イスラムテロリスト集団によるアルジェリア天然ガス関連施設襲撃、邦人人質事件は安倍首相のベトナム、タイ、インドネシア3カ国訪問のベトナム滞在中に発生。そこで邦人拘束の第一報を受けた。
だが、訪問をタイ、インドネシアと続けて、インドネシア訪問を早目に切り上げて帰国した。
2月27日(2013年)午後参議院予算委員会。
大野元裕(外遊からすぐ帰国しなかったことによって)「総理が対策本部長として不在であったことにより万全な態勢を敷くことができなかったと考えなかったのですか」
安倍首相「私は外遊を続けていく中に於いて、適切に対応していくわけですから、そこで外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております。
小野次郎議員、静かにしていただけますか。(暫く待つ)
その中に於いて、私は適切な行動を取ったと、そのように思っております」
小野次郎みんなの党議員が何かヤジを飛ばしたのは、2月19日(2013年)同じ参院予算委員会で同じような質問をしているからだろう。
このことは2月21日当ブログ記事――《19日参院予算委答弁が証明する安倍首相のアルジェリア人質事件「人命優先」はやはりアリバイ作りだった - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、その時の発言との整合性を改めて取り上げてみる。
小野次郎みんなの党議員「(帰国を遅くして)政府の対策が後手に回ったとい認識はございませんか」
安倍首相「えー、我々はでき得る限りのすべての手は打った、とこのように思っております。えー、つまり、現地に於いてオペレーションを行なうのは、アルジェリア政府、であってですね、残念ながら、我々にとっては限界があると」
小野次郎議員「私が申し上げているのは、一つには総理が帰国から遅れたのではないかということを言ってるんです」
安倍首相「もしこれを例えば途中で、えー、(外国訪問を)切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから、そこは冷静な判断をしなければならない」
この発言に対して次のように批評した。
〈人命が犠牲となったことはあくまでも結果的に判明したことで、結果を見た末の結論に過ぎない。事件の一報を聞いた時点では人命がどうなるかの結論は得ていないはずだ。例えアルジェリア政府が「テロとは交渉せず、人質の生命(いのち)は後回し」の危機管理姿勢でいようとも、軍事的制圧作戦の中で命拾いする人質が実際に存在したように犠牲と救出は誰も、アルジェリア政府にしても判断できない状況にあった。
当然、日本政府としては例え(軍事的)オペレーション関与に「限界」を抱えいたとしても、国民の生命・財産を預かる以上、全員救出で危機管理をフル活動させなければならなかったはずだ。
例え帰国しなくても、直ちにアルジェリアのセラル首相と電話会談し、結果的にムダとなっても、人命優先を訴えなければならなかった。
だが、後手に過ぎる危機管理となった。〉――
以上の読み方はそれはそれで的外れとは思わないが、昨日、2月27日の安倍答弁を聞いて、別の読み方もあったことに気づいた。
上の答弁(2月19日の答弁)は早く帰国しても人命に変りはなかったという結果論を以って早く帰国しなかった自身の判断を正当性化している。
いわば結果論から判断の正当性を導いている。
その根拠として、日本政府が人命救出に直接関わることはできなかったことを挙げている。人命救出に直接関わることができないのだから、結果自体にも関わることはできないこととなって、外国訪問を切り上げて早く帰国しても、結果に対してどのような影響を与えることができるのかというわけである。
安倍首相の判断がもしこのような経緯を取らなかったとしたら、訪問を切り上げて人命が救われたのかといった趣旨の発言との整合性が取れないことになる。
だが、果たして結果論から判断の正当性を導くことができるだろうか。
結果をまだ見ないうちの当時の安倍首相自身の判断自体の正当性を論ずるべきであろう。順序として、危機に対する危機管理の判断が先にあって、その判断が危機に対して影響を与えようが与えまいが、判断の次に結果が来るからだ。
当然、判断の正当性と結果の正当性を個別に評価しなければならないことになる。判断の正当性と結果の正当性が一致したとき、その危機管理はベストの危機管理ということになるはずだ。
危機管理に於ける最初の判断が結果に対して何ら影響を与えない場合がある以上、結果論からは決して判断の正当性を導くことはできない。人命救出に直接的に関わることができなかったことを考慮しても、考え得る人命救出の有効な判断を下さなくても、結果さえ良ければ判断を下さなかったことが全て正当化されることになる。
だが、安倍首相は全員救出は「そんなことはなかったわけでありますから」と、結果論を以って、帰国を遅くした自身の危機管理判断を正当化している。
危機管理というものに対する認識能力不足を物語ると言わざるを得ない。
だが、2月27日(2013年)午後参議院予算委員会での安倍首相の答弁は、一見、結果論から導き出した自身の危機管理判断の正当化のように見えるが、2月19日の答弁とは違って、外務省から邦人拘束の一報を受けた以降の自身の判断として答弁し、その判断を正当化しているはずだし、結果が判断に対応して位置する以上、そうでなければならない。
安倍首相「外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております」
要するに外務省から邦人拘束の一報を受けた以降、早々に外遊を切り上げて帰国しても、「事態は全く変わりはないだろう」と、外国訪問続行の危機管理判断をした。
勿論、この「事態」の中には邦人人質の安否、生命の行方も入っていることになる。
いわば外国訪問を続けても、邦人人質の安否、生命の行方も「全く変わりはないだろう」と判斷した。その判斷の結果としての外国訪問優先だった。
この優先判断は日本政府が人命救出に直接関わることはできない立場にあることを理由に置いているだろうが、だからと言って、外国訪問を優先させて、人質邦人の生命に関わる危機管理を後回しにすることが許されるだろうか。
人命救出に関与できるか否かに関わらず、例え帰国という手段を取らなくても、関与できる何らかの手段を創造し、最優先に行動するのが一国のリーダーとしての国民の生命・財産を守る国家危機管理であろう。
だが、そうなっていなかったことは安倍首相が1月16日日本時間16時半前後にハノイで事件の一報を受けてから、アルジェリアのセラル首相に電話して、日本政府が人命救出に直接関わることはできないながらも人命優先を訴えたのが約1日と8時間経過した、軍事的制圧作戦が開始後の1月18日日本時間0時30分のことである。
これが邦人人質の安否、生命の行方よりも外国訪問を優先させた結果の人命優先であった。
この人命優先の程度は人命優先がホンモノでないことの暴露以外の何ものでもないはずだ。
人命優先が真に生きづいた思想として安倍首相の血となり肉となっていたなら、日本から邦人拘束の一報を受けた直後にアルジェリアのセラル首相に電話して人命優先を訴えただろうし、その後直ちに帰国して対策本部に構え、人命優先の何らかの方法を見い出すべく陣頭指揮に当たったはずである。
いずれもそうはせずに、国会答弁で、「もしこれを例えば途中で、えー、(外国訪問を)切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから」と言い、「外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております」と言って、邦人人命に関わる自身の危機管理を正当化させた。
ここに国民の生命に関わる危機管理に果たすべき責任意識を認めることができるだろうか。
3月25日(2013年)放送あさひテレビ「ビートたけしTVタックル」に出演の体罰教師公立中学校教師金子毅の発言から、主としてその体罰に関わる認識を見、ついでに他の出演者の発言からも見てみる。
体罰教師と決めつけたのは、『体罰教師』の自著があるということと、発言自体が体罰容認となっているから、体罰教師なのだろう。
出演者の一人である、安倍内閣の教育再生実行会議を下村文科相と共に担当する文部科科学大臣政務官義家弘介の今年1月15日、大阪市教委を訪問後の発言。
義家「部活動内・特別活動内での(体罰の)定義を具体的に考えて、先ず線引きをしなければならないと思っている」
要するに許される体罰と許されない体罰の線引きを言っている。懲戒のための体罰なら許すべきだとする衝動を抱えているのだろう。
阿川佐和子司会「これはどういうことですか」
義家「これはですね、(桜宮の体罰自殺事件)非常に私は重く受け止めたのですが、今の体罰議論が出た中で、部活動指導している教師たちが、もう何が何だかやっていられないっていう声が凄く上がっているんですね
例えば、野球のある監督はキャッチャーっていうのは先ず球を恐がらないというところからやんなきゃいけない。だから、何度も何度も初心者の頃は球が身体に当ってアザもできると、それを繰返さないと試合の中で後ろに反れてしまうと。
じゃあ、それを練習が体罰だって言われるなら、キャッチャーを育てられない。元々学校教育法上は殴ったり、長期間苦痛を与えたりっていうのは禁止しているわけですが、それ以外の指導に於いて、こういうものは許されないんだと、指導の指針、ガイドラインといものを示さないと、逆に教師が萎縮してしまって、教師がまともな指導ができないという逆の状況が生まれている」
要するに義家は体罰に当たるか否かの指針、ガイドラインを示さなければならない一例としてキャッチャーの捕球技術の訓練を持ち出した。
いくらなんでもこの例を許すことによって、懲戒の体罰は許すべきだとすることはできないはずだ。
持ち出すについては監督自身が体罰に当たるだろうかとい疑念を持っていたからということになる。そして指針を示して貰わなければ、安心してキャッチャーの捕球技術の訓練もできないとうわけである。
義家も監督も、共々その認識能力には高いものがある。
キャッチャーの捕球技術訓練では監督なりが近い距離からキャーッチャーの手元でワンバウンドになるボールを真正面は勿論、座ってミットを構えている位置から飛びつかなければ捕球できないような位置に右に左にと思い切り投げて、顔を背けずにうまく捕球できるまでやらせる練習がある。
だが、身体に当たってアザができるとしたら、指導方法が悪いからだろう。一番怖いのは目の前でバウンドして顔に向かってくる真正面のワンバウンドだが、捕球の姿勢をぴょんと跳ねるようにしてそのまま左右に移動させて補給する位置のワンバウンドも同じく顔に向かってくることになるから、怖いが、怖さに耐えてボールから目を逸らさない、あるいは目がボールから逃げないというのが鉄則で、目を逸らさなかったり、目が逃げなかっりすることさえできれば、例え落球しても、ミットをボールに向かって差し出すことができ、ボールはほぼミットに当たるから、顔や体に当たることもないし、右手はボールがミットに収まったり、当たったりしてから、その瞬間にボールをこぼさないように押え込む後追いの形になるから、ボールが右手に当たって突き指をしたり、手の甲にあたってアザをこしらえるなどといったことは、余程慌ててさえいなければ、滅多にない。
大体がキャッチャーがポジションと決まっていたなら、そういった鉄則は弁えているはずで、あとは上達できるかどうかの問題が残るのみだろうから、それを過酷な肉体的捕球訓練を一定の長時間課すということなら、他に合理的な練習方法を知らないからではないのか。
あるいは捕球技術訓練のみならず耐久力をつける訓練でもあると言うなら、それが有効か無効かは別問題となる。以前一度ブログに取り上げたアメリカの女子アスリートの言葉を再び持ち出す。「日本の選手は若い頃から練習が過ぎて、選手生命を短くしてしまう」
過剰な体力の消耗・酷使に対する戒めであろう。科学的・合理的な体力の使い方が必要となる。
監督がこういった自覚を持って捕球訓練なり耐久力訓練なりを行なっていたなら、そういった「練習が体罰だって言われるなら、キャッチャーを育てられない」などと言うこと自体、その認識能力が疑われることになる。
阿川佐和子「(桜宮の)この事件が起こってから、今の義家さんの意見とか、どういうふうに受け止めてますか」
いよいよ体罰教師金子毅の登場である。白髪交じりの茶髪である。
金子毅「例えば雪山で遭難したときに、例えばテレビのドラマなんかで、(手で思い切り平手打ちするジェスチャー)コラッー(と大きな声を出して)、起きろと叩くじゃないですか。
ただこれが、先生と生徒だった場合、生徒がもし遭難して眠りそうだったら、コラー、起きろっと、こう来たときに(右手を叩く構えで大きく上に上げる)、これ、タイ、体罰(どっちか考える様子を顔に見せながら、振り上げた右手を左手で掴んで降ろす、周りの出演者が笑う。)・・・・?
こういうことになるんですよ、これぐらい体罰って言葉に萎縮してるんですよ。体罰はいかんから、一切やるなと言う。やらないという、ここに定まっちゃっている感じがする」――
生徒と教師が雪山で遭難して、生徒が疲れ、眠てしまいそうになる。教師が生徒の意識覚醒のために頬を殴って目を覚まそうとする。
目的は死なせてしまわないための生徒の意識覚醒であって、何か失敗したり、怠ったりしたことに対する懲戒を目的とした身体的強制力の行使ではない。、
このことを以って体罰なのか体罰ではないのかの判断の迷う例とし、教師が萎縮する例として持ち出す体罰教師金子の想像力は素晴らしい。
これで学校教師でございますと通っていて、テレビに出て発言するというのは驚きである。
阿川佐和子司会(苦笑いして)「遭難するっていうシチュエーションは・・・・・」
金子毅「ただ、ホントに体罰という言葉が先に一人歩きしていて、で、余計なことはしない方がいいっていうことに落ち着いているっていうことが現状にあります」
金子本人だけではなく、話に出した野球部の監督の認識力の程度が疑われる上に教師の多くが体罰問題に真正面から向き合わずに、事勿れな態度に落ち着いていると言うことなら、学校教師なる存在そのものの資質、使命感を考えなけれがならない。
江川達也(漫画家)「例えばマラソン十周でも体罰っていう人がいますね」
それが何か失敗したことに対する懲戒のための強制的な肉体的使役なら、役に立たない体罰であろう。失敗したことに対してなぜ失敗したのか、どうしたら失敗せずに済むか等々を教えることによって技術を学んでいくが、技術の学習とは無縁の場所の単なる肉体の酷使に過ぎない。
だが、江川達也はそんな認識もなく、表面的な把握でマラソン十周を把えている。
大竹まこと「曽野綾子さんて言う人が書いているんだけど、殴って良くなるなら、殴るだろうと。殴っても良くならないんだと。それが証拠にね、小説書いてきたヤツにね、殴ってその小説が良くなったわけないわけで」
江川達也「小説家っていうのは体力使うわけないじゃないですか」
この認識能力も素晴らしい。例え体力を使う部活部員に対する体罰であっても、体罰は部活動に於ける能力の何らかの機能不全に対する懲罰として行われるもので、その能力に体力が含まれるとしても、体力の機能不全が対象の体罰であって、体力そのものを対象としているわけではない。
当然、体力を使わない能力であってもその能力が顧問の期待に外れる何らかの機能不全を起こした場合の体罰も存在することになる。
もし江川達也が言っているように体罰が体力を使う者のみを対象としているなら、生活指導の場での体罰は存在しないことになる。
果たしてこの男はテレビに出る資格があるのだろうか。
大竹まこと「それは例えばの例だけど。先ほど才能が体罰で花開くようなことを言ったけど、それはちょっと違うじゃないか」
江川達也「運動系は結構開くんじゃないですか。叩くじゃないですか。すると気合が入って、能力が上がるって言われていますからね」
叩かれて、それをキッカケとしてただ単に力を入れてプレーするようになるから、当座の動きは良くなるが、あくまでも叩かれたことを動機づけとした他者強制のプレーであって、そこには常に求められている科学的・合理的な運動理論を動機づけとして、自分から動くという主体的なプレーに対する部活顧問の期待は存在しないことになる。
いわば監督自身が科学的・合理的な運動理論を動機づけとした自分から動くという主体的なプレーを期待していないから、体罰によって動かすことになり、生徒の方はいつまで経っても科学的・合理的な運動理論を動機づけとした自分から動くという主体的なプレーを身につけないことになる。
結果、体罰の悪循環が続くことになる。体罰に依存した指導が延々と続くことになる。
叩く他者強制ではないが、司会の阿川佐和子が次に罵声を使った他者強制の象徴的な例を挙げる。
阿川佐和子「私、アトランタオリンピックに取材に行ったときに、ある女子・・・、何とか何とかボールの競技(名前を出したら差し障るということで、伏せたのだろう)、があった。競技前の練習を各国チームが時間を区切って何時から何時まではドイツと。何時から何時までフランスみたいなことやって、そこに日本のチームもやってきたんですけどね、他の国は選手同士が自分たちでバアーッとやっている。だけど、日本のチームだけ、『それ、捕れないのか、走れっ』、えっ、男の監督が怒鳴って、(若い女の声を出して)ハイ、ハイ、ってやって、日本てどうしてこんなんなの、っていうか――」
要するに外国のチームは選手たちが自主的・主体的に練習していた。日本のチームは自主的・主体的な練習ではなく、監督の怒鳴り声に従った、他者強制の練習を行なっていた。
日本人の行動様式である権威主義自体が上が下を従わせ、下が上に従う他者強制の構造を取っている。この構造を受け継いで、暗記教育にしても、教師による他者強制の構造に則ることになる。ここには自分から学ぶという自主性・主体性の力学は存在しない。
そのような自主性・主体性の学びは個々の生徒に任されている。親に教えられるか、自分で知らずに学ぶかいずれかだろう。
安倍晋三を始め、保守政治家の多くは家庭教育が教育の基本だというが、日本の暗記教育が自分から学ぶという自主性・主体性のプロセスを省いていて、自主性・主体性を知らないままの状態で社会に送り出し、親となる再生産を延々と繰返しているのである。
当然、家庭が自主性・主体性を学ばせる教育の基本的礎を担うことができるはずはない。暗記教育をやめて、考える教育に変えて初めて、考える人間を社会に送り出すことができ、家庭がそのような教育を担う出発点となり得る。
陰山大阪府教育委員会委員長「体罰って言うものをある程度可というものをやると、やはりね、本当にやっちゃう先生が出てくるんですよ」
金子毅「そういうものがあって、問題なのは確かなんです」
陰山大阪府教育委員会委員長「だから、僕ら、大阪府の教育委員会やってますが、一つの大きな仕事が先生方を懲戒処分にしているんだけど(手で首を切るジェスチャー)、これはね、徹底して体罰の問題を私たちが教育委員になってから、最初からやてきたんですよ」
言っていることは学校の教師管理・指導能力、自分たち教育委員会の学校管理・指導能力が無力だということに過ぎない。体罰を行ったり、不祥事を起こしたりする教師を探し出して懲罰を与えるのは、力を入れさえすれば、より容易な方法であろう。だが、前以て管理・指導をしっかりして、不適格教員を出さないことはより難しく、偏に学校や教育委員会の管理・指導能力にかかっている。
だが、的確に管理・指導能力を機能させることができず、やっていることは不適格教員を探し出すことに力を入れているということである。
いわば陰山は自分たちの無能を言ったに過ぎない。
橋下徹が大阪府知事のときに陰山を大阪府教育委員の委員に招き、その後教育委員会委員長となったことは以前ブログに書いた。橋下はテレビ出演で有名になった。陰山も百ます計算とか、テレビで取り上げられて有名となった。だから優秀と評価して委員に招いたとしたなら、陰山の認識能力がこの程度なのも理解できる。
金子毅「そこが問題なんですよ。ちょっとした体罰でも、懲戒問題にしている」
陰山大阪府教育委員会委員長「ちょっと(した体罰)じゃない」
金子毅「例えばね、その問題が、体罰問題が出てきてから、あの桜宮高校は暴力ですよ。飛んでもない話ですが、その後、例えば甲子園に行ったことがある、ある公立の高校の話ですがね、その高校の先生がミーティングをしている間に生徒がトランプをやった。
これで体罰、平手打ちを一回やった。ということで、非常に大問題になった。新聞に出て、その先生は指導できなくなりましたよ。こんな下らないことだけが、新聞に取り上げられて、体罰の事件だとして、問題にされるってことに、非常に異常な問題だと――」
以後、保護者の問題に映る。
金子の認識能力は、先程陰山が言ったことが自分たちの管理・指導能力の問題だと気づかなかったように、野球部監督の生徒に対する管理・指導の問題だと把えるだけの目を持つことができず、単なる懲戒に過ぎないのに体罰にされた問題として取り上げているのみである。
「その高校の先生がミーティングをしている間に生徒がトランプをやった」と言っている。
何とも大胆不敵な行為である。と言うよりもミーティングをしている最中に生徒にトランプ遊びをされる監督の管理・指導能力の問題であるはずだ。
部員が50人とかそれ以上だと、ミーティングは教室か、背中の間仕切りの壁が折り畳み開閉式になっていて二つの教室を一つにできるような教室が必要になる。
椅子に座ってミーティングを行うことになり、前の部員の背中に隠れて隣の生徒と机に札を広げて堂々とトランプができないことはない。そういった状況下で偶然見つけて、何をふざけてんだとばかりに体罰を振るったということも考えることができる。
だとしても、ミーティングはグラウンドでの実際の練習に劣らない、チームプレーの在り様や個々の技術に関わる重要な知識・情報共有の場である。当然、顧問の話す言葉や部員が顧問の質問に答える言葉に聞き耳を立てていなければならない。それをトランプをしていたということは顧問がミーティングを重要な知識・情報共有の場、知識・情報共有の大事な機会にまで高める技術に関わる知識・情報を持っていないことが考えられる。
そういうことであれば、当然監督の管理・指導の質の問題となる。
例えば元日本代表サッカーチームの監督オシムはサッカーに関わるその発言が深い技術論となっていただけではなく、独特の味わ深い含蓄ある精神論にもなっていて、マスコミは試合や練習の感想を述べるオシムの記者会見があった当日、当日で間に合わなければ翌日、必ずそのオシム発言を“オシム語録”の一つとして伝え、多くの人が興味を持って接した。
彼がミーティングをやれば、選手はきっと目をオシムに注視させ、聞き耳をたてて一言も聞き漏らすまいと、その意味を読み取ろうとしたはずだ。
各選手がその技術論・精神論を実際のプレーで表現するには努力と時間を要しただろうが、知識・情報を共有しようとする意志は高いものがあったはずだ。
だが、件の野球部はミーテ-ングの最中にトランプをしていた。問題が部員にあるよりも知識・情報の共有の場・共有の機会とし得ない監督の方に問題があるようにしか見えない。
要するにその日の試合や練習で見い出した問題点を指摘して意見を言い、生徒にも意見を求める類いのミーティングではなく、ここはああしろ、あの場面はああしろ、こうしろといった動きを伝えるだけで、あるべき技術まで伝えて指導する能力がなかったから、生徒の方も聞き飽きたこととしてトランプで退屈な時間を潰したと言うことではないのか。
よくある例だが、監督が何か用事があって、先にミーティングを指示していて、後から顔を出したら、言われたことをちゃんとしていなくて、トランプをしていたという場合を考えてみる。
生徒に主体性がないことになるが、やはり監督が主体性を育てるだけの管理・指導能力の問題となる。
暗記教育のように教師が教えることを生徒が受け止め、暗記していく受け身の形の教育に慣らされていて、その構造どおりに監督がそこに存在して、あれこれ言わなければ自分たちでミーティングを成り立たせることができなければ、つまり監督が、ああしろ、こうしろと動きを伝えることで初めてミーティングが成り立つ他者強制の構造となっていたとしたら、監督が用事を済ませて顔を出すまでの不在の状況で何もできないとしても不思議はないし、トランプをしていてもある意味当然と言うことができる。
要するに部員は監督が不在でも自分たちでその日の練習での問題点を見い出して、あるべきプレーの姿、技術の押さえどころ等を相互に議論し、結論を有効な知識・情報として共有していく場とも機会ともすることができない状況にあった。
その原因は偏に自分たちでは何もできない、監督が指示して初めてできるという他者強制の裏返しとなる主体性の不在であろう。
主体性の不在は日常普段の授業で飼い主が犬に時間通りに餌を与え、犬が与えられた餌を腹の中に収めるように教師がテストの点を上げるだけの知識を生徒に与え、生徒はその知識を頭の中に入れて暗記する主体性を省いた従属的な日本の教育構造も問題だが、監督自体が何ら育てることができていない結果の部員の主体性の不在であろう。
監督が怒鳴ったり体罰で部員を動かすのは自分で考えて主体的に動くのとは似ても似つかない、その正反対の怒鳴り声や体罰に従属させているだけのことで、逆に主体性を頭から抑える他者強制の構造を取ることになる。
例え体罰や罵声でいい成績を上げたとしても、部員個々の主体性とは無縁の場所にある成績であることに変りはない。
やはり監督の管理・指導能力の問題に行き着く。
だが、この点を把えて発言する出演者は一人としていなかった。体罰か懲戒か、その線引きに拘っていた。それが教師を萎縮から解放する最善の方策だとばかりに。
本題に入る前に、昨日のブログで民主党が海江田万里を新代表に選出しても一向に政党支持率が改善しないばかりか、ジリ貧状態で、今夏の参院選の展望が開けない以上、離党した生きのいい植松恵美子女史に復党を願って、代表に据えるサプライズ人事を行ったなら、少しは展望が開けるのではないのかといったことを提案した。
海江田代表は参院選に破れたら2月24日の党大会で辞任する意向の発言を行なっている。
海江田代表「代表にしがみつく気は毛頭ない。刀折れ矢尽きたと思った時は潔く代表を辞める」(YOMIURI ONLINE)
だが、参院選で議席を減らしてからでは遅い。党勢回復はなお困難な状況に陥ることになるだろう。
自身の代表としての力量が先行き展望の改善に役立っているのか、刻々の世論調査に於ける政党支持率、参院選比例投票先支持率を見れば、十分に参院選投票結果は読めるはずだ。
それを読まずに、あるいは目を閉じて、結果を見ての進退としているところに判断の遅さがあるように思える。
勿論、歴代トップの失態が影響している苦境であって、海江田代表一人に罪がなくても、現時点での代表である以上、力量を見極める責任をも負っているはずだ。
自らの力量を見極めることができずに延々と権力の座にしがみついて不評を買った菅を見習うべきだろう。
植松民主党代表提案のついでに生活の党の小沢代表が自らのカネに関わる国民の不信感を消滅させる起死回生の手を打つことができなければ、森ゆうこ議員に代表を譲ったらどうかと書いたが、起死回生の手とは生活の党がHPで提示している、「国民の生活を立て直す」とか、「原発ゼロで経済成長を実現する」、「安心・安全を実感できる社会を確立する」、「全員参加型社会を構築する」、「地域が主役の社会へ転換する」、「自立と共生の外交を展開する」といった抽象的、タテマエ的な誰もが言っているような題目ではなく、誰もが目に描くことができ、実現可能性を思わせるような具体性を持った国の形、社会の形を約束する個別ごとの政策の提示を指す。
個別ごとの政策でありながら、政策ごとに有機的な総合性が働き、全体として豊かな国家形成の政策となる優れた個別性を抱えた政策の提示である。
提示することによって、さすが小沢一郎だと国民を唸らせる以外に国民の不信感を消滅させる方法はないはずだ。
では、本題に入る。
2月7日(2013年)衆議院予算員会で前原民主党議員に、「二度目の総理になって靖国神社に参拝するつもりか」と質問され、次のように答弁している。
安倍首相「私の基本的な考え方として、国のために命をささげた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣において参拝できなかったことは、私自身は痛恨のきわみだった、このように思っております。
そして、今後、では、いつするのか、しないのかということについては、これは従来から申し上げているのでありますが、今の段階で行く、行かないということは差し控えたいと思います」――
参拝時期の言及は差し控えたいとする発言は以後のブログ記事に譲ることにして、参拝正当化の理由の一つに、「各国のリーダーが行っていること」だとしていることをここでは取り上げる。
安倍晋三の頭にある「各国のリーダーが行っている」参拝とは特にアメリカのアーリントン墓地に対するアメリカ大統領や重要閣僚の参拝なのは2006年7月20日初版の自著『美しい国へ』の74ページ、ケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授の言葉を借りた記述が証明している。
ケビン・ドーク「米国のアーリントン国立墓地の一部には、奴隷制度を擁護した南軍将兵が埋葬されている。小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう。しかし、大統領も国民も大多数はそうは考えない。南軍将兵が不名誉な目的のための戦いで死んだとみなしながらも、彼らの霊は追悼に値すると考えるのだ。日本の政府や国民が不名誉なことをしたかもしれない人びとを含めて戦争犠牲者の先人に弔意を表すのは自然であろう」――
安倍晋三は一見尤もらしく聞こえ、説得力有りげに見えるこの言葉を以って靖国神社参拝正当性の根拠としているのだから、安倍晋三自身の考えとイコールとなっているということであり、言葉の論理そのものを受け入れていることになって、論理に何ら疑いを差し挟んでいないことにもなる。
そして安倍首相は日本時間2月22日訪米、日本時間23日未明のオバマ大統領との会談に先立ち、ワシントン郊外のアーリントン国立墓地を訪れて無名戦士の墓に献花した。
ワシントンを訪れた日本の首相はアーリントン墓地に献花するのが慣例となっているということだが、他の首相もそうかもしれないが、特に安倍首相からしたら、靖国参拝もアーリントン墓地参拝も同次元のこととしている関係上、首相の靖国参拝正当化の意味を持たせたアーリントン墓地参拝・献花であるはずである。
「大統領たちも同じようにこのように参拝しているのだから、なぜ靖国参拝だけがいけないのか。なぜ日米の戦死者を差別するのか」という思いがあるに違いない。
だが、その思いは戦前の日本という国家の内容・姿を問わない無定見によって成り立たせた正当化に過ぎない。
先ず、安倍晋三が靖国参拝正当化の根拠の一つとしているケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授の言葉を見てみる。「米国のアーリントン国立墓地の一部には、奴隷制度を擁護した南軍将兵が埋葬されている。小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう。」と言っているが、当時から奴隷制度は南部に特有な制度であって、北部が一切関わりを持たなかった制度であるというふうに南部と北部の境界線で画然と区切られていた奴隷制度であったわけではないはずだ。
いわば北部も制度としていた奴隷制度であるということであって、南部一人を悪者にしていい奴隷制度ではない。
「Wikipedia」によると、〈黒人の95%は南部に住んでおり、南部の人口に対しては3分の1に達していたのに対して北部に於ける黒人の人口比率は1%に過ぎなかった。 〉と書いているが、南北戦争開戦の時点で南部の人口は約900万人、内黒人奴隷人口は約400万人、北部の人口は約2200万、内黒人の人口比率は1%に過ぎないと書いてはいるものの、南部の400万人に対して220万人は存在し、全部が全部黒人奴隷ではないにしても 決して少なくない黒人奴隷を利用し、搾取していたはずである。
どちらが時間的にも精神的にも肉体的にも過酷な状況で利用していたのかの問題は残るとしても、南部よりも圧倒的に数が少ないから、その分罪が軽いとすることはできない問題であって、奴隷制度自体を存続させ、黒人奴隷を白人の所有物とし、その人権を抑圧・制限していたという点に於いて同罪と見なければならないはずだ。少なくとも南部・北部の問題ではなく、アメリカ全体の問題であり、アメリカ人全体の問題として横たわっていたと見るべきだろう。
また南北戦争の発端が南部各州奴隷制度擁護対北部各州奴隷解放意志の対立の決着にあったとしても、「Wikipedia」は、奴隷制度が社会的な悪であり、行く行くは廃止すべきという考え方が広まったのは、イギリス本国との独立戦争(1775年4月19日~1783年9月3日)の間だと解説していることからすると、独立戦争当時から湧き上がった奴隷制度を社会的悪とする北部の意識が決着を見るのは独立戦争終結後から78年後の1861年からの南北戦争終結の1865年まで待たなければならなかった。
その間に1863年1月1日のリンカーンの奴隷解放宣言署名があるが、奴隷制度の実質的廃止は南北戦争終結の1865年であろう。
いわば北部は南北戦争終結の1865年に南部の奴隷制度廃止に決着をつけただけではなく、と同時に北部の奴隷制度にも決着をつけたのである。黒人奴隷制度という点に関して、北部・南部の産業構造の違いから独立戦争当時から北部は改め始めたとしても、初期的、あるいは中期的には同罪であったと言うべきだろう。
だとすると、米国大統領の国立墓地参拝は奴隷制度に同罪という点で北軍と南軍を分ける理由を失い、過去の黒人奴隷制度を反省材料として北軍・南軍将兵戦死者を同等に追悼してもいいわけで、何ら問題はなく、「小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう」は理屈に合わないことになり、安倍晋三が理屈に合うこととしていること自体、頭のごく悪いトンチキ・粗雑な歴史認識と言わざるを得ない。
勿論、ケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授にしてもアメリカ人でありながら、南北戦争を例に取って靖国神社参拝とアーリントン墓地参拝を同等視する歴史認識は粗雑そのものである。
次に南北戦争は英語で「American Civil War」と表記するそうで、内戦(= Civil War)として扱っている。
だが、日中戦争・太平洋戦争は八紘一宇・大東亜共栄圏の名の下に正当化していった外国に対する侵略戦争である。しかも当時日本は天皇主義・軍国主義体制下にあり、国民の自由――基本的人権や言論の自由等が制限されていた。
日本の対外的侵略戦争をアメリカの内戦である南北戦争と同一に扱い、当時の日本という国家の内容・姿を問わないまま「お国のために戦って命を捧げた」と追悼する参拝をアーリントン墓地の参拝と同等視する。あるいは同価値行動とする。
南軍兵士にしたって、「天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国のために戦ったのではない、同じに扱うなと苦情を言うだろう。
アーリントン墓地の参拝と比較しない靖国神社単体の参拝のみであっても、その参拝正当化は戦前の日本という国家の内容・姿を問わない無定見によって成り立たせた正当化に過ぎないと指摘することができる。
逆に「お国のために命を捧げた」とすることによって、命を捧げた対象である戦前の日本という国家の内容・姿――軍国主義国家・天皇主義国家を正当化しているのであるし、正当化することができる。
いわば戦死者の戦争行為を否定した場合、国家の戦争行為も否定することになることからの戦死者を正当化することによる国家の正当化ということであろう。
暴力団という組織のために生命(いのち)を投げ捨てたと形容することさえできる日本の戦前の国家の内容・姿であったはずだ。
安倍晋三は戦前の日本という国家の内容・姿を問わない参拝となっているばかりか、靖国神社とアーリントン墓地を一緒くたにして靖国参拝を正当化するトンチキ・粗雑な歴史認識に支配されている。
何という頭の悪さだろうか。
訪米した安倍首相が日米首脳会談後、日本時間の2月23日(2013年)朝早く、戦略国際問題研究所(CSIS)で、有識者や企業関係者など約200人を前に、「日本は戻ってきました」と題する講演を英語で行ったという。 『日本は戻ってきました』(首相官邸HP/2013年2月22日)
最初、題名を聞いただけで、日本がアメリカに喜び勇んで戻ってきたという意味なのかと誤解して、何という対米奴隷意識なのだろうと思ったが、首相官邸HPの記事を読んでみて、「日本は戻ってきました」とは、かつての国力が築いた国際間の地位ある日本に戻ってきたという意味だと気づいた。
だが、厳密にはそういった地位に戻ってはいない。戻るには様々な前途多難が待ち構えている。にも関わらず、「日本は戻ります」ではなく、「戻って来ました」と完了形とするのは相変わらず客観的認識能力を欠いているからだろう。
講演内容を仔細に点検してみると、強気な発言、強気な姿勢は相変わらずだが、客観的認識能力を欠いた発言を随所に見ることになる。
客観的認識能力を欠いた強気発言というのはまさに矛盾そのものである。
戦略国際問題研究所(CSIS)での政策スピーチ
内閣総理大臣 安倍晋三
ハムレさん、ご親切な紹介ありがとうございます。アーミテージさん、ありがとうございます。グリーンさんもありがとうございました。そして皆さんがた本日は、おいでくださいましてありがとうございます。
昨年、リチャード・アーミテージ、ジョゼフ・ナイ、マイケル・グリーンやほかのいろんな人たちが、日本についての報告を出しました。そこで彼らが問うたのは、日本はもしかして、二級国家になってしまうのだろうかということでした。
アーミテージさん、わたしからお答えします。日本は今も、これからも、二級国家にはなりません。それが、ここでわたしがいちばん言いたかったことであります。繰り返して申します。わたくしは、カムバックをいたしました。日本も、そうでなくてはなりません。
総理の職を離れて、5年という長い年月を送りました。それは、わたしにとって省察の時となりました。何はともあれ、これからの日本はどこに立つべきか、ということについてであります。あれこれが、果たして日本にはできるだろうかとは考えませんでした。何を、日本はなし続けねばならないかに、関心が向くのが常でした。そのような場合、変わらず胸中にありましたのは、次の3つの課題であります。
いまやアジア・太平洋地域、インド・太平洋地域は、ますますもって豊かになりつつあります。そこにおける日本とは、ルールのプロモーターとして主導的な地位にあらねばなりません。ここで言いますルールとは、貿易、投資、知的財産権、労働や環境を律するルールのことです。
支えたものとは、いうまでもなく、われわれの間にある同盟であります。アジアが復興を遂げつつある時ぞ今、日本はわれわれに共通のルールと価値を増進し、コモンズを守り、地域の栄えゆく国々と歩みをともにして伸びていくため、より一層の責任を負わねばならないのです。経済的不調との戦いに、かまけているゆとりなどありはしないのです。
わたしはまた胸中に地球を思い描き、テロとの戦いにおいて、日本は頼りになるパートナーでなくてはならないと思いました。決意は、アルジェリアで10人の日本人、3人のアメリカ人エンジニアが殺されたいま、より強いものとなっています。
世界はなお日本を待っていると、わたしはそう思いました。人権の伸長において、貧困、病との、地球温暖化やもろもろとの戦いにおいてです。だからこそ、ご列席のみなさん、わたくしは再び総理になろうといたしました。だからこそ、わたしは強い決意をもって、日本経済を建て直そうとしているのであります。
いましがたわたくしは、アジアが長足の進歩を遂げつつあると申しました。が、ただひとつ、例外があると付け加えるべきでした。その例外とは、もちろん北朝鮮です。
彼らが核実験に及んだのを受け、わが政府は追加の制裁を平壌に対して課しました。核開発に向けた北朝鮮の野望は、容認されてはなりません。核開発、ミサイル技術開発をあきらめ、拉致したすべての日本国民を解放しない限り、わが政府は、およそ報奨めいたものを与えるわけにいきません。
本件は単なる地域的問題なのではありません。グローバルな懸念事項です。わが政権下、日本は米、韓、その他の諸国、そして国連と、倦むことなくともに働き、北朝鮮が野望を実現するのを阻まなくてはなりません。
わたしの上着の、襟がご覧になれますか。ブルーリボンのバッジをつけています。これには目的がありまして、来る日も来る日も、自分は、1970年代から80年代にかけ北朝鮮が拉致した日本人を取り返さなくてはならないということを、自分に思い出させるためであります。拉致された人たちの中には横田めぐみという少女、まだ13歳のいとけなさだった少女もおります。
日本とは、人権をどこまでも重んじる国として、強くあらねばならないゆえんであります。経済において強く、そして、国の守りにおいて強くなければならないのです。
申し上げます。日本もまた、厳しい財政制約の下にあります。けれども、わたくしは政府に命じ、国土防衛のため予算を増額するようにいたしました。長年月において初めてのことであります。
ですから本日は、この場で、リッチ、ジョン、マイクやお集まりのご友人、ご賓客のみなさんのもと、わたくしはひとつの誓いを立てようと思います。強い日本を、取り戻します。世界に、より一層の善をなすため、十分に強い日本を取り戻そうとしているのです。
わたくしは、なさねばならない課題を現実とするべく、総理となる機会を選挙民に与えられました。わたくしはいま毎朝、大いなる責任の意識を重々しくも醒めて受けとめ、目を覚ますのであります。
いま、アベノミクスなるものがあります。わたしが造語したのではありません。つくったのはマーケットです。これは、3本の矢からなる私の経済活性化策のことを言います。日本では、デフレがかれこれ10年以上続いてきました。わたしのプラン、いわゆるアベノミクスとは、まずもってこのデフレを取り除くためのものであります。
プランは実のところ、幸先のよいスタートを切りました。最初の矢といたしまして、わたしは日銀を促し、いままで彼らができないと思っていた次元の仕事をさせました。内外の投資家は、これで日本株を買い始めました。輸出が増えるとともに日本産業が円滑な回転をするようになり、東京の株式指標は上昇しました。
第二の矢とは、大規模な補正予算を実施することです。十分に大きなもので、日本経済を2パーセント押し上げ、60万の雇用をもたらすものとなるはずです。
第三が、成長戦略です。民間消費と民間投資は、予想していたより早く現れるでありましょう。いまのところ、経済指標はみな上向きです。
これらの施策に、かつて試みたものがあるのは確かです。しかしおずおずとでしたし、いかにも逐次的でした。わたしのプランにおいて、矢は3本とも強いです。速いですし、遅滞なく放たれています。じき、日本は輸出を増やしますが、輸入がそれに連れて増加します。米国は、そこに裨益する第一の国でしょうし、中国、インドやインドネシアが後に続くことでしょう。
しかし、話はそれで終わりではありません。もっと重大な課題が残っています。日本の生産性を向上させる課題であります。日本の経済構造を、作り直すという課題です。女性には、もっと多くの機会が与えられるべきです。預金が多いのは主に高齢層ですが、租税負担が重くならないかたちで、若い世代に譲り渡すことができなくてはなりません。わたくしの政府は、いままさにそれを実行しています。
結論へ移る前に、中国について少々申し上げ、日米関係をわたしなりにどう定義するかをお話させてください。
初めに尖閣から。尖閣諸島が日本の主権下にある領土だということは、歴史的にも、法的にも明らかです。煎じ詰めたところ、1895年から1971年までの間、日本の主権に対する挑戦など、誰からも出てきておりません。いまも、未来も、なんであれ挑戦を容認することなどできません。この点、わが国の決意に関し、どの国も判断ミスをすべきではありません。日米同盟の堅牢ぶりについて、誰も疑いを抱くべきではないということであります。
同時にわたくしは、エスカレートさせようとは露ほども思っておりません。それどころか、わたくしの政府は、日本と中国の人的交流のため、いままで以上の資金を投じようとしています。
わたくしの見るところ、日中関係は日本がもつ最も重要な間柄のひとつです。かつてわたしが命名した「戦略的互恵関係」の追求において、わたくしは、手を休めたことのない者であります。わたくしの側のドアは、中国指導者のため、常に開いているのです。
そこでようやく、日米の間にあるわたくしたちの繋がりについて一言申し述べることができます。
日米両国が地域と世界により一層の法の支配、より多くの民主主義、そして安全をもたらすことができるよう、さらには貧困を減らすため、日本は強くあり続けなくてはなりません。それが、第一の点です。
そこで、わたしは、防衛計画大綱の見直しに着手しました。防衛省予算は増額となります。それらすべては、いま申しましたような課題をなさんがためであります。
それにしても、素晴らしいことです。日本と米国の間に築かれた紐帯は、良き日も悪しき日もしのいで今日に至りました。米国史全体の、4分の1を上回る長きにわたって、継続してきたのであります。
けれどもそれは、驚くに値しないことです。米国は、世界最古にして最大の、海洋民主主義国、そして日本は、アジアで最も経験豊かで、最も大きなリベラル・デモクラシーであって、やはり海洋国なのでありますから、両者はまことに自然な組み合わせなのです。
これまで長い間そうでしたし、これからも長の年月、そうであることでしょう。
いま、世界でいちばん大きなエマージング・マーケット(急激な成長段階にある新興国市場)は、ミドル・アメリカなんだと言う人がおります。ダコタとか、カロライナのことです。
そこで結論として、みなさんに申し上げたいのですが、わたくしの課題とは、未来を見つめていくこと、そして日本を、世界で2番目に大きなエマージング・マーケットにすることであります。地域と世界にとって、いままでにも増し頼りがいのあるパートナー国にすることなのです。
前に伸びる道は短いものでないことを、わたしは承知しています。しかし、いまわたくしは、日本をそうした国とするためにこそ、カムバックをしたわけであります。世界をよりよいものとするために、日本は一層の努力をしなくてはなりません。わたしもまた、目的実現のため懸命に働かなくてはならないのです。
みなさん、日本は戻ってきました。わたしの国を、頼りにし続てほしいと願うものです。
有難うございました。
安倍首相「いまやアジア・太平洋地域、インド・太平洋地域は、ますますもって豊かになりつつあります。そこに於ける日本とは、ルールのプロモーターとして主導的な地位にあらねばなりません。ここで言いますルールとは、貿易、投資、知的財産権、労働や環境を律するルールのことです」――
要するにアジア・太平洋地域、インド・太平洋地域に対する日本という国の現状に於ける役割の位置づけを「ルールのプロモーターとして主導的な地位」にあることに置いた。将来的な地位として言ったはずではないはずだ。
なかなかの自信たっぷりな強気の発言を行なっている。挑戦的姿勢とすら表現できる。
「プロモーター」とは、発起人、主催者、興行主等を意味する。いわばプロモーターとは一般的にはプレイヤーそのものではなく、プレイヤーの活躍の場を提供して利益を得る者の意となる。
「ルールのプロモーター」とはプレイヤーがプレイする場を提供すると同時にその場でのルールを決めるという意味であろう
いわば日本をプレイヤーの地位から外して、日本以外のプレイヤーである各国が「貿易」や「投資」、「知的財産権」、や「労働」、「環境」等々の各分野で活躍・取引するルール作りの主導的な役割を日本が担うと言っていることになる。
当然、この主張には問題があることになる。日本は「失われた10年」とか「失われた20年」と言われる国力低迷期にあるが、それでも今尚世界に於ける政治は兎も角、経済の有力なプレーヤーであるし、そもそもからして日本をプレイヤーから外しておいて、プロモーターだけの地位で国益を代表し得るかということである。
このような主張を矛盾の意識なく成り立たせることができるのは前々から指摘しているように安倍首相自身が客観的認識能力を欠いていることに原因を置かなければ説明はつかない。
日本を「ルールのプロモーター」とすることの客観的認識性の欠如の一つの例は簡単に見つけることができる。
TPPのルールづくりに於いてアメリカ主導となっていて、日本が交渉参加するにも、アメリカの一定の同意を得なければできないことである。そういった事実に反して「ルールのプロモーターとして主導的な地位にあらねばなりません」と挑戦的姿勢で言っていることの矛盾は客観的認識能力を欠かずに成り立たせ不可能であるはずだ。
当然この矛盾と客観的認識能力の欠如は安倍首相の強気の発言、挑戦的姿勢をニセモノとすることになる。
国家間の外交及び取引は国益獲得の闘争であると同時に利益相互補完関係にある。国益追求を前提としながらも、特定の国の一国勝ちは許されないルールが暗黙のうちに成り立っている。
当然ルール作りに於いても、相互補完の関係を無視することはできないのだから、公の場で、特定の交渉に限定した特定の国の主導的役割に関わる言及ならまだしも、貿易・投資・知的財産権・労働・環境等々全般に亘って「主導的な地位」を築く決意を宣言したのだから、客観的認識能力を欠いているということだけでは済まない、国際間の利益相互補完関係を無視した思い上がりとしか言いようがない。
戦前の国家主義に取り憑かれている安倍晋三である。国際間の利益相互補完関係を無視したこのような客観的認識能力ゼロの思い上がりは戦前の大東亜共栄圏思想・八紘一宇思想が日本一国主義で成り立たせ、国際間の利益相互補完関係を無視していたことから、大東亜共栄圏思想・八紘一宇思想への思いに立った「主導的な地位」願望と読み解かないことには整合性ある答を見い出し難い。
日本が強力なプレーヤーの一員であることの資格を取り戻すことによって、国際間の利益相互補完関係の中にあっても、「ルールのプロモーター」としてもそれ相応の影響力を発揮することができるはずだし、そのような論理を踏むことによって、客観的認識性の欠如や矛盾を回避することができるはずである。
国際間の利益相互補完関係性は引き続いての発言が証明している。
安倍首相「第三に、わが国は米国はじめ、韓国、豪州など、志を同じくする一円の民主主義各国と、いままで以上に力を合わせなくてはなりません」――
例え中国とは民主主義や人権、法に関して価値感を共有していなくても、日中間の政治や経済に関わる利益相互補完関係は無視できないだろう。
日本は所詮、各国と協力し合わなければ、国益獲得に於いてもルール作りに於いてもままならない立場にあるということである。安倍晋三の金融緩和策一つとっても、アメリカやヨーロッパ諸国の承認を得なければならなかった。
こういった客観的事実を無視して、日本を「ルールのプロモーターとして主導的な地位」に位置づけることができる。まさしく客観的判断能力を欠いた思い上がりとしか言いようがない。
「プロモーター」には「人体に有害な化学物質のうち、傷ついたDNAの修復を妨害して発がんに導く物質」という意味もあるという。
客観的判断能力を欠いているだけではなく、思い上がっているとしたら、正常な組織を破壊していくガンと見做されない保証はなくなる。
安倍首相「(日本は)ルールの増進者であって、コモンズの守護者、そして米国など民主主義諸国にとって力を発揮できる同盟相手であり、仲間である国。これらはすべて、日本が満たさなくてはならない役割なのです」――
この発言にも大きな矛盾がある。前段は「ルールの増進者」だ、「コモンズの守護者」だ、「米国など民主主義諸国にとって力を発揮できる同盟相手」だと、意気軒昂と日本を価値づけているが、後段は「これらはすべて、日本が満たさなくてはならない役割なのです」と、未だ満たしていない今後の目標だとして、前段の価値づけを成し遂げられていないものとして否定する矛盾を犯している。
このような矛盾を平気で犯すことができるのも客観的認識能力を欠いているからに他ならないからであろう。
安倍晋三は北朝鮮の拉致問題に言及、そして次のように発言している。
安倍首相「日本とは、人権をどこまでも重んじる国として、強くあらねばならないゆえんであります。経済において強く、そして、国の守りにおいて強くなければならないのです」――
北朝鮮の日本人拉致という人権抑圧だけが、「人権をどこまでも重んじる国として、強くあらねばならない」理由ではないはずだ。戦前の国家主義・軍国主義の時代の人権抑圧に対する反省とアメリカから与えられる形で民主主義と自由と基本的人権を獲得するに至った。
北朝鮮や中国、その他の国の人権抑圧や非民主主義、法の無視等を反面教師として日々思いを新たにする人権尊重とその他であるはずである。
それを北朝鮮の日本人拉致に限定して人権に言及するのは近視眼としか言いようがない。
安倍首相「わたくしは、なさねばならない課題を現実とするべく、総理となる機会を選挙民に与えられました」――
要するにこれまでの発言に反して、様々に指摘してきた事柄はすべて今後実現しなければならない課題だと自ら言っている。課題を実現して初めて、「日本は戻ってきました」と言うことができる。
だが、戻ることができるかどうか分からないうちに「日本は戻ってきました」と言うことができる。
安倍晋三の客観的判断能力はどうなっているのか、その脳ミソを否でも疑いたくなる。
次の発言も今後の課題、今後の目標とする文脈からの発言となる。
安倍首相「強い日本を、取り戻します。世界に、より一層の善をなすため、十分に強い日本を取り戻そうとしているのです」
現在はまだ「強い日本」にはなっていないということである。いくら安倍晋三が強い日本の復活に決意を持とうと、決意が結果を保証するわけではないから、日本を「ルールのプロモーターとして主導的な地位にあらねばなりません」と、現状の役割の位置づけとすることは明らかに矛盾することになる。
安倍首相「日本は輸出を増やしますが、輸入がそれに連れて増加します。米国は、そこに裨益する第一の国でしょうし、中国、インドやインドネシアが後に続くことでしょう」――
この発言は明らかに国際間の利益補完関係性への言及である。だが、すべての発言がこのような関係性の上に立った発言とはなっていないことも安倍晋三が客観的判断能力・客観的認識能力を欠いていることの有力な証拠となる。
結び。
安倍首相「みなさん、日本は戻ってきました。わたしの国を、頼りにし続てほしいと願うものです。
有難うございました」――
この発言は日本がアメリカに喜び勇んで戻ってきたという意味の対米奴隷意識を持った文脈に読み取れないことはない。
安倍晋三が「日本は戻ってきました」と何度言おうが、厳密には日本国内はまだ「戻ってき」ていない状況にある。だが、アメリカという外国の地で「日本は戻ってきました」と、日本の現実を無視したことを言う。明らかにこれは情報操作であろう。
安倍・オバマ首脳会談後の共同記者会見が開かれなかったのも「日本は戻ってきました」が現実となっていないことの一つの証拠となる。
かくかように客観的判断能力・客観的認識能力を欠いているばかりか、情報操作まで行う。
このことは国民に対する背信に当たるはずだ。
アベノミクスがこういった客観的判断能力・客観的認識能力の欠如で成り立っているとしたら、最終結果は国民に対する背信で終わる可能性も否定できない。
強気な発言も結構だが、もう少し謙虚な場所から始めた方がいい。強気の場所から出発したとしても、行動決定の基本となる認識能力が真ともであっても国内政治に於いても国際政治に於いても結果を出すことはそう簡単にはいかないところへもってきて、そもそもから肝心の認識能力を欠いていて、その強気自体が錯誤で成り立たせているのは見てきたように明らかなのだから、強気に反して結果がなかなか伴わなかった場合、錯誤だけが浮かび上がることとなって、その錯誤自体が国内政治ばかりか、国際関係の障害とならない保証はない。
今日3月23日深夜のあさひテレビ「朝まで生テレビ」で体罰問題を扱っていたから、何年ぶりかで途中から視聴した。なかなか面白い指摘があり、また基本的な誤解を犯していると思われる個所もあった。録画しておいたから、そのうちボチボチ取り上げてみようと思っている。 参議院予算委員会(2013年2月18日)
10年前だったら、1日ぐらいかけて、放送の最初から最後まで一気に文字に起こしたが、10年経った72歳の今日、そんな元気はない。取り敢えず今日は予定していた安倍晋三の体罰の認識を記事にしてみる。一国の首相の体罰認識は重要であるが、このことは最後にまわす。
2013年2月18日の参議院予算委員会で小野次郎みんなの党議員が体罰について安倍首相に質問した。
小野次郎「みんなの党の小野次郎です。安倍総理を、6年ぶりに総理としてお迎えをして質問することについて個人的には思いもありますけども、今日は安倍政権の隅々、コーナーを突いて、その存念をお伺いしたいと思いますので、ここからが純粋野党の質問時間ですから、是非、心してテキパキとお答えしていただければと思います。
先ず、あの、学校やスポーツの現場での体罰の問題について質問させて頂きます。私は二つの面からショックを受けました。それは最初報道されたものが氷山の一角に過ぎなくて、次々といろんな社会の隅々にまだ体罰があるということが一つ目のショック。
そして二つ目には、私はこれは抵抗できない立場の人間に対するパワハラであり、見せしめ、で有り、陰湿なイジメだと思ってますけれども、世の中には、この体罰を何か受容するかのようなコメントをする風土がある。これまた2つ目の大きなショックでありました。
未だに体罰が根性を鍛えるとか、日本の伝統だ、という観念は現在の国際社会で全く受け入れられるものではないし、日本社会から払拭しなければならないもんだと思います。
(下村文科相が席に座ったまま手を挙げる)下村大臣には適切にコメントしているのをテレビで見ておりますので、実は私の親族はかつて博文館に通っていられて、教育者としての大臣のコメントを敬意を持って聞いておりますが、今日は是非総理から、と言うのは、社会の隅々にそういうものが残っておりますから、是非、体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のものであり、絶対許されないとのだということを国民各位に改めて伝えていただきたいと思います」
※下村氏は早稲田大学教育学部に入学後、早稲田大学雄弁会に所属し、4年生の時、友人らと共に小学生対象の学習塾「博文館」を開設。「Wikipedia」
小野次郎議員の親族が博文館という学習塾に生徒として通っていて、そこで学習塾の先生をしていた下村博文の教えを受けていたということなのだろう。
安倍首相「只今小野議員の質問を拝聴しておりました。かつて小泉内閣の一員として私が副長官として、小野議員が総理秘書官、として一緒に汗を流させて頂いた日々のことを思い出していた、わけでありますが、この体罰、については、学校やスポーツ指導に於ける体罰は、断ち切らなければならない悪弊であると、そのことははっきりと申し上げておかなければならないと思います。
そして学校に於ける体罰については、教室内や部活動など、様々な場面に於いて、何が体罰として許されない行為か、についてはですね、認識されていないのは、事実で、あります。
えー、最初体罰というのは悪弊でありますから、断ち切っていく。今、小野議員が指摘されたように、それはもう日本の伝統なんだ、という考え方はですね、それは間違いであります。
このため、政府として体罰の考え方なり、具体的に示すことなどを通じて学校現場の過度な萎縮を招かないことにも配慮しながら、体罰禁止の趣旨の徹底を図っていきたいと、このように考えております」
小野次郎「総理がまた過度な萎縮など言い出すからですね、萎縮しないような遣り方があるのかみたいなに思うんで、スパっと体罰はいけないんですよと一言言って頂いた方がよく分かるかと思うのですが、それ以上のコメントないですか」
安倍首相「基本的には体罰はダメなんですね。これは。しかし、それは、その中に於いてですね、政治の意思の政策の方向性がですね、え、結果として混乱を招くこともあるのも事実、であって、教室での指導、えー、いわば教室の中でですね、クラスの一体性、あるいは授業を進める上に於いて、著しく進行を、まあ、乱す、児童がいたときの指導については様々な考えがあるんだろうと思いますよ。
また、あの部活動に於いて、部活動に於いて、例えば時間に遅れてきたから、部活動に於いてですね、じゃグラウンドを二周三周というのは、まあ、よくある、え、ことで(苦笑いしながら)ございますが、これをどう考えるかということについてはやっぱり様々な知見を集めていく、必要があるんだろうと、え、このように思います。
ですから、学校が混乱しないように正確な基準を示していくことが我々には求められているんだろうと思います。
繰り返しになりますが、基本的には勿論、この体罰、は、悪弊であり、これを断ち切っていく。え、断ち切っていく。混乱のないように断ち切っていく必要があるんだろうと、このように思っております」
小野次郎「今日はこの程度にして、次の質問に移らせて頂きたいと思います」
小野議員は、「体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のもの」と言い、安倍首相も日本の伝統・文化ではないと否定している。
但し体罰に関して小野次郎議員のように絶対反対ではなく、「クラスの一体性、あるいは授業を進める上に於いて、著しく進行を、まあ、乱す、児童がいたときの指導については様々な考えがあるんだろうと思いますよ」と言って、時と場合に応じた一定程度の身体的強制力を持たせた体罰の部分容認の姿勢を取っている。
この姿勢は橋下大阪市長の姿勢に通じる。
1月31日(2013年)定例会見――
橋下徹大阪市長(生活指導の現場での体罰について)「ある程度の有形力の行使を認めるか、それとも一切禁止の代わりに生徒を出席停止とするのか、どちらかの大きな方向性に行かないといけない」
二つの選択肢を示しているが、「ある程度の有形力の行使」を選択肢に入れている以上、体罰部分容認の衝動を持っていることに変りはない。
但し、部分容認の例として部活に遅れてきたからグランドを何周かさせる懲罰を上げて、肯定的な体罰とするところは相変わらず合理的認識能力を欠く判断となっている。
この場合の遅刻は通勤電車が急に停まったといった本人の不注意や怠惰からではない遅刻は除外する。
一般的には二、三周程度なら体罰にならないだろうが、逆に二、三周程度のグラウンド走行で遅刻の責任を果たすことができることになって、そのことがその部活に於ける遅刻に対する責任履行の基準となりかねない。
あるいは遅刻が続けば、二、三周が三、四周になるかもしれないが、例えそうなっても、続けて遅刻する方は続けた場合の基準だと本人も心得ることになるだろう。
いわばグランド走行を遅刻した場合の責任履行の基準としたなら、遅刻に関わる責任感の判断はグランド走行に向かって、部員それぞれが求められている部活動に必要な秩序に関わる責任感に対する肝心の判断が育たない恐れが生じる。
例えば日曜日の早朝から行われる部活で、なかなか布団から出ることができない、ええい、もう少し寝よう、遅刻してもグランドを二、三周すればいい、先週も遅れたから、三、四周になるかもしれないが、それで済むとすることになって、他の部員に迷惑を与えることの責任や自身が部活動で担っている責任は疎かになり、そのような疎かさは当然、責任を判断する力の疎かさにつながっていき、自分で責任を判断して行動することがいつまでもできないことになる。
責任感を自分で判断できない人間は部活動に於いても教師の指示に従う動きはできるだろうが、教師の指示によって馴らされていたのとは異なる、咄嗟に臨機応変の動きを求められた場合、自分で判断する力が育っていないから、臨機応変に応じたプレーは満足にできないことになるだろう。
プレーに失敗した場合、部活顧問は遅刻のときはグラウンド二、三周の走行で済ませていたが、カッとなって殴るか罵声を浴びさせる体罰に走る確率は高い。
なぜなら、部活顧問は部員の遅刻でさえ、その責任を部員自身に判断させるだけの自らの判断能力を備えていなかったのである。あるいは部員自身に判断させる習慣をつけさせる判断能力を発揮し得なかったのである。
判断の構築は深く言葉の構築にかかっている以上、部活顧問は部員に責任感を植えつける言葉を満足に持たなかったことになり、この言葉の不在に対応して部員も自らの果たすべき責任に関わる言葉を育て得なかった。
当然、部活顧問が言葉を持たない以上、その場でプレーの失敗に対する懲罰を与えようとしたら、何らかの体罰以外にないはずだ。
安倍晋三は部活顧問や部員の判断する力・考える力、あるいは言葉の能力を問題視せずに、「学校やスポーツ指導に於ける体罰は、断ち切らなければならない悪弊である」などと言っているのだから、表面的に把えただけの「悪弊」としか思えない。
小野議員は、「体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のもの」と言い、判断能力ゼロの安倍晋三は「それはもう日本の伝統なんだ、という考え方はですね、それは間違いであります」と断言しているが、私自身は体罰は日本の歴史であり・伝統であり・文化だと固く信じている。
封建時代の詰め腹を切らせる形の切腹は究極の体罰であるはずだ。家来に切腹させて、殿様の体面やお家の体面を守った。
あるいは取調べの役人が犯罪容疑者に対して膝の上に重たい石を乗せて苦痛を与えたり、竹刀や木刀で叩いたり、寒い冬に水攻めの苦痛を与えたりする拷問も体罰に入るはずだ。
戦前、親は自分の子どもを簡単に殴った。殴って言うことを聞かせた。教師は児童・生徒を簡単に殴った。殴って言うことを聞かせた。軍隊では古参兵が新兵を根性を入れると言って簡単に殴った。新兵が古参兵になると、次なる新兵に対して、同じく根性を入れると称して簡単に殴った。
警察も取調べで自白させるために容疑者を簡単に殴った。冤罪など、ゴロゴロと転がっていたはずだ。
戦後、大日本帝国軍隊は消滅したが、親が子どもを殴る体罰、教師が生徒を殴る体罰、警察が取り調べで容疑者を殴る体罰は戦後も続き、現在も問題となっている。
取調べの可視化が問題になるのは単に威し言葉で供述を強要したりするだけではなく、何らかの暴力行為が未だ存在することも理由となっているはずだ。
以上を以て体罰が日本の歴史・伝統・文化ではないと誰が言うことができるだろうか。
いわば体罰という行動性は日本人の精神や血に深く巣食っていたのであり、現在の民主主義の人権尊重の時代に於いて、少なからず巣食っていることになる。
このことは、かねてから言っているように日本人自身の行動様式・思考様式としている日本的な権威主義に拠る。
勿論、外国にも権威主義者が存在する。その典型例として白人至上主義団体のクー・クラックス・クラン(KKK)を挙げることにしている。
白人を絶対的存在、絶対的正義の存在とし、有色人種を蔑視すべき価値なき存在として下に見る人種観に立っている。人種単位で上下の価値観で価値づけているから、人種から離れてそれぞれを相互に自立した個の存在と見做すことができない。当然、自分たちも個の人間として自立した存在とはなっていないことになる。
日本の場合は上の立場の人間を絶対とし、その絶対性を以って下の人間を従わせる権威主義性を戦前程色濃くはないにしても、戦後もかなり残している。
戦後の権威主義と区別して、戦前の権威主義を威嚇権威主義と名付けている。天皇の絶対性、軍人の絶対性、警察官の絶対性、父親の絶対性は威嚇性を体現していたはずだ。怖いから従った。
戦前の教師の権威主義も同じように威嚇性を備えていて、児童・生徒は面白くない授業でも体罰が怖いからじっと我慢をして教室におとなしく座っていた。
当然、日本人は時代を遡るに連れ、上に従う存在となっていて、自立した存在ではなく、戦後から現在に至るに連れて個人でいるときは自立した存在になり得ても、対人関係に於いて上下関係を未だに引きずり、必ずしも個人として自立した存在とはなり切れていない。
だから、学校で体罰やいじめが起きても、校長が隠す態度を取ると、上に引きずられて止む無く隠蔽に協力するといったことが起きる。
自立するためには上の立場の人間の判断、その言葉、あるいは力ある者の判断、その言葉にただ従うのではなく、個としての判断、個としての言葉を持って、どちらが正当かの決定を行わなければならない。
最初に体罰問題を取り上げたあさひテレビの「朝まで生テレビ」に触れたが、番組冒頭で安倍首相が1月24日の「教育再生実行会議」初会合で次のように発言している場面を流していた。
安倍晋三「教育は経済再生と並んで日本国の最重要課題であります」
一国の首相が体罰は日本の伝統ではないとする立場を取った場合、「教育再生実行会議」委員、あるいは委員ではなくても会議外の他の誰かが日本の伝統だとする立場を取ったとしても、首相に遠慮して、体罰は日本の伝統ではないとする認識で一致させ、そこから問題解決に進む可能性も否定できない。
当然、認識の見当違いは問題解決の方向性を違えたり、あるいは表面的な解決で終らせかねないことになる。
一国の首相の体罰認識が正確であることの重要性がここにある。
だが、安倍晋三は元々が合理的判断能力ゼロなのだから、認識の正確性を期待しても始まらないのかもしれない。
今朝(2013年2月22日)の報道で、民主党の川崎稔(佐賀選挙区)と植松恵美子(香川選挙区)の両参院議員が21日、離党する意向を固め、22日に離党届を提出すると伝えていた。男の方はどうでもいいが、女性の動向は気になる。
二人とも安倍政権の12年度補正予算案に賛成する意向だそうだ。
植松恵美子女史「地方のために党議拘束を離れて自由に行動したい」(毎日jp)
植松議員は2月18日の参院予算委で安倍政権の経済政策――公共事業や金融政策を批判していた。
植松議員「(中低所得者の)生活の負担無くしてこのインフレターゲット2%はなかなか達成できないのではないか」
要するに安倍首相以下の政権側の答弁に納得して、地方の利益となると補正予算案に賛成するということなのだろう。但し私自身は安倍政権が目指す公共事業についての安倍首相や麻生財務相、太田国交相の答弁から、戦略性の無さを逆に感じた。
成長戦略の策定はこれからだが、公共事業に対する戦略性を欠いた姿勢から判断して、同じく戦略性を欠いた成長戦略となる可能性は高い。
では、デフレ脱却や公共事業を含めた日本の成長戦略にはどのような戦略性が必要なのだろうか。
基本的には日本の全体的な国力を弱めている中央と地方の格差、そのことによる地方の衰退、社会的上層と下層との間の所得の格差や正規社員と非正規社員との間の収入格差、そういったことによる下層生活者の貧困と疲弊等々を可能な限り是正して格差を受けている側の底上げを図ることで日本全体の国力強固を展望した戦略性に立った各政策の策定でなければならないはずだ。
上だけが富み、下が取り残されたままでは真に強い国家とは言えない。
逆説するなら、円安株高のもとアベノミクスが成功して、大企業が戦後最高益を得た、日本の経済力を高めることができた、その一方で中央と地方の格差とその格差を受けた地方の衰退は相変わらずで、社会的上層と下層との間の所得の格差もさして変わらないまま、下層生活者の貧困と疲弊も以前通りと言うことなら、経済的頭でっかちの日本を再現させたというだけのことで、日本全体の国力は偏ったものとなり、真の強い日本を実現させたとは言えず、成長戦略の意味を半ば、あるいは半ば以上失うことになる。
となると、経済政策の核心的な戦略的テーマは、中央と地方の格差の是正と地方の衰退からの回復、社会的各階層に於ける各種経済格差・収入格差の是正等による社会的下層の生活の底上げ等を包括的に視野に収めた日本国力の全体的な発展でなければならないはずだ。
またこうした上下の離間・格差を縮小することによって、生活に良好な環境が獲得可能となり、自殺者の減少や少子高齢化解決の糸口となっていくと思う。
だが、残念ながら、安倍首相とそれ以下の閣僚の国会質疑に於いて上記テーマに添った答弁とはなっていなかった。
勿論、これは私自身のみの見解であるかも知れない。植松恵美子議員が安倍政権の補正予算案に賛成する以上、日本再生の戦略性を十分に備えた経済政策が予算案に込められていると見ただろうからで、私自身の見解とは正反対であることからも分かるように彼女の方が正しい見解なのかもしれない。
2013年2月18日午後参議院予算委員会
植松恵美子「私はですね、与党を経験した野党で、また、そちらは野党を経験した与党でございます。今後日本の政治はですね、発展するためであったら、お互いに非難して足を引っ張り合っていても、(思わず苦笑いをこぼしながら)しようがないと思ってるんですよ。
国が私たち、政治家ですから、国の発展のためになるならば、例え前政権であろうtが、前々政権であろうが、いいものは引き継いで頂きたい。この思いがありますから、私も、それだったら協力してもいいと思っておりますので、あの、そういう気持で今日は質問に立たせて頂いております。
で、引き続いて財政政策について伺いたいと思っております。今回の補正予算の10・3兆円のうち、約半分の5兆円が公共事業に予算措置をされています。
確かにこの公共事業というのは地方に於いて、いわゆる景気刺激策としては即効性が認められると思っておりますし、かつて造ってきたトンネルとか橋梁とか、あるいは建築物の補修工事や耐震化といったものは必要不可欠であると私は受け止めております。
しかし一方にですね、今後の新しい公共事業を起こしていくのであれば、国家としての戦略性を是非持たせて頂きたいと思っております。と言うのは、やはり借金をつくって国債を発行して、それでやる公共事業でありますから、かつて2009年、政権交代を成し遂げたとき、国土交通大臣だった前原さんがおっしゃったことが非常に象徴的でありました。
この国には98もの空港が造られた続けてきたけれども、アジアの拠点となるようなハブ空港がなかったんだとおっしゃった。これはかつての公共事業のあり方について象徴的なご発言であったと思っております。
今人口が減少しておりまして、いわゆる生産労働人口が減っている中で、もし早くからアジアの拠点となる空港を造っていてくだされば、いわゆる国家戦略として造っていれば、ヒト・モノ・カネがこの日本に放っておいても集まってくるシステムができたと思うと私は非常に悔しい思いでございます。
で、そういった意味に於きましては今後公共事業の在り方の考え方について自民党も変わったと思いますので、在り方について教えて頂きたいと思います」
麻生財務相「誠にあの、与党の質問として、伺うべきところなんじゃないかと思うぐらい今の質問はいい質問です。ハイ、これは物凄く大事なところです。1900・・・(首を傾げる。正確な年を思い出せなかったのか)、ゴールデンゲートっていう、サンフランシスコのところに橋があります。これは1930年代にいわゆる、例のデフレ対策としてゴールデン・ゲートは造られました。また、フーヴァーダムっていう、巨大なダムができておりますけれこも、今日のラスベガスはあのときのフーヴァーダムなかりせば、今日のラスベガスの繁栄はありません。
そういったものは巨大な公共事業として当時の共和党政権からボロクソに叩かれた公共事業でありました。いずれも。
そういった他にも一杯あります。フリーウエーとか色々あるんですけれども、そういったものに対して我々としては、今目先、間違いなく色んな物をやっていかなければければならないのは、先程甘利大臣やら、みなさんが、太田大臣からも、お答えになったとおりなんですけども、基本的に我々としてはきちんとしたインフラというものがなければ国内の内需がさらに伸びていくことはありません。
我々は先程ご指摘がありましたように日本のGDP、約5兆ドルのうちその10%から、10、1、2%が輸出ですから、残りの88%は国内の需要で賄っているわけですから、その国内の需要が円滑化していく。さらに効率が上がっていく。そういうときのための防災のための港湾の施設等々は勿論ですけども、港に着いてから、そのコンテナが高速道路に上がるまでの道路っていうのは、極めて道路としては、何、ミ、未成熟っていうか、きちんとしたものではありませんが、スッと上がっていくようになりさえすれば、これは効率がいいということに変りますので、色んな意味で、こういったことは日本が今後公共事業の主たるもんとしてきちんとしたインフラというものを備えていくということは、国家の経済的発展、引いては国全体の発展に繋がりますが、そういった意味に於いて大変大事な観点だと思って、只今のご指摘は正しいと思います」
大田国交相「自由民主党という話でありまして、質問がありましたから、私の方からも簡単にお答えしたいと思います。
ハブ空港、ハブ港、そうしたメリハリをつける。しかも日本は人口減少社会になっている。こうした中にも公共事業というよりも日本の戦略的な、あー、経済発展の在り方、それをどうするかという国土のグランドデザインというものをもう一度考え直して行かなくちゃならないということは一つございます。
それは一つは今福総理からお話があったとおりだと思います。もう一点、えー、実は日本の公共事業は昭和30年頃は産業基盤整備ってことを中心にした公共事業だったと思います。
それから昭和50年前後、生活インフラ、下水道とか住宅っていうものを重点的に整備をすると。こういう公共事業が行われたと思います。
3・11、あるいは笹子トンネル、こうしたことの中で本当に今、防災・減災、老朽化ということに対する公共事業というものを、もう一遍、頭を切り替えて、新しい公共事業というものを展開しなければならない時期というものが来ているといふように見ております。
地震が大変心配される。活動期に入ってきている。高度成長時代から40年50年となって、経年劣化を構造物がしているというようなことも含めて、日本の経済発展というとこの、また国際間の都市競争ということと同時に人口減少社会の中でもう一つは防災・減災・老朽化対策というものに初めて日本の公共事業というものが踏み出したのが、今の政権だろうと、私はこのように思っております」
植松恵美子「防災・減災のための公共事業は大切だと思っておりますが、私は本当にそれは大切です。一方で国債を発行して行なう公共事業だから、元は取れるぐらいの公共事業を考えていただきたい。借金だけ膨らんで、後々無用の産物をつくって、メンテナンス費用が掛かって、足を引っ張られるような公共事業、もうやめようと、お互いにそう思っている。
投資した分ぐらいは元が取れる、あるいは次の世代が食べていけるようなものをつくっていく。そういった公共事業に方向転換をして頂けると麻生副総理もおっしゃっていましたので、是非期待をしたいと思います。
成長戦略について伺ってまいりたい。三本の矢で一本だけ折れるとすれば、それが成長戦略の無さだと思っております。成長戦略に本気で取り組んで行かなければ、また時間が遅れてしまって、あのときと振返らなければならないのは今の局面だと思っています。
人口が減り始めて、超高齢化社会になったこの日本に必要なのは成長戦略です。これまでも前政権も前々政権も、前々々政権もですけども、この成長戦略についてずっと予算委員会で質問させていただいてきたが、この予算措置の方法は日本では全て総花的になっています。
あれにもこれにもそれにも、少額ずつ予算をつけて、これといって変わり映えもせずに、結果として成長が見られなかったということ。何回も繰り返しているのを私は目の前で見て来ました。
必要なのはここは政治決断なんですけども、国を上げて研究や事業に予算を集中させていくことが今後問われていると思っておりますけれども、総理にこの成長戦略に対して、国のリーダーとしての覚悟を持っていただきたいと思うんですけども、決断と実行力、責任を取る、この三つ、覚悟して頂けるでしょうか」
安倍晋三「成長戦略、民主党時代にもありました。我が党にしまして、その分野に国家的な支援を投入していく。あるいは規制に問題があるのか、そしてまた、核心的なコアの技術、還元する技術、それに対するおカネをつけていくということを含めて、一気通貫でやっていきたいと思います。
日本経済再生本部をつくって、産業競争力会議をつくりました。すべて私が責任者でありますから、当然私がすべて責任を取り、しっかりと政治を出していきたいと思います」(以下略)
植松女史は「今回の補正予算の10・3兆円のうち、約半分の5兆円が公共事業に予算措置をされています」と言って、それだけ多額のカネをかける以上、「今後の新しい公共事業を起こしていくのであれば、国家としての戦略性を是非持たせて頂きたいと思っております」と要求している。
そして「国家としての戦略性」のなさの典型的な例として、「アジアの拠点となるようなハブ空港」を計画しないまま日本全国に98もの空港を建設したことを、口先番長の前原の指摘として挙げている。
尤も前原の指摘を待つまでもなく、広く言われてきたことである。
国土交通省2009年7月31日公表の06年度の調査報告で国管理全国26空港のうち、税金投入を除いた営業損益では約8割の22空港が赤字、黒字は4空港のみとしていると「asahi.com」記事が伝えていた。
しかも国交省がすべての空港別の収支を集計したのは初めてだと書いているところから窺うことができる杜撰な空港管理は空港建設の無計画性・無戦略性と両輪を成す空港管理に関わる無計画性・無戦略性と言えるはずだ。
計画もなく戦略もなく空港を建設し始めて、建設した空港の地域経済性や国益を計算せずに新たな空港建設に取り掛かって、それを延々と繰返してきた自民党政権の無計画性・無戦略性の成果が約8割の22空港が赤字、アジアのハブ空港の地位を韓国の仁川空港に奪られたということなのだろう。
植松女史の公共事業を含めた安倍経済政策の「国家としての戦略性」の問いに対して、今年1月の社会保障制度改革国民会議で終末期医療患者を「チューブの人間」と発言、人間の尊厳を踏みにじっった麻生太郎は与党の質問みたいだ、「今の質問はいい質問です」と持ち上げて、アメリカのゴールデン・ゲートブリッジと、ラスベガスの繁栄をもたらしたと言っているフーヴァーダムを例に挙げて、「そういったものは巨大な公共事業として当時の共和党政権からボロクソに叩かれた公共事業でありました」と言っているが、どちらも着工自体はハーバート・フーヴァー共和党大統領(任期1929年3月4日- 1933年3月4日)時代の末期であり、完成はルーズベルト民主党大統領の時代あるが、「当時の共和党政権からボロクソに叩かれた公共事業」と言うのはちょっと合点がいかないが、両公共事業がどういった国益の観点のもと、どういった戦略で企画され、その戦略が見事実現して、どういった経済効果を上げて国益にどう適っているかの説明とはなっていない。
確かに両公共事業とも絶大な経済効果を上げているだろうが、あくまでも単体として見た場合の経済効果であって、日本でも黒部ダムとか佐久間ダムなどは単体として見た場合の経済効果は絶大なものがある。
知りたいのはどういった戦略のもと、公共工事を進めて日本の国力の全体的な発展を期していくかのかという思想である。それを、「今目先、間違いなく色んな物をやっていかなければければならない」とか、「基本的に我々としてはきちんとしたインフラというものがなければ国内の内需がさらに伸びていくことはありません」とか、日本の国力の全体的な発展を俯瞰した核心的な戦略性の説明とは無縁となっている。
だから、「港に着いてから、そのコンテナが高速道路に上がるまでの道路っていうのは、極めて道路としては」必要だという発想となる。
必要不可欠の連絡道だとするなら、大体が今更ながらに気づいて言うことなのだろうか。そもそもから一定の戦略に基づいて計画されていたなら、必要不可欠を順次満たしていたはずだ。
それが今後の課題だとしていること自体に却って安倍政権の公共事業政策の無計画性・無戦略性を浮かび上がらせることになる。
麻生は続けて、「色んな意味で、こういったことは日本が今後公共事業の主たるもんとしてきちんとしたインフラというものを備えていくということは、国家の経済的発展、引いては国全体の発展に繋がります」と、さも国全体の発展をもたらす公共事業政策だとしているが、問い質された「国家としての戦略性」の筋道立てた説明ができていないのだから、以前の自民党政権の公共事業の無計画性・無戦略性を引き継いでいるだけのことで、「国全体の発展をもたらす」は公共事業を正当化させるための口実に見えてくる。
続いて答弁に立った大田国交相は「昭和30年頃は産業基盤整備ってことを中心にした公共事業」、「昭和50年前後、生活インフラ」の公共事業、今後は「防災・減災・老朽化対策の公共事業」だと言っているが、昭和30年頃の「産業基盤整備」の公共事業にしても、昭和50年前後の「生活インフラ」の公共事業にしても、防災・減災・老朽化対策を相矛盾させる公共事業であることに気づいていない。
なぜなら、地震国日本では防災・減災、そして建設年数に応じた老朽化対策は建設と同時併行で前以て戦略に組み込んで計画していなければならなかったはずだからだ。
にも関わらず、今になって防災だ、何だ、予算をつけなければならないと騒いでいる。
1月31日放送のNHKクローズアップ現代『問われる“維持管理”~笹子トンネル事故の波紋~』で、ゲストの根本祐二東洋大学教授が次のように指摘している。
根本祐二教授「今あるもの(現存公共建造物)を、単純に更新していくという費用が一番分かりやすいんですけれども、数年前に私が計算したところでは、現状あるものを現状の規模で更新をするだけでも、年間8.1兆円。これ50年間続けないといけない。
安倍政権で景気対策、新年度予算で5兆円、10兆円という公共事業費が追加されていますけれども、このこと自体はいいことなんですけれども、1、2年、数兆円追加して解決できる問題では全くないということですね。構造的な問題として捉えて、いろんな形でこれを解決していかなければならないということが言えます」
「現状あるものを現状の規模で更新」とは同じ物に新しく建て替えるという意味なのだろう。いわば年間8.1兆円を50年間も必要に迫られることになる。
新しく建て替えるまでいかなくても、建設した公共建築物はいつか老朽化して改築や補修が必要となると考えて、予算を確保しておくこともせず、考える思想もなかったから、改築時、補修時に必要となる設計図さえ多くの役所が廃棄してしまっているという。この無計画生・無戦略性は如何ともし難い。
「昭和30年頃」の「産業基盤整備」は日本全体や各地方全体、各都市全体をそれぞれに一つの面と把えて各施設同士を機能的なアクセスを持たせた上で、各一段上の面へのアクセスを可能とするような基盤整備ではなかった。
だから、麻生が言うように、「港に着いてから、そのコンテナが高速道路に上がるまでの道路」を今頃になって言い出すことになる。
あるいは、それぞれを単体として捉えた場合は立派に出来上がっていて、交通の便を良くしているが、高速道、国道、バイパス以下の道路との連絡となると、その多くは不便そのものとなっている。
また、「昭和50年前後」の「生活インフラ」等の公共事業は確かに国民の生活を便利にしたが、その反面、水道管埋設工事とガス管埋設工事、電話線埋設工事は別々で、掘っては埋め、掘っては埋め、土木会社は利益は得ても、カネばかりかかる、戦略性も何もない、頻繁な交通制限をもたらすだけの非計画的・非効率なインフラ整備だった。
だからこそ、新しい公共工事は日本の国力の全体的な発展・底上げを俯瞰した戦略性を求められているのだが、麻生にしても大田にしても、全体を把えた計画性からのそれぞれの必要性ではなく、それなしの個々の必要性のみを話している。
防災・減災・老朽化対策にしても、例えそれが新規建設であっても、その場所は既に一定の経済効果が固定化していて、新しい経済効果が生まれる余地は少ない。
一つの例を2月3日(2013年)、フジテレビ「新報道2001」から挙げてみる。
北海道の土地改良事業予算が民主党政権の約2100億円から安倍政権の約5900億円へと補正予算を含んで倍増以上したと関係者は喜んでいたが、解説の「減反政策が続けられている中で、土地改良事業は必要なのか」という疑問に対して、北海道土地改良区眞野弘理事長が次のように話している。
眞野弘理事長「用水路などが50年経過、耐用年数を迎えている。修復していかなければならない」
用水路を新しく建造し直したとしても、建造時の雇用その他の経済効果は一時的には生じるが、新しく出来上がった用水路が出来上がって以降つくり出す経済効果は従来の経済効果と変わらないはずだ。
要するに公共工事が下手をすると一時的経済効果しか生まないと言われる所以である。
勿論、日本経済が現状よりも景気が良くなれば、新しく架け替え直した橋や新しく建設した道路は交通量を増やし、それなりの経済効果を見込むことができるが、それが日本という国の弱点となっている諸々の格差の改善にどうつながるのか見えてこないばかりか、公共事業政策に見る無計画性・無戦略性から類推するに、成長戦略自体の計画的な戦略性は望むべくもなく、かけたカネだけ財政を悪化させる懸念だけが生じる。
円安にしても、確かに安倍晋三が自身の経済政策を述べるだけで円高から円安に向かうロケットスタートを見せたが、為替は一国の政策や経済のみで決まるのではなく、他国経済との関係の中で決まっていく。日本の円安に相対して高くなった韓国ウオンが自国経済の国際競争力確保に何ら手を打たないということはないはずで、その政策との兼ね合いで、円の調整も余儀なくされる。
そういった中で必要とするのは財政悪化をこれ以上招かない各政策の効果的且つ実効的な戦略性であろう。
安倍晋三は自身の経済政策に対する植松恵美子の「国家としての戦略性」の問いに対して、「核心的なコアの技術、還元する技術、それに対するおカネをつけていくということを含めて、一気通貫でやっていきたいと思います」と言い、「日本経済再生本部をつくって、産業競争力会議をつくりました」とトンチンカンな客観的判断能力を全く欠いたことを言っている。
どのような本部を立ち上げようと、どのような会議を用意しようと、あるいはどこにどうカネをつけようと、ただ単にああします。こうしますと言っているだけで、日本国家全体に巣食って国や国民の活力を殺いでいる各種格差をどういった戦略を持たせた政策で改善して活力を取り戻していくか、どのようにして人口減少社会を跳ね返すかといった具体性ある話とはなっていない。
安倍晋三にしても閣僚にしても戦略性もない、当然計画性もない。ただ単に周囲の要求とブレーンの政策を受け売りして喋っているだけだから、言っていることの勇ましさに反して具体的に突き詰めてみると中味のない答弁となって現れることになるのだろう。
こういった見方に反して、植松恵美子女史は麻生や大田や安倍晋三の答弁から「国家としての戦略性」の存在を見たのだろう。民主党を離党して、安倍政権の補正予算案に賛成することとなった。
2月19日(2013年)の参院予算委員会で小野次郎みんなの党議員がアルジェリア邦人人質事件を取り上げて、もっと帰国を早めるべきではなかったか、安倍首相が外遊に使用していた政府専用機を帰国を早くして、アルジェリアにもっと早く飛行させるべきではなかったかと安倍首相の対応を追及した。 【参院予算委】小野次郎VS 安倍晋三/アルジェリア人質事件(2013年2月19日)
だが、多分、帰国時間に拘ったからなのか、安倍首相の答弁から見逃してはならない重要な点を見逃している。安倍首相が言っていた「人命優先」、あるいは「人命第一」がニセモノに過ぎなかったこと、アリバイ作りに過ぎないことを見抜かなければならなかったが、それができなかった。
関係箇所をNHK国会中継から文字化してみた。
小野次郎みんなの党議員「危機管理についてお尋ねしますが、大変聞きづらい内容ですけれども、総理の帰国まで、私、クロノロジー(時間順配列?)取り寄せてみましたけど、19日の午前4時にはお帰りになっていますが、実は第一報からお帰りになるまでの間に事態の方がどんどん悪化していて、邦人の被害も拡大してしまっていたのではなかったかと。
政府の対策が後手に回ったとい認識はございませんか」
安倍首相「えー、我々はでき得る限りのすべての手は打った、とこのように思っております。えー、つまり、現地に於いてオペレーションを行なうのは、アルジェリア政府、であってですね、残念ながら、我々にとっては限界があると。
その中に於いてアルジェリアの首相にも私は直接お話を致しました。その事前にはキャメロン首相とも打ち合わせをしてですね、日本と英国で共同歩調を取りながら、アルジェリアに対して様々な働きかけをしていこうと、いうことを、決めて、実は行なっているわけでありますし、現地に急行した城内大臣政務官もですね、現地の英国側と、相談をしながら、英国側と一緒にアルジェリア側に申し入れ等々を行なっておりますので、残念ながら、結果は極めて残念な結果ではありましたが、えー、残念ながら、その段階に於ける手段、は、すべて取れるものは取ったと、このように認識しております」
小野次郎議員「最初に総理が指示された人命第一、事態の掌握に努める、そして関係国との連携。この三つ、果たされたとお考えですか」
菅官房長官「これに是非ご理解いただきたいのですけども、第一報外務省に入ったのは16時30分です。で、その10分後、16時40分には外務省に対策室を設置しました。
総理は、ハノイに日本時間16時10分に到着したんですけど、16時50分には総理大臣の指示というのがありまして、被害者の人命第一、さらに情報収集を強化し、事前の掌握に全力を尽くす、当事国を含め関係国と緊密に連絡を取る、この3点の指示がありました。
そして17時には官邸に対策室を設置しました。そして23時35分には外務大臣とアルジェリアの外務大臣との間で、人命第一の要請を致しました。
そして、17日になりましたけども、0時30分には外務大臣とノルウェー外務大臣との会談。そうしたことを総理の指示に基づいてq私共一つ一つ迅速に行うことができたのではないかなあと、いうふうに思いますが、検証委委員会を今つくっておりまして、何が足りなかったのか、どうすればいいのか、そうしたことをですね、私共、いつあるか分からないこうしたテロに対応できるようにしたいと、こう思っております」
小野次郎議員「私が申し上げているのは、一つには総理が帰国から遅れたのではないかということを言ってるんです。――
(首相がベトナム、タイ、インドネシア外遊に使った政府専用機をアルジェリア邦人帰国に回したが、事件発生後直ちに帰国すべきを帰国しなかったためにアルジェリアへの飛行が遅れたと追及。この箇所は省略。)
事件の第一報後、総理一行の中にも、速やかに帰国すべきだと意見具申した人がいたんじゃないですか」
安倍首相「どう対応するかってことについては様々な議論が当然あります。その中で私は最終判断をしたわけでありますが、それはやなり冷戦な判断が必要なんですが、何か事があったから、バタバタしてテロリストによって国政が中断される。外交が中断される。安全保障の議論についてアジアの諸国としっかり話をしていくことだってできない、ということがあっていいのか。
日本の政治、あるべき政治の姿を変えることができる。それは断じて許してはいけないわけでありますから、テロリストがどんな働きかけをしても、私達は冷静にやるべきことをしっかりとやっていく。
しかしオペレーションに於いて、支障があってはならない。で、我々はどういう姿に見られるか、ということではなく、中身を重視致しました。しっかりと本部を立ち上げ対応していく。外務大臣も私も、関係国と連携をとる。連絡を取る。それも外務大臣も私もやった、と思っております。
えー、そして、そん中に於いてベトナムにも、そしてタイにも、そしてインドネシアにも、それぞれ極めて、重要な国ですあります。小野さんも秘書官をやっておりましたから、ご承知かと思いますが、こういう外交日程っていうのは、一回飛ばしたらですね、1年以上、なかなかチャンスはないわけであります。受入国も入念な準備と費用と人をかけているわけでありまして、そこで話し合われる。首脳会談で話し合われる、ということは、勿論重要な会談なわけでありますから、そのケイチ(「ケイチ」としか聞き取れなかったが、「経費」と言おうとして、マズイと気づいて、言い直そうとして「ケイチ」となったように思えた。)を考えて、私は最終的に判断した。
もしこれを例えば途中で、えー、切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから、そこは冷静な判断をしなければならない。
まあ、それはどちらにしろ、私の判断でありますから、様々な批判もあるかもしれませんが、それは甘受しなければならないと、そのように思っております」
小野次郎議員「まあ、あの、総理のご判断ですから、それはそうかもしれませんが、乗っておられた飛行機、アルジェリアに向かって、23日にやっと届いたんですね。アルジェリアに。総理自身は19日の早朝にお帰りになって、15分間、会議に出られたようなんですけども、再び公の場に出てきたのは19日の夜だったんです。
当初の予定と変わらないんですね。ですから、15分の会議に出るために、19日まで政府専用機使っていて、そのあと中(機内)を替えた(模様替えした)のか、どうか知りませんが、23日までアルジェリアまで行く救援機が遅れたというのは事実ですから、ご指摘だけさせて頂きますが、特にその判断で、外交日程が問題になったとするならば、総理の今回の外国出張の一番の目玉は安倍ドクトリンをインドネシアの晩餐のあと発表するっていうことにあって、その外交日程までこなしたいという思いがあったからじゃないんですか」
安倍首相「安倍ドクトリンについてはですね、晩餐会後ではなく、その前の講演で、これは行う予定でございました。ただ、講演も含めてキャンセルをして帰ってきたわけでありますし、今、えー、特別機の派遣が遅れたというご指摘がありました。これは全く当たっていないと思います。
では、特別機を早く出して何ができたのですか・・・・・・(相手の返事を待つ顔を見せる。)
これはまさに向こう側と調整しながら、取るべき手を行わなければならないわけでありまして、いずれにせよ、その段階でですね、まだ全員の遺体の確認ができていなかったわけです。実態としてはですね。その作業をすっと日本に帰ってきてからもやっているわけでありますから、私の帰国とは全く関係がなかったとはっきりと断言できると思います」
小野次郎議員「いずれにしても厳しいご判断だと思いますけども」と、なおも早く帰国すべきではなかったと主張してから、犯罪被害給付制度をアルジェリアの人質被害、グアムの無差別殺傷被害にも適用範囲を拡大すべきではないかとの訴えに入る。
次に事件と政府の対応の主な箇所を二度程ブログに利用しているが、時系列に並べてみた。一部、現地時間あり。 アルジェリア邦人拘束をめぐる主な動き(日本時間)
【1月16日】
日本時間13時頃 アルジェリア・イナメナスの天然ガス関連施設でプラント建設大手「日揮」の邦人社員らの拘束事件が発生
日本時間16時10分 安倍首相ハノイに到着
日本時間16時30分 外務省に邦人拘束の第一報
日本時間16時40分 外務省に対策室設置
日本時間16時50分 安倍総理大臣の指示
日本時間17時 首相官邸に対策室設置
日本時間23時35分 外務大臣とアルジェリアの外務大臣と電話会談。人命第一を要請
【17日】
日本時間0時30分 外務大臣とノルウェー外務大臣と電話会談
日本時間12時00分 タイから安倍・キャメロン電話会談(約15分間)
日本時間20時半頃 アルジェリア軍軍事作戦開始
【18日】
日本時間0時30分 タイ訪問中の安倍晋三首相、アルジェリアのセラル首相と電話会談
日本時間6時頃 アルジェリア国営ラジオは、軍事オペレーションが終了した旨発表
日本時間20時頃 菅義偉官房長官が「邦人3人の安全を確認、14人が安否不明」と発表
日本時間20時40分 日揮が新たに邦人4人の無事を確認
【19日】
日本時間4時 安倍首相が外遊を短縮して帰国
日本時間21時頃 アルジェリア政府から外交ルートで「日本人5人死亡」の情報伝達。
同国治安筋からは「14人生存」の情報。日本政府は公表控える
【20日】
日本時間0時30分 安倍首相がセラル首相と2度目の電話会談。この後、記者団に「安否に関して厳しい情報に接している」と語る
日本時間1時20分 菅長官が記者会見で、アルジェリア政府から邦人の死亡情報が入ったことを認める。人数は明かさず
日本時間5時頃 アルジェリア内務省、「人質23人と武装集団32人が死亡」と発表
【21日】
日本時間16時過ぎ 城内実外務政務官と川名浩一日揮社長らがイナメナスの病院で安否確認作業を開始
日本時間22時45分 安倍首相が政府対策本部会議で、日揮関係者の日本人7人の遺体を確認したと発表
日本時間13時頃 セラル首相が「8カ国の外国人人質37人が死亡」と発表
【22日】
日本時間22時過ぎ 邦人7人の遺体搬送と無事だった7人の帰国支援のため、政府専用機が羽田空港を出発
【23日】
日本時間16時過ぎ 政府専用機がアルジェ着
日本時間23時30分 菅長官が日揮関係者の日本人2人の死亡を発表
先ず、安倍首相は「現地に於いてオペレーションを行なうのは、アルジェリア政府、であってですね、残念ながら、我々にとっては限界がある」と言っているが、このことを弁えてアルジェリアのセラル首相と第1回目の電話会談を行ったはずだ。
第1回目の電話会談での双方の発言を「NHK NEWS WEB」は次のように伝えている。
安倍首相「アルジェリア軍が軍事作戦を開始し、人質に死傷者が出ているという情報に接している。人命最優先での対応を申し入れているが、人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」
セラル首相「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ。作戦は続いている」――
日本政府がオペレーション関与に「限界がある」ということは日本政府の人命優先が満足に機能しないことを意味する。
このことを言い換えるとすると、人命の如何はアルジェリア政府に預けることを意味する。しかも既に軍事作戦が開始していることを承知していた発言であることから、日本政府の人命優先は危機的状況にあったと言うことができる。
そこを敢えて電話して、人命最優先を申し入れたことになる。
問題は一縷の望みを託しながら、「限界」に果敢に挑戦し、その「限界」を打ち破りたいとする強い意志を持って電話したのか、その「限界」を如何ともし難い壁と感じながら電話したかである。
前者と後者では人命優先の意識に大きな差がある。
それとも、人命優先の姿勢を見せるアリバイ作りで電話しただけのことで、人命優先を守ることができなかったことをオペレーション関与に「限界がある」を口実としたのか。
外務省に邦人拘束の第一報が入ったのは日本時間1月16日16時30分。タイ訪問中の安倍首相がセラル首相に第1回目の電話を入れたのは、日本時間1月18日0時30分。第一報が入ってから、1日と8時間後のことである。
アルジェリア軍が軍事作戦開始したのは日本時間1月17日20時半頃(現地時間1月17日午後12時半頃)から見ても、約4時間経過している。
オペレーション関与に「限界」を抱えいることだけを考えたとしても、一刻も争う形でアルジェリア政府に対して人命優先の訴えを行わなければならない状況に立たされていたはずだが、「限界」を抱えていた上に軍事作戦開始から約4時間後の電話での人命優先の申し入れという余りにも遅過ぎる逆の対応となっていた。
この遅過ぎる対応は非難されないために後付けで行ったアリバイ作りと解釈されても仕方があるまい。
少なくとも人命優先の姿勢がニセモノではなく、ホンモノなら、軍事作戦開始前の早い時間にセラル首相に電話していても良かったはずである。
また、外務省に邦人拘束の第一報が入りながら、テロ武装勢力による襲撃でありながら、首相官邸ではなく、10分後に外務省に対策室設置したということは、外務省はアルジェリア政府が「テロとは交渉しない」という国家危機管姿勢を取っていることを情報としていなければならないはずだが、そのことに反して理重大事件と把えていなかったばかりか、オペレーション関与に「限界」があることを理解していなかった対応となる。
首相の指示がなければ、首相官邸に設置できないということなら、首相の指示が出るまで、ふさわしい対応はできないことになる。
安倍首相は「何か事があったから、バタバタしてテロリストによって国政が中断される。外交が中断される。安全保障の議論についてアジアの諸国としっかり話をしていくことだってできない、ということがあっていいのか」と言い、「こういう外交日程っていうのは、一回飛ばしたらですね、1年以上、なかなかチャンスはないわけであります。受入国も入念な準備と費用と人をかけているわけでありまして、そこで話し合われる。首脳会談で話し合われる、ということは、勿論重要な会談なわけでありますから、そのケイチ(ママ)を考えて、私は最終的に判断した」と尤もらしく外交の重要性を訴えているが、要はどちらを優先するのか、優先順位の問題である。
いわばそのことを認識していない自己正当化の主張となっている。
例えばこれが遠い外国の地で発生したテロ攻撃ではなく、3・11のような国内の巨大自然災害だとしたら、あるいは福島原発事故のような大災害だったなら、果たしてベトナムからタイ、タイからさらにインドネシアへと足を伸ばすことができただろうか。
要するに安倍首相はテロ武装集団襲撃によるアルジェリアの邦人人質事件よりも80%方、3カ国訪問を優先させたのである。アルジェリア政府が軍事的制圧作戦を開始してもなお、外国訪問を優先させていた。
この判断こそが問題とされなければならない。
それ程重要な「テロリストによって国政が中断される。外交が中断される。安全保障の議論についてアジアの諸国としっかり話をしていくことだってできない」ということがあってはならない、「受入国も入念な準備と費用と人をかけている」ことを無視できない外国訪問と位置づけたのである。
勿論、安倍首相の判断である。だが、そのような判断をしたということは、日本政府がオペレーション関与に「限界がある」ことを理由としたかどうか分からないが、あのときの人命優先を外国訪問よりも後回しにしたことを意味する。
にも関わらず、「人命優先」を盛んに口にした。これを以て、そのような姿勢で対応していると見せるアリバイ作りでなくで何であろう。
最後に、「もしこれを例えば途中で、えー、切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから、そこは冷静な判断をしなければならない」とは、開き直りも甚だしい。
人命が犠牲となったことはあくまでも結果的に判明したことで、結果を見た末の結論に過ぎない。事件の一報を聞いた時点では人命がどうなるかの結論は得ていないはずだ。例えアルジェリア政府が「テロとは交渉せず、人質の生命(いのち)は後回し」の危機管理姿勢でいようとも、軍事的制圧作戦の中で命拾いする人質が実際に存在したように犠牲と救出は誰も、アルジェリア政府にしても判断できない状況にあった。
当然、日本政府としては例えオペレーション関与に「限界」を抱えていたとしても、国民の生命・財産を預かる以上、全員救出で危機管理をフル活動させなければならなかったはずだ。
例え帰国しなくても、直ちにアルジェリアのセラル首相と電話会談し、結果的にムダとなっても、人命優先を訴えなければならなかった。
だが、後手に過ぎる危機管理となった。「そこは冷静な判断をしなければならない」と抜け抜けと言っているが、「冷静な判断」は危機管理の素早い行動にこそ発揮されるべき能力であって、その能力が満足に発揮されずに機能不全に陥っていた。帰国時期の正当化のために強弁を働かせているとしか見えない。
安倍首相が口にしていた人命優先はその姿勢を見せるためのアリバイ作りでしかないことを答弁が否応もなしに証明する。ニセモノの人命優先だったと断言できる。
次の記事が紹介していた。《米サッカー元代表が同性愛告白 英リーグは差別撲滅運動も》(CNN/2013.02.18 Mon posted at 12:50)
全然知らないサッカー選手だが、2008年の北京五輪などにサッカー米国代表として18試合出場した経歴を持つロビー・ロジャース選手が2月15日(2013年)、自身のブログで同性愛を告白し、引退を表明したという。
ロビー・ロジャース「秘密が大きな精神的ダメージの原因となることもある。私はずっと、この秘密を隠しておけると思っていた。
サッカーは私の逃げ場であり、目標であり、自分自身だった。サッカーが私の秘密を隠し、想像以上の喜びを与えてくれた。
(〈私自身の注釈〉告白して、自分が何者か)正直になって初めて、自分の人生を真に楽しむことができると分かった。秘密がなくなった今、私は自由な人間となって、ありのままの自分の人生を生きられる」――
世間の目から解放された歓びが伝わってくる。
〈ロジャース選手は米プロサッカーリーグ、コロンバス・クルーの元フォワード。現在は英国の3部リーグのチームに所属していた〉・・・・
〈この発表に、元チームメートからは称賛の声が相次いだ。〉
オグチ・オニェウ元米国代表選手「ロビー・ロジャースの勇気を誇りに思う。真実は常に簡単に公表できるとは限らないが、本当に強い人間はその方法を見出す」――
記事結び。〈サッカー界では同性愛を嫌悪する風潮が依然として根強い。英プレミアリーグなどに所属するサッカーチームはこうした風潮をなくす運動にも力を入れ、「同性愛者に優しい」チーム同士が対戦する「GFSNゲイ・ナショナルリーグ」も創設されている。〉――
同僚のオグチ・オニェウ選手のコメントも含めて、素晴らしい言葉に出会った。素晴らしい言葉は思想そのものへの昇華を果し得て、その素晴らしさを保ち得るのだと思う。
だが、私自身にはこれらの言葉に優る言葉でこれらの素晴らしい言葉を的確に批評し、如何に素晴らしい言葉であるかを伝える言葉を、残念ながら持たない。
日本の政治家や学校教育者なら、確実に持っているかもしれない。
願うのは、年令に関係なく、いつでもどこでも自由に告白できる自由な社会環境が訪れることである。彼らの自由をさらなる自由の高みへと誘(いざな)うために。
自由な社会環境の訪れは告白ということには関係ないが、難病患者や障害者の社会活動に於ける自由度の点からも、同じことが言えると思う。
香川県綾川町立中学1年パキスタン国籍男子生徒(13)がイジメられ、足をかけられて転倒、左足に重傷を負ったという。
《中1パキスタン人男子生徒「いじめで大けが」 香川県警に告訴》(MSN産経/2013.2.18 21:02)
昨年、2012年3月に母親らと来日。日本語が理解できず、4月の入学直後から同級生の男子生徒3人(他の記事では4人)に日本語や英語で「国へ帰れ」などの暴言を受け、5月には足を蹴られるなどの暴行を受けた。
11月に廊下を小走りで移動していたところ、別のクラスの男子生徒に足をかけられて転倒、左足などに重傷を負う。
父親が何度も学校に相談したが、改善されなかった。
そこで男子生徒両親が2月18日、県警高松西署に傷害容疑で生徒1人を告訴。町教育委員会に対してイジメ調査と、関与したとされる複数の生徒への指導を求める申入書を提出。
父親「息子は『いじめが怖い』と話している。いじめが広がる前に解決してほしい」
昨年4月の入学直後からイジメが始まったということは学校はほぼ1年間、イジメを放置していたことになる。
この記事は触れていたないが、「asahi.com」によると、11月(28日)の生徒が廊下を走っていた時に足をかけられた故意行動は、〈生徒は顔から廊下に倒れ、ひざ付近を強く打ち、現在も松葉杖で通学している〉と書いている。
学校校長(記者会見)「子供たちのふざけ合いや偶発的な事故と把握していた。申入書を真摯に受け止め対応したい」――
要するに調査の末、イジメではない、「ふざけ合いや偶発的な事故」だと判断していた。
だが、イジメが「ふざけ合いや偶発的な事故」を装うことは過去のイジメが教えているはずだ。イジメる側が装うこともあるし、イジメられる側に強制的に装わせることもある。
後者の場合、装わなかったときの報復を恐れて、粉飾に従う。
実際には一方的に技をかけるプロレスを使ったイジメであったにも関わらず、プロレスごっこだと装う。あるいは殴られて顔に傷を拵えられながら、自転車が転んで怪我をしたと偶発的な事故を装う。
学校は過去のイジメから学習して、そこまで調査したのだろうか。
大津市立中学2年男子生徒(当時13歳)が同級生からのイジメに耐えかねて2011年10月1日に自殺した事件をマスコミが取り上げて問題としたのは自殺から9カ月後の2012年7月に入ってからであった。
その後大津市教育委員会が滋賀県教育委員会に最初に提出の「自殺に関する報告書」が滋賀県教育委員会から「不十分」と再提出を要求され、2012年7月20日にメールで再提出している。
「事件等の経緯」
「アンケート調査等により、3人の生徒から当該生徒に対していじめがあったことが発覚した」
「当該児童生徒に関すること」
「プロレスごっこなどでふざけあっている場面が何度か見られた。ふざけ過ぎる場面では担任が注意したり、当該生徒に声をかけたりすることが数回あった。その際はいずれも『大丈夫』等の返答であった」(以上毎日jp)
イジメが疑われていた自殺事案であるにも関わらず、以上の記述しかなかったというその責任感は素晴らしい。
以後、学校、市教育委員会共に自分たちに都合の悪い数々の情報を隠蔽していたことが判明することとなったが、イジメをイジメと見ずに、「プロレスごっこなどでふざけあっている場面」と見て、過去のイジメを何ら学習していない姿を曝している。
小学校6年生の頃からイジメが少し始まり、中1となってからエスカレートしていき、中2になってさらにエスカレートして、中2の1994年11月27日深夜自殺した大河内清輝くんは自殺の1カ月前の1994年10月22日、担任が清輝君とその仲間がプロレスごっこをしているのを目撃し、過激だったのでやめさせたとしているが、それまでもイジメと疑わせるサインを把握していたことと併せて、プロレスごっこがふざけ合いを超えて過激であった状況からイジメだと直感するだけの判断能力を持ち合わせていなかった。
あるいはイジメだと疑いながら、面倒や責任を恐れて、イジメという事実から目を背けたのかもしれない。
より詳しく経緯を見るために中1パキスタン人男子生徒記事をもう一つ見てみる。《傷害容疑:「いじめで重傷」告訴…パキスタン籍の中1両親》(毎日jp/2013年02月19日 01時29分)
〈昨年4月の入学直後から同級生4人に肌の色の違いを言われ「汚い」「国へ帰れ」など人種差別的な発言〉を受けた。
父親「担任や教頭に何度も改善を訴えたがかなわなかった」
綾川町教育委員会「いじめはなかった」――
イジメはイジメる側とイジメられる側の一方的な上下の支配関係の固定化があって初めて生じる。誰もが認める両者間に横たわる関係構造であるはずだ。
支配・被支配の関係を持たない対等な力関係からはイジメは生じない。
自民党の「いじめ防止対策基本法案」(仮称)の骨子案は「いじめ」を「学校に在籍する児童や生徒に対して一定の人的関係にある者が行う心理的、物理的な攻撃で、児童らが心身の苦痛を感じているもの」と定義している。
「心身の苦痛」を与え、与えられる関係であることは言うまでもないことだが、「一定の人的関係」といった漠然とした抽象的な関係構造と把えるの生ぬるい。
イジメは一方の人間がもう一方の人間を支配する人間支配の関係と見なければならないはずだ。それぞれに自由であるべき喜怒哀楽の感情から自由であるべき精神や行動まで支配し、抑圧する。
イジメを受けている本人にとって心身すべてに亘る支配と抑圧が臨界点を迎えたと感じたとき、その支配と抑圧を自殺によって解放する。
最低限、イジメはイジメる側とイジメられる側の一方的な上下の支配関係の固定化があって初めて生じるという関係構造を取るということを把握できるだけの認識能力を備えていたなら、あるいは支配・被支配の関係を持たない対等な力関係からはイジメは生じないと解釈できる判断能力を備えていたなら、このような関係構造を「ふざけ合い」を行なっている両者関係に当てはめれて見れば、その「ふざけ合い」がイジメかどうか判断できたはずである。
そのふざけ合いがプロレスごっこであっても、ドッジボールであっても、あるいは鞄持ちであっても、常に勝者と敗者が決まっている一方的且つ固定的な力関係となっていた場合、そのふざけ合いは固定的な一人を標的とした攻撃(大勢が二人とか三人を対象とする場合もあるが)以外の何ものでもなく、真のふざけ合いとは言えない。
なぜなら、勝者となったり敗者となったり、勝者・敗者がその時々で入れ替わる一方的且つ固定的な力関係を免れていたとき、初めてふざけ合いと言うことができるからだ。
校長が「ふざけ合いや偶発的な事故」だとするなら、あるいは綾川町教育委員会が「いじめはなかった」とするなら、パキスタン人の中1男子生徒と彼をイジメたとしている4人の生徒との間の何らかのふざけ行為が、お互いにふざけたり、ふざけられたりの対等な関係にあったか、証明しなければならないはずだ。
もしそういう関係にあったなら、昨年11月28日の廊下を走っていた男子生徒に同級生が足をかけ、松葉杖をつく程の怪我を負わせた出来事も、ふざけるつもりで足をかけたが、行き過ぎてしまった「偶発的な事故」だとすることができる。
但し、実際にふざけたりふざけられたりの対等な関係の中で生じた「偶発的な事故」であるなら、パキスタン人両親は生徒一人を傷害容疑で告訴することはないはずだし、父親が何度も学校に相談することもなかったはずだ。
そこに一方がふざけ、もう一方がふざけられる一方的な人間関係の固定化があったからこそ、告訴という手段に出ざるを得なかったと見ざるを得ない。
実際にはふざけ合いではなかったとすると、松葉をつくことになった「偶発的な事故」にしても、例え廊下に転倒させて笑ってやろうとしたふざけであったとしても、一方的な人間関係の固定化を利用した、優位に立った立場からの一方的な行為となって、イジメではないと否定することはできなくなる。
父親が「息子は『いじめが怖い』と話している」と言っていることから判断しても、4人の生徒が怖い存在となっていて、精神的に支配されている状況を窺うことができる。
過去のいじめ事件から、そこに存在するパターンを学習するのも客観的判断能力が関係する。判断の構築は深く言葉の構築が必要なのは断るまでもない。
言葉が構築した判断の力によって、過去のイジメ事件からそのパターンを学習し得ていたなら、単に「子供たちのふざけ合いや偶発的な事故と把握していた」と説明するだけでは許されるはずはなく、あくまでも両者間の人間関係が固定化されていたか固定化されていなかったか、そこまで説明を踏み込まなければならないはずだが、人間関係抜きの説明であるところを見ると、過去のイジメ事件から何ら学習していない姿しか見えてこない。
学校教育者である以上、過去のイジメ事件に真摯に向き合わなければならないはずだし、向き合っていれば否応もなしにイジメのパターンを学ぶはずで、当然言葉によって構築したイジメに関わる判断能力は万が一自身が管理する学校にイジメが疑われる事例が発生したとしても、構築した言葉を駆使することで適切に対応できるはずだが、パターンも学習していない、イジメが疑われる事例にも適切に対応できていないのは、イジメが自分の学校に発生した場合の責任を恐れて、イジメそのものに逃げの姿勢でいるとしか見えない。
学習もしない、逃げの姿勢だと言うのでは、学校教育者としての意味を全く失う。
学校教育者としての意味を失った学校教育者が学校教育の現場に立ち、生徒と対峙している。恐ろしい逆説だ。
教育に多大な関心を持ち、教育行政に独裁的意志を以って介入を試みる橋下徹大阪市長が2月15日市議会に学校でイジメや体罰などの問題が起こった際、市長自らが市教育委員会に介入して調査を指揮できるようにする条例案を提出したという。
教育委員会委員は首長がその任命権を持ち、議会の承認を経て任命される。なお教育委員会委員長は首長が任命した教育委員の互選によって選出される。
要するに教育委員会が教師の教育的資質に基づいた適格性を基準に任命・異動の人事や、あるいは教師の生徒指導及び学習指導等に関して学校を管理する役割を担っているが、その教育委員会の委員の任命権は首長が持ち、教育委員の互選によって教育委員会委員長が選出され、教育委員会を運営、各学校を管理する仕組みとなっている以上、教育委員会の学校管理能力・教育行政能力は、どれ程に優秀な委員を任命するか、あくまでも首長のガバナンス(統治)の問題である。
首長が任命権を持ち、議会承認を経て任命する教育委員構成の教育委員会がイジメや体罰の問題に適切に対処し得ないからといって、市長が介入、調査を指揮するといったことは自身の任命を否定する矛盾そのものである。
その矛盾を解くには先ず自身の委員任命が間違っていたとしなければならない。人物を見る目がなかったと。
もし大阪市教育委員会委員長及び委員長が橋下徹が市長に当選する前の任命で、自身が関与していないというなら、自身の任命とするために首長の交代ごとに教育委員会の委員長および委員を交代させることができるよう、条例なり、法律なりを改正すべきであろう。
国の法律であるために改正に自治体が関与できないというなら、国に働きかける以外に方法はない。政治の介入は教育委員会がその教育行政上の要件としている政治的な独立性を侵すことになりかねない。
教育委員会委員は非常勤、その任期は、首長・議員の任期が4年であるため、委員の任命を通じて教育行政の安定性、中立性が脅かされることを防ぐ目的で、定数5人の場合、4年任期が2人、3年任期が1人、2年任期が1人、1年任期が1人。以降、原則毎年1人ずつが交代、再任も可能、途中辞職の場合、前任者の残任期間等々、首長・議員の任期に影響を受けないよう、定数に応じて異なる仕組みとなっているということだが、逆に公選首長の教育観を反映させ、責任主体を明確にするために任命権は閣僚人事のように議会の承認を経ることなく首長に固定、委員の任期は首長の任期に合わせて、常勤とすべきではないだろうか。
公選首長の教育観を反映させるとはその首長を首長として選挙で選択した大多数の市民・県民の意思の反映となって、市民・県民もその政治・行政に連帯責任を負うことになる。
要するに地域の各学校に対する教育行政の責任は教育委員会全体で負い、その最終責任者は教育委員長とし、教育委員会の仕事内容に関しては首長が第一義的に責任を負い、その責任に市民・県民も関わるという責任体制の確立である。
しかしこのような体制を確立したとしても、すべてうまくいくとは限らない、橋下徹に関した教育委員会人事のガバナンスの例を一つ挙げてみる。
橋下徹が大阪府知事時代の2008年10月、「百ます」計算で有名な陰山英男(当時立命館小副校長)を大阪府教育委員会委員に任命、議会の承認を経て就任した。
その陰山英男が2012年4月20日、辞任前委員長の後任に委員互選によって委員長に選出された。前任者が途中辞任であったから、途中辞職の場合、前任者の残任期間が就任期間となる規定から、2012年9月末までの約5カ月間だったが、再任されて現在も委員長を務めている。
委員長就任が橋下府知事2011年10月31日辞任後の動きであったとしても、橋下徹が陰山英男を教育者としての人物を見込んで委員に任命したはずで、委員長に就任しても、見込んだ教育者としての人物像に変りはないはずだ。
大阪市立桜宮高校でバスケットボール部顧問教師から体罰を受けて男子生徒が自殺した問題を受けて、大阪府教育委員会は1月16日(2013年)の会議で2月5日までの回答期限付きで187の府立高校に対して体罰を巡る緊急の調査を行うことにした。
陰山英男大阪府教育委員会教育委員長「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきたが、今後はさらに児童や生徒の自殺を防ぐ対策を考えていきたい」(NHK NEWS WEB)
前段の趣旨は府立高校は「体罰防止の指導を徹底してきた」から、体罰は存在しないということになるが、後段の趣旨は、体罰が原因となる「自殺を防ぐ対策を考えていきたい」という意味となって、前後矛盾することになる。
もし陰山が府立高校で体罰の存在を把握していたなら、あるいは府立学校でも調査すれば体罰は出てくるだろうなと予想していたなら、「体罰防止の指導を徹底してきた」と言った場合は徹底の無力化を意味することになるために言えないはずだ。「体罰防止の指導を徹底してきた」と言う以上、体罰は存在してはならない。
その調査結果が2月15日開催の大阪府教育委員会で報告された。《大阪府立学校 教師72人が体罰》(NHK NEWS WEB/2013年2月15日 13時7分)
33校72人の教師、事例115件の体罰の報告。授業中40件、部活動中35件、その他。
大阪府教育委員会は体罰を理由に5人の教師を2月15日付けで処分。
記事は処分の内容について触れていない。生徒への聞き取り調査をしたのかしなかったのかも触れていない。聞き取り調査をせずに自己申告のみだとしたら、過少申告も考えなければならない。
陰山英男大阪府教育委員会教育委員長「体罰を見逃してきたことは反省しないといけない」――
何とまあ、軽い言葉なのか。単なる反省で済ますことはできない府教育委員会の管理責任・管理能力の問題である。しかも調査通知のとき、「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきた」と、さも体罰が存在しないかのような発言をしているのである。
大阪府教育委員会の指導の徹底が無力であった。
これが橋下徹がその人物を見込んで大阪府教育委員会の委員に任命し、後に教育委員長になった教育者の管理能力・管理責任が伴わない姿である。
要は首長が如何に適任者を教育委員会の委員に据えることができるか、その中から委員たちが如何に最適任者を委員長に互選できるかにかかっているのであって、学校でイジメや体罰などの問題が起こった際、市長自らが市教育委員会に介入して調査を指揮できるような制度に変えるといったことではなく、それ以前の首長の教育委員会に対する人事に関わるガバナンスの問題であるはずだ。
次の記事によると、府立高校の体罰調査は生徒に対する聞き取りを省いていることが分かる。《体罰:33校教職員72人が計115件 大阪府教委調査》(毎日jp/2013年02月15日 13時11分)
記事――〈今回体罰が判明した学校と、調査以前から体罰が確認されていた学校の計40校の生徒約3万人を対象に詳細を把握するためのアンケートも始めた。〉
生徒に対する聞きとりアンケートを同時併行で行わない、教育委員会のこの如何ともし難い不徹底さは陰山英男の教育委員長としての能力にも関係するはずだ。
また、記事は〈調査以前から体罰が確認されていた学校〉7校の存在に触れているが、陰山英男の「府立学校ではこれまでも体罰防止の指導を徹底してきた」という発言からすると、学校は体罰を確認していながら、府教育委員会に報告していなかったことになる。
まさか報告を受けていながら、「体罰防止の指導を徹底してきた」などとは言えまい。
だが、例え報告を受けていなくても、体罰が存在したこと自体、報告をしないことを含めて府教育委員会の各府立学校に対する管理能力・管理責任の問題であることに変りはない。
体罰の内訳。
高校32校69人97件、支援学校1校3人18件。
授業中40件、部活動中35件、生徒指導中14件
〈体育系学科の入試が中止となった桜宮高の「受け皿」として募集定員が増員された大塚高(松原市)では生徒指導中の体罰があった。〉・・・・
以上見てきた通り、橋下徹が人物を見込んで教育委員に任命し、教育委員長となった陰山英男の能力如何に関係することになる首長の教育委員会人事に対するガバナンスの問題である以上、橋下市長が市教育委員会への介入に成功したとしても、教育委員会の資質・能力を脇に置いた場合、何か問題が起きるたびに介入を繰返すことになって、抜本的な解決は望めないことになるだろう。