奥さん方は小沢一郎の顔が趣味に合ったのだろうか

2007-07-31 17:32:58 | Weblog

 安倍首相「私を取るか、小沢さんを取るか」

 麻生軽量外務大臣「奥さん方に分かりやすく言えば、小沢一郎の顔を取りますか、安倍信三の顔を取りますか?どちらが奥さんの趣味に合いますか。それが問われる」

 安倍首相の「取るか」は簡単に言えば、どちらの政治を取るか、安倍の政治を取るか、小沢一郎の政治を取るか、その比較選択を国民に迫ったものだろう。勿論国民は「自分」の政治を取ると思った。現実は意に反して、逆の結果を大いなるショックと共に安倍首相にもたらした。

 言うまでもなく軽量麻生の「顔を取りますか」は、顔の好みを基準に「奥さんの趣味に合」うかどうか選択を迫ったもである。

 自民党が大敗し、民主党が参院第一党に躍り出た。安倍首相の「私を取るか、小沢さんを取るか」に対して、国民の大多数は小沢民主党代表の政治を「取」ったと言える。

 果たして民主党に投票した「奥さん」方は軽量麻生の選択基準に従って小沢一郎の顔が「趣味に合」って投票したのだろうか。

 誰がテレビ記者でも新聞記者でもいいから、野次馬精神で軽量麻生に聞いて貰えないだろうか。「民主党に投票した奥さん方は小沢一郎代表の顔が趣味に合って民主党に投票したとお思いですか?」と。

 問われて、自分の愚かさに気づきも恥じもしなかったとしたら、何をか言わんやであるが、どういう反応を示すか、知りたいものである。野次馬精神大歓迎!!

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安倍続投は歓迎すべき現象

2007-07-30 19:04:00 | Weblog

 民主党の中にも安倍続投の方が戦いやすいという意見もあるということだが、田中角栄が金脈問題で国会で追及を受けて内閣総辞職を余儀なくされたとき、国民の怒りをかわすために当たり前なら総理大臣という果実を手に入れることが難しい小派閥の領袖に過ぎない三木武夫を首相に据えてそのクリーンイメージを利用してその場を凌いだ場面に代表される自民党政権存続の美しい伝統的な常套手段を再度持ち出して、三木武夫的な役割を持たせた谷垣前財務相や、あるいは女性ということで核所持容認論者であるものの、狼の顔に羊の顔をかぶせるように柔らかいイメージの小池百合子防衛相を首相に持ってきてひたすら低姿勢を演じて国民を懐柔するといった方法に出られたら、自民党政権存続という同じことの繰返し、十番煎じ、二十番煎じとならない保証はない。

 衆議院で第一党の自民党が政権を担うことに変わりはないのだから、他の内閣に変わって変幻自在の柔軟な低姿勢に出られるよりも、ここは安倍クンに頑張って貰って、その単細胞な、口先だけで約束する中身のない政治を攻撃した方が得策かもしれない。ブロガーとしても、俎上に上げやすい政治家である。

 国民の生活する姿、その実質よりも国の強い姿を追い求める国家主義者である。いわば国民という中身よりも国家というハコモノを優先させて、そこに価値を置く国家主義に骨の髄まで染まっている。そのため安倍晋三なる政治家が求める強い経済、優秀な工業技術力、軍事力の充実は国民の福祉を第一目的としてではなく、日本という国を誇るための国家の体裁が主目的であって、国民の福祉は追加事項とされている過ぎない。そのような日本を「美しい国」と思い定めている。

 国家対国民をそのように関係づけた国家主義的政治観が国民への果実配分の保証のない経済成長優先、景気優先の政治へと向かわせている。所得格差・地方格差に行き着いているのはそのためであろう。

 国の体裁優先の政治が安倍晋三をして国民に愛国心を求めさせることにもなっている。日本国憲法が規定している国民主権の意識を限りなく薄めて、国家優先の意識を植え付けるには愛国心教育は絶対条件となる。

 だが、国民主権、国民の福祉を主目的とせず、国の体裁を優先させる時代錯誤のいかがわしい政治がこの21世紀の人権時代に流行るはずもなく、その点だけを取っても攻撃に脆さを抱えることとなり、攻撃する側にとっては組みやすい安部クンということになる。次の衆議院選挙まで安部クンには持っても貰った方が得策ではないだろうか。

 参議院選挙自民党大敗にも関わらず、続投の意思表明を繰返した昨夜のNHK選挙速報番組での安倍首相の答弁。

 アナウンサー「橋本総理大臣の場合は自民党が44議席で直ちに退陣をされましたね。それをさらに下回る大敗にも関わらず、引き続き、ま、政権を担当されていかれると、ということに対して自民党内の理解、それ以前に国民の理解を得られると、いうふうにお考えになりますか?」
 安倍「今日の結果、これは国民のみなさまの声だと、えー思います。え、しかし私共が進めてきた・・・・政策、基本的には間違っていないというふうに政策的には思っております。そこのところは国民のみなさまにもご理解を頂いているんではないかと思います。ま、しかし、この結果は結果として、参議院に於いては民主党が第一党になりました。民主党の主張に耳を傾ける点は傾けながら、ま、一緒に責任を持っていると、いう考えの中でですね、協力できるところは協力しながら、結果を出していきたいと思います」

 アナウンサー「まあ、国民の理解は得られるというお話なんですけども、総理ご自身ですね、ま、今度の選挙を安倍さんを取るか、小沢さんを取るかの選挙だということをおっしゃってきました。だとすれば、与党の大敗という結果は安倍政権、あるいは今の自公政権に対する、まあ、国民の事実上の不信任であるというふうにはお考えになりませんか?」
 安倍「ま、この選挙に於いて私は自民党の総裁として当然責任は私にあります。反省すべき点は反省しなければなりません。反省すべき点は反省しながら、新しい国づくりに向けてですね、一つ一つ結果を出していくことによって、えー、責任を果していきたいと、えー、思います。やっとこの改革も、着実に進んでいますし、え、経済の成長についてもですね、景気回復についても、やっとここまできました。ま、しっかりとみなさまに実感していただけるように経済を成長させていくことが私の責任だと思いますし、また年金の記録問題の解決、お約束をしたことを果していかなければいけないと思います。大変な困難な状況でありますし、苦しい状況でありますが、責任を果たしていくことが私の使命だと思います」

 アナウンサー「あの、ま、ただね、安倍内閣の閣僚の問題も色々とありましたし、格差問題ですとか、強権的な政治手法に問題があると言ってきました。これだけ大敗した理由はどこにあるのか、安倍政権そのものに批判もあるというふうにはお考えなりませんか?」
 安倍「勿論私の政権に対するご批判だと思います。この選挙の結果はですね。その中でかなり、今後は野党の主張にも耳を傾けながら、協力すべき点には協力しながらですね、結果を出していくということが大切だろうと思っています。えー、ま、しかし私共が進めてきた、ま、基本的は方向、改革を進めて日本の経済を成長させていく、この方向には間違いはないと思いますし、美しい国づくりのコンクリート(?具体性という意味で使ったのか、よく聞き取れない。)については国民のみなさまにもご理解を頂いていると思います」

 アナウンサー「ただね、これだけの敗北になりますと、党内から責任論が出てくるということは避けられないだろうというふうに思いますし、ま、続投ということにになりますと、内閣支持率が低下、さらに低下するということも考えられると思うんですがね、それでも求心力を維持していける、というふうにお考えでしょうか?」
 安倍「ま、大変な、困難な状況が待っているとは思います。ま、しかし、私の責任は極めて重たいんだろうと、ええ、決意しております。そん中で、しっかりと結果を出していく。そのためにも党内の協力を得るべく努力をしていかなければいけません」

 もう一人のアナウンサー「では、この辺り民主党の鳩山幹事長に伺いたいと思います。鳩山さん」
 鳩山「はい」
 アナウンサー「安倍総裁は続投、ということを明言されましたけど、民主党はこれをどう把えますか?」
 鳩山「ハイ、これはすべて国政選挙ですね、世間に対する審判、国民の審判であります。国民は安倍政権に対して、この数字はやっぱりノーという答を突きつけたというふうに理解すべではないかと、私は思います。これは政権側の判断ですから、どのようになさるかは、今度はそのことに対して国民のみなさんがどう受け止めるかというふうな話になろうかと思いますが、私はこの選挙で安倍政権に対する信任は得られなかったという結果だと理解しています――」(以下略)

 安倍首相は長々と弁明していたが、要するに二つのことしか言っていない。一つは「選挙結果は安倍内閣に対する批判ではあるが、安倍内閣が進めてきた政策は基本的には間違っていない」ということ。二つ目は、間違っていないから、その「結果を出していくことが責任を果たすことだ」ということ。 
 
 「結果を出していくことが責任を果たすことだ」とする趣旨のことを5回言い、「政策の方向は間違いではない」という趣旨のことを2回繰返している。

 「私共が進めてきた、ま、基本的は方向、改革を進めて日本の経済を成長させていく」政策は何も安倍内閣の専売特許ではなく、どの党であれ、政権を取った党の内閣なら、誰でも推し進めなければならない改革であり、経済の成長であろう。勿論年金問題にしても、政治とカネの問題にしても、目下課題となっている事柄はどの内閣でも取り組まなければならない政治的解決事項のはずである。安倍内閣でなければならない理由はどこにもない。あるとしたら、他に優って解決する能力があるという場合に限る。

 自民党副幹事長の石原伸晃がNHKの同じ番組で「安倍政権に対する不信任を突きつけたと受け止めていますか」といったインタビューを受けて次のように答えていた。

 「私は必ずしもそうとは受け止めていない。自民党を支持してくださっているおじいちゃん、おばあちゃんが頑張ってくださいよって言ってくださっている。必ずしもリジェクト(拒絶)されたわけではない」

 実際におじいちゃん、おばあちゃんに「頑張ってくださいよ」と励ましの声を一度ならず、複数回かけられたのだろう。だが、自民党支持層はおじいちゃん、おばあちゃんのみで成り立っているわけではないのだから、おじいちゃん、おばあちゃんに声を掛けられたことを以って「必ずしもリジェクト(拒絶)されたわけではない」と公約数の意見とする単細胞な把え方、客観性のなさは安倍首相を受け継いでそっくりである。辞書で調べて知ったことだが、「リジェクト」なる言葉には「拒絶する」という意味の他に「(不良品などを〉除く、捨てる」という意味がある。「安倍首相をリジェクトする(除く)」と使った方が利口というものではないか。

 似た者同士だからとしても、石原伸晃のような単細胞な政治家が党の要職の一つである副幹事長に居座って日々単細胞なメッセージを発していることを考えると、安倍首相の人事管理能力と深く関わる政策処理能力に疑問符をつけざるをえない。改革や経済成長を推し進めるには安倍首相でなければならないとする理由は見い出せない。

 選手を満足に管理・統率できないプロ野球の監督が試合に於ける優れた采配能力を期待できないのと同じである。サッカーでも一番に問題となるのは監督の選手管理とそれを土台とした采配能力であろう。

 まだ選挙の最終結果が出ない途中での自民党の劣勢が伝えられる中で同じ石原伸晃の言葉がテロップが流れた。自民党への批判票を弁護してのことだろう、「安倍首相の問題でなく、閣僚の問題だ」

 その通りと見ても、これは改革や経済成長を推し進めるには安倍首相でなければならないとする理由を決定的に否定できる内容を含んでいる。

 石原伸晃は閣僚を任命した任命権者としての安倍首相の責任を省いて何ら恥じない閣僚にのみ責任を転嫁する狡さがある。例え百歩譲って任命したときは適材適所と認識したとしても、閣僚が失言や失態を起こした後、あるいは不正を働いていると疑われた後の人事管理の問題は譲ることのできない首相個人の内閣運営に関わる、当然政策遂行に関わる資質の有無、能力の問題となる。

 いわば「閣僚の問題」であっても、と同時に何よりも安倍首相自身の問題なのである。そこに気づかないのだから、石原伸晃はやはり単細胞人間と言わざるを得ない。

 「私共が進めてきた、ま、基本的は方向、改革を進めて日本の経済を成長させていく、この方向には間違いはない」ことは誰もが認めることではあっても、問題閣僚の事後処理の方法に国民が不信を持ち、それが人事管理の資質の有無、能力を超えて政策遂行の資質の有無、能力に重ね合わされて暗黙裡に受け止められたこともあって、国民に不信任を突きつけられたのではないか。人を満足に使えない人間が政策を通した国の運営は満足にできようがないからである。

 安倍首相の閣僚その他に対する人事管理の資質の有無、能力に絡んでいることだが、問題閣僚に対する国民世論や野党の辞任要求を拒絶して逆に擁護する理由付けに「今後職責を果たしていくことによって国民の信頼を得る努力をしてもらいたい」を責任履行の決まりきった口上としているが、これは上記インタビューでの安倍首相自身の選挙大敗の責任について、「結果を出していくことが責任を果たすことだ」と重なる責任履行の口実であろう。閣僚に対するのと同じ擁護論で自身を擁護しているのである。

 結果論になるが、問題閣僚の擁護は自身を擁護する、いわば予行演習ともなっていたのである。安倍首相本人の本質的な責任意識がそのような構造のものであるということだろうが、予行演習となっていたこともあって、何度も同じ口上をスラスラと口にすることができたのだろう。

 「規律を知る、凛とした国」を掲げるだけのことはある。見事に自身の姿に反する美しい価値観の提示となっている。ウソつきな人間程、自分程正直な人間はいないと頭から信じているものだが、それは自己防御本能から出ている自己美化なのだろう。選挙大敗の責任回避の姿勢一つとっても、少なくとも自身のやっていることを省みる自己省察能力はゼロに近いようだ。

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安倍流人事観が肯定する朝青龍の横綱の品格

2007-07-28 00:59:00 | Weblog

 一昨日、どの局のテレビだったか忘れたが、モンゴルに帰っていた日本の国技大相撲の横綱・朝青龍とサッカーを引退した中田英寿が同じチームの一員となってサッカーの親善試合に興じ、中田の朝青龍にシュートさせるための巧みなパスを受けてやっとゴールすることができて二人で抱き合って喜ぶシーンを流していた。

 そのあと昼のワイドショー番組だかで、朝青龍は名古屋場所後腰の疲労骨折で全治6週間の診断を受けて8月3日から20日までの夏巡業を休むことになっていたにも関わらず、それがウソのように元気よく飛び回っていた、あれだけ身体を動かせるなら、巡業に参加すべきだ、横綱としての品格が問われるといったふうに批判していた。

 大体が「品格」などというものは安倍首相の「品格」と同様に見せ掛けで成り立たせていることが殆どだと思っているから、たいした問題ではないと関心を寄せなかった。

 昨27日の朝日朝刊のスポーツ欄を見てみると、≪朝青龍、「骨折」中にサッカー≫と出ている。<騒動から一夜明けた同親方は(師匠の元大関朝潮・高砂親方)は帰国の件は知らなかった、と言い、「詳しい事情は本人が帰ってきてからだが、あんなことで巡業に出ないというのは絶対におかしい」と苦言。入院するか、土俵入りだけでも巡業に参加するか、問う予定だ>(一部引用)とのこと。

 これとの隣接記事に(渡部耕平)の署名入りで、≪職場放棄に相当 処分必要≫の見出しで厳しい批判を向けている。分かりやすくするために箇条書きにしてみた。

①腰の疲労骨折で全治6週間としながら、モンゴルでサッカ
 ーを楽しんでいた。仮病と疑われても仕方がない。サッカ
 ーをする体力は温存していても、夏巡業は休む。企業で言
 えば、職場放棄とも映り、横綱にふさわしくない行動で、
 実に残念だ。
②夏巡業は財政が破綻した北海道夕張市では市民への励まし
 を込め、上越市では新潟県中越沖地震で被災した人たちを
 力士が訪問する。気は優しくて力持ち、という力士(がど
 れ程いるか知らないが)の心意気を示す場となるはずだ
 が、その頂点に立つ横綱がファンの期待を裏切った。
③49年10月、当時の横綱前田山は秋場所(大阪)を大腸
 炎を理由に7日から休場しながら、東京に帰って日米野球
 を観戦。その場面が新聞に報じられて出場停止処分を受け
 、その場所を限りにまげを切ることになった。
④今回の朝青龍の一件は本場所中ではないが、あまりに軽率
 だし、モンゴルへの帰国も親方に報告していなかった、以
 前からも問題行動が多い。厳しい処分が必要だろう。

 こういった一種の信賞必罰の考えは安部流人事観からしたら、決して馴染めるものではあるまい。安部首相は、柳沢にしても松岡にしても久間にしても、赤城にしても、残念ながら選挙都合や支持率確保都合で辞任させざるを得なかったケースもあったが、基本的には閣僚がスキャンダルを起こしたとしても、その不見識・不行跡よりも各閣僚の才能を優先・重視して、才能に関わる見識を生かして職責を果たせばそれでよしとする安部流とも言うべき人事観を持っていた。

 松岡前農水相の場合、安倍「政策分野について、相当の見識がある。今後とも職責を果たすことで、国民の信頼を得る努力をしてもらいたい」

 問題発言を起こした麻生軽量外相にしても、高市早苗と似た者夫婦の山本副にしても安部流人事の恩恵を最大限に受けて首がつながっているのだろう。

 安部流人事観に照らし合わせたなら、何しろ大鵬32回、千代の富士31回、北の海24回、貴乃花22回に次ぐ21回の優勝、うち5回の全勝、平成の大横綱とも言われている成績抜群の名横綱である、その才能を優先・重視して、今後の横綱としての才能面に関わる力量を「生かして職責を果たし」さえすれば、少々のスキャンダル・不行跡、あるいはそれが職場放棄ともいうべき無責任行為であったとしても、免罪されるべき事柄ということになるのではないだろうか。

 安倍晋三は日本の首相・総理大臣として日本国のトップに立つ偉大な人間である。そういった最高の地位にある人間の安部流人事観を大相撲も見習うべきだろう。安倍首相にしても国家主義者として国民がすべて自分に従うことを欲しているはずだ。赤城農水相も首がつながっているのである。下痢を起こして予定日に帰国できなかったが、日本米の販売に合わせて中国入りし、日本米を宣伝する職責を果たしてもいるのである。

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合格水増しと「政治とカネ」

2007-07-27 01:15:23 | Weblog

本題に入る前に、ひと宣伝。白川勝彦氏からメールが届いたものですから。懐に余裕のある人は試しに購入してみてくさい。Amazonで扱っています。
 * * * * * * * *
 『いま リベラルが問う』
   白川勝彦・著/予価(1600+税)/7月下旬発売予定
                ㈱イプシロン出版企画
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 《戦うリベラル》が厳しい論法で右翼反動に迫る !
 累計500万アクセス数を誇る
 白川勝彦(元自治大臣) の人気ブログ『永田町徒然草』を単行本化

 Part1 2007年3月1日~3月15日 
   「これからの政治カレンダー」
   「最近の自民党について」
   「総括・小泉純一郎」など
 Part2 2007年3月16日~3月31日
   「いよいよ明日から都知事選」
   「無党派層って?」
   「安倍内閣の無定見な一例」など
 Part3 2007年4月1日~4月15日
   「専守防衛論の危機」
   「都知事選の結果について」
   「野党の覚悟」など
 Part4 2007年4月16日~4月30日
   「民主党の支持率を考える」
   「怪しげな教育再生論議」
   「右翼反動政治家の特質」など
 Part5
   自公合体政権批判
 Part6
   私の「健康生活」実践記
   3ヶ月で13キロ減量 変わる、物を見る目と考え方
 
  安倍首相は憲法改正を内閣の課題として打ち出し、
  国民投票法も成立させた。
  「やれるものならやってごらん。
      君には憲法を語る資格などない。君は敗れる」
 
  白川勝彦・略歴

   1945年6月22日新潟県十日町市に生まれる。東
   大法学部卒業後、弁護士となる。34歳で初当選、以
   後2000年まで自民党代議士として国会に籍をおく
   。国土政務次官・郵政政務次官、衆議院商工委員長、
   自治大臣・国家公安委員会委員長などを歴任。
   公明党との連立に反対して2001年自民党を離党。
  * * * * * * * *
  では本題、『合格水増しと「政治とカネ」』

 学校が受験料を負担し、優秀な1人の生徒に大学の73の学部・学科を受験させて全部合格したご褒美に5万円まで与えていた大阪学芸高校の「合格実績」水増しが他の高校でも生徒集めの有力な学校宣伝方法として利用していることが判明した。

 大学入試センター試験の結果だけで合否を決定する大学の存在がそれを可能としているということだが、何とも涙ぐましい努力をしているものである。と言っても、つい最近までプロ野球の観客動員数、雑誌出版の発行部数でもやっていた水増しである。テレビの健康番組で効果を水増しする捏造も似たようなものだろう。みんなやっている、あるいはやっていた水増し作戦とも言える。

 つい最近では東京都足立区立小学校が区独自の学力テストで3人の障害児童の成績を外して集計したり、教師が誤答している児童の机を叩いて知らせたりして(07.7.8『朝日』朝刊≪テスト集計 障害児除外≫から)学校全体の成績を底上げする涙ぐましい学校努力(企業なら企業努力)も同質の「水増し」に当たるはずである。

 それ以前は昨年10月に判明した受験科目に入っていない世界史等の必修教科を必修させずに受験科目の授業に振向けていた全国的な履修放棄問題も、実質的には「合格実績」水増しを狙ったそれぞれの学校努力だったはずである。

 必修科目の履修放棄問題が起きていたのと同じ昨年末には政府主催のタウンミーティングでヤラセ質問による情報操作問題も起きていたが、同じ時期に足立区教委は学力テストの成績に応じて区立小学校の予算を配分する方針を批判を受けて撤回している。但し、撤回したものの、テスト結果の伸び率を予算配分の主要な判断材料とするとのこと(06.11.8『朝日』朝刊≪ランク分け予算撤回 足立区教委≫)。

 各小学校は否が応でもテストの成績向上に特化した授業展開を強迫観念化されたに違いない。しかも足立区は学校選択性を採用している。学校選択性に応えるための競争を余儀なくされ、予算配分でもテスト成績底上げバトルのリングに常に立っていなければならない。

 障害児童成績外しの小学校は足立区の学力テストで05年度は全72校中44位だったが、06年度は栄誉ある1位に輝いているとのこと。涙ぐましい努力が実ったということで、今年度も引き続いての障害児童の成績外しや誤答児童への注意喚起(プロ野球の監督も顔負けのブロックサイン?)等々のウルトラDとまでいかないかもしれないが、ウルトラCクラスの離れ業を敢行したといったところだろう。

 ≪テスト集計 障害児除外≫の記事はこう説明している。<区教委は、障害があったり外国人で日本語が不自由だったりする児童生徒の答案は校長判断で集計から除くことを認めており、「今回の校長の判断は適切だったと思う。ただし、保護者に説明して了解を得るべきだった」としている。>

 予算配分にしても学校選択に関しても、学校評価がテストの数字の高い低いを主たる基準に決定付けられる。だから、数字の足を引っ張る障害児の成績排除の「校長の判断は適切だった」ということになる。

 但しそういった一種の制度がテストの結果の数字に対してだけではなく、普段の授業の場でも、他の生徒のテストの成績数値につながる理解速度を阻害する障害物として疎まれる――とまでいかなくても、歓迎されざる存在としていないだろうか。リレー競争で、あの足の遅い子が自分のチームに組み分けされなかったなら優勝できただろうにと悔やまれる存在とされるようにである。

 テストの数字を決定要因としている学校評価に対応して当然の結果性として数字に貢献した生徒程、いわば高い数字を上げた生徒程、高い評価を受けることとなる。生徒それぞれの人間的価値観がテストの成績を表す数字によって左右されるわけである。

 こういった学校評価の構図が履修放棄問題も含めて誘発することとなった私立高校の「合格実績」の水増しということではないだろうか。

 尤もこのような学校価値観・生徒価値観は今に始まった日本の風景ではなく、日本人の精神に根付いている伝統的な価値制度を受け継いだ現風景に過ぎない。人間を家柄や門閥、地位で計る伝統的な権威主義的モノサシをテストの数字にまで当てはめて、同じく人間の価値に振り替えているに過ぎない。

 「政治とカネ」の問題が今騒がれているが、カネの力で有権者や官僚を動員して政治力を底上げし、当選回数を重ねて地位を獲得していくのも、テストの数字をカネの数字(金額)に変えただけのことで、本質的には同じ価値形成の流れを汲むものだろう。カネを政治の力としていることは表沙汰にはできないことだから、隠れた場所で事務所費の付け替えや架空計上といったカネの操作が必要となってくる。あるいは政治献金を政治資金収支報告書に記載せずに、政治の力として自由自在に活用できるように裏ガネにまわしたりする。障害児童の成績を外したり、誤答児童にブロックサインを送ったりするようにである。あるいは予算配分でテスト成績底上げの圧力をかけるようにである。

 児童・生徒にとって元々自己存在を支えていたテスト価値観、あるいはテストの数字信奉を現在程に加速させることになったのは、断るまでもなく小泉・安倍の両内閣の教育改革意識、あるいは両者自身の改革意志を形づくっている競争原理一辺倒の政治思想であって、それがテストの成績という数字になお一層の力を与えることとなった。

 昨年末の高等学校の必修科目の履修放棄問題やタウンミーティングでのヤラセ質問問題勃発に先んずる昨年春に小泉・安倍は競争を加速させることとなる学校への教育バウチャー制度導入を検討している。

 <(06年)4月19日経済財政諮問会議で、小泉首相が身を乗り出した。「それで具体的にどう変わる」
 民間議員の牛尾治朗ウシオ電機会長や規制改革・民間解放推進会議議長の宮内義彦オリックス会長が、人気の高い小・中学校に資金がより多く集まるよう促す「教育バウチャー(利用券)制度」の導入を訴えたときだ。議論は急に盛り上がった。
 安倍長官「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる」
 二階経済産業相「廃校になってしまう」
 小泉首相「それで反対があるわけか」
 牛尾氏「競争になって困るところは反対、歓迎のところは賛成する」
 学校・教員数に応じた現行の予算配分を、学校の選択制のもとで児童・生徒数が増えた学校には多く、減った学校には少なく割り当てるように変えるものだ。児童・生徒を増やそうと学校が競い合えば「教育の質」も上がるという理屈だ。
 小泉政権の5年余りで、教育政策にも「競争原理で解決を」との発想が一気に強まった。流れを作ったのは経済界だ>≪分裂にっぽん3 揺らぐ「約束」 公教育「底上げ」思想薄れた≫(06.9.17.『朝日』朝刊)

 未だ検討の段階で導入されてはいないが、安倍晋三もしっかりと加わって示すこととなった「人気のない小学校、中学校は生徒が集まりにくくなる」ことも「廃校になってしまう」こともいとわない諸々の競争原理導入意志が学校選択性や学力低下評価に向けて学校側が土曜日や夏休みなどでの授業時間増の対策を取らされることとなった危機意識と、今年4月に行われた文科省主催の小中高校の全国一斉テストの結果を受けた全国的な学校序列化につながりかねない学校評価への危機意識などとが相まって学校のテスト価値観・テストの数字に対する強迫意識を強めたことは間違いないだろう。

 安倍晋三とその一党は国家主義の立場から日本の教育の国際的な地位といった国の体裁、国の優越性に拘るあまり、だからこそ国家優先の愛国心教育に行き着くのだが、そのことにだけ目が向いて、カネを政治の力としているように、結果としてテストの数字を人間存在の力としていることに単細胞だから気づかない。

 自らもカネを政治の力としてきたから、政治資金規正法改正で5万円以上の支出の領収書添付を政治資金管理団体に限り、その他の政治団体はその限りではないとする抜け道を残しておいたのだろう。

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山本副も高市も同じ穴のムジナとして名乗りを上げた

2007-07-25 11:14:51 | Weblog

 破廉恥発言を繰返す懲りない軽量大臣の面々

 松岡前農水大臣が国会で「法律に基づいて適切に処理しています」と領収書を公開しなかった事務所費は、実は芸者の花代を適切に処理したものだと(このとおりに言ったかどうか分からないが)、本人から聞いた話だとして山本農水副大臣が発言した問題。

 具体的にどういったか、J-CAST ニュース≪領収書が出ない芸者の花代 ご祝儀?それとも何なのか≫が詳しく紹介している。一部引用。

 <山本副大臣の発言は、副大臣の地元福井県内の演説会であった。「松岡さんだってね、(事務所費)500万(円)の使い道、たいした話じゃない。(略)『何に使ったの』と言ったら、昔から『赤坂でみんなに大臣になったら飲ませる』と赤坂の芸者に行く際に、20万、30万って花代だけどって(発言のまま)、花代は領収書くれんのですよ。それを事務所費で払っていたという話だった」と語った。>

 全体的な記事内容はJ-CAST ニュースの記者が<「花代」は本当に「領収書をくれない」のだろうか。>と関係者に取材したところ、<花代単体の領収書は出ないことが多いが、花代や飲食代を含む領収書は出るということのようだ。>といったものとなっている。

 山本発言が波紋を呼んだあとの、というよりもマスコミに物議をかもす発言として取り上げられたあとの副大臣の釈明を同記事は次のように記している。

 <朝日新聞朝刊(7月22日)によると、山本副大臣は7月21日、「『政治とカネ』に絡んで自民党に逆風が吹いているので、会場の人を和ませるために冗談を言った」「話した内容は事実ではなかった」として発言を撤回した。同じ7月21日の日本テレビ系列の取材に対しては山本副大臣は「うそというか、うそをついた覚えはないけども、発言は適切じゃなかったということで、誤解を受けるということで取り消させて頂きたい」と話し、その模様がニュースで報じられた。>

 「花代は領収書くれんのですよ。それを事務所費で払っていたという話だった」が事実としたら、大臣就任祝いに飲ませるということならポケットマネーで支払うべきところを、領収書が貰えないから事務所の光熱水費に化けさせたということとなって、明らかに経費の付け替えとなる。自殺した者の生存中の芸者(遊びか、単なる飲食だったのか不明だが、女を抱かせてこそ仲間内で男を上げることができると考える男がいるのも事実である)の話題を持ち出すのは死者に対して不謹慎といった問題ではなくなる。光熱水費の正体はナントカ還元水なのか芸者の花代なのか、徹底的に解明すべきだろう。

 また事実かどうかの問題とは別に、「『政治とカネ』に絡んで自民党に逆風が吹いているので、会場の人を和ませるために冗談を言」うべく選択した話題がごく親しい仲間内で話すなら、秘密を知っていたということで勲章にもなるだろうが、<地元福井県内の演説会>で話す内容として考えた場合、政治問題とはまったくかけ離れた「花代は領収書くれんのですよ。それを事務所費で払っていたという話だった」とは、そのセンスたるやあまりにも軽すぎる。当たり前の政治家のセンスとは決して言えないだろう。我々はこのようなセンスのない国家議員、副とはいえ、大臣を抱えている。情けない話ではないか。

 センスは人間性に深く関わっている。政治家として当たり前のセンスを持たない人間が副大臣を務めている。安倍首相と人間性とセンスの点で同じ穴のムジナなのだからということなら、任命されて当然の副大臣ということになって、納得もいく。

 山本農水副大臣の女房だとかいう高市早苗内閣府特命相が「私も的確に言葉を選ばないで発言してしまうことがある」と、どのような〝話題〟を持ち出すか、その人間のセンスの問題ではなく、的確な言葉の選択問題にすり替えて一見山之内一豊の妻張りの夫擁護を見せていたが、今朝の日テレ24(7.7.25)での記者会見では、「エー、本人も不適切であったと、大変申し訳ないと思っております。副大臣ということでございますが、その重みを十分に噛みしめて、適切に言葉を選ぶべきであると考えております」

 「私も的確に言葉を選ばないで発言してしまうことがある」と夫婦の問題であるなら許されもするが、政治家同士であるなら許されない、自分という人間を基準に免罪しておきながら、舌の根も乾かないうちに自分のことは棚に上げて「適切に言葉を選ぶべきであると考えております」とするのは、〝適切な言葉選び〟となっていない矛盾発言であろう。そのことに気づかない軽薄さである。

 「松岡さんだってね、(事務所費)500万(円)の使い道、たいした話じゃない。(略)『何に使ったの』と言ったら、昔から『赤坂でみんなに大臣になったら飲ませる』と赤坂の芸者に行く際に、20万、30万って花代だけどって(発言のまま)、花代は領収書くれんのですよ。それを事務所費で払っていたという話だった」を「適切に言葉を選」んで話すとしたら、どういう言い回しになるのか、教えてもらいたいものだ。

 「適切に話題を選ぶべき」とすべきところを、「適切に言葉を選ぶべき」とする薄汚い誤魔化し。「適切に話題を選ぶべき」とした場合は、話してはならないことを話してしまったと事実の可能性が生じるから、「適切に言葉を選ぶべき」と言葉の使い方の問題として非事実化に加担する。記者会見に何食わない顔で立ちながら、その顔のウラで狡猾なインチキを演じていた。単純に言葉の使い方の問題と把えてたいとしたら、センスの点であまりにも単純ということになって、特命どころか、国会議員すら務める資格を失う。

 どちらであっても、山本副と高市何食わぬ女は人間性とセンスの点で似た者夫婦、同じ穴のムジナ夫婦であるとだけは確実に言える。

 「女性は産む機械」発言の柳沢。「奥さん方に分かりやすく言えば、小沢一郎の顔を取りますか、安倍信三の顔を取りますか?どちらが奥さんの趣味に合いますか」と「1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られている。どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」発言の麻生。そして山本副の前農水省松岡の事務所費芸者花代説、さらに安倍御大の赤城農水相の一番少ない年の事務所経費を取り上げて「800円、月800円の光熱費って、おかしいでしょうかね?」と付け替えかどうかの問題をさもたいしたことのない金額の問題にすり替えた恥知らずな薄汚い誤魔化し。

 任命権者たる安倍首相を筆頭に内閣を占める面々が懲りもせずに低劣なセンスを曝して恬として恥じないその人間性。同じ穴のムジナ性。逆立ちさせたって、連中には「規律を知る凛とした」態度・姿勢は期待できないだろう。

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JR東海の社会的貢献を欠いた自己利益中心主義

2007-07-24 07:12:00 | Weblog

 7月19日(07年)の『朝日』朝刊。≪富士・ブラジル人学校 認可されてもJR通学定期買えず≫

 記事によると、県内のブラジル人学校で初めて今年3月に各種学校の認可を受け、4月1日から開校した富士市の「エスコーラフジ」の生徒がJR東海の「学校及び救護施設指定取扱規則」に定めた各種学校は認可と開校のいずれの日から1年を経過していることが学割適用の条件とする社内規則によってJR通学定期をいまだに購入できずに困惑しているという。

 もし定期券を購入できたら、御殿場市や富士宮市、静岡市清水区からJRで通学する生徒の通学費の負担が3分の1から4分の1に軽減されるという。

 そして記事は次のように伝えている。<同社は「通学定期の原資は一般の乗客の運賃で、公平性の観点から慎重に審査している」とする。各種学校は規模や水準が多様なので、計画通りに授業の科目や時間数が実現し、継続して学校が運営されていることを確認するために、1年の経過を置いているという。規定の見直しは考えていないとしている。
 一方、エスコーラジフジの生徒13人が利用する富士急静岡バスは、県の認可の写しなどの提出を受けて同校に通学定期を適用することを決めた。生徒たちは通常運賃の4割引の通学定期で通っている。
 同校はブラジル国内と同じ教科書を使ってポルトガル語で授業をしており、本国と同じ卒業資格が得られる。言葉の問題などで日本の学校になじめず、移ってくる生徒もいるという。各種学校にした狙いの一つは経済的な負担の軽減で、行政の補助や授業料への消費税などの非課税とともに、通学定期の適用も軽減につながると同校は考えていた。
 経営する神和学園の神尾正和理事長は「県の審査をクリアしてようやく認可を受け、期待感が大きかっただけに残念だ。できるだけ早く通学定期を購入できるようにしてほしい」と話している。>
 
 富士急静岡バスがどのような社内規則に従って県の開校認可と同時に定期券発行を認めたか記事は書いていないが、JR東海は「通学定期の原資は一般の乗客の運賃」だから、開校したばかりで海のものとも山のものとも知れない出来立てホヤホヤの学校の生徒に定期券を発行して1年も続かず「原資」をムダにした場合に失うことになる「公平性」を持ち出しているが、要するに取引が長期に亘る保証がなけれが値引きはできないという商売上の損得の観点に立った企業利益に限定した「学校及び救護施設指定取扱規則」ということなのだろう。

 断るまでもなく人間が社会を生存の場とする生きものであるのと同じく、企業も社会を生存の場としている。いわば社会あっての人間であり、社会あっての企業を生存原則としている。企業としてのJR東海は乗客に通勤、もしくは移動の便宜を与えることで社会に貢献し、その利益で自らの企業を成り立たせている。

 だがこの社会貢献は企業利益追求に関連し合った、その範囲を出ない社会的に限定された貢献であって、学割定期券発行に関して「学校及び救護施設指定取扱規則」から一歩も踏み出せないでいるのはそのためだろう。

 しかし如何なる企業も企業利益追求と関連し合わない社会からも相互的に恩恵を受けているのであって、そのような恩恵の相互性によって企業は企業利益追求とは関係しない社会的貢献活動を企業の社会に果たす役割として求めらているのだろう。それが果たすべき社会的責任の一つとなっている。

 とすれば、<計画通りに授業の科目や時間数が実現し、継続して学校が運営されていることを確認するために、1年の経過を置>くのではなく、逆に積極的に学割定期券を発行して生徒の経済的負担の軽減に寄与することで<継続して学校が運営され>る後押しの一助とすることも企業の社会に向けた貢献であり、社会的責任の一部を成すのではないだろうか。

 企業規則に縛られ、企業経営のみに目が向けていたのでは果たすべき社会的貢献は企業利益追求に関連し合った貢献に限定され、社会に向けた幅の広い視点と柔軟な対応を欠くことになる。広い意味での〝企業の社会的貢献〟という観点からしたら、「一般の乗客の運賃」を「通学定期の原資」とする関係に囚われた確実性のある社会的事象を担保できなければ投資できないという「公平性」から離れて、例え長期の学校運営に関して不確実な時点にあるとしても、ブラジル人学校生徒の経済的負担の軽減に役立つことは確実に言えることで、それが生徒たちの教育を補助する社会貢献の一つとならないはずはない。

 JR東海の姿勢は「通学定期の原資は一般の乗客の運賃」だとする企業利益擁護のための企業内規則にのみ目を向けた内向きの姿勢を優先させる結果、企業利益から離れた社会的貢献に対する社会的責任の視線を欠くこととなっているのではないだろうか。

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安倍首相とご都合主義で響き合った岡崎外交ブレーン

2007-07-23 08:07:06 | Weblog

 07年6月6日の『朝日』朝刊に次のような記事が載っている。

 ≪「慰安婦なんか問題にならない」首相ブレーン・岡崎氏≫

 <安倍首相の外交ブレーンの岡崎久彦・元駐タイ大使は5日、東京都内で講演し、「20世紀は中国では何千万殺している。(旧ソ連の)スターリンの粛清も何百万、米国も原爆やドレスデン(空爆)をやっている。日本の慰安婦なんか問題にならない」と語った。首相が4月の訪米時に「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された」として慰安婦問題での日本の責任に言及した背景を説明したものだ。
 「20世紀は人権侵害の時代」
 岡崎氏は、首相が訪米前に米メディアのインタビューを受けた後、「この文言(=「20世紀は人権侵害の時代」)を全部使いなさい」と助言したことを伝えた。さらに、「供給が十分な場合に強制は必要ない。どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが、カネをためて自分の(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」と、慰安婦の強制性の調査に疑問を示した。>――
   
 文化大革命、天安門事件で中国の国家権力が戦前の日本軍を上回る虐殺を行ったとしても、それは中国自身の問題で、日本自身の問題である日本の国家権力が犯した侵略戦争に於ける数々の戦争犯罪が免責を受けることができるわけではない。このことは勿論のこと、スターリンの粛清に於いても同じことが言える。

 広島・長崎の原爆投下と東京及びドイツ・ドレスデンに対する空爆は日本の侵略戦争略行為と同様に相手国民が被害者として関わっているが、それぞれの事実を相対化して日本の戦争犯罪の事実を「問題にならない」と差引きゼロとすることができるわけではなく、それぞれの事実はそれぞれの事実として残るし、それぞれの「問題」として残さなければならない。

 それは連合軍のドイツのドレスデンに対する空爆がどれ程に残酷なものであったとしても、だからと言ってナチスドイツのユダヤ人に対する虐殺の事実と罪を相殺できないのと同じである。それとも、「米国も原爆やドレスデン(空爆)をやっている。ナチスのユダヤ人虐殺なんか問題にならない」とすることができると、安倍首相の偉大なブレーンである岡崎久彦は己の非客観性にふさわしく考えているのだろうか。

 これは決して比較の問題ではない。それをスターリンの粛清や米国の原爆、ドレスデン空爆、中国の文革や天安門事件等々を持ち出すことで他との比較の問題にすり替え、慰安婦問題や南京虐殺、強制連行や強制労働を相殺しようとしている。

 大体が米国の無差別空爆や原爆投下による一般市民に向けた殺戮行為に対する日本の比較対照事項に南京虐殺を持ち出すなら、それぞれの犯罪行為性に関する共通点は比較することはできるが、犯罪性の異なる日本の国家権力及び軍権力が行わさせしめた人権抑圧行為である「慰安婦」問題を持ち出す矛盾自体が、中国やソ連の国家権力による自国民に向けた虐殺行為と比較するならまだしも、自己正当化のためのご都合主義の相対化を示していないだろうか。

 安倍首相の偉大なブレーンである岡崎某の「この文言(=「20世紀は人権侵害の時代」)を全部使いなさい」との「助言」を受け入れた安倍晋三は自らも応じる部分があったから助言に従ったのか、便利な説明となるからと受け入れたのか、そのどちらかだろう。例え相手がブレーンであっても、すべての考えが合い通じるわけではないだろうから。

 後者なら、ご都合主義の姿を露呈する。そのご都合主義は規範意識のない人間であることの証明でもあろう。このことは自らが政策として目指している「規律を知る凛とした国」云々なる文言がメッキでしかないことを曝し、自らの規律とは無縁の凛としない姿を隠すための奇麗事のインチキを語っているに過ぎないことを暴露する。

 前者の「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された」に応じる部分があって慰安婦問題を他の人権侵害問題との比較で免罪することに同調したなら、比較対照の方法を使わなければ免罪できないことの証明でしかなく、政治家にあるまじき合理的客観性を欠如させた姿を曝すもので、一国の指導者としての資格を失う。また、それぞれの事実はそれぞれの事実として把えるべきを比較対照の相対化によって同等化すること自体が客観性を破るご都合主義を犯すもので、前者・後者に関係なしに安倍晋三なる政治家がご都合主義者の塊であることを示している。

 偉大な首相外交ブレーンである岡崎某のご都合主義の点はまだまだ指摘できる。「供給が十分な場合に強制は必要ない。どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが、カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」としているが、「供給が十分な場合に強制は必要ない」は一面的真理に過ぎない。高い報酬と提示上の意を尽くした労働待遇に目が眩んで「供給」に自発的に応じたとしても、実際に労働についた後に「強制」もあり得るのであって、戦前の日本軍は「強制」を可能とするに十分な絶対権力を常に備えていた。それを無視するのはご都合主義の論理展開でしかないだろう。

 岡崎某を含めた慰安婦の軍関与否定派は〝強制性〟を示す文書がないから、官憲による強制的な慰安婦狩りはなかったとする、〝文書〟の存在有無と軍関与の有無を関連付ける常套手段を専門としていながら、その一方で「どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが」と、「資料」(文書)なる証拠が存在しないにも関わらず、「供給が十分」だっとたする立証を行う自分に都合のいい冤罪でしかないご都合主義をも発揮している。

 ブレーン岡崎某のご都合主義はさらに続く。「カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」は、すべての従軍慰安婦をその類だとする合理的判断を欠いたご都合主義からの蔑視を示す考えであろう。

 さらに女性国際戦犯法廷や米下院外交委員会、その他での元従軍慰安婦の証言自体を文書等の物的証拠や知人・家族等の裏付け証言もなく、本人が言っているに過ぎないと否定していながら、「カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつ」の「報告」があった場合、物的証拠となる「資料がそろってい」なくても、また知人・家族等の裏付け証言もなく、本人が言っているに過ぎない事柄であっても、自分たちに都合がいい「報告」は「報告」のみで信用しようとする公平を欠いたご都合主義の姿勢を見せている。

 要するにご都合主義に支配された<安倍首相の外交ブレーンの岡崎久彦・元駐タイ大使>の「講演」だったわけである。安倍首相が岡崎某を偉大なお抱え外交ブレーンとしているのは双方が自らの人格としているご都合主義で響き合っているからではないだろうか。そうとしか考えられない。

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軽量・軽薄麻生の対障害者意識の低さと安倍の対応

2007-07-21 08:09:05 | Weblog

 「アルツハイマーの人でもわかる」

 軽量・軽薄麻生の「奥さん方に分かりやすく言えば、小沢一郎の顔を取りますか、安倍信三の顔を取りますか?どちらが奥さんの趣味に合いますか。それが問われる」と投票基準を政策や政治的な誠実さではなく、党首の顔に対する「趣味」に置いた発言に続く、<1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られているとしたうえで「どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる。ね。こういう状況にもかかわらず、中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」>(≪「アルツハイマーの人でもわかる」麻生外相が講演で発言≫)と理解基準を軽々しく「アルツハイマーの人」に持ってきた発言。「美しい国つくり」を担う内閣の一員だけのことはある「美しい」発言となっている。これも「美しい国づくり」の一貫なのだろう。

 「こんなことはバカでも分かる」と理解し易さの目安(理解基準)に「バカ」を持ってくることがよくあるが、この場合の「バカ」は特定した具体的存在を指すわけではなく、一種の慣習的な基準に過ぎないが、「アルツハイマーの人でもわかる」は、「バカでも分かる」の非特定性を剥ぎ、慣習的な基準を大きく破って、理解基準に特定した具体的な存在を持ってきたものとなっている。

 確かに麻生発言は一見何気ない発言のように見えるが、誰でも分かるとする理解基準にわざわざ「アルツハイマーの人」を持ってくること自体が、「理解能力を失っているが、そういった理解能力を失っているアルツハイマーの人間でも分かる」としているということで、それだけで理解基準を具体的に特定する差別意識が働いている証拠なのだが、百歩譲って障害者全般に対してではないとしても、少なくとも軽量・軽薄麻生のアルツハイマー病とその患者に対する理解と認識の低劣さの表れとその結果としての差別を示すものだろう。

 このような不合理性は<1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られている>とする主張の客観性を欠いた自己都合の発言からも窺える。<日本から中国へのコメの関税率は68%>(≪大きな国で:コメの輸出≫)と言うことだが、それに対して日本は外国産米に490%もの高関税をかけて国内米作農家を保護しているのである。「中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」と言うなら、日本のコメ輸入関税を少なくとも中国に対しては中国と同じ68%程度に引き下げてから、言うべきだろう。それが互恵と言うことではないか。

 それをしない合理性を欠いた自己都合を棚に上げて、「どっちが高いか」誰でも分かるとする理解基準に、その〝誰でも〟を強調する意味で「アルツハイマーの人」を持ってくる。程度の低い人間でなければできない発想であろう。

 中国が自国米を日本に輸出できるようになれば、中国も日本の米の輸入に動くだろうし、そうなれば<1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られている>といった高給米として売りさばくボロ儲けの影は潜めるに違いない。

 昨夕の日テレのニュースで、コメンテーターを務めている田宮とか言う元刑事だとかが軽量・軽薄麻生の発言を「悪意があって言ったのではない。もし『子どもでも分かるでしょう』と言ったら、みんな怒るでしょうか」とトンチンカンなことをさも真面目臭って言っていたが、「子ども」を誰でも分かるとする最下位の理解基準に持ってくるのは知識の年齢的な未達性を基準とした譬えであって、器質的障害が病因となっているアルツハイマー患者のその気質的な障害を以てしても理解できるとする意味の譬えとは明らかに置き換え不能であって、軽量・軽薄麻生と同じレベルのアルツハイマー患者やその近親者の苦悩を敏感に感じ取ることができない鈍感さを示した発言でしかない。 

 今朝(07.7.21)早朝の日テレ24が軽薄・軽量麻生のぶら下がり謝罪記者会見を報じていた。

 軽薄・軽量「譬え話、に使った譬えとしてあり、不適切なものがあった、ということだと後で伺って分かりましたもんで、この件については発言を撤回すると共に、このことについて、不快の念を持たれた方々、また関係者の方々にお詫びを申し上げたいと思っています。特に安倍総理から、何(も、と言おうとして、言い替えたのだろう)、注意等々の話はありませんでした」

 他人事を話しているような事務的、機械的な言い方に終始していて、軽量・軽薄ぶりを如何なく発揮した謝罪となっていただけではなく、「お詫びを申し上げます」と謝罪で決着をつける言葉を使わずに、「お詫びを申し上げたいと思っています」と「~したいと思う」という意思表示の言葉を使うことで謝罪を〝欲求〟の時点にとどめ、それを曖昧化する狡猾ささえ見せている。

 「特に安倍総理から、何、注意等々の話はありませんでした」と、それを以って「注意」を受ける程のことではないとしたい意識を働かせたようだが、安倍総理の方は問題を大きくしたくないから沈黙を守っただけのことだろう。そうであっても沈黙は結果として軽薄・軽量の発言に何ら批判を加えないこととなり、アルツハイマー病及びその患者に対する自身の認識をも沈黙させる、首相にあるまじき態度を示す結果となっている。

 安倍首相を筆頭として、安倍内閣は美しいばかりに情けない面々ばかりではないか。
* * * * * * * *
 参考までに引用記事。

 ≪「アルツハイマーの人でもわかる」麻生外相が講演で発言≫(07.7.20/『朝日』朝刊)

 <麻生外相は19日、富山県高岡市内で講演した際、国内外の米価を比較する例え話の中で「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」などと発言した。

 麻生外相は、国内の農産物が高いと思われがちだとしてコメの価格に言及。1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られているとしたうえで「どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる。ね。こういう状況にもかかわらず、中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」などと述べた。

 参院選富山選挙区(改選数1)に立候補した自民の野上浩太郎氏の総決起大会に出席するため、同県を訪れていた。>

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安倍、言葉で飾っても始まらないことにまだ気づかない

2007-07-20 09:52:24 | Weblog

 19日(07.7)、テレビで安倍首相が台風4号で被災した宮崎県の東国原知事と会談して、「激甚災害の指定はスピード感を以って対応したいと思います」と言っていた。

 「早急(さっきゅう)に対応したい」と簡単に済むところを「スピード感を以って対応したい」である。「スピード感を以って対応する」とはどういうことなのだろう。なぜわざわざ「スピード感を以って」と言わなければならないのだろうか。

 一般的には「スピード感」とはあくまでも動きに対する印象を言う言葉であろう。ストーリーの展開という〝動〟きに対して、スピード感溢れるストーリー展開だとか、サッカーでパス回しという〝動〟きに対して、スピード感あるパス回しだとか、スピード感に欠けるパス回しだとか言う。

 但しその動きは現在進行形の動きに言う場合もあれば、過去形を言う場合もあり、未だ生じていない未来形の動きにも言うから、安倍首相の「激甚災害の指定はスピード感を以って対応したい」とこれからの動き(「対応」)に対して言えないことはないが、自身の動きはただ単に自ら携帯か何かの通信機器を使って事務方に指示を出すか、あるいは帰京してから直接口頭で指示を出すか、あるいは首相からの指示ということで伝達させるべく随員に指示するかして後は事務方がテキパキと処理するか、それとも自らが加わった会議で検討し合い、意見を纏めるのかいずれかであり、それだけのことを「スピード感を以って対応したい」は表現としては大袈裟に過ぎ、自らの行為を言葉で飾る類であろう。元々何事も言葉で飾る政治家である。

 サッカーの場合、「スピード感」溢れるパス回しを心がけたいということで、そのことに意識を集中してプレーすることもあるだろうが、そのことに成功したとしても、ゴールに結びつく結果が伴わなければ、パス回しだけがスピード感があっても意味をなさない。

 だが、何よりも「激甚災害指定」は首相の意向を受けなくても、地元自治体の「指定」要求に対して国の関係部署の、そこに内閣府が関わることがあっても、データーに基づいた事務的な妥当性の判断によってのみ決定する問題であって、そこに何らの私情も意向も差し挟んではならないはずである。首相の意向のみならず、その地区選出の国会議員とか大臣とかの口利きとか圧力とかも不必要事項であって許されるものではないだろう。

 いわばそもそもからして首相の個人的決定事項ではない「激甚災害指定」を「スピード感を以って対応したい」はそれをさも首相の意向が重要要件であるかのように見せかける演出によって、首相の手柄とする宣伝意識があったからだろう。特に支持率低迷のまま参院選をすぐ背後に控えているのである。相手は大衆人気の高い元芸人であったそのまんま東こと東国原県知事であり、しかもテレビが日本全国に向けて報道する。舞台は整っていたのである。

 そのためにも「早急に」で済むところを、「スピード感を持って」と体裁よく言葉で飾る必要が生じたに違いない。

 首相お得意の「できることしか言わない。約束したことは必ず守る」も、既にその矛盾、不完全さを露呈している改正政治資金規正法や公務員改革関連法案を例に取るまでもなく、法律と言う「約束」自体が常に完全な体裁をなすわけではなく、「でき」ないことも含んでいるのだから、「できることしか言わない」は最初から破綻しているのであって、「でき」ないことの「約束を必ず守」られても、空約束を言っているに過ぎない。

 不可能を可能のように言うのも、言葉で飾る行為に入るだろう。

 わざわざ断るまでもなく、完全な法律など存在しない。存在しないから〝改正〟という歴史を重ねることになる。あるいは新規に制定することになる。それは完全な法律をつくる能力を人間が備えていないことの証明であろう。

 そのことを弁えることができずに、「教育基本法を改正し、地方分権改革推進法を成立させ、防衛庁を防衛省に昇格させ、国民投票法案を成立させ、改正国家公務員法を、改正政治資金規正法を、年金時効特例法を・・・・」と次々と名前を挙げて、数の優勢が可能とした通過・成立であるにも関わらず、それを誇り、自らの勲章とする。

 矛盾、不完全さを抱えた人間がつくる法律がその法則に従って同じように矛盾、不完全さを抱えることとなる宿命にある以上、実際の運用を見ないうちに法律を制定しただけのことを誇り、勲章とするのは、やはり言葉で飾っているに過ぎない行為に当たる。

 必要なことは法律を制定しただけのことを誇り、勲章とするために言葉で飾ることではなく、実際的な運用局面がどう出るか、利益と不利益のバランスはどうなのか、常に畏れを抱いて見守る謙虚さではないだろうか。

 そういった謙虚さこそが国民の声に耳を傾ける姿勢へとつながっていくのだが、自らの行いを言葉で飾り、誇るだけの人間はクスリにしたくても謙虚さは持ち合わせていないものである。みなさん、安倍晋三のどこに謙虚さを見て取ることができますか?できないでしょう。

 一国の総理大臣たる人間がそういったことを弁えることもできずに、専ら言葉で飾ることだけに意を尽くす。何とお粗末な合理的精神と言うべきか。

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安倍も赤城も「たいしたことはありません」政治家です

2007-07-19 07:09:37 | Weblog

 赤城農水大臣の閣議後の記者会見を昨日(07.7.18)昼のTBSでやっていた。伝えていたのは事務所費問題ではなく、顔に貼ってある二つの絆創膏についてだった。一つは左額の髪の生え際に、生え際に沿って斜めに3センチ角程のガーゼを挟んで太目の茶色のバンドエイド型の絆創膏が貼ってあり、さらに左目下に生え際よりもさらに大きな片頬が隠れるくらいの大きさのガーゼを当てて、左右斜めに二枚の白い半透明のテープを貼って押さえているといった異様な感じだった。

 日本の記者「顔のキズなんですけど、暴漢に襲われたりなんかとか、そう
     いう・・・」
 赤城日本の大臣「いや、あの、たいしたことではありませんので――」
 日本の記者「家の中でとか、顔を打ったとか・・・」
 赤城日本の大臣「いや、どうぞ、ご心配なく。たいしたことではありませ
    ん」
 日本の記者「公務かプライベートとかで、事の重要性ってものが・・・」
 赤城日本の大臣「いや、あの、まったく、うー、ご心配には及びません」
 日本の記者「公務ではないということ・・・」
 赤城日本の大臣「まったくご心配には及びません。たいしたことありませ
    ん」
 日本の記者「現職の大臣なんですから、ええ、その中にはきちんとご説明
   をいただかないと・・・。えー、心配いらないと言われても、心配し
   ちゃうんです」
 赤城日本の大臣「ま、たいしたことではありません」と自分自身にたいし
   たことではないと納得させるように何度も自分から頷いて見せてから
   、「うん、たいしたことありません」と改めて自分に確認させるみた
   いに付け加える。多分自分の中で一生懸命に、「これはたいしたこと
   ではないんだぞ」と言い聞かせながら、記者に答えていたのではない
   だろうか。いわば、実際にはかなりたいしたことだったということで
   はないだろうか。
 日本の記者「どんな感じのたいしたことないのですか?」
 赤城日本の大臣(口許に薄っすらとした笑みを見せて)「ま、本当にたい
   したことではありませんので、ハイ」
 日本の記者「キズの程度がたいしたことないって言うことなのか、理由、
   その方が大事・・・」
 赤城日本の大臣「いや、もう何でもありません」
 日本の記者「大臣、ケガ、いつしたんですか?」
 赤城日本の大臣「何でもありません」
 
 約2分間、やり取りしたそうだ。解説が記者会見後農水省の報道室を通して、「私は肌が弱いこともあり、かぶれたのかもしれません」とコメントがあったという。
* * * * * * * *
 記者「改正政治資金規正法が成立以前から政府の案はザル法、抜け道があ
   ると言われていましたが、赤城日本の大臣の事務所費問題で法案通過
   早々にそのことが証明されたと思うのですが、そのことに関してどの
   ようにお考えですか?」

 安倍日本の首相「いや、ご心配には及びません。あのー、まったくたいし
   たことありませんので――」

 記者「国家公務員改正では独立法人から民間などへの再就職は制限されて
   いないから、独立法人が、省庁から企業に天下る『抜け道』となると
   いう批判がありますが・・・・」

 安倍日本の首相「えー、まったくたいしたことありません。ご心配には及
   びません」

 記者「首相ががいつも言う『できることしか言わない、約束したこと必ず
   守る』とはこういった抜け道を含めて、これができることであり、で
   きると約束したことは守ると言うことですか?」

 安倍「えー。まあ、ご心配には及びません。できることしか言わない。約
   束したこと必ず守ります。うん、そう、たいしたことはありません」

 記者「教育基本法を戦後60年に改正したと、それを『戦後レジームから
   の脱却』の勲章の大きな一つとしていますが、そこに愛国心教育が盛
   り込まれ、その影響下に安倍教育再生会議が行っている学校教育に関
   わる具体的政策づくりで道徳の正式教科化が議論され、一度は提案さ
   れた国家管理による子育て指南にも見ることができるように、教育や
   子育てにまで国が意思統一しようとする方向へ強力に進めているよう
   にみえますが、この点についてどうお考えですか?」

 安倍日本の首相「いや、どうぞ、ご心配なく。たいしたことではありませ
   ん。まったくたいしたことはありません」

 記者「教育の現場では既に国家主義的管理意識が先行していて、特に家庭
   科教育では男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだとする性による
   役割の固定を否定するジェンダーフリーを再否定して、男らしさ・女
   らしさを求める戦前的な男女観教育へと移行しつつあります。この動
   きに連動して中絶やピルによる避妊を学校で教えるのは以ての外だと
   これまでの性教育を180度転換して国家による個人の性の管理にま
   で進んでいるという意見がありますが、すべては安倍首相の国家主義
   的性意識、国家主義的家族観を忖度した動きなのでしょうか?」

 安倍日本の首相「「いや、あの、まったく、うー、ご心配には及びません
   。たいしたことではございませんから」

 記者「個人の性に関して国家主義的管理意識が最も顕著に働いた政策はい
   わゆる『離婚後300日規定』の見直しだと思うのですが、離婚しな
   いうちから夫以外の男とセックスを愉しんで気持ちいいい、気持ちい
   いと喘いだ中で産んだ不倫の子まで救済対象にするわけにはいかない
   。不貞行為以外の何ものでもないではないか、離婚協議が長引いてい
   る間に妊娠するなど以ての外だ、離婚の法的手続きが完了するまでセ
   ックスしたくても我慢すべきだ、貞操義務や性道徳を守るべきだし、
   守らせるべきだ。離婚後に他の男とセックスを愉しんで気持ちいいい
   、気持ちいいと喘いだ中で産んだ子どもでない限り、そのことがはっ
   きりとしていなければ救済対象とすべきではないと離婚後に妊娠した
   場合の子どもに限って『300日規定』を適用するとしたのは個人の
   性行動を特定の性道徳観で制約する国家主義的なお節介だと批判され
   ていますが、この点についてどうお考えですか?」

 安倍日本の首相「ま、たいしたことではありません。まったくたいしたこ
   とはありません。ご心配に及びません。うん、たいしたことありませ
   ん」

 記者「安倍日本の首相は就任した9月から4月の間に60万人の雇用を新
   たに創出したと成果を誇りに誇っていますが、現在労働者総数5千万
   人のうち正社員数は約3340万人で全体の67%を占めていますが
   、派遣や契約社員などの非正社員数は全体の33%の約1660万人
   ということです。60万人の新たな雇用のうち、全員が全員とも正社
   員として採用されたとは考えられません。06年の非正社員の平均月
   収は正社員のたったの6割程度の約19万円の低い水準にあるという
   統計がありますが、60万の正社員と非正社員の割合はどうなってい
   るのでしょうか?」

 安倍日本の首相「ま、60万人が60万人とも月収20万以下の非正社員
   であろうと、ご心配には及びません。ご心配には及ばないという中に
   於いてですね、まったくたいしたことはありません、ということでご
   ざいます」

 記者「新たな雇用創出は景気回復の成果だとしていますが、それは自民党
   及び安倍内閣の景気回復策が功を奏したのではなく、中国特需の恩恵
   を受けた日本の景気回復であって、もし中国がこけたら日本もアメリ
   カもこける頼りない景気回復なのは先ほどの日本の株市況にも影響し
   た上海の株式市場の暴落が証明していることだと思いますが」

 安倍日本の首相「いや、まったくたいしたことはありません。ご心配には
   及びません。中国は中国、日本は日本ですから」

 記者「最後に参院選の投票日が近づいていますが、若者の安倍離れが言わ
   れています。外見は若く見えるが、年寄りっぽいとか、無節操で状況
   に応じてあれこれ態度を変えて美しくないとか、頼りないとか、なか
   なか厳しく見られているようですが、その点については?」

 安倍日本の首相「いや、まったくたいしたことはありません。ご心配には
   及びません。うん、まったくたいしたことはありません。私は私です
   から。安倍晋三は安倍晋三です」

 記者「その安倍晋三が頼りないと見られてるのですが?」

 安倍日本の首相「いや、ご心配に及びません。ま、まったくたいしたこと
   はありません」

 解説「最後まで『まったくたいしたことはありません、いや、ご心配には及びません』の記者会見でした。記者会見後、内閣府の報道室を通じて、『私は頭が弱いこともあり、そういう中に於いてですね、正確に答え過ぎたということがあったかもしれない、ということでございます』とコメントがありました。さすが日本の首相でございます」

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