マスコミは問題にしたが、質問者は問題としなかった麻生即席ラーメン「400円」

2008-10-30 11:37:35 | Weblog

 麻生首相が28日午前の参議院外交防衛委員会で民主党の牧山弘恵女史の「カップラーメン1個いくらぐらいかご存知か」の質問に「400円ぐらい?」と答え、その庶民感覚とズレた生活感・金銭感覚を「帝国ホテルは高くない」発言に引き続いてマスコミの格好の餌食となった。

 「400円ぐらい?」と答えたとき、議場内に軽い失笑と軽いざわつきが湧き起こったが、牧山弘恵女史はあっさりと「170円ぐらいです」と答えて幕を引いてしまった。大多数の国民が置かれている生活不安を首相は実感できていないのではないのか、実感できないまま景気対策など打てないのではないと追及する材料とするために質問したのではなく、単に昨今の食品値上がりの代表例にわざわざカップラーメンの実物なのか模型なのか、それを持ち込んで牧山女史本人が「国民食」だと言うインスタントラーメンの値上がりを取り上げただけだったらしい。

 当たり前のことを言うようだが、国会での質疑は主として質問議員が政府閣僚に対してその政策を追及する性格のものでなければならない思う。与党議員が質問者となったとき、追及と言うよりも与党の政策をヨイショする性格の質問となるのはある意味当然であろう。政策自体がそもそもからして与党の承認を得たものであるし、それに反対の意志があったとしても、その追及が政府を窮地に追い込むことはあってはならないからだ。

 だが、野党議員は徹底的に追及して、政府政策の矛盾点・問題点を明らかにし、それを与党政府の失点とし、翻って自らの得点としなければ野党の存在意義を失う。残念なことに牧山弘恵女史にはそのような姿勢はなかった。1年生議員のようだから無理のない話かもしれないが、追及すると言うよりも用意した資料を読み上げているに過ぎない当たり障りのない姿勢に終始していた。時間が多い少ないは関係ないだろう。少なければ質問を絞れば済む問題だからだ。

 牧山弘恵女史は質問に立つや、「先ず冒頭に一言申し上げたいと思います。一部報道でこの新テロ特措法案改正案に民主党が賛成しているかのような内容が伝えられていますが、まったくの誤認です。私たち民主党はその改正案に対しては明確にノー、このスタンスをぶれずに貫いてまいります。事実今年1月参議院でこの新テロ特措法改正案は否決されています。先週23日の外交防衛委員会では民主党の犬塚議員の質問に対して官房長官と外務大臣が曖昧な答弁を終始し、委員会審議が何とストップされてしまいました。選挙管理内閣だから真剣な議論が繰り広げられないのかと正直思いました」と新テロ特措法改正案に纏わる経緯と自分たちの姿勢・思いを述べただけで、首相を答弁のために答弁席に立たせる労を与えることは一度もなく、そのまま続けた。
 
 牧山女史「この国の国際貢献については国民は徹底的な議論を望んでいる。そう思います。総理に於かれましては一刻も早く国民の信を問い、その国民によって選ばれた議員によって徹底的に議論すべきだと冒頭に申し上げます」と解散の是非を追及するでもない、単に希望を述べただけで、「では、早速ですがパネル1をご覧ください。これは労働力調査からの抜粋です」と参議院外交防衛委員会だからこその「テロ特措法改正案」に関しての追及かと思いきや、格差問題に進んだ。所々端折って書くと、

 「現在3人に1人が非正規雇用者で、平成15年には30.4%、昨年は33.5%と年々増えている。額に汗しながら一生懸命働いてもなかなか思うように賃金が上がらず、生活に困ってらっしゃる方がたくさん見受けられる。『スットップ・ザ・格差社会』と言う言葉を総理も耳にしたことがありますでしょうか。この言葉こそが現在の日本に求められていることだ確信しますが、総理、今日は金融問題を論じる時間がございませんので、この雇用の格差問題について限定して、私と問題意識を共有しているかどうか、お聞かせいただきたいと思います」と「雇用の格差問題」に質問(=追及)を「限定」することを宣言したが、「私と問題意識を共有しているかどうか、お聞かせいただきたいと思います」と言ったときの「私」が個人的な「私」になっていて、「私」の背景に「国民」の存在を意識することができなかった。「私」の背景に「国民」を存在させてこそ、追及は鋭い性格を担わせることができるはずだが、「私」としたために中途半端な当たりとなったのではないだろうか。

 どうも纏まりがなくてパンチの効いていない追及とまでいかない質問となっていたから、答弁の麻生首相も質問に対する答弁の形に直ちに移れなかったのだろう。

 麻生「あのう、今言われたご質問の内容は非正規雇用のパーセントが伸びているという事態に関する私なりの考えを聞いておられるというふうに理解してもよろしいんでしょうか?」と逆に質問される始末。画面に映らなかったが、うんと頷いたのだろう、「あ、これ十分に理解しておりますし、非常に大きな問題だと思っております。で、色々とこれも対策を考えねばならんと言うことで、今特にロストゼネレーションと言われるところが特に問題かなあ、という意識が私自身には強くあります」

 「特に問題かなあ」とは断定的な響きをどこにも持たせていない切実さを欠いた言葉だが、追及が追及だから、答弁もどうってことのない答弁のまま終わらせることになる。見事な、だが、どうってことのない「問題意識の共有」ではないか。質問者の牧山女史が麻生首相の頭をいい子、いい子と撫で、麻生首相が牧山女史の頭をお返しにいい子、いい子と撫で返す、その程度の遣り取りとしか言いようがない。

 牧山女史「そもそもこの格差社会をつくったキッカケというのは今の自公の責任ではないでしょうか?強い者はどんどん強くなり、弱い者はどんどん弱くなるという社会をつくってしまったことを真剣に考えていただきたいと思います」

 これも追及・質問の類ではなく、単なる希望の説明に過ぎない。それも相手に痛みも痒みも届かない言葉となっている。
 
 牧山女史「そろそろ昼食の時間でございますので、テレビをご覧になっておられる方も今日はお昼何を食べようかなーと考えているかと思います。私自身2人の子供持つ母親で、食の安全の問題ですとか、食の価格の問題ですとか、食にまつわることは常に意識しております。」

 ここで足許に屈んで「さて、お昼の代名詞と言えば」と取り出した模型なのか実物なのか、カップラーメンを肩のところに持ち上げて、後ろを振返って照れたのか軽く笑いながら、「即席めんです。この即席めん、日本即席食品工業会によりますと袋とカップ両方合わせると、国民1人当たり年間42個、消費するそうです。ですから、今日テレビをご覧になっている方も即席めんを食べようかなあと考えている方もいらっしゃるかもしれません。で、総理、突然の質問ですが、この即席めん、今いくらぐらいで買えると思いますか?いわゆるカップラーメン、一ついくらぐらいだと思うか、ご存知でしょうか」

 マスコミが「庶民感覚からズレている」と揶揄交じりに批判することになった質問に及んだ。

 麻生「最近買ったことがないのでよく知りませんけども、昔最初に出たのは、最初に出たとき、日清が出したとき、確かえらい安く出たなあというのがあるんですけど、あのとき何十円かで、今400円ぐらいします?」

 軽いざわつき交じりの失笑が漏れたから、セレブだと言えども麻生太郎「ピンポン」といかなかったことに気づいたのだろう、「そんなにしない?」と牧山女史の方に聞き返し、「そんなに、そんなにしません?あの、最近私はそれを自分であんまり買ったことがないもんで、その値段を直ちに言われても、随分色々と種類が出ていると言うことは知っています」

 「雇用の格差問題について限定して」質問すると宣言したのだから、それとの関係で物価高が生活に与える影響を取り扱う観点から、10月19日に麻生首相が「周囲から、物価高や品切れの話、値段が同じだが品物の量が減っているという話を聞いて関心があった」ということでスーパーを視察したときにカップラーメンには目はいかなかったのですかと、視察がどの程度ホンモノだったのか追及するのかと思ったが、全然触れずじまいだった。

 牧山女史「定価は170円ぐらいです。今年に入ってから値上げをされましたけども、昨年までは155円、そしてその前には140円でした。今やカップラーメンは200円を迫ろうとしているんです。本当に高い食べ物になろうとしているところでございます。収入は伸びずに食品は値上がりする。まさに今や国民生活は生活水準の維持・確保が大前提となるほど圧迫しているのです。政府は定額減税を改めて商品券のような、何かバラ撒き政策をお考えのようですが、例えば輸入小麦の価格をコントロールできる立場の政府が国民生活のために例えば小麦価格を下げるような国民生活に直結する経済対策ににするべきだと思います」

 ここでも麻生太郎を答弁席に立たせる労を省略させてやるいたわりを見せた。追及ではなく、単に民主党の要求を牧山女史が代表となって説明しただけといったところ。

 帝国ホテルの食堂ではラーメンはメニューに置いてあるのか。置いてあると答えたなら、いくらするんだと聞く。置いてないと答えたなら、庶民のメニューだから下々が食べる物と看做して置いてないのだろう。昼食を外食していたサラリーマン男女が物価高に備えた生活防衛のために弁当を持参して食べる者が最近増えたそうだけど、本当に総理は国民の生活不安を実感しているのか。実感していて「国民の生活を守る」と言っているのか、「周囲から、物価高や品切れの話、値段が同じだが品物の量が減っているという話を聞いて関心があった」をスーパーの視察理由に上げていたが、具体的に何がどう値上がりしているのか調べてはいないのか、調べないまま「国民の生活を守る」と言っているのかと総理の考えを聞く。あるいは国民の生活を守るための一方法として「小麦価格を下げるような国民生活に直結する経済対策」を政府は考えているのかどうかと質問したなら、それがそのまま「追及」となったはずだが、尻切れトンボのまま終わらせてしまった。

 そして尻切れトンボは最後まで続く。

 実感しているかどうかは非常に大切な問題となる。実感の強弱が利害代弁の強弱につながるからだ。例え兼ねていたとしても、支持率上昇狙いや選挙対策から離れて、実感していることの実現に少しでも向かうことになる。

 牧山女史は「生活水準の維持・確保」の質問から離れて、「韓国大統領との会談で竹島問題を取り上げなかったのは事実なのか」、とか「中国との会談で食の問題に進展があったのか」といった質問に移ったが、相変わらす質問は「追及」とはならない中途半端、資料に目を落として喋る時間の方が長い、単に説明しているだけといった場面に終始した。

 麻生「韓国との間に竹島の問題が、日韓首脳会談の間に出たことはありません。日中の間で食糧問題は出ました。そして食の問題に関しては私の方から言って、向こうの方からこれはきちんと対応するという話があった、というふうに記憶しております」

 「というふうに記憶しております」とは、これも重要・切実な問題だとは把えていないからこその距離を置いた言い方であろう。「と言うふうに」は「その程度に」の意味だからだ。

 中国産食品の安全性についての中国首脳との話が「その程度に記憶している」。切実には思わないまま、首相の座を守るため、支持率を下げないため、選挙に勝つために「食の安全対策」を講じる。その程度の麻生太郎総理大臣なのだが、追及しないから、無罪放免となった。

 牧山女史「総理が竹島問題や東シナ海のガス田などのとても重要な課題に正面から取り組むと私は期待しておりましたし、また中国製の餃子や、インゲン、粉ミルクと続く食の安全の問題でも国民の間から大きな不安が生じておりますから、もっと具体的な成果が得られると思っておりました。えー、単なる顔見世外交でなかったことを期待して次に進みます」
 
 「これといった成果がなかったのだから、単なる顔見世外交で終わったのではないのか。自民党外交は顔見世外交が十八番(おはこ)となっているのではないか」と追及すべきを、「期待して次に進みます」と自分の希望を述べるだけで麻生首相を答弁席に立たせる労を再び自分の方から省略してやる親切丁寧さを示しすのみに終わった。再びの無罪放免で、これでは気の抜けたビールより始末に負えない出来レースじみた遣り取りでしかない。

 続いて給油活動に移った。

 牧山女史「給油活動の再開に関しましては国民世論は半々、まさに拮抗しております。国民はインド洋における給油をなぜ再開しなければならないのか十分な説明を待っています。パネルの下からお分かりになりますように国民世論は十分な時間を経て給油活動には反対という意志を示したのだと思います。当時この世論調査に関しましては町村官房長官が、私ども謙虚に受け止める必要があると答弁し、石破防衛大臣も世論調査で給油の継続に反対という結果を受けて、反対をされる方が賛成を上回ったと言うことは事実として受け止めなければならないと述べられました。しかし国民世論に聞く耳を持つような答弁をされておきながら、実際には3分の2を使うと言う、結局は衆議院で再可決に至りました。これこそ国民世論を無視した、国民の声に対して聞く耳を持たない政治であると思います。私はこれらの世論調査こそが、時の国民世論を現す大変重要なデータであると考えますが、総理はこの議論について如何お考えでしょうか」

 麻生「先ず最初にこの補給支援活動というものはアメリカのためにしているものではありません。これはテロ等との戦いに於いて日本がそれの一環に参加しているという自意識が私自身にはあります。日本もそれに参加すべきだと思っております。従ってその段階に於いて、そういう状況下に於いて日本が各国参加しております国家がみんな期待している補給支援活動から日本が撤収するということは私どもが取る選択ではありません。今も世論調査を示しておられますけども、昨年からずっと出てきておりますけども、何となく反対が減ってきているという数字になっているように見えますが、これはそちらが出された数字なんで、私が出した数字じゃありませんで、54%の反対が45まで下がってきたのかなあーと、最近まで44まで下がってきたのかと、いろんな考え方が出るんだと思いますけども、いずれに致しましても一定のご理解を得られる方々が出てきておられるように思っておりますのか率直なところでございます。いずれについても今後この必要性につ来ましては国民のご理解を一人でも多く得られるように努力していかねばならんと思っております」

 質問が「追及」となっていないから、結局どうってことのない答弁しか引き出すことができない。

 牧山女史「総理、ごらんのように国民の世論は大きく分かれております。そして昨年の選挙で私たち参議院で勝つことによって今まで議論されていなかったことがたくさんの時間が費やされて、そして年末には反対と言う意見が上回ったわけですね。最近では決めかねている方も多いと思いますけれども、やっぱり十分な審議のもと、十分な議論をした上で決めていただきたい。そして給油支援を続けたいのであれば、国民世論と真摯に向き合うために国民の信を問うべきだと思います」とやはり「追及」を試みるのではなく、希望を述べて、「次に移ります」であった。

 牧山女史「次に内閣の支持率について伺いを、お尋ねしたいと思います。報道によりますと内閣の支持率は下降――下がってきているようであります。新テロ特措法の議論をする以前に国民は内閣を支持していないのではないでしょうか。要するに国民は今こそ麻生総理が勇気を持って国民の意見と向き合うことを期待しているんだと思います。国民の信を問い、その結果選ばれた議員によって日本の国際貢献について徹底的な議論を望んでいるはずです。後期高齢者医療制度のように制度そのものに問題があるのであれば、一度制度を終わらせて、その上でゼロベースから人生の先輩方の医療制度を立て直すべきだと思います」

 内閣の支持率が下がっているから国民の信を問うべきと言い、新しい内閣の下日本の国際貢献について徹底的な議論を行うべきと言い、後期高齢者医療制度はやり直すべきだと言い、ほぼ言うだけで終わらせて「追及」には変えていない。

 牧山女史「小泉元総理大臣は選挙の前にサラリーマン増税はしないと公約して選挙をやり、そして増税をし、また安倍元総理は必ず年金問題を今年の3月までに解決すると言って、あっさりと逃げました。そして福田前総理は拉致問題を自分の手で解決すると言って敵前逃亡されてしまいました。総理、総理は任期中に何をされようとしているんでしょうか。もし具体的にこれだという政策がございましたなら、一つでも結構です、一つで結構です。これだけは実現するという政策を語っていただきたいと思います。お願いいたします。」

 麻生「あのう、色々なところでご質問の内容が何をしたいかということを聞いておられる?それ一点を聞いておられる、んでしょうか。ちょっと質問の内容が色々と飛びましたもんで、そこがご質問内容ですね。今は短期的には何と言っても景気回復だと思っています。これが私が何をやらねばならない一番のものは短期的には景気対策と思っております」

 牧山女史「できることは景気対策をこれからまた、聞くチャンスがあったら後ほど聞きしたいと思っていますが、とにかくできることはできる、できないことはできないと言う素直な政治を国民は求めているのだと思います。何かと問題になる年金特別便ですが、確か政府は今年の9月までにやり遂げると言ってたかと思います。実は私の知り合いの手元に先週の土曜日に年金特別便が届いたんです。10月25日です。ところが中を開けてみると9月11日付だったんですね。本当にこれおかしいと思うんですが、やはりできることはできる、できないことはできないと言わないと、こういうマヤカシの政治が生じてしまいます。このまま9月まで国民の信を問わずにいたら、日本丸は沈没してしまうかもしれません。今こそ勇気を持って国民の民意を聞くべきときなんだと思います。さてもう一点衆議院の3分の2による再可決について述べます」と言って、「素直さ」など政治に求むべくもないことを求める青臭さだけを見せ、「国民の信を問う」ことについての追及はなく、パネルを取り出させる。

 牧山女史「テレビをご覧のみなさまも記憶に新しいところだと思いますが、新テロ対策特措法案が昨年の11月13日に衆議院で可決され、その後ここ参議院では1月11日に否決されました。しかしながら同じ1月11日、衆議院でいわゆる3分の2の再可決により成立しました。さらにはガソリン暫定税率もそうでした。再可決について世論はどうなったか。この際可決については国民は不適切だと、明確な意思を示しております。政府はこの新テロ特措法案を何とかして再可決させようとしているようですけども、総理、国民は厳しい目で監視すると思います。それでもこの法案を通すと言うなら、この際国民と向き合って、そして国民の声を聞いて仕切り直すべきだと思いますが、如何でしょうか」

 麻生「このガソリン税率の話は関係ない話ですね?この資料出されておりますけど」と資料を右手で高く上げる。

 牧山女史、自席に坐ったまま「3分の2を」

 麻生「何でガソリンの話が出てくるんだか、ちょっとよく理解ができないんですが、補給支援活動っていうのは先程から基本的に答弁しておりますように是非とも必要だという点に関してはまったく変わっておりません。テロとの戦いっていうのは依然続いております。世界中がそれに参加して40カ国以上があそこに人を送って色々とやっておりますが、ご存知のとおりなんであって、そうした中で国際社会の一員である日本だけがそこから撤収するという選択はないんじゃないかと基本的にそう思っておりますんで、是非とも参議院に於いてもご賛同いただければと思っております」

 答弁として求めた「3分の2」には何も答えずじまいを許してしまって、午前の質疑は終了、午後1時から再開。午後まで追っかけるのは午前中と同じ繰返しなのは分かっていたから、やめることにした。

 牧山民主党議員は色々と取りとめもない形であっちに飛びこっちに飛びの追及とはならない質問を続けたが、追及とはならないながらもマスコミは格好の標的として「カップラーメンが400円する」とする麻生の生活感覚・金銭感覚を取り上げ、それ以外は何も取り上げなかった。質問者の牧山議員も肝心の質問の中で取り上げなかった。それだけで終わった質疑であった。

 「カップラーメン一個400円」の麻生金銭感覚のマスコミの取り上げに興味が湧いて参議院のインターネット中継から拾い出してみたが、話は追及の甘さに向かってしまった。 

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橋下府知事光市母子殺害弁護団懲戒請求に見る独裁者キャラ

2008-10-28 09:22:56 | Weblog

(陸上自衛隊中部方面隊創隊48周年記念行事であいさつする橋下徹大阪府知事)(「msn産経」記事写真から画像処理)

 元々自信過剰の性格なのではないのか。それがタレントで人気を獲得し、その虚名で大阪府知事に若くして大量票を獲得して当選したが、実力だと思い込んだがために手に入れた府知事の権力を自らがつくり出したものとし簡単に自己をより絶対化させてしまった。マスコミがチヤホヤすることもあって、自信過剰が膨張し、自己の絶対性に大確信を持つに至った――自分自身を絶対的存在、絶対的正義の存在とするあまり、独裁的になっていることに気づかない。
 
 自己を絶対化・正義化する人間は必然的に独裁化する。独裁性が主たる人格となる。何しろ自己は間違うことのない絶対的人間、正義の人間、王様だと看做しているのだから、自分のどのような判断も正しいということになるからだ。

 自分のどのような判断も正しいということになれば、その絶対値に逆らう判断は橋下にとってはすべて排除すべき間違った主義主張となる。

 そのような橋下の独裁的な正義の網にかかったのが朝日の社説といったところなのだろう。

 大阪府の橋下徹知事が19日、兵庫県伊丹市の陸上自衛隊伊丹駐屯地で開かれた「中部方面隊創隊48周年記念行事」に出席して祝辞の中で次のように発言した。

 「人の悪口ばっかり言ってるような朝日新聞のような大人が増えると日本はダメになります」(「asahi.com」

 朝日新聞のすべてを「人の悪口ばっかり言っている」新聞だと負の価値観で一括りして、その存在自体をどのようなプラスの価値も一切認めずに否定した。否定の原因は朝日新聞が社説で橋下知事には弁護士の資格はない、弁護士の資格を返上してはどうかと書いたからだが、批判の妥当性を問題とはせずに頭から「悪口」だと切って捨てたから、朝日新聞のすべてを悪とすることができた。

 いわば朝日が批判した橋下の態度を内省のプロセスを経ずに橋下は正しい態度だ、間違っていないとストレートに自己正当化したからで、そうでなければ「悪口」と切って捨てる資格はないのだが、内省しない点に自己絶対化・自己正義化の強さが如実に表れている。

 朝日新聞が橋下に対して弁護士の資格を返上したらどうかと批判した理由は周知のように1944年4月14日に山口県光市で発生した当時18歳少年による当時23歳主婦殺害と暴行、生後11ヶ月の娘殺害の言われているところの「光市母子殺害事件」の被告弁護士に対して出演していたテレビ番組を通して求めた懲戒請求に多くの視聴者が応じたことに逆に弁護団の4人が業務妨害だとして1人当たり300万円の損害賠償を求めて提訴、懲戒請求はすべて不当請求として斥けられたが、損害賠償請求は2008年10月2日、広島地裁によって橋下が1人当たり200万円(合計800万円)の賠償を支払うよう判決があった経緯に発する。
 
 朝日・橋下いずれの態度に軍配を上げるべきか判断の材料とするために最初に問題となった08年10月3日付けの『朝日』社説≪橋下TV発言―弁護士資格を返上しては≫を全文引用。

 <歯切れのよさで人気のある橋下徹・大阪府知事のタレント弁護士時代の発言に、「弁護士失格」といわんばかりの厳しい判決が言い渡された。

 山口県光市の母子殺害事件をめぐり、橋下氏は昨春、民放のテレビ番組で、少年だった被告の弁護団を批判し、>「弁護団を許せないと思うんだったら懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけた。

 その発言をきっかけに大量の懲戒請求を受けた弁護団が損害賠償を求めた裁判で、広島地裁は橋下氏に総額800万円の支払いを命じた。判決で「少数派の基本的人権を保護する弁護士の使命や職責を正しく理解していない」とまで言われたのだから、橋下氏は深く恥じなければならない。

 この事件では、少年は一、二審で起訴事実を認め、無期懲役の判決を受けた。だが、差し戻しの控訴審で殺意や強姦(ごうかん)目的を否認した。

 少年の新たな主張について、橋下氏は大阪の読売テレビ制作の番組で、弁護団が組み立てたとしか考えられないと批判した。弁護団の懲戒を弁護士会に請求するよう呼びかけ、「一斉にかけてくださったら弁護士会も処分出さないわけにはいかない」と続けた。

 こうした橋下氏の発言について、広島地裁は次のように判断した。刑事事件で被告が主張を変えることはしばしばある。その主張を弁護団が創作したかどうかは、橋下氏が弁護士であれば速断を避けるべきだった。発言は根拠がなく、名誉棄損にあたる――。きわめて常識的な判断だ。

 そもそも橋下氏は、みずから携わってきた弁護士の責任をわかっていないのではないか。弁護士は被告の利益や権利を守るのが仕事である。弁護団の方針が世間の常識にそぐわず、気に入らないからといって、懲戒請求をしようとあおるのは、弁護士のやることではない。

 光市の事件では、殺意の否認に転じた被告・弁護団を一方的に非難するテレビ報道などが相次いだ。そうした番組作りについて、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は公正性の原則からはずれるとして、厳しく批判した。

 偏った番組作りをした放送局が許されないのは当然だが、法律の専門家として出演した橋下氏の責任はさらに重い。問題の発言をきっかけに、ネット上で弁護団への懲戒請求の動きが広がり、懲戒請求は全国で計8千件を超える異常な事態になった。

 橋下氏は判決後、弁護団に謝罪する一方で、控訴する意向を示した。判決を真剣に受け止めるならば、控訴をしないだけでなく、弁護士の資格を返上してはどうか。謝罪が形ばかりのものとみられれば、知事としての資質にも疑問が投げかけられるだろう。>――

 裁判の具体的な経緯を知るために「光市母子殺害事件」「Wikipedia」で振返ってみる。 

 【事件の概要】

 1999年4月14日の午後2時半頃、当時18歳の少年が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入った。排水検査を装って居間に侵入した少年は、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。頸部を圧迫して窒息死させた。

 その後少年は女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を殺意をもって床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。

 少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された。

 【弁護側主張】

 上告審(最高裁判所)の段階になって主任弁護人となった安田好弘は、接見内容をもとに被告に母子を殺害する故意が無かったことを主張した。しかし、最高裁判所判決では「被告は罪の深刻さと向き合って内省を深めていると認めるのは困難」として採用されなかった。

 広島高裁での差し戻し審では、>「母恋しさ、寂しさからくる抱き付き行為が発展した傷害致死事件。凶悪性は強くない」として死刑の回避を求める方針を明らかにしている。

 以下は、弁護団の主張の一部である。
 ・強姦目的じゃなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた
 ・(乳児を殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ
 ・(検察は)被告を極悪非道の殺人者に仕立て上げ、死刑にしようとしている

 裁判の経過 

 ・1999年6月、山口家庭裁判所が、少年を山口地方検察庁の検察官に送致することを決定、山口地検
  は少年を山口地裁に起訴した。
 ・1999年12月、山口地検は、死刑を求刑した。
 ・2000年3月22日、山口地方裁判所は、死刑の求刑に対し、無期懲役の判決を下した。
 ・2002年3月14日、広島高等裁判所は、検察の控訴を棄却した。

 山口地裁および広島高裁の判決は、いずれも、犯行時少年が18歳と1ヶ月で発育途上にあったことや、殺害については計画性がないこと、不十分ながらも反省の情が芽生えていることなどに着目して判決を下した。ただし、広島高裁は更生の可能性について、「更生の可能性が無い訳ではない」と曖昧な判断をしていた。

 ・2006年6月20日、最高裁判所は、検察の上告に対し広島高裁の判決を破棄し、審理を差し戻した。

  最高裁は判決の中で、一審及び二審において酌量すべき事情として述べられた殺害についての計画性のなさや被告人の反省の情などにつき、消極的な判断をしている。

 上告を受けて、最高裁は公判を開いた。また、公判の当初の予定日に主任弁護人の安田好弘弁護士・足立修一弁護士が欠席して弁論が翌月に遅延したことについて、最高裁からも不誠実な対応であると非難された。

 ・差戻し審の第1回公判は、2007年5月24日に開かれた。

 検察側は「高裁の無期懲役判決における『殺害の計画性が認め難い』という点は著しく不当」とした上で、事件の悪質性などから死刑適用を主張。弁護側は「殺意はなく傷害致死にとどまるべき」として死刑回避を主張した。

 ・第2回以降の公判は6月26日から3日連続で開かれた。

 1審の山口地裁以来7年7か月ぶりに行われた被告人質問において被告は殺意、乱暴目的を否定した。

 7月24日から3日連続の公判が行われた。弁護側が申請した精神鑑定人は被告の犯行当時の精神が未成熟だったと証言した。

 9月18日から3日連続の公判が行われた。被告は1、2審から一転して殺意を否定したことについて「(捜査段階から)認めていたわけではなく、主張が受け入れてもらえなかっただけ」とした。20日の公判では遺族の意見陳述が行われ、改めて極刑を求めた。

 10月18日に検察側の最終弁論が行われ、改めて死刑を求刑した。

 12月4日に弁護側の最終弁論が行われ、殺意や乱暴目的はなかったとして傷害致死罪の適用を求めた。この日の公判で結審した。
 
 ・2008年4月22日、判決公判が行われ、弁護側主張を全面的に退け死刑回避理由にはあたらないとして死刑判決となった。 (以上「Wikipedia」から)――
我が正義の味方橋下徹センセイは被告が「1、2審から一転して殺意を否定したこと」を弁護団の入れ知恵、陰謀、差し金、悪巧み、策略、悪計・・・とまあ、色々な言葉を頭に思い巡らせたのだと思うが、と見て、怒り心頭に達し、((以下再び「Wikipedia」を利用して「光市母子殺害事件」
の項目を参考とする) 2007年5月27日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』において、>「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」「何万何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求をたててもらいたいんですよ」と山口県の光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた。

 我が正義の味方橋下徹センセイの力強い正義の呼びかけに応じてテレビや2ちゃんねる等の掲示板のスレッドや一般のブログ記事・まとめサイト(atwiki)などで、「懲戒請求書の記載の仕方」を見た人たちの懲戒請求書約7,558通(2006年度における全弁護士会に来た懲戒請求総数の6倍以上)が弁護士会に殺到することになった。

 これに反発した光市母子殺害事件弁護団のうち4人が業務を妨害されたとして、2007年9月に橋下に1人当たり300万円の損害賠償を求める裁判を広島地裁に起こした。

 我が正義の味方橋下徹センセイは記者会見や裁判所への答弁書で 「発言に違法性はない」、「懲戒請求は市民の自発的意思」、「自身のテレビでの発言と一般市民の懲戒請求の間には因果関係はない」などと反論したという。

 だが、後に橋下センセイ自身は懲戒請求していなかったことが明らかになり、そのことを批判されたが、その理由について「時間と労力を費やすのを避けた」、「自分がべったり張り付いて懲戒請求はできなくはないが、私も家族がいるし、食わしていかねばならないので…」などと政治家並みの、と言うか、政治家に劣らないと言うべきか、見事な釈明をしたとのこと。

 怒るのはいい。弁護士が入れ知恵して殺意否認へと転じさせたと。だが、弁護士は被告人の利害代弁者であり、原告の立場に立っていない。事件とは関係のない第三者にしても被告の側に立てば、計画的殺人ではなく、衝動的として少しでも罪を軽くしたい心理的な利害が働き、死刑ではなく、無期懲役としたいだろうが、原告の立場に立てば、無期懲役など許せない、死刑にすべきだと心理的な利害は極刑に向かう。橋下は単に原告の側に立ち、極刑こそ正義だと信じていたに過ぎない。

 その上判決を下すのは裁判官であり、弁護団ではないことを失念していたようだ。もし弁護団が卑劣な手段を講じて事件の事実に反して罪を軽くする方向に持っていこうとしたとしても、それを是として受け入れるかどうかは裁判官の判断一つである。裁判官も絶対ではないから、三審まである。

 いわば批判は最高裁か差戻し審の高裁に於ける最終判断を対象とすべきが、橋下の場合は事件の直接的関係者でないにも関わらず、弁護団の裁判態度・裁判戦術を対象とするお門違いを犯した。実際問題として「殺意や乱暴目的はなかったとして傷害致死罪の適用を求めた」弁護団の要求に対して最高裁は「弁護側主張を全面的に退け死刑回避理由にはあたらないとして死刑判決」を下しているのだから、自身の極刑にしたいという心理的利害と一致したことになり、橋下の懲戒請求嗾(けしか)けは大山鳴動のネズミ一匹も出てこない無意味な空騒ぎだったことになる。しかもいくら三審制だと言っても、800万円の損害賠償一審判決というおまけ付きまで自分から提供している。

 まさかいくら自己正当化意識・自己絶対正義意識の強い橋下徹でも差戻し審判決が自身の懲戒請求煽動が功を奏した判決だとまでは思っていまい。

 判決は弁護士及び検事が提示した事件に関わるそれぞれの事実を裁判官が判断した事実によって構成される。“事実”は解釈によって成り立つから、すべての事実が完璧に一致することはなく、ゆえに真実なるものは存在しない。存在するとしたら、自分の解釈した事実だけを“事実”として把えることから生じる思い込みに過ぎない。

 橋本徹は裁判官の判断を待たずに、弁護団が新たに打ち出した判断にいきり立ち、懲戒請求の唆しに走った。これをどのような自己正当化のこじ付け・詭弁を以てしても正しい懲戒請求煽動だったと言えるだろうか。

 橋下が他人に懲戒請求を嗾けておいて自身は懲戒請求をしなかった理由に「私も家族がいるし、食わしていかねばならない」ことを上げているが、裏を返すと、自分だけを食わせていけばいい扶養家族のいない独身者か、自分が食うことも心配しないでいい親がかりの生活を送っている独身者を嗾けの対象としたということになる。

 自分の味方を独身者に置いたのである。その多くは若者と言うことになるだろう。

 確かに正義の判断は年齢や性別、社会的階層によって異なる場合があるが、いくら加害者が犯行当時18歳の少年だったとしても、殺人事件の裁判の弁護団の態度を若者という階層に限って特定的に判断させようとしたのは一般的・年齢的に社会的経験の幅が狭く、その分判断能力が未熟であり、そういった資質に応じて側面的に抱えている無考えに同調しやすい危険性を考慮した場合、嗾けの意志は悪質であり、悪質なだけその意志は強いことになる。

 このような内容を隠した懲戒請求煽動を自らも無考えに正しい行為として押し通した。自己を絶対化していたからこそできた、あるいは自己を無条件に正義の立場に置いていたからこそできた煽動であろう。

 「Wikipedia」が書き記しているが、横浜弁護士会が懲戒請求者に対して本人の請求なのかどうかの判断の材料にするために当然の行為として行ったことなのだろうが、住民票の提出を要求したことに橋下徹は自身のブログで「横浜弁護士会のインチキ野郎」「偽善に満ちた行為」と罵倒、「光市母子殺害事件」の弁護団に対しては「チンカス弁護士」と激しく貶(けな)したということだが、このような書き込みが自己を無条件に正義の立場に置いていた、あるいは自己を絶対化させていたことの何よりの証明となる。

 この自己絶対化・自己正義化が朝日社説の橋下批判に対しても敏感に反応、作動して、「人の悪口ばっかり言ってるような朝日新聞のような大人が増えると日本はダメになります」と陸上自衛隊中部方面隊創隊48周年記念行事という公の場所で朝日新聞を「人の悪口ばかり言っている」新聞だと独善的・一方的に断罪し、その存在意義を全面否定した。

 橋下は「朝日」を批判した理由を次のように言っている。

 「僕は権力者だから批判してもらって構わない。しかし、一線を越えた批判や、からかい半分の批判には徹底して対抗しないといけない。僕にも家族はあるし事務職員を抱えている。弁護士資格を返上したら従業員はどうなるのか」(「asahi.com」)

 何人もそのような資格はないにも関わらず自己を絶対化・正義化し、王様の位置に置いているからこそ、客観的・合理的な論理性もなくズレた発言となるのだろう。「朝日」の社説は橋下の弁護士としての資格の適格性を問うたのである。適格性はそれぞれの資格に付随する義務と責任の履行の有無が関係してくるのみで、家族とか事務員を抱えていることとは関係はない。あるとしたら、あなたは弁護士としての義務と責任を果たさずにこれこれの重大な不正を犯したから弁護士の資格はないが、家族や事務員を抱えていて、資格を取り上げたなら家族を養っていけない、従業員の給料も払えなくなるから、資格を取り上げるのはやめますという免罪も成り立つことになる。

 あるいは極端な例だが、人殺しをした人間に人間としての適格性を問うのではなく、あなたを刑務所にぶち込むと家族や従業員が暮らしに困るから、刑務所にぶち込むのは免除しますと残される者の生活を問題として無罪放免を可能とすることもできることになる。

 このように客観的・合理的な論理性に反する理由付けを自己絶対化・自己絶対正義の根拠として自己に向けられた批判を「一線を越えた批判や、からかい半分の批判」だとする。

 この客観的・合理的な論理性の欠如は「横浜弁護士会のインチキ野郎」とか「チンカス弁護士」といった自らの他者に対する客観的・合理的な論理性を欠如させた批判に対応する相互に通じる姿勢であって、やはり自己絶対化・自己絶対正義化が招いている歪んだ自己認識としか言いようがない。

 現在橋下府知事に求められているのは謙虚な自己省察ではないだろうか。余計なお世話かもしれないが、いつかは大きな過ちをするような気がしてならない。 

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製造・販売元「麻生」製九州新幹線パネル剥離・脱落は「自公政権剥離・脱落」の予兆か

2008-10-27 06:10:35 | Weblog


 麻生が今問われているのは高級料亭や高級ナイトクラブと比較した「ホテルは安全で安い」という金銭感覚ではなく、一般国民の生活感を真に実感できるか否かの政治的想像性であろう。

 麻生首相が1979年に衆議院に初当選して政界に転出するまで社長を務めていた「麻生セメント」の後身、麻生首相の弟が社長となっている「麻生」製造・販売の建設パネル資材「ASフォームI型」が九州新幹線の橋脚と橋桁の間の「埋込み型枠材」として使用されたものの、部分開業前から剥離・脱落する問題が生じていたという。

 同じパネルは下水処理場の貯水池やプールの底などにも使用されているということだが、パネルが浮き上がったり剥がれたりする不具合が相次いでいて「麻生」は02年、この型枠の販売を取り止めたと「河北新報」インターネット記事に出ている。

 いわば製品そのものに欠陥があった、欠陥製品だったと言うことなのだろう。
だが、「西日本新聞」インターネット記事は、部分開業前の監査と検査の際に15カ所で橋げたのコンクリートとパネル材にすき間ができているのが見つかって、樹脂を注入するなどして補修したが、工事発注元の鉄道・運輸機構(旧日本鉄道建設公団)はパネル材に欠陥があったことは知らされていなくて、「建設会社の施工に問題があったと認識していた」と伝えている。

 工事発注元の鉄道・運輸機構は製品そのものが欠陥製品だったと知らされず、施工業者の施工ミスが招いた剥離・脱落だとばかり思っていた。――

 鉄道・運輸機構の話を事実とするなら、「麻生」の側が欠陥製品であることを隠していたことになる。

 欠陥製品と分かったからだろう(既に分かっていたが、安全性に問題はないからと隠していたということはないと思うが、そういった隠蔽がいくらでも横行しているからつい疑ってしまう)、鉄道・運輸機構は東北新幹線や建設中の北陸新幹線の高架橋を多分設計図上で調査、同じパネルが計57カ所の高架橋等で使用されていることが判明したと「毎日jp」が伝えている。<同機構は維持管理しているJR各社などとも協力し、早急に点検を行い、はく離が確認されれば直ちに補修を行うとしている。>(同「毎日jp」)――

 北九州新幹線工事では現在延長工事中の新八代―博多間には使われていないというのは、製品の欠陥に対応した措置に違いない。
株式会社「麻生」自身も欠陥製品だと認めているとする記事を「日経ネット」が伝えている。

 <麻生は「すき間ができる可能性のあるパネルだった」と欠陥を認め、「出荷したまま対策を取っていないパネルが一部残っている。責任を持って補修などの対応をする」と説明している。>――

 「出荷したまま対策を取っていないパネル」とは欠陥隠しによって生じた無対策なのは明らかである。

 官民関係なしの偽装行為や不正行為の隠蔽が跡を絶たないが、かつては自身が社長であり、現在は弟が経営する血縁関係にある――いわば首相を出している会社であり、一族経営の関係にあるのだから、そういった名誉・事実関係の手前、欠陥製品の隠蔽などできないぞといったプライドがクスリとはならなかった欠陥の隠蔽だったということなのだろうか。
 
 この“プライド”なるものは麻生首相自身には逆の方向――プライドをプライドとする方向に働いているようだ。

 麻生首相が毎晩のようにホテルで食事し、ホテルのバーでアルコールを嗜んでいる生活態度が庶民感覚から離れているとマスコミ及び世論の批判を浴びているが、麻生首相の方は批判をものともせずにムキになってまでして「ホテルは安全で安い」の一点張りで自らの生活スタイルを自己弁護し、自己正当性を押し通すプライドの高さを示している。

 「ホテルのバーっていうのは、別にどなたも来ていますから。高いというイメージは少し違う。普通にどなたでも来ている」(「asahi.com」)

 10月24日の「中央日報」≪ホテルのバーなど「ハシゴ酒」…麻生首相≫は麻生首相と記者たちの次のような遣り取りを伝えている。
記者(首相官邸のぶら下がり記者会見で)「一晩数万円もする高級飲食店やバーなどを飲み歩くのは庶民感覚からかけ離れているのでは」

麻生首相「庶民という言葉を繰り返すが、私が考えるには、そうした庶民が最も多い所がホテルだ」

 (果してスーパーに自ら買い物籠を下げて値段の安い物、安い物を手に入れようとしている「庶民」が帝国ホテルといった一流ホテルに毎晩のように出入りして食事とアルコールを愉しむだろうか。いや、愉しめるだろうか。)

記者「(毎晩高級飲食店を出入りすることについて)批判があるという点をどう思うか」

麻生首相「ホテルのバーっていうのは安全で安いところだという意識が僕にはある。だけど、例えば安いとこ行ったとしよう。周りに記者と警察官が集まり(オーナーから)営業妨害って言われたら何て答える?聞いてんだよ。答えろよ」
記者「政治献金や政党への支援金は高級な食事のために提供されたものではない」

麻生首相「幸い僕にはお金がある。僕のお金を支払って食べている」――

 マスコミが何と攻めようと、麻生首相の自分の生活スタイルにかけるプライドは些かも揺るがない。

  同「中央日報」は記事の最後に次のように書き留めている。< 業務が終われば即刻直行した後、2、3次会までに次から次へと場所を替えて飲み歩いた後、平均夜11時ごろ帰宅する。麻生首相とともに夕食を取った一部若手議員は「対話の99%が日常の雑談(馬鹿話)だ」と話した。そのため日本では「金融危機で多くの国民が厳しい状況にあるのに、首相が現実をあまりにも知らないのでは」と批判する声があがっている。>――

 マスコミや世論の執拗な批判にも関わらず、かくまでも自らの生活スタイルに拘る。ホテルでの毎晩のような食事、そしてホテルのバーでの飲酒、葉巻の煙をくゆらし、上唇を斜め上に曲げて得意気に話す例の表情等々に誰が何と言おうと固守する姿勢は自らのプライドを賭けているとしか思えない。

 建設パネル資材「ASフォームI型」が欠陥製品だということを隠した「麻生」のプライドのなさから比較した何と見事な麻生首相の誇り高いプライドだろうか。

 確かに高級料亭や高級ナイトクラブと比較した場合、「ホテルは安全で安い」に違いない。料亭やナイトクラブといった酒席には不明朗会計の所もあると聞くが、ホテルはより明朗会計で、結果的にかなり安くつくといったこともあるだろう。

 だが、「周囲から、物価高や品切れの話、値段が同じだが品物の量が減っているという話を聞いて関心があった」と昼間スーパーを視察し、ついでにJR高田馬場駅前の客待ちタクシーの運転手から売上げ具合を尋ねたのは、昨今の物価高、給与の目減り現象が国民の生活にどう深刻に影響しているか一般国民の“生活実感”を知るためだったはずである。

 自らが出演する自民党宣伝のテレビコマーシャルにしても国民の生活実感を掬(すく)い上げた訴えとなっている。

 「麻生太郎です。
 この1年全国をまわり、
 景気や暮らしの不安を肌で感じてきました。
 今こそ、皆さんの思いを政策に生かすとき、
 私はやり抜く。自民党」
――

 もう一つは

 「麻生太郎です。
 
 景気への不安、暮らしの不安を払拭するため、
 景気対策の補正予算成立に全力を注ぎました。
 そして次の対策へ。
 世界規模の金融危機から、
 日本の経済を、
 国民の生活を守るため、
 さらなる景気対策を進めます。
 
 (別人)具体策に応える自民党」
――

 麻生太郎はホテルで食事しようがホテルのバーでブランデーをどう飲もうが国民の暮らしを守りさえすればいいじゃないか、日本の経済を回復しさえすればいいじゃないかと思っているだろうが、当記事冒頭に書いたように麻生が今問われているのは高級料亭や高級ナイトクラブと比較した「ホテルは安全で安い」といった金銭感覚ではなく、「不安を抱えて生きるのは何よりも辛い」「景気への不安、暮らしの不安」といった一般国民が抱えている生活実感をストレートに実感する、あるいは実感できる政治的想像性であろう。

 この政治的想像性を欠いていたなら、テレビコマーシャルで何と言おうと、あるいは国会答弁や記者会見で何をどう喋ろうと、実感もしていないことを喋るだけのこととなって、さも立派な言葉を並べ立てただけ、口先だけの奇麗事で終わる。

 人間は往々にして大きな病気をしてから健康の有難味を知るように、病気による日常動作の不便を実感して健康がどんなに大切なことなのかを知る。あるいは病気が癒え、健康な身体に戻って改めて身体の健康を実感し、健康であることの素晴らしさを知る。

 だが、他者の喜怒哀楽の感覚を実感できるかどうかは想像性にかかっている。病気で苦しんでいる人間の苦しみを同等の苦しみで実感するには相当な想像力を必要とするだろう。

 生活苦に喘いでいる、あるいは生活の不安を抱えている者の苦しみ、不安を同等の苦しみ、同等の不安で実感するにも、同じように相当な想像力を必要とするはずである。

 それが政治家の立場から実感するとしたら、政治的想像性を欠かすわけにはいかなくなる。

 だが、ホテルでの食事、ホテルでの飲酒を「ホテルは安全で安い」という金銭感覚のみで把えて自らの生活スタイルを固守しようとするプライドからは国民の生活の不安を実感する政治的想像性を窺うことができない。

 国民の生活実感をストレートに実感できる政治的想像性に欠いた総理大臣だとしたら麻生首相の政治性そのものが欠陥製品だということになる。

 欠いていなかったなら、国民の生活不安は既に新聞・テレビが様々な統計をも付け加えて広く伝えていることなのだから、政治的想像性を働かせて実感すれば済むことで、ことさらスーパーを視察することも客待ちタクシーの運転手に売上げがどうだといったことを聞く必要もなかっただろう。

 麻生首相の政治的想像性が国民の生活実感を真に実感できない欠陥製品であるにも関わらず、自民党宣伝のテレビコマーシャルで「この1年全国をまわり、景気や暮らしの不安を肌で感じてきました」とさも国民の生活感を実感しているかのようなことを宣伝するのは意図していようが意図していまいが、欠陥隠しそのものに当たる。

 麻生首相の政治性も 「麻生」製造・販売の建設パネル資材「ASフォームI型」も共に欠陥製品となっている。そしてそれぞれの欠陥を共に隠す欠陥隠しを共に行っている。

 この忠実なまでの対応関係からしたら、北九州新幹線の橋脚に工事・施工した「麻生」製造・販売の建設パネル資材「ASフォームI型」の剥離・脱落が麻生首相を首班とする自民党・公明党の政権からの剥離・離脱を答とする対応まで進む忠実性を示したとしても不思議はない。

 二度あることは三度あると世間では言われている。

 いわば建設パネル資材の剥離・脱落は自公政権剥離・脱落の予兆ではないかということである。

 欠陥製品だと知らずに多くの有権者が首相にふさわしい政治家として麻生を選んでいる。

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柔道石井、国会議員に転向表明か

2008-10-25 09:28:20 | Weblog

 2008年8月の北京オリンピック柔道男子100kg超級に出場、華々しく金メダルを獲得して一躍マスコミの寵児、マスコミ追っかけの狙い目となった石井慧、10月になってプロ総合格闘家への転向の意思を見せていたが、記者会見で「卒業のことで頭がいっぱい。焦らずゆっくり考えたい」と態度保留。

 記者会見に同席した斎藤ヘッドコーチが「将来の進路の決断は本人の自由」、「柔道界を出るなら止めない」と慰留の意思はさらさらなく、突き放した態度を示したことを「Wikipedia」は書き留めている。

 カネの問題とか女の問題で不祥事を起こしたか、飛んでもない失言て支持率の足を引っ張って内閣から見放された閣僚、あるいは支持率が一向に上がらず選挙の顔として期待できなくなって閣僚たちから距離を置かれようになった総理大臣との間のよそよそしい両者関係が石井選手とコーチとの間にも漂う共通項を抱えていたということだけではなく、石井選手の自分では決めかねて周囲の反応に頼る様子見の態度自体も政治家似の――と言うよりも、政治家そっくり、政治家の姿そのものと言える。

 テレビでやっていたことだが、石井選手は10月23日東京・元赤坂の赤坂御苑で開催された天皇・皇后主催の秋の園遊会に他の北京オリンピック金メダリストと共に招待され、天皇に直接「次のオリンピックも目指されるんですか」と尋ねられと、細めた目に笑みを浮かべながら明快に「次のオリンピックは目指しません」と答えた。

 となると、一度はプロ総合格闘家への転向の意思を公にしたのである。いよいよプロ総合格闘家へ転向かと誰にも思わせる「次のオリンピックは目指しません」だったはずである。天皇もそう受け止めた。だから、次のような声かけとなった。

 「今度の優勝がいい、・・・契機となって、よりよい道を歩まれるように願っています」

 だが、そのあと後記者に囲まれ、天皇に次のオリンピックについて声をかけられたようだがとマイクを向けられると――

 「柔道界の後輩とか、国士舘のブラザーとかが上がってきて、自分が出られないかもしれないし…。自分が負けてしまうかもしれないので、(ロンドン五輪出場は)『わからない』と言いました」(「サンスポ」

 記者「確か次のオリンピックはと聞かれて、『目指しません』と言ってたはずだが」と言うふうに聞かれると、

 「そんなこと、口が裂けても言えません」

 テレビのマイクが「目指しません」とはっきり答えているのを把えていたにも関わらず、自らの発言をきっぱりと明快に否定。

 一度公となった発言・態度さえも否定して、政治家もどきに平然としてウソがつける。

 転向するとしたら、政治家こそがふさわしいのではないか。格闘家など勿体ない。格闘家である間は厳しいトレーニングを続けなければならないし、試合となると痛い思いをしなければならない。選手寿命も長いとは言えない。体力が衰えたとき、うまくテレビタレントに再転向できたら儲けものだが、既に政治家こそがお似合いのパーソナリティー・個性を見事に発揮している。

 体重100キロを超え、身長も180センチを超えている威風堂々を最大限利用すれば、コワモテで野党議員を威嚇することもできる。強行採決しようとした議長の採決を議長席に殺到して阻止しようとする野党議員をかつてのハマコー(浜田幸一)のように身体を張って押しとどめる戦功を立て、大いに重宝がられることも可能だろう。

 国会議員になり、副大臣クラスの閣僚にでもなれれば、帝国ホテルなどで大臣や首相と高級料理に舌鼓を打てるし、ホテルのバーで高級ブランデーだろうと何だろうと心行くまで満喫することもできる。葉巻だって優雅に気取って喫うこともできる。

 勿論、平気でウソをつける優れた才能からしたら、自公の議員こそがふさわしいと言える。あるいは石井自身が自らの平気でウソがつける政治家的な才能・資質に気づいていて、次の総選挙で自民党から立候補の声がかかるのを待っていることからの総合格闘家転向意思表明のモラトリアムなのかもしれない。

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妊婦受入れ拒否死亡事故/すべては「危機管理」の問題

2008-10-24 10:05:37 | Weblog

 「asahi.com」「毎日jp」「YOMIURI ONLINE」「msn産経」等を参考に今回起きた8病院による妊婦受入れ拒否が招いた治療遅れによる死亡事故のあらましを振返ってみると――

 江東区の出産間近の36歳の妊婦が4日夕自宅で下痢や嘔吐、頭痛を訴え、救急車でかかりつけの同区内の産婦人科医院・五の橋産婦人科に運ばれた。かかりつけ医は脳内出血の疑いがあると診断し、午後7時ごろ、リスクの高い妊婦に対応する「総合周産期母子医療センター」に登録22病院の一つに指定されている墨東病院に治療受け入れを依頼。墨東病院は昨年末に産科の常勤医1人、今年6月に研修医1人が退職し、医師が計6人となっていたため、「24時間体制で産科医を2人以上確保するのが望ましい」とする「センター」設置基準に反して7月から土日と祝日のセンターの当直医を本来の2人から1人に減らし、そのことを理由に救急搬送の受入れ不可能を通知。

 墨東病院はその後「総合周産期母子医療センター」に拠点病院として登録の都内の22病院をネットワークで結ぶ専用端末で受入れ可能病院を検索、受入れ可能を示す「○」表示の出ている日赤医療センター(渋谷区)、東京慈恵医大病院(港区)、慶応大病院(新宿区)を五の橋産婦人科に連絡。

 五の橋産婦人科が直接連絡を取るが、いずれの病院も検索システムが受入れ可能の「○」を表示していながら、「別の救急患者の対応に追われていたうえ、母体胎児集中治療室が満床だった」(日赤)、「新生児集中治療室が満床だった」(慈恵医大)、「2人の産科医が出産対応に追われ、満床だった」(順天堂大病院)などと受入れを拒否。

 「総合周産期母子医療センター」として登録されてはいないがネットワークに参加しているという東大病院も受入れを拒否し、最終的に受入れ拒否病院は8病院にのぼったという。

 五の橋産婦人科が、多分藁にも縋る思いでだったろう、墨東病院に再度受入れを要請、許可を受けて搬送したが、墨東病院に搬送されるま1時間20分かかり墨東病院に到着時には妊婦は既に意識不明に陥っていて、胎児を無事出産したものの、母親は脳内出血の手術を受けたが死亡。

 対して東京都の石原晋太郎知事は昨23日、都庁で報道陣に対し「医者は一生懸命やっている。みんな命懸けでやっているんだから、そういう事情も配慮して、すべてを否定するみたいな報道をしてもらいたくない」、「墨東病院を弁護するつもりじゃないが、臨月の女性が脳出血を同時に起こしたという大変な事態で、めったにないケースが起こった」(「日刊スポーツ」)といったことを述べたと言う。

 確かに日本の医者は怠け者ばかりの日本の政治家・官僚と違って「一生懸命やっている」だろう。日本の政治家・官僚と違って「みんな命懸けでやっている」と言えるかもしれない。

 「臨月の女性が脳出血を同時に起こしたという大変な事態で、めったにないケース」なら、そういった「めったにないケース」に滞りなく対応できるよう、そういったことのために危機管理体制として現在準備してある「総合周産期母子医療センター」「センター」として満足に機能するよう常に点検・整備しておくべきことが危機管理というものではないだろうか。

 点検・整備を怠った大型トラックに荷物を満載して高速道路を走らせ、整備不良からくる大事故を起こして人を死なせてしまうのと同じ危機管理不全が医療現場で起きたのである。

 「めったにないケース」だと言う前に人一人を死なせた事実は残るのだから、危機管理体制が満足に機能したかどうかを検証すべきだろうが、そんな頭は石原慎太郎にはないようだ。

 治療体制まで含めた準備してある危機管理体制が準備どおりに滞りなく機能して初めて“危機”に対して手を尽くせたと言えるのであって、それでも生命(いのち)が救うことができなかったとき、不可抗力だと言える。

 しかし現実には準備してある危機管理体制が準備どおりには機能しなかった。先ず最初に受入れを求められた都立墨東病院は「総合周産期母子医療センター」の拠点病院に自らを位置づけて置きながら、当直医師を2人配置しておくべき設置基準に反して退職による産科医不足を原因に1人しか置かず、そのことを理由に緊急患者受入れを拒否する危機管理不全を放置していた。

 勿論、墨東病院は産科の常勤医1人が昨年末に退職してから約10ヶ月間、研修医1人が今年6月に退職してから約4ヶ月間、新たな医師獲得・補充に手をこまねいていたわけではないだろう。最大限の努力を払っていたに違いない。産科医不足は全国的に長期に亘る状況としてあるもので補充は容易ではないことが原因となっていた7月からの土日・祝日のセンター当直医1人減であろう。

 だが、医師不足によって「総合周産期母子医療センター」としての組織の体裁をなさなくなった以上、万が一の危機に対応できない場合に備えて人員補充が済むまで、いわば土日・祝日のセンター当直医2人勤務が可能となるまで、「総合周産期母子医療センター」の看板を外し、そのことをすべての都民及び他のすべての病院に徹底周知すべきが自らの拠点病院としての立場と患者生命に対する危機管理というものであったが、そういった危機管理を行うだけの意識に欠けていた。

 第二に「総合周産期母子医療センター」同士をネットワークでつなぐ妊婦の受入れ状況検索システムは1日2回以上の更新を義務付けているのみで、1日2回のみでも許されるリアルタイムの更新とはなっていない非実際的運用が医療現場では受入れ不可能でありながら、検索システム上は受入れ可能の表示となっているといったズレを生じせしめる患者受入れに即応できない危機管理不全にあった。

 災害を想定した危機管理に於ける“危機”とは、それを放置しておくと最悪生命が脅かされる状況を言うはずである。

 そこから起こり得る様々な危機の状況を予測し、その危機によって生じかねない生命の危険を最小限に防ぐべく備える、あるいは発生してしまった危機に対して人的・物的・精神的被害を最小限にとどめる組織的対応として“危機管理”の思想が構築され、それらを組織的に制度化したものが危機管理体制であろう。 

 「総合周産期母子医療センター」もそのような危機管理体制の一つであるはずである。満足に機能しないでは何のための危機管理体制か意味を失う。

 病院・医師は患者の命を預かる。預かる以上、その生命が脅かされることのない万全の危機管理体制を国や地方自治体といった行政と一体となって構築しなければならない責任を負う。

 その責任を果たせないとき、危機管理を怠ったこととなり、危機管理不全状態に陥る。

 産科医不足、小児科医不足等自体がそのことによって患者の生命が脅かされる危険を孕むゆえに“危機”そのものを意味する。そうであるのに国・地方共に産婦人科医師不足だけではなく、小児科医師不足等を全国に亘って長い期間放置してきた。特に国――自公政権の医療に於ける危機管理体制の構築がなっていなかったということだろう。機能的な運営を必要条件とするだけではなく、危機管理に必要な人員・スタッフが十分に補充可能な状態になければ、危機管理体制は単なるハコモノで終わる。

 国は医師不足を国民生命に対する重大な“危機”だと把えていないのではないか。把えるだけの創造力を欠いていたのではないのか。一向に医師不足が解決を見ない問題として横たっている上に医療上の危機管理体制が満足に機能しないのだから、そう思われても仕方があるまい。

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麻生首相、生活無縁のスーパーとタクシーを視察、帝国ホテルに戻って高級料理と酒で口直しする

2008-10-22 03:51:34 | Weblog

 

 野田聖子女史が頬を膨らませているのは麻生首相にしても太田公明党代表にしても年のいった女よりも若い女の方がいいと傍に置いて離さないから、日本初の女性首相の座を小渕優子議員に奪われないか心配で心配で、欲求不満がつい顔に現れてしまったからです。何しろ小渕優子議員は首相候補に第一番に上げらてもいい二世議員という資格を有している


 麻生首相が10月19日、東京新宿区早稲田のスーパーを訪れて「庶民の台所の現状を約20分間、視察した」という。「日刊スポーツ」10月20日インターネット記事がそう伝えていた。

 だが、題名が戴けない。≪首相視察に「お坊ちゃんには分からない」≫――

 選挙向けの折角のパフォ-マンス・苦心の演出なのだから、「お坊ちゃんには分からない」では身も蓋もない。せめて「お坊ちゃまのまま大人になった麻生首相には分かるだろうか」とやんわりと問いかけるべきではなかったろうか。何事も遠まわしが必要である。

 まあ、似たり寄ったりか。尤も題名は主婦の感想から取り入れた言葉で、「お坊ちゃん育ちの麻生さんに、庶民の暮らしは分からない」と言って、全然パフォ-マンス・苦心の演出に乗ってくれなかったようだ。

 麻生首相「周囲から、物価高や品切れの話、値段が同じだが品物の量が減っているという話を聞いて関心があった」

 このような状況は相当前々から起きていたことで、今頃首相が言ったからといって、そのように関心を示した姿に素直に「へーえ、そうか」と注意惹かれるわけのものではない。「何を今さら、遅すぎはしないか」といったところではないか。

 記事は帰り際に「試食で気に入った好物のカステラ(400円)と、1個120円のマドレーヌ5個を自腹で購入。『庶民派』を強調した」と伝えているが、日々の食事に必要な食材以外に400円もするカステラと120円のマドレーヌ5個で600円、合計1000円も散財できるとはなかなかの「庶民派」、かなり贅沢な「庶民」の部類に入るのではないだろうか。

 スーパー視察後、上記「日刊スポーツ」記事は触れていないが、JR高田馬場駅前で客待ちのタクシーの運転席の窓から顔を突っ込み、運転手に不景気が売上げに影響しているといった既に一般に知られている商売事情を尋ねる姿をテレビが伝えていたが、その日の夕食は行き着けとなっている帝国ホテルで摂り、そのままホテル内のバーに移動したと日本の総理大臣の夕方の動向を紹介していたが、高価な食事に舌鼓し、高価な美酒に酔い痴れたといったところなのだろう。勿論、食事中もアルコールを嗜む間もしわがれた声で得意げな顔をして得意気に喋るあの麻生節を途切らせることはなく、日本の景気とは裏腹にお喋りだけは終始絶好調であったろう。

 絶好調なのは麻生節のみ――

 帝国ホテルでの高価な食事と高価なアルコールはスーパーで食した庶民には必ずしも安いとは言えないが、麻生大尽には安物でしかないカステラとマドレーヌの味を一切合財消してしまう口直しとなったことだろうが、それが食味の口直しのみで終わるならまだしも、例え選挙向けのパフォ-マンス・苦心の演出だったとしても、麻生太郎の視線に曲がりなりにも映った一般的な国民の苦しい台所事情を自身の懐豊かな優雅な生活事情にすっかり場面転換させてしまう類の口直しだとしたら、つまり庶民の生活がどこかに飛んでいってしまって頭の中からすっかり消してしまったとしたら、些か問題となる。

 心配がどの程度本気なのかの問題となるからだ。単に付き合った程度のことであったなら、心そこに(=庶民の生活に)なかったことになる。 


 (参考引用)

 ≪「お坊ちゃんのまま大人になった麻生首相には分かるだろうか」≫(日刊スポーツ/2008年10月20日7時51分)

 麻生首相は19日午後、東京・新宿区西早稲田のスーパーマーケット「三徳西早稲田店」を訪れ、庶民の台所の現状を約20分間、視察した。「周囲から、物価高や品切れの話、値段が同じだが品物の量が減っているという話を聞いて関心があった」という麻生氏。品薄のバターや鮮魚、冷凍食品、パスタ類などの売り場を回り「値段が3割くらい上がったの?」と、担当者に価格の実態を質問した。

 視察後、報道陣に感想を聞かれると「値段は同じで量を2~3割少なくしているものもあれば、魚はほとんど変わらないと思ったら、仕入れは減っている。物によって違う」と回答。「多くの庶民には、物の値段が上がったという感想が多い」と聞かれると「間違いなく給料が下がっているから、物価は上がっていると思うはずだし、現実に上がっている」と同調した。帰り際には、試食で気に入った好物のカステラ(400円)と、1個120円のマドレーヌ5個を自腹で購入。「庶民派」を強調した。

 しかし、値段にシビアな主婦からは「お坊ちゃん育ちの麻生さんに、庶民の暮らしは分からない」と、厳しい指摘も。首相就任後、執務を終えると高級フレンチや会員制レストランで食事し、ホテルのバーをはしごするのが“日課”の麻生氏だが、この日も帝国ホテルで夕食後、ホテル内のバーに移動。物価上昇を実感しても、麻生流グルメライフは崩れなかった。

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海自「1対15訓練」死亡事件中間報告の欺瞞を暴く

2008-10-20 17:12:41 | Weblog

 快く送る思いがあった「はなむけ」だとする誤魔化し

 マスコミは「事故」として取り上げているが、ここでは「事件」として取り上げる。その理由はこのブログ記事を読めば理解できるはずである。

 事件のイキサツを10月13日(08年)「asahi.com」記事≪15人と格闘、隊員死亡 海自、集団暴行の疑いで調査≫で見てみると、25歳の海上自衛隊3等海曹(男性)が今年3月末に特別警備隊を養成する第1術科学校の特別警備応用課程に勤務。

 特別警備応用課程とは海自唯一の特殊部隊「特別警備隊」の養成コースで、鳴り物入りで創設した“最精鋭部隊”(「中国新聞」)だという。いわば、エリート部隊のエリート隊員を養成するコースといったところなのだろう。

 以下再び上記「asahi.com」記事から引用。

 ところが本人から途中で辞めたいという申し出があり、9月11日付で同課程を罷免され、他の部隊に配属される予定だった。罷免の2日前の9月9日午後4時頃から3等海曹が1人で15人を相手とする格闘訓練が行われ、14人目まで進んだところでその者のパンチを受けて転倒。意識不明となって病院に搬送、26日目9月25日に死亡。死因は急性硬膜下血腫。

 海上自衛隊呉地方総監部(広島県呉市)は部内に事故調査委員会を設け、調査に当たることにした。

 その中間報告を正式発表前に10月19日(08年)の「asahi.com」≪「通常訓練を逸脱」 海自隊員死亡で事故調が中間報告≫記事が報道している。

 中間報告は現場にいた2人の教官や15人の隊員らから調査委が聞き取った内容を中心にまとめたものだという。身内の者が身内を調査したということである。要約してみると、

 先ず判明した事実。

1.「1対15」という訓練形式は通常は行われておらず、2回目だった。
2.異動する3曹を送り出すために隊員らが提案し、本人も受け入れていた。
3.パンチを思い切り振り抜くことを禁止し、防具に加え、歯を保護するマウスピ
  ースを着用していた。
4.7、8人目との対戦で棒立ち状態となったが、教官は止めなかった。
5.14人目の対戦相手のパンチを受けて倒れ込んだ。
6.3曹が倒れた際、教官は「熱射病」と判断していた。
7.死亡後、格闘訓練が「1対15」だったことを大臣や省次官に伝えていなかっ 
  た。その報告は発生17日後だった。

 調査判断

1.集団暴行と判断する材料はないが、通常の訓練カリキュラムではなかった。
2.特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない。
3.立ち会った教官は医療知識が十分でなかった。医官が立ち会うなどしていれば
  適切な病院搬送が可能となり、死亡という結果は避けられた可能性はあった。

 調査判断の「3番」は教官に医療知識が十分あったか、医官が立ち会っていたなら、死亡は避けられた。つまり、格闘訓練による直接的なダメージはたいしたものではなかったとしている。ここからも分かるように、中間報告は15人と教官に対して無罪放免の宣告となっている。厳重戒告ぐらいの軽い処分で臭い物に蓋となるのではないだろうか。

 「1対15」の格闘訓練は1人につき50秒間の連続対戦だったとのこと。この「50秒間」というごく短い時間が曲者である。「たったの」と思うかもしれないが、ボクシングの1ラウンドの3分を考えると、そのきつさが分かる。厳しい訓練を経たボクサーが激しく叩き合う体力消耗を1ラウンド3分を限界とし、休憩の1分で体力の回復を極力図り、再び激しく叩き合う。その全体の限界を以前は15ラウンド戦ったが、最近は10ラウンドとか12ラウンドとしている。戦う正味時間は30分か36分。

 「1対15」の場合は50秒×14人≒12分。ボクサーのように1試合10ラウンドか12ラウンドを戦う活動力(=エネルギー、あるいはスタミナ)をつくり出すことを目的にその目的のみに限った凝縮したハードな訓練を行っているわけのものではない人間がボクシングで言えば4ラウンドを相手が入れ替わることによって自分と同等に体力消耗を積み重ねていくわけのものではない複数の人間を相手にぶっ続けに戦ったのである。

 スタミナの点でかなり不利な立場に立たされていた――と言うよりも、極端なまでに不当なハンディを負わされていたと見るべきだろう。

 このような事実を以って「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とすることができるのだろうか、些か疑問と言わざるを得ない。現実にそういった場面に立たされ、敵と戦うこととなったなら、戦う内から死という結末を覚悟しなければならないだろう。

 また3等海曹は「続ける自信がなくなった」(「YOMIURI ONLINE」)ことを異動願いの理由としていたと言うことだが、他の隊員と比較した場合、特別警備応用課程に於ける激しい訓練に精神的にも体力的にも耐え得る能力に差があったと見るべきで、精神力+体力がプラスされた総合的な能力は対戦相手の一人ひとりとの間に差があっただけではなく、それは戦う意志にも反映されていた劣勢状態であったとしなければならない。

 当然、相手の頭数の合計から見た差以上に体力+精神力の差が格段に存在していたと想定すべきだろう。

 この事実と時間の経過によって生じる上記不当なハンディを足し算した場合の能力差を考えた場合、「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とすることが果してできるだろうか。

 もしも懲罰的な意味が含まれていた「訓練」であったなら、15人の側には敵意や怒りといったプラスアルファの攻撃的意志が加味されていたはずで、それが普段以上の攻撃力を彼らに与え、さらに双方の戦う能力に差を生じせしめたことは疑い得ない。

 1人対多人数相手の訓練は2度目だと言うことで、<特別警備隊の養成課程では7月にも、課程をやめる直前の隊員が16人を相手にして、歯が折れるなど顔を負傷した。>と10月14日の「asahi.com」記事が伝えているが、2度の訓練から浮かび上がってくる事実は中途離脱者を標的に限定した訓練であることを示していることは誰の目にも明らかである。

 「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とするなら、日常的な訓練の一つに加えてもいいはずだが、そうはならずに中途離脱者限定の訓練となっている理由を明らかにしていない。

 海自側が3等海曹の父親に「(異動の)はなむけだった」と訓練の趣旨を説明した(上記10月14日「asahi.com」記事)ということだが、問題は訓練の動機としておめおめとやめていくと軽蔑的に把えたか、新しい可能性に向けて頑張れよと歓迎的に把えていたかであろう。そのことによって懲罰的訓練であったかどうかが明らかとなる。後者であるなら、「はなむけ」であったとすることも可能となる。

 「はなむけ」なる言葉の意味を正確に把握するために「大辞林」(三省堂)で調べたところ、「旅立ちや門出に際して激励や祝いの気持を込めて、金品・詩歌・挨拶の言葉などを贈ること。また、その金品や詩歌など」と記されている。

 と言うことなら、懲罰や悪意を隠した「はなむけ」は存在するだろうが、正面切って懲罰を表す「はなむけ」なるものは矛盾行為となるゆえに存在しない。真正な「はなむけ」であるとするなら、3等海曹に対する「1対15」の格闘訓練は彼の新しい配属を激励したり祝う気持からの送る側からの喜びの表現行為でなければならない。

 当然のこととして、いくら「パンチを思い切り振り抜くことを禁止し、防具に加え、歯を保護するマウスピースを着用していた」としても、それらを通して肉体そのものにダメージ、あるいは痛みを与え、尚且つ50秒の体力しか消耗しない複数の者を対戦相手に1人に付き50秒ずつ体力を消耗させ、それらを積み重ねてヘトヘトになっていく1人を相手に戦う訓練を頑張れよの気持で施したということになる。

 これを以て「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」、「はなむけ」だったと素直に考えることができるだろうか。

 高校や大学の野球部、あるいはプロ野球の1000本ノックとかは受ける選手は息も絶えだえにヘトヘトになるが、肉体そのものに直接打撃を受けはしない。存在するのは5分も経たずに回復する息切れと肉体疲労のみで、物理的な痛みのダメージではない。もし1000本ノックをグローブで受けずに身体で直接受けろと命じられたなら、肉体的な痛みとその痛みから生じる苦痛で20球とは身体は持つまい。また痛みは5分で回復するどころか、次の日になっても後を引くことだろう。

 事故調査委員会の中間報告には「7、8人目との対戦で棒立ち状態となった」にも関わらず、それが1000本ノックと同じ線上にある単なる息切れと肉体疲労からきた状態なのか、多人数の攻撃を受けた時間的な息切れ及び疲労に足し算した一発一発の身体的攻撃を受けたことによる肉体的な苦痛からの状態なのかの検証がない。

 息切れのないときに受ける一発と息切れのときに受ける一発とではそのダメージに違いが生じる。

 もし後者だとしたら、「1対15」が如何に不公平なルールに則っていた「はなむけ」だったかが分かり、「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とすることも「はなむけ」だったとすることも無理が生じる。

 事故調査委員会は「異動する3曹を送り出すために隊員らが提案し、本人も受け入れていた」と訓練の正当化を図ろうとしているが、「1人対15人」の格闘が訓練の名前を借りた集団暴行、集団リンチではないかと疑われている以上、「提案」と「受け入れ」との間に強制の有無を問題とすべきだが、そこが抜け落ちて表面的な事実の経緯を伝えるだけとなっているのはなぜなのだろうか。

 強制の有無まで踏み込んだらまずいから避けていると勘繰れないことはない。

 「asahi.com」だけが「罷免」という言葉を使って「本人から途中で辞めたいという申し出があり、9月11日付で同課程を罷免され、他の部隊に配属される予定だった」と伝えているが、「罷免」が事実なら、3等海曹は悪者の立場に置かれていたことになる。悪者の立場とは周囲から見た場合、許せない存在を意味する。

 許せないという感情がそれを実際に表現する言葉の攻撃、あるいは物理的・身体的な攻撃へと変じる強制力となって働いたとしても不思議はない。許せないという感情が強い程、物理的・身体的な強制力へと最短距離を取り得る。

 もしそこに強制力が働いていたとしたら、3等海曹は特別警備応用課程をやめていくための通過儀礼として止む得ず「受け入れていた」ということもあり得る。当然、その止むを得ないという気持は戦う意志を殺ぐ形で訓練を受ける姿勢にも表れたろう。いわば戦う方向に向けたプラスの意志は働かず、受身の姿勢を取っただろうことが容易に想像可能となる。

 しかしその強制力は許せないという懲罰的な意志から発したエネルギーということになるから、「1対15」を「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」ことだと位置づけたとしても、正当であることから逸脱した邪な格闘訓練――リンチへと性格を変えることになる。

 当然、「はなむけ」だったなどと言うことはあり得ない話となる。

 懲罰的な意志が含まれていた「訓練」であった場合、15人の側には敵意や怒りといったプラスアルファの攻撃的意志が加味されていたはずで、それが普段以上の攻撃力を彼らに与え、さらに双方の戦う能力に差を生じせしめたことは疑い得ない。

 中途離脱者限定の訓練を懲罰的意志を持たせたリンチの類ではなく、百歩譲って「はなむけ」を趣旨とした訓練だとの正当づけを受け入れるとしよう。

 当然「1対15」の訓練は既に述べたように彼のために役に立つ、彼のために役立たせようという意識がなければならないから、譬えて言うなら、「これが特別警備隊員養成課程での最後の特別訓練だ。取って置きの厳しい訓練だからこそ、懐かしく思い出すことだろう。苦しいときにはこの訓練を思い出して、今の苦しさはたいしたことはないんだと思い返してくれ」といった将来的な役立ちの気持が込った励ましの温情で格闘訓練――「はなむけ」を施したとしよう。

 だが、「パンチを思い切り振り抜くことを禁止し、防具に加え、歯を保護するマウスピースを着用していた」にも関わらず、「7、8人目との対戦で棒立ち状態となったが教官は止めなかった」ばかりか、続く隊員も攻撃の手を緩めなかった。全然疲れていない者が次々と新手となって「棒立ち状態となった」相手に攻撃を加え続けた。例え「パンチを思い切り振り抜くことを禁止」してあったとしても、「棒立ち状態」の相手に攻撃は続いた。

 厳しい訓練を思い出とさせる意図があったとしても、15人相手と決めていた中で「7、8人目との対戦で棒立ち状態となった」なら、「はなむけ」が趣旨であるなら、「おい、大丈夫か、まだ続くか」と一言声をかけるのが人情というものであり、人間の自然な姿というものであろう。

 「無理をするな」と。

 だが、そういった場面が存在したことを窺わせる「中間報告」となっていないまま、「集団暴行と判断する材料はない」とか、「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とか自己免罪化に走っている。自己免罪化とは組織防衛を意味する。組織防衛は海上自衛隊から防衛省、政府までの範囲拡大を意味する。何しろ海上自衛隊を含めた防衛省の組織運営の責任は最終的には防衛大臣にあり、その防衛大臣を任命した責任は内閣総理大事にあるのだから、当然の動向であろう。

 いわば将来的な役立ちの気持が込った励ましの温情の類の「はなむけ」訓練であり、「特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではない」とすることは調査委員会と海上自衛隊と防衛省と政府だけに限った正当理論とはなり得る。

 そのような意図があったからこそ、「死亡後、格闘訓練が『1対15』だったことを大臣や省次官に伝えていなかった。その報告は発生17日後だった」という後付の事実――報告の遅れとなって現れたとしか考えられない。

 このように考えてくると、「中国新聞」が「鳴り物入りで創設した“最精鋭部隊”」だと紹介していたが、そういったエリート部隊のエリート隊員を養成する「特別警備応用課程」に勤務して特別の訓練を受けているというエリート権威主義意識が思い上がった自己絶対化を生じせしめ、自分たちの可能性をも絶対化したことで、3等海曹のように中途挫折して他の可能性・他の存在機会に向かうことが許せない偏狭性に陥ったことからの「はなむけ」を口実とした懲罰的な「1対15」――リンチだったとしか解釈しようがなくなる。

 3等海曹の父親が「異動の『はなむけ』と称して脱落者の烙印を押し、制裁と見せしめの意味を込めた集団による体罰だ」と非難しているといると10月13日の「中国新聞」インターネット記事≪「重大な体罰事件だ納得できない」 三等海曹の父親≫が伝えているが、決して肉親の感情から出た贔屓目ではなく、真相を突く公平な判断であろう。 


 (参考引用)

 ≪「通常訓練を逸脱」 海自隊員死亡で事故調が中間報告≫(asahi.com/2008年10月19日)

 広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校で、3等海曹(25)が15人相手の格闘訓練中に倒れ、約2週間後に死亡した問題で、海自呉地方総監部の事故調査委員会は19日までに、集団暴行を否定しながらも、「通常訓練とも認められない」とする中間報告をまとめることがわかった。また、格闘中や事故後の安全管理上の問題点も指摘する見通しで、近く公表する。

 浜田防衛相らは当初から、今回の格闘訓練を「特別と思う」としていた。調査委は「逸脱」を認めるものの、特別警備隊員養成という目的の中で、あり得ない訓練ではないとの認識をしている模様だ。

 防衛省によると、中間報告は、現場にいた2人の教官や15人の隊員らから調査委が聞き取った内容を中心にまとめられた。

 その結果、「1対15」という訓練形式は通常は行われておらず、2回目だった▽異動する3曹を送り出すために隊員らが提案し、本人も受け入れていた▽途中で棒立ち状態になったが教官が止めなかった▽3曹が倒れた際、教官が「熱射病」と判断していた、ことなどが判明した。このため、調査委は「集団暴行と判断する材料はないが、通常の訓練カリキュラムではなかった」と判断した。

 また、立ち会った教官に医療知識が十分でなかったことから、医官が立ち会うなどしていれば適切な病院に搬送でき、死亡という結果は避けられた可能性があったと判断しているとみられる。

 3等海曹が亡くなった格闘訓練では、パンチを思い切り振り抜くことを禁止し、防具に加え、歯を保護するマウスピースも着用していた。「手加減した」と証言する隊員もいたが、3曹は7、8人目との対戦で棒立ち状態になり、体力を消耗していたようだったという。

 この問題では、格闘訓練が「1対15」だったことが大臣や省次官に伝わっていなかったことや、海自からの報告が発生17日後になるなど、連絡体制の不備も指摘されている。>・・・・・・ 
 ≪「重大な体罰事件だ納得できない」 三等海曹の父親≫(中国新聞/ '08/10/13)

 「息子は『人のためになりたい。人を守りたい』と海上自衛隊に入ったのに…」。海自特殊部隊の養成課程で集団暴行を受けて死亡した三等海曹(25)の父親(51)は無念さをかみしめ、「訓練中の事故ではなく、重大な体罰事件だ。(海自側の説明は)全く納得できない」とやり場のない憤りをぶつけた。

 二人兄妹の三曹は、愛媛県内の高校を卒業して海自に入隊し、潜水艦部隊などに勤務した。「守らなければならない秘密があったのでしょう。家族にも仕事のことは一切話さなかった」と父親は振り返る。

  ジム通いでトレーニングを積み、海自唯一の特殊部隊「特別警備隊」の養成課程に二度目のチャレンジで合格した三曹。三十人近くいた同期は、厳しい訓練でふるいにかけられ、二年目の応用課程では二十人以下に減っていたという。

  「親に心配をかけまいと思ったのか、何も言わなかった」と話す父親。三曹が亡くなった後、親しい友人には生前、訓練に明け暮れる日々の悩みを打ち明けていたことを知った。

  意識不明で病院に担ぎ込まれたのは九月九日。二日後には同課程をやめ、十八日付で潜水艦部隊に戻るはずだった。防具を着けていなかった腕や背中にはあざがあり、意識が戻らないまま息を引き取った。

  「異動の『はなむけ』と称して脱落者の烙印らくいんを押し、制裁と見せしめの意味を込めた集団による体罰だ」。海自側が申し出た部隊葬を断った父親は「真実を明らかにしてほしい」と静かな口調に怒りをこめた。

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大阪府学力テスト結果開示/テストの成績が生徒すべての可能性を約束するわけではない

2008-10-18 01:23:31 | Weblog

 大阪府橋下知事が今年4月22日に行われた小学6年生と中学3年生約232万人対象の全国学力テストの成績を過度な競争や序列化を招くといった多くの反対や懸念に反して部分開示した。

 成績開示については「「YOMIURI ONLINE」記事が、元々文科省は学校間の競争を煽らないよう、学校別の成績を把握する都道府県教委や市町村教委に対してこれらのデータを公表しないよう求めているが、住民や保護者への説明のため、学校が各自の結果のみを公表することは認めていて、公表された結果を集めれば、順位づけも可能となるだけではなく、学校別の成績などを情報公開請求された場合、文科省は「不開示情報として取り扱う」と決めているが、都道府県教委などへの強制力はなく、対応を決めかねている自治体も少なくないと解説している。

 今回の橋下府知事の開示も情報公開請求に応じて2008年度実施の学力テスト科目別正答率と児童・生徒の生活習慣に関するデータを情報公開請求者に開示を決定、行った形を取っている。

 また橋下知事が開示に踏み切った動機は2008年度4月実施の全国学力テストの成績が大阪府は<すべての分野で平均正答率が41~45位と低迷>(「YOMIURI ONLINE」という昨2007年度の成績とほぼ変わらない衝撃的事実を突きつけられたからだろう。

 「生徒の生活習慣に関するデータ」の開示まで含めた理由は学力テストと同時に実施した生活習慣アンケート調査で生活習慣とテストの成績に相関関係を見ることができるという結果が出ていて、大阪府の生徒が<毎日、朝食を食べる子の割合なども全国平均より低かった。>(同「YOMIURI ONLINE」)という評価を踏まえ、その関係をはっきりとさせる意味合いからに違いない。

 再開最初となる2007年度実施の全国学力テストの成績から1年経過しても進歩がなかったことがアタマにきたといったことなのか、橋下知事は「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」(「MSN産経」)と府教委を厳しく批判し、府教委との関係悪化に拍車をかけ、今日に至っている。

 だが、9月10日(08年)の「MSN産経」)の≪【教育】全国学力テスト・生活習慣アンケート調査 テレビ「短時間」正答率高め≫の記事の中の生活習慣アンケート調査に関する解説箇所の見出しは<「手伝いする」「約束守る」関係なし>となっていて、<8月29日に文部科学省から結果が公表された全国学力テストでは、児童生徒の生活習慣などについてのアンケート調査も同時に行い、「家族と学校での出来事について話をしている」「平日にテレビなどを見る時間が短い」子供の方が、正答率が高い傾向が明らかになった。一方、「家の手伝いをする」「友達との約束を守っている」ことなどは、正答率とあまり関係がないことも示された。>と解説している。

 同箇所によると、「家の人と学校での出来事について話をしている」小6生徒の国語Aの正答率は68.9%で、「全くしていない」と答えた児童より13.5ポイント高く、この傾向は中3を含め全科目で共通しているとのこと。

 また、平日に「テレビやビデオを3時間以上見る」小6生徒は昨年度調査より11.8ポイント増の45.8%、中3は同6.4ポイント増の38.8%と共に増加。正答率との対比では、小6の国語Aで「1時間より少ない」は69.0%の正答率で、「4時間以上」の61.4%の正答率を上回り、テレビ・ビデオの時間を取られる生徒程成績が悪いという相関関係を見ることができるとしている。

 「朝食を毎日食べている」とした小6・中3生徒共に新聞やテレビのニュースに「関心がある」と答えた児童・生徒同様により正答率が高かった。

 但し、<子供への「家の手伝いをしているか」という問いで、中3数学Aの正答率が「あまりしていない」が66.7%、「よくしている」が60.1%>で、家の手伝いをしていない生徒の方が成績が高くなっている。記事は<世間で“いい子”とされる子供の方が成績が低くなる結果>となっていると説明している。

 このことは何が要因となった結果だろうか。塾通いで学校以外での時間が殆ど費やされて、家の手伝いをしている時間などないということなのだろうか。あるいは親が家の手伝いなど望まず、すべての時間を勉強に振り向けてもらいたいと望んでいることの反映としてある「家の手伝いをしない」結果の好成績なのだろうか。

 こういうふうに見ると、親の強制で勉強に振り向けている場合と自発的に勉強に取り組んでいる場合は「テレビやビデオを見る時間」を少なくしてテストの成績を上げることは可能であるが、勉強しろという親の強制が効かないケースでの「テレビやビデオを見る時間」が多くなっている場合は、当然テストの成績は低くなるという関係式を導き出すことができる。

 もしも親の強制が働いている正答率の高さなら、その成績にしてもテレビやビデオを見る時間にしても何程か差引いて評価しなければならないのではないだろうか。

 何度でもしつこく言っていることだが、日本の教育は「考える教育」、あるいは「考えさせる教育」ではなく、「暗記教育」を基本形式としている。暗記教育だから、時間をかければ、成績は上がる。

 なぜ日本の教育が「考える教育」、あるいは「考えさせる教育」となっていないかと言うと、教師が(広く言えば日本の大人が)一般的に言って考える能力に長けていないからに他ならない。

 このことは日本人の権威主義の行動様式から来ている。このことも何度も言っていることだが。文部省という上に下(学校)が否応もなしに従う構図である。

 このことの格好の例として頻繁に引用するのが≪多様な学校の実現を 文部省の新学習指導要領案≫と題した1998年11月19日日付の『朝日』夕刊記事内の解説である。

 10年ぶりに改定した小中学校の学習指導要領案によって「子どもたちが自分で課題を見つけ、自分で解決して生きる力を身につける」ことを趣旨とした「総合学習の時間」が導入されることになったが、その前身となる従来の授業内容が詰め込みに走って落ちこぼれ問題を発生させた反省に立って導入された「ゆとりの時間」が発表当初は学校の裁量に任されていて画期的だともてはやしたものの、学校の裁量任せだから教科書がない、「何をやったらいいのか、示してほしい」と校長会などから要望が相次いだ。文部省はその要望を考慮して「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」などの例を示したところ、各学校の実践が例示内に収まって画一化したという指摘である。

 記事は<例示と言いながら、強制力を持たせてきた文部行政の手法が、金太郎アメを作ってしまった。生活科も、教科書が作られ、似たり寄ったりだ。>と両者の権威主義的な上下関係を意図せずに指摘している。

 <学習指導要領で自由にできるように見えても、内容を逐条的に説明した文部省の指導書(今回から解説書)が制限していた例も過去にはあった。

 今回の案が掲げている国際理解、情報、環境、福祉・健康の四つのテーマは例示に過ぎない。だが、研究開発学校などの取り組みはこのテーマにほぼ集中しているため、文部省が作る予定の事例集が実質的な標準になりはしないか。

 子どもに「課題を見つけ、自分で解決する力」を求めるなら、学校・教師こそまずその方向に変わってゆかなければならない。>と、文部省の上からの権威主義的強制力と学校・教師のその影響力から逃れられずに画一教育を演出する下の者の従属一辺倒の権威主義的な姿を問題点として掲げ、両者に変化を求めているが、もし学校・教師が「考える力」を備えていたなら、いわば権威主義性から自由であったなら、教科書のある授業でも教科書が例示している知識に教師独自の考えを加味した独自の知識を生徒に授与できたはずだから、教科書の内容をただ単に機械的に伝え、それを生徒に機械的になぞらせ、機械的に暗記させる形式の暗記教育とはならなかったろうし、そのような知識伝達の構図を習慣としていたなら、「何をやったらいいのか、示してほしい」と教科書の代用となる手引書の類を文部省に求めずに教師たちは協同して「ゆとり教育」はどう運営したらいいか、その授業内容を創造し得たであろう。教師それぞれが自らの考えを持ち寄って、それぞれが学校独自の「ゆとり教育」教科書を創り得た。あるいは計画表を創り得た。

 自分の担任の「ゆとり」授業でも、自分たちが創った教科書、あるいは計画表に依拠しながらも、その教師独自の考えが,それが発展・拡大していく性質を持つゆえに否応もなしに逐次加味されるだろうから、他の教師とは違うその教師独自の「ゆとり」授業を展開し得たのではないだろうか。

 だが、結果は自分たち独自の「ゆとり教育」を創造し得ず、自分たちの方から文部省の強制力を仰いで、その影響下に自らを置くことで他の授業同様の、あるいはこれまでの暗記式知識授受と同様の画一的であると同時に上の教師が下の生徒を従わせる権威主義的知識授受を成果とした、と言うことであろう。

 いわば日本の教育が暗記教育を形式としていること自体が学校教師(=日本の大人たち)が既に「考える力」を持たないことの証明となっている。断るまでもなく、「考える力」は暗記教育成立の阻害要因でしかない。

 当然、暗記教育は「考える力」を奪う教育方形式と言うことになる。

 このような観点からすると、「基礎的な学力を問う問題A」よりも「読解力や表現力を問う問題B」の方が10ポイント~20ポイント成績が悪いということも頷くことのできる現象と言える。

 「読解力や表現力」を08年8月29日のNHKインターネット記事≪全国学力テスト 正答率下がる≫は「情報を読み取る力や知識を実生活に生かす力」だと解説しているが、要するに「考える力」を基本に置いている。 

 「基礎的な学力」はなぞって頭に記憶するだけの暗記教育で解決するが、「読解力や表現力」は「考える力」を阻害要因とし、「考えるプロセス」を省く暗記教育ですべてを片付けることはできない。

 すべてはと言うのは、「読解力や表現力を問う問題」であっても、出題傾向を探り当てて似たような問題を反復解き、その問題傾向と解き方を頭に暗記して既知の知識とすることで、それを教科書にしてある程度は解答困難を乗り越えることができるからだ。

 いわば「読解力や表現力を問う問題B」すらマニュアル化する、あるいは教科書とすることで、部分的ではあってもそれをなぞって解決策とすることも可能となる。

 但し、初めてお目にかかる内容の、マニュアル化も教科書に変えることもできなかった「読解力や表現力を問う問題」であったなら、記憶した知識を当てはめて解く暗記思考には慣れていても、その場で考えて解くことを主たる思考作用としていないのだから、手も足も出ないといったことが起こるだろう。

 暗記学力を問うテストで問題が解けないのはただ単に暗記していなかっただけで片付けることができるが、考える力を問うテストが解けないのは情報処理能力や意思決定能力、判断能力、広い意味で「知識を実生活に生かす力」が問われることになり致命的となる。

 勿論、テストの成績を将来的な可能性の主たる源泉とする生徒に限ってはという条件付ではあるが。

 条件付とするのは考える力を基本とした「読解力や表現力」を問うテストであっても、その成績で以て生徒の可能性のすべてを診断できるわけではないからだ。暗記学力で片がつく「基礎的な学力」を問うテストは問題外ではあるが、テストの成績のみがすべての生徒にとっての唯一絶対の可能性でないからであり、自らの可能性をテストの成績を踏み台としない生徒も存在することも考慮に入れなければならない。

 そうであるのにテストの成績のみで生徒を評価し、学校を評価し、各自治体の教育委員会を評価している。どこが高い平均点を残した、どこが悪いと成績のみの観点から教育を論じる。

 このことはテストの成績のみの可能性を認め、それ以外の可能性の排除を意味していないだろうか。

 橋下大阪府知事が大阪府の学力テストの成績が2年連続で最下位に近く振るわなかったからと「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と頭に血を上らせたり、各市町村に成績開示の圧力を加えて騒ぎ立てている騒動は学校生徒に対してテストの成績のみの可能性を認め、それ以外の可能性を排除することであろう。

 「可能性の多様化」とか「多様な可能性の時代」と言われて久しいが、言葉だけで終わっていることを示している。少なくとも橋下大阪府知事の中では言葉のみの存在でしかない「可能性の多様化」であり、「多様な可能性の時代」であろう。

 学校の勉強だけが、あるいはテストの成績のみが生徒の可能性を計る物差しというわけではない。もしそうであるなら、大阪が一大産地となっている漫才師、あるいはお笑いタレントなる才能がこの世に存在するのは難しい状況となる。

 どのような可能性を持って社会に生きるか、どのような可能性を自分の姿として
社会に対するかは生徒それぞれの肩にかかっている自らの責任問題であろう。親・学校・教師がそのことを早くから問うことで、生徒は自らの可能性について否応もなしに考え、対峙しなければならなくなる。可能性を考えるとは社会にどういう姿で存在するかを考えることであり、それは教科書のないその存在の実現に向けた試行錯誤を意味する。

 但し基本はテストの成績のみを唯一絶対の可能性としないことである。何になりたいのか、どのような職業人になりたいのかと問うのではなく、どのような才能を自分の可能性として社会に生きていくつもりなのか、存在していくつもりなのかを問う。そうすることで「才能」、「可能性」、「社会」、「自己存在」をキーワードとした「考え」(=意識)を持たせ、自己を客観的に眺める機会とすることができる。すべては「考える力」を出発点としなければならない。

 可能性が実際に多様な姿を取るとするなら、学力テストの成績のみならず、同時に行った「生活習慣アンケート調査」の成績との相関性にしても、さしたる意味を成さなくなる。例え「テレビを見る時間が短」くてテストの成績が高くても、その成績とテレビ視聴時間の短さはある生徒にとって意義ある可能性であっても、すべての生徒にとって意義ある可能性とは言えないからだ。テレビばかり見ていてテストの成績が悪い生徒であったとしても、テレビタレントとかお笑いタレントとなって社会人として立派に生きていく可能性の芽生えとしてあった「テレビばかり見る」と言うこともあるからだ。

 <「家の手伝いをする」「友達との約束を守っている」ことなどは正答率とあまり関係がない>という調査結果もテスト成績が可能性のすべてを物語らないことを示唆している。「友達との約束を守っている」ことによって評価されるかもしれない人間的信頼性が正答率と無関係にその生徒の将来的な可能性を約束するかも知れないからだ。

 「家の手伝いをする」も同じだろう。親の信頼は子どもにとって何よりの力となり得る。
 
 こう見てくると、橋下府知事の学力テスト成績開示はテストの成績を一大可能性と限定した騒動に過ぎなくなる。テストの成績を一大可能性だと信仰しているからこそ、関係者の反対にも関わらず第2京阪道路の用地として門真市の北巣本保育園の畑771.17平方メートルに行政代執行をかけ、保育園児が植えたサツマイモや落花生を引き抜いてまでして強制収用することができたのだろう。

 そのことは府知事の言葉に表れている。

 「府は4月から任意交渉を誠実に続け、慎重な対応をしてきた。(高裁の決定まで)今後2週間遅らせると、通行料で6億~7億円の損が出てくる。公の利益のためということで、園の所有者には申し訳ないがこのまま代執行をさせて頂く」(「asahi.com」記事)

 子どもたちが土に触れる機会、幼い頃からの農作業の機会、作物が育っていく姿を日々目にする機会、自分たちでつくって自分たちで収獲する喜びの機会、それを食する機会はカネで換算できない莫大な価値、計り知れない可能性の出発点だと考えることができず、テストの成績と同様、数値で計って「通行料で6億~7億円の損」と価値計算することしかできない。

 園児たちが土に親しみ、作物を育てる機会から得る可能性は一切顧慮せず、橋下の金銭感覚のみがテストの成績数値に見せたのと同様に鋭く働いたと言うわけである。

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東国原知事「誇りある地域づくりに向けて」広島市講演に見る真の政治家の姿

2008-10-15 01:50:56 | Weblog

 朝日新聞社の会員制情報ページ「アスパラクラブ」が『週刊朝日』2008年9月2日号の東国原宮崎県知事に関する記事を取り上げている。
記事の題は≪ヒロシマを怒らせた“罵詈雑言”≫(本誌・今西憲之、横山 健 2008年9月12日号)

 内容は広島青年会議所の例会で89.5%という驚異の県民支持率を誇る地方の星(とは書いてないが)東国原英夫・宮崎県知事(50)が講演を依頼された。テーマは「誇りある地域づくりに向けて」

 日本の誇る地方の星東国原にはふさわしい、ぴったりのテーマと言える。<3日で定員がいっぱいになるほどの人気ぶり>と書いてあるから、入場者を募集したところ、3日目で定員数を満たしてしまったということなのか。聴衆は約500人。国や地方自治体などが大量動員をかけて参加者を確保していた小泉内閣のタウンミーティングとはわけが違う。タウンミーティングでは質問者自体も質問内容共々前以て依頼しておいた“サクラ”であった。今回は正真正銘の期待の星、東国原知事のお出ましである。

 ところが、“漫談”のように始まった講演の冒頭が聴衆の眉を顰めさせたという。“漫談”で入ったということなら、肩書きは東国原英夫・宮崎県知事の姿を取りつつ、お笑い芸人そのまんま東の姿を取ってまずは聴衆に対面したということなのだろう。

 但しお笑い芸人そのまんま東を先ずは演じたということなら、聴衆の眉をひそめさせたのでは自らの持つ姿に対する不忠実を示すものであろう。笑わせ、愉快な思いをさせてこそ、お笑い芸人たる自らの才能に忠実であったことになる。

 問題の冒頭部分――。

 「宮崎で飛行機に乗ろうとしたら、どこにも飛行機がない。空港の人に聞いて、『あれですよ』と教えてもらったら、めちゃめちゃ小さなプロペラ機」

 「飛行機に乗ったら、座席は狭くて、乱気流に巻き込まれて、スチュワーデスがキャーと悲鳴をあげて、私もその時は非常に恐怖の思いでした」


 「誇りある地域づくりに向けて」だとかの高邁な内容をテーマとした講演のお招きに与って宮崎─広島間を55分で結ぶ日本エアコミューター(JAC)便に乗って、東国原宮崎県知事だかお笑い芸人そのまんま東だかが宮崎から広島までわざわざお出ましになった。

 普段大型ジェット旅客機しか乗り慣れていなかったのだろう。だから、「めちゃめちゃ小さなプロペラ機」と比較対照的にお笑いのネタにすることができた。

 インターネットで調べてみたら、日本エアコミューターはJAL系列で、座席数74席のQ400(DASH8-400型機)11機と座席数36席のSAAB340B型機11機(共に2008年10月現在)を保有していて、本社所在地は鹿児島県霧島市溝辺町麓787-4(鹿児島空港内)。支店・駐在所等が大阪国際(伊丹)空港、新千歳空港、松山空港、出雲空港、福岡空港、奄美空港等にあると言うことだから地方都市間を空の便で結ぶ役目の航空会社なのだろう。

 それまでは国産旅客機YS-11型機(64席)を運行させていたが、2006年9月に退役したという。

 多分東国原英夫は宮崎県知事になっても東京にしか目を向けていなかったのだろう。橋下徹が大阪府知事に選挙に立候補・当選してからは東京程ではないが、大阪にも目を向けるようになった。東京・大阪といった日本の代表的な都市にしか目を向けていなかったことは記事の次の解説部分が証明している。

 <同便が発着する広島西飛行場は現在、宮崎便と鹿児島便の2路線が運航されているが、空港の運営は赤字続きで、広島県と広島市が年約5億円を負担する状況だ。それだけに広島県と広島市はキャンペーンを張り、宮崎市で原爆ドームなどがデザインされた「ラッピングバス」を走らせたり、宮崎県の旅行会社に広島の観光パンフレットを置いたりするなどして、宮崎県からの観光客獲得に力を入れていたところだったのだ。

 だが、そんな事情も知らない東国原知事は、

 「広島と宮崎なんて、飛行機が飛んでいたんですね。全然、知らなかった」

 とまで言う始末。>――

 一つ言い忘れていた。彼は東京・大阪といった大都市以外に“道路”には最大限の目を向けていた。下ばっか見ていて、ついつい空に目を向けるのを忘れていた。だから、広島と宮崎の間に飛行機が飛んでいたことを知らなかった。知らなかったばかりか、飛行機とは言えない飛行機、彼の認識から言えば、飛行機の部類に入っていなかった「めちゃめちゃ小さなプロペラ機」が使用されていた。

 講演の形で「誇りある地域づくりに向けて」をテーマに「地域」について語るなら、一般的な地域の実情に関しての知識を、例え大まかなものであっても自分のものとしていなければならない。

 彼は広島に講演に出かけるに当たって最初から最後まで東国原宮崎県知事を主たる人格とせず、そのまんま東を主たる人格としていたということなのだろう。
 
 少しでも宮崎県知事を人格としていたなら、多分自分が乗ることになると想像していた大型ジェット機に反して「めちゃめちゃ小さなプロペラ機」を見た瞬間に需要との関係で利便性や規模、価格等を含めた供給が決定する経済の実勢に添った現実を瞬間的に汲み取り、そこに地方空港の多くが赤字経営で四苦八苦しているといった現在の日本社会が置かれている現実、その財政状況にまで目を向け、宮崎―広島西空港間に限った場合の利用状況や経営状況を読み取ろうとしたに違いない。

 1日に何便飛んでいるのか。年間乗客数は。採算は十分に取れているのか。

 だが、東国原英夫宮崎県知事だかそのまんま東だか知らないが、その人間はそういった目の向け方をしなかった。「めちゃめちゃ小さなプロペラ機」が飛んでいることの地方の実情を飛ばしてしまい、自身をそういった実情から疎い場所に置いた。

 「真の政治家の姿」を纏うことができたからこその実情の疎さであろう。

 東国原知事の発言について宮崎県に苦情を申し入れた広島市の対応から行ったことなのだろう、「週刊朝日」が東国原知事に取材し、書面で次のような回答があったという。

 <「宮崎─広島西線については、本県と広島県を直接結ぶ貴重な路線と認識している。講演の中では、“つかみ”のために誇張した表現も使ったが、路線を一層充実させていきたいという思いから発言したものである。今回の発言で広島市や市民のみなさんに誤解を与えたのであれば、非常に残念であり、宮崎─広島西線を活用して、宮崎と広島の交流がより活発になることを期待している」
 広島のみなさん、東国原知事の“フォロー”、伝わりましたか?>――

 講演で「広島と宮崎なんて、飛行機が飛んでいたんですね。全然、知らなかった」と言っていたのである。「路線を一層充実させていきたいという思いから発言したものである」。どこをどう細工したら両方の言葉を結びつけることができるのだろうか。

 このように巧妙な言い回しでスムーズに誤魔化しに入っていけるところがやはり東国原英夫という男から「真の政治家の姿」、それも大物の「真の政治家の姿」を見て取ることができる。

 「不勉強でした、軽率な発言でした」と正直に謝ったりしたら、日本では「真の政治家の姿」から離れることになる。異端として扱われることになるだろう。東国原宮崎県知事は知事のまま、既に国政を舞台とした政治家(=国会議員)に大きく成長したように見える。自民党が立候補に望むだけのことはある。 


(参考引用) 「週刊朝日」September 2, 2008
 東国原宮崎県知事が
 ヒロシマを怒らせた“罵詈雑言”


 本誌・今西憲之、横山 健 2008年9月12日号

 県民の支持率89.5%という驚異の数字を誇る東国原英夫・宮崎県知事(50)が、ヒロシマの人たちを怒らせているという。講演会で口走ったある発言が逆鱗(げきりん)に触れたというのだが──。

 「何しに来たんじゃ」

 ムッとした表情で会場を後にする人もいたという。

 8月20日、広島市内のホテルで開かれた広島青年会議所の例会。東国原知事は「誇りある地域づくりに向けて」をテーマに講演し、芸人から政治家を目指した経緯などを軽妙に語った。

 「ツテがあって知事をお招きすることができました。普段の例会は会員のみですが、知事が来るということで広く一般の方々も参加頂けるようにしたのです」(広島青年会議所の幹部)

 この日集まった聴衆は約500人。3日で定員がいっぱいになるほどの人気ぶりだったという。

 「講演もおおむね好評でした」(別の幹部)というが、聴衆が眉をひそめたのは、“漫談”のように始まった講演の冒頭だった。

 「宮崎で飛行機に乗ろうとしたら、どこにも飛行機がない。空港の人に聞いて、『あれですよ』と教えてもらったら、めちゃめちゃ小さなプロペラ機」

 「飛行機に乗ったら、座席は狭くて、乱気流に巻き込まれて、スチュワーデスがキャーと悲鳴をあげて、私もその時は非常に恐怖の思いでした」

 東国原知事は、ついさっき乗ってきた宮崎─広島間を55分で結ぶ日本エアコミューター(JAC)便をこきおろしたのだった。

 同便が発着する広島西飛行場は現在、宮崎便と鹿児島便の2路線が運航されているが、空港の運営は赤字続きで、広島県と広島市が年約5億円を負担する状況だ。それだけに広島県と広島市はキャンペーンを張り、宮崎市で原爆ドームなどがデザインされた「ラッピングバス」を走らせたり、宮崎県の旅行会社に広島の観光パンフレットを置いたりするなどして、宮崎県からの観光客獲得に力を入れていたところだったのだ。

 だが、そんな事情も知らない東国原知事は、

 「広島と宮崎なんて、飛行機が飛んでいたんですね。全然、知らなかった」

 とまで言う始末。

 講演を聞いていたある広島市議が憤慨する。

 「あの路線は地方間の産業活性化のため、コミューター路線という位置づけで地元自治体同士が協力して運航しているのです。利用促進されたら双方にいいわけでしょう。それを飛行機が飛んでいるのも知らないとか、乗りたくないとか、知事が言う言葉でしょうか」

 実際、広島市は、今回の知事発言について宮崎県に苦情を申し入れている。

 「発言は、せっかく広島と宮崎で協力して観光を推進しているのに、水を差すようなものです。あれでは飛行機に乗る観光客も不安になるでしょう。知事は聴衆を喜ばせるつもりで言ったのだと思いますけど、最後まで何のフォローもなしではこちらもカチンと来ますよ」(広島市幹部)

 さて、当の知事はどう考えているのか。本誌の取材に書面でこう答えた。

 「宮崎─広島西線については、本県と広島県を直接結ぶ貴重な路線と認識してい
る。講演の中では、“つかみ”のために誇張した表現も使ったが、路線を一層充実させていきたいという思いから発言したものである。今回の発言で広島市や市民のみなさんに誤解を与えたのであれば、非常に残念であり、宮崎─広島西線を活用して、宮崎と広島の交流がより活発になることを期待している」

 広島のみなさん、東国原知事の“フォロー”、伝わりましたか?

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麻生たちのバカの一つ覚えとなっている「テロとの戦い」

2008-10-13 00:12:40 | Weblog

 08年10月2日の衆参両院本会議での「給油活動」に関わる代表質問への麻生首相の答弁。

 「(インド洋での)補給支援活動は継続が必要だ。テロとの戦いは依然継続しており、多くの国々が尊い犠牲を出しながらアフガニスタンでの取り組みを強化している。国際社会の一員たる日本が手を引く選択はあり得ない」(「時事通信社」2008/10/02-20:17))

 9月14日午後(08年)名古屋市JR名古屋駅前自民党総裁選街頭演説会。

 石破茂前防衛相(インド洋での海上自衛隊による給油活動について)「世界各国がテロと戦っているときに、油が高いからやめると言っていいのか」(「日刊スポーツ」

 「テロとの戦い」云々――

 海上自衛隊の補給支援と言うと、政府はその正当性の決めゼリフとして創価学会が右へ倣えの念仏として唱えている「南無妙法蓮華経」と同じく「国際社会がテロとの戦いを続けているときに日本だけがやめていいのか」をバカの一つ覚えのように唱える。

 10月7日の火曜日夜7時半からのNHK「クローズアップ現代」が「タリバン復活の脅威 ~テロとの戦い7年後の試練~」を放送していた。

 NHKのHPは番組の要約を次のように紹介していた。

 「米英軍による電撃的なアフガニスタン空爆から7日でちょうど7年が経つが、一時は殲滅されたと思われたタリバンが、ここ数年、急激にその勢力を拡大している。テロや戦闘に巻き込まれて亡くなった民間人は8月までに1400人を超え、NGOメンバー・伊藤和也さんが殺害された事件は、日本にも衝撃を与えた。なぜ、タリバンは復活したのか。詳細な現地ルポからその背景を探ると共に、国際テロ組織がパキスタンとの国境地帯に流入し、タリバンの活動に影響を与えている実態も描く。米軍は9月、ついにテロリストの温床となっているパキスタン国境の部族地域を攻撃。タリバン側は、パキスタンのアメリカ系ホテルを自爆テロで襲い、死傷者が300人を超える大惨事となった。泥沼化するテロとの戦いはどうなるのか。最前線から報告する。」――
 
 その方向性を示す一つの兆候として10月8日の「毎日jp」記事≪アフガン:タリバンと和解交渉 治安改善策尽き 副大統領「戦闘だけでは勝てず」≫がアフガンの副大統領がテロ組織化したアフガン前政権のタリバンと和解交渉に入ったと伝えている。このことは副大統領が「戦闘だけでは勝てず」と言っていることが示しているように軍事力一辺倒のテロ制圧が効果を見い出し得ていない状況にあることを提示している。

 記事の要旨は、タリバンを穏健派▽強硬派▽外国人勢力と分類、穏健派には既に政治参加への門戸を開き、外国人勢力(アルカイダのことを指すのだろう)とは交渉しないを基本姿勢と規定し、オマル師らタリバン強硬派に対しては、武装解除▽憲法(04年制定)やイスラム法が認める女子教育の容認等などを求める一方でタリバンが主張する外国軍撤退などには応じないという姿勢を基本条件に具体的な和解交渉に入っているとなっている。

 但し記事は<現時点ではオマル師らタリバン強硬派がこれらの条件を受け入れる可能性は高くない。政府はさまざまなルートを通じて、オマル師との妥協点を探るとみられる。>と交渉の難しさを伝えている。

 そして記事は<アフガン政府がタリバン強硬派との和解を模索せざるを得なくなった背景>として、<米軍主導のタリバン掃討作戦が国民の支持を得られず失敗し、タリバンが逆に勢力を回復したことへの危機感がある。副大統領は「支援国の中には、戦え戦えと言う国があるが、受け入れられない」と暗に米国の姿勢を批判。「戦闘だけでは永遠に勝てない。交渉は国造りに不可欠だ」と、国際社会に理解を求めた。

 だが、米軍など外国軍抜きにアフガンの治安を維持できないことも事実だ。副大統領は「外国軍の駐留は有益」と語り、駐留米軍の増派計画については「関知していない」と述べ、事実上拒否しない姿勢を示した。>と伝えている。

 その一方でアフガン副大統領のアメリカ批判とは異なるアメリカの動きを記事は後段で次のように伝えている。

 ブッシュ米政権は<アルカイダと共闘していたイラクのスンニ派武装組織を治安要員として雇用し、「反アルカイダ」に転換させ治安改善に寄与した手法>をアフガンにも適用して<タリバンをアフガン社会に復帰させ、テロ組織アルカイダを孤立化することがアフガンでのテロとの戦いに不可欠との判断に傾いており、アフガン政府とタリバンとの和解交渉を注視している。>と。

 さらにゲーツ米国防長官は<タリバンとアフガン政府との「国民和解」が必要との認識に基づいて> 「米軍の増派だけではアフガンの治安安定に寄与しない」と<軍事作戦強化にくぎを刺している>と、その動きを伝えている。

 軍事力一辺倒のテロ制圧が効果を見い出し得ていない状況の打開策が妥結が簡単には見込めない旧支配勢力のタリバンとの和解交渉にかかっている――と言うことなら、当面は話し合いによる和解交渉と軍事制圧の二面作戦で臨まなければならない。

 ここで問題となるのはアメリカが「テロとの戦い」の重点をイラクからアフガンに移している状況に関してである。2001年9月11日発生のアメリカ同時多発テロを受けて10月7日に開始した英米軍を主力としたアフガン戦争はタリバン独裁政権を倒し、アフガンに平和と民主主義の第一歩をもたらし成功したかに見えたが、テロを手段とした「タリバンの復活」の状況はアメリカが2003年3月19日にイラク戦争に踏み切りサダム・フセイン独裁政権を打倒、イラクに民主主義をもたらしたかに見えたが、宗派間闘争やアルカイダによる外からのテロの激発によって陥ることとなった最悪な治安状況と二重写しとなるもので、アメリカ軍の増派によって治安が回復といっても、テロを根絶できたわけではない。

 10月9日の「asahi.com」記事はイラク中部で女性による自爆テロが発生、イラク軍兵士や市民ら計11人が死亡、19人が負傷したとAP通信の報道として伝えているし、10月11日の「47NEWS」AP通信の報道を「共同通信」が伝える形で、シーア派住民が多数居住する<イラクの首都バグダッドの市場で10日、自動車爆弾が爆発し、13人が死亡、少なくとも27人が負傷した。被害者の中には子どもや女性も含まれている。>と伝えている。

 さらに「47NEWS」が昨日10月12日の日付で同じくAP通信の報道を「共同通信」が伝える形でイスラム教スンニ派過激派によるキリスト教徒への襲撃事件が頻発していることを伝えている。

 <イラク北部の最大都市モスルで最近、イスラム教スンニ派過激派によるキリスト教徒への襲撃事件が頻発し、地元州知事は11日、この1週間でキリスト教徒約3000人がモスルから近隣地域の教会や親せき宅に避難したと述べた。

 11日だけで少なくともキリスト教徒の家3軒が爆破されたという。知事はAP通信に「(国際テロ組織)アルカイダ系組織が背後にいる」と述べた。

 2003年のイラク戦争開戦後、イラクではイスラム過激派によるキリスト教徒への攻撃が多発、多数が国外に避難している。>――

 このことは宗派闘争・宗派対立が依然として続いていて、決して終息していないことを示し、このような状況を狙った外からのテロも当然存在していることを証拠立てているはずである。

 と言うことなら、イラクの治安がある程度回復した、「テロとの戦い」の重点をイラクからテロが頻繁化しているアフガンに移す、そういったプロセスが逆に両国の二重写しを再度イラクに写し返す危険性を当然のこととして考慮に入れなければならないのではないだろうか。

 まさしくアフガンにしてもイラクにしても軍事力で制圧できないところへ持ってきて、軍事力が手薄になった状況を狙ってテロ攻撃を激化させる。テロの無限連鎖、「泥沼化するテロとの戦い」なのである。

 NHKの上記「クローズアップ現代」≪タリバン復活の脅威 ~テロとの戦い7年後の試練~≫は内戦による灌漑施設の破壊や旱魃によって農業が成り立たなくなった農民の生活は彼らが栽培した乾燥地帯でも育つ芥子(けし)からアヘンを収獲し、それをタリバンが高値で買い取ることで成り立ち、タリバンはそれを高純度なヘロインに精製し外国に高値で売って得たカネで高性能な武器を手に入れ、テロに活用していると伝えていた。

 番組の中で農民は他の農作物が栽培不可能な乾燥地帯で唯一可能な芥子の栽培と収獲したアヘンを唯一の買い手であるタリバン相手に取引することは家族を養うために背に腹は変えられないことだと訴えていた。

 そう、人間は生活の生きものであり、人間にとって最優先事項は生活を成り立たせることである。芥子を栽培し、アヘンを収獲してタリバンに売って現金収入とする農民を責めることはできない。

 だが、農民収獲のアヘンから精製したヘロインがタリバンの資金源、武器獲得原資となっていることが分かっている以上、農民の生活を奪わない形、あるいは農民の生活を保障する何らかの方法でタリバンとの関係を断たせることがテロ攻撃の力を弱めさせ、彼らをして和解交渉を進めさせる条件となることは誰もが認める結論であろう。

 その方法とは早急に灌漑施設を整備して芥子以外に換金作物を栽培できるようにすることであるが、それが農民の急場の生活の成り立ちに間に合わないということなら、現在の都市主体の公共事業を農村の灌漑施設建設に集中させて農民をアヘン売買で手に入れるのと同等の賃金でその建設作業員に採用するか、あるいは芥子栽培を続けさせて、灌漑施設が整備できるまで政府がアヘンをタリバンの買値以上の値段で買い取り、モルヒネ等に利用できる部分は利用して後は焼却処分にするといった等の方法が考えられる。

 勿論芥子栽培の農村地帯に軍隊を配置してタリバンの妨害テロの警戒に当たる必要が生じるが、その経費や農民の生活維持に投入する資金は国際社会が応分に負担すべきだろう。

 現在の世界的な金融危機状況の解決策として金融機関への公的資金の投入の必要性が盛んに言われているが、アフガンに対するコスト負担は「テロとの戦い」に勝利し、世界に平和と民主主義をもたらすための“公的資金投入”だと思えばいい。

 あるいは農家への戸別所得補償のアフガニスタン版である。

 麻生たちのようにバカの一つ覚えのように「日本だけがテロとの戦いをやめるわけにはいかない」を唱えるだけなのは口では貧困の撲滅を言ったとしても、他人が言っているから自分たちも言っているだけのことで、テロ制圧の主たる方法であった軍事的対応をその効果を検証もせずに従来どおりに無条件に主たる方法とすることを頭に思い描いた「テロとの戦い」に過ぎないだろう。

 「テロとの戦い」を言うとき、海上自衛隊によるインド洋での給油及び給水の補給支援活動に限った主張となっていることがそのことを何よりも物語っている。その先にあるのは米英等の軍事作戦だからだ。軍事作戦のみで対応しきれない、そこから一歩でも踏み出さなければならないのではないかという考えが頭にあったなら、補給支援活動のみに拘ることはなく、参議院でのねじれ現象も計算に入れて、そこからの転換を何らか図ったに違いない。

 「Wikipedia」はアフガニスタンの経済状況を次のように伝えている。

 <現在は歳入の大半を国際援助に依存しており、国民の3分の2は、1日2ドル以下で生活している。旱魃地域ではアヘンの原料となるケシの栽培が盛んであり、政府が対策に当たっているが功を奏していない。幼児の死亡率は1000人中257人と高い。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢である。>

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