安倍晋三、高市早苗、丸川珠代等々の夫婦別姓反対理由にジャンケンで決めてもいい子どもの氏の安定性喪失を挙げる政治家は教育を語る資格なし

2021-11-29 08:37:06 | 政治
 2021年10月18日に10月31日投開票衆院選の政策を問う日本記者クラブ主催の9党首討論会が開催され、「第1部党首同士の討論」で立憲民主党代表の枝野幸男が選択夫婦別姓政策に関して自民党総裁岸田文雄に議論を仕掛けた。その答弁は岸田政権の選択夫婦別姓政策の今後の行方をほぼ確実に予想させることになる。その部分だけを取り上げてみる。

「枝野×岸田:夫婦別姓」
(2021年10月18日 13:00 〜 15:00 日本記者クラブ10階ホール)
 
 枝野幸男「ジェンダー多様性について岸田総裁にお尋ねしたいと思います。選択的夫婦別姓について法制審議会が進めるべきだと答申を出したのは四半世紀前です。当事者は待ってはくれません。岸田さんご自身が自民党内の推進議連の呼びかけ人だったはずですが、総裁になった途端にどっかに行ってしまいました。

 子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっておられますが、選択的夫婦別姓が実現されていないために止む無く法律上の婚姻届を出さない。事実婚で対応しているご家庭、そうしたご家庭が、いずれも子どもの氏については夫婦間の合意によって何の問題もなく、子どもたちもすくすく成長し、もはやそうしたみなさんが成人となって、早く選択的夫婦別姓を実現して欲しいという声を上げておられます。

 まさにジェンダー平等の推進、多様性ある社会を進めていく上で何としても入り口のところの大きな、大きなハードルがこの選択的夫婦別姓が進まないということです。

 私自身、28年間、国会議員としてこの問題、取り組んでまいりました。ぜひ岸田総裁に前向きのお答えをお願いしたいと思っております」

 岸田文雄「先ず選択的夫婦別姓の問題については多様性を尊重する立場から、また困っている方がおられるわけですから、こうした問題にしっかりと向き合って、議論していくことは大変重要だと思っています。

 枝野代表は28年間、こういう議論に関わっているというお話がありました。しかしこの問題は社会全体で受け入れる問題です。えー、社会全体、私も地元で車座になって、多くの皆さんと意見交換する中で選択的夫婦別姓の問題、これを取り上げることもあります。そういった際に多くのお母さんたちから『子どもがたくさんいるけれども、この子どもたち、それぞれバラバラの氏を選ぶんですか。いつ選ぶんですか。誰が選ぶんですか。あとから変えられるんですか』、色んな疑問の声出ています。

 あの、一般の方々にとってはまだまだ、この問題、深めなければならない点、たくさんあるんではないか。そういった点から、引き続き議論していくことは大変重要だと思っています」

 司会者「枝野さん、一言簡潔に」

 枝野幸男「えー、あのー、当事者の皆さん、待ってはおられませんし、世論調査などでもですね、えー、もう過半の皆さん、特にですね、婚姻の当事者である、確率の高い若い世代ではですね、こんなことは当たり前なんで、こんな当たり前のことが通用しないんだというのが多くの若い皆さん、当事者的な立場にある皆さんの声です。是非、そうした皆さんの声をしっかり踏まえながらも、そうした皆さん(子ども氏の問題はどうするのかと言っている皆さん)を説得して早く実現すべきだというふうに思っています」

 枝野幸男は岸田文雄に対して選択的夫婦別姓の法制化に「前向きのお答えをお願いしたい」と申し出た。申し出るのは岸田文雄がかつては自民党内の法制化推進議連の呼びかけ人だったはずだが、「総裁になった途端にどっかに行ってしまって」、「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃって」法制化に慎重な姿勢になっている。そのような姿勢を「ジェンダー平等の推進、多様性ある社会」の実現のために、いわば改めて欲しいと求めた。

 枝野幸男が岸田文雄のことを「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっている」と指摘したのは「子どもの氏の問題」が自民党内の法制化反対派の反対の大きな理由の一つとしていることを承知しているからで、そのことを前提とした発言であろう。もう一つの大きな反対理由は子どもの氏を含めた家族別姓だと「家族の一体感」が損なわれることを挙げている。

 岸田文雄は枝野幸男の選択的夫婦別姓法制化推進の申し出に対して案の定と言うべきか、自民党内法制化反対派の反対の大きな理由の一つである「子どもの氏の問題」を持ち出した。「多くのお母さんたちから『子どもがたくさんいるけれども、この子どもたち、それぞれバラバラの氏を選ぶんですか。いつ選ぶんですか。誰が選ぶんですか。あとから代えられるんですか』、色んな疑問の声出ています」ことを理由にまだまだ議論を深めていかなければならないから、早急な法制化の推進はできないと示唆した。

 安倍晋三も岸田文雄と同様、議論の進捗の必要性を訴える一人であるのは2018年2月5日の衆議院予算委員会で当時希望の党所属、現在自民党議員の井出庸生が、戸籍法では日本人同士の婚姻の場合のみが一方の氏を名乗る義務付けが行われていて、外国人と日本人の婚姻では両方の氏を名乗ることができる、離婚した際、外国人と日本人の場合も、旧姓に戻すことも、結婚時の姓のままでも許される。なぜ日本人同士の結婚だけが一方の氏を名乗ることを義務付けられているのか、「感想を一言頂ければと思います」と安倍晋三に質問した。

 安倍晋三「総理大臣としては感想というわけにはまいらないのでございますが、この問題は、我が国の家族のあり方に深くかかわるものでありまして、国民の間にさまざまな意見があることから、国民的な議論の動向を踏まえながら慎重に対応する必要があるものと考えております」

 「国民的な議論の動向を踏まえる」ということは議論の行方を見極めるということだが、見極めるについては議論の進捗が必要となるが、夫婦別姓法制化に向けて議論をリードするといった姿勢は微塵も見せていない。尤も安倍晋三が使う「リードする」の言葉は勇ましくは聞こえるが、実質を伴わないことの代名詞となっているケースが多い。「世界の温暖化対策をリードする」、「唯一の戦争被爆国として日本が世界の核軍縮、不拡散をリードしてまいります」、「21世紀こそ、女性に対する人権侵害のない世界にしていく。日本は、紛争下での性的暴力をなくすため、国際社会の先頭に立ってリードしていきます」等々。特に最後の言葉、日本は国同士の紛争に国際社会の先頭に立って調停役として乗り込んだことがあっただろうか。殆どが他国に追随するか、求められてのPKO派遣といったことが多い。

 安倍晋三はまた、2020年11月25日発足の夫婦別姓法制化反対の活動拠点である議員連盟「絆を紡ぐ会」(共同代表に高市早苗前総務相、山谷えり子元拉致問題担当相)の第4回会合に講師として招かれ、「日本を護る〜これからの政治」をテーマに講演している。(「上野宏史衆議院議員オフィシャルサイト」

 講演内容は、〈中国との外交関係における心構え、マスメディアの在り方など、安倍前総理からも「この場限りで」という言葉が何度も出るほど踏み込んだお話。若手議員の頃のエピソード、故中川昭一衆議院議員との関係などについても触れられ、大変刺激的で勉強になる内容でした。〉と触れているだけで、肝心の夫婦別姓については何の説明もないが、夫婦別姓法制化が「家族単位の社会制度の崩壊」と考えている高市早苗と山本えり子が共同代表を務める「絆を紡ぐ会」に講師として招かれ、「日本を護る〜これからの政治」をテーマに講演しているのである。「日本を護る」の中に従来の家族同姓を単位とした社会制度の維持を念頭に置いていないことはなく、少なくとも夫婦別姓反対の意思を窺わせる発言をしなかったとは考えにくい。

 安倍晋三が2019年7月21日参院選投開票前の2019年6月30日「ネット党首討論」で、立憲民主党代表枝野幸男から選択的夫婦別姓の導入の是非を問われて「経済成長としての課題ではない」と答弁したというが、別姓導入の是非そのものについては答弁を拒否していることになって、別姓反対の意思表示となるが、この態度には導入を明確には否定すまいとする意思表示も同時に現れている。野党やマスコミ、世論から明確に反対派だと刻印された場合、他の女性政策等に悪影響することを避ける意味合いからの曖昧戦術なのだろう。「絆を紡ぐ会」第4回会合での講演でも、導入に明確には否定しなくても、婉曲的に導入反対の発言はしていると思われる。

 枝野幸男は岸田文雄が「子どもたちの氏のことをどうも色んなところでおっしゃっている」と指摘している以上、岸田文雄のこの回答を当然のことと予測し、子どもたちの氏の問題が選択的夫婦別姓反対の理由にならないことを理論武装し、その武装した理論を以ってして岸田の「引き続きの議論」の必要性を論破しなければならなかった。理論武装とは、断るまでもなく言葉を武器に自らの理論(=主張)を武装し、その武装した理論(=主張)を駆使して事の是非を戦わせることである。相手の武装した理論(=主張)と自らが武装した理論(=主張)で戦わせて、事の是非に決着をつけることである。

 だが、枝野幸男は岸田文雄の回答に対して一言、異議なり、賛意なりを申し立てる権利を与えられていながら、子どもたちの氏の問題に答えることと関係しない世論調査を持ち出して、夫婦別姓の当事者となり得る可能性の高い若い世代の賛成が多いのだから、そういった声を踏まえて欲しいとお願いに出るだけで、反対派が最も重視している問題点の一つである子どもたちの氏の問題に的を絞って武装した理論を前以って用意し、それを用いて岸田文雄の理論(=主張)を論破することを怠った結果、問題提起も問題提起に対する反応も既に見てきた遣り取りと同じ繰り返しを見せることになった。要するに堂々巡りを演じたに過ぎない。

 相手は与党の代表であり、自身は野党第1党の代表である。総選挙を控えて気骨のあるところをアピールしなければならない場面でこのような情けない有様では頼り甲斐がないなと心配していたが、総選挙で議席を減らしたということは一事が万事、選挙戦を通して有権者の多くは枝野代表に気骨を感じることが少なかったということなのだろう。

 枝野幸男は最初の議論のところで、「私自身、28年間、国会議員としてこの問題、取り組んでまいりました」と28年間の取り組みを誇っているが、28年間も取り組んでもなお、自民党を法制化のスタートラインに立たせることもできないのだから、誇るどころか、実際は枝野自身の28年間の無力を曝け出したに過ぎない。恥じ入って然るべきなのだが、逆に誇る自身に対する甘さは気骨のなさに通じ、一政党の代表を務める資格があったのかどうかを疑わせる。

 自民党内の選択的夫婦別姓法制化反対の強硬派、安倍晋三の秘蔵っ子高市早苗も、秘蔵っ子かどうか知らない山谷えり子も夫婦別姓によって夫婦の間の氏の違いだけではなく、子どもの氏が夫婦いずれかの氏と違いが出たり、子どもが複数の場合、ときには子どもの間でも氏の違いが出ることを「社会の秩序」や「家族の絆」、「家族の一体感」を破壊する要因と見て、法制化反対の主たる根拠としている。

 立憲民主党などが選択的夫婦別姓導入賛同の意見書を地方議会に送付、採択の動きに危機感を募らせたのだろう、自民議員50人が採択しないよう求める文書を全国40議会の議長に送付したという。その中には勿論、高市早苗も入っているし、山谷えり子も入っている。選択的夫婦別姓制度導入反対の世間によく顔を出す常連と言ってもいい。ほかに片山さつき、有村治子、西田昌司、丸川珠代などなど、有名どころが顔を揃えている。特に丸川珠代はこの文書に名を連ねて地方議会送付約半月後に3つの基本コンセプトの1つ、「一人ひとりが互いを認め合う(多様性と調和)」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの競技大会担当相に就任、自らの思想との矛盾に気づかなかったのか、薄々気づきながら、閣僚就任の栄誉のために矛盾を無視したのか、誤魔化し答弁の多い丸川珠代の人物像に照らし合わせた場合、後者の見事な使い分けではないかと見たが、どうだろうか。

 マスコミ報道から見つけた、埼玉県議会議長の田村琢実県議に送った文書から子どもの氏の問題が選択的夫婦別姓法制化の反対理由にはならないことを、以前ブログで取り上げたことがあるが、今回は親の子どもに対する教育力という観点から根拠づけて見ることにする。

 「選択的夫婦別姓の反対を求める文書」(東京新聞/ 2021年2月25日 19時46分) 

 厳寒のみぎり、先生におかれましては、ご多用の日々をお過ごしのことと存じます。貴議会を代表されてのご活躍に敬意を表し、深く感謝申し上げます。

 本日はお願いの段があり、取り急ぎ、自由民主党所属国会議員有志の連名にて、書状を差し上げることと致しました。

 昨年来、一部の地方議会で、立憲民主党や共産党の議員の働き掛けにより「選択的夫婦別氏制度の実現を求める意見書」の採択が検討されている旨、仄聞しております。

 先生におかれましては、議会において同様の意見書が採択されることのないよう、格別のご高配を賜りたく、お願い申し上げます。

 私達は、下記の理由から、「選択的夫婦別氏制度」の創設には反対しております。

1 戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。

2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。

※同氏夫婦の子は出生と同時に氏が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」など、戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケースが想定される。

※民主党政権時に提出された議員立法案(民主党案・参法第20号)では、「子の氏は、出生時に父母の協議で決める」「協議が調わない時は、家庭裁判所が定める」「成年の別氏夫婦の子は、家庭裁判所の許可を得て氏を変更できる」旨が規定されていた。

3 法改正により、「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現することから、第三者は神経質にならざるを得ない。

※前年まで同氏だった夫婦が「経過措置」を利用して別氏になっている可能性があり、子が両親どちらの氏を名乗っているかも不明であり、企業や個人からの送付物宛名や冠婚葬祭時などに個別の確認が必要。

4 夫婦別氏推進論者が「戸籍廃止論」を主張しているが、戸籍制度に立脚する多数の法律や年金・福祉・保険制度等について、見直しが必要となる。

※例えば、「遺産相続」「配偶者控除」「児童扶養手当(母子家庭)」「特別児童扶養手当(障害児童)」「母子寡婦福祉資金貸付(母子・寡婦)」の手続にも、公証力が明確である戸籍抄本・謄本が活用されている。

5 既に殆どの専門資格(士業・師業)で婚姻前の氏の通称使用や資格証明書への併記が認められており、マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明についても戸籍名と婚姻前の氏の併記が認められている。

 選択的夫婦別氏制度の導入は、家族の在り方に深く関わり、『戸籍法』『民法』の改正を要し、子への影響を心配する国民が多い。

 国民の意見が分かれる現状では、「夫婦親子同氏の戸籍制度を堅持」しつつ、「婚姻前の氏の通称使用を周知・拡大」していくことが現実的だと考える。

※参考:2017年内閣府世論調査(最新)

夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%

 以上、貴議会の自由民主党所属議員の先生方にも私達の問題意識をお伝えいただき、慎重なご検討を賜れましたら、幸甚に存じます。

 先生のご健康と益々のご活躍を祈念申し上げつつ、お願いまで、失礼致します。

令和3年1月30日

 以下自民党の衆院議員と参院議員の50人の名前が雁首よろしく並んでいる。

 文書から選択的夫婦別姓の場合の「子どもの氏」がどのような点で社会維持の障害になると主張しているのか見てみる。

 〈1 戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。〉

 「認めることによって」と断っているから、「選択的夫婦別姓制度」が成立した場合のことを前提とした危惧を取り上げていることになる。「夫婦親子別姓」家族であっても、「夫婦親子同姓」家族同様に一つの家族であることに変わりはなく、そうである以上、社会を構成する家族の単位として存在する。どこに社会制度の崩壊を招く要因があるというのだろうか。もし「夫婦親子別姓」は家族ではないと言うなら、その根拠を示すべきである。「夫婦親子別姓」家族でも、「夫婦親子同姓」家族でも、夫婦、子どもの間でそれぞれが信頼関係を持ち得なくなっていたとしても、名ばかりの家族、あるいは形だけの家族と言うだけのことで、どちらの家族にしても社会を構成する家族の単位としての地位を失うわけではない。

 家庭内離婚状態の家族であっても、引きこもりの歳のいった子どもを抱えている家族であっても、そういった家族が社会の少なくない割合を占めることになったとしても、そのことがそのまま「家族単位の社会制度の崩壊」を意味するわけではない。家族の崩壊と家族単位の崩壊とは別物である。

 勿論、夫婦親子別姓だろうが、夫婦親子同姓だろうが、成員全てが相互の信頼関係で成り立っていることが理想だが、そのような成り立ちでなくても、「夫婦親子別姓」の家族であろうと、「夫婦親子同姓」家族であろうと、血の継がながっていない夫婦養子家族であろうと、社会を構成する単位としての一つ一つの家族そのものである。「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることになったなら、何故に「家族単位の社会制度の崩壊」を意味することになると言うのだろうか。

 要するに夫婦別姓を法律が認めることになってもなお、家族とは夫婦同姓の家庭と頭から思い込んでいるから、「家族単位の社会制度の崩壊」に見えることになるのだろう。

 「夫婦親子別氏」は「ファミリー・ネームの喪失」と把えているが、別々のファミリー・ネームを持つだけのことで、「喪失」という過程を踏むわけではない。ファミリー・ネームが2つになるだけのことに過ぎない。娘が結婚して夫の氏を名乗ることになったが、親の家に同居することになって、表札が2つとなる家族は多いが、近所への挨拶回りで周囲は納得する。夫婦別姓で一つの家族を構えることになったとしても、そのことを告げる近所への挨拶回りをすることで、近所の不審や勝手な推測を回避できる。「当家は夫婦別姓家族で、表札は2つ出すことになりますから、よろしくお願いします」と説明しさえすれば、安倍晋三や高市早苗のように戦前日本国家を理想の国家像とし、戦前の家族制度を絶対と狂信さえしていなければ、それ相応の対応をしてくれる。さらに夫婦別姓が一般的になれば、挨拶回りをしなくても、2つの表札を見るだけで、近所の住人は夫婦別姓の家だろうかと予測する習慣を身につけることになる。「一家族一氏(一ファミリー・ネーム)」と頭から決めてかかっているから、「ファミリー・ネームの喪失」などといった大袈裟な発想が飛び交うことになる。

 2つの表札を見て、近所の住人が夫婦別姓の家だろうかと予測する習慣を身につければ、〈3 法改正により、「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現することから、第三者は神経質にならざるを得ない。〉は回避可能となる。

 〈2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。〉 

 言っていることはそれぞれの夫婦の氏が子どもによって代々受け継がれていくことを「氏の安定性」と見ているのだろうが、人間を見ずに氏という形式だけを見ていることになる。別姓夫婦の間の子どもが両親の影響を受けて同じ別姓の結婚を選択した場合、別姓が慣習化され、最初は一つであった氏の家庭から異なる氏が枝分かれしていく可能性が生じて、何々家という同一の氏の連続性は不確かなものになるかもしれないが、最も弁えなければならない点は父親も母親も子どもも、この世に生を受け、出生届によって自分の意思とは無関係に付与された一人ひとりの氏にプラスした自分の名前は他者と自分を区別し、行為の主体を明示する名称に過ぎないということである。

 実際には行為の主体は氏と名前ではなく、あくまでも自分自身である。自分という人間、自分という存在である。だが、その自分自身、自分という人間、自分という存在はそれぞれが特定の氏と名前を持ち、結果的に氏と名前によって行為の主体を表すことになる。第三者にしても、彼自身(あるいは彼女自身)、彼(あるいは彼女)という人間、彼(あるいは彼女)という存在が様々な行為を作り出しているのだが、便宜的に相手の氏と名前によって行為の主体と看做すことになる。

 自分は何者であるのか(=どういった人間であるのか)、何者であろうとするのか(=どういった人間を目指すのか)を目的とする、人間なら誰しも行うが、多くが無意識的に行い、意識的に取り掛かる少数の自己確立は自分自身、自分という人間、自分という存在をベースにして継続的に行うことになるものの、自分自身、自分という人間、自分という存在は氏と名前によって特定されることから、それぞれの自己確立は氏と名前付きで説明されることになる。誰それは何を成し遂げたとか、成し遂げなかったとか。結果、自己確立は氏と名前と相互に密接不可分の関係を築くことになる。

 自己確立は一方で業績や経歴の形を取り、業績や経歴は自分という存在に対する周囲や社会からの評価の対象となるが、その評価はやはり氏と名前が代弁することになる。一方で業績や経歴を生み出している様々な資質や能力・才能、性格等々を統合させた形の自己同一性(アイデンティティ)を形作り、形作った自己同一性(アイデンティティ)に基づき、相当程度の固定性を持って社会的行動も個人的行動も見せていくことになるから、その自己同一性(アイデンティティ)にしてもやはり氏と名前に紐付けられてあれこれの評価を受けることになる。

 そして自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は両者相互作用を受けて、氏と名前に紐付けられた自他の生き方の曲りなりの全体像、あるいは自他の存在の曲りなりの全体像を示すことになる。勿論、中には十全な全体像を示すことになる自己確立や自己同一性(アイデンティティ)に到達する者も数多く存在している例もあるに違いない。いずれにしても自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は意識しても意識しなくても、自他の存在の核を成すことになり、氏と名前に従ってそれぞれがどのような核となっているのかの評価を受けることになる。

 かくかように自他の全体像を輪郭付けると同時に自他の存在の核となる自己確立も自己同一性(アイデンティティ)も、自他の存在性の問題であるにも関わらず、氏と名前で世に紹介し、紹介され、それぞれの評価を受けることになる。当然のこと、自己確立について回る業績や経歴にしても、自己同一性(アイデンティティ)が映し出すことになる資質や能力・才能、性格等々にしても、氏や名前を励みとするものの、氏や名前そのものが作り出すのではなく、存在自体が生み出す数々の要素でありながら、氏と名前に代表させて世間に問い、世間は氏と名前でそれらの要素と向き合う。

 例えば自身の氏と名前が山田太郎だとする。他者と自身を区別して、自身の存在を特定する符号である氏と名前が自己確立や一定程度の成長後に獲得していくことになる自己同一性(アイデンティティ)を形成していくわけではなく、氏と名前を与えられた存在自体の成長が自然と両方の形成を促していくことになるのだが、当初は生まれてから当分の間は無意識的な存在であったものの、山田太郎と氏と名前を与えられたことで自分は山田太郎という人間であり、他人からも山田太郎という名の人間だと区別されることで知る自他の認識能力を身につける物心つく年齢から、社会的本能(父親や母親との関わりに始まって、大小様々な社会を作ろうとする本能)によって手始めに父親や母親を含めた、あるいは先に生まれた兄や姉と呼ばれる他者との関わりの中で自分はどのような人間であるかを知り始め、自分にとってどのような人間であるのが望ましいのかのごくごく初歩的な自己確立の歩みを始め、と同時にその歩みは、ごく当たり前のことだが、現在も進行途中にあり、将来に向かって歩みは続いていくのだが、その歩みは氏と名前を継続的な支えとして行われることになる。

 だからこそ、既に触れたように自己確立の成果の一つとしてある業績や経歴にしても、自己同一性(アイデンティティ)が資質や能力・才能、性格等々を統合して成り立たせることになる人となりにしても、氏と名前に紐付けて、あれこれと取り沙汰したり、取り沙汰されたりする切っても切れない関係を築いていくことになる。

 この点は同姓夫婦の子どもであっても、別姓夫婦の子どもであっても同じであって、両親から与えられた両親いずれかの氏と同じく両親から与えられた両親とは異なる自分の名前に基づいて「自分は」という自身に対する言い聞かせを継続的な支えとし、当初からの他者にプラスした幼稚園の友達や友達の父母、小学校の友達やその両親といった新たな他者との関わりの中で何者であるのか(=どういった人間であるのか)、何者でありたいのか(=どういった人間を目指すのか)の初期段階の自己確立の旅を進めていく。そのような自己確立は例え言葉で説明されなくても、あるいは理解するための言葉を自分から編み出さなくても、「自分は」という自身に対する言い聞かせを本能的な指令として、その旅を前進させていき、成長と共に自分自身の上に重層的に築かれ、整えられていく。但しプラスの資質のみで整えられるわけではない。マイナスの資質も混じることになる。

 つまり本質のところで重要な要素は氏と名前ではなく、当然、氏の連続性を意図する「氏の安定性」でもなく、自分という人間がどう生きるかの生き方にこそ重点を置かなければならないことになる。この逆の構図を重視する考え方は個人にではなく、家とか氏を重要な権威として崇める権威主義者、形式主義者の類いであろう。

 氏の連続性が自己確立の確かな後ろ盾とはならない例を挙げてみる。映画や演劇に於ける有名な演技者の息子や娘が父親と同じ道を進んだとしても、父親同様の創造的な才能に恵まれる保証はなく、凡庸な演技者に終わることが少なくないことは自己確立の素材は名前にプラスした由緒ある氏といったことではなく、あくまでも自身の氏と名前で特定される自分という存在そのものに置くべきウエイトを氏の連続性へと置き方を間違えたことによるのだろう。

 父親が社会的に認められる自己確立を果たしたとき、その子どもが父親と同様の自己確立を果たさなければならないわけではない。子どもは子どもなりの自己確立を果たして、社会の生き物の一人として社会にあり続けることになる。自分とは何者か、自分は何者であろうとするのかの自己を確立した自分自身は何者であるかを作り出している様々な資質や能力・才能を統合した自己同一性(アイデンティティ)に基づいて行動し、自己同一性(アイデンティティ)を生き方そのものとして社会的存在として在り続ける。政治家が有力支持者のために政治を私物化し、個人的に何らかの便宜を図るのも、様々な資質や能力・才能を統合した自己同一性(アイデンティティ)に基づいた生き方の一つとして行っていることになる。

 新庄剛志が日本ハムの監督になった。「俺は新庄剛志だ」と自らの氏と名前を最大限の支えにしたとしても、実際には「新庄剛志だ」と特定した自分という存在、特定した自己を支えに現在の自己確立と自己同一性を獲得してきたはずだし、今後監督として成功するのか成功しないのかは現在のところ未知数だが、「俺は新庄剛志だ」と特定した自己存在に応じて優勝という新たな自己確立の獲得とその栄誉を加えた自己同一性の獲得に挑戦していくはずだ。

 いわば自分の曲りなりの生き方の全体像、あるいは自身の存在の曲がりなりの全体像の決定要素となる自己確立と自己同一性(アイデンティティ)は自分自身、あるいは自分という人間、あるいは自分という存在をこの社会に如何に生かしていくかに関係するが、氏と名前を支えに行われることから、自己確立と自己同一性(アイデンティティ)から氏と名前は外せない重要なピースとなる。

 こういった事情が結婚後、夫の氏とは異なる自分の氏を名乗ることができる選択的夫婦別姓制度の導入を求める女性が出てくる理由となっているはずだ。選択的夫婦別姓反対派は生まれながらの氏を通称として用いれば、業績も評価も経歴も、結婚前と変わりなく維持できると簡単に考えているようだが、そう簡単にはいかないことになる。生後、自他の認識能力が身につく物心つく年齢から結婚までの20年有余の人生の前半をかけ、自分はどうあるべきかの自己確立を積み重ね、自己同一性(アイデンティティ)へと発展させるについては生まれたときに与えられた氏と名前を一体的で大事な拠り所、あるいはバックボーンとしてきた。結婚後は自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みが終わるわけではなく、結婚後も取組み続けなければならない。両者共に半生をかけて成し遂げていかなければならない自己存在性への挑戦だからだ。自己確立と自己同一性(アイデンティティ)の継続に従って氏と名前の継続性を求めたとしても、無理はない、人間的に自然な道理だろう。

 ところが結婚後に通称を用いることになった場合、生まれながらの氏から夫の氏への変更を強いられて、以後の業績や評価や経歴に関しては通称としての元々の氏で世に問う変化があったとしても、これといった差し障りは生じないかもしれないが、自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みに関しては生まれながらの氏と名前を一体的な拠り所あるいはバックボーンとして成り立たせてきた関係が生まれながらの氏から夫の氏に変更を強いられることによって、物心つく年齢から結婚までの20年有余もの間保ってきた拠り所あるいはバックボーンに変化が生じることになり、以後の自己確立と自己同一性(アイデンティティ)への取組みに継続性や一貫性を失う恐れが生じる。

 継続性や一貫性を少しでも保とうとして旧氏名を用いて「何と言っても自分は誰々だ」とした場合、現実の夫の氏と元々の氏との間にゆくゆくは二重人格的な意識の衝突が起こり、自己確立の混乱や自己同一性(アイデンティティ)の混乱に繋がっていかない保証はない。最善策は結婚しても、夫の氏を名乗らずに自身の生まれたときからの氏を名乗る夫婦別姓ということになり、夫婦別姓制度を望む女性が存在する現実があるということである。ここに通称では簡単に片付かない理由がある。

 明石家さんまは本名は杉本高文と言うそうだが、明石家さんまとして「ひょうきん族」や「踊る!さんま御殿!!」や「さんまのまんま」や「ホンマでっか!?TV」等々のテレビ番組で芸人人生を送り、映画俳優や舞台俳優としての様々な演技人生を長年に亘って積み重ねてきた。これらの業績や経歴は明石家さんまに付属した一体のものであって、この一体性が明石家さんまとしての自己確立や自己同一性(アイデンティティ)へと繋がっていったはずで、この自己確立と自己同一性(アイデンティティ)を本名の杉本高文に付属させて一体のものとすることはできない。本人の意思とは無関係のところで明石家さんまを仕事上も本名の杉本高文に戻させた場合、自己確立や自己同一性(アイデンティティ)という点でも、人格面でも、想像もつかない混乱や不利益を与えることになるだろう。

 夫婦別姓を望む女性は明石家さんまの例とは逆だが、自身の自己確立や自己同一性(アイデンティティ)を旧姓と一体のものとすることに何の差し障りもないが、新姓と一体のものとすることに不利益を感じる人格を有することになっていったということなのだろう。

 2021年6月23日に夫婦同姓は「合憲」と判断した最高裁で「合憲」との判断に対する補足意見、あるいは「合憲」との判断に対する反対意見の中で夫婦別姓は「個人の重要な人格的利益」だと位置づけている。結婚するまでの間に旧姓と名前を拠り所あるいはバックボーンとして積み上げてきた自己確立と自己同一性(アイデンティティ)の生涯に亘る継続性や一貫性こそが「個人の重要な人格的利益」に相当するとの意味を取ることになる。

 生まれたときからの氏と名前を一体的な拠り所あるいはバックボーンとして自己確立と自己同一性(アイデンティティ)を含めて自分という人間を成り立たせてきた生き方に鈍感となることができる夫であるなら、妻がもし夫婦別姓を望む場合、夫の方こそが妻の氏にして、必要であるなら、自らは最初からの氏を通称として用いればいい。そのことに耐えられる男はどれ程に存在するだろうか。男尊女卑の血を引く日本の男にとって、数多く存在するとは考えにくい。特に社会的に業績を残し、そのことが経歴となっている男程に生まれたときからの自分の姓と名前を大事にするに違いない。この女性版が男尊女卑の風潮に抗って現れたとしても、「個人の重要な人格的利益」と認めて、受け入れるべき時代に来ている。

 次に、〈2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。〉についての注釈、〈※同氏夫婦の子は出生と同時に氏が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」など、戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケースが想定される。〉ことと、〈※民主党政権時に提出された議員立法案(民主党案・参法第20号)では、「子の氏は、出生時に父母の協議で決める」「協議が調わない時は、家庭裁判所が定める」「成年の別氏夫婦の子は、家庭裁判所の許可を得て氏を変更できる」旨が規定されていた。〉と子の氏の安定性に関しての懸念事項を挙げているが、先ずは「戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケース」として取り上げている2項目を最初に検討してみる。

 〈その1「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」〉
 〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉

 「その1」は要するに両親共々、自分の氏そのものに価値を置いていることになる。先祖代々何年続いた氏で、そこら辺の氏とは違うとか、3代続いた医者の家系で、地元では尊敬を集めていたとか、政治家の家系に育って、自分も政治家になっていて、子どもにも政治家になって欲しいから、代々続いた政治家の家系を名乗るのは知名度獲得に役立つため、夫は俺の氏にすべきだ、妻は私の氏にすべきだと争って、決着がつかないといったことなのだろう。

 確かに歴史があり、社会的に著名な氏に恵まれた場合、自尊心や自己肯定感を高めるのに役立つ小道具になるし、社会に生きていく上での際立った動機づけや世間的信用獲得の有力な道具立てともなるが、あくまでも行為の基準、あるいは行為の主体は自分自身である。行為の成果も自分自身である。常に試されるのは実質的には自分自身であって、氏でもないし、名前でもない。安倍晋三に批判的な者が問題視している事柄は友人や支持者に対する政治の私物化を平気で行う性根であり、答弁にウソが多い鉄面皮な性格であって、安倍晋三という氏と名前ではない。

 歴史を紐解いて氏が評価されても、自分自身の評価に直結するわけではない。自分自身が社会から試されて、社会の試練に合格しなければ、逆に氏の限界を世間に知らしめるだけである。氏とは無関係に自分自身が何者であるのか、何者であろうとするのかの自覚を強く持って、自己確立に努めることの方が自分自身を賢明にもするし、力強くもする。氏とは離れたところでしっかりと自己確立を果たしたとき、単に氏に連なることとは異なる自分自身に独自の、個性的な自己同一性(アイデンティティ)でもって自分は何者であるのかを押し出していくことができるはずである。

 要するに肝心なことはどのような氏なのか、誰の氏なのかではなく、与えられた氏と名前を拠り所あるいはバックボーンとするものの、より肝心なことは自分自身をどのような自分に持っていくのか、あるいは自分という人間をどのような人間に導いていくかの自覚と努力であって、自覚と努力が自分に独自の自己確立を形作っていって、独自の自己確立に応じた独自の業績や経歴を生み出し、生み出す原動力となる様々な資質や能力・才能、性格等々を統合させた形の独自の自己同一性(アイデンティティ)を成り立たせていくということである。

 このことは次の、〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉についても言うことができる。

 別姓夫婦の間の子どもは自らの氏を親の判断で社会的認識能力を獲得する前に親のどちらかの氏と同じく両親から与えられた名前を所与のものとし、同姓夫婦の間の子どもにしても、社会的認識能力を獲得する前に夫婦(親)から機械的に受け継いだ氏と同じく両親から与えられた名前を所与のものとし、社会的認識能力の獲得以後、所与とした氏と名前を他者と区別する自分という人間を認識したり、判断したりする基準とすると同時に励みの対象としたり、叱ったりする対象の呼び名としながら、他者との関わりの中で自分は何者であろうとするのか、何者でありたいのかの自己確立を進め、その先に自己同一性(アイデンティティ)を手に入れていく。

 要するに氏と名前は自分という人間を表すものの、その氏と名前の自分という人間をどのような自分、どのような人間に持っていくのか、育てていくのかの自覚と実践が誰にとっても大切なことで、その自覚と実践の内容と質が自己確立の内容と質にも関係していき、自己確立の内容と質次第で自己同一性(アイデンティティ)の内容と質も決まってきて、これらのことがそのまま人間成長という形を取るということである。

 以上のことを言い変えると、父親の氏であろうと、母親の氏であろうと、常に試されるのは実質的には氏と名前ではなく、その氏と名前を持った自分自身、自分という人間、あるいは自分という存在であるということと、それらが試されて、成長の機会を与えられることになり、自分は何者であろうとするのかの自己確立を促していって、自己同一性(アイデンティティ)を手中に収めていく順序を取るのであって、一方で子どもという立場に立たされる存在は与えられた氏と名前を所与のものとしなければならない以上、親が子どもに伝えて、納得させることができる言葉の力(=教育力)を持ちさえすれば、極端なことを言うと、別姓夫婦の間の子どもの氏を父親と母親の氏のどちらにするかはジャンケンで決めて所与のものとしもいい性格のものということになる。

 と言うことなら、〈その2「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」〉といったことは教育力のない夫婦のケースに限られることになる。協議で決めた子どもの氏であろうと、ジャンケンで決めた子どもの氏であろうと、氏が問題ではなく、子どもが一人ひとりの生き方の問題にかかっているとの常日頃からの教え(言葉の力=教育力)が重要となる。人生を決定づけるのは氏や名前ではなく、自分自身の生き方だと常日頃から遠回しに子どもに語りかける習慣が大切になる。当然、〈戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケース〉の想定は選択的夫婦別姓制度の反対理由の一つとする目的の為にする懸念としか思えない。

 わざわざ「※」を付けて民主党政権時提出の議員立法案では夫婦別姓家庭の子どもの氏が簡単に決まらない事態に備えた条文になっていることを例にして、暗に混乱が生じるかのような印象づけを行っているが、家庭裁判所のお出ましまでお願いしなければ夫婦の間で決められないのは自分自身に対する教育力も子どもに対する教育力もない証拠としかならない。

 では、具体的にはどのような言葉を力(教育力)としたらいいのか、考えついたことを書いてみる。ほかの家と違って、なぜお父さんとお母さんの名字が違うのか、自分がお母さんと同じ名字で、お父さんと名字が違うのはどうしてなのか、自分の家庭とほかの家庭とで違うのはなぜなのかといったことに子どもが保育園児・幼稚園児の頃か、小学校低学年の頃か、気づいて尋ねられた場合、あるいは一旦は親が決めた父母いずれかの氏を受け入れた生活を送っていたが、反抗期になったといった理由で氏をくれた側の親の言動に苛立ったりして同じ氏であることが疎ましくなり、もう一方の親の氏の方がよく見えて、その氏にしたいと言い出す子どもも出て来た場合、同姓夫婦の間の子どもには先ずは起こり得ない現象だが、自己確立とか、自己同一性(アイデンティティ)といった難しい言葉を使って納得させようとしたら、混乱させるだけだろう。使わずに子どもを納得させるのが親の言葉の力(=教育力)ということになる。

 先ずは親の氏の違いと自分の氏が一方の親との違いを尋ねられる前の子どもの成長段階の早い時期から実質的には氏と名前が人間の発展、人間としての成長をもたらしてくれる力となるわけではないことを頭に置いて年齢に応じた言葉の丁寧さや簡易な言葉遣いで、「名字と名前が字を上手にしてくれるわけではない」、「名字と名前がかけっこで一番を取らせてくれはしない」、「名字と名前が、将来、野球選手にしてはくれるわけではない」、「名字と名前が成績を上げてくれるわけではない」等々と機会を見つけては話しかけ、それらの答として、「かけっこが早くなるのも、スポーツが上手になるのも、成績を上げるのも、頑張ろうとする自分の気持」だと、目的とする才能や能力を向上させるには自分自身の姿勢によって決まってくるといった教えとしての言葉掛けを何度も繰り返すことで、何者であろうとするのかを決めるのは氏と名前ではなく、あくまでも自分という存在、自分という人間であるという道理を子どもの意識に刷り込んでいき、否応もなしに認識という形に持っていくように仕向ける。

 以上の言葉かけを子どもが両親の名字の違いと自分の名字が一方の親とだけ同じことの理由を聞いてきた場合や現在の氏は嫌だから、もう片方の氏にしたいと言い出してきた場合の親の回答の前提としなければならない。

 その上で両親が別姓にした理由と子どもの氏を両親どちらの氏に決めたかの理由を述べることにする。

 「名字と名前は自分を表し、お父さんもお母さんも生まれてから結婚するまで、自分の名字と名前で成長してきて、今のような大人になった。名字と名前が大人の資格を与えてくれるのではないことは前々から話していたことで、理解していることと思うが、自分を表す名字と名前を支えにして成長してきたことは事実だから、そのことを大切にして、結婚してからもそれぞれが自分の名字と名前で成長の続きをしていくことにした。

 だけど、子どもの場合はお父さんもお母さんもそうだったが、どのような名字と名前にするのか、子どもに決定権はなくて、与えられた名字と名前で成長していくことになる。お父さんの方のお父さんもお母さんも同じ名字だったから、お父さんはそのままの名字を受け継ぎ、お母さんの方のお父さんもお母さんも同じ名字だったから、お母さんもそのままの名字を受け継いだけど、お父さんとお母さんは別々の名字を名乗ることになったから、お前はどちらかの名字を名乗らなければならなくなった。お母さんと相談してお母さんの名字を名乗らせることにしたが、子どもは与えられた名字と名前で成長していくということと、何度でも繰り返し言っているように自分がどういう人間になるかは名字と名前が決めてくれるわけではないのだから、お母さんの名字であっても、お父さんの名字でもあっても、どちらの名字を与えられるかの違いだけであって、どっちの名字を与えられてもいいことになる。極端な話、ジャンケンで決めて与えられることになったとしても、変わらないということになるはずだ」

 以上の教えが子どもを十分に納得させることのできる言葉になるかどうか、評価に違いが出るかもしれないが、いずれにしても子どもの氏の問題は大人の、あるいは両親の子どもに対する言葉の力(=教育力)、学校の子どもに対する言葉の力(=教育力)を解決の鍵としなければならないことは明らかである。

 大体が選択的夫婦別姓制度の懸念事項として「両親が子の氏を取り合う」などの例を挙げること自体が物事を教条主義的にしか解釈できない柔軟な思考を欠いている上に固定化された社会常識に振り回され、その常識を覆すことができるだけの教育力を持っていない証拠で、その頭の固さが「夫婦同氏制度は明治末に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたものだ」(高市早苗)と120年も経過していながら、この間戦後民主主義の洗礼を受けながら、人権尊重や人格的利益に価値観を置く時代の流れに即した変化を無視して心情を遥か過去に置く原因となっているのだろう。

 こういった部類に入る政治家、特に「選択的夫婦別姓の反対を求める文書」を地方議会に送りつけた自民党の50人の面々を最筆頭に、こういった手合の背後に控えているのが国家主義者安倍晋三その人であるが、教育を語る資格はないのは明らかである。

 資格がないから、「最新」と銘打って、5年も前になる2017年12月回答の夫婦別姓に関わる「家族の法制に関する世論調査」の概要(内閣府政府広報室/2018年2月)を「参考」という形で持ち出して、〈夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%〉と自己正当化の方便に使う誤魔化しをやらかしているばかりではなく、都合のいい情報だけを抜き取る誤魔化しまで重ねている。

 「婚姻をする以上、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり、現在の法律を改める必要はない」 29.3%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には、夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」 
  42.5%
 「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが、婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては、かまわない」 24.4%

 選択的夫婦別姓制度法制化賛成が42.5%、反対が29.3%、通称のみ容認が24.4%。 反対と通称のみを加えると、53.7%と過半数を超えるが、賛成42.5%と半数に迫っている事実は無視しこのことには触れずに「子供にとって好ましくない影響があると思う」62.6%だけを提示するのは誤魔化しそのものであろう。

 但し〈夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%〉は子どもに対する親としての言葉の説明(=教育力)というものに重点を置かない考え方であって、子どもに対する親の言葉の力(=教育力)を最初から放棄していることになる。

 内閣府にとって「最新」の世論調査ではあっても、マスコミや市民団体が行っている「最新」の世論調査と比較した場合、「最新」でも何でもなく、カビが生えた結果値に過ぎない。NHKが2021年10月15日から3日間行った世論調査では、「夫婦が希望すれば、結婚前の姓を名乗れる選択的夫婦別姓」は「賛成」28%、「どちらかといえば賛成」32%、「どちらかといえば反対」17%、「反対」14%で、積極的賛成と消極的賛成を合わせると60%、積極的反対と消極的反対を合わせると31%で、賛成寄りが反対寄りの倍となっている。

 内閣府の調査の方が国がやっていることだから、サンプル数が多いように思うかもしれないが、調査対象は18 歳以上5000人、有効回収数2952人(回収率59.0%)で、一方のNHKの調査の方の調査対象は18歳以上5430人、有効回答数2943人(回答率54.2%)で両者の調査に殆ど差はない。但し内閣府調査は調査員による個別面接聴取だというから、より正確に見えるが、言葉の尋ね方次第でバイアスがかからない保証はない。例えば、「一方の親との氏の違いがイジメの標的にならないといいですがね」と何気なく呟いた場合は誘導の力がかかる。そんなことはしないと言うだろうが、役人の世界では「そんなこと」が結構横行している。

 1年前になるが、2020年11月18日発表の早稲田大学法学部・棚村政行研究室と選択的夫婦別姓・全国陳情アクション合同調査による「47都道府県『選択的夫婦別姓』意識調査」(調査方法 インターネットモニター調査 サンプルサイズ7000)は、「自分は夫婦別姓が選べるとよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」、「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」、「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦も同姓であるべきだ」、「その他、わからない」の4択で調査、「夫婦別姓賛成」を「自分は夫婦別姓が選べるとよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」+「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」の2項目として集計、どの年代も「夫婦別姓賛成」が多数を占め、記事は、〈全国では70.6%が選択的夫婦別姓に賛成、一方で反対は14.4%という圧倒的な結果になりました。〉と書いている。

 特に男女どの年代でも、「自分は夫婦同姓がよい」としつつ、他者に対しても「同姓であるべきだ」としている割合よりも「他の夫婦は同姓でも別姓でも構わない」としている割合が多くなっていて、年代を通して夫婦別姓に対して寛容になっていることを窺うことができる。この寛容さは言葉で認識していなくても、突き詰めると、夫婦別姓を「個人の重要な人格的利益」と看做していることを意味することになる。

 自民党有志国会議員50人が選択的夫婦別姓制度に賛同する地方議員に対して慎重な検討を求める文書の作成年月日は2021年1月30日。上記世論調査の発表年月日は2020年11月18日。50人は夫婦別姓に関わる世論の動向を詳しく調査もせずに2017年の5年前で時間が停まっているような内閣府世論調査を用いて地方議会に対して選択的夫婦別姓反対へとリードしようとした。不都合な情報には目をつぶり、聞き耳は持たず、都合のいい情報にだけ目を向け、聞き取る。やることが狡猾に過ぎる。

 家族の一体感は親と子どもとの間の信頼関係の上に成り立つ。信頼関係はコミュニケーションを欠かさない日常を作り出す。よりよき絶え間のないコミュニケーションが信頼関係をより確かなものとする。双方が相互関係を築いている。コミュニケーションも信頼関係も、言葉の力が主たる原動力となる。言葉の力は教育力を背中合わせとする。親の言葉の力が子どもに対して教育力を発揮するだけではなく、親の言葉の力によって養われた子どもの言葉の力が自らの教育力に力を付けていくことになる。要するに信頼関係と親子の言葉の力と教育力は三者相互関係を築く。学校の教師と生徒との間に信頼関係が構築されている場合の例を見れば、理解できるはずである。

 信頼関係はお互いが相手の顔を見て、コミュニケーションを取ることになる。どのようなときにどのような表情をするのか、お互いが知ることになり、結果、普段見せない表情をすると、その異変に相手はすぐに気づくことになる。逆に信頼関係が崩れると、顔を合わせまいとするようになり、コミュニケーションが減り、顔を背ける頻度が多くなる。夫婦が会話をしなくなり、顔を合わせず、背けてばかりいたら、夫婦の間の信頼関係はもはやゼロに等しい状態に至ったときだろう。親子の信頼関係も同じ経過を辿る。引きこもりの子どもは親と満足に顔を合わせるだろうか。外に女を囲っている夫は妻と10秒も相手の顔を見つめていることができるだろうか。

 親子が信頼関係を築いていて、コミュニケーションが絶えることがなかったなら、引きこもりも家庭内暴力も発生の余地はないはずである。子どもが学校でイジメられていたなら、信頼関係が直ちに親に子どもの異変に気づかせてくれるはずである。世間を見て思うことは親子の信頼関係の構築は親が子どもの目線に立てるかどうかにかかっているように思える。極端な例を挙げるが、父親が小中高と優秀な成績で東大に入学、東大でも優秀な成績を収め、官庁に入省してエリート官僚と目され、出世コースに乗ることとなった。子どもに対しても自分目線で似たような人生を求めて、その求めに応じてくれた場合はそれ以上のことはないが、少しでも息苦しさや不自由さを与えた場合、子どもの方から親に対するコミュニケーションが途絶えがちとなり、親の視線から自分の顔を背けるようになって、ついには顔を合わせるのを避けるようになるだろう。父親がそんなことはお構いなしに自分目線で子どもに自分の人生の後追いを求めるばかりで、子ども目線で子どもなりの人生を眺めてやらなかったりしたら、子どもは日々の生活の息苦しさと不自由さから逃れるために自棄的に日常のルールを飛び越えてしまうということもあり得る。エリート家庭でありながら、その子どもが非行に走ったり、引きこもりになって、不登校になったり、父親からの抑圧の反動で誰かをイジメて解放感を味わったりするのは父親が自分は優秀な人間であるとの思い込みからついつい自分目線で子どもと向き合い、様々な要求をしてしまうからではないだろうか。

 父親や母親が子どもと向き合うとき、自分目線を抑えて、子どもが自分の子どもでいる間はそれぞれの成長の段階に応じて、例えば20歳になったなら、20歳の子ども目線に立つことができたなら、子どもが父親の後追いができなくても、社会人として一応の生活ができていさえしたら、信頼関係は生き続けるし、子どもに対する親の保護者としての立場も守ることができるだろう。何よりも選択的夫婦別姓制度が法制化されたとしても、親子の信頼関係が相互のコミュニケーションを支え、親の子どもに対する言葉の力(=教育力)が生きてきて、子どもの氏の問題を乗り越えていく原動力となるはずである。

 子どもの教育に関わる素晴らしい言葉をネットで最近見つけたから紹介してみようと思う。1年前の記事だが、その言葉の内側にいやが上にも教育力を覗かせている。「アンジェリーナ・ジョリーが養子に迎えた子どもたちのルーツを尊敬し、学ぶことの大切さを語る」(harpersbazaar/2020/06/22)
  
 アンジェリーナ・ジョリーはご存知のように米国人女優である。同じ米国人の男優ブラッド・ピットとの間に養子3人と実子3人がいる。両者は離婚し、現在子どもの親権を裁判で争っているが、養子3人はカンボジア人、エチオピア人、ベトナム人と元の国籍は違う。そして実子3人を含めた6人は、「ジョリー=ピット」と両親の氏を共に名乗っている。

「彼らが私たちの世界に入ってきているのではなく、私たちはお互いの世界に入っていくのです」

 子どもを加えて全く新しい世界へ入っていく。この考え方には親の世界を押し付ける意思は存在しない。親の価値観への同調を求める些かの欲求の影さえもない。勿論、両親それぞれの価値観を守るだろうが、子供といる世界では子どもとの関係性に関してはその世界なりの新たな価値観を築こうとする意思のみが顔を覗かせている。親と子どもの新たな価値観に基づいた関係性の中で子どもは親の価値観に影響は受けても、押し付けを受けてのことではなく、必要なものは吸収し、不必要は受け付けない取捨選択で自分たちに独自の価値観を築いていくことになるだろう。そうでなければ、「お互いの世界」という相互性を意味することはない。

 子どもたちはこういった親の言葉の力(=教育力)に導かれて、親の離婚を乗り越えていくことになるだろう、子どもの氏の問題にしても同じことが言えるはずで、乗り越えるについて言葉の力(=教育力)を必要条件とせずに夫婦別姓反対理由にただ子どもの氏の安定性の喪失を挙げるだけの政治家は、やはりどう見ても教育を語る資格はないことになる。

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