祝政権交代 日本の新しい夜明けとなるか

2009-08-31 00:02:18 | Weblog

 上掲タイトル画像右の民主党党旗は麻生愛好の、愛好が過ぎてパンツに仕立てて毎日穿いているという噂はないが、二枚の日の丸を「ひっちゃぶいて、二つにくっつけてぇー、え、えー?」民主党の党旗にして画像化したものです。

 民主党が第45回衆議院選挙に勝利して政権交代を果たした。真夜中の0時を過ぎたところで、民主党は絶対安定多数を超える286議席を獲得している。

 民主党の責任が重大であるのは当然だが、民主党に特に政権交代を期待して1票を投じた有権者にも選択した責任が伴う。

 その責任履行の方法は改めて断るまでもなく、今後の民主党政治を監視し、イエス・ノーを世論調査、メール、ブログやHP、その他の何らかの方法で示すことであろう。

 ノーが多数を占めてもその政治が改まらない場合、再び自民党政治に戻るのは厭だという強い忌避感から、もう一スパン民主党に託すか、あるいは毒を喰らわば皿までと以降も一蓮托生でいくか、あるいは敢えて自民党回帰を選択するか、やっぱり駄目だと早々に自民党に戻るか、有権者がそれぞれに次なる選択をすることになる。

 鳩山代表がNHKの開票報道番組の中でインタビューを受けて、「民主党が勝ったということではなく、国民が勝利したと言うことでなければ意味はない」といったことを言っていた。今のところは選挙に限っての国民の勝利でしかないが、民主党が自らが掲げた政策をよりよい形で実現させ、国民の利益に適ったとき初めて国民の勝利だと言える。我々の選択は間違っていなかったと国民は自らの勝利を確信することができる。

 鳩山代表は「民主党政治は今以て国民の勝利に結びついているのか」と四六時中自らに問いかける必要があるだろう。

 相撲で言えば、横綱に昇進したが、強い横綱になれるか、弱い横綱のままで終わるか、今後の闘いぶりで決まってくる。強い横綱になるためには明日からでも土俵に降りて、政権担当の稽古を始めなければならない。

 勝利に酔っている暇はない。このことはインタビューを受けていたときの鳩山代表が責任をひしひしと感じている表情を崩すことができなかったところに表れている。

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問題を真正面から把えていないことから生じている麻生のやはり口先だけの“謝罪”

2009-08-30 10:17:43 | Weblog

 昨29日夜のNHK総合テレビ『真夏の政権攻防 党首列島を駆ける』――

 麻生の“謝罪”が口先だけであることを証明するために謝罪から入った遊説を最初に取り上げなければならない。

 麻生「冒頭、先ずお詫びから、申し上げなければー、ならないと存じます。一連のォ、一連のォ、構造改革、などなど、一連の改革によって、確かに、我々の通信とか、情報とか、インターネットなどなど、遅れていた部分が、一挙に世界最先端と、いうところまでいくことができました。

 しかし、他方、改革によってェ、地方にひずみがよったァ。ワーキングプアが生まれたァー、などなど、一連の経済改革によってェ、国民のォ、一部にひずみが出てきたと、いう点に関しては、我々はァー、この点に関してはァー、目が行き届いては、行き届いてはいなかったのではないかと、率直な反省の上に立って、我々はァ、今後の政策を進めていかなければならないと思っております」――

 中身を問わないハードのみの「世界最先端」に過ぎないことに気づかない。 

 「~したのではないのか」(~したのはないだろうか)は一般的には疑問の問いかけを表す。自分に問いかける場合もあれば、他人に問いかける場合もある。例えば「俺はとんでもない失敗をしてしまったのではないのか(失敗をしてしまったのではないだろうか)」といった具合に失敗の疑いを自分や他人に問いかけたりする。

 だが、麻生のここでの使い方は一般的な使い方とは逆に他人が麻生に疑問を問いかけた形を取っている。いわば他人がそうではないかと疑っていることを自分は聞いた伝聞の形としている。

 これは「目が行き届いていなかった」、あるいは「目が行き届いておりませんでした」と断言することで目が行き届いていなかったことを自分から事実だと確定し、自分から認める姿勢とはなっていないことを示している。この誠実さを欠いた態度からも麻生の謝罪がどの程度のものか知れる。

 例え聴衆に問いかけた疑問であったとしても、今さら問いかける問題ではないのだから、誠実さを欠いている点に変わりはない。

 相互反映する関係から、誠実さを欠いているからこそ、責任意識を欠くことになっている。

 NHKの女性解説者が鳩山由紀夫民主党代表を「互いを尊重し、支え合いを大切にする友愛を政治信条にしている」と紹介していたが、政権交代を果たし、政権を担当することとなった場合、それを自らの政治で表現できるかどうかが今後問われることになるが、青森県の八戸市での遊説の姿を伝えている。

 多くの聴衆が集まっていて、演説会場に集まった一人ひとりの声に耳を傾けたそうだ。その中で「一人の女性が切実な思いを訴えました」とその場面を映し出していた。相手の女性の姿はたくさんの人影に隠れていては帽子以外は見えず、はっきりと映さなかったが、鳩山と両手を握り合って、鳩山が何か真剣に聞き入っている様子を見せていた。マイクを握って演説を始める。

 鳩山由紀夫「このお婆ちゃんの息子さん、35日前に仕事がない、ふるさとに戻ってきたけど、働き口がないと、命を絶っちゃったんだそうです。こんなことが現実に起きているんです。数字の上だけで3万人、毎年(まいねん)亡くなっている。必ずしも、私もそうですが、政権与党の政治家たち、実感がなかったんじゃないでしょうか。みなさま方の周りにも経済的に追い込まれて、あるいは病に倒れて、あるいは介護に疲れて、こんなはずじゃなかったと、希望を失って、命を絶とうとしている方があるいはおられるんじゃないかと思うと、いたたまれないんです。そういう方々のところに、社会的に弱い立場の方々のために、政治っていうものは、あるべきじゃないんじゃないんですか?」

 政治は社会的に立場の弱い者のためにある。政治の価値をそこに置く。話したことを話したとおりの価値づけへと持っていかなければならない。責任重大である。

 次にエコポイント制度の成果を確かめるために遊説に訪れていた静岡県浜松市の電気店を訪ねる公明党党首の太田。

 太田経済がちょっと、ここで止まって、上向いてきたっちゅうね、実感がありますか?」

 電気店店員「私共の方も非常に喜んでおります。特に、あの、定額給付金とも併せて、あの、元々予定していたものよりも、ワンランク上の商品をお求めいただく商品が非常に多いものですから――」

 この店員、創価学会員ではないかと疑った。

 太田「定額給付金と、エコポイント。それにエコ対応、なんていうことに全部重なったし、順調だね?」

 電気店店員(極端な平身低頭を見せつつ)「ハイ」

 太田(手を斜めに持ち上げて上向きのカーブを描き)「カーブで言ったら、どんな感じ?」

 電気店員(まっすぐ上に手を持っていき)「うなぎのぼり――」

 万々歳ではないか。だが電気店員は、「元々予定していたものよりも、ワンランク上の商品をお求めいただく商品が非常に多いものですから――」と言っている。

 7月の完全失業率が過去最悪の5.7%。完全失業者は前年同月比103万人増の359万人。有効求人倍率は前月比0.01ポイントマイナス、3カ月連続過去最低の0.42倍――

 こういった状況の影響下に直接ある者の中で、いくらエコポイント制度だ、減税商品だといっても、このような恩恵を利用して「ワンランク上の商品」を率先して購入できる者がどれ程いるだろうか。無縁の世界としている困窮者の方が絶対多数を占めているはずである。

 だが、太田には一方にあるそういった状況に向ける目を持たない。このことは最初に言った「経済がちょっと、ここで止まって」という言葉に現れている。完全失業率や求人倍率、失業者数が改善されるどころか、今以て悪化の方向に向かっている状況からすると、「経済がちょっと、ここで止まって」どころの騒ぎではなく、また一般生活者にとっては「上向いてきた」とは決して言えない、依然として厳しい状況に見舞われていることを無視できる素晴らしい誠実さを発揮している。

 太田はNHKインタビューに答える形で次のように言っている。

 太田「公明党って言うのは、庶民や中小企業や生活者のが、っていうところに、一貫して、ええ、仕事もやり続けてきていると。厳しい中を潜り抜けて、最後に何としてでも、勝利すると、いう確信持ってね、ええ、突入している手応えは、そういう意味では非常に、あの、熱気があると――」

 もう少し満足に喋れないものなのだろうかと思う。「庶民や中小企業や生活者」の利害を代弁する政党であることを謳いながら、派遣切りに遭った非正規社員や希望退職やリストラに遭った正社員、仕事を懸命に探しながら見つけることができない失業者が社会に溢れている困窮状況に目を向けることができずに「経済がちょっと、ここで止まって、上向いてきたっちゅうね、実感がありますか?」と言える感覚。政治家としてニセモノだからこそ言える名言であろう。問題を真正面から把えているとは決して言えない。

 既にブログで取り上げているのと同じみの麻生の遊説。

 麻生「我々は保守党です。保守というものは、少なくとも、皆さんの持っている家族、を守り、郷土、を守り、そして、日の丸や日本を守る。それが保守の真髄です。

 それが大事にされなかったなら、何を大事にするんです。是非ともこの点を頭に入れていただいて、我々は革命を起こすつもりはありません。日本の一層の発展を願うために、今あるものを守るべきものは守り、変えるべきものは変える。それが日本の将来の発展を約束するもんだと、確信しています」――

 麻生が守ったのはそこに日本民族の優越性を置いた「日の丸」だけだろう。意識の中で常に守り通してきた。

 だが、自民党政治が収入格差や地域格差をつくり出したのだかから、家族も郷土も守ったとは言えないし、家族・郷土を損なった以上、日本を守ったとも言えない。

 守っていないのに、「守るのが日本の保守だ」と言える感覚は連立与党を組んでいるからか、太田に劣らない素晴らしいものがある。麻生がいくら声をからして何を言おうと、空疎にしか聞こえない。空疎な言葉の羅列にしか見えない。世論調査の支持率に跳ね返らないのも無理はない。

 麻生「日本の、という国を守る安全保障という、最も根幹的な政策ですら、纏まらない。そういう政党に日本の安全保障なんか任せられるはずがないんだと。日本の安全保障を守るのは、自由民主党なんだということを是非申し上げたいと思っております。

 (一段と声を張り上げ)自由民主党、頑張ります。

 日本のため、みなさん方の暮らしのため、よろしくお願いしまーす」――

 家族・生活者を守らず、郷土・地域を守らず、大事な中身を守らなかったのだから、全体としての日本を守ったとは言えないにも関わらず、「日本の安全保障を守るのは自由民主党」だと図々しくも言う。

 麻生は何も理解していない。国民にとって現在の緊急切実な利害は生活を守る、この一点であって、今まさに外敵が日本の安全を脅かそうとしているといった緊急事態に迫られているわけではないのだから、国を守る安全保障は国民の緊急切実な利害には入っていないことに気づかない。いわば国民は生活の安全保障を一番に求めている。

 そのことを考えずに緊急課題となっていない安全保障に声をからす。ご苦労さん。

 麻生がNHKのインタビューに答える形で自身の置かれている立場を敗北を意識してのことか、淡々と話す。

 麻生「これまでの自民党・・・・なり、自公連立政権に対する、いろんなご批判いうのが、堆積している。積もってきているんだと、思って、います。色々なァー、負の遺産っていうのがあるでしょうし、そういうものをー、きちんと、総括していかなければならんていう、巡り合わせになっていますんで、色々と言いたいことはありますけれども、そういったものを引き継いでいく立場におりますんで、それをきちんと受け止めた上でー、尚且つ、それを前に進めていくかというものを今後とも、遣り続けていかなけれがならないと思って、責任が極めて重たいものだと思っています」――

 麻生は自分を自民党の「負の遺産」を総括しなければならない「巡り合わせ」に遭遇した立場に位置づけている。要するに政権を手放さなければならない時期にたまたま首相になったとしている。

 この位置づけは以前のブログでも書いたように麻生が自分の責任を自民党政治の責任の外に置いていることを示す、その現れであろう。自分には責任のない「負の遺産」で選挙を敗北させられ、その責任を負わされるとその不公平な思いが頭にあるから、「色々と言いたいことはありますけれども」と不満を内心に抱えていることを窺わせることになる。

 政治はチームプレーであって、特定の個人のみで成り立たせ得る作業とはなっていない。麻生は小泉政治の重要なチームの一員であった。当然「負の遺産」をつくり出した一人であり、その責任を負わなければならない一人である。

 だが、麻生にはその意識がない。単なる「巡り合わせ」で総括しなければならなくなったとしている。ここに麻生の責任意識がどの程度か明確に表れている。

 尤もこの「巡り合わせ」は今後とも自民党の総裁を務めようとする意志からの位置づけである可能性もある。もしそうであるなら、「負の遺産」の総括は総裁職を手放さないための口実でしかなくなるということだけではなく、自身の責任を自民党政治の責任の外どころか、遥か遠く離れた場所に置くことになる。

 麻生も太田も口では色々と言っていても、問題を真正面から見据えて、丸ごと捉えようとする真剣な姿勢に欠けている。ここから二人のピント外れな言葉が生じることになる。

 同じ公明党の斉藤環境相が麻生の「カネがねえなら、結婚しない方がいい」の発言を批判した26日付の日刊スポーツ記事――《斉藤環境相が麻生「結婚するな」発言批判》。斉藤も問題を真正面から捉えていないから、的外れな発言となっている。

 斉藤は次のように批判したという。

 「真意は分からないが、誤解を生みかねない発言で不適切。若い人や結婚したい人の環境を整え、励ますのが政治の役目だ」

 「わたしは26歳で金がないときに結婚した。お互いの決意と尊敬があれば、必ず切り開いていける」――

 「誤解を生みかねない発言」だと、言い方の悪さを言っているのみで、発言内容そのものは間違っていないとしている。 

 「若い人や結婚したい人の環境を整え、励ますのが政治の役目だ」は一応尤もらしいことを言っているが、「お互いの決意と尊敬があれば、必ず切り開いていける」程、事は簡単ではない現状をさも簡単であるように言うピント外れ、問題を真正面から捉えているとは思えない発言をしている。

 現在特に問題となっている結婚の機会に恵まれない若者の多くが年収200万円以下といった収入の低さであって、年収と結婚率の相関関係にある。

 また年収と職業の関係から言うと、高学歴=高収入の関係とは逆に学歴が中・高卒程、収入の少ない就業の機会しか恵まれない低学歴=低収入であることからして、年収と結婚率の相関関係に学歴という要素が常に影響している。

 斉藤は東京工業大学大学院修士課程を卒業している。順当な経過によるものなら、24歳で卒業したことになる。卒業後、清水建設に入社。創価学会入会の履歴が不明で、何歳で入会したか分からないが、入会していたなら、創価学会の会合はお見合いの場を兼ねていたから、そういった機会を利用した結婚であることも考えられるが、いずれにしても26歳で結婚した。

 大学院修士課程まで進み、清水建設という大手ゼネコンに就職。「わたしは26歳で金がないときに結婚した」とは言っていても、給料は学歴相応の金額を保証されただろうから、生半可ではなかったに違いない。現在問題となっている若者たちの学歴と年収と結婚率の相関関係とは無縁の場所に位置していたと言える。にも関わらず、学歴の点でも職業の点でも収入の点で異なる私の「26歳」と比較する非合理性――ピント外れを侵している。

 これも問題を真正面から捉えていないことから生じてる錯誤であろう。把えるだけの力がない。

 また斉藤の「26歳」当時と現在とでは社会状況が異なる。斉藤の「26歳」は1978年(昭和53年)前後であろう。1980年代後半から1990年代初頭のバブル期に先立つ2年前のバブルに向けた景気回復期の結婚だったはずである。

 当時は“三高”(高学歴・高収入・高身長)と言って、そのような条件にあった男性が女性の結婚対象として持て囃された。当時の女性は結婚に対して贅沢だった。

 現在も女性は高収入獲得の主要条件となっている学歴を重要な条件としているが、たいした大学の卒業ではあっても、あるいは高卒でも社会的に成功した者を含めて“勝ち馬”と称して女性の結婚対象をそこに置く“勝ち馬”志向が強まっている。

 “勝ち馬”に対して社会的成功から見放された者、社会的成功が期待できない者を“負け犬”と称して結婚対象から外す判断材料としている。女性の結婚に関する贅沢意識は斉藤の「26歳」当時とさして変わっていないことを示している。

 このような日本の女性の結婚意識、結婚条件を考えに入れずに、現在の年収の低い若者の結婚難について語るに自分の「26歳」当時の結婚を持ち出す。

 どこに目がついているのか、何も理解していない。麻生も太田も同じ穴のムジナでしかない

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麻生の単細胞・短絡思考の満開を示す「日本が焼け野原のとき程暗かったですか?」

2009-08-29 13:54:04 | Weblog

 26日(09年8月)、麻生太郎は自民党候補野田聖子消費者担当相の岐阜1区に応援演説に入った。その理由は野田聖子が民主党候補に苦戦を強いられているからだそうだが、いくら苦戦を強いられているかといって、麻生に応援を頼むとは、それこそ貧すれば鈍するもどきに余裕を失った焦りから麻生を溺れる者ワラに仕立てた応援依頼といったところだろう。

 何しろ麻生が有権者の前に出て何を喋っても、票を掘り起こすどころか、票を指の間からこぼれる砂と化す効果しかなく、それがマスコミを通じて日本中に報道されると、砂と化すが遊説先の票だけ終わらない逆効果を生む力しかないのだから、野田聖子も血迷った末の麻生頼みとしか言いようがない。

 顔を岐阜の有権者の前に曝しただけで票は逃げていったのではないのだろうか。そうであることを期待する。

 一作日8月27日の「スポーツ報知」WEB記事――《「聖子があぶない」麻生首相が電撃応援…岐阜1区》が、麻生の票を砂と化す演説を伝えている。

 「景気が悪いから暗い話をする人が多い。しかし64年前は日本中が焼け野原だった。あの時ほど暗いですか? そんなことないでしょうが」――

 見事なまでに単細胞・短絡思考が大きく花開いた名言といえる。「64年前は日本中が焼け野原だった」の光景を知っている人間は日本にどれだけ残っているのだろう。60歳の有権者は64年前のことを年上の人間から聞いた覚えはあっても、少なくとも実感としては知る術を持たない。選挙権は20歳以上からである。20代から50代の有権者は省いて、60代以上の有権者の票を当てに「あの時ほど暗いですか? そんなことないでしょうが」と自民党政治が舞台設定した今の社会の肯定を促したのだろうか。
 
 記事は老人ホームで遊説したとは書いてない。老人ホームでなら少しは理解できる。JR岐阜駅前で約1000人の聴衆だと書いている。麻生の目には20代、30代の若者の姿は映らなかったかったのだろうか。40代、50代の働き盛りの聴衆は目に入らなかった。みんながみんな、「64年前は日本中が焼け野原だった。あの時ほど暗いですか? そんなことないでしょうが」と問いかけて、「そうだ、そんなことはない」と即答できる60代以上の高齢者に見えたということなのだろうか。

 見えないのにそう問いかけたとしたら、60歳代後半以上ではなければ知る由もない「焼け野原だった」日本の光景を尋ねる矛盾を侵したことになる。

 日本の麻生太郎が矛盾を侵すはずはないから、やはりJR岐阜駅前の約1000人の聴衆すべてが「焼け野原」を知っている60歳代後半の高齢者に見えたとしなければならない。

 尤も誰もが高齢者に見えて、その一票一票を当てにしたということなら、以前高齢者を指して「この人たちは皆さんと違い働くことしか才能がないと思ってください」の見下しに反する票頼みとなる。

 実際は高齢者のことなどどうでもよく、高齢者が持っている票だけを当てにしたということなら、見下し発言を裏切らない票頼みだと保証可能となる。

 だが、今ある社会の「暗」さと比較させるために敗戦後の日本の「焼け野原」を持ってくるとはなかなかの策士と言える。やはり麻生だけのことはある。単細胞・短絡思考だからできるのだろう。

 但し、麻生のこの演説には二つのことが欠落している。一つは戦争の存在、もう一つは自民党政治の欠格性――付け加えるべきなのに、この二つがすっぽりと抜け落ちている。

 確かに今の日本は「あの時ほど暗」くはないが、「暗」さの由って来る事の起こりがそもそもからして違う。その能力がないにも関わらず優越民族意識だけでアジアに侵略し、その上軍事力・工業生産力・国民生活力・情報能力等々すべてに逆立ちしても太刀打ちできないアメリカに愚かしくも戦争を仕掛けて惨めな大敗を喫し、多くの国民を死なせ、国土を荒廃に導き、産業を壊滅させ、国民の生活を徹底的に破壊させてしまったことの先にあった自信喪失と脱力感、生活の苦しさからの「暗」さであって、今の「暗」さは経済大国世界2位と経済力では世界的地位を築きながら、愚かしい自民党政治が国民の生活を将来に亘って影響させかねない格差と不安に陥れた結末としての「暗」さであって、「暗」さの内容・質共に別次元のものである。

 比較不可能な二つの時代を突き合わさせて比較させる麻生は他と比較できない程に利口な単細胞・短絡思考の持ち主と言える。

 麻生は比較できるはずもないと考える頭を持たずに現在の日本の社会状況と比較させるために「64年前」の荒廃した「焼け野原」を持ってきた。

 いわば「焼け野原」を対象物としてそこだけを切り取って取り上げたのである。その戦後が戦前の戦争を事の起こりとしている以上、戦前とつながった戦後でありながら、戦前とつながった戦後としては取り上げなかった。戦前及び戦前の戦争と断絶させた戦後だけのこととして取り上げたのである。だからこそ、今の社会と比較させることができた。戦争と敗戦を付随させた戦後と把えていたなら、今の社会の「暗」さと比較はできなかったはずである。

 戦後の陰惨な日本社会を導き出した戦争のことは何ら頭になかったということであろう。戦争のときと戦後の国民のありようを頭に思い描くこともなかった。
 
 このことからも、麻生が靖国神社の戦没者を指して言う「国のために尊い命を捧げた」が国民の立場に立った物言いではなく、安倍晋三と同様に国民を国を守る一方便として見る国家の立場からの物言いであることが分かる。

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舛添厚労相の「国民のニーズ」に応えていない新型インフルエンザ危機管理

2009-08-28 15:24:30 | Weblog

 昨27日のNHKテレビで長野市内の病院に入院していた新型インフルエンザ感染患者の33歳の男性が集中治療室で人工呼吸器をつけて治療を受けていたが、死亡したと伝えていた。死因はインフルエンザウイルスによる肺炎。新型インフルエンザ感染者の国内死亡者は5人目で、そのうちの最年少の30代だそうだ。

 体力の脆弱な幼児や高齢者が重症化しやすい季節性インフルエンザに対して新型インフルエンザは腎臓病や糖尿病といった基礎疾患保持者が重症化リスクが高いと報道で伝えていたが、今回死亡した男性は心臓病による慢性心不全のため自宅で療養生活を送っていたそうで、典型的な慢性疾患患者の重症化症例に入るのだろう。

 8月15日の最初の死亡例である沖縄の57歳の男性も感染した場合に重症化する危険性の高い腎臓と心臓に疾患があったという。

 2人目の死亡例は神戸市の77歳の男性(8月18日)。糖尿病からの腎不全で人工透析の治療を受けていた。

 3人目は名古屋市の81歳の女性(8月19日死亡)。血液ガンの一種多発性骨髄腫などの基礎疾患があったという。

 4人目は8月26日死亡の同じ名古屋市の74歳女性。女性には基礎疾患と呼べるものはないが、元々虚弱体質で抵抗力がなく、長期入院中だったという。

 これらの死亡者は一日も早い予防接種を必要としたはずであり、同じように必要としている患者が多く存在することが容易に予想することができる。

 8月15日に始まって、8月27日で5人目。立て続けと言っていい速度で死亡者が発生している。この短時間の死亡発生は勿論のこと、全国的な急激な感染拡大とそのことによって生じた患者数の裾野の広がりを反映させた連続性であろう。夏休みが明けて、新学期が始まった学校で集団感染が全国的に相次いで発生、休校や学級閉鎖に追い込まれていることも感染力の強さを物語っている。

 6歳以下の子供に多い痙攣や意識障害を起こすインフルエンザ脳症に8月22日までに7人がかかり、5人目の4歳児は集中治療室で人工呼吸器をつけて治療を受ける重症化を招いているそうで、成人の脳症患者も発生しているという。

 集団感染は7月下旬の調査開始から4週連続で増加し、総数は2522件に達すると「47NEWS」記事は感染が急拡大状況にあることを伝えている。

 慢性疾患患者や幼児が重症化しやすい傾向の存在は米疾病対策センター(CDC)の研究グループが全米の患者642人を対象に行った調査・分析して発表したことを伝える5月10日の「asahi.com」記事――《18歳以下が6割 38%に下痢や嘔吐 米の患者分析》の中に見て取れる。

 記事は最初に〈慢性疾患のある人や幼児が重症化する傾向だったほか、通常のインフルエンザではあまりみられない下痢、嘔吐(おうと)が目立った。国内流行に備えるヒントになりそうだ。〉と調査・分析の結論を伝えている。

 調査期間は4月15日から5月5日まで。患者642人は3カ月~81歳の患者で、18歳以下が6割を占めた。その内入院した患者で、医学的データが確認できた22人のうち12人に慢性の病気があったり、5歳未満の子どもで、これは普通の季節性インフルエンザでも見られる傾向だということだが、死亡したのは2人。うち1人は生後22カ月の男児で、生まれつき筋無力症の上心臓にも障害があり、もう1人は妊娠中の33歳の女性で、ぜんそくや関節リウマチなどの病気を抱えていた。

 調査結果を論文に纏めて、米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン電子版に掲載したという。

 死亡した2人とも、基礎疾患を抱えた患者であったということになる。

 朝日新聞が5月3日にメキシコ国立呼吸器系疾患研究所付属病院(メキシコ市)の専門医・アンハラ・イゲラ感染症部長に電話インタビューした5月5日の記事にしても、基礎疾患患者の重症化傾向を伝えている。

 〈イゲラ部長は、発症して7日以内の抗ウイルス剤タミフル投与などの治療は明らかに有効だとした。ただし、心臓病や糖尿病など他の病気を患っている場合はタミフルが効かない例もみられたという。〉――

 国内でも似たような調査・分析があり、発表があったかもしれない。どちらにしても政府は基礎疾患を抱えた患者が新型インフルエンザにかかった場合、重症化しやすい傾向にあるというこのような情報を把握していたはずだ。当然、重症化に向けた防止策を最優先させる対策を採ったはずである。

 政府及び舛添“厚労省”は5月21日に〈慢性の病気を抱えるなどするリスクの高いグループの人たちを感染による死亡から守ることを、新型の豚インフルエンザ対策の新たな目標に掲げた〉とその素早い対応を5月22日の「asahi.com」記事――《7日間の健康観察停止へ 新型インフル水際検疫を緩和》が伝えている。

 4月28日以降行ってきた米国、カナダ、メキシコからの入国者全員を対象とした機内検疫と感染疑いのある乗客を7日間ホテルにとどめて健康観察する感染防止対策を停止、国内外の患者の症例分析から多くの患者が軽症で済む一方、糖尿病患者など、病気を抱える人たちが重症化しやすい現実を踏まえて、基礎疾患患者への感染及び感染した場合の重症化を防止する対策への転換だと記事は解説している。

 上記「asahi.com」記事は舛添の発言を何も伝えていないが、同じ内容を扱った5月19日付「YOMIURI ONLINE」記事――《機内検疫を週内にも終了…政府、感染拡大防止に重点》では舛添の発言を次のように伝えている。

 「検疫に人的資源を集中することから、国内対策にシフトすることは必要だ」

 「政府の専門家諮問委員会から『感染力、病原性等の性質から見て、(新型は)季節性インフルエンザと変わらないという評価が可能』と報告を受けた」

 舛添のこの発言には上記「asahi.com」記事が解説していたような基礎疾患患者の重症化リスクとその防止について触れた箇所は見当たらない。

 但し上記「YOMIURI ONLINE」記事がそのことに触れている麻生首相の発言を伝えている。

 「病気をお持ちの方は重篤化する確率は否定されていない。今の状況をきちんと見極めた上で柔軟に、適切に対応していく」(5月18日の首相官邸)

 だが、あくまでも「否定されていない」であって、“あり得る”程度に取り上げているのみだから、基礎疾患患者の重症化を深刻に把えて、その防止に重点を置いた対策を打ち出す発言となっていないのは当然の経緯であろう。「柔軟に、適切に対応していく」と軽症患者、重症患者双方共に適宜対応する姿勢を示しているのみとなっている。

 だからだろうか、「asahi.com」記事が政府と舛添“厚労省”は5月21日に〈慢性の病気を抱えるなどするリスクの高いグループの人たちを感染による死亡から守ることを、新型の豚インフルエンザ対策の新たな目標に掲げた〉と伝えたものの、3ヵ月後の8月15日に国内初の新型インフルエンザ死者を出し、8月27日までの12日間に合計5人までのいずれも基礎疾患(1人は基礎的に虚弱体質)を抱えた患者を死亡させている。

 このことは「asahi.com」記事の内容に反して基礎疾患患者の重症化防止策への転換が見られなかったからなのか、麻生が言っていたように「病気をお持ちの方は重篤化する確率は否定されていない」ことからの予想範囲内の「5人」ということなのだろうか。

 朝日新聞が基礎疾患患者の重症化傾向の存在を記事としていたために政府及び舛添“厚労省”の機内検疫の水際防止作戦から国内防止作戦への転換を基礎疾患患者重症化防止と勘違いして受け取って記事にしたのではないかと疑わせる、別の「asahi.com」記事がある。 

 5月19日付「asahi.com」記事――《インフル対策、社会活動への影響考慮し緩和へ 厚労省》である。

 記事は舛添厚労相が5月18日に強毒性の鳥インフルエンザを想定した現在の政府の対策を今回の新型インフルエンザに向けて緩める方向で検討する考えを明らかにしたと伝えている。

 「緩める」には後退させる意味を含む場合がある。

 「asahi.com」が基礎疾患患者の重症化防止策への転換を伝えたのが5月21日の記事。その2日前の5月19日の記事で、日付から言っても、勘違いを疑わせる。

 緩める理由は現在感染が急速に拡大しているものの、〈重症化する恐れは季節性のインフルエンザとほぼ同じ程度とみられている。〉からだという。

 と言うことは、重症化対策は例年どおりでいい、新型インフルエンザに限って特別に対策を講じる必要性は認めないと決めたことになる。

 また人数から言っても、重症化防止対策を打つものの、重症化例は季節性性インフルエンザと同程度の範囲内で収まると計算したことになる。

 そこで政府及び舛添“厚労省”が新たに打ち出した対策は軽症患者が病院に殺到した場合、医療機関が重症患者に対応しきれなくなるために軽症患者を入院させずに自宅療養にまわして重傷者のために医療機関を確保する軽症者と重症者の振り分けを可能とする対策だった。

 記事は舛添厚労相の言葉を伝えている。

 「疑いのある方や軽症の方は、在宅での療養に本格的に切り替えることも検討したい」

 〈重症化する恐れは季節性のインフルエンザとほぼ同じ程度とみられている。〉にしても軽症者の自宅療養への振り分けにしても、上記「YOMIURI ONLINE」記事が取り上げていた麻生の「病気をお持ちの方は重篤化する確率は否定されていない」の発言に合致する。いわばどちらもたいしたことはないと見ていたことになる。

 だが、3カ月以上過ぎた8月19日に3人目の国内死亡者が出たと名古屋市が発表した同じ日に、既に当ブログで取り上げたが、舛添は記者会見で次のように述べている。

 「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった。病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」
 
 舛添のこの発言は感染拡大が深刻な状況に進んでいるといることを示唆するものだが、5月の舛添自身の「(新型は)季節性インフルエンザと変わらないという評価が可能』と報告を受けた」という発言や同じ5月の麻生の「病気をお持ちの方は重篤化する確率は否定されていない。」云々とした発言に反する深刻さの提示となっている。

 だからこそ、「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった」と言っていると言うだろが、冬に入ったオーストラリアやチリで感染が急激に拡大している状況から、日本も冬に向かって同じ状況で感染拡大していくことは想定していたはずだし、今年は梅雨が例年以上に長く、天候不順だったこと、そのことが冷夏につながったこと、当然秋が早まり、そのことに応じて朝晩の気温が下がること、いわば昼夜の気温差が大きくなること、冬も早まるだろうという予測、そういったマイナス条件を加味していくと、当たり前の夏として扱うことに慎重であるべきだと思うが、そこに対策のズレが生じていなかっただろうか。

 8月19日に名古屋市で3人目の死者を出し、舛添が「国民に慢心が」と国民に責任転嫁したあと、政府と舛添“厚労省”は舛添の5月の「(新型は)季節性インフルエンザと変わらないという評価が可能』と報告を受けた」という発言や同じ5月の麻生の「重篤化する確率は否定されていない」とした発言とは正反対の慌しい動きを見せることになる。

 まず8月25日の閣議後の記者会見で舛添厚労相は新型の豚インフルエンザ用ワクチンを医療現場に早急に供給するため、ワクチン輸入にあたり海外で臨床試験(治験)が実施されていれば、国内で改めて治験をしなくても承認する薬事法の特例承認を初めて適用する考えを明らかにしたという(《新型インフルワクチン、国内治験なし承認も 早期接種へ》asahi.com/2009年8月25日13時34分)。

 舛添は、政府の決定が必要になるため「最終的には総理がご決断する」と述べたというが、閣議後の記者会見である以上、閣議でその問題を諮っているはずだから、舛添の適用の意向は独断のものではなく、麻生の判断も確かめた閣僚全体の意向であるべきで、「総理もその方向で判断する予定でいる」とでも言うべきだが、総理の決断を必要とする未決定の独断を舛添は記者会見で披露するという矛盾を見せている。

 矛盾はこのことだけで終わらない。〈副作用の可能性が残るため、舛添氏は「非常に難しい問題。専門家や薬害被害者の意見も聞き、コンセンサスを得たい」と話し〉、〈26日にも専門家らとの意見交換会を開〉くという予定を伝えたという。

 麻生の判断、さらに専門家や薬害被害者のコンセンサスを必要として決定するとしている薬事法の特例承認の国内初適用をそれら受ける前に舛添は記者会見で伝えたことになり、これも矛盾した対応と言える。

 手順としては専門家や薬害被害者のコンセンサスを最初に得て、次に閣議に諮り、麻生の判断を仰いだ上、オーケーということになったなら、記者会見で報道各社を介して国民に伝えるのが筋であろう。尤もその経緯全体は逐一記者会見を通して情報公開しても構わないが、手順そのものは常に後先のルールに則るべきである。

 後先のルールに則らずに、未決定事項でしかない、それゆえに独断の範囲にとどまることになる、さもそうするかのように見せかけた決定を最初に持ってきたのは発表がスタンドプレーだからだろう。

 スタンドプレーなのは26日にも開くとしていた専門家らとの意見交換会で意見を聞く手順を踏んだ結果、25日の記者会見から1日経過しただけで特例承認適用が治験実施に変わったことに現れている。さもそうするかのように見せかけただけで終わったというわけである。

 これを以てスタンドプレーと言わずに何と表現したらいいのだろうか。

 8月26日付「msn産経」記事――《【新型インフル】輸入ワクチン、「治験は実施する」と舛添厚労相》によると、専門家から「安全性が担保できない」、「短期間で安全性を確認すべきだ」、「安全性についてできる限りデータを集めるべきだ」と治験実施を求める声が上がったため、舛添は「何らかの治験をやらないといけないと思う」と述べて、25日の記者会見の発言を舌の根も乾かないうちに無意味化する態度変更を演じたそうだ。スタンドプレーに過ぎなかったからこそ、無意味化の運命を受けることになる。手順を踏めば、自ずとスタンドプレーは生じない。

 上記「asahi.com」記事――《新型インフルワクチン、国内治験なし承認も 早期接種へ》は〈国産ワクチンについて舛添氏は「10月下旬に出荷が可能とメーカーから聞いている」〉ということで、その時期に合わせて厚労省は接種優先順位を9月中に決め、開始したいとしていると伝えている。

 接種対象は約5300万人、国産供給量は年内に1300万~1700万人、不足分を輸入で賄う。接種対象は医療従事者100万人▽持病がある1千万人▽妊婦100万人▽乳幼児600万人▽小中高校生1400万人▽高齢者2700万人(持病がある600万人を含む)としている。

 約5300万人が約5300万人とも、親を含めるとそれ以上の数が、重症化しやすい自身への感染を恐れて一日も早いワクチン接種を求めているに違いない。だが、政府は“一日も早い接種”という国民の要望に未だ応えていない。

 次の27日になって、舛添厚労相は新型インフルエンザ対策について記者会見し、海外からワクチンを輸入する場合は小児らを対象に国内で最低100例程度の臨床試験を実施する考えを示したという。(毎日jp

 輸入医薬品の治験には通常は最短でも半年かかるそうだが、それがどのくらいの数の臨床例か分からないが、10月下旬から接種の国産ワクチンの払底までに間に合う「100例」ということなのだろう。

 さらに舛添厚労相は27日の同じ記者会見なのか、同じ日だが別の記者会見なのか分からないが、今週中にも各都道府県を通じて医療機関が保有する人工呼吸器や集中治療室(ICU)の数、重症者が出た際の搬送体制等の医療全般に亘る調査を実施する方針を明らかにしたと「msn産経」記事――《【新型インフル】「沖縄想定して」全国の医療体制調査へ》が伝えている。

 また厚労省は28日にも各都道府県に対し、今後想定される新型インフルの患者数や重症患者の推計を示す方針で、その目的は〈厚労省が全国の医療供給体制を把握するのと同時に、各都道府県に対し、地域の実情に合わせた具体策の検討を促すことが狙い〉だと記事は伝えている。

 だが、この二つのことは世界保健機関を初めとして各報道機関や専門家が冬に向かって感染が拡大する危険性を警告していたことなのだから、既に行っていていい調査ではないだろうか。

 先ず想定される新型インフルエンザの患者数や重症患者の推計は発生患者数の報告をその症状と共に各地方自治体から刻々と受けているはずで、そこに世界各国の発生例を参考にすれば、これとて既に算出していてもいい調査に思える。

 発生患者数の算出ができていたなら、次に接種優先順位の取り決めが必要となるが、これも既に取り掛かっていていい取り決めであろう。

 医療機関が保有する人工呼吸器や集中治療室(ICU)の数、重症者が出た際の搬送体制等の医療全般に亘る調査にしても、流行する流行しないに関わらず、毎年のように繰返される季節性インフルエンザの流行を前提として常に調査し・把握しておかなければならない情報のはずである。

 世界的な大流行が言われていたことを考慮すると、既に行っていていい調査である上に、既に実行していていい段階だが、そういった経緯を踏まずに今さらながらに二つを行う。このことは新型インフルエンザ感染拡大に備えた危機管理対応が後手にまわっていることを示していないだろうか。

 専門家の意見を聞く手順を後回しにして「薬事法特例承認」を先に持ってきたスタンドプレーにしても、危機管理意識をさして強く持っていなかったからこそできたスタンドプレーと言える。

 危機管理意識を欠いていたとなると、「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった」は、製薬メーカーの国産ワクチン出荷時期の10月に合わせて機械的に計画立てていたために油断が生じた、それまでは大丈夫だと見ていたことからの「国民に慢心が出てきた」の責任転嫁だと疑えないことはない。

 何しろ当初は重症化する恐れは季節性のインフルエンザとほぼ同じ程度と見ていたのであって、そのことを基本的姿勢としていたことによる対応遅れであるのは否定できまい。

 舛添は閣議後の記者会見で薬事法の特例承認を初めて適用する方針だとスタンドプレーを見せた同じ日の8月25日に後先はどちらが分からないが、鳩山邦夫が立候補している福岡6区に応援演説に出かけて、鳩山邦夫に「日本一総理にしたい男。舛添総理になったら副総理でいいからよろしく頼みます」とか紹介されて、否定する仕草で首を大きく左右に振ってみせてはいたものの、歯まで覗かせた嬉しさを隠さない満面の笑みで満更でもない顔となっていたが、スタンドプレーと言い、新型インフルエンザ対策の責任者として備えているべき危機管理意識などどこにもない様子に見えた。

 舛添に言わせたら、やるべきことはやっていると言うだろうが、上記指摘した後手に回っている二つの調査や“一日も早い接種”をという国民の要望に未だ応えていないことなどから見ても、やるべきことをやっているという主張を真っ向から否定できる危機管理対応の遅れを見て取ることができる。

 27日の「日刊スポーツ」記事――《舛添氏、民主の予算組み替え方針をけん制》は〈舛添要一厚生労働相は27日、2010年度予算の概算要求発表に合わせて会見し「行政は一貫性がないといけない。誰が政権を取っても、新型インフルエンザ対策や雇用対策など必要なことは変わらないはずだ」と述べ、政権交代後に予算を組み替える方針を示している民主党をけん制した。〉と伝えた上、厚労相の言葉を次のように記している。

 「住まいを失った人への住宅手当や女性のがん検診などは、来年度も継続を要求した。国民ニーズに応えられる内容になった」――

 国産ワクチンが10月下旬の出荷なら、輸入ワクチンを先に持ってきてもいいはずだが、輸入することを決めた段階で、その先に接種優先順位の決定と「100例の」臨床実験が待ち構えていて、感染拡大に間に合うかどうか、10月下旬にならないと始まらない国産ワクチン接種も含めて、新型インフルエンザ対策に関しては「国民ニーズ」に応えるのはまだまだ先の話となっている。

 多くのことに於いて危機管理が満足に機能していないということを示していると言えないだろうか。

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麻生の愛知・岡崎市の謝罪に見る正直・誠実さ

2009-08-27 07:03:31 | Weblog

 昨年(08年)9月14日の名古屋市・名古屋駅前で行った自民党総裁選の街頭演説で麻生立候補者はほぼ2週間前の8月28日から29日未明にかけての記録的な集中豪雨で2人が死亡、家屋の床上・床下浸水2916件の被害を受けて災害復興活動の最中(さなか)にあった岡崎市、そして似たような状況下の安城市を引き合いに出して「防災のためには、都市部でも公共工事や社会資本整備が必要だ」との趣旨で演説を展開、次のような勇ましい発言を行った。

 「あそこ(岡崎市)は140ミリ(1時間雨量)だぜ。これが、安城もしくは岡崎だったからいいけど、あれ、名古屋で同じ事が起きたらこの辺全部洪水よ」

 「140ミリだぜ」の「だぜ」は大きな被害につながったことも含めて事の重大さを知らせ、その重大さを相手にも共感させようとする「だぜ」ではなく、雨量の凄さだけを伝える「だぜ」であって、岡崎市や安城市及び両市民の苦労など全然頭になかった。だから、「安城もしくは岡崎だったからいいけど」と続けることができた。

 その麻生太郎が総裁に選出されて日本国総理大臣と立場を変え、衆議院選挙の自党候補者の応援演説で岡崎市に入った。「毎日jp」記事――《麻生首相:まず陳謝を失念 愛知・岡崎で演説》/2009年8月26日 17時26分)が伝えているが、衆議院解散後の遊説では、「私の言動とリーダーシップのなさが自民党の混乱や政治不信を招いた」と謝罪から始めたが、頭を下げ続けても選挙情勢が好転しないためか、この演説スタイルを26日から封印して、実績をより強調する手法に変えたという。

 聴衆の反応がなければ、それが支持率となって現れなければスタイルを変更するというのは、謝罪が選挙作戦に過ぎなかった、心からの反省ではなかった、選挙用のポーズに過ぎなかったということなのだろう。

 このことを今回の岡崎市での遊説が図らずも証明することとなった。「中日新聞」Web記事――《首相「豪雨失言」で陳謝 岡崎で演説、周辺支持者に促され》/2009年8月26日)によると、応援を受けた自民前職は昨年の発言について事前に陳謝するよう首相側に申し入れていたという。当然、例え内容は違えても、一度は封印したという謝罪から入るスタイルを取るはずだった。

 ところが、我が麻生首相は人間が正直・誠実に出来上がっているから、事前に申し入れがあった謝罪を失念、上記「中日新聞」によると、〈演説の終盤。周囲に肩をたたかれて一瞬戸惑った後、「一番最初に言おうと思っていたが、すっかり忘れて、すいません。昨年の豪雨の話、ちょっと今あわてて思い出しました。申し訳ありませんでした」〉――

 「ちょっと今あわてて思い出しました」ではない。「周囲に肩をたたかれて」、一瞬何のことかといぶかったのち謝罪の件を思い出して、忘れていたことに内心「あわて」たという経緯が正直なところに違いない。

 上記「毎日jp」記事は――

 「昨年の豪雨の話は一部で誤解を得た。申し訳ありませんでした。・・・・最初に言う予定が、すっかり忘れて申し訳ありません」

 事前の申し入れを簡単に忘れることができたということは謝罪から入る遊説スタイルが選挙作戦からの形式だったから、あるいは選挙用のポーズに過ぎなかった何よりの証明であろう。

 「一部で誤解を得た」は「時事ドットコム」記事では、「一部誤解を与えた。申し訳ありませんでした」となっている。

 「一部で誤解を得た」はマスコミや国民などの情報の受け手側の「一部」が麻生の発言を誤解した、と言うことで、「一部誤解を与えた」は麻生の発言の「一部」が誤解を受けたということであろう。

 どちらの「一部」であっても、「誤解」を最小限とする意図を働かせた「一部」であって、そこに責任薄めを感じ取ることができる。

 これも人間が正直・誠実に出来上がっているからこそできる責任薄めに違いない。

 また自身の発言を「誤解」だとしているのは、情報の受け手側の「誤解」(誤った解釈=思い違い)だと位置づけているということで、麻生自身は間違ったことは言っていない、周囲が誤解したに過ぎないと受け止めていることになる。周囲の「誤解」に過ぎないのに、自分は間違ったことは言っていないと主張するのではなく、謝罪するのは矛盾行為ではあるが、麻生は「誤解」だとしつつ、謝罪した。

 当初の謝罪から入る遊説スタイルが選挙作戦、あるいは選挙用のポーズに過ぎない形式だったからという理由だけではなく、この自分は間違っていない、周囲の勝手な「誤解」だというホンネが謝罪を失念させた理由にもなっていたに違いない。

 当然のことで、岡崎で見せたこの謝罪も選挙作戦、選挙用のポーズに過ぎないということである。

 このように正直・誠実な政治家を日本国民は約1年近く、総理大臣としてきた。今後とも総理大臣としておくことができるだろうか。

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舛添の「怠け者」発言は再度「一部の疑わしきを以ってすべてを罰する」非合理性を侵すもの

2009-08-26 10:09:47 | Weblog

 

 麻生太郎がつい最近までそうであったように現在麻生を遥かに凌いで高い国民的人気を獲得、人気の移ろいやすさを示してはいるが、「次の首相」にふさわしい政治家ナンバーワンに選ばれたとか言うから、麻生と同様の親しみの持てる人間性に恵まれているに違いない舛添要一厚労相が今月18日(8月)に横浜市内で行った演説で、派遣切りなどで職と住いを失った者を救済対象とした年末年始の東京・日比谷の「年越し派遣村」に向けた就職紹介に触れて次のように一席ぶったと「毎日jp」記事――《派遣村:舛添厚労相「4000人分求人、誰も応募しない」有志が抗議文》2009年8月25日)が伝えている。

 「4000人分の求人を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」――

 大事な税金を選挙のときは有権者に体裁のいいことを言って、当選するとタダの頭数となる怠け者議員連中を身内に飼って無駄に支払われるに任せている無責任の方が桁違いに大きな無責任で、そういった無責任こそ問題にすべきを問題にせず放置したままにしておく無責任人間に舛添は出来上がっているらしい。

 昨8月5日の閣議後、記者団から発言の趣旨を問われて、次のように釈明。

 「(求人を始めた)初日はなしでその後、139人申し込みがあった。・・・・言い方が悪いとしたら気を付ける」

 「(2カ所のうち)1カ所では初日はゼロと言っている。日本が豊かになった中で機会も能力も生かしていない人を怠け者と言った」――

 「1カ所では初日はゼロと言っている」――いわば他の日は何人かいたということなら、「自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と続けることはできないはずで、当然“怠け者”扱いすることはなかったし、当然2カ所目も同じ文脈で演説しなければならなかったはずだが、2カ所目は「初日はゼロ」という言葉を入れず、「4000人分の求人を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と一席ぶち、「年越し派遣村」の住人全員を“怠け者”扱いした。

 にも関わらず「1カ所では初日はゼロと言っている」とは狡いとしか言いようのないゴマカシの弁解と見られても仕方があるまい。

 人間が狡くできていなければできないゴマカシであろう。さすが「次の首相」にふさわしい政治家ナンバーワンに選ばれだけのことはある狡賢さである。

 麻生にしたって狡賢かったからこそ、若者人気・国民的人気を獲得したのだろう。麻生が狡賢かったのは自らの数々の失言に対して示した弁解・抗弁が証明している。

 「言い方が悪いとしたら気を付ける」にしても、実際は「139人申し込みがあった」が、それを誤魔化して「4000人分の求人を持っていったが誰も応募しない」、「ゼロ」としたのだから、その言い方が悪かったかどうか自分で判断すべきを、判断せずに逃げの手を打って、「言い方が悪い」ということになった場合という条件付きで「気を付ける」と他人の判断に任せるゴマカシも働いている。

 しかも「謝る」のではなく、これから「気をつける」ということだから、間違い意識から程遠く、自分自身では「言い方が悪い」とは思っていないということだろう。俺は間違っていないと言いたかったのだろうか、騒ぎが大きくなるのを防ぐために「言い方が悪いとしたら気を付ける」と条件づけて、間接的に間違っていなかったとするゴマカシを見せることになったに違いない。

 記事は舛添発言が事実をねじ曲げる発言だとして「年越し派遣村」(6月末で解散)の元実行委員会有志が発言の撤回と謝罪を求める抗議文を出したと伝えている。

 「4000人分の求人」票に対して「139人申し込み」は「ゼロ」に等しいという見方をする者がいるかもしれないが、派遣切りが急速に拡大し、それが正社員切りや大卒・高卒内定取り消しにまで波及して失業者が増大して新規採用が多く望めない中で、いわば労働市場に於いて求職側の売り手市場としての価値を殆んど失い、求人側の買い手市場としての価値を急激に高めていた厳しい雇用情勢の中で、職も家を失った者から見た場合、「4000人分の求人」票のうち、どのくらい条件の合う求職があった「4000人分」か疑わしい。

 24日の「レイバーネット」《派遣村 : 事実をねじ曲げた舛添発言の撤回と謝罪を求める》に「抗議文」が載っている。その中で〈応募をした村民は、ほとんど断られてしまっています。応募した会社から返ってきた返事は、「もう決まっちゃいました」「実は募集していないんです」「ハローワークから求人を出すよう言われて、ホントは募集してないんだけどお付き合いで求人を出しているだけなんです」といったものでした。〉とその求人の実態を伝えているが、学歴・経歴を大事にする日本の社会からすると、正直な実態といったところではないだろうか。

 また問題の発端となった舛添発言の「大事な税金を働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」にしても、釈明とした「日本が豊かになった中で機会も能力も生かしていない人を怠け者と言った」にしても、以前のブログ記事で既に言ったことだが、民主党が公約した子供手当てを「民主党政権で2万6千円の子ども手当を配ると親がパチンコなどに使ってしまう」と、一部の不届きな親の存在可能性をすべての親に当てはめて事実だとする“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性を再度侵すもので、絶対多数を占める「怠け者」ではない人間に冤罪をかぶせ、無実の言いがかりをつける詭弁に相当する。

 同じ舛添発言を扱った「asahi.com」記事では舛添の釈明は次のようになっている。

 「怠け者発言は(民主党が復活を強く主張する)生活保護の母子家庭(への加算)の中で言ったつもりだ」

 例えこれがゴマカシの釈明でなかったとしても、中にはいるかもしれない怠け者の生活保護母子家庭を以ってすべての生活保護母子家庭を怠け者だとする“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性から全体を悪者視するもので、この少数の悪例を以って全体の例とする舛添のこの考え方は国家都合から個人それぞれであること、違いがあることを認めず、個人を常に全体として扱う一種の全体主義の思想傾向からきた糾弾であろう。

 “疑わしきは罰せず”は裁判に於いて裁判官や検察側が被告人に対して守るべき鉄則であるが、これを国家対国民の関係に置き換えた場合、国家の側が国民に対して守るべき鉄則となる。この鉄則に反して、国民に対して“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性を侵す合理的判断能力を欠いた政治家は信用できないと見た方が無難である。

 いつの日か舛添総理大臣が実現するかもしれない。自分の政策が思うようにいかなくなった場合、国民が「怠け者だから」とその責任を国民になすりつける可能性を大いに疑うことができる。“一部の疑わしきを以ってすべてを罰する”非合理性を体質としている上に新型インフルエンザの急激な感染拡大に、「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった。病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と国民に感染拡大の責任を既になすりつけているし、こういったことができる性格から容易に想像できる結末であろう。

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麻生の「カネがねえなら、結婚しない方がいい」発言に見る“若者理解度”

2009-08-25 08:52:29 | Weblog

 昨24日(09年8月)の「スポニチ」記事――《麻生首相「金がないなら結婚するな」発言》が次のようなことを伝えている。

 日本の偉大なる麻生首相が学生主催イベント「ちょっと聞いていい会」に出席。学生から次の質問を受けた。

 「結婚資金が確保できない若者が多く、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか」

 いわば若者の低収入が晩婚化を招いて、少子化の原因の一つになっているのではないのかとの質問を受けた。

 学生はこの短い質問の中に今の若者が置かれている雇用状況や生活環境、その先にある人口動態に関わる様々な社会風景を含んでいたはずである。例えば日本には年収200万以下の非正規雇用者が、2006年の段階で1284万人も存在すること。

 2006年時点での国内雇用者数は5115万人、そのうち非正規雇用者(パート、アルバイト、派遣、契約社員など)は1707万人で、全体の33.4%を占めていて、このうち年収200万以下・1284万人の非正規雇用者が75%に達しているといったこと。(以上の統計は『日本総合研究所 寺島実郎の発言』から)

 さらに総務省02年調査「就業構造基本計画」を基にした厚生労働省外郭団体・独立行政法人「労働政策研究・研修機構」が調査、05年8月に発表したことが示している、15歳~34歳男性で正社員の結婚率40・4%に対して非正規労働者は13・5%、無業者の結婚率は6・8%といった結婚状況。

 年収を加えた結婚率は、20歳~24歳男性年収150~199万円が7%に対して年収900万~999万は62%。

 25歳~29歳男性年収150~199万円が17.47%に対して年収900万~999万は42.3%。

 30~34歳になると年収150~199万円でも約倍近い34.0%となるが、対して30~34歳・年収900万~999万は65.1%。(以上)「しんぶん赤旗」から)

 このような職業や年収が影響した、未婚男女の9割が結婚したいと考えていながら、その希望を満たすことができない非婚状況といった問題。

 また大学格差をも含めた学歴が職業選択に影響して、年収や結婚問題につながっている状況。

 こういった社会の姿を背景として学生の質問はあったはずである。

 豊かな社会を創る責務を担う総理大臣の立場上、順当に答えるとしたら、次のような発言となるはずである。

 「少子化問題を解決するためにも、若者に多いワーキングプア問題、あるいはなかなか就職できない状況を解決して結婚資金が確保できるようにしなければならないと思っている」

 実際の麻生首相の答。

 「金がないのに結婚はしない方がいい。オレは金がない方ではなかったが、43で結婚した。稼ぎが全然なくて(結婚相手として)尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい感じがする」

 「(結婚は)金があるからする、ないからしないというものでもない。人それぞれだと思うから、うかつには言えないところだと思う」

 「asahi.com」記事は、「金がねえなら」と、例のべらんめえ口調で言ったことになっている。

 若者を取り巻く雇用問題等の今ある社会の姿、その矛盾を取り上げずに年収の低さが結婚に影響している状況を逆手になぞらえて、「金がないのに結婚はしない方がいい」と、結婚したいという希望を収入が打ち砕いている現状の打破に何の助けにもならない、若者を理解しない解答となっている。

 「(結婚は)金があるからする、ないからしないというものでもない」云々もカネ(=収入)の面からのみ若者の結婚を論じ、雇用、あるいは労働に見合った報酬――現在問題となっている同一労働同一賃金といった面からのあるべき切り込みは一切見せていない。

 記事は〈首相の発言は一定の生活力が必要との趣旨ともとれるが、〉と一応の理解を示しているが、その理解は形式で、〈不況の影響で就職先がなかったり、ワーキングプア状態にある若者たちに対する配慮を欠いた発言との批判を呼びそうだ。〉と批判にウエイトを置いている。

 例え「一定の生活力が必要との趣旨」からの発言であったとしても、「生活力」は社会の就職状況や雇用形態(必ずしも経済状況ではないことは戦後最長景気時代に非正規雇用者が増加したことが証明している)に裏打ちされるのだから、先ずは解決すべき課題は結婚問題よりも雇用問題であったはずである。

 記事は最後に次のように締めくくっている。

 〈選挙戦中も相変わらず失言を繰り返す麻生首相。解散後の先月25日には、横浜市内での会合で「高齢者は働くことしか才能がない」などと話したため、河村建夫官房長官からは「首相にはオウンゴールだけは避けてもらいたい」とイエローカードを突き付けられたばかり。さらに、前日の22日には、豪雨災害に見舞われた兵庫県佐用町の現場を視察した際、2人の行方不明者について「遺体が見つかるように」などと心ない発言をしていた。〉――

 「オレは金がない方ではなかったが、43で結婚した」――

 麻生太郎は1940年9月20日生まれ、政界入りを果たしたのは1979年10月、40歳のなり立て。それから3年後の「43で結婚』するまで麻生財閥の息子・金持の息子として独身貴族を謳歌したはずである。独身貴族を謳歌したいがために結婚を遅らす男の例が映画やテレビドラマ、小説等で取り上げられるが、麻生がその例に当てはまらなくても、低収入が障害となって結婚できない若者を比較対象とすることはできないはずで、自分の境遇と「結婚資金が確保できない若者」、そのことが理由となって「結婚の遅れ」を来たしている若者の境遇と比較すること自体が若者を理解していないことの証明となる象徴例であろう。

 麻生太郎は23日(09年8月)の『NHK日曜討論―2009衆議院選挙 迫る“政治決戦” 党首に問う』の冒頭で司会者の問いを受けて次のように答えている。

 司会者「政権選択をかけた衆議院選挙があと1週間、選挙結果次第では私たちの生活が大きく左右されるのではないのか。そう感じさせる政策路線を巡る対立も浮かんできた。そこで今朝は衆議院選特集として各党首に集まっていただいて選挙戦の争点について討論していただきたい。

 麻生さん、報道各社の事前の予測ではかなり苦戦と伝えられていますが、そう感じているのか?」

 麻生「あの、センケイ、あの、選挙ォーになりましてから、各地方遊説させて頂く機会を得まして、先月よりは今月、先週よりは今週、昨日よりは今日、と、段々尻上がりによくなってきているのではないかと、そう、思っております。

 有権者の方々が、暑い中、立ち止まられたら、そのまま立ち去られない。また、若い人の数が今までの選挙に比べて圧倒的に多いかなあ、という感じがいたしておりますんで、私自身としては、それ程、今新聞で書かれているというような形にはならず、きちんと追いつきたいものだと思っております」

 麻生が若者に人気があり、若者に支持者が多いことは知られていたことだが、麻生はここでも自身の選挙遊説に集まる聴衆世代を内訳して、「若者が圧倒的に多い」と若者人気を強調している。

 だが、若者が真に麻生を支持しているが事実の若者人気なら、「カネがねえなら、結婚しない方がいい」の御託(「自分勝手の偉そうな言葉」『大辞林』三省堂)が曝している若者を真に理解していない麻生をその若者理解度に反して若者は麻生を支持する矛盾した光景を見ることになる。

 若者人気が麻生のまるきりの思い込みなら、麻生の若者に対する無理解は思い込みに対応した無理解と言うことになって頷くことができるが、若者に人気がないのに人気があると思い込む麻生自身の客観的判断能力の優秀さは逆に如何ともし難くなる。

 「Wikipedia」が上記「ちょっと聞いていい会」で学生が質問したうちの若者の“結婚事情”に関係する、2008年10月26日の自民党秋葉原街頭演説会での発言を紹介している。非正規社員が正規社員に転換されたことで婚姻率が上昇したという九州での事例を取り上げた上での発言だそうだ。

 「女性がもう、結婚する相手が、なんとなーく、食いっぱぐれそうな顔してると、こりゃちょっと、結婚したらあたしが一人で働かないかんと。そら、なかなか結婚したくないよ。そら、女性のほうも選ぶ権利がある」

 言葉は違えても、「金がないのに結婚はしない方がいい。オレは金がない方ではなかったが、43で結婚した。稼ぎが全然なくて(結婚相手として)尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい感じがする」と趣旨は同じと言える。

 「Wikipedia」は「前後の文脈から『食いっぱぐれそうな顔をしている』というのは非正規雇用の男性を指していることは明白であり、非正規雇用の男性を差別する発言だとしてインターネット上で話題になった」と解説しているが、非正規社員が正規社員に転換されたことで婚姻率が上昇したという例を挙げていながら、ここでも先決課題としなければならない雇用問題を差し置いているばかりか、女性の収入上の好みの点からのみ結婚問題を取り上げる偏見まで見せている。

 これは「ちょっと聞いていい会」の回答同様に問題解決の視点から述べた発言では決してなく、世の中の現象を表面的に把えて表面的に解説して完結させる発言でしかない。こういった発言ができることから判断すると、若者を真に理解しているとは言えないのだが、麻生が演説を終えると、若者の間から「麻生コール」が起こったそうだ。

 「稼ぎが全然なくて尊敬の対象になるかというと、なかなか難しい」にも若者理解度を窺うことができる。2006年時点で国内雇用者数5115万人のうち年収200万以下の非正規雇用者が1284万人も存在し、年を追ってさらに増え、今回の金融危機で多くの非正規雇用者が首切りに遭った事実からしたら、麻生のように「尊敬の対象」をカネという価値観に限った場合、多く存在する低所得の若者には一種の心理的な死刑宣告に当たるはずである。

 「お前は稼ぎが全然ない、カネがないから、結婚相手として尊敬の対象にはならないよ」と宣告したも同然なのだから。

 河村官房長官が24日の記者会見で釈明している。 

 「表現は直截(ちょくさい)的だが、むしろ若者の就職対策を進めなくてはいかんという思いが出たのではないか」(asahi.com

 「就職対策を進めなくてはいかんという思い」からの発言なら、「稼ぎ」(=カネ)を「尊敬の対象」にする必要はあるまい。

 上記「スポニチ」記事が〈前日の22日には、豪雨災害に見舞われた兵庫県佐用町の現場を視察した際、2人の行方不明者について「遺体が見つかるように」などと心ない発言をしていた。〉と伝えていたことを書き記したが、「日テレNEWS24」の動画から文字に起こしてみた。

 麻生「引き続き、捜査、捜索、とういうものにカン、関して、当たっておられる方々、色々努力しておられるんだと思いますが、是非、遺体が見つかるように、今後とも、努力していただきたい――」

 ご丁寧にも、「遺体が見つかるように」と一段と言葉を強めている。

 先の戦争で戦死したと伝えられても、どこかで生きているのではないかと微かな希望を持って生きていることを願う家族が少なくない数で存在した。例えこれが息子さんの遺骨ですよと届けられても、他人の遺骨ではないかと疑い、生きていることに一縷の望みをかけていた家族も少なくなかったろう。

 発見が長引く程にもう生きていないかもしれないと思っても、やはり一縷の望みを捨てきれないのが近親者としての自然な感情であろう。遺体として発見されて、やはりと思う。

 それを遺体が発見されないうちから、「遺体」と言って家族の一縷の望みを逆撫でする。

 麻生は靖国神社の戦没者を「国のために尊い命を捧げた」と言うが、眼前の家族の気持ちを察することができない人間が60年前の戦死した兵士の気持など察することなどできるはずがない。そんな人間が「尊い命を捧げた」と言うのは国家の立場から国民を下に見ているから言える言葉だからだろう。

 若者理解度を欠く人間は当然のように若者だけではなく、他の世代に対する理解も欠く。数々の失言がそのことを証明している。

 国民の気持を理解できない政治家が日本の総理大臣を務めている。

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舛添の新型インフルエンザ感染拡大の原因が「国民の慢心」は薄汚い国民への責任転嫁(1)

2009-08-23 16:19:23 | Weblog

 舛添厚労相が19日、新型インフルエンザの急激な感染拡大を受けて記者会見して、「既に本格的な流行が始まったと考えていい」、「真夏にここまで感染者が拡大することは予想できなかった。病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」中日新聞)と、感染拡大の原因を“国民の慢心”に置いたという。

 どの程度の感染拡大かと言うと、全国約5千カ所の医療機関からの報告を基にした国立感染症研究所の統計で、最新の1週間(8月3~9日)に受診した1医療機関あたりの患者数は0.99人、流行開始の目安の「1人」に限りなく近づいていて、地域別では沖縄が20.36と突出、奈良1.85、大阪1.80などと上位に顔を連ね、この1週間に医療機関を受診した全国の患者数は6万人と推計されているそうだ(asahi.com)。

 確かに憂慮すべき状況なのだろうが、舛添の言っていることには矛盾があり、自身の厚労相としての責任を棚に上げて国民に責任を転嫁する、責任逃れを絵に描いたような薄汚いこじつけ・強弁に過ぎない。

 舛添の「国民の慢心」感染拡大説に民主党の菅直人代表代行が噛みついたそうだ。

 「国民の責任にするような発言であれば、もってのほかだ!・・・、舛添さんは常に自分の存在をアピールすることが前に出る。“行政は頑張っているのに国民はやっていない”というのであれば、とんでもない」(サンスポ)と、その国民への責任転嫁を批判したという。

 そう、菅直人が言うように舛添は国民の生命・財産よりも「常に自分の存在をアピールすること」を前に出す。

 全国すべての医療機関が把握患者数を国立感染症研究所に報告するだけではなく、それぞれの地方自治体の担当部署にも地方自治体としての対策に向けた情報提供の必要性から年齢別や性別の患者数及び感染状況を報告しているはずだし、報告を受けた各地方自治体は国としての対策に資する情報提供を目的に厚労省に報告する体制ができていたはずである。

 いわば厚労省は刻々と報告を受けていた。舛添は厚労省のトップとしてその報告を常に把握していなければならない。把握することによって前以ての見当である「予想」はその正否が裏付けられて、その時点で「予想」が外れていた場合、「予想」からの対策は実態に応じた対策へと軌道修正を受ける。

 つまり報告を把握していく過程で感染拡大の推移が理解でき、その推移に応じて対策は手当てされていくという経緯を踏むだろうから、予想できた場合を除いた外れた「予想」は対策上の阻害要因として排除しなければならない。

 言い換えるなら、報告に伴わせて感染拡大が予想以上だなとか、予想以下の感染拡大だなと実態が把握できていただろうから、その面からだけではなく、感染対策の責任者である立場から言っても、「予想できなかった」と言うこと自体が無責任な上、矛盾することになる。「予想できなかった」などと言うのは、自身の予想のみに任せて、報告を受けていなかった疑いが出てくるだけではなく、自身の予想に反した場合の対策を頭に入れていなかった疑いも出てくる。

 もし報告を受けていなかったということなら、担当部署に報告を指示していなかった、担当部署も報告をしなかったことになり、職責上、怠慢の謗(そし)りを免れない。「予想できなかった」からと、予想の範囲内の対策にとどめていたということなら、もやは責任者の資格を失う。

 また「予想できなかった」は手がつけられない状況にまで感染拡大したときの責任の免罪符ともなり得る。そのような免罪符を手に入れるために「国民の慢心」をこじつけた可能性もある。

 阪神大震災のときの政府の対応遅れを批判されて、ときの村山富一総理大臣は「初めてのこととだったから」と責任の免罪符とした。

 麻生内閣は世界的な流行の兆しを受けて、4月28日(09年)から「水際対策」と称して海外からの帰国者に対し旅客便を空港内にとどめて機内検疫を行い、感染の疑いある者を隔離・治療する防疫方法を取った。あるいは船で帰国する者を船内にとどめて検疫を行った。

 その11日後の5月9日(09年)に厚労省は機内検疫によってカナダの短期留学から帰国した大阪府在住の男子高校生2人と男性教諭1人の計3人の新型インフルエンザ感染が判明したと発表。実際には生徒1人は機内検疫の際に症状がなく、一旦機外に出たところで体調不良を訴えて検査の結果、感染が判明したと言う。(47NEWS

 最初から機内検疫が万全と言うわけではなかったわけである。

 舛添要一厚労相は厚労省内で緊急記者会見、「入国前に確認されたもので、(政府の)対処方針上いわゆる『国内で発生した場合』には当たらない」(同47NEWS)と述べたと言う。

 いわば、これまでどおりの機内検疫の「水際対策」を有効対策として継続、国内感染拡大に対応させた対策を取る必要はないと表明した。

 5月16日になって、神戸市内で16歳の男子高校生の感染を国内で初めて確認。その生徒に渡航歴はなかった。渡航歴ある者からの感染なら、機内検疫、あるいは船内検疫の「水際対策」をすり抜けた者が存在することになる。感染者がどのくらいの数か分からないが、例え最小限の1人であったとしても、野放し状態になっていることを示している。

 その後の神戸市内での高校生などの集団感染の発生は菌保有者が野放しになっていたことを証明している。

 麻生首相は国内初感染を受けて記者会見で次のように述べている。

 「政府は、これまでの水際対策に加え、患者の行動や濃厚接触者に対する調査を徹底し、その結果を踏まえて国内での感染拡大を防止するための措置を講じていく方針です」――

 「国内での感染拡大を防止するための措置を講じていく方針です」と感染拡大の大枠を政府が担うことを約束した。基本は国民一人ひとりが心がけることだが、そのための広報等は国及び地方自治体が担うべき事柄であろう。修学旅行の中止だ、海外渡航の自粛による航空会社の旅客減少、人ごみに出ることを避けることからの消費活動の低迷といった状況が社会的に発生し、国の経済に関わっていく問題である。実際に「国民の慢心」からの感染拡大であったとしても、それだけで済まないことを計算に入れる責任が政府・厚労省、さらに地方自治体にはある。

 政府及び舛添“厚労省”が採った「機内検疫」、「水際対策」の一辺倒対策に手抜かりのあったことを伝える記事がある。

 6月4日の「asahi.com」記事――《新型インフル国内初発症は5月5日 検疫で確認より早く》が、厚労省は5月9日に成田空港での水際検疫で確認された感染者を国内初としてきたが、5日にインフルエンザの症状を発症し、翌6日に同市内の医療機関を受診、簡易検査で季節性インフルエンザと診断された神戸市内の高校生の5月5日が確定できた最も早い発症日だと発表したと伝えている。

 但しこの高校生も渡航歴がなく、渡航歴がないと新型インフルを疑う対象とはしない厚労省の方針通りに遺伝子検査を行わなかったために感染者とカウントされなかったが、〈神戸市の調査の一環で、男子高校生の検体を保管していた医療機関が市環境保健研究所に遺伝子検査を依頼、20日に感染が確認された。 〉と後手の感染確認であったことを同記事は伝えている。

 別の「asahi.com」記事も伝えているが、新型インフルエンザの診断基準が「発熱などの症状と渡航歴」を大きなポイントとしているとのことだが、高熱を訴え、渡航歴ある者なら、機内検疫・船内検疫をすり抜けた者として新型インフルエンザの可能性があるから、遺伝子検査を行うべし、渡航歴がなければ、その必要はないとの基準設定をしたのである。

 いわば海外での感染はあっても、海外渡航者からの渡航歴のない者への国内感染はないと見ていた。

 それだけ「水際作戦」と称した機内検疫・船内検疫を絶対と見ていたということであろう。これが日本人は優秀だとする日本民族優越性から生じた自信過剰ではないと誰も断言できまい。渡航歴があったとしても、海外感染ではなく、機内感染で家に帰ってから発症、そこで海外渡航歴のない者への感染は考えなければならない感染経路だからである。

 論理的には絶対的とすることができないことを絶対的としていた。絶対的とする根拠は優越意識しかあるまい。

 政府、舛添“厚労省”のこのような手抜かり、油断は舛添が言う「国民の慢心」では決してなく、麻生内閣及び舛添“厚労省”の無策、あるいは慢心が原因した結果であろう。

 だから、「国内発症日」が二転三転することになる。上記「asahi.com」記事は厚労省の発表として「国内発症日」を5月5日としたとしているが、厚生労働省の調査で既に4月の時点で感染が始まっていた可能性のあることが分かったと6月16日の「NHK」記事が伝えている。

 厚生労働省のこれまでの調査で最も早く新型インフルエンザを発症したのは神戸市の男子高校生で、少なくとも5月5日には症状が出ていたとしていたが、その後の調査で、神戸市内の高校の職員が4月1日の時点で発熱などインフルエンザの症状を訴えていたことが新たに分かったというものである。

 この職員も直前の渡航歴がないが、厚労省は既に4月の時点で新型インフルエンザのウイルスが国内に入り、感染が始まっていた可能性があると分析しているとのことだが、これが事実とすると、麻生内閣の「水際対策」と称した「機内検疫」は万全とは程遠いまるきり後手の対策と言うことになる。

 感染の疑いのある乗客のシート近くに席を占めていた者の感染を確認するためにホテルに隔離して行う7日間の健康観察をあれだけ大騒ぎしていたが、何のためにそこにのみ重点を置いていたのかと言うことになる。

 医療機関の方も厚労省が示したインフルエンザの症状に渡航歴を加えた診断基準を後生大事に守って行った診断は下は上に従う権威主義の行動様式から発した杓子定規だろうが、ものの見事な一律対応としか言いようがない。

 5月24日の「asahi.com」記事――《集団感染の「予兆」大型連休明けにあった 西大倉高校》はその尺時定規の一端を伝えている。

 関西を中心に高校生に新型が感染拡大していた。海外渡航歴のない男子高校生が国内初感染者だとする5月16日の報道に接して、大阪府の男性医師が前の日の15日に診察した中学1年の女子生徒のことが頭をよぎった。

 女子生徒は39度近い高熱と頭痛を訴えて来院したが、高校2年の兄も12日に似たような症状で受診し、簡易検査で「A型陽性」と出ていたが、厚労省が示していた診断基準に従って海外渡航歴も渡航者との接触もなかったため、季節性のインフルエンザと診断した。

 大体が渡航歴の有無は確実に確認できるが、街中の人混みの中で顔見知りでない渡航者との接触ということもあるのだから、確認不可能のはずだが、面談で接触はなかったと簡単に決めてしまう。

 女子生徒も15日の簡易検査の結果はA型陽性。同じように渡航歴はない。「お兄さんのがうつったんやな」。兄と同様、リレンザを投与して帰宅させたという。

 そこで急遽女子生徒を再診断。喉と鼻から検体を採取、遺伝子検査のために保健所経由で府公衆衛生研究所に検体を回したところ、同日深夜、感染が確認された。

 記事は〈「海外渡航歴」が思わぬ足かせになっていた。〉と解説している。

 いわば舛添“厚労省”の誤った診断基準が招いた感染拡大とも言える。言ってみれば、少なくとも感染拡大の素地は国が準備したと言えるのであって、その責任に気づかずに、舛添は「病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と国民に責任転嫁している。

 舛添は記者会見で「政府の専門家諮問委員会から『感染力、病原性等の性質から見て、(新型は)季節性インフルエンザと変わらないという評価が可能』と報告を受けた」(《機内検疫を週内にも終了…政府、感染拡大防止に重点》YOMIURI ONLINE/2009年5月19日03時09分)、「検疫に人的資源を集中することから、国内対策にシフトすることは必要だ」(同YOMIURI ONLINE)として、「機内検疫」から国内感染防止に軸足をシフトさせることを表明したが、海外渡航帰国者の感染初確認が「5月9日」、それを1カ月程溯る4月初旬に既に国内感染者が発生していた可能性が機内検疫・船内検疫の「水際作戦」に綻びを与えたことからの国内感染防止への撤退に過ぎないだろう。

 上記《機内検疫を週内にも終了…政府、感染拡大防止に重点》記事は国内感染防止への対策シフトを〈政府のこうした対応は、地方自治体や企業が強く要請したためだ。政府はすでに強毒性の鳥インフルエンザを想定した行動計画を弾力的に運用し、「外出の自粛要請」「企業への業務縮小要請」などは見送っている。それでも、18日に厚労相を訪ねた大阪府の橋下徹知事が「国が方針を出してくれると自治体はやりやすい」と訴えるなど、政府により柔軟で具体的な対応を示すよう求める声が強い。〉としている。

 経済に及ぼす悪影響が動かした「外出の自粛要請」、「企業への業務縮小要請」への「見送り」だと解説している。これは国民が関与しない場所で政府と地方自治体、企業が決定した対策であろう。

 この決定は「asahi.com」記事――《インフル対策、社会活動への影響考慮し緩和へ 労省》(2009年5月19日2時31分)によると、現在の感染拡大状況は〈基本的に政府の対策行動計画の第3段階(蔓延=まんえん=期)にあたるが、第3段階にすると社会活動への制限が大きいため、現在の第2段階(国内発生早期)にとどめ〉たものだと解説している。

 いわば麻生内閣及び舛添“厚労省”が決定した感染防止緩和策であって、国民関与の決定ではないことは「asahi.com」記事も伝えている。

 舛添の新型インフルエンザ感染拡大の原因が「国民の慢心」は薄汚い国民への責任転嫁(2)に続く

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舛添の新型インフルエンザ感染拡大の原因が「国民の慢心」は薄汚い国民への責任転嫁(2)

2009-08-23 15:49:55 | Weblog

 政府及び舛添“厚労省”のこの決定を受けて、自らも働きかけていた橋下徹大阪府知事は5月23日に「都市機能回復宣言」を行っている。5月23日の「YOMIURI ONLINE」記事――《大阪府が都市機能回復宣言》は次のように伝えている。

 橋下知事「季節性インフルエンザへの対応と同様に、普段通りの生活を呼びかけていく。25日からは全力で都市機能の回復に努めたい」

 具体的には、〈大阪府の橋下徹知事は23日、現時点で、新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)感染の急速な拡大を防止できたとして、府庁で開いた新型インフルエンザ対策本部会議で「都市機能回復宣言」を行い、25日から社会・経済活動の再開に取り組むと明らかにした。府内の全中学、高校に求めている一斉休校や、屋内施設、高齢者施設などの臨時休業、イベント自粛といった感染拡大防止措置を24日限りで解除。今後は重篤化のリスクが高い、基礎疾患を持つ人などへの感染防止など、重症化を防ぐことに重点を置いた対策に転換する。〉とし、〈18日未明に発令した「流行警戒宣言」を「警戒宣言」に引き下げ、「(抗インフルエンザ治療薬の)リレンザ、タミフルの備蓄も十分ある」と住民に冷静な対応を呼びかけた。〉という。

 そして休校措置中の市立幼稚園、小中高校など計522校園を25日に再開することに決定。同じような状況にあった地方自治体が相互に右へ倣えすることになるのだが、もう安心だ、普段どおりの生活に戻ってくださいと国、地方自治体、企業の側から国民に太鼓判を押したのである。

 国民が国や地方自治体の制止を無視して勝手に「普段通りの生活」に走ったわけではない。

 それを舛添は「病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と言う。「慢心」は国、地方自治体、企業側にあったのではないのか。

 さらに言うなら、国の指示に杓子定規に従うだけの医療機関に。

 5月23日の「NHK」記事――《外来サーベイランス 機能せず》も感染拡大の責任が国や地方自治体にあったことを教えてくれる。

 国は海外で新型インフルエンザウイルスの感染が確認された際、日本国内での感染をいち早く察知するために全国のおよそ7500の医療機関が高熱や倦怠感などのインフルエンザに似た症状を訴えた患者の人数を毎日国に報告することを義務付けた「外来サーベイランス」なる監視システムを整備、立ち上げた。

その狙いは空港や港で感染が発見できない場合に備えたシステムだということだが、5月1日にシステムの運用の開始を都道府県に通知、だが、感染が数多く見つかった兵庫県や大阪府を含め全国の殆んどの自治体で医療機関に運用開始を知らせず、システムが機能していなかったと言う。

 記事は二つの声を伝えている、

 東北大学の押谷仁教授「システムが機能していなかったことが、感染拡大の発見の遅れにつながった可能性もある。感染の広がりを検知する仕組みを早急に整える必要がある」

 厚生労働省「十分な準備ができていなかったと言われればそのとおりだが、システムが機能しなかったから感染者を見逃したとは思わない。早期に感染者を発見するため、このシステムを含め、さまざまな監視システムを機能させるようにしたい」

 教授は「感染拡大の発見の遅れにつながった可能性もある」と言い、厚労省は「システムが機能しなかったから感染者を見逃したとは思わない」と「システムが機能しなかった」ことの責任を否定している。

 厚労省の抗弁を裏返して言うと、「システムが機能しなかった」こととは別の要因で「感染者を見逃した」ということになり、そうであるなら、「このシステムを含め、さまざまな監視システムを機能させるようにしたい」と言っているが、「外来サーベイランス」なる監視システムそのものは必要ないシステムということになる。

 この厚労省の役人は自分がどういうことを言っているのか気づいているのだろうか。

 いずれにしても国民は「季節性インフルエンザへの対応」を求められたものの、国・地方自治体から「普段通りの生活」をするお墨付きを貰った。国民が自由度を求めて「普段通りの生活」に重点を置いたとしても人間の自然性から発した態度と言えよう。

 文部科学省は空港以外で初めて国内で感染が確認された16日に「自粛を求める情勢ではない」としつつ、「発生場所や今後の発生動向を踏まえ、都道府県の保健部局と相談して適切に対応を」との文言を入れて、一定の慎重な対応を求めたものの、全国で修学旅行のキャンセルが相次ぎ、その影響を受けた旅館業界や交通機関関連の企業救済をも含めていたに違いない、表向きは楽しみにしていた修学旅行がキャンセルとなってしまった児童、生徒の気持ちに配慮するよう求めてはいるが、中高校の修学旅行の後日再開を求める文書を各都道府県教育委員会に送っている。(《中止の修学旅行、文科省「後日実施を」 子の気持ち配慮》asahi.com/2009年5月27日6時52分)

 「臨時休業の学校を除いて自粛を求める状況ではない」

 「修学旅行の教育的意義や児童生徒の心情も考慮し、とりやめる場合も延期としたり、とりやめた学校も改めて実施を検討するなどの配慮を」

 これも「普段通りの生活」に対応した「普段どおりの」修学旅行というわけなのだろう。
 
 舛添は首都圏で初めて新型インフルエンザの感染者が見つかったとき、「関西とは違って、国内感染というよりはニューヨークからの帰国者でもあり、東京都と川崎市の教育委員会が適切な対応を取っている。今後も正確な情報を国民に伝えるので、油断することなく、冷静に対応していただきたい」(NHK/09年5月21日 12時34分)と海外感染に拘って、国内での人から人への感染に注意を置いていない。

 政府の新型インフルエンザ対策本部長は麻生首相だが、実務方のトップの舛添のこの万全を欠く認識能力、あるいは状況把握能力はどう説明したらいいのだろうか。 

 認識能力、あるいは状況把握能力を欠く人間は当然の成り行きとして責任の所在がどこにあるか把握する認識能力、把握能力も欠くことになり、そういった人間が「病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と言う。

 民主党の蓮舫が舛添要一を評して、「舛添要一厚生労働相は『民主党政権で2万6千円の子ども手当を配ると親がパチンコなどに使ってしまう』と批判した。国民を信頼していない冷たい政治です」(「スポニチ」)と批判したということだが、石原伸晃も言っていた「親がパチンコなどに使ってしまう」は一部の親のありようを疑って制度そのものを否定する「疑わしきはすべてを罰する」に属する非合理性の発揮そのもので、ここにも認識能力、あるいは状況把握能力の欠如を見て取ることができる。

 同じことを言うが、認識能力、あるいは状況把握能力を欠いた人間に満足な責任意識は育つはすがない。「病原性が低いこともあり、国民に慢心が出てきたことも感染拡大につながった可能性がある」と国民に責任転嫁ができたのも、認識能力、状況把握能力の欠如の上に築いた歪んだ責任意識からの転嫁なのは断るまでもあるまい。

 こういった人間が産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査で、「今、日本の首相に一番ふさわしい政治家は誰か」を聞いたところ、自民党の舛添要一厚生労働相が「政権交代」を掲げる民主党の鳩山由紀夫代表の12.8%(前回2.4ポイント)を4ポイント程上まわる16.9%(前回6月比6.2ポイント増)だと言うから、驚きである。

 8月11日の記者会見では舛添は次のように発言している。

 「(総選挙の情勢は)極めて厳しい。もっと厳しいのは、その厳しいのを理解していないわが党の候補者が多すぎることだ」

 「子どものままごとをやっているんじゃないかという感じの選挙をやられている方がいる。『人気のある大臣が来たら、おれだって受かるだろう』と。そんな甘いもんじゃない。・・・・そういう状況を執行部がきちんとみて、しかるべき指導をしないと(いけない)」(《「ままごと選挙やってる」 舛添氏、自民の運動ばっさり》asahi.com/2009年8月12日0時3分)

 その人気から、自民党候補者の応援に引っ張り凧だそうだ。

 自民党にとって総選挙の情勢が「極めて厳しい」のは世論調査に現れているだけではなく、各候補者自身が選挙運動の中で有権者の態度を通して肌で実感していることだろう。いわば舛添がわざわざ言わなくても自民党候補者、自民党支持者の誰にも分かっている「極めて厳しい」であって、それをわざわざ言う。

 ここには支持率が低下している自民党を「その厳しいのを理解していないわが党の候補者が多すぎることだ」と叩くことで、そういった候補者に反して自分は「厳しいのを理解して」いると裏返しの能力をそれとなく発信して間接的に自身の評価を高める巧妙な企みが潜んでいる。自分だけ偉そうに構えていられるのは参議院議員という総選挙に関係のない場所に自分を置いているからだろう。当事者の一人であった場合、「(総選挙の情勢は)極めて厳しい。もっと厳しいのは、その厳しいのを理解していないわが党の候補者が多すぎることだ」とか、「子どものままごとをやっているんじゃないかという感じの選挙をやられている方がいる」などと批判したなら、仲間の足を引っ張ることになって、逆に自分の評価をさげることになる。当事者の一人でないから叱咤激励となり、自身の評価も上げることできる。

 要するに自身が自民党に所属していながら、「自民党をぶっ壊す」と言うことで他の自民党議員と自分は違うことを示して、自身の評価を上げた小泉もどきを演じているに過ぎない。

 もし自民党が政権を失い、麻生政権が崩壊した場合、自民党の次期総裁に認識能力、状況把握能力、責任能力を欠いた舛添要一がなるとしたら、滑稽である。まあ、口先の勢いだけで総裁の地位を保つことになるだろう。麻生太郎が口達者だけで総理・総裁を維持してきたように。

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麻生が批判の、民主党は「日の丸ひっちゃぶ」くのではなく、国旗国歌法を「ひっちゃぶ」くべし

2009-08-21 11:56:39 | Weblog

 健全な政党であったことがない自民党を健全な保守と言う愚かしい矛盾

 今月17日(8月)の日本記者クラブ主催6党首の討論会で麻生首相は鹿児島県で開催民主党集会の壇上に掲げた民主党旗が国旗二枚を使ってそれぞれの日の丸の端を重ね、重ねた部分を白くして作ったものだったとして、「日の丸を切り刻んで、上下につなぎ合わせた」と批判した、と言うよりもイチャモンをつけたといったところだが、私などはなかなかのアイディアだと思うのだが、昨20日午前に鹿児島県霧島市で街頭演説する際、同じ鹿児島県ということで、日本の健全な保守の一人として蒸し返して票稼ぎの得点にしようとしたのだろう、再び取り上げて批判したそうで、そのことを昨夜の「NHKニュース9」が報じていた。

 麻生「今、その振っていただいている日の丸、それをひっちゃぶいて、二つにくっつけてぇー、え、えー?自分のとこの党旗にしてー、そして党のー、マニフェストの、の、載っているような、ホームページに、それを載せる。

 ふざけていると思いませんか。自由民主党だというところは、間違いなく保守。それはみなさん方の家族であり、また、郷土であり、日の丸であり、日本であり、そういったものをきちんと守っていく。

 革命的選挙をやる。
(自分で否定するように首を短く二度程左右に振る)そう言っておられますが、我々は日本に革命を起こすつもりはありません」――

 格差社会をつくり、地方を疲弊させ、過疎化させ、高齢化するに任せ、さらに子育て困難社会をせっせと立ち上げた上に少子化に打つ手もなく、「みなさん方の家族であり、また、郷土であり、日の丸であり、日本であり、そういったものをきちんと守っていく」、それが「保守」だと言う。

 「きちんと守って」こなかったにも関わらず、「きちんと守っていく」と胸を張って自信たっぷりに言えるのは麻生太郎だからであり、「日本の保守」を掲げているからだろう。「日本の保守」を掲げない、責任意識の一カケラも持ち合わせている人間だったなら、恥ずかしくてとても言えまい。自民党のテレビコマーシャルに出て、盛んに「責任力」を言えるのも、麻生太郎が「日本の保守」を掲げているからに違いない。

 こと程さように麻生は「日本の保守」を絶対としている。いや、麻生だけではなく、日本の国家主義的政治家に共通する絶対意識である。

 「保守」を絶対としているから、「保守」の掲げるそれぞれの価値対象も当然の結果として“絶対”を纏わせることになる。郷土、家族、日の丸、日本・・・・。

 日の丸・国家を絶対としているから、日本人の国旗・国歌行為は国家を絶対と確認する行為としなければならない。あるいは絶対と確認すさせることを求める行為となる。

 価値観としては絶対としていても、それぞれの価値対象は常に絶対ではない、矛盾だらけの現実を姿としていることに目を向けることができない。

 国旗・国歌を絶対としていることを教えてくれる最近の記事がある。その記事を示す前に、正式名「国旗及び国歌に関する法律」(略式名「国旗国歌法」)を示しておく。

  第1条 国旗は、日章旗とする。
  第2条 国歌は、君が代とする。

 たったこれだけである。8月18日(09年)の「asahi.com」記事――《修正重ね「義務」消えた 99年国旗国歌法草案》が法案成立までの議論の経緯を伝えている。重要なことと思えるから、全文参考引用する。

 〈ちょうど10年前、99年に成立した国旗国歌法の政府草案が成案になるまでの経緯が情報公開法で入手した資料や関係者の証言から明らかになった。「国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」。そんな義務規定が国会に提案される前に削られていた。なぜか。

 東京都内で、当時の官房長官だった野中広務氏に、手に入れた国旗国歌法の草案を示した。A4判で20枚ほどだ。「こんな紙は初めて見る」と野中氏は言った。

 まず、99年3月26日の1次草案。1条と2条で日の丸・君が代を国旗・国歌と短く定めた後、こう続いている。

■3条 国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。 
  2 国及び地方公共団体は、政令の定めるところによりその管理する建造物において国旗を掲
    揚しなければならない。 
  3 国民は、祝日に国旗を掲揚するよう努めるものとする。

 約1カ月前、広島の県立高の校長が卒業式を前に自殺。式典で「日の丸掲揚・君が代斉唱」を求める県教委と反対する教師との板挟みになっていた。これを機に野中氏は法制化を決断。古川貞二郎官房副長官の下にチームが作られた。

 野中氏「こんなことで人を死なすのは不幸だと考えた。『総理、法制化させてもらえませんか』と言ったら、小渕総理は『おれ、やらないって言ったばかりだよ』と。法制化しないと1週間前の参院で発言したばかりだった。『(国会を)通るか、君』と言うので『大丈夫ですよ』と言うたんですよ」

 4月16日の第2次案。3条の1項だけが残っている。

 ■3条 国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

 政府が国会に提出する法案は、各省庁と内閣法制局がやりとりを繰り返す中で固まっていく。国旗国歌法の担当だった法制局第2部の関裕行参事官は「例えば君が代の旋律を変えて演奏したら尊重しないことになるのか」などとチームに質問を投げた。そして「国民は」の文字に線を引き、修正を加えた。それが4月19日付の3次案となる。

 ■3条 国旗及び国歌を尊重しなければならない。

 関氏「誰の何に対する義務なのかと宿題を出しても答えがなかった。条文を残しておきたいならと、とりあえず主語を消して仮置きしたのではなかったか」

 このころ、古川副長官は三つの柱を示していた。(1)1条と2条でいくのが基本(2)3条の検討は続ける(3)議員提案ではなく、政府提案の法律にする――第3次案にそんなメモが書かれている。

 古川氏「3条のようなものが必要だという議論はあり、草案は幅広めにつくったように思う。私自身は早くから、国旗国歌とはこういうものだと示せば十分ではないかと考えていた。尊重義務などを書けば、罰則がなくても『義務を守らないのは、けしからん』などと言い出す人がいるかもしれない。そうした余地はないほうがいい」

 野中氏「3条について古川君から相談を受けたことがある。『残した方がいいですかね』と言うので、『残さん方がいいでしょう』と答えた。3条は火種になる。政争の具にすべきではないと思ったからだ」

 4月27日付の第4次案はこうなっている。

 ■3条 国旗及び国歌は、尊厳が保たれるように扱われなければならない。

 この後はもう議論は交わされなかった。翌28日付の5次案では3条の尊重義務は姿を消す。5月10日、これがそのまま法案となり、8月9日成立した。

 大森政輔・元内閣法制局長官「成立直後の8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で『国歌斉唱、ご唱和願います』と放送が流れた。国会で『義務を課すものではない』と言っていたのに非常に違和感を持った。君が代を歌わないととやかく言われたり、国旗に敬礼しなければいけなかったりする社会は窮屈だ。歌いたくなければ歌わずに済む社会が私はいい」

 だが、現場は違う。文部科学省によると99年度以降、国旗国歌をめぐって処分を受けた公立校の職員は延べ1123人に達している。(谷津憲郎)〉(以上引用終わり)――

 1次草案では、尊重義務化の「3条」が3項までついていた。第2次案では「3条」の1項のみを残し、尊重義務化の対象者を「国民」のみに明確に絞る。

 「3条 国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」

 そして第3次案では第2次案から「国民は」の文字を消して、尊重義務化の対象者を曖昧にする。曖昧にしたとしても言葉が見えないのみで、国民に網をかけていることに変わりはない。

 「3条 国旗及び国歌を尊重しなければならない」

 国民以外に誰に尊重させようとしていると言うのだろうか。国民以外に存在しない。

 第4次案は「国民」の文字を取ったとしても尊重義務化の対象が国民であることに変わりはなく、そうすることが押し付けになってまずいと見たのか、国旗・国歌の扱い方を指示・規定する方法で尊重義務化の対象者が国民であることをさらに見えにくくする言葉のトリックを働かす。

 「3条 国旗及び国歌は、尊厳が保たれるように扱われなければならない」

 「尊厳が保たれるように扱われなければならない」がまさか桐の箱や漆塗りに金箔を施した箱に納めて恭しく持ち歩いたり、しまっておくのは校長室の金庫にしまうといったことではなく、国旗に対しては掲揚時には起立して直視する、君が代の場合はやはり姿勢正しく起立して、顔を正面に向け、はっきりとした声で歌うといった、国民を尊重義務化の対象とした指示・規定であることに変わりはあるまい。

 そして最後に5次案では3条の尊重義務が姿を消す。但し一部を除いて、全体的には上の側には、いわば国家の側には国民を対象とした尊重義務化の意志を存在させていた。尊重義務化を規定するまでに機が熟していなかったという時期の問題か、あるいは解釈で少しずつ「3条」を付け加えていく高度なコントロールで国民の尊重義務化に持っていく腹積もりからなのか、そこら辺であることはその後の上の側からの国旗・国歌に対する扱い方の動きを見れば理解できる

 「国旗及び国歌に関する法律」が1999年5月10日国会に上程し、8月9日成立する間の6月29日の衆議院本会議で当時の首相、小渕恵三は日本共産党の志位和夫の質問に対する答弁を「Wikipedia」が次のように記している。

 「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。
 
 国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」 ――

 小渕は矛盾したことを言っている。後段では「国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」と言いながら、前段では尊重義務化を規定する言葉は使わないものの、学校は児童生徒に学習指導要領に基づいて国旗・国歌について指導する責務を負っていると言っている。

 当然日の丸掲揚・君が代演奏を前提として態度面では起立、唱和、注視、精神面では国旗・国歌としての歴史・文化を教えることになる。

 そのどこが悪いと言うだろうが、あくまでも上(=国家)の側からの意志=国家意志が下に位置する国民に向かって発動した規定の数々だからである。

 当然、上の側・国家の側には国旗・国家を絶対とする意志が働く。

 このような上の意志に対して下は権威主義の行動様式を受けて上の意志が直接的に働かなくても、それに自分の方から意を迎える形で受け入れ、上の意志に叶うべく積極的に動くことになる。

 その最初の現れが2003年(平成15)10月23日の東京都教育委員会の「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」の通達であろう。新聞等でも問題となったが、全文を引用してみる。

 〈東京都教育委員会は、児童・生徒に国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てるために、学習指導要領に基づき入学式及び卒業式を適正に実施するよう各学校を指導してきた。
 これにより、平成12年度卒業式から、すべての都立高等学校及び都立盲・ろう・養護学校で国旗掲揚及び国歌斉唱が実施されているが、その実施態様には様々な課題がある。このため、各学校は、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について、より一層の改善・充実を図る必要がある。

 ついては、下記により、各学校が入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱を適正に実施するよう通達する。

 なお、「入学式及び卒業式における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について」(平成11年10月19日付11教指高第203号、平成11年10月19日付11教指心第63号)並びに「入学式及び卒業式などにおける国旗掲揚及び国歌斉唱の指導の徹底について」(平成10年11月20日付10教指高第161号)は、平成15年10月22日限り廃止する。

  

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。

2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉
  唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。

3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場
  合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

 入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針

  1 国旗の掲揚について

  入学式、卒業式等における国旗の取扱いは、次のとおりとする。

  (1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。

  (2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、国旗にあっては舞台壇上正面に向かって
    左、都旗にあっては右に掲揚する。

  (3) 屋外における国旗の掲揚については、掲揚塔、校門、玄関等、国旗の掲揚状況が児童・生
    徒、保護者その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。

  (4) 国旗を掲揚する時間は、式典当日の児童・生徒の始業時刻から終業時刻とする。

  2 国歌の斉唱について

  入学式、卒業式等における国歌の取扱いは、次のとおりとする。

  (1) 式次第には、「国歌斉唱」と記載する。

  (2) 国歌斉唱に当たっては、式典の司会者が、「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。

  (3) 式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を
    斉唱する。

  (4) 国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う。

  3 会場設営等について

  入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。

  (1) 卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。

  (2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、会場の正面に演台を置き、卒業証書を授与する。                    

  (3) 入学式、卒業式等における式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営す
    る。

 (4) 入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふ
   さわしいものとする。 〉――――

 これが小渕が後段で答えた「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」の国旗・国歌に関わる国家意志の結末である。

 これは東京都だけの問題ではなく、ほぼ日本全国に広がっている。思想・信教の自由を理由として起立しない教師に懲戒免職等の懲罰を与えている。

 あくまでも上の意志・国家意志が尊重義務化にあるからこそ行き着いた結末であろう。 そして上の意志・国家意志が国旗・国歌、さらに日本国家をも絶対としているからこそは国民に対して尊重義務化の強制意志を働かせることができる。

 関東大震災時の燃え盛る火災から校長室等に掲げた「御真影」を何事もなく無事に持ち出そうとして多くの学校長が焼死したということだが、そのとき学校から「御真影」を遠ざける方がいいという意見は出たが、「御真影」が消失しても止むを得ない、学校長が焼死しないことの方が大事だという意見は出なかったと『近代天皇像の形成』(安丸良夫著・岩波書店)は書いている。戦前の日本は現在の北朝鮮の金正日の写真に対するように天皇本人ではないその写真に対して国民の命よりも大切にする尊重義務化を負わされていたのである。

 これは天皇を絶対とする意識が「御真影」にまで働いていたということだろう。天皇本人と「御真影」を同格に置いていた。

 麻生の意識の中にも「日本の保守」らしく、戦前の思想を引きずって日の丸を絶対とする意識が働いている。「日本の保守」を絶対としている関係から、「日本の保守」が掲げる価値対象である日の丸、日本も絶対とすることになる。絶対としているから、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と優越性の観点から誇ることができる。当然、日本という国家と日の丸・君が代を優越性・絶対性の価値観で響き合わせることになる。

 いわば麻生の「日の丸、それをひっちゃぶいて、二つにくっつけてぇー」は日本国歌や日の丸を絶対とする価値観からの民主党に対する批判だと言える。きっと腹の腸(わた)が煮えくり返っていたに違いない。

 であるなら、民主党が政権を獲ったなら、現在の「国旗及び国歌に関する法律」を「ひっちゃぶいて」、「日本の保守」が抱えている日本の国家、国旗・国歌を絶対としたい意志から国民尊重義務化の意図を剥いで、

 「第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。」の条文どおりの、そこにどんな国家意志も含まないシンプルな内容に戻すべきだろう。どんな法律も国家のために存在するのではなく、国民の利益のために存在するからだ。

 麻生は最後に「革命的選挙をやる。そう言っておられますが、我々は日本に革命を起こすつもりはありません」と言葉を読み間違えるだけではなく、「革命的」という言葉の意味までも取り間違えるトンチンカンをやらかしているが、自民党に今こそ必要なのは自身の党、自民党に対する政治の革命であることに気づいていない。そのことに気づかないのは、「変えるべきものは変える」が口先だけだからだろう。

 相変わらずのこの程度麻生と言わざるを得ない。

コメント (2)
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