである。4月の都知事選が落選というケチの仕上げとならない保証はない。

 いわば都知事という地位に関して、自ら予想しているに違いないベストの展開に裏切られる、石原慎太郎が『内なる防衛を』で使っている言葉を借りるなら、「他与的」危険性がかなり高まった状況にあるケチの連続と言えるのではないか。
 * * * * * * * *
 参考間にでに朝日新聞の『石原都知事支持53%、過去最低 本社世論調査』(asahi.com/07.02.07/06:12)を引用しておきます。

 ――今春の統一地方選の焦点とされる東京都知事選への3選出馬を表明した石原慎太郎知事(74)について、朝日新聞社が3、4日に都民に電話で世論調査をした結果、支持率は53%で、これまでの調査で最も低くなった。3選出馬の理由の一つに挙げる五輪の東京開催については、賛成が54%で、反対の39%を上回った。だが、海外出張費など公金の使い方や、知事の四男が都の文化事業に関与することに6割以上が「適切でない」と答え、こうした点が支持率に影響したとみられる。

石原都知事の支持
 石原知事の支持率は、就任して3年たった02年4月の調査(78%)が最も高く、それ以後は減少傾向。今回は05年6月の前回調査(61%)より下がった。一方、「支持しない」は35%と、これまでで最も高かった。
 3選出馬については、「望ましい」は41%で「望ましくない」(29%)を上回ったが、「どちらとも言えない」との答えも29%あった。自民支持層の70%が「望ましい」としているが、民主支持層や無党派層では3割台にとどまった。
 海外出張費や知事交際費を巡る住民訴訟で、知事側一部敗訴の判決が相次いだ。公金の使い方は「適切だ」の19%に対して「適切でない」は64%。また、四男の都政への関与は「適切だ」が18%、「適切でない」が63%だった。知事を支持する層の中でも、ともに「適切でない」が「適切だ」を上回った。
  一般的な「知事観」についても都民に尋ねたところ、求める資質は「リーダーシップ」が45%で最も多く、「政策立案力」26%、「調整能力」24%と続いた。――

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「麻生総理」が見えてきた!

2007-02-18 10:47:04 | Weblog

 07年2月8日.『朝日』朝刊に載った『週刊新潮2月15日号』の広告の見出しにあった。

 裏を返せば、安倍内閣短期政権と見た近々の政局予想であろう。今夏の参院選で自民敗北と言うことになれば、責任を取る形で安倍退陣か、国民の信を問うと衆議院解散・総選挙に打って出るかの道がある。そこで自民敗北とまで行かなくても、議席を相当数減らすことになれば、退陣せざるを得ない。

 その後継内閣が麻生政権と言うことなら、政権交代論者にとってはうれしい予想となる。金権政治の象徴であった田中内閣退陣の後、自民党は金権色払拭を狙って清新イメージの三木武夫を担ぎ出すカモフラージュで逆境を凌いだが、柳の下にドジョウを狙って谷垣前財務相の担ぎ出しということになったら、したたかに自民政権維持ということになりかねない。例え息を吹き返した局面でかつての三木降ろしのように谷垣降ろしが始まったとしてもである。そこから再び延々と自民党政権が続くことになったら困る。何としても次は麻生に期待しないわけにはいかないだろう。

 因みに安倍内閣終焉への指標となるメディアの支持率調査を見てみる。最初にTBSのJNN(2月3日~4日の調査)の愛知県知事選、北九州市長選後の世論調査。

【安倍内閣支持率】
<不支持55・9%(+7・6ポイント)> 
 男性58・4%・女性53・6% 
<支持42・8%(-7・4ポイント)>
男性40・4%・女性45・0% 
<柳沢辞任すべき62%・辞任必要ない36%
<野党の審議拒否>
 支持する24%・支持しない71%
<政党支持率>
 自民 31・7% 先月比 -4・6ポイント
 民主 18・6% 先月比 -2・7ポイント
 支持政党なし 37・3% 先月比 +6・1ポイント
<参院選挙の趨勢>
 自民党中心の与党に勝って欲しい 39%
 民主党中心の野党に勝って欲しい 50%
 
 NHK世論調査 (07.2.13・放送)

【内閣支持率】
<支持しない 43%・支持する 41%>         
<支持する理由>
・人柄が信頼できる 31%
・他よりよさそう  31%
・支持政党だから  21%
<支持しない理由>
・政策が期待できない 41%
・実行力がない    35%
・支持政党でない    9%
<柳沢発言>
・辞任すべき     43%
・辞任の必要ない   32%
・どちらとも言えない 22%
<安倍内閣の対応について>
・辞めされるべき   38%
・妥当な対応     26%
・どちらとも言えない 33% 
<今の国会でどんなことを議論して欲しいか>
・「年金などの社会保障の問題」 44%
・「教育」           17%
・「格差」           13%
・「政治とカネ」        13%
・「憲法改正」            8%
* * * * * * * *
 世論調査に表れた兆候のうち何といっても一番は、「自民党中心の与党に勝って欲しい」の「39%」に「民主党中心の野党に勝って欲しい」の「50%」が11%も上回っていることだろう。この数字を維持しなければならないことは言うまでもない。

 また、NHKの調査で<今の国会でどんなことを議論して欲しいか>に対する回答として、「年金などの社会保障の問題」が「44%」と最も多く、これは2番目の「教育 17%」の次の3番目に重視している「格差」(13%)問題とも密接に絡んでいる。国民は第一番に〝生活確保(=生活保障)〟を求めているということだろう。

 だが、安倍首相は「成長戦略を進めて景気拡大を続け、果実を家計部門に広げる」(07.2.14.『朝日』朝刊・『「格差」正面対決』)と政策の優先順位を企業の景気拡大に置き、個人の生活を後回しとする、あるいは二の次とする政策を取っている。この国家中心主義とも言うべき政策は総理大臣たる安倍晋三政治の基盤を成す中心思想であるのは言うまでもなく、当然の結果性として、その順番は固定化されて、他の政策に於いても国が先、国民は次が常なる順位となる。

 〝景気拡大の果実〟を「家計部門に広げる」という国家中心主義の考え方を別の言葉で説明するなら、〝小〟より〝大〟の思想と言い替え可能となる。企業規模で言えば、中小企業よりも大企業を、国民一般で言えば、低所得者よりも中所得者を、中所得者よりも高所得者を上の順位に置くということだろう。
 
 国家優先・国民後回し(=二の次)、あるいは〝小〟より〝大〟の政策は野党の最低賃金上げの要求に対して、受け入れた場合、労働コスト増が生じて中小企業を中心に経営が圧迫されて国の経済全体が縮小し、ひいては国民の生活に悪影響を及ぼすからと受け入れに反対する姿勢により象徴的に表れている。個人消費が増えて、企業利益に還元されるという考え(内需拡大)も成り立つのだが、あくまでも上から下への政策に拘っている。
 
 郵政造反組の復党や佐田前行革相辞任原因となった政治とカネの問題だけではなく、国民の期待に反する国家優先・国民後回、あるいは〝小〟より〝大〟の政策が反映されることとなった支持率低下現象でもあろう。

 それがJNN世論調査では「自民党中心の与党に勝って欲しい 39%」と「民主党中心の野党に勝って欲しい 50%」の対比となって表れ、NHK世論調査の安倍内閣不支持理由として、「政策が期待できない 41%」、「実行力がない 35%」となって表れているはずである。
いずれにしても安倍内閣がジリ貧状態で支持率を下げていき、参院選で大敗を喫する、麻生待望論が持ち上がって、人間も軽い、考えも軽い麻生内閣誕生という流れとなれば、政権交代の可能性はますます膨らんでくる。

 以前、「創氏改名は朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と大真面目に口にしたズサンな頭脳の持ち主である。これは日本の総理大臣には重要な、安倍総理とどっちつかずの資質で、大いに期待できるのではないだろうか。

 アメリカのイラク政策に関しても、「ドンパチやって占領した後のオペレーションとして非常に幼稚なもので、なかなかうまくいかなかったから今ももめている」と言っていたが、「ドンパチ」という表現は街のアンチャンが好んで使う言葉ではなく、日本の政治家でなければ使わない言葉で、このことを以てしても、日本の宰相となるにふさわしい言葉の才能を持った大人物と確実に言える。

 与党が野党攻撃の一つとして、批判ばかりしていないで対案を出せを常套手段としているが、その言葉そっくり返すとしたら、「ドンパチ」やらずに済むアイデアを出せということになる。精々「ドンパチ」なる言葉を紡ぎ出す程度のことしかできないのだろう。

 07年1月17日の『朝日』夕刊『麻生氏激怒「マナー違反」 発言暴露の谷垣氏に』の記事も、麻生太郎が日本の次期総理大臣にふさわしい資質の持ち主だということを伝えている。

 「口は災いの元――。麻生外相は16日の閣議後会見で、自民党谷垣派会長の谷垣貞一前財務相が『俺に先に(総理を)やらせろ』という麻生氏の発言を暴露したことについて。『マナーとしていかがなものか』と不快感をあらわにした。谷垣氏は15日の講演で、麻生氏から『安倍(首相)に刃向かってできると思っているのか。だから俺と手を組もう』などと、派閥連携を打診されたことを明らかにしていた。
 麻生氏は会見で『こっちに対する返事をもらっていない』と発言内容を事実上認めた形だが、『その話を全然関係ないところでしゃべって、こっちにはまだ答を言っていない。普通じゃちょっと考えられん』と怒り心頭の様子だった。また、森元首相も16日の講演で、『(谷垣氏を)筋が通った政治家だなと見ていたが、これから彼に本当の話はしなくなる』と麻生氏をかばった。」

 いわば、麻生太郎こそが「筋の通った政治家」だというお墨付きを自民党最大派閥の前会長、陰の実力者たる「神の国」発言の森元首相から有り難くも戴いたのである。最大派閥からは安倍首相は首相職を受ける都合から離れているが、準構成員の立場にあるのは確実で、麻生が言う「安倍に刃向かってできると思っているのか」は、安倍個人だけではなく、その背後に控えている最大派閥の頭数も計算に入れての強要であることは間違いない。森が言う「筋が通った」にしても、政治家が何事も裏で事を運ぶ姿勢のことだなどと言うのは日本という国では野暮な邪推に入るからあげつらうべきではないだろう。

 だが、何よりも民主主義のルールに則って政策と投票を通して決すべき事柄を「俺に先に(総理を)やらせろ」と個人的な交渉事項とするのは、ウラ取引・談合の類に変えることであって、そのマナー術、あるいは民主主義意識にしても総理大臣となるにふさわしい誉むべき才能と言えるのではないだろか。

 国民が自民党の次の総裁は誰になるのだろう、投票の決着はどうつくのだろうかと固唾を呑んで推移を見守っている状況を裏切って既にウラで話し合いがついていた、出来合いレースだった、そのことに気づかれないように真面目な顔を装って所信表明したり政策論争したりする、新聞・テレビの世論調査を蚊に刺されたほどの痒みも感じず、腹の中で知らないのはお前らだけだと笑いたくなるのをぐっと堪えて真面目腐った顔で粛々と万歳三唱のフィナーレまで持っていく。日本という民主国家にふさわしいなかなか面白いシナリオではないか。

 谷垣発言をより詳しく知りたいと思ってインタネットで調べているうちに「Yahoo!みんなの政治」に2007年1月29日発行の朝日新聞『AERA』の『谷垣の密約バラスメント』(ライター 永田十三)なる記事が出ていた。要旨をかいつまんで説明すると、先ず谷垣の発言は次のようになっている。

 「あまり単純化すると麻生さんに怒られるかもしれないが、『俺と一緒に組んでやろうぜ』というのが麻生さんの議論。ただ条件はひとつ。『俺に先にやらせろ』が麻生さんの条件」

 記者はこの谷垣発言を「かつての麻生氏のお株を奪う『失言』だった」としている。解釈は人それぞれで色々と成り立つが、その理由は麻生・谷垣の「サシの会談は昨年2回あった」ということで、1回目は色々と内幕を解説した上で「谷垣氏が漏らした通り『俺に先にやらせろ』と麻生氏がその席で語ったとすればそれはとりもなおさず、『大宏池会の統一候補は俺でいいだろう』という意味になる」と「俺に先に」は〝総理・総裁〟のことではないと解釈している。

 次の「2回目は安倍政権発足後2カ月の時期であり、内閣支持率も急落する前で、『ポスト安倍』話などまだまだ絵空事の時期だった。従って『俺に先にやらせろ』というのも、『大宏池会の会長は俺でいいだろう』という意味になるのである。」と上記解釈をそのまま踏んでいる。

 だから記事の題名を「バラスメント」と、日本語の〝ばらす〟という負の行動を示す言葉にこれも負のイメージを持った〝ハラスメント〟(嫌がらせ)という英語と重ね合わせたのだろう。

 だが、「大宏池会の会長」とは内閣支持率の推移とは関係なしに、総理・総裁を最終駅とすると、その一歩手前の駅に擬えることができる次へのステップと把えているはずである。先方に総理総裁を見据えた「俺に先にやらせろ」と言うことであろう。「大宏池会の会長」を終着駅と見据えて、「俺に先にやらせろ」ではあるまい。また、政治的資質からも、人格性からも次期総理・総裁に最もふさわしい麻生太郎である。何が何でも総理総裁を「俺に先にやらせろ」であって欲しいし、そうでなくてなならない。

 記事の結論は、「さて谷垣氏の告白、薄れるばかりの存在感を何とか示そうとしたとか、大宏池会構想の主導権争いで麻生氏を牽制したとか、解説は多々あれど、残ったのは覆水盆に返らずのたとえ通り、恩讐を超えて派閥が再団結する難しさを改めて浮き彫りにしただけである。慎重居士でなる谷垣氏の、かつての麻生氏のお株を奪う「失言」だったと言うよりほかない。」としているが、この解釈は安倍の次は麻生だという流れをより確実とする解釈ともなり得る。日本のためには、いわば政権交代の誘い水として、ますます結構な解釈ではないだろうか。早く次は麻生で決まりと決着がついてもらいたいものである。

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歴史・伝統・文化を背景とした日本の成熟した選挙文化

2007-02-17 12:38:01 | Weblog

 2月16日(07年)の『朝日』夕刊の『ベルリン映画祭・ニッポン選挙、外遊中・ドキュメンタリー、タスキ姿でPR』は日本の選挙スタイルが世界に知れる端緒ともなり得る世紀的な瞬間を伝える記事に思えるゆえに、まだ読んでいない人のために全文を引用して紹介してみる。

 実際に市議会補欠選挙に立候補して当選した出演者でもあったタスキ掛けの山内和彦氏が候補名を書き入れたのぼりを脇に立てた日本ではお馴染みの選挙スタイルで通行人のベルリン市民に選挙戦よろしく握手を求めているシーンを招待作品(とTBSの同じ日のニュースは伝えていた)の『選挙』を監督した想田氏がビデオカメラに収めている写真が記事の脇に載せられている。

 「ご通行中の皆様、私とともに映画界にも改革の波を起こそうではありませんか――。ベルリン国際映画祭のメイン会場ベルリナーレ・パラスト前で1 5日午後(日本時間16日未明)、日本語の演説が響いた。同映画祭参加作品『選挙』に登場する川崎市議の応援演説で、日本流のスタイルは、政治に関心が高いとされるベルリンの観客に驚きと笑いを持って迎えられた。(ベルリン=深津純子)
 05年秋の川崎市議補選で自民党の新顔として立候補、当選した山内和彦さん(41)の活動を追った。2時間のドキュメンタリーで、フォーラム部門に参加した。監督はニューヨーク在住の映像ディレクター想田和弘さん(36)。
 想田さんと山内さんは東大の同級生。山内さんはいくつかの大学や仕事を経て東大に進み、卒業後は東京都内で切手・コイン商を営んでいた。その意外な転身を知った想田さんが帰国し、カメラを回した。
 告示前から投開票日までの、遊説風景や陣営内部の人間模様が描かれている。外では『候補』と持ち上げられる山内さんだが、握手の仕方のような細部まで、支援者や先輩議員から小言が飛ぶ。
 『人が街頭で耳を貸すのは3秒。その間に1回名前が入るように』と参謀。『政治の世界で「妻」はおかしい。「家内」でしょ』という声に山内さんの妻は困惑し、夫に怒りをぶちまける場面も。
 映画祭での初回の上映は満席。運動会ではラジオ体操をし、秋祭りではみこしを担いで支持を訴える山内さんに、ベルリンの観客は興味津々。段取りの悪さに怒った支援者が『世が世ならハラキリものだ』とぼやくと大爆笑が起きた。
 女性客の一人は『奥さんが「妻(字幕ではwife)」ではなく、「家内(housewife)」と名乗らされるのはかわいそう』。別の観客は『「改革」「改革」と言うけど、どう変えるの?日本の有権者は何を規準に選ぶの?』。
 60分の短縮版が今秋、英国BBCの連作『民主主義』の1本として25カ国で放映され、米国の公共放送PBSでも82分版が来年放送される予定だ。日本公開も有望といい、想田さんは『できれば夏の参院選に合わせたい』と考えている」

 TBSのJNNニュースで、(先ずタスキ掛けの候補者が背中を見せて駆けていく姿が映し出される。字幕に「Hello !」)

 第57回ベルリン映画祭招待作品『選挙』監督・想田和弘
 Hellow sir ! ! Home are you ?
 男性解説の声「この映画の舞台は2005年の秋に行われた川崎市議会の補欠選挙」

 (夜、左手にマイク、右手に選挙用パンフレット。タスキ掛けの候補者が候補者の顔付きの幔幕を貼り付けた選挙カーの脇に立って演説中。
次に夜の駅前。電車から降りて駅から出てきた中年男性に姿勢を正して腰を曲げ、頭を下げるシーンが映し出される。)

 「Welcom home after a hard day’s work.
Good evening This is Yamauchi.
 解説「自民公認の新人候補者山内和彦さんの、いわゆるドブ板選挙に密着、ノンフィクション作家として選挙の舞台裏を描いています」
 Please support, Yamauchi ! !

 (「山内和彦にご支援ください」か、「山内和彦に清き1票を是非投じてください」とか言ったのだろう。次はラーメン屋で夕食のラーメンを慌ただしげにすすっているシーン。向かい座っている女性は新聞記事から憶測すると、「家内(housewife)」かもしれない。「家内(housewife)」が若くて美人で有名大学卒の学歴があれば、集票力は高くなる。アメリカにでも留学していて、英語ペラペラだと言うことになったら、当選間違いなしだろう。)

 (街中で投票のお願いのシーン。集まっている人に選挙スタッフと共に腰を低くして両手で握手を求めていく。「山内和彦を是非よろしく」を連発でもしていたのか。)

 This Yamauchi Please give your vote.
Ok.

 (選挙事務所の中。)
 I’m not finished tet.

 (し残したことがあるらしく、タスキ掛けの候補者が身軽に身体を翻して事務所から飛び出そうとすると、参謀か「ちょっと話があるでしょ!」と声を険しくして机を激しく叩く。候補者は慌てて「ごめんなさい」と謝って、さっと椅子に腰を下ろす。すぐにシーンは移動中の選挙カーの中。)
 
 明らかに「家内(housewife)」なのだろう。「あんたがしっかりしていないから、そう言うことを言われるんでしょ」 
 It’s because you’re so weak that they talk to me like that

 (これが「家内(housewife)」以外とか近親者以外の女性だったら、大変なことになる。彼女自身も叱られたようだ。)

 Please protect our“campain cars”……
so ther will be no accisdent during the election…….
 解説「ベルリン映画祭の招待作品に選ばれたこの映画は今日が世界始めての上映で、今後短縮版が欧米25カ国のテレビ局でも放映される予定です」

 (画面は選挙事務所の中で神主にお祓いを受けているシーン。候補者とその他が勢揃いして神主が振るう棒についたお祓いの道具(祓麻・はらえぬさ?)の前で神妙そうに頭を下げている。)

 (次に新聞がが報じていた運動会のグラウンドなのか、画面左端にタスキ掛けの候補者が位置していたから、選挙関係者一同なのだろう、一斉にラジオ体操の両手・両足を揃えて何度か跳躍した後、両手・両足を左右に開いて跳躍を続ける運動のシーンが映し出される。ご苦労なことである。)

 解説「撮影や編集を自ら手がけたと言う想田和弘監督はニューヨークを拠点に活動していますが、既に日本にも上映の話が進んでいると言うことです」
想田監督「政治って何だろうとか、民主主義って何だろうとか、我々の代表を選ぶことはって何だろうということについて考える機会とか、それから刺激?で、そこでディスカッションが起こるような、そういうようなことの機会?になってくれれば凄く面白いなあと――」

 (選挙カーの窓から候補者が身体を乗り出して振る手とそれに応えて手を振り返す黄色い帽子の幼稚園児の集団が映し出される。幼稚園児の集団が過ぎ、通りがかりの通行人にも両手を大きく広げて両手を振るシーンが続く。外国人が見たら、幼稚園児は選挙権がないのだからムダなことではないかと思うろうが、愚かな話で、選挙権がなくたって、子どもから話を聞いた親が心を動かすかもしれない。日本の政治家なら誰でもやっている大事な努力の一つである。子どもから手を振ってもらえないようなら、政治家になるな。)

 解説「映画では候補者が政策を訴えるシーンは殆どなく、名前を連呼して走る選挙カーや握手だけをし続ける日本の独特な選挙戦に観客らは驚いたり、あるいはコメディ映画を見ているような大きな笑いが起こりました」
 
 (解説にかぶせて、観客席からスクリーンを見入っている観客の映像が映し出される。そしてスクリーン上のシーンだろう、神輿を担ぐ候補者の映像。それを見入っていたるらしい観客の映像が再度映し出される。)

 解説「結局山内さんは市会議員に当選したのですが、この春の選挙には出馬しないと言うことです」
 話す言葉からドイツ人か、40代?男性「異様だと感じた。選挙戦にまったく中身がなかったし――。候補者は政治家ではなかったし――」
 30代?女性「一瞬笑っちゃうけど、実は真面目なメッセージが込められている映画ね」
 
 (夜のベルリン映画祭会場の前。)

 解説者(里土)「ある観客は日本人はこの映画をどう見るのかと真剣に問いかけてきました。選挙戦の一面を描いたドキュメンタリーとはいえ、政治家を選ぶ日本人の政治意識に厳しい目が注がれています。」
 * * * * * * * *
 ドイツ人らしき男性の「候補者は政治家ではなかったし――」はあくまでドイツという地域に於いてはという条件付きであって(まあ欧米の他の国でも同じだろうが)、日本ではこれが政治家の全体的な姿なのである。これ以外の姿を見せたら、政治家ではなくなる。そのことを十分に理解してもらわなければならない。そのための「ドキュメンタリー」であり、あとのドイツ人らしき女性の「実は真面目なメッセージが込められている映画ね」の感想が示しているとおりに、これが日本の政治家の姿だよ、日本ではこのような選挙慣習で政治家が選ばれるんだよという「メッセージが込められている」のである。

 『朝日』の記事では「段取りの悪さに怒った支援者が『世が世ならハラキリものだ』とぼやくと大爆笑が起きた」と伝えているが、不謹慎も甚だしい、日本では当事者は真剣、且つ神妙に受け止めたことだろう。武士は重大な過ちを犯したなら、腹を切って責任を取る。そのような武士の立場になぞられるくらいに、立候補者は当選のためには少しの失敗も過ちも許されないのである。だから日本の政治家は何かと言うと、「命を賭けて」と言う。その割には責任を取らないが。

 既に戦後すぐの時期に日本占領連合国軍最高司令官マッカーサー元帥に恭しくも畏くも「日本人の政治意識は13歳の少年だ」と名誉ある素晴しい評価を受けているのである。戦後日本の凄まじいまでのアメリカ文化の強姦・陵辱から自らの貞操・身を守ることができたのは日本の政治意識・選挙文化のみではないだろうか。

 ああ、まだあった。江戸時代以来の美風だという談合文化とワイロ文化。

 このような無事・安全の構図を安倍首相の言葉を借りて説明するなら、「戦後レジーム」の精神汚染を受けることなく、清らかな無疵の姿のまま延々と引き継ぐことができた日本の選挙文化・談合文化・ワイロ文化はそこからの「脱却」を図る必要もなく、3文化とも絡み合って相互扶助関係にあることでもあるし、当然「脱却」の対象から外さなければならない。

 「戦後レジーム」の疫病に冒されずに生き延び、成熟期に達した美しい日本の歴史・伝統・文化を絶やすことなく、未来の日本に受け伝えていくべきではないか。例え世界から異質だと笑われようとも。

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みのもんたの感性

2007-02-16 08:27:25 | Weblog

 07年2月14日のTBS「みのもんたの朝ズバッ!」。司会者みのもんた、ゲスト民主党参議員の岡崎トミ子、自民党衆議員河野太郎、コメンテーター岸井成格(しげただ・毎日新聞特別編集委員)。2月13日に衆議員予算委で行われた「格差問題」の質疑に関して。

 みのもんた「我々国民が見ていても、どこに格差があるか、分からないんですよ。あのー、菅さんにしても、ひじょーにボクなんか、岡田さんにしても、前原さんも、何で折角野党のね、人たちは時間貰ってるのに格差って言葉を使うんだけども、ここが格差だよ、こういう格差があるよ、具体的に挙げて、何で話しないんですか」
 岡崎トミ子「そうですね。やっぱりあの――」

 (「そうですね」はないだろう。「そんなことありません」とキッパリ否定して、自分たちの主張の土俵に引きずり込むべきだが、その一言でみのの言い分を正当化させてしまう。愚かしいことだ。)

 みの(遮って)「格差あることは格差がある。我々国民が見ても、どこを見ても格差があるんだ、分からないんですよ。野党の菅さんたちにこういう格差、こういう格差って、指摘してね、それについて返事しろって言って欲しかったですね」

 (それはみのが一員として所属している富裕層の視線でしか社会を俯瞰できない感性の限界を抱えているからだろう。このことを裏返すと、一般庶民の味方・正義の味方を演ずるのは単なる視聴率稼ぎのポーズでしかないことを証明していると言える。)

 岡崎「そうですね。そういう議論を進めて欲しかったなと私も思いますけれども、やっぱりあの、働き方のパートの人たち、請負の人たち、そういう人たちが3分の1なんです。それが正社員と非正規社員との間に格差になって、少子化問題にまで、こうなっているというのが現状ですから――」

 (「どのような格差があるのか、国民は大体のところは分かってるんです。ただ、政府は格差自体を認めない、小泉さんは格差はどこの国にもある、どの社会にもあると開き直っていたくらいですからね。自分たちの失政となるから、格差を過小評価する態度に終始してますから、こういう格差があるとストレートに攻めても、景気回復を持続させていけば企業が利益を上げる、その利益を順次下に回して生活を底上げしていくと、直接働きかけるのではなく、間接的な方法に頼るだけのことで、低所得者を直接思いやる政策ではないですから」ぐらいのことは言えないのだろうか。)

 みの「だから、例えばあの、小学生の未来とかね、中学生の未来とかね、教育受けられる、受けられない、こういう順序でこうなっているの、どうすれば打開できるんだ、細かく聞いてくれれば分かるんだけども」

 (自分の言っていることが教育の機会均等の原則に反し日本社会に現存するた重大な格差の一つであり、そのことは「我々国民が見ても、どこを見ても格差があるんだ、分からないんですよ。」の主張を自ら否定する発言だという認識すら持てない。その程度の頭しかないと言うことなのか。それと報道番組の司会者なのだから、もう少し論理的に喋れないものなのだろうか。)

 岸井成格「ある程度そうなってますけどね。これはさっきも言ったように総括質問なんです。だから、今度一般質問に入ってから具体的に一つ一つやっていくっていう、そういう順序なんですよね」
 みの「まあ、野党もあれでしょ?具体的な案をどんどん出しなさいよって――」
 岡崎「出しています。あの、法案を出していますので――。その中では例えば最近の問題で、今は平均637円ですけれども、例えば東京の719円で見たとしても、1年間1800労働時間働いても、年間130万の収入なんですよ。つい働けど働けど、わが暮らし貧困だというのが問題なんです。働いても暮らせないというのが。そこが問題なんです」
 みの「何かそういう細かいところまで分かってらっしゃる野党のみなさんが領収書5万以下って言うのがはっきりしないんですか?」

 (格差問題を討論しているのに、何で急に政治資金の領収書問題に移るんだ。)

 岡崎「今は意見が一致してますよね(と左隣の河野太郎に同意を求める)でも、本当に全部さらけ出した方がいいだろうという――」
 河野太郎「どこまでいいだろうと線を引くのが事務作業が大変だと言うなら、全部出せばいいんですよね。全部出すなら、一々仕分けしなくていいわけですから」

 (単純。出せるものなら、今までだって領収書を出していただろう。出せないから、領収書不要の中にあれやこれやぶち込む操作を必要とした。操作しきれないものは隠す。出せなくて、領収書不要でも操作できないとなったら、すべて隠すだけのこと。)

 みの「ボクねえ、その、大変だっていう感覚を先ず国会議員はなくさなくてはダメだと思う」
 岡崎「ハイ」
 みの「ウン」と納得顔。

 (全く以て単純。何が「大変」なものか。事務所経費に関して領収書不要なのをいいことに事務所経費ゼロの国会議員宿舎に相当額をおんぶさせて、さも経費がかかったように見せかけた、そのことの正当化に「大変」を口実に使っているだけのこと。何も「大変」ではない。表に出せないカネを事務所経費にうまく化けさせた達成感は何とも言えず、一杯上げた国会議員もいたに違いない。)

 岸井「議論、みのさんが言うのが分かるのはね、やっぱり今度の政治決戦っていう中で野党、特に民主党、野党第一党として、自民党とここが違うから政権交代が必要だっていうことを訴えてるわけでしょ?だったら、この国会の論戦の総括の中んで基本政策をきりーっと出すべきなんですよ。それが出ていないから、遣り取りも何となく活発もならず、不満があるんですよね」
 
 (民主党に必要なのは立場・立脚点を明らかにすることではないだろうか。国民の中でどの階層に立つか。民主主義・自由・人権を自らの価値観として共通の価値観を有する国際社会の一員としての立場を維持しながら、生活・暮らしに関しては一般生活者の立場に立つことを明確に宣言すべきではないか。そうすればすべての政策が国民の目にはっきりとするだろう。勿論、国の経済も大事で、それとのバランスも必要になるが、一般生活者の生活により直接的に目配りを効かせた政策を採択する。企業利益の国民生活への波及・循環に待つ富の再配分ではなく、個人消費の利益の全体経済への波及・循環による国の活性化を図る。いわば自民党の〝上から下に〟ではなく、民主党は〝下から上に〟の立場を採る。社員の給与を上げると、企業の国際競争力が低下し、経済に悪影響を及ぼすと言うなら、公務員の人員のムダ・仕事のムダを徹底的に排して、その余剰金を財政再建にだけでななく、各種減税原資に回して、企業の法人税、個人の所得税を減税して、結果的に両者の所得を増加させるという方法も効果的ではないだろうか。個人消費が増加すれば、国の税収も増加する。公務員の数を減らし、且つ不正な随意契約とが談合とか天下りとかを禁固刑に処する程の厳罰を以て禁止する。

 この方法を採るなら、民主党は最低賃金を全国平均で時給1000円への引き上げを主張しているということだが、1000円の全国一律上げでもいいのではないか。平均だと、経済が活発な東京とか愛知、静岡と言った中部圏、大阪等の近畿圏が取り過ぎて、過疎県が現在と変わらないという状況が起こりかねない。過疎県であっても個人消費が少しでも活発になれば、
全体への波及が少しは望める。最低賃金の一律上げが地方の小規模経営の中小企業の打撃となるというなら、そのために国は何らかの助成を行うか、元請の大企業が負担すべきだろう。大企業でございますと今あるのは今まで散々下請泣かせを行ってきた前科を土台にしてのことなのだから。)

 岡崎「いや、働き方という意味では格差の問題をきちんと提示しております。格差の拡大の問題と、これ働き方の問題ですね、それと働いて暮らせないという問題ですね。貧困という問題。ワーキングプアというこの状況。ですから、その最近の問題ですとか、長時間労働の問題ですとか、パートの均等待遇の問題ですとか、きっちり、あの出して、私たちの、その楽屋(?)なんかもきっちりと出て、戦おうと思っております。そこはきっちりと出してるんですけすがね」
 河野太郎「格差というよりも、要するに働く人がおカネをたくさん貰うのは悪いことでは何でもないわけですから、やっぱり格差問題よりも貧困問題なんだと思うんですよ。そのお、英語で言うと分かりにくくなっちまいますけど、ワーキングプアと言われているような。だから、そのー、だから、その底辺をどうやって(両手を平を上にして上げる仕草をする)――」
 みの「働けど、働けど――」と茶化す。

 (河野太郎は自民党議員らしく、格差隠し、格差過小評価の立場に立っている。格差の最大値が貧困であって、格差と貧困が密接につながっていることを無視している。それに「働く人がおカネをたくさん貰うのは悪いことでは何でもない」のは、あくまでも公正な機会均等のルールに裏打ちされた社会的達成を条件としなければならないはずで、親の収入次第で学歴が規制されるとか、学歴や年齢、性別で就業が規制される、あるいは政治家の口利きで商売を有利に進めて利益をたくさん上げる、談合で仕事を獲得する等々の機会不公正・機会不平等の社会ルールの下では、必ずしも「悪いことでは何でもない」とは言えない。保険会社が口実を設けて払うべき保険金を払わないで、会社の利益とする。銀行や証券会社が自分たちの利益を上げることだけを考えてリスクの説明なしで金融商品を売り、損を与えても責任を取らない。誇大宣伝で会社の利益を上げる。銀行が一方で貸し剥がしを行いながら、その一方で暴力団や総会屋に多額の金銭供与を行う。世の中にはいくらでも「働く人がおカネをたくさん貰うのは悪いことでは何でもないわけです」とはいかない例がゴマンと転がっている。河野太郎なる国会議員は世間を生きていながら、世間知らずの人間にできている。)

  岸井「そこがね、見ている国民とか視聴者からすると分かりにくいんですよ。その、自民党と民主党の違いが。みんな何となく実感は、それはありますよ、それは――。働き方の格差とかね」
 河野「格差をなくせって言うなら、昔の共産主義を目指しているんですかっていうことに――」
 岸井「そう、そう、そうなるんでしょ?」

 (格差をなくすことがなぜ「共産主義を目指」すことになるのだろう。それは共産主義だと格差是正を否定する口実に過ぎない。大体が格差是正と共産主義を結びつけること自体が短絡的単細胞人間でなければできないワザ。共産主義は決して悪ではない。ただ単に自己利害から抜け出れないために共産主義の理想を実現させるだけの知恵を人類は持たないだけの話。上から下までそれぞれの段階で平等の美名の陰に隠れて自己利害に精を出してそれ相応の怠惰な特権階級をつくり、、結果として社会の運営の効率性を欠くことになった。
 その点、自由主義国家であっても公務員の地位にある政治家・官僚・役人の類が自らの地位・待遇の上にアグラをかいて自己利益獲得に邁進し、非効率な仕事を専らとして、一種の怠惰を特権階級と化していることとたいした違いはない。)

 岡崎「あまりにもひど過ぎるんです」
太郎「格差がいけないことかって言えば、そうじゃないんですよ、要するに下をどう上げるかっていう話で、一生懸命働いた人が一生懸命おカネを稼ぐのは別に悪いことじゃないですけどね」

 (国の税制が企業に有利で、一般国民に不利になっている。あるいは金持ち優遇税制と言うこともある。そのような不公平税制の恩恵によって一生懸命働かなくても、おカネをたんまりと稼ぐことができる層が一方にでき、額に汗してもたいしておカネを稼ぐことができない層が他方にできる。その結果の格差も、河野太郎に言わせれば、「格差がいけないことかって言えば、そうじゃないんですよ」と言うことになる。物言いがどことなく舌っ足らずなのは器質の問題だから仕方がないとしても、考えまでが舌っ足らずなのは如何ともし難い。)

 岡崎「それは否定しないんですよ。あんまり格差が開きすぎている。働き方によって二極化が進みすぎているという問題があると思います」

 (おい、おい、民主党、しっかりしてくれ。〝格差〟とは所得格差とか待遇格差だけの問題ではないではないか。学歴格差、税制格差、地域格差、男女格差、障害者差別という格差、官民格差、元請と下請との格差、年齢格差、学校格差等々は公平なルールによっては生じることのない格差であろう)

 太郎「格差って言ったら、上を降ろせっていう議論になっちゃいますから、そうじゃないよと。下をどう上げるのかっていう議論なんですっていう話を――」

 (相変わらず考えが舌っ足らずだ。企業が最低賃金を上げることに反対しているのは、そのことによる人件費の全体的な高騰が製品コストに跳ね返って、世界市場での競争力を損なうことを恐れているからだろう。いわば、「下を」「上げる」ことが「上を降ろ」すことになる論理からの反対である。「民主党など野党側の格差是正策は、高所得者層の税や社会保険料を引き上げ、低所得者層に再配分することで、格差拡大を防ぐイメージだ。(東京新聞インターネット記事)」に対して、「政府・与党はこれを『結果平等の古い自民党の政策』(塩崎長官)などと批判。格差そのものは否定せず、規制緩和などによって大企業や高所得者層の活動を支え、結果的に雇用創出や賃金上昇など、低所得者層にも恩恵が回る好循環を生み出すことを掲げている。(同)」ということも民主党の「上を降ろせ」に対する自民党のその不要論となっている。「企業も痛みを分かち合うべきだ」という主張も、同じ線上の主張で、そういった議論・主張もあることを頭に入れておくべきだろう。)

 (民主党の政策を自民党は「結果平等の古い自民党の政策」と批判しているが、自民党は一度として結果平等の社会を実現したことはないではないか。「結果の平等」など人間がいくら逆立ちしたって、実現できようがない夢の調和であって、問題としなければならないのは妥当な結果か不平等な結果かであろう。結果が他人の力を排した個人の裸の才能・裸の努力・裸の人間性で決まるなら、いわば財力とか口利きの縁故とか門閥とか学歴とか性別とかで決まるのではなければ、その結果の違いは妥当として受け入れなければならないが、機会の不均衡を出発点とした場合はその殆どは不平等の結果となって現れる。民主党の政策は機会の平等に近づけようとするものだろう。)

 岡崎「ですから、先ほど申し上げたように最低賃金制の問題ですよね。この地域別だと言うことについて、1000円ぐらいに上げなきゃいけないという――」
 みの「ただね、岡崎さんね。ボクが思うのはね、最低賃金と今おっしゃいましたよね。でも、最低賃金が保証されるってのは、それはまずいことですよ」
 岡崎「でもね、働いて――」
 みの「そこが全然違うんです」
 岡崎「働いて暮らせない国って、どういうものなんでしょうか?」
 みの「それとは違う話を今しているんですよ、ボクは。岡崎さんに聞きたいのは」
 岡崎「ええ」
 みの「一生懸命働いて最低賃金を獲得した人と、一生懸命働かないで最低賃金を獲得した人と同じっていうのはおかしくないですか?」
 岡崎「いや、だから、最近は働いた人に対して払われる問題ですよ。生活保護という問題について今言っておりません」
 みの「じゃなくてね、最低賃金ってのは何を以て最低賃金と言うんですか?」
 岡崎「暮らせると言うことです。今――」
 みの「じゃあ、最低賃金を保証するから、最低の生活を保証して上げるから、それだけ貰えればいいよって、ウン、生活で甘んじている人が出てくるわけですよ」
 岡崎「でもやっぱり、私は基本的に健康と幸せな暮らしを実現するという、下から叩き上げていく考え方で物事は決めていく。欧州の考え方はそういう考え方ですけど、それを是非日本の中でも実現していく」
 岸井「じゃあ、そういう議論になったら、ちょっとこういう話を聞いたら、そういう政党の違いが、基本的に考え方の違いがあるかってことがね、見えてこない。なかなか」

 (何を言っているのか分からない。)

 みの「そうするとね、あのー、民主党の言っていることも自民党の言ってることも、次元的には同じになってくるんですよね(苦笑を洩らす)。それで恐らく一つの法律が生まれてくると最高なんですよねえ――。今のこれだと結論出ないで、多数決で決まっちゃうような気がしてしょうがないんですよねえ――」
 岡崎「あ、そうですねえ。だから――」
 みの「それが凄く残念なんですね」
 岡崎「予算委員会の中で、議論を進めていくべきだというふうに思います」(以上)
 * * * * * * * *
 なぜ岡崎民主党参議院議員はみのが「最低賃金が保証されるってのは、それはまずいことですよ」といったとき、「なぜまずいのですか」と問い質さなかったのだろう。
 
 「最低賃金」とは「一生懸命働いて」「獲得する」達成を目的とした労働賃金ではなく、保証されるべき賃金、生活保証の金額であろう。最初に賃金ありであって、「一生懸命働」くとか「一生懸命働かない」とかは採用後の問題であり、使用者側が処理する問題である。給与相当に働かないが、募集しても3Kが原因して応募者がなかなか現れないから仕方なしに使うしかないということもある。リストラするも、使い続けるのも使用者側の判断である。「一生懸命働かない」からとリストラする使用者側の資格は「一生懸命働」く人間をそれ相応の賃上げで評価することによって正当性を獲得し得るが、日本の製造現場ではなかなかそうはなっていない。

 また、「それだけ貰えればいいよって、ウン、生活で甘んじている人が出てくるわけ」であっても、賃金は労働の対価として支払われる関係にあるから、最低賃金相当の労働を提供すれば支障はないわけであって、最低賃金内の「生活で甘んじ」る「甘んじ」ないは個人の問題であろう。「甘んじ」ない人間はさらにうえの賃金・社会的達成を目指して、労働に精を出す。

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