アフガンNGO活動家伊藤さんの死/危機管理意識に油断はなかったか

2008-08-31 01:54:47 | Weblog

 アフガニスタンでNGO「ペシャワール会」所属の日本人活動家伊藤和也(31)さんが反政府武装勢力に拉致され殺害された事件。

 拉致・誘拐されたと報道され、その後日本人らしい遺体の発見、ヘラヘラ男の山本太一外務副大臣が本人かどうかの確認に当たっていると記者会見で報告、本人と確認されたとき、誰もがその突然の死に理不尽さを感じに違いない。

 その理不尽さは危険な国だと承知していながら農業支援を通してアフガニスタンの復興に貢献すべく懸命に活動している若者の無私の努力を反政府をスローガンにしているもののその活動の一環として一民間人を拉致・誘拐し殺害して無化してしまうその手段を選ばない情け容赦のない暴力性によって深まる。

 同時に私自身としては私のように他者・他国に対して無私の貢献を何もしないことによって命の安全を保障され、安全無事な生活を送ることができる、その逆説性に対する理不尽さも感じないわけにはいかなかった。

 いわば何もしないでぬくぬくと生きていることが命の安全を保障されることの皮肉な事実に感じた理不尽である。

 アフガンでのタリバン、もしくはその類似武装勢力の外国人を標的とした拉致・誘拐は日本人の場合は今回が初めてであるが、元々武器を使用した反政府武装戦闘だけではなく、身代金獲得もしくは逮捕されている武装兵士の釈放等を交換条件とした外国人を標的とした拉致・誘拐をも反政府活動の一環としている。

 昨07年7月19日にアフガニスタンで短期宣教を行っていた韓国人福音派キリスト教徒23名を拉致、アフガン政府に人質の解放と引き換えにタリバン兵士の釈放とアフガン駐留の韓国軍の撤退を要求、その交渉中、解決を見ないまま交渉期限の24時間延長を続けた7月25日、人質のリーダー格の42歳の牧師を殺害。さらに7月31日に29歳の人質男性を殺害して要求貫徹の意志の強さを示したのに対して韓国政府が直接タリバンと交渉開始し韓国軍の撤退を発表、人質は順次解放され、8月30日に43日ぶりの全面解決に至っている(以上「Wikipedia」を参照)。

 <「韓国政府は解放のため、タリバン側に少なくとも400万ドル(約4億3000万円)を身代金として支払った」と米時事週刊誌ニューズウイークが6日付電子版で報じた。>と2008年2月10日の「朝鮮日報」は伝えている。

 韓国人23名が拉致される5日前にはドイツ人ダム技師2人が同僚のアフガン人5人と共に拉致・誘拐され、その後ドイツ人1人の遺体が発見されている。

 その他にも2005年11月に復興支援に携わっていたインド人男性技師が拉致・殺害、2007年3月に取材中のイタリア人記者が現地人ガイドと共に拉致・誘拐され、現地人ガイドの1人が遺体で発見されるといった威嚇を受けた後イタリア人記者は収容中のタリバーン戦闘員5人との交換で解放されている。

 4月に入ってフランス人支援活動家ら5人が拉致・誘拐され解放まで2カ月以上の日数を要した。

 また韓国人福音派キリスト教徒23名拉致・誘拐の解放交渉中の8月半ば過ぎにキリスト教援助団体に所属し、その活動をアフガンで行っていたドイツ人女性がカブールのレストランで夫と食事中、女性のみが拉致・誘拐され、警察当局によって救出されている。

 このような外国人拉致・誘拐、最悪の場合の殺害はアフガニスタンの一方の現実であり、その現実はアフガニスタンを否定し難く覆ってる。日本という安全な国でぬくぬくと暮らしている私にはこんなことを言う資格はないと承知しているが、それでもこの厳然たる事実をアフガニスタンで活動する外国人は彼ら自身の問題として日々認識していなければならないだろう。次の標的は自分かもしれないと常に警戒を忘れず、そのことに備えた危機管理意識の保持に心掛ける。長距離トラック運転手の中には、次に大事故を起こすのは自分かも知れないんだぞ、気をつけて運転しろと自分に言い聞かせながら運転する者がいると言うことだが、そのように他者に降りかかった災難を次は自分の問題として把え、その災難に備えた危機管理意識を自分自身に向けて常に発動し続けて、確実な効果は不確かではあっても、防御の助けとする。

 だが、29日の「asahi.com」記事≪「我々が撃った」伊藤さん殺害、24歳容疑者認める≫を読んで、おや、と思った。記事は遺体回収を受けたアフガン当局の検視後に日本大使館で記者会見したペシャワール会現地代表の中村哲医師が「伊藤さんは26日早朝、井戸の見回りに行く途中に武装した4人組に襲われた。道路が石で通行止めにされており、運転手と一緒に石を取り除いた直後に拉致された」との説明を行った上、「ペシャワール会の現地事務所に06年から日本人を拉致するとの脅迫があった」ことを明らかにしたと書いている。

 「ペシャワール会の現地事務所に06年から日本人を拉致するとの脅迫があった」――

 この脅迫を待つまでもなく、伊藤さんはアフガンでその復興に貢献する活動を心に決めて5年前にアフガン入りした時点で反政府武装勢力が存在し、その破壊活動を継続中である以上、彼らによる拉致・誘拐、最悪の場合殺害される危険性を念頭に置いた危機管理意識を常に保持して活動に従事すべきで、また伊藤さんと共に活動するペシャワール会もそのように注意し、その注意をも肝に銘じていなければならなかったはずだが、「井戸の見回りに行く途中に」「道路が石で通行止めにされており、運転手と一緒に石を取り除いた」行為にはどのような危機管理意識・危機感も窺うことができない。

 井戸を見回るのは初めてでないだろうから、山肌の土石が自然崩落した様子の障害物だというならまだしも、「石」で「通行止めにされて」いる障害状況は以前にはなかった、そこにあるはずもない場面であって、もし反政府武装勢力による外国人拉致・誘拐、殺害に備えた危機管理意識をそのときも念頭に置いていたなら、遠目に見ただけで当然のように人為的な構築だと見破り本能的に危険を感じてすぐさま車をUターンさせ、逃走にかかったのではないだろうか。

 私自身には「運転手と一緒に石を取り除」くといった姿がその作業にのみ視線が向いていて無防備に過ぎ、アフガンで活動しているなら持っていていいはずの危機管理意識のなさに疑問を覚えた。なぜ気がつかなかったのだろう。

 勿論、逃走と分かれば武装勢力から銃撃を受け、命を落とす可能性もあるが、危機管理意識を働かせていたかどうかの点で違いが生じる。

 8月28日の「毎日jp」記事≪社説:アフガン拉致 善意を阻んだ暴力を憎む≫<ペシャワール会は日本政府の資金を受けず、2万人の会員と年3億円の募金で活動を支えてきた。医療だけでなく「農村の復興こそ再建の基礎」と農民支援に力を入れる。干ばつ被害のアフガンで、食料を届け、井戸を掘り、農業用水路を作った。緑が戻り、避難民も帰ってきた。>とその活動の有意義を伝え、<伊藤さんは現地のことばも覚え、住民の信頼と共感を得ていたという。>と伊藤さんの熱心な献身振りを紹介していた。

 5年前から今日に至るまでの長い年月にわたる現地でのその活動振りには私には到底真似のできないことで頭が下がる思いがするし、それだけに無残にも理不尽な死を強制されたことが残念でならない。

 だが、「住民の信頼と共感を得ていた」ことに逆に油断はなかったろうか。カブールの日本大使館で29日に行われた献花式でハリリ・アフガン第2副大統領が伊藤さんのことを「アフガニスタンの友人であり続ける」とその死を追悼したとNHKテレビだったか、放送していたが、「住民の信頼と共感」の価値づけにしても、「友人であり続ける」とする価値づけもアフガニスタン政府とその政府側に組するアフガン人のみに有効な価値観であって、反政府武装勢力からしたら「信頼と共感」とは正反対の「不信と敵意」、「友人」とは正反対の「敵」としての価値づけしか与えていない、その無効性との二重関係にあることを認識して受け止めていた「信頼と共感」、「友人」意識であったなら、無効性に関わる価値認識は必然的に反政府武装勢力に対する危機管理意識へと向かっただろう。

 自分がアフガニスタンの多くの住民に必要とされていることに誇りを持ち、「住民の信頼と共感を得てい」ることに充足して、その価値観を反政府武装勢力が無効としていることに対する危機管理意識を疎かにする油断が働いてしまったとしても、だからと言ってその死の理不尽さは変わるわけではない。

 死者に鞭打つような言葉の数々ともなったが、アフガニスタンのような反政府勢力が跋扈して治安が悪化した国でその国の復興支援目的で入国、NGO活動の日本人が拉致・誘拐されて理不尽にも殺害される事件は伊藤さんで終わる保証はなく、今後とも起こり得る可能性もあるし、日本人得意の一国主義から、外国人拉致・誘拐、殺害の「外国人」を日本人の場合のみのこととして問題とするなら話は別だが、そうと済ませないということなら、拉致・誘拐、殺害を受けた外国人がドイツ人だろうとイタリア人だろうとアメリカ人だろうと、軍隊を派遣していない日本人には関係ないこととせずに異なる価値観を持っている勢力の存在を常に頭に入れて次なる標的は日本人かも知れない、日本人の自分かもしれないと常に自分のこととして把えて自ら防御する危機管理意識を保持した活動を行うべきではないだろうか。

 一般的には災難や事故は本人が予想しないときに起こるものだが、このことは予想したときは意外と起こらないことを教えている。もし伊藤さんが井戸の見回りに出かける際、長距離トラックの運転手の例を挙げたように、「武装勢力に拉致されるのは今度は自分かもしれない、気をつけろよ」と自らを戒めて出発したなら、違った展開になったのではないだろうかと考えると、返す返すも残念でならない。 


 「我々が撃った」伊藤さん殺害、24歳容疑者認める(asahi.com/2008年8月29日1時16分)

 【カブール=高野弦、イスラマバード=四倉幹木】アフガニスタン東部で日本のNGO「ペシャワール会」(本部・福岡市)の伊藤和也さん(31)が拉致され死亡した事件で、地元警察当局に拘束された容疑者の1人が取り調べに伊藤さんの殺害を認めていることが28日、わかった。アフガン政府はこの容疑者の身柄を情報機関に移し、背後関係などの追及を始めた。伊藤さんの遺体は同日、首都カブールに運ばれ、29日にも日本に向けて出発する予定。

 地元警察当局はこれまで3人の容疑者を拘束。事件が起きたナンガルハル州のアブドゥルザイ報道官によると、そのうちの24歳の容疑者はカラシニコフ銃を所持し、取り調べに「我々が撃った」と供述したという。

 アフガン政府筋によると、容疑者は情報機関の国家保安局に移された。同保安局は、今年4月に起きたカルザイ大統領暗殺未遂事件など治安の根幹にかかわるテロ事件の捜査を担当。同政府は外国勢力の排除を狙った重大事件として捜査するとみられる。

 ペシャワール会現地代表の中村哲医師は28日、地元民の葬儀に出席。その後、伊藤さんの遺体とともにカブールに移った。アフガン当局の検視後に日本大使館で記者会見した中村氏によると、伊藤さんは26日早朝、井戸の見回りに行く途中に武装した4人組に襲われた。道路が石で通行止めにされており、運転手と一緒に石を取り除いた直後に拉致されたという。

 遺体は、銃弾が貫通した傷跡が左足に4~5カ所、右足に1、2カ所あった。全身に打撲の跡があり、顔面に皮下出血がみられたという。撃たれた後、斜面を転げ落ちており、脳挫傷か大量出血が死因との見方を中村氏は示した。拉致を目撃した地元民ら約千人が追跡を始めたといい、「予期せぬ事態にあわてて撃ったのだろう」と述べた。また中村氏はペシャワール会の現地事務所に06年から日本人を拉致するとの脅迫があったことを明らかにした。 
 社説:アフガン拉致 善意を阻んだ暴力を憎む(毎日jp/2008年8月28日)

 戦争と飢餓に苦しむアフガニスタンの人々を助けようと、5年間、現地で活動してきた非政府組織(NGO)「ペシャワール会」スタッフの伊藤和也さんが武装グループに拉致され、27日、銃撃を受けた遺体がみつかった。

 伊藤さんは、日本から離れた戦乱の地で農民の自立を助ける仕事に挑んできた。伊藤さんの活動が暴力で踏みにじられたのはきわめて残念だ。

 犯人がだれか、犯行の状況や目的など詳しい情報はまだわからない。ペシャワール会は地元の人々に感謝され、日本でも高く評価されてきた。経験を積んで安全に配慮し慎重に行動してきたはずなのに、それでも殺害されるほど、現在のアフガンは混乱し危険になってきた。

 アフガンの安定と平和のために、日本政府と日本人が何ができるか、改めて考えなければならない。

 ペシャワール会は日本政府の資金を受けず、2万人の会員と年3億円の募金で活動を支えてきた。医療だけでなく「農村の復興こそ再建の基礎」と農民支援に力を入れる。干ばつ被害のアフガンで、食料を届け、井戸を掘り、農業用水路を作った。緑が戻り、避難民も帰ってきた。

 ペシャワール会現地代表の医師、中村哲さんは昨年、一時帰国した際「みんなが行く時は、行く必要はない。そこに必要性がありながら、だれもやらない場所で我々は活動する」と活動の原則を語っていた。

 伊藤さんは現地のことばも覚え、住民の信頼と共感を得ていたという。現場にとけ込み、人々の期待に素早く応える。日本を代表するNGOの最前線で活躍したその志を無にしてはならない。

 アフガンは9・11米同時多発テロ後、米軍が攻撃しタリバン政権を倒してから7年がたとうとしている。北大西洋条約機構主導の国際治安支援部隊とタリバンの戦闘が激化し、安定にはほど遠い。米国防総省は今年6月、米議会への報告でタリバンや連携する武装勢力の目標を、アフガンから外国軍隊を追放し、支配地域から外国政府の影響力を排除することと分析した。

 タリバンは外国への憎しみが強い。NGOや民間人であっても外国人を狙っている。今回の事件もタリバン系組織がかかわったとの見方がある。
 困っている外国の人々を少しでも救いたいという善意が、憎悪と暴力で拒否される状況になってしまったのは悲しい。一人の人間として全力を尽くしているのに、国籍ゆえに受け入れようとしないなら理不尽であり納得がいかない。

 スタッフの安全を確保しながら、支援活動をどういう形で続けるか。世界各地で活動する日本のNGOは常に判断を迫られる。現地の事情にあわせた柔軟な方法を見つけてほしい。

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鹿沼軽自動車水没事故/危機管理無能力を徹底検証すべき(1)

2008-08-28 10:42:25 | Weblog

 市、消防、警察の対応の拙劣さから集中豪雨で増水した東北自動車道高架下市道で通行中に冠水した軽自動車の運転者の女性が警察と消防に通報しながら救助を受けることなく死亡した栃木県鹿沼市の事故。昨8月27日の2記事とも同じ「毎日jp」記事だが、≪栃木・鹿沼の車水没死:遺族「悲劇、繰り返さないで」 市長が対応を謝罪≫から「事故の経過」を、≪鹿沼の車水没死:鹿沼市長が謝罪、再発防止策策定へ 防災対応の盲点露呈 /栃木≫からはそれぞれの対応の様子を窺ってみる。

 まずは「事故の経過」を。

 8月16日午後
  5時10分 市内で6時10分までの1時間に85ミリの雨量観測
    33分 現場の路面冠水を知らせる装置が作動
    54分 現場で最初の水没事故があり、目撃者が消防に通報(被害者は自力脱出)

  6時15分 市から委託されたバリケード設置業者が現場に到着(この箇所は「東京新聞」電子版)
  6時19分 高橋さんの水没事故を目撃した人から県警に通報(県警は現場近くの別事故と勘違いし
        出動指示せず)

    21分 高橋さんから県警に通報(県警は発信位置を特定できず)
    22分 高橋さんの電話を受けた母親が消防に通報。「娘から『さようなら』と電話があった」
        と話した(消防は断片的な情報のため正しい位置を把握できず、別地点に出動指示)
    26分 高橋さんの事故の目撃者から消防に通報
    29分 さらにもう1件、消防に通報(この2件の通報について消防は5時54分通報の事故と混
        同し、出動を指示せず)

  7時30分 付近を巡回中の警官が高橋さんの車を発見、救助したが高橋さんは心停止状態。搬送先
        の病院で約1時間後死亡確認
              (以上)

 佐藤市長は26日の市役所での定例記者会見でそれぞれが<適切な対応が取れなかった原因について、「かつてない1時間に85ミリを超える雨が集中的に降った」ことと、市内の各所から通報が相次ぎ、対応する職員が手いっぱいになってしまった問題を挙げ>(≪鹿沼の車水没死:鹿沼市長が謝罪、再発防止策策定へ 防災対応の盲点露呈 /栃木≫
)て、救助が手遅れだった理由を述べたという。

 市長は「かつてない」という表現で「想定外」だったことを伝えているが、同記事は<事故現場となった市道は、東北自動車道が開通した1972年と同時期に開通した道路で、これまで、冠水により95年に車両3台と01年に2台の合計5台が水没したことがあったという。ただそれらはいずれも約1メートルの深さの冠水状態だった。>と過去の冠水事故の水位は「1メートル」だったとしている。

 当日の事故現場の高架下は「最高水位195センチを記録」と≪栃木・鹿沼の車水没死:遺族「悲劇、繰り返さないで」 市長が対応を謝罪≫が書いている。

 要するに市長にとっては「1メートル以内」は想定内で、「1メートルを超えた場合」は想定外ということなのだろう。だが危機とは想定外の事態を言うはずである。すべてが想定内で納まる「危機」であったなら、そのことに対する備えは怠りないだろうから、厳密には「危機」とは言えない。そのような「危機」に関して対応側が何らかの混乱や問題を生じせしめたとしたら、危機管理能力は話にならないことになる。

 過去に1メートルの増水があったから、1メートルを「想定内」として対応策を構築してそれでよしとするのは「想定外」に対する備え・危機管理を放棄することを意味する。

 過去に発生した危機を想定した、その範囲内の対応であるなら、過去の危機をなぞっただけの危機管理と堕す。市長の弁明は責任逃れの言葉でしかない。

 「東京新聞」インターネット記事≪鹿沼水没事故 会見で市長が謝罪 人命優先第一を強調≫(2008年8月27日)は<当日の十六日午後五時三十三分、冠水が二〇センチを超えたことを現場の路面冠水装置が感知。周辺四カ所の掲示板が「通行止め」を表示した。冠水時、市は委託業者に通行止めのバリケードを設置するよう依頼しているが、連絡が遅れ業者の現場到着は同六時十五分。すでにバリケードの保管場所自体が水没し、取り出せなかった。>と伝え、「毎日jp」記事≪鹿沼の車水没死:鹿沼市長が謝罪、再発防止策策定へ 防災対応の盲点露呈 /栃木≫は<道路入り口付近に保管してあるバリケード2カ所は既に冠水していて設置できず、ガソリンスタンドの店員6人と市の委託業者2人が、手サインで車両の誘導に当たった。

 しかし、大雨で視界が悪かったことなどから、誘導に気付かなかったドライバーもいたものとみられ、すべての車の進入は阻止できなかった。>と伝えている。

●16日午後5時33分に冠水20センチ超えの「路面冠水装置」が感知。市はバリケード設置を委託し
 ている業者に「連絡後れ」の状態でバリケード設置指示の連絡。
午後54分、現場で最初の水没事故があり、目撃者が消防に通報したが、被害者は自力脱出して
 無事。
午後6時15分、業者従業員2人、現場到着。
●バリケード保管場所が水没状態で設置不可。
●業者従業員2人はガソリンスタンドの店員6人の応援を受けて、手サインで高架下への車両進入禁止の誘導
  に当たった。
午後6時19分、被害者の水没事故を目撃した人から県警に通報
午後6時21分、被害者本人から県警に、22分、被害者から母親へ、母親から消防
  に、26分、目撃者から消防に、29分、もう1件消防に通報。
●最後の2件は消防は「自力脱出」した5時54分通報の事故と混同し、出動を指示しなかった。

 なぜ市は「連絡が遅れ」たのだろう。最初の間「水位20センチ」ぐらいならたいしたことはないと放置していたとしたら重大な責任となる。

 市委託のバリケード設置業者の現場到着は6時15分。その21分前の5時54分に既に最初の冠水事故が起きているし、死亡被害者の水没事故を目撃した人からの県警への通報は業者到着4分後の6時19分である。

 このことは業者が6時15分に現場に到着した時間よりも前に軽自動車は高架下に進入していて、冠水状態となっていたことを示す。先を急いでいて車のスピードを上げていたとしても、既に冠水するまでに増水状態になっていた水の中に突っ込んていったとしたら、水圧と驚いて踏んだブレーキの制御圧力でそう先には進めないだろうからだ。増水しているが通行できるだろうと思って車を進めたものの予想を超える急激な増水で車のエンジンが停止して立ち往生したところへなおも増水して冠水状態となってしまったと言うことではないのか。

 危機管理が有効に機能しなかった問題点として連絡が遅れた理由と遅れた時間の検証を行わなければならない。「連絡後れ」は想定外だったという弁解は成り立たないはずだ。

 市の委託業者従業員2人はバリケードが取り出せなかったためにガソリンスタンドの店員6人と計8人で「手サインで車両の誘導」に当たった。これは当然の行為であろう。バリケード設置は交通止めの手段であって、目的はあくまでも通行止めだからだ。例え委託契約書に明記してなくても、バリケードに代る通行止めの手段を取る責任を有するはずだ。

 バリケードを取り出せませんでした、では帰りますでは済まないだろう。バリケードを設置して通行止めを完了させたところで委託された責任は完遂する。設置できなければ、通行止めを可能とする代替措置を取らなければならない。

 だが、高架下への進入禁止を知らせるために「手サインで車両の誘導」を行ったものの、既に進入していたかもしれない車両の可能性まで考慮しなかった。このことに委託業者は全然責任はないだろうか。

 市は最初に業者を現場に向かわせるためにどんな指示を出したのだろうか。「連絡するのが遅れた。大至急現場に向かってくれ」と指示したのか。「連絡後れ」には一切触れずに、ただ単に「水位が20センチを超えたから、現場に向かってくれ」とだけ指示したのだろうか。

 もし「連絡が遅れた」の一言があったなら、バリケード保管場所が既に冠水しているのである、連絡が遅れた間に高架下に進入して立ち往生している車両の可能性に考えを巡らす余地を与えはしなかっただろうか。

 そもそも水位が20センチを超えたところで交通止めにするのは車両の冠水を防ぐ目的からであろう。そのことを委託業者は承知しているだろうし、「連絡が遅れ」、バリケード保管場所が既に冠水しているということであったなら、高架下で冠水している車両の存在を疑って然るべきではなかったろうか。疑わなかったのは「連絡が遅れ」の一言がなかったからとも疑うことができる。

 また業者は保管場所が既に水没していてバリケードを取り出せないことを市へと連絡して、どうしたらいいか指示を仰いだはずである。それとも水没した場合を想定して、代替措置がマニュアルに明記してあって、それが「手サインで車両の誘導」だったのだろうか。

 市が委託業者に最初に指示する際にどのような言葉で指示を出したのか、「連絡後れ」に触れていたかどうか、あるいはバリケードが取り出せないと連絡があったのかどうか、あったとしたら、その際どのような指示を与えたのか、既に進入している車の可能性にまで言及したのかどうか、「手サインで車両の誘導」がマニュアルに記入してあることなのかどうか、連絡を受けた市が指示したことなのかどうか、指示した措置であるとしたなら、「手サインで車両の誘導」のみの指示で、高架下への車両の進入の可能性まで指示しなかったと言うことになるから、すべてを詳しく検証してそれぞれの落ち度を暴き、責任の所在を追及しなければならない。

 「大雨で視界が悪かったことなどから、誘導に気付かなかったドライバーもいたものとみられ、すべての車の進入は阻止できなかった」を弁解として成立させてはならない。あくまでも「車両進入禁止」が目的であって、「手サインで車両の誘導」を行っていた委託業者の2人は高架下に既に進入した車両の有無を確認できる場所、もしくはその近くに位置していたはずだから、確認する責任を有しているはずで、もし本人たちがそこまで考えを巡らすことができなかったとしても、市は指示を出すべき確認事項だったはずである。

 消防が目撃者からの午後6時26分の通報と同じく他の目撃者の午後6時29分の通報を5時54分通報の事故と混同し、出動を指示しなかったのは「自力脱出」を把握できていなかったから止むを得ない不可抗力だとすることができるのだろうか。

 被害を受けた当事者やその近親者からの通報ではなく、目撃者という事故とは直接関係のない第三者からの通報であり、比較的落着いていた相手だったはずで、場所をはっきりと確認すれば別事故だと簡単に判断できることを、消防の方で同じ事故だと勝手に思い込む省略意識が働いた「混同」の疑いは捨てきれない。

 なぜ30分前の通報の事故と混同したのか、混同の原因を徹底検証して、その理由を明らかにしなければならない。

 消防も警察の仕事の慣れから、「冠水している(=水没している)」=「車の中に閉じ込められている危険性」を想像し、その緊急性・危険な事態を思い巡らす感覚に麻痺を起こしていなかっただろうか。 

 あるいは単一事故の場合、現場を通行中の複数の車両のそれぞれが自分が最初の目撃者だと思い、既に消防・警察に通報済みであることが分からずに所持している携帯で通報するといったことはよくある場面であろう。何しろ殆どの人間が携帯を持っている時代であって、簡単に同じ情報が錯綜することになる。

 消防・警察にそのことへの先入観がなかっただろうか。

 例えば同じ街で放火でない以上、同じ時間に別々の場所で二つの火災が起きることは滅多にない。例え単純火災であっても、同時に複数の火災が起きる可能性は遮断すべきではないだろう。それが「想定外」に備えた危機管理というものであるはずである。

 5時54分通報の事故に出動した消防は30分経過後も現場に到着していなかったのだろうか。何分後に到着しようとも、到着後、存在するはずの冠水した車の影も形も見ることができず、「自力脱出」を把握したはずである。そのことを直ちに消防本部に伝えたのだろうか。

 伝えたはずで、それが何分後なのか、明らかにしておかなければならない。判断できなかったこととはいえ、「自力脱出」によって存在しない冠水した車に振り回され、人命を失わせているのだから、後の危機管理の教訓とするためにも混同した原因と共にすべてを明らかにしておくべきだろう。

 消防が別事故と混同したのとは別に110番通報を受けた県警は被害者の緊急救助要請に対して発信位置を特定できず、別の事故と混同して出動せず、消防は被害者の母からの救助要請に断片的な情報のために正しい位置を把握できず、別地点に出動指示を出した。だが、東北自動車道高架下の現場となった市道は95年と01年に車両冠水事故を発生させているし、警察・消防が別事故と混同したように当日も別の場所で冠水事故が発生している。東北自動車道高架下道路や似たような冠水状況を抱えた道路を大雨が振った場合の危険箇所情報として把握していなければならない危機管理機関に所属しているはずである。

 正確な位置を特定できなかったなら、県警は危険箇所情報に基づいてすべての冠水危険箇所に交番の警察官、白バイ、パトカーを緊急派遣する配慮をなぜ示さなかったのだろう。そうすることによって、初めて「人命の尊さ」を口にする資格を持つことができる。

 危機管理機関でありながら、責任として有している正確な情報収集も行わず、正確な行動も取らずに、それとは正反対の不確かな見込み行動を取る。この一事を以ても危機管理機関としての責任を果たしていたとは言えない。

 被害者の長男が「警察や消防は混乱していたというが、大地震が起きたら救助できるのか疑問に思う」(≪栃木・鹿沼の車水没死:遺族「悲劇、繰り返さないで」 市長が対応を謝罪≫)と、その危機管理能力の拙劣さを批判したということだが、上は下を従わせ(上の言うこと・することをなぞらせ)、下は上に従う(上の言うこと・することをなぞる)「なぞり」を基本原理とした権威主義を行動様式とし、それと同じ構造の暗記教育に慣らされて意思伝達・情報伝達をなぞる形式で成り立たせている関係から、想定外の事態に対してこそ発揮されるべき「なぞり」を踏み出した臨機応変な満足のいく危機管理は「想定外」の行動様式であるゆえに望むべくもないに違いない。

いずれにしても、徹底検証と責任の所在の明確化、責任の軽重に応じた厳罰を行わなければならない。

 「鹿沼軽自動車水没事故/危機管理無能力を徹底検証すべき(2)」に続く 

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鹿沼軽自動車水没事故/危機管理無能力を徹底検証すべき(2)

2008-08-28 10:27:57 | Weblog

 ≪栃木・鹿沼の車水没死:遺族「悲劇、繰り返さないで」 市長が対応を謝罪≫(毎日jp/2008年8月27日 東京朝刊)

 栃木県鹿沼市で16日、集中豪雨で冠水した高架下に軽乗用車が水没し、同市千渡(せんど)の派遣社員、高橋博子さん(45)が死亡した事故で、佐藤信市長は26日、市の冠水対策が実質的に機能しなかったことを明らかにしたうえで謝罪した。遺族からは対応を批判する声が上がった。警察庁は110番に正確、迅速な対応をとるよう同日付で全国の警察に指示することを決めた。【中村藍、松崎真理】

 佐藤市長は市役所で会見し「情報が錯綜(さくそう)し、結果として救助出動がされなかったことは申し訳ないこと」と謝罪した。現場には路面冠水を知らせる装置が設置してあり、水深20センチを超えると、近くに保管してあるバリケードを置き、通行止めにすることになっていた。しかし、16日はバリケードの保管場所が水没したため設置できなかった。市は今後、バリケードの設置場所を増やす方針。

 市によると、事故当日の夕方の豪雨で問題の高架下は最高水位195センチを記録。市消防本部には浸水などの通報が殺到した。これらの対応に追われ、県警鹿沼署に出動要請済みの別の水没事故と混同し出動指令を出さなかったという。

 一方、高橋さんの長男雅人さん(19)は市長の謝罪について「母は必死に生きようとしながら死んでいった。このような悲劇を二度と繰り返さないでほしい」と怒りを押し殺して話した。中国留学から帰国し、高速バスで鹿沼インターに到着した雅人さんを迎えに行く途中の事故。雅人さんがバスから「もうすぐ着く」と電話すると、高橋さんは「すぐ行くからね」と答えた。それが最後の母の声だった。雅人さんは「警察や消防は混乱していたというが、大地震が起きたら救助できるのか疑問に思う」と緊急時の対応に苦言を呈した。
 ==============
 ◆栃木県鹿沼市で起きた車両水没死亡事故の経過◆
8月16日午後
 5時10分 市内で6時10分までの1時間に85ミリの雨量観測
   33分 現場の路面冠水を知らせる装置が作動
   54分 現場で最初の水没事故があり、目撃者が消防に通報(被害者は自力脱出)

  (業者現場到着/6時15分/東京新聞)
 6時19分 高橋さんの水没事故を目撃した人から県警に通報(県警は現場近くの別事故と勘違いし出
       動指示せず)
   21分 高橋さんから県警に通報(県警は発信位置を特定できず)
   22分 高橋さんの電話を受けた母親が消防に通報。「娘から『さようなら』と電話があった」と
       話した(消防は断片的な情報のため正しい位置を把握できず、別地点に出動指示)
   26分 高橋さんの事故の目撃者から消防に通報
   29分 さらにもう1件、消防に通報(この2件の通報について消防は5時54分通報の事故と混同
       し、出動を指示せず)
 7時30分 付近を巡回中の警官が高橋さんの車を発見、救助したが高橋さんは心停止状態。搬送先の
       病院で約1時間後死亡確認 


  ≪鹿沼の車水没死:鹿沼市長が謝罪、再発防止策策定へ 防災対応の盲点露呈 /栃木≫
(毎日jp/08年8月27日) 

「想定を超えてしまった」

 鹿沼市茂呂の東北自動車道高架下の市道が今月16日、集中豪雨のため冠水して通り掛かった同市千渡、派遣社員、高橋博子さん(45)の軽乗用車が水没し、死亡した事故は、市消防本部、県警に続き、地元の佐藤信・鹿沼市長も対応の不備を認める異例の事態に発展。緊急を要する事故・防災対応に盲点があることが露呈した。冠水した現場の市道にバリケードの設置などができなかったことについて佐藤市長は26日、市役所で開かれた定例記者会見で、謝罪の言葉を述べるとともに、再発防止策を策定する考えを明らかにした。【中村藍、松崎真理】

 消防や行政で適切な対応が取れなかった原因について、佐藤市長は会見で、「かつてない1時間に85ミリを超える雨が集中的に降った」ことと、市内の各所から通報が相次ぎ、対応する職員が手いっぱいになってしまった問題を挙げた。

 同市によると、事故現場となった市道は、東北自動車道が開通した1972年と同時期に開通した道路で、これまで、冠水により95年に車両3台と01年に2台の合計5台が水没したことがあったという。ただそれらはいずれも約1メートルの深さの冠水状態だった。

 しかし16日は、冠水部の水深が約2メートルに達するほどの集中豪雨だった。道路入り口付近に保管してあるバリケード2カ所は既に冠水していて設置できず、ガソリンスタンドの店員6人と市の委託業者2人が、手サインで車両の誘導に当たった。

 しかし、大雨で視界が悪かったことなどから、誘導に気付かなかったドライバーもいたものとみられ、すべての車の進入は阻止できなかった。佐藤市長は「想定を超えてしまったというところが最大の問題であった」と釈明した。

 市は今後の再発防止策として、
(1)路面冠水装置が作動した場合に設置するバリケードと設置個所を6カ所、8基に増やす
(2)路面冠水装置が水深10センチを感知した場合、市消防本部は現場に急行する
(3)広報紙でも冠水注意個所の周知を図る
(4)現在、市内に6個設置している赤色回転灯を18個に増やす
(5)雨量が1時間40ミリを超えると予想される場合、市消防本部は職員を招集する--などを挙げた
   。
 ◇遺族、怒りあらわ 「早めに連絡ほしかった」

 高橋さんの長男・雅人さん(19)は26日、宇都宮市で報道陣の取材に応じ、鹿沼市消防本部や県警の水没事故への対応を批判した。

 「想定外の大雨だったことが大きな要因」。釈明を繰り返す市に対し、雅人さんは「事故現場は十数年前から危険な場所と言われてきた。想像できない大雨だったことは分かるが、事前に改善できなかったのか」と怒りをあらわにした。

 高橋さんは中国での短期の語学留学を終え、成田空港から高速バスで鹿沼市に戻ってくる雅人さんを迎えに行く途中に事故に遭った。雅人さんはバスの中で母に2回電話をした。「そろそろ、鹿沼に入るから。雨が強いから気をつけてね」。高橋さんは「こっちもすごい土砂降り。すぐに行くからね」と答えたという。

 雅人さんは「母は泥水にのみ込まれて、苦しんで必死に生きようとした」と言葉を震わせた。

 また「謝罪やミスを認めるにしても、もっと早めに連絡をほしかった」と悔しさをにじませた。今後の対策については「犠牲者をこれ以上出さないために、排水設備の改善や道路の角度を直すなどしてほしい」と話した。その一方で、「警察、消防は対応のミスを認め、市も謝罪してくれたので気持ちは軽くなった」とも述べた。 
≪鹿沼水没事故 会見で市長が謝罪 人命優先第一を強調≫(東京新聞/2008年8月27日)
 事故に対する見解や今後の対応を述べる佐藤信市長=鹿沼市役所で

 「対応できず、心からおわびしたい」。鹿沼市の市道で豪雨のために軽乗用車が水没し、会社員高橋博子さん(45)が死亡した事故で、二十六日に記者会見した佐藤信市長はこう謝罪。再発防止策を公表した。行政の不手際が指摘される中、市は教訓を生かせるのか-。 (横井武昭)

 佐藤市長は冒頭で「結果として消防の救助出動ができず申し訳ない。心からご冥福を祈る」と神妙な面持ちで陳謝した。 

 市によると、当日の十六日午後五時三十三分、冠水が二〇センチを超えたことを現場の路面冠水装置が感知。周辺四カ所の掲示板が「通行止め」を表示した。冠水時、市は委託業者に通行止めのバリケードを設置するよう依頼しているが、連絡が遅れ、業者の現場到着は同六時十五分。すでにバリケードの保管場所自体が水没し、取り出せなかった。

 消防も同六時二十九分に「車二台が水没した」という通報を受けながら別の水没事故と混同し出動しなかった。大雨洪水警報が出た午後六時に非常招集をかけたが、全職員三十人のうち十八人しか集まらなかった。

 対応の不備や市の責任について市長は「経験したことのない豪雨だった。行政の不備というより、すべてが想定の範囲を超えていた。人命優先がとにかく第一。そのためにいち早く通行止めにすることが求められる」と強調した。

 死亡した高橋さんの長男雅人さん(19)は「もう少し早く説明してほしかった。悲しい事故が二度と起きないよう改善されることを望みます。母の死が無駄にならないように」と話した。

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星野ジャパン/金メダル獲得を「絶対」としたことの愚かさ

2008-08-26 06:09:13 | Weblog

 日本プロ野球の錚々たるメンバーを揃え、「金メダルしかいらん」と臨んだ北京オリンピック野球で、星野ジャパンは銅メダルも獲れずに4位で終わって帰国した。その成績に各方面から批判が集中しているという。

 楽天の野村監督が「仲良しグループをコーチに選んだ時点で、だめと思った」、「投手出身の監督は視野が狭い。今年の岩瀬はオープン戦から調子が悪かった」(「asahi.com」)とコーチや選手の起用方法の間違いを指摘したと言うことだが、そういった技術面のことは専門家に任せるとして、そもそもの間違いは「金メダルしかいらん」と金メダル獲得を「絶対」としたことではないだろうか。

 「金メダル欲しいね」、とか、「ここまで来たら、金メダル獲って帰ろう」とかの強い願望を超えて、それしかいらないと戦う前から獲得を「絶対」と決め付けたのである。

 本人としては選手の意識を金メダル獲得に向けた一点に集中させ、金メダル獲得へとモチベーションを高めさせる目的で公言したのだろうが、選手も当初はその気になったとしても、そこに少しでも狂いが生じると、逆に選手を余裕のない断崖絶壁に追い込むことになる諸刃の剣であることに星野監督は気づかなかったらしい。

 少々大袈裟なことを言うと、独裁権力を以てしても「絶対」を実現させるのは難しい。ヒトラーはドイツ民族の優越性を掲げて世界支配を目論んで戦争を仕掛けたが、世界支配どころか、戦争に敗北し、ピストル自殺する惨めな結末を迎えている。

 戦前の日本は天皇絶対主義に裏打ちさせた日本民族優越論のもと、世界の頂点に立つ資格のある民族だと信じて中国侵略、アジア侵略の戦争を仕掛けたが米国に阻まれ、惨めな敗戦で終わっている。

 確かに日本のプロ野球の一流選手を集め、金メダルを獲ってもおかしくないメンバーだが、野球といった団体競技の場合はレスリングや柔道といった一対一の個人競技の闘いと違って、同じ一人の人間が試合を終始支配するわけではない。同じ一人の人間を相手とした駆け引きを含めた技術の差、気力の差、体力の差、コンディションの差等で戦いが支配を受けるわけではない。一人が複数の人間を相手にし、同時に複数が複数を相手とする競技である。一対一の個人競技でさえも「絶対」は存在しないのだから、ましてや複数の人間が相戦う団体競技に「絶対」は存在しようがないはずである。

 監督は自チームと相手チームの複数の選手を相手としなければならないし、監督自身が直接プレーするわけではないから、監督の試合に対する支配は常に間接的であって、直接的戦う選手にしても常に「絶対」は存在しないのだから、間接的となると、「絶対」とは程遠い試合に対する支配となるはずである。例え試合に勝ったとしても、反省点のない勝利はまず存在しないだろう。

 優勝した韓国チームにしても「絶対」が保証した優勝ではあるまい。

 同じ個人競技でも水泳とか陸上競技といった場合は戦う相手は自分自身であろう。他の選手の記録が気になることはあっても、基本的には戦いに臨んだときの自身の集中力、技術力、コンディション等が競技を支配する。泳ぎ切る間、同じレースに臨んだ他の選手の力の支配を直接的に受けるわけではない。自分のみの力の発揮――どれだけ力を発揮できたか、競技をどれだけ支配できたかで成績が決まってくる。

 競泳の北島はアテネに続いて100と200の平泳ぎで連続の2冠、金メダル獲得を成し遂げたが、どうレースを支配するかは直接的には自身の力にかかっているから、自分が「金メダルしかいらん」と金メダル獲得を「絶対」とすれば可能となる、だから金メダルを獲得できた言うことはできるが、金メダル獲得に向けてどうモチベーションを高めていくか、どうコンディションを最高潮に高めていくかは本人の集中力、精神性、技術力にかかって左右される発揮であって、左右される以上、その「絶対」は相対的なものでしかない。

 スタート台からプールに飛び込んで水を一掻きしたとき、自らの調子におや、おかしいぞと思うこともあるだろうし、そう思った途端になかなか力強く前に進まなくなるだろうし、逆に最初の一掻きに力強さを感じたなら、その力強さは一掻き一掻きしていくうちに確かな手応えを伴って増幅していくだろう。 常に「絶対」ではないのだ。

 「絶対」は存在しない。「絶対」が存在したなら、ピッチャーは投げるたびに完全試合を成し遂げることになるだろう。打者は打席に立つたびにホームランかヒットを叩き出すことになる。当然、「この楯はどのような矛も防ぎ、この矛はどのような楯も突き通す」といった話になってくる。

 大体が星野監督の日本のプロ野球での監督の成績は中日ドラゴンズ時代の11年間で2回の優勝、阪神時代は2年間で1回の優勝を果たして確率は高いものの、いずれの場合も日本シリーズでは敗れている。いわば、星野監督自身が「絶対」ではなかったのである。

 「金メダルしかいらん」といった金メダルを「絶対」とする精神主義だけでは片付かないと言うことだろう。

 星野監督は戦う前から「金メダルしかいらん」と金メダル獲得を「絶対」とした。星野ジャパンチームを戦う前から金メダルの位置に置いた。チームに選抜された各選手が星野監督の言葉を受けて、自分たちは日本のプロ野球の一流選手たちばかりだから、金メダル獲得は当然だと思ったとしたら、星野監督同様に選手たちも金メダル獲得を「絶対」としたことになる。戦う前から星野監督同様に選手自身も自分たちのチームを表彰台の金メダルの位置に置いたことになる。

 相手の力、相手の調子、相手との駆け引きで決まる自分たちの力であって、「絶対」は存在せず、常に相対的力なのだから、そのことは監督も選手もペナントレースで学んでいるはずだが、そのことを忘れて自分たちの力を金メダル獲得を「絶対」とする高みに置いたことになる。その時点で既に戦いに関する合理的判断能力を失って思い上がっていたことになる。

 金メダル獲得を「絶対」とする以上、大事な緒戦でもある金メダル候補のキューバとの一戦を勝利しなければならないはずだが、4対2と敗れて、「絶対」の出鼻を挫かれてしまった。「絶対」が如何にあやふやなものか学ばずに、星野監督はあくまでも金メダル獲得に拘り、金メダル獲得を「絶対」とし続けた。

 金メダル獲得「絶対」を基準として戦うことになるから、ちょっとした失敗も許されないことになる。エラーも凡打も三振も許されないことになる。金メダルが遠のくにつれ、ちょっとした失敗も許されないという緊張感が強まっていったに違いない。選手に覇気がなかった、チームとしてのまとまりがなかったという指摘は「絶対」の前に萎縮した姿がそう見せたのではないだろうか。

 「金メダル獲得に向けて頑張る」なら理解できる。あくまで「獲得に向けて」の願望であって、獲得を「絶対」としていないからだ。「絶対」からスタートするのではなく、願望を実現するにはどう戦ったらいいかという場所からスタートすべきだったろう。願望でさえも相手の力との相対関係で決まる。

 星野監督は韓国とキューバの決勝戦を「(韓国が)勝てと思って見ていた。アジアの野球のレベルの高さが証明された」(「asahi.com」)と言ったということだが、「アジアの野球」の中には日本の野球も入っているのだから、日本の野球のレベルも高いとする前提に立った発言となる。

 だが、日本のプロ野球チームから一流選手を掻き集めた星野ジャパンは4位に終わった。確かに日本の野球はレベルが高いだろが、北京オリンピックではそのレベルの高さを証明できなかった。

 レベルの高さにしても常に「絶対」ではないことを失念した、「金メダルしかいらん」と金メダル獲得を「絶対」としたのと同じく星野監督の合理的判断能力を失った「アジアの野球のレベルの高さが証明された」の発言であろう。

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教科書を厚くしても脳ミソは厚くならない

2008-08-24 10:56:50 | Weblog

 戦前の「鬼畜米英」、「勝つまで贅沢は言いません」並みに全国的に湧き起こった「学力低下」の有難くもおどろおどろしい大合唱を受けて、「学力低下」の引き金授業時間減数の誘因元凶「ゆとり教育」・「総合学習」を昨日の味方は今日の敵と看做し、授業時間増加を手段とした「学力強化」を今後の学校教育の獲得戦果目標の課題とすることとなった。

 経済協力開発機構(OECD)が2000年から3年ごとに実施している国際学習到達度調査(PISA)で回を追うごとに日本の成績が「科学的応用力」、「数学的応用力」、「読解力」のすべての試験項目で順位を下げる「学力低下」を印象付ける結果を招くこととなったが、日本の場合の受験対象である高校1年生が詰め込み教育の弊害から唱導されることとなった「ゆとり教育」で育った世代であったことが、「ゆとり教育」とそれと密接に関連し合った「総合学習」が「学力低下」の原因とされるといったことも原因している「学力強化」策であろう。

 当然のこととして授業時間を増加した分、そこに込める「学力強化」に効果ある授業方法をどうするかの問題が発生する。

 その方法とは教科書の分量(ページ数)を増やすことらしいが、このことについては「日本の教科書は随分中身が薄い」との福田首相の指摘もあったという。

 「毎日jp」記事≪教育再生懇:国・理・英「ページ数を倍に」 自習向けの教科書求め--改革案≫(2008年7月29日 東京朝刊)が計8カ国で比較した中学2年の数学教科書では米国は651ページ、フランスは256ページ、イギリスは248ページで日本は211ページで第7位だとのこと。オリンピックで言えば、日本新記録を更新したが、遥か金メダルには届かなかったと言ったところか。

 勿論、「日本の教科書は中身が薄い」から中身を厚くしようということだけではハコモノで終わる。児童・生徒に学び応えを提供するところまで行かなければ、インスタント焼きそばの「+増量100グラム」といった食べ応えを提供するサービスにも劣ることになりかねない。

 と言うことなら、従来の教科書が児童・生徒に学び応えを与えてきたのだろうかの検証も必要になる。いや、教科書だけではなく、教師の教え自体が児童・生徒に学び応えを与える教えだったかどうかの検証も必要になるだろう。

 上記「毎日jp」記事でも触れているが、安倍晋三前国家主義首相の「教育再生会議」を受け継いだ福田「教育再生懇」(座長・安西祐一郎慶応義塾長)がインスタント焼きそばの「+増量100グラム」といった食べ応えに相当するプラスの学び応えを児童・生徒に提供する方法として、教科書を厚くすると同時にその教科書を授業に於ける「主たる教材」であると位置づけていたことを超えて、「自学自習に適した教科書」への転換を目指す素案を示したと「asahi.com」記事≪教科書ページ、倍増提案へ 教育再生懇「自習にも対応」≫が伝えている。

 具体的には「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」とし、算数・数学では練習問題、国語や英語では古典や文豪の名文、英字紙の引用などを増やすことを提言、その上、現在は文部科学省の指針で学習指導要領の範囲を小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として超えることを容認していた「発展学習・補充学習」の上限を撤廃し、自由に行えるようにすることと外国の教科書との比較分析など、研究体制を充実させる方針も盛り込んだとのこと。

 これまでは小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として学習指導要領の範囲を超えて教科書の内容を「発展・補充」させる学習が許されていた。その「上限撤廃」は全面的に教師の才能に任せることを意味することになる。「発展学習・補充学習」とはどのような授業形式なのか、単語の意味からある程度想像がつくが、具体的な知識がなかったから、インターネットで調べてみた。

 「発展学習とは,適用範囲を広げたり,身の回りの類似事象に応用したりする学習である。補充学習とは,学習形態・教材・支援の仕方などが工夫された繰り返し指導のもと,基礎・基本の確実な定着を図るために行う学習である。」(『学習指導の改善をめざす小学校算数科の目標に準拠した評価の在り方』)と出ていた。

 と言うことなら、「上限撤廃」はある意味、教科書を厚くすることと逆行する措置とはならないだろうか。教師に「発展学習・補充学習」を行う能力が十分にあるなら、書いてある内容が少なく、その結果ページ数が少なくて教科書自体が薄くても、あるいは教科書の内容自体が少しぐらい軽量であっても、教師が制限を受けることなく少ない記述・少ない知識を補って「発展・補充」させ、児童・生徒に学び応えのある教えを提供可能となるからだ。

 またゆとり教育に対応し、詰め込み教育から距離を置くために教科書を薄くしてきた間も小中学校で教科書全体の1割、高校で2割を上限として教師は学習指導要領の範囲を超えた「発展学習・補充学習」が可能だったのだから、教科書の薄さ、それが例え教科書の内容の軽量を表裏一体とさせていたとしても、やはり少ない記述・少ない知識を補って基本のところで基礎学力、基礎応用力を児童・生徒に伝え得たはずである。

 だが、「学力低下」を叫ぶ者たちは同時に「基礎学力の大切さ」を訴えて、「基礎学力」の植え付けこそが「学力低下」の最大の防御策だと位置づけている。

 この「発展学習・補充学習」の展開と比較した「基礎学力の欠乏」は何を意味するのだろうか。教科書を厚くし、その分内容を充実させたとしても、あるいは学習指導要領が命じている制限を撤廃して「発展学習・補充学習」が自由に行うことができたとしても、教師自身が「発展・補充」する授業能力を備えていなかったなら、これまで同様に「基礎学力」の育みに多くは望めないだろうし、当然の成り行きとして「基礎学力」から一歩も二歩も出た「創造的学力」(=創造性)獲得への期待はさらに少なくなる。

 大体が「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」を狙いとした「総合学習」自体が教師がその能力がなく成し得ていなかった「発展学習・補充学習」を補うべく児童・生徒自身に「自発的学び」を期待した側面も有した教育方法ではなかったのではないだろうか。

 いわば教師側が「発展・補充」する教育を可能としていたなら、児童・生徒の側も教師の「発展・補充」の教えの姿勢を学んで、自らも「発展・補充」の自発的な姿勢を身につけていくだろうから、わざわざ「総合学習」と銘打って「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」をスローガンとする必要もなかったはずである。

 ところが文部省あるいは文科省は「総合学習」を打ち出して児童・生徒に対して「自発的学び」の能力の植え付けを策した。教師自身が「発展学習・補充学習」の能力を有していない疑いがあるにも関わらず、児童・生徒に対して教師の能力と矛盾する能力を要求したのである。

 だが、「自学自習」は「自ら学び、自ら習う」の意味だから、「自発的学び」を姿勢とすることで可能となる。いわば「自学自習」も「総合学習」も名称は違っても、自発性を導き出し、それを植えつけることを主眼とした教育であって、基本構造は相互に通底しあって、さしたる違いはない。

 基本構造に違いがないということなら、「自ら学び、自ら習う」「自学自習」の先に「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」「総合学習」への方向を必然的に結果とするはずであるし、その逆も可能となる。

 そしてここへきて「学力低下」、「基礎学力の植え付けの必要性」、「国際的に見て日本の教科書は薄い」等を理由に福田「教育再生懇」は教科書を厚くし、教科書の中身を「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」にして「自学自習に適した」ものとすることで「総合学習」で目的としたのと同じことを実施しようとしている。

 だがである、「総合学習」も「自学自習」も「自発的学び」、あるいは自発性を前提としている以上、教科書が「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」を施してあったとしても、児童・生徒がそれぞれに「自発的学び」の姿勢、自発性を獲得していなければ、獲得していなくても、そういった姿勢を取ることができなければ、教科書にお膳立てしてあるお仕着せの知識をなぞって暗記するだけで、「1人で読んでも理解できるよう丁寧な記述」がしてある分、暗記しやすいメリットを与えてくれるものの、「総合学習」で成功していないのだから、書いてある知識を他の知識と組み合わせて膨らませて発展させ、自身の考え、自分独自の知識とする「自発的学び」、自発性を見ることなく、あるいは「総合学習」で言うところの「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」「自発的学び」・自発性の獲得だけではなく、その地点から始まる創造性への発展もなく、「自学自習」にしても、その成功は覚束ないものとなる。

 こう考えてくると、教科書が厚い・薄いはさして問題ではないことになる。問題は「自発的学び」の姿勢である。学ぶことに対して、児童・生徒がそれぞれ如何に自発性を発揮できるかにかかっているかが重要な問題点と言える。教師自身が教科書の知識を「発展・補充」する才覚もなく、「教師用指導書」を参考にして教科書に書いてあることをなぞって児童・生徒に伝えるだけなら、児童・生徒もそのような知識授受の形式を見習って教師が伝える知識をなぞって頭に暗記するだけで終わることになるだろう。「暗記」と言う形式自体が「なぞり」を基本構造としていることは断るまでもない。

 「総合学習」が絵に描いた餅で終わったように、「自学自習」も絵に描いた餅の同じ運命を辿ることになる可能性大のように思える。

 教師は教えることをやめるべきである。教えることをやめて、児童・生徒に考えさせる授業を目指すべきだろう。そうすることによって暗記教育から脱却可能となり、児童・生徒は自分から考えなけれがならないこととなって、否応もなしに「自発的学び」、自発性を身に着けざるを得なくなり、「自学自習」、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」「総合学習」の知識獲得に向かうはずである。既に触れたように、「創造性」への道はそこから始まる。

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密室で生まれた森元首相の有言実行的密室性の「次は麻生」

2008-08-22 00:45:48 | Weblog

 「毎日jp」記事≪森元首相:TVで「次は麻生さん」≫(2008年8月18日 東京朝刊)が次のように伝えている。

 <自民党の森喜朗元首相は17日、テレビ朝日の報道番組で、麻生太郎幹事長について「福田康夫首相の無味乾燥な話より、麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている」と述べた。その上で「わが党も麻生人気を大いに活用しないといけない。『次は麻生さんに』の気持ちは多いと思う。私も、もちろんそう思っている」との考えを示した。

 衆院解散・総選挙の時期に関しては「我々がとやかく言うことではないが、来年9月まで任期がある。それを無駄にしてはいけない」と述べ、急ぐべきではないとの考えを強調した。【近藤大介】>・・・・・・・・

 「次は麻生、次は麻生」だと公には口にしているが、国民の見えない、いわば密室性を持たせた場所での政治屋的駆け引きで麻生決定に持ち込もうとしている。さすが密室で生まれた元首相だけのことである。

 福田首相の話が「無味乾燥」なのは福田政策が「無味乾燥」だからで、政策自体が一般国民に興味津々の関心を与えるものであったなら、少しぐらい話が無味乾燥でも、それを補って国民の期待を高めることができる。支持率が下がっていると言うことは政策が国民にとって「面白」くない結果であって、話自体が「面白い・面白くない」で片付かない問題であろう。

 いわばいくら話が面白くても、政策が伴わなければ結果として面白くとも何ともない。

 当然、麻生の話が例えどのくらい面白くても、政策が伴うかどうかにかかってくる。国民はその辺のところをきちっと見極めなければならない。麻生の話だけが面白いのか、政策自体が面白いのか。

 例えば麻生幹事長は問題となった太田農水相の「消費者はやかましい」発言を取り上げて、「関西以西の人は『やかましい』とみんな言う。『あの人はワインにやかましい』というのは普通の表現だろう」、「『選挙にやかましい』と言ったら、うるさい、詳しい、プロ。そういったものをみんなやかましいと言う」(asahi.com/2008年8月19日22時17分)との自説を展開して擁護したと言うことだが、確かに「やかましい」の言葉には「うるさい」と言う意味以外に、「広辞苑」(岩波書店)が「好みがむずかしい」、「大辞林」(三省堂)が「自分の趣味に固執してあれこれ言い立てるさまである。好みがむずかしい。」と解説しているように、一つの事柄・物事に関してその人なりの他に譲らないなかなか難しい意見を持っている、うるさい意見を持っているといった個人性を言う場合に「やかましい」の言葉を「関西以西」でなくとも当てるから(私自身は静岡県生まれのオッパッピー)、「あの人はワインにやかましい」とか「選挙にやかましい」といった言葉も方言ではない「普通の表現」として存在している。

 だが、太田誠一靖国国家主義者は「ワインにやかましい」、「選挙にやかましい」といった個人性と同じ文脈で「消費者としての国民がやかましくいろいろ言う」と言ったわけではないだろう。個人性の問題であるなら、「中国のように、基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよいという国とは違」うといった個人性と離れた国家体制を消費者の要望に「応えざるを得ない」条件とする必要は生じない。

 大体が「食の安全」、あるいは「食の確保」、「食の価格」等の問題は個人性として抱えている問題、あるいは個人性で片付けていい問題ではない。

 麻生が例の言葉を引きずるようなしわがれ声で「関西以西の人は『やかましい』とみんな言う。『あの人はワインにやかましい』というのは普通の表現だろう」と面白おかしく言おうとしたとしても、ただの身内庇いから出たこじつけに過ぎない。

 桃から生まれた桃太郎ならぬ密室から生まれた森密室太郎元総理にしたら、麻生の創氏改名は日本人の朝鮮人差別から「名字をくれ、といったのがそもそもの始まりだ」も「面白い話」のうちに入るのだろう。

 麻生の「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」も、散々アジア人差別、朝鮮人差別を展開し、その残滓を今以て残しておきながら、「(日本には)人種差別がない」も「面白い話」として森の頭は記憶しているに違いない。

 森喜朗が密室で生まれた元首相だとの名誉ある尊称付与の由来は第18回参議院議員通常選挙敗北の責任をとって辞任した橋本龍太郎の後継首相に小渕恵三が1998年(平成10年)7月就任。2000年4月1日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂。午後7時52分からの共同インタビューで答弁が途切れる等の言語障害を発生後、4月2日早朝の1時過ぎ緊急入院。病因は脳梗塞。

4月2日P.M 7:00頃 
 青木官房長官、医師から説明を受け、病室で小渕と二人きりで会う。

4月2日P.M 7:30頃
 容体急変

4月2日P.M11:30頃
 面会4時間後の青木官房長官記者会見。
 記者「総理の意識ははっきりしているのか」
 青木官房長官「そこまで私は承知していません」
 記者「顔色はどうだったか?」
 青木官房長官「そんなことはいちいち私も医者でないので分かりません」

 直接見舞ったのである、意識がはっきりしているかどうか、医者からも説明があっただろうし、付き添っている家族からも具体的な意識状況を聞かされるだろうし、顔色がどうか、自分の目で確かめもしているはずである。いわば正直には答えられない病状にあったということなのだろう。心配する程の症状であったなら、誰だって正直に答える。

 ところが、4月3日午前の記者会見になると、  
 青木官房長官「4月2日、私が見舞ったとき、小渕総理から『有珠山噴火対策な
ど、一刻もゆるがせに
  できないので、検査の結果によっては青木官房長官が臨時代理の任につくように』という指示を受け
  た」
 ――「総理の言葉はきちんとしていたのか」
 青木官房長官「うん、私がお会いした時点では、はっきりしていました」
 ――「ろれつが回らないことはなかったか」
 青木官房長官「いや、そういうことはありませんでした」

 5月15日の『朝日』記事によると、

 治療の中心的立場だった水野美邦・教授(脳神経内科)(青木官房長官が面会したときの小渕首相の意識状態に関して)「日本式昏睡尺度(JCS)で2から3。( うとうとする)軽い傾眠の傾向があるが、大きな声で呼びかければ応じられる程度」

 医師団は「可能だったのは、相づちを打つとか、相手の言っていることを理解してうなずく程度だったのではないか」・・・・・・

 当時自民党は青木幹雄・村上正邦参院議員会長・野中広務幹事長代理・亀井静香政調会長・森喜朗の5人が権力を握っていて、その5人だけの密室的会合で、後に財団法人「ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団」(KSD)の創立者古関忠男が進めていた「ものつくり大学」設立に便宜を図った見返りに総額5,000万円の利益供与を受けた収賄の罪で有罪判決を受けることとなった村上正邦が森喜朗の「麻生さんのような面白い話が受けるに決まっている」と同根の「うまいものばかり食っていてでっぷり太っていて貫禄があっていい」とまで言ったかどうかは分からないが、森喜朗に「次はあんたがやればいい」と言ったことから森に次期総理の白羽の矢が立ったという。

 と言っても、青木幹雄と森喜朗は早稲田大学雄弁会の幹事長と副幹事長の親分と子分の関係にあったというから、青木自身の口から推薦できないと言うことで村上正邦に言わせたとしたら、村上は決まっていたことをただ単に口に出して言って決定事項の形式を取ったということになる。それくらいのことは平気でする鉄面皮な連中であろう。

 要するに自分たち5人だけの密室談合で森を次と決めるためには小渕首相が意識不明だと都合が悪いから、話しもしない、話せるはずもない有珠山噴火対策の話をデッチ上げて先ずは小渕首相が意識がはっきりしていたことの状況証拠とした上で、次に青木が自分が官房長官の地位にあることをいいことに小渕自身のはっきりとした意識の元の要請という形で自身を「臨時代理の任」に就かせて、最後の仕上げとして「臨時代理」を間に置いた小渕から森へとの間接的“禅譲”を行ったといったところではないのか。
 
 森喜朗はそのとき密室劇の味を満喫したはずである。当然のこと、総理・総裁就任が密室での決定事項だったことに何の抵抗感も持たなかった。一度味を占めた(「一度経験したことのうまみや面白みを忘れない」『大辞林』三省堂)ことで、密室劇、あるいは密室談合に対する免疫ができた。

 いわば森喜朗は密室的政治決定を己の血とし肉とすることとなり、政治上の行動様式に於ける自らの文化・伝統とするようになった。元々素地として持ってもいたのだろう。

 文化・伝統とした行動様式はいつでも目覚める状況にある。安倍政権下での昨年の参院選で民主党に大敗を喫して与野党逆転状況を許し、福田政権となったものの支持率低迷状況から抜け出せず、間近に迫っている次の総選挙で政権の座を民主党に奪われかねない危機的状況に立たされ、選挙に勝てる総裁が必要という切羽詰った絶対条件が必要となったとき、自らの政治上の文化・伝統としている密室的行動性が麻生の人気を自民党政権維持の打ち出の小槌にしたいなり振り構わない無節操なご都合主にも促されて目覚め、「次は麻生」へと向かわせたといったところではないのか。

 森密室太郎センセイ、「次は麻生だ」を口にしては自らのその言葉に励まされて、赤坂の料亭といった国民の目が届かない密室で誰彼となく会合を重ねて、麻生総裁に向けて得々と根回しの陰謀を重ねては免疫と化した密室劇の血をたぎらせているに違いない。

 森喜朗如きハッタリと駆け引きだけの政治家が首相経験者・党の実力者としてのさばっている日本の政治状況と日本が先進民主主義国家であることとの関係はどのような逆説の上に成り立っているのだろうか。

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麻生とその一派の「福田降ろし」大歓迎・日本の救世主 麻生後継

2008-08-20 05:58:13 | Weblog

 麻生の腰巾着だか太鼓持ちだか知らないが、麻生支持一派所属の甘利前経財相が「福田内閣の支持率が20%を切った場合には、選挙に不安を抱えている自民党議員から体制立て直しという声が出てくる。その時に党内コンセンサスが得られるのは、麻生太郎幹事長だ」と福田首相への宣戦布告なのか、単なる打ち上げ花火なのか、<18日、BS11の報道番組「インサイドアウト」の収録で、「福田降ろし」の可能性に言及し、早くも「ポスト福田」として麻生氏待望の「第一声」を挙げた。>と昨19日(08年8月)の「毎日jp」記事≪甘利前経産相:「福田降ろし」に言及 「支持率20%割れなら麻生氏」≫が伝えていた。

 記事は甘利太鼓持ちだか腰巾着だかの特に新味があるとは思えない今後の総裁選に対する見通しを次のように紹介している。

 <甘利氏は昨年9月の党総裁選で、所属している山崎派の方針に逆らい麻生氏を支持した。最近も麻生氏と政局談議をかわしたことを認め、「次の指導者を担ぐ事態が来たら、麻生さんも私も(党総裁選で)戦わないといけないという考え方は同じだ」と戦闘宣言。衆院解散・総選挙について「(衆院議員の)任期は来年秋だが、引っ張ると事実上、解散権を行使したことにならなくなる」と語り、早ければ予算編成が本格化する前の総裁選もあり得るとの見方を示した。【近藤大介】>――――

 麻生一派の「福田降ろし」陰謀賛成。麻生自民党総裁大賛成。人気の麻生で次の総選挙を戦う。麻生の自らが趣味としている「マンガ」とその「おたく性」をウリとした大衆煽動に乗った若者世代の麻生コール・麻生熱狂がマスコミのワイドショー化させた過熱報道の照射を受けてなお一層麻生コール・麻生熱狂を高め、麻生も若者たちも小泉がそうであったように社会の何様顔の主役へと高揚し、両者の相互反響し合ったその高揚をマスコミがなお過熱報道する三つ巴の高揚が湧き起って、報道が創り出す高揚した「麻生世界」がさも麻生の実質的政治性の忠実な反映であるかのように実体化させていくマジックをマスコミは社会全体に刷り込んでいくことになり、麻生はかつての小泉のように政治的教祖に祭り上げられることとなる。

 マスコミによる擬似民意の創出である。マスコミが伝える若者たちの麻生コール・麻生熱狂とその影響を受けた一般大衆の麻生騒ぎが民意そのものであるかのような錯覚を与えて熱病のように社会全体へと伝播させていく。

 麻生は小泉同様に知っている。大衆受けする姿を演じてそれが成功した場合、マスコミが取り上げて両者を社会的に露出させ、その報道が大衆に撥ね返って大衆をさらに熱狂させ、その一層の熱狂をマスコミが引き続いて取り上げて過熱報道する相互の煽動が熱狂を上昇スパイラルで循環させていくことを。

 この大衆操作マジックは小泉人気を側面から演出したマスコミの一極集中型報道形式から学んでもいたに違いない。

 かくして「小泉劇場」の再来、「麻生劇場」が出現する。ロングランとなるのか、不入りで早々に打ち切りとなるのか。日本のためなら、ロングランとなるべきだろう。

 麻生総理・総裁が誕生したなら、第二の小泉格差政治の開始となるだろう。その手始めが既に始まっている。「300万円以下の株配当・株譲渡益無税」提案がそれである。国内雇用者5千万人強のうち、その約5分の1に当たる1千万人を超えていると言われている年収200万円以下の低所得層は生活費・その他で貯蓄に回す余裕すらないはずで、当然株どころの騒ぎではない。「300万円以下の株配当・株譲渡益」を手に入れるにはどれくらいの金額まで株を所有していたなら、可能なのだろうか。所有可能なのは所得の高い層に入る生活が豊かな人間たちであろう。

 景気回復の梃入れ策として生活が豊かな人間たちを税制面で優遇し、その収入を増やすてさらに豊かにするお手伝いをし、200万円以下で暮らす低所得層は除け者とした、小泉・安倍政治を受け継ぐ格差政治である。

 だが、大衆はそんなことは考えない。若者と同じようにマンガを愛読し、「おたく」に理解があるというだけで自分たちの味方だと思い込んで政治・社会の救世主と崇め奉り、麻生を絶対視する。
 
 金子勝慶大教授が05年9月27日付『朝日』夕刊の『論壇時評』で、小泉構造改革で増大した「下流社会」の若者たちが自民党圧倒的勝利の05年の郵政選挙では小泉政治を支える側にまわったと指摘しているが、それと同じ構図を取るというわけである。

 02年2月に始まり、東京オリンピック翌々年からのいざなぎ景気を超えて戦後最長となった景気拡大がもたらした富が大企業や富裕層のみを潤し、低所得層には配分されなかった格差政治の造物主・小泉の出現に熱狂しながら、その格差がもたらした派遣やワーキングプアといった図式で復讐を受けることとなった仕打ちが「麻生劇場」でも再現され、その二の舞を受ける繰返しの予感である。

 麻生幹事長就任に当たって福田首相から政権禅譲をほのめかされたのではないかという憶測に対して甘利太鼓持ちだか腰巾着だか知らないが、「麻生氏と話したが、禅譲という話はない。総裁選をきちんとやる」と否定したと「asahi.com」(08年8月18日)記事に出ていたが、「禅譲」の話があったなら、「福田降し」に動かないだろう。

 だが、さらに裏を行って、「禅譲話」がないと思わせるために「福田降ろし」の動きを見せたと言うこともある。「禅譲」は政権の私物化と批判を受けかねないからだ。

 裏の裏を行くといったこの手の程度の低い権謀術数は政治能力が欠けている分、それを補う形で達者な日本の政治家だから、裏の裏を疑ってかかることも必要であろう。
 小泉政治に懲りなかった若者たちよ、麻生に熱狂するがいい。小泉に見た夢を再び麻生に見るがいい。

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拉致「白紙に戻し、一からの再調査」とは国交回復のための落しどころを探る合作劇ではないのか

2008-08-18 17:24:42 | Weblog

 少なくとも日朝双方共に無意識のうちにそう示し合わせているように思える

 とすると、北朝鮮が日本の世論、特に「救う会」が納得するシナリオを如何に巧妙に捏造できるかにかかっている

 1回目となる小泉・金正日日朝首脳会談が02年(H14)9月17日平壌で開催された。そこで北朝鮮側は日本人拉致疑惑問題に関して特殊機関の一部の者による妄動主義、英雄主義による事件だとして拉致を認め、5人の生存と8人の死亡を伝え、首脳会談の席上、金正日自身が小泉首相に謝罪、二度とこのような事案が発生しないようにすると約束。

 これに対して我が小泉首相は首脳会談後の記者会見で、「これで日朝間の諸懸案が解決したわけではありません。重大な懸念は引き続き存在します。しかし、諸問題の包括的な促進が図られる目処がついたと判断しました。問題解決を確かなものとするためにも、正常化交渉を再開させることといたしました」(「首相官邸」HP)と述べて、首脳会談の結果、「諸問題の包括的な促進が図られる目処がついたと判断」したことを根拠に日朝国交正常化交渉の再開の決意を示している。

 拉致被害者の日本の家族との再会や5人の帰国問題がどうなるのか、5人の生存者以外の8人の拉致以降から死亡にまで至る生活経緯等を確認しないうちからの、そのことを他協議に委ねて幕を降ろす国交正常化交渉再開意志の表明である。

 北朝鮮側が拉致を認めることは事前交渉で確認し合っていた事柄であり、金正日自身の謝罪の可能性も含めて日朝首脳会談本番に前以てお膳立てされていたことだろうし、日本側の国交正常化交渉再開意志も北朝鮮側の行動に対する日本側の行動として相手方に前以て伝えてあった会談項目のはずだから、そのシナリオに則った小泉首相の国交正常化交渉再開意志表明だったのだろう。

 かくして拉致問題を5人の今後の問題に収束させて幕を降ろし、国交正常化交渉着手、日朝国交締結、日朝国交を果たした日本の首相として歴史に名を刻むプロセスのみが小泉首相の頭を占めていたことだろう。いわば死亡したとする残る8人のことは頭になかった。

 だが小泉帰国後、日本の世論が8人死亡に疑心暗鬼を掻き立て、怒り、政府をして「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」の予想外の方向に向かわせた。

 事前交渉で5人の生存を確認した時点で日本側は即刻5人の原状回復を求めて首脳会談での決定事項に載せることが最も常識的な生存に対する解決策のはずだが、腰が引けていたからなのか、首脳会談の約1ヵ月後に「一時帰国」という不可解な方法で2002年10月15日に帰国が実現。

 だが「一時帰国」を条件としていながら、日本側が5人を北朝鮮に戻さなかったことから北朝鮮の「約束違反」という反発を買い、その後の交渉が中断。2004年5月22日の小泉首相の2度目の訪朝、首脳会談で、5月22日中に蓮池・地村夫妻の子供たちが帰国、曽我ひとみさんは2004年7月9日にインドネシアのジャカルタで家族と再会、7月18日に家族と共に帰国。

 この家族帰国劇にしても、北朝鮮側のシナリオに添って紆余曲折を踏んだ結末であろう。蓮池・地村夫妻家族帰国前年の03年8月1日の『朝日』朝刊記事≪北朝鮮 拉致被害者家族の帰国打診 政府は慎重に検討≫が次のように伝えている。

 内容は、北朝鮮が被害者5人の家族に限って帰国させる案を非公式に打診してきたが、政府は死亡8人とする拉致被害者及びその他の拉致可能性事案の全面的解決を要求している手前、この案では受入れられないとし、北朝鮮の一層の譲歩を求めているというもの。

 北朝鮮側の打診そのものの内容は記事によると、

1.「金正日総書記の意思」として、既に帰国している5人の拉致被害者の家族を帰国させる。
2.拉致問題についてはそれで最終決着としてほしい。

 この「打診」が北朝鮮側の拉致問題に関わる解決の着地点がどこにあるのか、すべてを物語っていることが分かる。北朝鮮の意志(=金正日の意志)が第1回日朝首脳会談前から拉致被害者5人とその家族の帰国(帰国の形式は予定外だったかもしれないが)のみにあったこと。

 これまでの解決がこのことから一歩も出ていないことがそのことを何よりも明確に証明している。日本政府は死亡8人の真相とその他の拉致可能性事案の全面的解決を要求しいるものの、北朝鮮が当初設定した「5人生存で最終決着」のフィールド内にとどまったまま現在に至っている。

 5人とその家族の帰国は「生存」のカードを切った以上、その付帯事項として想定していた事柄であったろう。

 そして北朝鮮側の「最終決着」の目標は日朝国交正常化と正常化の恩恵として受け取る日本からの莫大な戦争補償と経済援助にあるのは断るまでもない。

 二度目の小泉訪朝に於ける日本側の安否不明拉致被害者の消息確認要求に対する金正日の「白紙」に戻しての再調査の約束の、決して速やかとは言えない具体化である第3回日朝実務者協議での死亡したとする横田めぐみさんと松木薫さんの死亡証明となる遺骨の提出と横田めぐみさんの病院カルテの提出、その他の書類の提示も死亡確認の証拠は出すものの、生存者の証拠は何ら出さなかったのだから、「5人生存で最終決着」の線に添った措置に過ぎないことが分かる。しかもその遺骨は日本側の鑑定で別人のものと断定されている。横田めぐみさんのカルテにしても判読不可能の箇所が多々あったり、間違った年齢が記入されている箇所もあり、その信憑性が疑われている。

 これらが捏造証拠だとすると、その捏造自体が北朝鮮の5人生存以外は何が何でも死亡証明をデッチ上げて幕を引こうとする「最終決着」意志の強さを物語っていると言える。

 いずれにしても生存者の影すらも出てこなかったのだから、2004年5月22日の小泉首相の2度目の訪朝、首脳会談での金正日自身が自ら口にして約束した「白紙に戻して再調査」自体が「5人生存での最終決着」を意図したものだったのである。

 日本政府が今回の合意をこれまでの調査を「白紙に戻して」「生存者を発見し帰国させるための再調査」と位置づけようが位置づけまいが、北朝鮮が頑固にワンポーズとしている「5人生存での最終決着」意志の強さを考えると、そこから出ない解決となる可能性は高い。

 大体が「白紙に戻して」なる文言はマヤカシ以外の何ものでもない。北朝鮮の国家権力のどの部署が拉致しようが、拉致した者を自由に生活してくださいと北朝鮮社会に野放し状態で放免した場合、いつどこで拉致なる国家犯罪が市民に知れ、それが日本にまで知れる危険性を抱える爆弾になりかねないのだから、当然監視状態に置き、その生活を管理していなければならないはずで、秘密を守るために死人に口なしとしなければの条件付きとなるが、拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表が「この短い期間にどれだけの事実が(再調査で)分かるか。調査なんかしなくたって向こう(=北朝鮮)では(拉致被害者は)全部管理されているから即刻帰せるはずだ」(TBS/08.8.14)と言っていることが正しく、中山恭子拉致問題担当相が日朝実務者協議で拉致被害者の再調査に合意したことについて「(小泉純一郎元首相が訪朝した)2002年9月17日の時点に戻る形で、被害者の生存を前提にして調査が行われるなら、新しい局面に入ると言える」(≪拉致進展へ検証重視 日本側、前進も成果不透明≫中日新聞/2008年8月13日)とするのは北朝鮮側が「5人生存での最終決着」の地点から一歩も出る意志がないことに気づかない認識不足を物語る的外れの評価と言わざるを得ない。

 北朝鮮側が「5人の生存で最終決着」としなければならない理由が拉致命令者が金正日だからであることに日本側が気づいていないとしたら、余程のボンクラ・単細胞ということになり、気づいていないとは考えにくい。

 「5人生存での最終決着」が日本から大枚のカネを得ることにつながる国交正常化交渉再開の阻害要件として金正日の眼前に横たわっているのは事実中の事実であり、その最大の理由が「5人生存」の場合は特殊機関の一部の者による妄動主義、英雄主義による事件とすることができたが、新たに生存者のカードを切った場合、そういった身代わり犯人とすることさえできない状況にあるからなのは想像に難くなく、北朝鮮で身代わり犯人に仕立てることができない唯一の人物は金正日以外に存在しないからだ。

 拉致命令者が金正日だと気づいていて「白紙に戻して」「生存者を発見し帰国させるための再調査」で合意と言うことなら、日本側は日本国民と拉致被害者及びすべてのその家族が「5人の生存での最終決着」で納得する北朝鮮側の報告書の提出、こじつけたもっともらしげなシナリオの提示をイライラして待っているといったところではないだろうか。  

 早く提出してくれ、そしたら日朝国交正常化へ前進できるのにと。

 少なくとも日朝双方共に無意識のうちにそう示し合わせているように思えてしかたがない。

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太田農水相「消費者がやかましい」発言は福田首相自身の問題

2008-08-16 10:04:22 | Weblog

 8月10日(08年)のNHK「日曜討論」で展開した太田農水相「消費者がやかましい」発言が「消費者を蔑ろにする発言だ」と批判を受けている。

 8月10日の「47NEWS」≪太田農相の発言要旨 日本の消費者やかましい≫がその「発言要旨」を伝えている。

 <太田誠一農相の10日の「食の安全」に関する発言要旨は次の通り。

 評論家のようなことを言うようだが、社会主義の国と日本のような民主主義の国は違う。消費者としての国民がやかましくいろいろ言うと、それに応えざるを得ない。中国のように、基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよいという国とは違い、常にプレッシャーにさらされている。特に日本の場合は潔癖だから、基本的に私は食の安全というのは国内は心配しなくてもよいと思っている。ただこの数年間、トレーサビリティー(生産履歴)やHACCP(総合衛生管理製造過程)の仕組みがだんだん定着してきたので、それを進めていきたい。食の安全については、今でも日本は安心なんだけれど、消費者や国民がやかましいから、さらに徹底してやっていく。>・・・・・・・

 大田農水相の弁明

 「(日本は)民主主義の国だから(国民が)きちんと主張できて、それに政府が応えるという仕組みのことを言っている。文脈をみてほしい」
 「わざわざ(やかましいという言葉を)使ったわけではなく、1つの弾みだ」             (47NEWS/2008/08/10 20:59 【共同通信】)

 「自由主義社会は消費者主権。消費者が堂々と権利を主張し、安全性についてものを言っていける社会。それは良いことだと言っている」
 「やかましい」と言ったことに対して、「健全に、正当に自らの権利を主張しているということを言っている」(同47NEWS)
 適切な表現かの問いに、「一人一人の(受け止め方の)ニュアンスだと思う」              (47NEWS/2008/08/11)

 「意識の高まりがあると言ったの。そういう意味です。意識が高まっているから、あの、消費者がですね、正当に、えー、安全性を要求する時代になっている、と言ったんです」(08.8.12/TBS「みのもんたの朝ズバッ」)

 (10日のNHK番組出演後)「言葉尻をとらえず、前後の文脈を見てほしい。それは揚げ足取りだ」
 (15日の閣議後記者会見)「既に(メディアの)質問には答えているので、それに付け加えることはない。生番組で報道されていることで、それが事柄のすべて。あえて付け加えることも、差し引くこともない」(時事通信/2008/08/15-11:58)
 
 福田首相「消費者がやかましいなんて言うんでしたらね、やっぱり適切な言葉ではないと思いますよ。そこんところをよく見てみないと分からない」
 野田聖子・消費者行政相「意識を高めていただきたいと思います。誤解がないように、きちっと取り組んでいただきたいと思います」
             (08.8.12/TBS「みのもんたの朝ズバッ」)

 福田首相「日本の消費者は世界的にみても厳しい選択眼を持っている。そのことが良い製品を作る原動力になっているのではないか」
             (「毎日jp」2008年8月12日)
 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 「消費者としての国民がやかましくいろいろ言うと、それに応えざるを得ない」――この言葉は子の親に対するよくある要求の言葉に変えてみると理解できる。

 「子供がディズニーランドへ連れてってくれ、連れてってくれとやかましく言うと、仕事が忙しくて連れていく暇なんかないけど、一度は連れていかざるを得ない」

 大田農水相が言っている消費者と政治の関係にしても後者の子供と親の関係にしても、消費者、あるいは子供がやかましく言うことで要求が実現する呼応性にある。裏返すと、やかましく言わないと、実現しない呼応関係となる。
 
 やかましく言うことで実現する、あるいはやかましく言わないと実現しない状況とはやかましく言うまで放っておかれる状況にあることをも意味するはずである。

 そして今の日本の国民、今の日本の消費者が「やかましく」言える、あるいは「健全に、正当に自らの権利を主張」できる条件(=やかましく言うことで要求が実現する条件)は問題発言からも弁明発言からも窺うことができるように、日本が「民主主義の国だから」であり、「自由主義社会は消費者主権」だからということに置いている。

 いわば国と国民(=消費者)の関係性を太田誠一なる政治家の中でそのように決定づけさせている条件(判断根拠)とは、子供にディズニーランド見学をせがまれた父親がやかましく言うまで放っておいた事情(判断根拠)が仕事の忙しさであったこと(=仕事優先であったこと)に対して、日本が中国とは違って社会主義国ではないこと、民主主義国家であること、そう看做しているということであり、その証明はNHK「日曜討論」の発言からも具体的に説明できる。

 改めて「47NEWS」が伝えていた大田農水相の発言要旨の冒頭部分。

 「社会主義の国と日本のような民主主義の国は違う。消費者としての国民がやかましくいろいろ言うと、それに応えざるを得ない。中国のように、基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよいという国とは違い、常にプレッシャーにさらされている。」――――

 「中国のように、基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよいという国とは違い」とは、日本が中国と同じような国であったなら、「基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよい」ことになるが、「社会主義の国と日本のような民主主義の国は違う」ために「消費者としての国民がやかましくいろいろ言うと、それに応えざるを得ない」ということで、明らかに日本が民主主義国家であることを条件として、国民・消費者に対して自らの政治姿勢を決定している。

 これは国家体制を条件とした状況主義を意味しないだろうか。

 日本が中国と同じような国であったなら、「基本的には何も教えなくてよい、まずいことがあっても隠しておいてよい、消費者のことを考えないでもよい」と間接的に受け取ることができる物言いは国家優先の政治姿勢を示す言葉であろう。

 当然のこととして、日本が現在の中国以上に全体主義的であった戦前のような軍国主義国家を条件としていたなら、国民は国の発展のためにのみ生かされる最悪の状態に置かれることになる。

 国家優先の政治姿勢とは国民無視の政治姿勢なのは断るまでもないからだ。

 太田誠一なる政治家が国家優先・国民無視を本質的な血としているからこそ、昨日の終戦記念日に靖国神社に率先参拝することになったのだろう。「国のために犠牲になられた方々」とは言うものの、国家優先を目的として犠牲を強いた「国民無視」の歴史的側面を忘れてはいけない。


 福田首相の「国民目線」とは国民が何を望んでいるのか、国民の政治に対するニーズに目を向け、そのニーズに応えていく国民の要求に対する自発性を持たせた政治を言うはずである。

 大体が福田首相の「国民目線」は安倍前首相の国家優先・国民無視の政治姿勢が誘発した「国民目線」を欠いた政治姿勢が国民の反発を買って参院選敗北の原因となり、その反省に立った、それを補う後付のスローガンなのだが、内閣一体となって、あるいは内閣と党一体となって「国民目線」政治を成果とすべく鋭意邁進するならまだしも、その内閣の一員たる大田農水相が日本が民主主義国家であることを条件としてのみの「国民目線」政治ということなら、国民に対して一歩も二歩も距離を置いた状況主義の犯罪を犯すもので、福田内閣の「国民目線」政治の綻び、あるいは「国民目線」内閣の不一致を示すこととなり、このことは任命権者たる福田首相の監督不行き届き、あるいは指導力不足を示す重大事態ではないだろうか。

 ということなら、福田首相は、野田聖子にしても似たり寄ったりだが、「適切な言葉ではないと思いますよ」とか、「日本の消費者は世界的にみても厳しい選択眼を持っている。そのことが良い製品を作る原動力になっているのではないか」とかの問題として済ますわけにはいかないはずで、自身の指導力、任命責任に置き換えて把えるべき問題ではないだろうか。

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中国冷凍餃子問題/中国の情報統制・人権抑圧政策の共犯者となった日本政府

2008-08-14 10:16:09 | Weblog

 中国国内でも「天洋食品」製冷凍餃子を食べて中毒症状を来たした事件が発生したという。

 08年8月11日の「毎日jp」記事≪読む政治:「中国でもギョーザ中毒」1カ月間公表せず 食の安全、感度鈍く≫を参考に事件のあらましを箇条書きにすると、

1.7月初めに「通常の正式な外交ルート」(高村外相)を通して発生時期や場所まで特定した具体的な
  内容で「天洋食品」製冷凍餃子を食べて中毒を起こした被害者4人からメタミドホスが検出されたと
  知らされた。
  毒物混入が中国国内で行われたことがほぼ確実となる重要な捜査情報だった。
2.外務官僚が高村外相に「中国が公表しないでほしいと言っている」と報告。外相は「当然だ」と異論
  をはさむことなく非公表方針が決まった。
3.外務省は官邸と警察庁に連絡。警察庁には「外交ルートで来た情報なので表には出せない」と念押し
  。
4.官邸は政治家の判断を仰がず、官僚レベルで情報共有を外務省、警察庁に限ることを決定。
 「日本国内で新たな被害が出る恐れはないから、公表の有無を議論した覚えはない」(政府高官)
 「捜査中の中国の意向を尊重するのは当然」(外務省幹部)
 「通報は指導部トップの判断だったと聞いた」(外務省幹部)

 「指導部トップの判断」であり、「捜査中の中国の意向を尊重するのは当然」だからと非公表の要請を蔑ろにはできないとした外務省の決定理由は、中国が国内の捜査情報を他国に知らせるのは異例だし、混入場所を「日本国内」と主張していたメンツもつぶれる。首相との信頼関係を重視する胡主席が首脳会談前に知らせておくことを決めた高度に外交的な配慮に違いないと忖度しての非公表ではないかとの「毎日jp」の解説である。

5.約1週間経過後の北海道洞爺湖サミット最終日7月9日の胡錦濤国家主席との首脳会談30分前の午
  後4時半、福田首相は外務官僚らとの打ち合わせ中、「6月に中国内でもギョーザ中毒事件が起きて
  いたと中国政府が知らせてきた」と知らされる。

 7月はじめに中国側から知らされた報告については上記「毎日jp」記事よりも5日遡る8月6日付(08年)の「読売」記事≪「天洋食品」回収ギョーザ、中国で中毒…現地混入が濃厚に≫が日本最初の報道として詳しく書いている。

 事件発生時期を<6月中旬>のこととして、<中国製冷凍ギョーザ(餃子)中毒事件で、製造元の中国河北省石家荘の「天洋食品」が事件後に中国国内で回収したギョーザが流通し、このギョーザを食べた中国人が有機リン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして、重大な健康被害が出ていたことがわかった。>ことと、中国側が<7月初め、北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の直前に、外交ルートを通じて、日本側にこの新事実を通告、中国での混入の可能性を示唆した>ということを報道、その結果日本政府が中国の非公表要請に加担して国内非公表を決定したことが明るみに出た。

 非公表決定の瞬間、日本政府は中国共産党一党独裁式情報操作と人権抑圧政策の共犯者となったのではないか。

 5番の7月9日の胡錦濤国家主席との首脳会談30分前の午後4時半に福田首相に伝えられたという点は8月12日(08年)の「読売」インターネット記事≪中国でのギョーザ中毒発生情報、日本伝達は7月7日深夜に≫では1日前の「7月8日」となっている。いずれにしても洞爺湖サミット開催中(2008年7月7日~2008年7月9日)であることに変りはない。

 だが、福田首相が知らされて、中国側の非公表要請に対してどういう言葉で非公表の企みに乗ったかは「毎日jp」記事と同様に上記「読売」インターネット記事も何ら伝えていない。参考までに8月12日の「読売」記事を引用しておくと、

 <中国製冷凍ギョーザ中毒事件で、中国国内での被害発生情報は北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)初日の7月7日に日本政府に伝えられていたことが12日、分かった。

 国会内で同日開かれた民主党の同事件対策本部の会合で外務省の小原雅博アジア大洋州局参事官が明らかにした。

 小原参事官の説明によると、連絡は7月7日深夜に在北京日本大使館に伝えられた。中国側が「公表しないでほしい」と要請したことを踏まえ、斎木昭隆アジア大洋州局長は8日、「捜査情報なので公表すべきではない」と判断。同日中に高村外相のほか、首相秘書官を通じて福田首相にも報告した。外務省は、首相から公表指示がなかったため、「公表しない方針は了承されたと認識していた」としている。>

 福田首相が例の表情、例の口調で、「あ、そう」と一言で片付けたわけではあるまい。知らされると同時にどのような言葉で応じたかは藪の中となっている。

 以上を箇条書きにお浚いすると、

1.6月中旬に回収されたにも関わらず市場に出回った「天洋食品」製冷凍餃子を食べた中国人が有機リ
  ン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして、重大な健 康被害に陥った。
2.約1ヶ月近く経過した7月7日深夜に中国側は「公表しないでほしい」という要請と共に上記事実を
  在北京日本大使館に伝えた。
3.斎木昭隆アジア大洋州局長が次の日の7月8日、「捜査情報なので公表すべきではない」と判断。同
  日中に高村外相と首相秘書官を通じて福田首相に報告。外務省は、首相から公表指示がなかったため
  、「公表しない方針は了承された」ものとする。
4.さらにほぼ1カ月後の8月6日に「読売」記事が市場に流通した「天洋食品」製冷凍餃子を食べた中
  国人が重い中毒症状を引き起こしたこととその事件が中国側から日本政府に伝えられていたことを報
  道、日本政府は非公表は中国側の要請を受けたもので何ら間違っていないと開き直る。

 ここで最初に誰もが疑問に思うことは、なぜ中国側は洞爺湖サミットが開催されるまで中国内の事件発生から1カ月近くも事実を隠していたのだろうかということであろう。それとも洞爺湖サミットを照準とした情報提供だったのだろうか。いわば洞爺湖サミットまで隠す必要があった。

 そうだとすると、福田・胡錦涛首脳会談に合わせた予定行動の中国側の情報提供だったことになる。

 第2の疑問は、なぜ中国側は非公表を要請したのか。

 第3の疑問は当然、どうして日本側がいとも簡単に中国側の非公表の要請に同調して情報操作、あるいは情報統制の共犯者になったのだろうかということであろう。

 日本政府の非公表対応に向けた民主党の批判に対する福田首相の反論を昨20日早朝の「日テレ24」が報じていた。

 福田首相「国民より、中国への配慮っておっしゃったんですか。中国への配慮というより、真相究明じゃないですか。相究明してもらわなきゃ困るんですよ。捜査の途中で、ええー、それが確定的なのかどうか、というようなことについてですね、明確でない。そういうときに公表しますか?(公表しないことはよくあることじゃないですか、日本国内でもね)」(カッコ内は「朝日」テレビ)

 では高村外相の弁明。マスコミ各社ともニュアンスが少ずつ異なるので、いくつかの記事を引用してみる。

 (8月7日の発言)「中国側から『捜査の過程で支障があるので今は公表しないでほしい』と言われた。こちらもそれを守るため、官邸と警察、外務省という一定の範囲内で情報共有した」(「日経ネット」08年8月8日)

 (8月7日の発言)「7月初めに報告を受けた。中国から捜査に支障をきたすので公表は差し控えてほしいと言われ、捜査の進展を期待して公表しなかった」(「毎日jp」08年8月8日)

 「わが方に有利な情報を中国が伝えてきたことは多とする」(同「毎日jp」)  
 「情報の世界では、提供者がしばりをかけた場合、よほど特殊な事情がない限り従うことが大原則」(同「毎日jp」)

 外務省幹部「福田康夫首相は会談の時点で事実関係を知っており、念頭に置いて会談でギョーザ問題を取り上げた」(同「毎日jp」)

 高村外相(8月7日)「情報提供者が公表しないでほしいと言っている以上、われわれは公表しない。同時に<捜査のことだからということに一定の合理性がある」(「MSN産経」08年8月7日)

 「今発表されてしまうと捜査に支障を来すので、これから捜査が進むまでは発表しないでくれとの縛りをかけた情報提供だった」(同「MSN産経」)

 「真相究明」捜査の進展」を優先させた、そのための非公表だとしている。その理由は当然のことながら、日本の公表が中国側の「真相究明」捜査に支障をきたすと言うことだからだろう。どう支障をきたすのか中国側から詳しく説明があって日本側が納得した非公表、「真相究明」優先のはずだから、支障理由を日本政府は国民に逐一説明する責任を有することになるが、「捜査途中で真相が確定していない、真相を究明するところまで持っていってもらわなければならない。だから公表しなかった」では支障理由の説明にはならないはずだが、「捜査途中」と「真相究明」一点張りで済ませている。これは説明不足というよりもゴマカシ以外の何ものでもないと思うのだが、そうではないだろうか。

 「天洋食品」が直接回収し市中に流通した、いわば中国国外に一度も出ていない「天洋食品」製冷凍餃子を食べた中国人が有機リン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして重大な健康被害に陥ったという事件の経緯自体は有機リン系殺虫剤メタミドホス中国混入説を裏付ける絶対的な証拠とはなる。

 だからと言って、日本で混入した毒物ではありません、中国で混入した毒物ですで済ますことができたなら、公表するしないは問題にはならないはずである。 問題になるのは中国の政治体制の一翼を担う公安当局が音頭を取って中国混入説を否定、間接的に日本混入説を打ち立てたことではないだろうか。

 国家質量監督検験検疫総局(「質検総局」、品質検査当局)王大寧・輸出入食品安全局長「初歩的な調査と検査の結果、中毒事件に関係したギョーザはそれぞれ同社(注・天洋食品)が07年10月1日に生産した13グラム規格と同10月20日に生産した14グラム規格の豚肉・白菜入りギョーザで、ショウガや白菜などの原料に対しては輸出前にメタミドホスを含む残留農薬の検査を実施しており、すべて合格していた」(「人民網日本語版」 2008年02月01日 )

 中国公安省刑事偵察局・余新民副局長が記者会見を開いて、餃子の倉庫保存、輸送、販売時の冷蔵温度であるマイナス18度の条件下で餃子包装袋を1%、10%、30%、60%と濃度の異なるメタミドホスに浸したところ、いずれも10時間以内に袋の内側に浸透したという中国側の「浸透実験」結果を根拠に「中国国内で(メタミドホスが)混入された可能性は極めて低い」(「MSN産経」記事/08年3月2日)と日本の警察の浸透実験による袋はメタミドホスを浸透しないの結論(=日本混入説の否定)を完全否定。問題が大きくなったことから、言ってみれば、中国の正義を打ち立てたのである。

 中の不純物の中国製の可能性の指摘に対しても、「(不純物は)各国で生産する中に普遍的に存在する。成分検査をもって、どこで生産されたものか判別することはできない」(同「MSN産経」記事)

 天洋食品の工場長だかがテレビで憤懣やる方ない様子を顔中に見せ、「一番の被害者は私たちだ」と中国及び中国人無罪説、と言うよりも日本による中国及び中国人に対する冤罪を訴えて、やはり中国の正義を打ち立てていた。

 「Wikipedia」によると、<中華人民共和国公安部(省)は、日本の警察の公安警察とは異なり、中国領内での日常警察業務全般を遂行する組織であり、国務院に所属する。つまり日本の国家公安委員会および警察庁に相当>し、<日本の警察では認められない予防拘禁制度があり、政治犯の拘禁も行ってい>て、<公安機関と中国人民武装警察部隊>を管轄下に置いている。

 「中国人民武装警察部隊」(略称は「武装警察」あるいは「武警」)は<国内の治安維持や国境防衛などを担う中華人民共和国の準軍事組織である。公安部が行政上管轄しているが、同時に中国共産党中央軍事委員会の指導下にもあり、この意味において所謂国家憲兵ではなく、あくまで党所有の治安部隊である。名称には警察が含まれているが、隊員は兵士・将校とされ、現役軍人としての資格・権利を持つ。>(同「Wikipedia」)

 中国人民解放軍が国家の軍隊であるよりも中国共産党の軍隊であることと重なる共産党との関係にあると言える。

 このように共産党一党独裁体制を国内治安面から担う、それゆえに常に正義を体現していなければならない大層な国家組織が正義の体現に反する不正、もしくは何らかの重大な失態を犯した場合、貧富の格差社会の貧困層に閉じ込められた多くの国民の不信を買うだろうし、買えば当然、その不信は格差を生み出している政治体制の担い手である共産党指導部に向かう可能性は否定できない。指導部に向かえば国家体制そのものを揺るがしかねない事態も視野に入れておかなければならない。

 いわば正義を体現できずに不正・失態を犯す公安当局の欠陥は共産党一党独裁体制そのものの欠陥となる関係に両者はあることになる。

 そのような絶対正義体現者でなければならない公安当局が記者会見まで開いて、中国側の「浸透実験」をもとに日本の実験結果を否定することで「中国混入説」を否定し、間接的に「日本混入説」を打ち立てて中国の正義を誇示した。

 だが、中国国外に一度も出ていない「天洋食品」製冷凍餃子を口にした中国人が有機リン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして、重大な健康被害に陥った。

 これはただ単に「中国非混入説」の主たる根拠とし、間接的に「日本混入説」に持っていった自分たちの「浸透実験」が間違っていたといった技術的な未熟の問題で済ますわけにはいかない事柄であろう。マイナス18度の条件下で餃子包装袋を1%、10%、30%、60%と濃度の異なるメタミドホスに10時間浸して内側に浸透するかどうかといった間違うはずのない初歩的な「浸透実験」だからだ。

 間違うはずのない初歩的な「浸透実験」を間違えたという事実は実験結果の人為的な捏造なくして不可能という経緯を否定し難く抱えるはずで、当然のこととして中国の正義、国家の正義の描出は実験結果の捏造・デッチ上げが可能としたマヤカシであり、そのことを露見させた中国人中毒事件だったということになる。

 中国国民の不正義を監視し、正義を奨励して中国社会の秩序確立を担う役目を持ち、中国の国家体制・国家権力を側面から支える主要な治安機関である公安省自らが自らの正義の体現に反する実験の捏造という情報操作までして中国の正義、国家の正義を偽装した、そのことの露見なのである。

 その上、天洋食品と癒着して甘い汁を吸っていたがゆえに天洋食品に有利となる「立ち入り検査」や「検査」捏造だったとしたら、公安省やその他の関係機関は最悪の立場に立たされる。その疑いさえ否定できない捜査経緯であった。

 可能な限りの情報統制・可能な限りの情報管理・可能な限りの情報制限・可能な限りの情報操作・可能な限りの報道管制を行って共産党一党独裁体制を維持している国家権力が権力身内が仕出かした「中国正義」の偽装・「国家正義」の偽装を軽々に公表できるだろうか。

 オリンピック開会式の花火のテレビ放送はCG、開会式で美しい声で歌った幼い少女はただ口をパクパクあけていただけで、別の少女の歌声を流したといった偽装があったということだが、公安当局の偽装から比べたら、これらまだまだ小さな問題であろう。

 中国という一国のみにとどまる問題ではなく、表面は互恵関係を装ってはいるが、ホンネのところではあらゆる面でライバル関係にある日本という外国が関わっている偽装であって、その外国に対して中国国家体制の欠陥を曝すことになる公表なのである。

 中国国内で発生した中国人中毒事件を隠蔽し通して日本に報告せず、万が一露見した場合に中国が立たされかねない窮地、失点となりかねない責任問題を考えた場合、報告しないわけにはいかず、だが、報告して日本が公表しインターネット等を通じて中国国内に広く知られた場合の国民に露見することとなる国家体制の偽りの姿、剥がされることになる国家的体面をも計算に入れると、残された道が日本に公表を思いとどまらせることではなかったろうか。

 そのために言われているところの福田首相と胡錦涛主席の信頼関係を利用すべく、二人が直接会ってそのような関係を再確認し合い、最も高め合うことになる洞爺湖サミット福田・胡錦涛首脳会談にタイミングを合わせた?――

 そのために「6月中旬」の事件の発生でありながら、日本への報告が1カ月近い後れの7月7日となった。まさか七夕の日だからと、その日に合わせたわけではあるまい。

 最初に報告を受けた在北京日本大使館の人間も、順次報告を受けることとなった高村外相も町村官房長官も、その他の人間もすべて福田首相と胡錦涛主席の信頼関係が頭にあり、最初に働かせた意識は両者の信頼関係を損なわないことへの配慮だったろう。損なわせたなら、即日本と中国の両国関係に関わってくる。最も損ないたくなかったのは福田首相だったことは想像に難くない。低い支持率ながら、支持を得るささやかな得点となっている中国との信頼関係であり、福田首相の大事なウリの一つでもある。

 信頼関係を崩したくないばっかりに、そのことを最優先させて、結果的に相手方の言う「真相究明」、「捜査の進展」を真に受けることとなった――ということではないだろうか。

 中国側としたら、国家体制の不備・不正義を曝す最悪の事態を免れ、少なくとも問題を「真相究明」、「捜査の進展」の問題へと矮小化することに成功している。 いずれにしても日本政府が中国の情報統制・人権抑圧政策の共犯者となったことは間違いない。中国内の冷凍餃子中毒事件に関わって中国政府の情報操作に加担することで間接的に中国国民の生命を蔑ろにする人権抑圧に手を貸したことになるからだ。

 今後中国側がなすことは公安当局の失態・不正義を中国社会に曝すことなく、問題の収束を図ることだろう。

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