野田首相の「書いてあることはやらない、書いてないことをやる」の新マニフェスト・ルール

2012-09-30 10:17:14 | Weblog

 野田首相は2009年民主党総選挙マニアルに書いてない消費税増税を果たしたことで、マニフェストに「書いてあることはやらない、書いてないことをやる」を国民との契約とする新しいマニフェスト・ルールを確立することとなった。

 これは画期的な新しい政治の出現と言える。

 9月28日、野田首相は古賀連合会長と都内で会談。分厚い中間層の復活を公約に掲げたと次の記事が伝えている。《首相“分厚い中間層の復活”を公約に》NHK NEWS WEB/2011年9月28日 20時41分)

 輿石幹事長や細野政策調査会長、山井国会対策委員長も会談に雁首を揃えていたという。
 
 古賀連合会長「衆議院の解散・総選挙は1年以内に必ずあり、政権が存亡の危機にあることを、すべての議員が共有すべきだ。次の政権公約では、『民主党らしさ』をきちんと整理した上で政策の軸を打ち出してほしい」

 野田首相「代表選では、『子どもの元気、働く者の元気、地方の元気、分厚い中間層の復活』ということを訴えた。これをもう少し膨らませ、『民主党らしさ』の基軸を作っていきたい」

 記事解説。〈次の衆議院選挙の政権公約では、「分厚い中間層の復活」を主要なテーマとして、社会保障や雇用に関する政策を打ち出していきたいという考えを示しました。〉――

 「分厚い中間層の復活」は2011年8月29日の代表選でも同じ趣旨で発言している。

 野田首相「子ども手当、高校無償化、農業の戸別補償、休職者支援制度、雇用保険の拡充、中産階級の厚みが今薄くなって、中産階級の厚みが日本の底力だったと思います。

 こぼれた人たちがなかなか上がって来れない。そこに光を当てようと言うのが民主党の『国民の生活が第一』という、私は理念なんだと思います。

 この方向性は間違いありません。これからも堂々とその実現を、勿論、野党との協議、見合いの財政の確保等々ありますが。、理想を掲げながら、現実に政策遂行するのが私たちの使命だと思います」

 マニフェストには、「日本経済の成長戦略」として、「子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を実現します」と謳っている。

 要するにマニフェストに掲げた「子ども手当、高校無償化、農業の戸別補償、休職者支援制度、雇用保険の拡充」等の実現を通して、「中産階級の厚み」を回復させる、「分厚い中間層の復活」を果たすということなのだろう。

 だが、マニフェストに書いてあった「分厚い中間層の復活」のための各政策効果が日本経済の内需主導型転換、安定した経済成長の実現を見ないままにマニフェストに書いてなかった消費税増税を不退転の決意で粛々と実現させた。

 いわば野田首相は「マニフェストに書いてあることはやらない、書いてないことをやる」、それを以て国民との契約とする新しいマニフェスト・ルールを確立したのである。

 ごく簡単に言うと、マニフェストに書けばやらないということである。

 民主党最大支持母体の連合の会長と会談して、「子どもの元気、働く者の元気、地方の元気、分厚い中間層の復活」に関係していく政策を次期総選挙の政権公約としてマニフェストにどう書こうとも、やらないと宣言したことになる。

 「書いてある」ことの実現の行く末は既に分かっている。今度はどんな「書いてないこと」を不退転の決意で粛々と実現させていくのだろうか。

 尤も各情勢から見ると、民主党は次期総選挙で政権党から脱落する状況にある。どうせ野党転落ならと、「書いてあること」、「書いてないこと」に関係なしに政策実現のプレッシャーから開放されて、あれもこれもと気前のいい政策提示の大盤振舞いに及ぶかもしれない。

 何れにしてもマニフェストの信用性を喪失せしめた野田首相であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さいたま市小6児童突然死に見る学校のAED使用責任

2012-09-29 06:25:38 | Weblog

 確か9月26日夜7時からのNHKニュースだったと思うが(記事は、「9月27日 7時2分」発信となっている。)、去年9月、さいたま市小学校の小6女子児童が1000メートルの長距離走練習でゴールしてから突然倒れた際、学校にAED(自動体外式除細動器)を備えていたにも関わらず使用しないまま11分後到着の救急搬送を待ち、翌日死亡させてしまった事故を取り上げていた。

 学校側は倒れた女子児童が苦しそうに喘ぐ様子ではあったが、微かながらに呼吸していると勘違いしたことを理由にAEDを使わなかったとしている。

 この呼吸と勘違いした喘ぎは「死戦期呼吸(喘ぎ呼吸)」(しせんきこきゅう)と言い、心停止が起こった直後にしゃくりあげるような、途切れ途切れに起きる呼吸のことだそうだ。

 ニュースは説明していなかったと思うが(パソコンを叩きながら聞いていたから、はっきりしない)、「生きるか死ぬかの境目」を意味する「死線」の状態を示す呼吸ということで、「死戦期の呼吸」――「死戦期呼吸」と名付けたのだと類推できる。

 AEDに専門家の女性なのだろう、「AEDは心臓ショックを与えて救命を図るばかりではなく、機器の使用が必要かどうかを確認し、音声で伝えてくれるから、音声の指示に従えば誰でも使える。例え救命できなくても、一般の人が責任を問われることはないので、積極的にAEDを使ってほしいと思います」といったような説明を結びにして次のニュースに移ったが、アナウンサーがその言葉に何となく納得できないような顔をしていた。

 多分、学校の教師と一般人との責任の区別がないことに納得がいかなかったのではないだろうか。私自身もその発言に納得がいかなかったので、「NHK NEWS WEB」記事――《AED積極使用を 学会が提言》(2011年9月27日 7時2分)で確かめてみた。

 記事は、さいたま市小学校小6女子児童のAED未使用のままの死を受けて、心臓が専門の医師で作る「日本不整脈学会」が9月26日、一般人向けの緊急提言を発表。
 
 8年前から一般人も使用可能。現在、公共施設を中心に30万台以上設置。

 提言は毎日180人以上が心臓が原因の突然死に見舞われ、そのうちの45%はAED使用で救命可能となること、人が突然倒れて反応がなく、普段どおりの呼吸が「ない」か「分からない」場合はすぐに心臓マッサージを始め、AEDが届いたら、電源を入れて、音声の指示に従うよう呼びかけているという。

 三田村秀雄日本不整脈学会理事「電気ショックが必要かどうかもAEDが判断し、音声で教えてくれる。また、例え救命できなくても、一般の人が責任を問われることはないので、積極的にAEDを使ってほしい」

 記事では発言主体が男性に変わっている。

 インターネットでさいたま市の小6女子児童の事故を伝えている記事がないか探したら、次の記事を探すことができた。《「呼吸と脈拍の確認に問題も」 長距離走練習中の小6女児死亡事故、さいたま市検証委が報告》MSN産経/201年2月27日 10時36分)

 記事題名で分かるように市教育委員会が検証委員会を設置して、AEDを使用しなかった学校の対応が適切であったか検証した。

 検証委は医師や救急救命士らで組織。昨年10月から計4回に亘って事故の検証や再発防止策を討議。

 検証委「正常な呼吸の有無の確認と脈拍の確認に問題があった可能性が推測される。

 人は死亡する前に通常とは異なるあえぐような呼吸をすることがあり、医療従事者でない教職員が正常な呼吸の有無を短時間で判断することは難しい。

 全教職員がAEDの使用など心肺蘇生法の技術向上に努めるべきだ」

 さらに検証委は、〈救急隊が到着するまで患者側に指示を出す消防局の通信司令員に対しても、異常な呼吸の聞き出し方に習熟する必要があると提言した。〉という。

 〈市教委は検証委の報告を受け、水泳中や長距離走後など、事故の状況別に対応した危機管理マニュアルを作成するほか、学校の安全や健康対策について年数回検証を行う検討会議を設置する方針。〉・・・・・

 桐淵博教育長「お子さんを元気に帰宅させられなかったことをおわびしたい。検証委の指摘を真摯に受け止めたい」

 死亡女児の父親「どのような呼吸だったか詳細な報告もなく、学校側の資料に基づいた検証が殆ど。報告結果には満足いかない」

 NHKがニュスで伝えていた専門家女性の「例え救命できなくても、一般の人が責任を問われることはない」は、医学に素人な個人がAEDを使って救命に至らなくても、素人であることを以って責任を問われない、あるいはAEDの能力を超えていたということで責任は問われないということであって、備え付けのAEDがありながら、適切な使用を図ったかどうかの責任は別問題であるはずだ。

 特に学校は生徒の生命(いのち)を預っている。常に適切な危機管理を求められているはずである。

 さいたま市の事故の場合、市教育委員会設置の検証委員会は、「医療従事者でない教職員が正常な呼吸の有無を短時間で判断することは難しい」と報告しているが、学校がAEDを備えている以上、危機管理上の義務から養護教諭は勿論、体育の先生、その他は講習を受けているはずだ。

 私自身も町内会の指示で何年か前に講習を受け、小さなカードの講習修了証を貰ったことがあるが、生徒の生命(いのち)を預っている学校の場合は一度の講習で終えるのではなく、常に頭に入れておくために年に何回か講習を受けて、それを毎年繰返す危機管理は必要であろう。

 地震による津波を想定して、高台に逃げる訓練ばかりではない。避難過程で救命措置が必要なケースをも想定しなければならないはずである。

 当然、教師はAED持参で児童・生徒と共に避難をしなければならないことになる。高台に逃げた。誰かが呼吸が苦しくなって倒れた。教師が学校にAEDを取りに戻った。津波に襲われて亡くなったでは漫才のネタにもならない。
 
 例え一回の講習であったとしても、死戦期呼吸(あえぎ呼吸)か自然な呼吸なのかの判断が突然倒れた場合の救命に於ける最大要注意事項となっていたはずで、当然、救命の現場に立った教職員は最初の判断を呼吸の種類に持っていかなければならないことになる。

 だが、死戦期呼吸(あえぎ呼吸)を苦しそうではあるが、微かながらに呼吸していると勘違いした。

 この勘違いを許すとしても、現在呼吸はしているものの、突然呼吸が止まるとかの万が一の容体の急変を考えて、備え付けの場所からAEDを持ってきて、いつでも使えるように身近に置いていたのだろうか。

 ただ単に救急車が1秒でも早く到着して、1秒でも早く病院に担ぎ込まれることを願いながら、その場に立ち尽くしていたのだろうか。

 検証委はそこまで検証したのだろうか。

 学校のいじめの危機管理が責任回避から機能不全に陥り、それが蔓延した状態となっていることを見てきている。児童・生徒の生命(いのち)を預かる学校が児童・生徒の救命の危機管理に於いても機能不全状態と言うことなら、学校の無責任体質はいつまでも直らず、児童・生徒ばかりか、保護者まで救われないことになる。

 教師は生命(いのち)の危機管理を背負っていることを自覚しなければならない。生命(いのち)とは物理的・生理的な面の活動のみを言うのではなく、精神的・心理的に十全に生きて在る状態をも含む。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田首相の国連演説は現実の政治から乖離した学者の“であるべき論”で覆われている

2012-09-28 10:56:53 | Weblog

 野田首相が9月26日(2012年)昼(日本時間27日未明)、ニューヨークの国連本部で一般討論演説を行った。テレビで聞いていて、なかなか格調高い、感動的な力強い言葉で、世界の姿のあるべき理想を訴える内容となっていた。

 多分、多くの聞く者をして感動を与えたに違いない。

 だが、世界の姿のあるべき理想を格調高い、感動的な言葉で描けば描く程、現実世界の在り様、現実政治の効用性との落差が生じて、学者が訴える“であるべき論”の色彩を濃くする。

 例えば東日本大震災の教訓は「どんな自然災害にも負けない強靭な社会を築くための心得」であって、「未曽有の大震災と巨大津波がもたらした大自然からの警告は、文明の持続的なあり方自体を根源から問い直すものでもありました」と、哲学的とすら言うことのできる格調高い言葉となっているが、「どんな自然災害にも負けない強靭な社会」とは、いつ襲ってくるかは分からないが、自然災害が襲って来る前と襲ってきた場合でも、国民の生活の安心を日常的に保証して初めて可能とする社会の“強靭性”であって、そういった社会の構築は、勿論個人の負担もあり、負担を可能としたり、不可能としたりする現実も無視できないが、基本的な全体的大枠としては政府財政にかかっていて、その範囲内を否応もなしに制限としなければならないはずだ。

 いわば無制限・無限大に政府のカネをかけることを不可能としている以上、「どんな自然災害にも負けない強靭な社会を築く」とは聞こえはいいが、政治家としては現実を率直に話さない、学者の“であるべき論”を展開したに過ぎないことになる。

 また、「未曽有の大震災と巨大津波がもたらした大自然からの警告は、文明の持続的なあり方自体を根源から問い直すものでもありました」と東日本大震災の黙示的意味を格調高く哲学的に把えているが、被災地・被災者が真に望んでいることは「文明の持続的なあり方を問い直す」ことでも何でもなく、確実な一歩一歩の復興=生活の確実な原状回復を現実社会に刻んでいくことであるはずだ。

 勿論、同じような自然災害に二度と襲われても、生活の安心を日常的に保証可能とする社会を望んでもいるだろうが、野田首相自身が「ひとたび大自然が猛威を振るえば、人間は、依然としてか弱く儚い存在でしかないことを我々は思い知りました」と言っているようにそういった理想的な社会は望むべくもないことを誰も、特に今回の災害に襲われた被災者は知っているはずだ。 

 この知識の反映として自然災害に対する物理的な危機管理が「防災」から「減災」の思想に軸足を移すことを余儀なくした。

 だが、野田首相の「どんな自然災害にも負けない強靭な社会」は完璧な「防災」が可能とする社会でもあって、この点にも現実との乖離を窺うことができる。

 演説の全てが学者の“であるべき論”だとは言わない。だが、学者の“であるべき論”となっている、もう一つ例をあげよう。

 野田首相「人類という種が地球上に存続し、平和と繁栄を享受し続けるには、何が求められるのでしょうか。その答えは明確です。人類は、より賢くならなければならない。その一言に尽きます。
 ・・・・・・・・・
 この未知なる時代を生き抜いていくために、今試されているのは、知識や情報の量ではありません。人類が培ってきた数々の『叡智』の真価が問われていると私は考えます」――

 だが、現実の政治は進歩と言える進歩を見せることができず、殆どの問題を原因療法ではなく、対処療法の弥縫策で乗り切り、それも叶わず、停滞、逡巡、後退、迂回、変質等々の限界を常に抱えた姿を曝している。

 その結果の各種格差や差別、矛盾であろう。

 先ず第一番に政治こそが「より賢くならなければならない」はずだが、単に高邁な、あるいは格調高く訴えた学者の“であるべき論”となっているだけだから、「より賢くならなければならない」足許の対象に気づきさえしない。

 学者の“であるべき論”は領土問題で発言した件(くだり)からも見て取ることができる。

 野田首相「人類は、『力』に頼る欲望だけを肥大化させてきたわけではありません。同時に、理性によって冷静に紛争を解決する術(すべ)も育み続けてきました。それが『法の支配』です。
 
 平和を守り、国民の安全を保障すること、国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務であります。日本も、そのような責務を、国際法に則って、果たしてまいります。

 一方、グローバル化が進む今、国際社会の直面する問題はますます複雑化し、国家間の関係が緊張する事態も生じています。こうした時代においてこそ、世界の平和と安定、そして繁栄の基礎となる『法の支配』を確立すべきです。『法の支配』は、紛争の予防と平和的解決を実現するとともに、安定した予見可能な社会の基盤として不可欠であり、より一層、強化されるべきです。

 自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものではありません。国際法の更なる発展に努めるとともに、その実効性を担保する制度をより有効に活用することが重要です。未来の世代に、より平和で安定した国際社会を残すためにも、私は、「法の支配」の強化を強く訴えます」――

 「国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務」であることは言を俟たない。

 だが、この権利は日本だけが有している特権ではなく、他の国も有して、「当然の責務」としている普遍的権利である。

 また、領土その他に対する「自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものでは」ないことも殊更言うまでもないことである。

 だが、一国が「自国固有の領土だ」と主張している領土に対して第三国が「自国固有の領土」だと主張したとき、双方が「国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務」とすることに対して、いわば「責務」と「責務」の衝突を前にして、日本政府が取る公式的な立場は機会あることに野田首相が言及し、この国連演説の後の記者会見でも繰返し発言しているものとなっている。

 野田首相「尖閣諸島については歴史上も国際上も我が国固有の領土であることは、明々白々である。領有権の問題は存在しないというのが基本であるから、そこから後退をする妥協はあり得ない」

 いわば「領有権の問題は存在しない」の一点張りで、自国の責務を押し通して、相手の「責務」を何事もなくかわすことができるのだろうか。

 かわすことができるとしているなら、9月11日(2012年)に地権者側と契約書を取り交わした尖閣国有化前の8月末に山口外務副大臣に野田首相の親書を持たせて中国を訪問させ、国有化の説明を行ったり、様々なレベルで中国との意思疎通を図ったり、なぜしなければならなかっただろうか。

 国連では、「自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものではありません」と立派なことを言い、尖閣諸島に関して「領有権の問題は存在しない」と断固としたところを見せながら、中国に尖閣国有化の了解を取り付けるべく様々な働きかけを行なっていた。

 一見格調高く耳に響きはするが、まさしくその多くが学者の“であるべき論”で覆われていたに過ぎなかったことの正体を否応もなしに露にした国連総会演説としか言いようがない。

 藤村官房長官は尖閣諸島について9月27日の記者会見で記者から、「国際法を重視する立場から、島根県の竹島のように、尖閣諸島についても国際司法裁判所を活用する考えはないのか」と質問を受けたのに対して次のように発言している。

 藤村官房長官「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も疑いのない我が国固有の領土で、現に有効に支配している。この点に一片の疑いもなく、国際司法機関で争いをする必要性は全く感じない」(NHK NEWS WEB

 正式な形では誰も上陸させず、どのような施設の建造も許さずでは、単に手付かずの状態で置いておくというタテマエ上の領土の意味しかなく、真の意味で「現に有効に支配している」とは言えないはずであるにも関わらず、抜け抜けと「現に有効に支配している」と誤魔化しを言う。

 国連総会で学者の“であるべき論”の御託を並べるよりも、「日本固有の領土」と言うなら、あるいは「領有権の問題は存在しない」と言うなら、周辺海域にイラクと同等の埋蔵が見込まれると言われている石油資源を開発し、財政再建や日本の経済等に役立てる、国益に利する方策を創造し、真の意味で有効な支配を証明すべきだろう。

 そのためにも中国と同じテーブルに着き、真正面から向き合って、様々な証拠や文献を用いて歴史的に日本固有の領土であることを論破する使命を担っているはずだ。

 「国民の生活が第一」小沢一郎代表が、「合意形成が難しいことは事実だが、日中両国が客観的に歴史的事実を検証して解決すべきだ」と言っているようにである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また安倍かあ・・・・、首相になったら日本の大悲劇!!

2012-09-27 11:30:25 | Weblog

 9月26日(2012年)の自民党総裁選で第1回投票で2位につけた安倍晋三が第2回投票で第1回1位の石破氏を逆転、自民党新総裁に選出された。

 次の首相に一番近い位置につけることが予想されている。

 予想が事実となったら、また安倍かあ、である。首相になったら日本の大悲劇の予感がする。

 菅無能の外交デビューは2010年6月25日から開催のカナダ・トロントG8(主要国首脳会議)。首脳宣言は韓国哨戒艦沈没事件(2010年3月26日)を引き起こした北朝鮮非難を盛り込んだ。

 6月26日午後(日本時間27日朝)、トロント市内で記者団に次のように語った。

 菅首相「私がリードスピーチを行い、非難すべきは非難するよう申し上げ、宣言に盛り込まれた」(The Wall Street Journal

 菅主導の首脳宣言北朝鮮非難であったというわけである。鮮やかな外交デビューだった。

 次の日の6月27日午後(日本時間28日朝)の同じカナダ・トロント市での記者会見。

 菅首相「G8の正式な宣言の中で、北朝鮮の行為を強く批判したことの意味は非常に大きい。今、進行している国連の議論にも何らかの形で反映されると思う」(YOMIURI ONLINE

 先を見通す目――先見性には鋭いものがある。

 安全保障理事会では韓国哨戒艦沈没事件の北朝鮮関与に関わる討議が行われていた。日米韓が主導して模索した拘束力のある安保理決議が中露の協力を得ることができずに月が変わって7月9日(日本時間同日深夜)、一段格下の拘束力のない、しかも直接北朝鮮の犯行と断定したわけではない議長声明で幕を閉じた。

 いわば菅が言っているように、自らがリードして首脳宣言に盛り込んだ北朝鮮批判は何ら国連の議論に反映されず、尻切れトンボに終わった。

 だが、このようになることの先見性は備えていなければならなかったはずだ。安保理での北朝鮮に対する実質的制裁に関わる中露の反対、もしくは非協力等々の北朝鮮擁護は安保理に於ける常套的カードとして繰返されてきたからだ。

 中露のこのような動きを見通す目を持たず、外交デビューに舞い上がったのか、何ら役に立つわけではなく、形式で終わることは見えていたにも関わらず、「私がリードスピーチを行い、非難すべきは非難するよう申し上げ、宣言に盛り込まれた」とか、G8首脳宣言に盛り込んだ北朝鮮非難が「今、進行している国連の議論にも何らかの形で反映されると思う」などと安請合いしたことを言った。

 物事を全体的展望に立って見通す客観的判断能力を欠いているからこその自画自賛の発言であろう。

 一方安倍晋三は拉致問題に10年近くも関わってきながら、被害者5人帰国以降、何ら進展を果たすことができなかった。この間ずうっと、対北朝鮮圧力政策を掲げて今日に至っている。

 このことは見事なパラドックスをなしている。圧力政策が何ら成果を上げなかったにも関わらず、なお圧力政策を掲げるパラドックスである。

 ここには拉致解決政策に関わる客観的判断能力も創造性も見ることはできない。

 安倍晋三は金正日から金正恩に体制が移行したことに期待し、拉致首謀者は金正日であって、金正恩ではないことに根拠を置いて、「日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ」(8月30日フジテレビ「知りたがり」)と言葉の圧力をかければ交渉が可能となるようなことを言っているが、このことも全体的展望に立って見通す客観的判断能力を欠いた主張としか言いようがない。

 前にもブログで書いたが、北朝鮮の体制危機の決定的なところで中露が支援に乗り出すからである。

 ロシアが旧ソ連から引き継いだ北朝鮮110億ドル債務のうち、約100億ドルを帳消しとする政府間協定を北朝鮮との間で結んだことと、ロシアがシベリア鉄道や天然ガスのパイプラインを朝鮮半島に延長する計画などの投資プロジェクトを持っていることを9月18日の「NHK NEWS WEB」が伝えていたことは既にブログに書いた。

 北朝鮮は中国と9月25日(2012年)までに中国が北朝鮮の鉱業分野への投資を目的とした30億元(約370億円)規模の基金を設立することで合意している。(MSN産経

 さらに朝鮮の外資誘致窓口である合営投資委員会が中国の官営企業に対し、北朝鮮全地域の地下資源を探査できる独占権を与えることで8月に両者が合意したと9月25日に韓国の消息筋が伝えている。(時事ドットコム

 またロシアが9月25日までにロシア政府と世界食糧計画(WFP)の覚書に基づく北朝鮮向け人道支援の小麦粉4100とン超を海路で送っている。(MSN産経

 日本の経済的圧力が入り込む隙があるのだろうか。その隙がなければ、言葉の圧力の効き目は出てこない。

 にも関わらず、相も変わらず圧力を口にしている判断能力の無さである。

 一事が万事、菅無能と似た客観的判断能力や創造性を欠いた頭では満足な外交も内政も期待できない。まさに首相になったら、日本の大悲劇である。

 9月26日、新総裁選出を受けて行った挨拶からも、客観的判断能力欠如や創造性欠如を見て取ることができる。《安倍氏のあいさつ要旨=自民総裁選》時事ドットコム/2012/09/26-16:43)

 記事紹介の結びの発言のみを取り上げて、検証してみる。

 安倍晋三「政権奪還は私たちのためではない。自民党のためでもない。それは強い日本をつくる、豊かな日本をつくる、日本人がこの日本に生まれたことに幸せを感じる、そして、子どもたちが日本に生まれたことを誇りに持てる、そういう日本をつくっていくためだ。私も全力を尽くす」――

 「日本人が日本に生まれたことを幸せと感じ、子供たちが誇りを持てる日本を作っていく」と、人よりも日本という国の形を主体に置き、それを最初に持ってきている。いわば、“初めに国ありき”となっていて、“初めに人ありき”とはなっていない。

 国家主義者だから、当然と言えば当然だが、国を形づくる中身の日本人がしっかりしなくて、しっかりとした「誇りを持てる日本を作っていく」ことが果たして出来るのだろうか。

 勿論、「誇りを持てる」か否かは政治家がつくる国の制度・国の形も影響するが、それでも政治家という人間の関与が初めにあるのであって、国の形が最初にあるのではなく、人間関与の結果であろう。

 中身の人間自体を最初に問題にしなければならないということである。

 最初からしてズレた客観的判断能力となっている。

 中身は国民である。国民一人ひとりが自分自身に「誇り」を持つことができなくて、何がゆえに国に「誇りを持てる」だろうか。自分自身に「誇り」を持つことができない空疎な人間が国に「誇り」を持ち、自身の無い誇りを国の誇りを持ってきて埋め合わせて偽りの自己存在証明としたとき、国の誇りで自己の誇りを表現することになって、必然的に国の優越性の誇示に走りかねず、非常に危険である。

 国の優越性を誇れば誇る程、自身の無い誇りを身代わりさせることができるからである。

 だから空疎な人間程、愛国心だとか天皇だとかの言葉を振り回す。

 何らかの才能を得る努力をしない人間が活躍する有名人の才能に大騒ぎすることを以って自らの活躍とするケースが多く見られるが、その存在を知っていること、詳しいことを以って自身の評価を高める栄光浴から、必然的にその有名人を必要以上に優越的存在とするようにである。

 必要以上に優越的存在とすることによって、その才能に大騒ぎする自己自身の才能を正当化できるからである。

 いわば、教育にしても何にしても、“初めに国ありき”ではなく、“初めに人ありき”でなければならない。

 だが、安倍の国家観、教育観は全て“初めに国ありき”の国家至上主義となっている。

 例え象徴と名がつこうと、天皇制を頭に頂いた国をタペストリーだ何だと最初に持ってきているところにも“初めに国ありき”の思想となっていて、創造性の欠如、客観的判断能力の欠如を如何なく表出している。

 いくら天皇を中心に据えた国に重きを置いていたとしても、国の政治を担う首相、それ以下の政治家が無為・無策では国は形ばかりのものとなる。

 戦前に於いても天皇が国を動かしていたのではなく、ましてや戦後の象徴天皇制に於いては天皇が国を動かすことができるわけではない。“初めに人ありき”で、国を動かす政治家一人ひとりが自らに誇りを持つことのできる見掛け倒しではない政治的才能を有しているかどうかが問題となる。

 だが、そういったことに目を向ける視野はなく、中身の人間を問題としないハコモノの国の形にばかり目を向けている。

 創造性の欠如、客観的判断能力の欠如という点で共通点を抱えているのである。菅無能に国を任せたのが日本の大悲劇であったように安倍晋三に国を任せたとしても、日本の大悲劇となる予感が限りなく高い。

 安倍晋三は愛国心ということを頻繁に口にする。

 愛国心は教えるものではなく、それぞれが自他に対する批判的精神を持った、誇ることができる程の自律性(自立性)を育み得たとき、誇りとするその自律性(自立性)自体がそれぞれの立場で国を支えることになって、結果的に国のために役立っていく。

 このような役立ちこそが愛国心と言えるものであって、君が代を斉唱したり、日の丸に敬意の頭を下げることを以てして愛国心の程度を測ることができるわけではない。

 安倍晋三は教育改革にも力を入れると広言しているが、天皇を頭に戴いた“初めに国ありき”の国家至上主義では満足な人間教育は期待できまい。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反イスラム映画制作をキッカケとした過激反米デモはイスラム人の愚かさの表れ

2012-09-26 11:56:54 | Weblog

 イスラム教預言者ムハンマドを侮辱したとされる米映画をめぐり、アラブ各地で反米デモや暴動が発生している。9月11日には武装集団がリビア東部ベンガジで米領事館を襲撃し、駐リビア米大使と職員3人を殺害した。

 9月22日にはパキスタンのビロウル鉄道相が閣僚の身でありながら、映画の制作者を殺害した人物に個人として10万ドル(約780万円)の懸賞金を出すと発表。

 尤も本人は私人の立場で行ったものだと言っているそうだが、閣僚でありながら、閣僚自粛の政府の申し合わせを無視して靖国神社を参拝して、私人の立場での参拝だと言うのに似ている。
 
 映画の内容をインターネットで調べてみたら、イスラム教預言者ムハンマドを父親不明の同性愛者とした挙句に児童奴隷と婚外性交渉を宗教の名の下に擁護する人物として描いているそうだ。

 いわば怪しげな新興宗教の怪しげな教祖に仕立てたといったところか。

 例え映画製作がイスラム教を侮辱するための悪意に満ちた意図を持っていたとしても、法治国家に於いては名誉毀損等で上映差し止めの裁判を起こすという法に訴える行為に出るだろう。

 制作者国そのものを攻撃の対象として映画製作とは何ら関係のない人間を襲って、殺戮するといった野蛮なことはしない。 

 イスラム教預言者ムハンマドを侮辱したと怒りを募らせて集団で暴動に走り、関係のない第三者を殺傷するアラブ人たちの行動はイスラム教予言者ムハンマドを絶対者と位置づけ、その教えを絶対として、何者によっても侵すことを許さない一大権威としている妄信から発生している騒動であろう。

 だが、イスラム教予言者ムハンマドが絶対ではないことも、その教えが絶対でないことも、イスラム世界の独裁体制と人権抑圧が証明している。

 なぜなら、イスラム教予言者ムハンマドが絶対的存在者であり、その教えが絶対であったなら、イスラムの世界に独裁政治も人権抑圧も現れることはなかっただろうからである。

 もしイスラム世界の独裁体制と人権抑圧がイスラム教予言者ムハンマドの教えに従って現出せしめた正しい国の姿だということなら、2010年12月始まったチュニジアでの暴動によるジャスミン革命から、エジプトやリビア、イラン等のアラブ世界に波及した、アラブの春と称される対独裁体制闘争や打倒・政変はイスラム教予言者ムハンマドの教えに反する不遜な謀反ということになり、イスラム教予言者ムハンマドを絶対者の権威から引きずり下ろす反逆となる。

 かくかようにイスラム教予言者ムハンマドとその教えを絶対とするイスラム世界に於いて、このことを否定する国家の矛盾や社会の矛盾、あるいは人間存在の矛盾が存在するにも関わらず、それらの矛盾を無視してイスラム教予言者ムハンマドとその教えを絶対とする権威づけは無知蒙昧な狂信としか言いようがない。

 アラブ世界には女性の社会進出を阻む差別や女性の性や結婚に関わる差別等が存在するが、それらの差別はイスラム教予言者ムハンマドの教えによってイスラムの世界に現出した差別であろう。

 勿論この差別は西欧社会から見た場合の差別であって、イスラムの世界にとっては正当な扱い、正当な価値観ということであろう。

 なぜなら、イスラム教予言者ムハンマドの教えに忠実に従って現出せしめた正当な社会慣習だろうからである。

 もしそうでなかったとしたら、やはりイスラム教予言者ムハンマドの教え、その権威に背いてアラブの男たちが勝手につくり出した女性差別、社会的慣習ということになる。

 イスラムの世界では多くの国がこのような女性待遇を受け入れ、正しい社会慣習としている。

 だが、アラブの国の中にはこのような社会習慣、女性待遇を男女差別と見做して、差別撤廃を戦う女性が存在する国もある。

 いわば、彼女たちはイスラム教予言者ムハンマドを絶対者と見做さず、その教えを絶対だと権威づけていないことになる。

 イスラム教予言者ムハンマドが決して絶対ではなく、当然その教えも絶対ではない例として家畜の犬に対する価値観がある。

 西欧社会から見たなら社会的差別、イスラムの世界では正当な価値観としている社会的慣習として犬に対する扱いを見ることができる。

 テレビで見たシーンだが、2003年10月のイラクでハンドバックを開けて爆弾探知犬の検査を受けるよう米軍女性兵士に求められたイラク人中年女性が、それを拒否したことから騒ぎとなり、100人近くのイラク人群衆が集まって、不穏な状況となったため、米軍側が威嚇発砲して、群集を追い払った。

 イラク人中年女性は、拒否の理由として、「ハンドバックの中にコーランを持っていて、神聖なコーランをイスラムでは不浄とされている犬に嗅がせることはできなかったからだ」と、憤り声で激しくまくし立てていた。

 例えコーランにどのように立派な教えが書き込まれていようが、単なる印刷物に過ぎない。その教えを自己教養化して得た思想そのものに価値があるのであって、そうでなかったなら、コーランは単なる体裁、あるいは飾り物に過ぎない。例え、どこに行くにも常に持ち歩いている大切なコーランだと、価値観を置き、どのように権威づけていたとしてもである。

 だが、コーラン・聖書の類を体裁・飾り物としている人間程、体裁・飾り物でしかないことを否定する必要上、それらを尤もらしげに神聖化し、絶対的権威とする傾向にある。

 憤ってまくし立てたイラク人中年女性にしても、コーランの教えを自己教養化していたなら、犬に破かれるならともかく、臭いを嗅がれるぐらいで憤ったりしなかったろう。

 あるいは社会の矛盾を見て、イスラム教予言者ムハンマドにしてもその教えにしても絶対ではないと相対化するだけの客観的認識性を備えていたなら、愚かしく騒ぎ立てることはしなかったに違いない。

 イスラムの世界にだって犬以下の人間はいくらでもいるだろうに(日本には「犬畜生にも劣る奴」という表現がある)、それを無視して犬を不浄な生きものとする価値観にしても、イスラム教予言者ムハンマドの教えに従った社会的慣習としてあるものであろう。

 不浄な生きものであるからこそ、「Wikipedia」に、〈現在でもイスラム圏では牧羊犬以外に犬が飼われることは少ない〉と紹介されることになっているのだろうが、牧羊犬として社会や人間に役立つ、それなりの価値を有している。

 にも関わらず、不浄な生きものとして忌み嫌われている。

 西欧社会では犬は家族として、あるいは家族の友人として迎え入れられ、さらには視力障害者の生活補助の役を担う盲導犬、聴力障害者の生活補助の聴導犬、身体障害者の介助犬、さらに老人ホームの老人たち の心を癒すセラピー犬として尊ばれ、彼らの社会参加を促し、彼らの世界を広げて、健常者の世界に少しでも近づける優れた能力を発揮している。

 だが、イスラム教予言者ムハンマドは犬を不浄な生きものと価値づけたことによってイスラムの世界にも存在する各障害者の世界を犬の手助けを受けて広げ、健常者の世界に少しでも近づけて彼らの生命(いのち)をより十全とするという思想は育たなかった。

 先に例を引いた、〈現在でもイスラム圏では牧羊犬以外に犬が飼われることは少ない〉という現象がこのことを証明している。

 イラク戦争やその後の内戦状態のテロ攻撃、あるいはエジプトやリビアやシリアの反体制武力闘争等々で兵士のみならず、一般市民の間にも、多くの障害者を出しているはずだ。

 イスラム教予言者ムハンマドが絶対的存在でもなく、その教えにしても絶対ではないにも関わらず、絶対だと権威づけて他の価値観を許さない偏狭・無知なテロ同然の騒ぎを引き起こすのではなく、西欧社会の民主主義を、その社会特有の矛盾を含めて学んで、自らのイスラム社会にどのような矛盾が存在するか自省し、目を向け、人間存在のより良い状態を創り出すべく矛盾解消の方向にこそ力を注ぐべきだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田首相の細野政調会長人事には野田首相のウソ・細野のウソが散りばめられている

2012-09-25 11:54:41 | Weblog

 

 訂正と謝罪

 昨日9月24日当ブログ記事――《橋下徹大阪維新の会代表の“議論公開論”に見る発言責任の自他区別 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に読者から誤記の指摘がありました。

 「2009年11月時点」から「2012年2月14日時点」までの経過期間を「それから約3カ月後」と2個所を誤記、「それから約2年3カ月後」と訂正し、併せて誤記を謝罪します。 

 先の民主党代表選で若手議員を中心に一旦は出馬を勧められ、自身も前向きな態度を示しながら、「41歳で12年しか国会議員を務めていない」と経験不足を理由に出馬を辞退した細野豪志環境相兼原子力防災担当の内閣府特命相が野田首相によって次期政調会長に起用されることになった。

 この経緯には野田首相のウソ・細野のウソが存在する。

 何日か前のブログでも批判したが、能動的学習能力や能動的問題解決能力とその蓄積に置くべき経験を年齢(歳の数)と議員勤続年数に置いて(20年、30年議員を務めたとしても、陣笠は陣笠である)、その過不足を計る幼稚な判断能力を見せた政治家である、大臣を務めることができたのは言葉は達者だが、実質的には官僚の手のひらに乗って動いていただけのことではないかと疑っている。

 《民主役員人事 細野氏らの起用決まる》NHK NEWS WEB/2011年9月24日 17時45分)が人事決定のイキサツと細野自身の判断を紹介している。

 幹事長代行の安住財務相と国対委員長起用の山井和則国対副委員長に関する紹介は省略。

 先ず細野氏の経歴。

 衆議院静岡5区選出の当選4回41歳。

 民間シンクタンクの研究員や衆議院議員秘書を経て、2000年衆議院選挙初当選。

 民主党役員室長や副幹事長等を勤務。菅内閣で総理大臣補佐官の起用を受け、東京電力福島第一原子力発電所の事故対応担当。

 2011年6月新設の原発事故担当大臣就任、同2011年9月発足野田内閣で原発事故担当相再任、環境大臣を兼務。

 そして野田代表の再任で政調会長の起用を受ける。

 9月24日の記者会見。

 細野豪志「きのう、野田総理大臣から連絡を受けたときは、『原発事故への対応と福島の課題に専念したい』と申し上げたが、野田総理大臣からは『政策調査会長として、党全体で原発と福島の問題をサポートするように』という話があった。大変な役だが、原発と福島の問題を党全体でサポートする先頭に立てるのであれば受けようと思い、最終的に『やらせていただく』と申し上げた。

 野田総理大臣からは『特にマニフェストをしっかり作るように』という指示があり、全党的な大きな課題なので、しっかりやりたい」

 細野剛志は代表選出馬断念の理由に経験不足と共に、「福島をはじめ被災地には厳しい問題があり、猶予できない状況」であることを挙げて、引き続いて福島対応を優先させなければならないことを理由とした。

 だから、一旦は「原発事故への対応と福島の課題に専念したい」と断ったが、野田首相から、「政策調査会長として、党全体で原発と福島の問題をサポートするように」と指示を受け、「原発と福島の問題を党全体でサポートする先頭に立てるのであれば」と引き受けた。

 いわば、「原発と福島の問題を党全体でサポートする先頭」に立つ役目を政調会長の仕事の一つとして認められたから、原発事故担当相から離れる決意をした。

 だがである、“党全体のサポート”にしろ、その先頭に立つことにしても、あくまでも従であって、優先的主体は政府全体のサポートであり、何よりも直接的にはその代表者としてより重要な役目を担ってきたのは原発事故担当相である細野豪志であったはずだ。

 その細野が主たる役目から退いて、従となる役目を引き受けたことになる。

 もし政調会長として原発事故担当相以上に「原発事故への対応と福島の課題に専念」することが可能であったなら、断りもせずに二つ返事で引き受けたはずだ。

 その逆であったから、一旦は断った。

 このことは今後は政府全体のサポートを受けて、後任の原発事故担当相がより直接的な優先的主体者として原発と福島の問題に当たることになることを意味している。

 いくら細野が党全体のサポートを受けようと、従たる立場からでしか原発と福島の問題に当たることができないということである。

 この経緯には「原発と福島の問題を党全体でサポートする先頭」に立つことを以ってどう逆立ちしても原発事故担当相の代わりとはならない政調会長を引き受けるという役の格下げが存在するにも関わらず、細野はさもそんなものは存在せず、同じことができるんだというふうに同等であるかのよう第三者をして思わせる巧妙な言葉のウソを存在させている。

 だとすると、9月24日午後、福島県庁に佐藤雄平知事を訪ねて原発事故担当相退任の挨拶をしたとき、「福島の復興にこれからも寄り添って取り組む」(時事ドットコム)と約束したそうだが、この約束自体も言葉のウソしとなりかねない危険性を孕んでいることになる。

 大体が政調会長として次期総選挙のマニフェスト作成の役を拝命したとなると、マニフェスト作成が簡単な作業ではない性格を抱えている以上、従の立場から福島にどれ程寄り添うことができるというのだろうか。

 衆議院の任期は1年近くを残すが、いつ解散するかも分からない政局下にあることと、原発問題にしてもTPP参加問題にしても党内で大きく意見が分かれているそれぞれの政策をマニフェストに時間の余裕があって念入りに纏めるのではなく、時間がない状態で大急ぎで纏めなければならない状況にあることから推察すると、細野の「福島の復興にこれからも寄り添って取り組む」は福島にとっては復興の足しにならない、リップサービスのウソで終わる可能性すら出てくる。

 尤も細野政調会長が立派にマニフェストを纏めることができ、その表紙に取って置きの顔をした野田首相の写真を配したとしても、民主党のマニフェストと名前をつけている以上、どれ程に信用される約束事となるのか疑わしい。

 また「原発と福島の問題」は野田首相が機会あるごとに「福島の再生なくして日本の再生はない」と言ってきた最重要な政策事項であり、直接的担当者にとっても最重要な役目であるにも関わらず、「原発と福島の問題」に関しては細野を主たる役目から外して、従たる役目に就けた細野政調会長人事であったと言うこともできる。

 主たる役目に代わる後任の適任者がいるとしても、継続性という問題は無視できない。継続性は問題ないということなら、細野は原発事故担当相として有能ではなかったということになり、政調会長起用人事は有能性を反映させた採用ではなく、マスコミが伝えているようにその若さ、清新さに期待した党の顔としての政局的な選択ということになる。

 もしこのような背景を抱えた人事であるなら、野田首相は未だ途上にある「福島の再生」よりも政調会長人事を優先させたことになり、「福島の再生なくして日本の再生はない」の言葉を僅かながらでもウソにすることになる。

 野田首相は細野に対して「特にマニフェストをしっかり作るように」と指示したそうだが、野田首相の「しっかり作る」という言葉にもウソがある。

 菅前首相が2010年7月参院選前にマニフェストに書いてない消費税増税を打ち出したときの政調会長だった玄葉光一郎がマニフェストなるものについて次のように発言している。

 玄葉光一郎「マニフェストと言うのは生きものであり、常に手入れが必要なものだというふうに認識をしております。従って、環境や状況の変化に柔軟に対応することが重要だということで、改めるべきは改めると言う観点から書かれているということです」

 要するにマニフェストを国民との契約であることから政策ガイドライン(おおまかな指針)に変質させる格下げを行った、

 非常に画期的なことである。選挙では民主党立候補者は「約束します」と言えなくなったのである。有権者にしても、「環境や状況の変化」に応じて政策内容が代わるようでは、「約束します」と言われても困るだろう。

 そして野田首相がやはりマニフェストに書いてない消費税増税を打ち出してマニフェストが持つ国民との契約性をなおのこと破棄した。

 言ってみれば、民主党政権は誤魔化し、誤魔化しで乗り切ってきた。これ程のウソがあるだろうか。細野政調会長人事は全体のウソの中の一つのウソに過ぎない。

 このことを証明する細野の発言がある。《民主新役員の発言要旨》時事ドットコム/2012/09/24-17:40)

 細野以外の発言は省略することにする。日付が同じで、発言内容もほぼ同じだから、上記「NHK NEWS WEB」が扱ったのと同じ記者会見での発言だと思うが、最後が少し違う。

 細野豪志「野田佳彦首相から昨日連絡を受けた際には「原発事故対応に専念したい」と固辞した。しかし、「政調会長として原発問題を全面的にサポートするように」と言われ、お受けした。マニフェスト(政権公約)づくりや、一体改革の3党合意への対応など課題はたくさんあり、全力でやりたい。

 福島の役に立ちたい気持ちは人一倍強く持ってきた。政調会長の役割を果たすことが福島を見捨てることであっては絶対にならない。福島を党全体で支える態勢をつくりたい

 前任者と後任者との間に能力の優劣、継続性の問題は存在するだろうが、「政調会長の役割を果たすことが福島を見捨てることであっては絶対にならない」と言っていることは、福島を見捨てることにならない形の政調会長の役目を絶対果たすとの宣言であろう。

 だが、この発言は福島を見捨てるも見捨てないも、政調会長である自分一人の責任にかかっているとしていることになり、「原発と福島の問題」を政調会長一人の役目としていることにもなる。

 いわば後任者が存在しないか、まるきり無能だとしているか、後任者を差し置いた発言であり、自身を何様に置いたこれ程の思い上がりはないだろう。

 実際には福島を見捨てるも見捨てないも最終的には政府の責任であるが、直接的に主たる役目を担うのは後任者であり、その責任は後任者により多くかかっているはずである。

 もし言うとしたら、「福島の問題は今後共気にかけ、できる限りのことはするが、適任者が後任となるだろうから、任せたいと思います」で済んだはずだし、そうせざるを得ないはずだ。

 また、「福島を党全体で支える態勢をつくりたい」と意欲を示しているが、そのような態勢は一旦は出来上がっていて、例え従たる立場からではあっても、それなりの実務を踏んできているはずである。

 勿論、組織の責任者が代われば、新しい責任者が指示や行動を容易にできるように人員配置や人員の入れ替え、命令系統の変更等を行いもするだろうが、一旦は出来上がっている態勢をさも自分が先頭に立って新しくつくるかのような発言にもウソが存在することになる。

 要はどれを取っても、全てが自分を何様とする、あるいは自分の有能さを見せかけるウソの発言となっている。

 このようなウソを散りばめた見せかけの態度が細野が頭角を現すキッカケとなったとしても、細野のような政治家が環境相と原発事故担当相を兼務していたこと自体、あり得ないウソとしなければならないが、野田首相はそのウソに気づかずに原発事故担当相として再任、さらに環境相に任命、「福島の再生なくして日本の再生はない」と言いながら、そのことに優先させて党の顔として政調会長の人事を行うウソを働いた。

 ウソとウソが奏でる野田政治といったところか。

 閣僚だった安住を幹事長代行に起用、入れ替わりに党役員だった前原や樽床、城島を閣僚に起用する動きも、政権放棄を予定とした論功行賞狙いの最後の晩餐ならぬ、最後の大盤振舞いの政治のウソに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下徹大阪維新の会代表の“議論公開論”に見る発言責任の自他区別

2012-09-24 10:58:00 | Weblog

 〈大阪維新の会は23日、近く結成する新党「日本維新の会」に合流する国会議員らを対象とした2回目の公開討論会を大阪市内で開いた。〉で始まる記事――《維新が2回目の討論会 民自2議員が新たに参加 外交と安全保障テーマに》日経電子版/2012/9/23 13:37)

 新参加の自民議員とは今井雅人(比例東海)民主党衆議院議員と谷畑孝(比例近畿)自民党衆議院議員。

 既に合流を決めている松野頼久民主党衆議院議員と松浪健太自民党衆議院議員、桜内文城みんなの党参議院議員が参加、計5人が公開討論に加わった。

 前回参加した民主の石関貴史衆院議員、水戸将史参院議員、みんなの小熊慎司、上野宏史両参院議員は出席しなかったという。

 前回討論会議論が低調で、批判が上がったことから、有識者サイドとしてジャーナリストの、時の人にはヨイショを専らとしている節操のない、あの田原総一朗が新たに参加したという。

 自分を何様の絶対者だと思い込んでいる点は橋下徹市長との共通点かもしれない。

 討論会のテーマは外交と安全保障。討論会を公開で行うことについての橋下氏の見解。

 橋下徹市長「議論を公開で行うことで、後に『あのときにこう言っていただろう』と政治家の発言をチェックする場にしたい」

 橋下氏が言わんとしたことは、政治家は発言に責任を持たなければならないということであるはずだ。

 政治家の発言を公開することで直接的に、あるいはマスコミを通じで多くの人に記憶させることで、以前の発言と現在の発言に食い違いはないか、あるいは発言に責任を持った行動をしているかどうかのチェックの機能を持たせるということである。

 政治家自身が発言の責任を負うのに対して負っているかどうか、責任のお目付け役(チェック役)を市民・国民に求めたと言うこともできる。

 一旦口にした発言が後々までチェックを受けると言うことは、それだけ政治家の発言は重く、常に責任が伴うということを政治家は各自自省しなければならない。

 例えて言うと、菅前首相の野党時代の「沖縄に海兵隊は要らない。米本土に帰って貰う」が、首相になると抑止論と地理的優位性を持ち出して沖縄海兵隊必要論に転換したのはチェックに引っかかる責任のなかった発言で、許されないということなのだろう。

 あるいは野田首相の野党時代の発言、「マニフェスト、イギリスで始まりました。ルールがあるんです。書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです」が、首相になったら、マニフェストに書いてなかった消費税増税に心血を注いだのは最初の発言に対する責任を全面放棄するもので、そういったことが頻繁に起こらないようにチェックしていくということなのだろう。

 言い替えるなら、政治家の発言に責任という名の手枷・足枷をはめようという意図の発言だと言うことができる。

 このような意図を持つこと自体、政治家の責任を持たない発言が垂れ流し状況にあることを裏返しているはずだ。

 橋下市長は同じ9月23日の公開討論会で、沖縄の米軍普天間飛行場の移設問題について次のように発言している。

 橋下徹市長「(沖縄県名護市辺野古以外の)代替案が僕にはない。(県内移設の場合には)維新の会として県民にお願いに行く」(毎日jp

 橋下氏の政治家としてのこの発言は、当然、後々までチェクを受けることになる。と同時に、以前の発言との整合性のチェックを受けなければならない。

 受けずに、議論を公開することでそれぞれの発言に対するチェック機能を持たせると主張することは資格を失うことになる。

 2009年11月30日朝、大阪府知事時代の橋下氏は個人的見解としながらも、記者団に普天間飛行場の移設先として関西国際空港への受入れを検討することを表明している。

 当時鳩山首相は普天間の「国外最低でも県外」を模索して四苦八苦しながら迷走を繰返していた。

 《在日米軍再編:普天間移設 移設先「関空も検討」 橋下・大阪府知事「個人的見解」》毎日jp/2009年11月30日)

 橋下大阪府知事「あくまで個人的な意見だが、政府から正式に話があれば、基本的に(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」

 記事。〈政府からの要請は「正式にはない」としながらも、嘉手納基地の騒音軽減対策としての訓練の一部受け入れも視野に、関空の軍民共用化や神戸空港の活用も検討事項に挙げた。〉・・・・・

 政府から正式な話があったという報道はなかったが、それから2年約3カ月後の2012年2月23日。

 《橋下市長「沖縄へあいさつに…」県外移設公約に》YOMIURI ONLINE/2012年2月23日17時38分)

 記事は冒頭、〈地域政党・大阪維新の会(代表=橋下徹大阪市長)は、次期衆院選の公約にあたる維新版「船中八策」に、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県外移設を盛り込む方針を固めた。〉と書いている。

 3月上旬までに公約の骨子を纏めて、橋下氏と幹事長の松井一郎・大阪府知事が沖縄県を訪問、県側に伝える方針だという。

 但し一旦は2月14日公表の維新版「船中八策」たたき台の「外交・防衛」政策のうち普天間移設問題に関しては、普天間飛行場代替施設を辺野古岬とその隣接地域に移設するとした「2006年在日米軍再編ロードマップの履行」及び「同時に日本全体で沖縄負担の軽減を図る更なるロードマップの作成着手」云々と民主党とほぼ同じスタンスを取っていたが、「米軍再編のロードマップ(行程表)履行」を削除、「日本全体で沖縄の基地負担の軽減を図る新たなロードマップの作成に着手」と変更、「普天間は県外で分散移設」との文言を加える方向で検討を開始したのだという。

 いわば2009年11月時点では、政府から正式な話があれば関空も普天間の移転先として議論するという個人的見解の姿勢を取り、それから2年約3カ月後の2012年2月14日時点では、普天間の辺野古移設へと個人的見解から一旦は後退したものの、その9日後の2012年2月23日時点では、普天間の県外移設を大阪維新の会の公約とする方針を掲げた。

 それから約7カ月後の昨日、2012年9月23日になると、「(沖縄県名護市辺野古以外の)代替案が僕にはない」と、一旦は県外を公約とするとした方針をあっさりと撤回。

 これらの発言の目まぐるしい変遷を見ると、どの発言に責任を求めたらいいのか、迷うことになる。

 いわばチェックしようがなくなる。

 他の政治家の発言に対して責任という名の手枷・足枷をはめるべく公開討論にチェック機能を持たせながら、自身は発言の責任から自他を区別して自由自在でいる。

 このような結末を迎えたのは普天間の県外移設は殆ど不可能で、民主党が決めた既定路線を選択した方が無難だとの思惑が働いたとでも言うのだろうか。

 だとすると、最初の発言を貫徹して責任を果たす行動意志さえ報道から見ることができなかったことも頷くことができる。
 
 自身の発言に対しては自らチェック外に置き、自他を区別して責任の対象外としたということは橋下氏は自身を自らの発言に責任を持たなかった菅前首相や野田首相と同列の政治家に置いたことになるが、そのような意識からも自由自在に免れているに違いない。

 何しろ天下の橋下徹であることを自任しているだろうから。

 そのような自任は自身の才能の優越性を前提としているがゆえに自己無謬(=自己絶対性)と同じ境地を取りやすくなる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三首相では日本の教育が危なくなる/愛国心教育よりも批判精神涵養教育

2012-09-23 13:16:07 | Weblog

 9月15日(2012年)日本記者クラブ主催自民党総裁選候補者公開討論会で、候補者から候補者へテーマ自由・質問対象者自由で質疑する形式のコーナーが設けられていた。

 その中で外務大臣や文部大臣、そして文部科学大臣を歴任した町村信孝が元首相の安倍晋三に対して教育委員会制度をどう扱うのか質問した。

 安倍の答弁から窺うことができるその教育観を、「安倍晋三首相では日本の教育が危なくなる」をテーマにして取り上げてみたいと思う。

 町村信孝「教育問題で少し質問させて頂きます。教育は今、そんなに緊急な課題かと言われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私共自由民主党にとって教育問題は常に最重要課題だと、こう私は思い、今日までずっと教育問題に取り組んで参りました。

 ちゃんとした成果を上げられたかどうか、非常に反省することも多々あります。

 そういう中で安倍内閣のときに教育基本法を戦後始めて改正し、あと残る法律は憲法だけというところまで来ているわけですが、これは安倍内閣の功績であり、私も長年、初当選以来、この教育基本法の改正に携わって参りました。非常に良かったと思っています。

 で、この具体化するという中で、昨今、維新の関係でですね、安倍さんは『維新の教育方針いいんじゃないか』というふうに非常に肯定的な発言をされていらっしゃる。

 確かに教職員組合のあまりにも横暴な政治活動の横行。こういうのは真(まこと)によろしくないし、基本法の精神に反していると思いますが、他方、教育委員会の廃止とまで言ってます。

 ま、是非の両論はあると思いますが、私は政治的中立性を担保するという意味で、教育委員会の運用は直すけれども、制度としてはいいんじゃないかと思います。

 そういう意味で、維新の政策が全ていいとは思いませんが、安倍さんの教育問題についてのお考えを聞かせて貰えればいいと思います」

 安倍晋三「ありがとうございます。改正した教育基本法は全面的な書換えでした。この原案については町村先生も原案づくりに参加をしていただいたと思っております。新しい教育基本法には教育の目標をくっきりと書いたんです。

 道徳心を培う。公共の精神。日本の伝統と文化を尊重する。郷土愛。そして愛国心。

 また第一意義的には家庭が教育の責任を持ってということを書き込んでいきました。

 これに則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした。

 ま、しかし、教育委員会によってこの教科書採択が決定されますが、この教育委員会は常勤の方々によって構成されているわけではありません。なる程立派な方が多いんですが、しかし常勤でない方が大変な仕事を背負ってるがため、事実上教育長・事務局が用意する資料によって色々なことが決まっていることも事実です。

 学校でいじめの問題がありましたね。では、あれは現場なのか、首長(くびちょう)なのか、教育委員会なのか。

 教育委員会、やっぱり責任が大きんです。そこで今自由民主党でつくっている原案の一つとしては、教育委員会をなくすということではなくて、教育委員会は諮問機関にしましょう。そして責任者はやっぱり教育長ですね。

 教育長は首長が指名します。首長は選挙に於いて、こういう教育をやっていくということを市民に約束をし、そして教育長を通じ、諮問機関の教育委員会と相談しながら実行していく。

 責任が明確となり民意との関係もはっきりとしていくんではないかなあと、このように思います」

 町村信孝は安倍晋三が考える教育委員会制度の今後の在り様を聞いた。対して教育委員会は廃止するのではなく、諮問委員会に制度替えすると、たったそれだけの主張を相手に伝えるために聞かれもしない改正教育基本法のことまで交えて長々と話しているばかりか、前段の主張が尻切れトンボとなっていて、どこかに消えてしまう論理の“混線”を演じている。

 要するに論理的な思考能力が欠如しているから、こういった“混線”が生じるのだろう。

 一般的に教育委員会制度は医師とか弁護士等の教育の専門家ではない非常勤の委員が詰めていて、実質的な権限は実務権限者である教育長に丸投げする形式的制度となっている、形骸化していると言われているが、ここではこのことは扱わない。

 あくまでも安倍晋三の教育問題に関わる発言から見た論理的思考力を問うつもりでいるから、尻切れトンボとなった改正教育基本法に関する言及を取り上げることにする。

 改正教育基本法成立に「則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした」と、何を血迷ったのか、恰も学習指導要領もできず、教科書に登場しなかったかのように言っているが、文部科学相諮問機関「中央教育審議会」が既に03年3月答申で、「現在の教育の危機的状況を打破するには具体的な改革が必要」と基本法改正に言及、「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心を育てる」ことを掲げ、学校教育法や学習指導要領などにも改正の趣旨を反映させることを求めている。(朝日新聞コトバンクから)

 要するに03年3月答申を受けた安倍改正教育基本法であって、安倍関連の発想ではない。

 教育現場では06年12月に教育基本法が全面的に改正される半年前の06年6月時点で既に愛国心教育が行われていて、06年6月10日朝日新聞記事――《通知表に「愛国心」190校》は既にそのことに触れている。

 「愛国心」が小6もしくは小5の社会科の『関心・意欲・態度』についての評価項目に盛り込まれていて授業が行われていたとしている。

 その典型として記事は〈「我が国の歴史や政治、国際社会における役割に関心を持ち、意欲的に調べることを通して、国を愛する心情や世界の人々と生きていくことが大切であるということの自覚を持とうとする」〉という、茨城県龍ヶ崎市の基本目標を取り上げている。

 改正教育基本法が成立する以前に既に愛国心授業が行われていた以上、改正に添って学習指導要領が一部改定、あるいは改訂されないはずはなく、当然、教科書会社は学習指導要領の変化を教科書に反映しないはずはない。

 教科書に反映されれば、当たり前のこととして授業で教えることになる。

 だが、改正教育基本法成立に「則って学習指導要領ができて、教科書が登場するはずでした」などと、学校教育に導入されなかったが如くに言う。

 この論理的思考能力の愚鈍さは如何ともし難い。

 そもそもからして改正教育基本法に、道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養を「くっきりと」目標としたと言うなら、「政治は結果責任」である以上、その効果を語るべきだが、一言も語らず終いであることも、論理的思考能力の愚鈍さの証明としかならない。

 尤も効果があったりしたら困る。

 教育の目標が例え道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養であったとしても、その欠如が昨今盛んに言われている基本的能力としての考える力――思考能力を備えていなければ、知識・情報の単なる無条件・無考えの機械的な受容となって、植え付けられた同じ知識・情報を持つ人間ばかりとなる危険性を抱えることになる。

 国家が「勝つまでは欲しがりません」、それが愛国者だと言い出すと、右へ倣えで、「勝つまでは欲しがりません」と唱える、あるいはそう思い込む、戦前存在したような、そういった人間ばかりとなる。

 考える力――思考能力を備えて初めて、批判精神を対応させることになる。愛国心教育を受けても、その知識・情報を機械的に丸呑みするのではなく、自分なりの批判精神に照らして、正しい愛国心なのか間違った愛国心なのかを問うことになる。

 あるいは愛国心発揮の対象としての国の姿を問うことになる。

 国の姿とは政治の姿であり、時の体制の姿である。自民党政治の日本は愛することができないと言う国民もいるだろうし、逆に民主党政治の日本は愛することができないと言う国民もいるはずである。

 また、郷土の風土や人間性を愛することができない国民もいるはずである。

 いわば頭から一緒くたに「国を愛せ」、「郷土を愛せ」と強要することはできない。それぞれが考えて決めるべき事柄であるはずである。

 その国の歴史に於いても、現在の国家の状態に於いても、負の面もあれば、正の面もある。国を愛せと言われて、ハイ、愛しますと無条件・無考えには決して言えない様相を国家は常に抱えている。

 それを無視して、頭から一律的に愛せと言われて、ハイ、愛しますと言うことの方が遥かに危険である。歴史でも文化でも、伝統でも、国家体制であっても、批判べき点は批判し、矛盾や負の面を正して、よりよい状況、よりよい発展を模索する戦いが必要である。

 当然、道徳心・公共の精神・日本の伝統と文化の尊重・郷土愛・愛国心等々の涵養を教育の第一義的目標とするのではなく、先ずは考える力――思考能力の涵養を第一義的目標としなければならないはずだ。

 だが、論理的思考能力を欠いているためだろう、安倍晋三はこのことに気づかない。
 
 安倍著『この国を守る決意』には、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」の一節があるそうだ。

 この一節に安倍晋三の愛国心思想が凝縮されているに違いない。

 直接読んではいないが、この言葉の意味するところは国民による国家に対する一方的な無償の奉仕要求である。

 「投げうつ」という言葉そのものが無償の奉仕要求を含んでいる。

 【投げ打つ】「投げ捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない」(『大辞林』三省堂)

 なぜ一方的な無償の奉仕要求になるのかと言うと、自分たちが考えている国家を絶対としているからだろう。絶対としていなければ、無償の奉仕要求は成り立たない。

 当然、安倍晋三等、同根の国家主義者たちは「国家」と言うとき、常に国の姿を問わない文脈となる。

 戦前の日本の国の姿を問うことをしたなら、そこに絶対は存在しないことに気づいて、国の姿を問う姿勢を持つようになるはずだが、気づかず、そういった姿勢を持たないままに推移しているのは安倍晋三ならではの優れた資質なのだろう。

 国の姿を問わないままに自分たちが考えている国家を絶対とし、国民に一方的に国に対する無償の奉仕要求をする愛国心教育は児童・生徒の批判精神を介在させない、国の側から言うと、批判精神を障害物とする無条件・無考えの受容が必要となる。

 考える力、思考能力、批判精神を養わない教育とはどのような教育なのだろう。

 このことを取り上げただけでも、安倍晋三が首相になり、安倍晋三流の愛国心を植え付けようとして、その代償として批判精神の涵養を遮断したりしたら、日本の教育そのものが危なくなる。

 安倍晋三の戦前の日本国家をモデルとした日本国家絶対主義は彼の戦前の天皇制をモデルとした天皇絶対主義と相互対応している。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田首相の「子ども・働く人・地方を元気にして日本を元気にする」云々の美しいスローガンはもう要らない

2012-09-22 07:11:05 | Weblog



 昨日の民主党代表選で野田首相が他の3候補に圧勝した。

 野田首相

 国会議員票+公認候補予定者票――429ポイント
 地方議員票――93ポイント
 党員・サポーター票――296ポイント・・・・・計818ポイント

 赤松広隆元農相

 国会議員票+公認候補予定者票――81ポイント
 地方議員票――18ポイント
 党員・サポーター票――24ポイント・・・・・計123ポイント

 原口元経産相

 国会議員票+公認候補予定者票――62ポイント
 地方議員票――20ポイント
 党員・サポーター票――72ポイント・・・・・計154ポイント

 鹿野元農水相

 国会議員票+公認候補予定者票――86ポイント
 地方議員票――10ポイント
 党員・サポーター票――17ポイント・・・・・計113ポイント

 他3候補は足許にも及ばなかった。

 だが、野田首相が掻き集めにも掻き集めた見事な圧勝は砂上の楼閣に過ぎないだろう。このことは近づく次期衆院選に対して野田内閣支持率と衆院比例区投票先世論調査の期待値の低さを見れば証明してくれる。

 例え「近いうちに信を問う」の約束を二枚舌、三枚舌で破って衆院解散を先延ばしし、任期満了まで持ちこたえたとしても、参院の与野党逆転状況が内閣運営と法案成立の足を引っ張って、急激な支持率回復を難しくするだろうし、この支持率回復の障害が衆院任期1カ月前の参議院選挙に有利に働く要因を見い出すのは困難で、参院選敗北、次の衆院選も敗北、野党転落は予想される状況にある。

 また、野田首相の民主党代表選票の大量獲得が砂上の楼閣に過ぎないのは党員・サポーターの投票率が過去最低だったというところにも現れている。《民主代表選、党員・サポーター投票率は過去最低》YOMIURI ONLINE/2012年9月22日00時42分)

 党員・サポーター投票率

 2002年9月――51・3%
 2010年9月――66・9%
 2012年9月――33・7%

 2010年9月と比較して、約半分に減っている。これは離党議員数から言って、小沢氏とそのグループの離党だけが影響していることではあるまい。民主党に対する期待値の急激な低下が現民主党議員数と離党議員数との比率を超える投票率の低下となって現れているはずだ。

 野党転落が間近に迫っているとなれば、砂上の楼閣と言える圧勝であると同時に徒花(あだばな・咲いても実を結ばない花)とも形容可能な代表再選とも言える。

 野田首相は代表選投票直前の演説で、次のように発言している。

 野田首相「子どもを元気にすること。働く人を元気にすること。地方を元気にすること。これらを通じて日本を元気にする。これが民主党らしい改革です」

 野田首相は言葉の人である。尤もらしげな美しいスローガンで訴える。だが、政権交代から3年。もうスローガンを並べ立て許される時期は過ぎている。有言したことを実行し、成果を問うときが来ている。

 野田政権が誕生して1年しか経っていないと言うのは、「子どもを元気にできていないこと。働く人を元気にできていないこと。地方を元気にできていないこと、併せて日本を元気にできていないこと」の免罪符とはならない。民主党政権としての継続性を担っているはずだからだ。

 民主党政権交代3年でそれぞれが少しでも元気になっていれば、いわば元気回復過程の途上にあるなら、内閣支持率は上がっている。

 内閣支持率が日本が元気になっていないことの何よりの証明となっている。特に前菅政権と同様の軌跡を描いて、野田政権は就任以降、ほぼ下がりっ放しである。

 内閣支持率と日本の元気は正比例と見るべきである。

 確かに消費税増税は不退転の有言実行で実現を果たした。だが、その一体としての社会保障改革は不退転の有言実行を果たし得ていない。

 例え社会保障政策に於いても有言実行を果たしとしても、野田首相はその持続可能な社会保障制度改革で全てが解決するかのように言っているが、子どもと働く人を元気にして日本を元気にする何よりもの政策となる保証はどこにもない。

 いくら社会保障政策が充実し、持続可能であっても、基本は景気、雇用、給与であって、この基本線が満たされなければ、元気になりようがないからだ。

 景気と連動する国家税収が社会保障に関わるサービスにも常に関わってくる以上、社会保障政策は常に絶対的な保証を約束しはしない。

 景気対策としての家電エコポイント制度、住宅減税、エコカー制度にしても自民党の政策を受け継いだもので、民主党独自の成果ある景気対策は未だお目にかかっていない。

 財界にしても、スローガンではなく実行を求めている。《実行する政治を…財界から再選・野田首相に注文》YOMIURI ONLINE/2012年9月21日19時51分)

 9月21日の談話とコメント

 米倉経団連会長「課題山積の状況の中、決断し、実行する政治を進めてほしい」

 長谷川閑史(やすちか)経済同友会()代表幹事「社会保障制度改革や震災復興、景気回復など山積する政治課題の解決を期待する」

 二人とも具体的成果に期待している。言葉に期待しているわけではない。

 この具体的成果に対する不作為を補う意味で、野田首相は一生懸命なまでに「子どもを元気にすること。働く人を元気にすること。地方を元気にすること。これらを通じて日本を元気にする。これが民主党らしい改革です」と口でサービスしているのだろうが、あるいは尤もらしい言葉で実効性を装っているのだろうが、美しいスローガンはもう終わりにすべきだ。

 スローガンから既に脱していなければならないにも関わらず、そのことに気づかずに未だスローガンをぶち上げるのは、例え具体的成果に対する不作為を補う意味のものであっても、スローガンのぶち上げに満足しているからに他ならない。

 いわば自己満足に浸っている。

 これでは内閣支持率が上がるはずはない。退陣以外に道はないだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめに見る学校教育者であることよりも、自己の経歴を汚さないことだけを願う学校教育者たちの蔓延

2012-09-21 12:55:16 | Weblog

 ――生徒の自殺を隠蔽して、不慮の事故と偽ろうとする、学校教育者にあるまじき卑劣な責任回避――

 いじめについてブログ記事を書こうとすると、いつの似たことを書くことになる。

 9月2日夜、兵庫県川西市で高2男子生徒が自宅で首を吊って自殺した。遺書はなかったという。

 学校は先ず教師や同じクラスの生徒、自殺した生徒の親などからの聞き取り等を行なって、自殺の原因を探るべきだろう。学校という場でいじめを受けて自殺する児童・生徒が跡を絶たない状況にあるし、もしいじめが原因なら、学校教育に関係することとなって、学校は学校教育に於ける生徒管理の責任を負わなければならない。

 生徒によるいじめが原因でなくても、担任教師の不当な扱いを受けて、怒りと絶望から自殺を選ぶといったことも、学校教育に於ける生徒管理の範疇に入る。

 いわば学校は学校教育上の責任が自らにあるのかないのか、明らかにしなければならないし、そうである以上、調査の実施自体に学校は責任を負っていることになる。

 《自殺高2、あだ名「ムシ」…いじめに相当と学校》YOMIURI ONLINE/2012年9月15日14時39分)

 高2男子の自殺の翌日の9月3日、校長等が自宅を訪問。

 校長「学校生活に問題はなかった」

 学校教育に於ける生徒管理に何ら問題はなかったと言っているが、発言した事実は詳細な調査の結果でなければならない。9月2日夜に自殺して、その翌日の何時頃か分からないが、自殺生徒の家庭を訪問。詳細な調査にかける時間がどれ程あったのだろうか。

 9月3日校長等自宅訪問翌日の9月4日、葬儀が営まれた。

 両親が同級生らが書いた追悼の手紙の中にいじめ行為があったことを窺わせる記述の存在に気づいた。学校は両親の連絡を受けて、アンケートや聞き取り調査を実施。

 では、9月3日自宅訪問時の校長の「学校生活に問題はなかった」はどのような調査にも基づいた発言ではなかったことになる。根拠もなく口にした自分たちのみの事実に過ぎなかった。

 自分たちのみの事実とは、そうすることが自分たちに都合がいい事実ということであろう。調査もせずに自分たちに都合が悪いことを言うはずはない。

 さらに言うと、調査によって明らかになった自殺した生徒の事実を説明した言葉でもなかった。

 ここに学校教育者としての責任感は一片足りとも窺うことはできない。

 9月14日夜、アンケートや聞き取り調査を終え、結果を得たからだろう、両親に報告。記事は主語を「学校」としていて、校長が直接報告したのかどうかは分からない。

 高校「複数の生徒が今春以降、男子生徒をあだ名で『ムシ』と呼び、体がぶつかりそうになった時に『ばい菌がつく』と言っていた。あだ名については同級生の半数が知っていた。

 いじめに相当する。ただ、自殺と関連するかは判断できない」

 同級生の半数が「虫」というあだ名を知っていながら、「学校生活に問題はなかった」と自分たちに都合のいい事実を述べる学校教育者としての責任感は見事である。

 自殺生徒は「ムシ」と呼ばれ、「ばい菌がつく」と言われていた。いじめ側の生徒はからかい半分にバカにしていたと受け止めていたとしても、そのように表現される側の生徒が受けるべき人間としての扱いではなく、卑小な汚らしい虫という劣った存在としての扱いを受けていると感受していた場合、どれ程に傷ついていただろうか。

 常日頃から、お前は人間ではない、虫だ、劣った存在だと心理的に強迫され、そこから逃れられなくなったとしてもあり得る話である。

 実際にも自殺した生徒は夏頃から夜中に虫の幻覚に悩まされ、突然起き出して居もしない虫に怯えたりする情緒不安定に陥っていたと他の記事が伝えている。

 学校教育者なら、あだ名からも読み取るべき情報はあるはずだが、何ら調査もせずに自分たちに都合のいい情報を並べ立てる責任感、責任回避意識からして、期待できない学校教育者の資質ということになる。

 校長の責任回避の態度は以上のことだけではなかった。《兵庫 いじめ通報も事情聞かず》NHK NEWS WEB/2012年9月16日 19時49分)

 自殺3か月前の今年6月、同級生の1人が、男子生徒が机を教室の隅に勝手に移動させられるなどのいじめを受けていると学校に情報を寄せた。だが、高校は加害生徒からのみ事情を聞き、被害生徒から事情を聞かなかった。

 高校「男子生徒本人からの申し出ではなかったので、心理的に追い詰めないようにという配慮から聞き取りをしなかった。机を移動させた生徒たちについては指導を行った」

 先ず第一にいじめ情報提供がありながら、自宅訪問の校長が「学校生活に問題はなかった」と言うことができた責任感である。

 尤も、担任から何ら報告がなかったとすることができるが、それでも担任から何ら聞き取り調査しなかった校長の学校教育者としての責任不履行は残る。

 この責任不履行は自分の都合のいい事実のみを情報とする責任感からして、責任回避に立った責任不履行と言うことができるはずだ。

 「男子生徒本人からの申し出ではなかったので、心理的に追い詰めないようにという配慮から聞き取りをしなかった」・・・・・

 この教育的配慮は素晴らしい。さすが学校教育者だけのことはある。いじめを誰にも相談できずに悩みを一人で抱えるといった事例はこれまでも相当数あったし、誰にも相談できずに、逆に自分から自分を「心理的に追い詰め」、自殺に追い込まれた生徒も存在するし、学校教育者なら、そういった事例を学習していなければならない。

 当然、悩みを自分一人で抱えるタイプの生徒に対しては「本人からの申し出」は期待不可能と見做して、学校の方からそれとなく聞き取る教育上の「配慮」こそが必要だったはずだ。

 そのような「配慮」が「心理的に追い詰め」ることになるとしたら、校長や教師の学校教育者としての存在意義はどこにあるのだろうか。

 加害生徒からのみの聞き取りとなり、被害生徒を聞き取りから排除することになったのは、そもそもからして調査の正確さを期すという態度、あるいは提供される情報を一方向のものではなく、双方向のものとして正確さを期すという態度がなかったからこそ可能とすることができた自己都合の「配慮」であって、このような「配慮」には、いじめではないとしたい心理が働いていたはずだ。

 このことは加害生徒がいじめではなく、単なる悪ふざけだと申告して罪逃れを謀る場合もあるし、あるいはいじめだと認めても、往々にして加害者というものは限りなく罪を軽くすべく過少申告する傾向にあることも無視している加害生徒のみの聞き取りとなっていることも証明してあまりある心理であろう。

 要するにいじめの問題が浮上することを恐れていた、あるいは「学校生活に問題はなかった」ことにしたい平穏無事を祈る思いに駆られていたからこその片一方だけの聞き取りであった。

 その延長にあった9月3日自宅訪問時の校長の「学校生活に問題はなかった」であった。

 校長の平穏無事だけを願う姿勢は次の記事からも証明できる。《校長“自殺は不慮の事故に”と打診》NHK NEWS WEB/2012年9月17日 13時10分)

 この記事には自殺した生徒が同級生に死んだ虫を食べるよう迫られたりしていたことも調査によって明らかになったと書いてある。

 あくまでも虫としての扱い、劣った存在としての扱いを受けていた。

 高2男子生徒が自殺した9月2日の翌日の9月3日。校長が男子生徒の両親に電話を入れた。

 校長「第2、第3の自殺者が出ないように学年集会で説明する際には、自殺ではなく不慮の事故だったことにできないか」

 両親への取材で判明した事実だという。

 両親は拒否。結果、〈高校の緊急の学年集会では「みずから命を絶った」という表現で男子生徒の自殺が伝えられた〉――

 学校の釈明。

 学校「ほかの生徒への心理的な影響に配慮したためだった」

 両親「今後同じことが繰り返されないよう、事実は事実として自殺だときちんと公表してほしいとの思いから打診を断った」

 一人の生徒の自殺というショッキングな事件と生徒それぞれが真正面から向き合い、人間や人間関係について何かを学ぶことができたなら、その事実を明らかにすることは人間が成長していく上で必要な教育上の配慮となる。

 あるいは自殺に至らしめた真相を追及することから何かを学ぶことができたなら、他者理解等の社会に生きる参考ともなるはずである。

 だが、自殺を不慮の事故と偽る事実隠蔽に人間が成長していく上で必要などのような教育上の配慮があると言うのだろうか。

 事実隠蔽を「第2、第3の自殺者が出ないように」するためだと口実を設けているが、一人の生徒の自殺という事実を真正に踏まえた上で学校教育者が自らが持つ人間教育に関わる能力のすべてを使って配慮すべき自殺防止であって、自殺を不慮の死と事実歪曲してまで、いわばウソまでついて行っていい自殺防止教育ではないはずである。

 ウソの事実と向き合わせて、生徒たちが逞しく人間的に成長していくとでも考えているのだろうか。

 平穏無事にその場を遣り過ごそうとする事勿れな姿が目につくばかりで、どこを探しても、学校教育者としての姿を窺うことができない。

 学校教育者とは名ばかりで、実質的に学校教育者ではない学校教育者が学校教育を行なっている。

 要するに学年集会で自殺だと告げた場合、自殺3か月前の今年6月、同級生の1人からいじめられているという情報提供が高校側にあり、被害生徒からは事情を聞かず、加害生徒からのみ事情を聞き、約半年後の9月2日、高2男子生徒が自殺という経緯を踏んでいる状況にある以上、当然、自殺といじめを結びつける噂が出てくることは完全には否定できないことになる。

 いじめと自殺が結びつけられた場合の不都合は、それが事実と証明されたとき、校長以下の教師たちのいじめだけでは済まない責任を学校教育者として負わなければならないということであろう。

 予想されるこのような責任履行を回避するためには生徒たちに死因の隠蔽が必要となった。隠蔽することによっていじめと自殺の関連性を何としても断ち切らなければならなかった。

 このような企みが成功した場合の最大メリットは、責任回避と相互対応して保証される、学校の名声を傷つけないことをも含めて、学校教育責任者としての校長の経歴を傷つけずに遣り過すことができることに尽きる。

 自殺の隠蔽、いじめの隠蔽、あるいは自殺といじめの関連性の曖昧化、否定、責任回避はすべて校長が学校の評判も相互関連する自らの経歴を傷つけたくない事勿れ主義、平穏無事を願う姿勢から発している教育上の配慮だということである。

 こういった事実隠蔽体質、責任回避体質は多くの学校に見ることができる蔓延した現象であって、この高校だけが特別ではないことは誰の目にも明らかである。

 自らの経歴を汚したくないばっかりに事実隠蔽と責任回避に走る学校教育者が学校の多くを支配し、児童・生徒の学校教育に携わっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする