拉致「国民大集会」は自民党拉致外交無策をカムフラージュする壮大なムダ遣いとならないか

2008-05-31 08:36:57 | Weblog

 「金正日が独裁者の地位にいる限り拉致解決なし」のスローガンを解決策とせよ

 来月6月8日の福島での国と県共催の「北朝鮮に拉致された日本人を必ず救出する国民大集会INふくしま」は順次全国各地で開催していくという。
 
 開催に先立って「拉致被害者家族会」の飯塚繁雄代表と救う会全国協議会の佐藤勝巳会長、救う会ふくしまの菅野重信代表及び内閣府の担当者2人が福島県庁を訪れて支援を訴えたと5月22日「河北新報」(≪来月、福島で救う会 地方で初、国が共催≫が伝えている。

 「国民大集会」開催趣旨はNHKニュースは「北朝鮮による拉致問題の解決に向けた進展が見られないなか、世論をいっそう喚起するため」と言っていた。

  「解決に向けた進展」は外交活動がカギを握っているのであって、今までの世論が役に立っていなかったのと同様に、改めてちっとやそっと世論を喚起したからといって情報操作国北朝鮮に届くわけのものであるまい。ましてや北朝鮮の将軍様金正日の耳をピクリとも刺激することもないだろうし、犬の遠吠えほどの効果もないと思うのだが、「大集会」と銘打っているところをみると、期待度を高く置いているようである。

 但し「集会」を「大集会」とするためにはそれだけカネがかかると確実に言える。

 具体的にどういう言葉で支援を訴えたのか、5月22日の「読売新聞」インターネット記事によると――、

 飯塚代表「拉致に対する関心が低くなっていく懸念がある。何が何でも取り返すという地方の人たちの多くの声を、今後の外交でのカードとして伝えたい」≪「拉致救出大集会成功を」家族会代表ら県庁訪問≫

 応対した佐藤県知事「県民に声をかけて、心は一つだといえる大会にできるよう努力したい」

 同じ日付けの上記「河北新報」インターネット記事は飯塚代表らの声として「運動が長引く中で、国と地方、住民らが一体であることを北朝鮮に訴えたい」

 「毎日jp」記事(≪北朝鮮・拉致問題:日本はあきらめない 家族会代表ら、知事を表敬訪問 /福島≫2008年5月22日 地方版)は――、

 飯塚代表「拉致問題を風化させてはいけない。地方と中央が連携し、日本はあきらめないという意気込みを北朝鮮に伝えたい」

 要するに日本国民は政府共々一体となって拉致解決に向けて決して諦めていないという姿勢をアピールする目的の「国民大集会」だということだろう。だが、それがどのような「今後の外交でのカード」となると言うのだろう。

 そういったことばかりか、そういうふうに支援を訴えなければならないところに逆に解決が長引き、国民の関心が薄れ風化しつつある現実を如実に物語ることになる。

 実際問題としても交渉が何ら進展せずに膠着状態のまま長い日数が経過している。国民の関心が他に向いているのは事実で、そのような中での運動なのだから、「大集会」とならなかった場合、却って「風化」を直接的に炙り出すこととなって単に計画倒れだったで片付けるわけにはいかなくなるに違いない。

 その逆をいって「風化」を払拭するためには「大集会」と銘打ったとおりの規模を実現させて看板に偽りありを避けなければならない。当然のこと、カネだけでなく、出席の頭数もそれ相応に揃えるために動員も避けて通れないということになるのではないだろうか。集会がただの集会ではなく、「大集会」と言うことなのだから、動員もただの動員では済まなくなり、「大動員」ということになったなら、またそれなりにカネもかかることになる。教育タウンミーティングと同様の結末に至らないだろうか。

 日本政府が拉致問題解決に向けて北朝鮮当局に常に現在進行形で丁々発止の交渉を行っていたなら、マスコミも取り上げ国民もそれら報道をそれなりに注視することだろうから、そのことが風化防止の最善策なのだが、そのような最善策を政府が示せずに無策でいることが招いた「風化」であろう。そういった無策の裏返しとして演出した余儀ない窮余の策、あるいは想像力貧しくも策としてそれしか考えつかない「国民大集会」なる仕掛けのように思えて仕方がない。

 いわば拉致解決は日本政府の外交上の交渉術にかかっているのである。いつまで経っても実効性ある交渉が期待できない状況にあるから、拉致被害者の家族会はアメリカの対北朝鮮圧力を期待してアメリカを訪問し、ブッシュ大統領に協力をお願いしたものの、アメリカと北朝鮮との核交渉のトバッチリを受けてその後の経過は思わしくなく思いついた次の一手が「国民大集会」ということであり、言ってみれば日本政府自身にしても自らの外交上の無為・無策の代償行為でしかない。

 日本政府の無為・無策が招いた拉致問題解決の膠着化であり、「風化」でありながら、そのような無為・無策の国に家族会は「国と県共催」の形式で性懲りもなく頼る。「国民大集会」がいくら盛り上がっても、それが新たな外交上の切り札になるというなら問題はないが、国内現象にとどまる可能性が高く、北朝鮮との交渉に於ける日本政府の無為・無策に変化はないこととなり、結果的に全国各地で開催される「北朝鮮に拉致された日本人を必ず救出する国民大集会」は「これだけ盛り上がった、参加者が何人集まった」と誇り、それをマスコミが一時的に報道するだけの単なる形式的な手柄で終わる確率は高く、拉致解決に何ら影響しないとなれば国と県がかけた予算は空費・ムダ遣いで幕を降ろすことになる。

 そうなった場合、新たな一手でありながら、日本政府の無策をカモフラージュする無策に無策を重ねる活動でしかなかったことになり、一方被害者家族会にとっては家族会の活動のための活動という儀式の類だった性格を帯びることになる。

 そもそも2002年9月の小泉訪朝による拉致問題交渉と金正日の謝罪、「8人死亡5人生存」、そして生存者5人の帰国からして、戦争補償と経済援助欲しさに北朝鮮側から仕掛けた外交交渉であって、日本側の拉致解決に向けた外交政策が功を奏したものではない。しかも小泉は相手が提供した「8人死亡5人生存」の事実と「5人帰国」で金正日と手を打ち、国交正常化交渉に入るつもりでいた。提供された事実で終わるのではなく、その当座小泉に拉致の真相と「8人死亡」の真相を追究する意志が少しでもあったなら、金正日から大量のマツタケを土産に頂いてくることなどできもしなかったろう。マツタケを金正日からの贈り物として受入れたこと自体が会談そのものが提供された事実で終わらせる手打ち式だったことを証拠立てている。

 真相究明に思いを馳せ、尚且つ北朝鮮国民の多くが飢餓に苦しみ、餓死者を出している実情を考えたなら、素直にマツタケなど受け取れなかったはずである。だからと言って「飢餓に苦しむ国民に与えてください」とは相手に対して失礼になるから言えないというなら、13人は日本国民である。北朝鮮側の説明は「特殊機関の一部の個別的英雄主義者たちの犯行」としていたが、彼らがどのような必要性を理由として如何なる方法で北朝鮮に拉致され、北朝鮮でどのような生活を送らされていたのか、一般の北朝鮮人との生活なら拉致が口から口へと伝わる恐れから監視下の生活を余儀なくされたことは想像に難くなく、「拉致被害者家族だけではなく、日本国民に拉致の真相を伝えなければならない責任を総理大臣として担っております。その真相究明が果たすことができ、すべての情報を被害者家族と国民に知らすことができて総理大臣としての責任を果たしたとき、お土産は素直に頂くことができるでしょう。勿論全面解決の暁には貴国の経済復興支援のために日本は最大限の援助を惜しみません」と言って、体よく断るべきだったろう。

 ところが「8人死亡・5人生存」の相手が与えた事実を国交正常化交渉の手打ちと思い定めていたから、マツタケはそのお印として何の考えもなく素直に受け取ることができた。

 だが、日本国民は外国人による日本人に対する拉致という暴力行為の残虐さに怒り、「8人死亡」の事実に納得せず疑い、その線で世論が沸騰して日本政府をして「拉致解決なくして国交正常化なし」の原則を担えわせることとなった。

 ところが拉致問題は拉致被害者とその家族の帰国のみの限定的な成果にとどまったまま解決に向かうどころか、小泉も安倍も誠実などクスリにもしていない金正日相手に「ピョンヤン宣言の誠実な履行を求める」と「圧力と対話」のバカの二つ覚えを念仏のように唱えるだけで埋め合わせてきた。

 日本人拉致に限らず、韓国人拉致、その他の国の人間の拉致は北朝鮮では将軍様に祭り上げられている金正日が首謀者なのである。辛光洙なる日本生まれの北朝鮮系人物が韓国でスパイ活動で逮捕された際、拉致した日本人になりすまして韓国に潜入したことを自白、国家保安法により死刑判決を受けたが、後に無期懲役に減刑、当時の金大中韓国大統領の太陽政策による恩赦を受けて北朝鮮への帰国を果たし、「非転向長期囚」の功績によって国旗勲章一級授与の英雄に祭り上げられたのは誰が首謀者か自白しなかった意志行為の優れた見本とし、そのことに最高の褒章を与えて他の者が後に続くことを狙った口止めの意味合いも持たせてもいた特別待遇であろう。

 首謀者である金正日が独裁者として生存している間は自らの悪事を隠すために拉致の全面解決は望めないと観念しなければならない。金正日が国内的な力によってか、外国の力によって独裁者の地位から転落した場合、真相解明と解決への道は開かれる可能性が生じる。

 しかし、その望みが果たせず、金正日が父親の金日成から受け継いだ独裁権力を金正日自身を経て自分の子供の一人に継承させる金王朝の継続を選択した場合、独裁権力を継承した子供は自己の権力継承の正統性を証明するためにも父親である金正日の拉致という悪事を暴露するわけにもいかず闇に葬り続ける努力を続けるだろうから、やはり拉致の真相解明と解決は困難となる。

 金正日にしても将軍様として崇拝を受けている自らの偶像を破壊するわけにはいかず、拉致悪事を隠し続けるための最善の方策として権力の父子継承に執着するだろう。

 となれば拉致家族会がなすべきことは、拉致問題の風化防止と世論喚起のために全国各地で「北朝鮮に拉致された日本人を必ず救出する国民大集会」といった対北朝鮮拉致交渉に外交上の有効な切り札となるとは思えない活動を行うことではなく、「拉致解決なくして国交正常化なし」のスローガンを「金正日が独裁者の地位にいる限り拉致解決なし」のスローガンに変えて金正日を独裁政権の座から引きおろす運動を起こし金正日自身にプレッシャーをかけるか、金正日独裁権力の父子継承にストップをかけて、次世代に解決の希望を託すかすることではないだろうか。

 後者に期待をかけるためにはアメリカや中国にも権力の父子継承の反対を働きかけなければならない。

 偶然が僥倖を与えてくれる以外、小泉純一郎や安倍晋三といった単細胞政治家に頼っていては何ら成果を見ることはないだろう。

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シャロン・ストーン「四川地震はチベット人抑圧の報い」発言

2008-05-29 18:00:10 | Weblog

 シャロン・ストーンは大のお気に入りの女優の一人である。そもそもはマイケル・ダグラスの大ファンで、マイケル・ダグラス主演のキャスティングに惹かれてテレビ放送の「氷の微笑」を観、録画にも撮ったのだが、殺人容疑者として出演した謎めい女流推理小説作家の見事な演技と、刑事役のマイケル・ダグラスとの激しい恋愛模様が気に入って何度となく繰返しビデオを鑑賞することとなっている。

 それがグーグルの新聞記事検索で彼女の発言が問題になっていることに気づいた。

 ≪大地震は「業の報い」 シャロン・ストーン発言に中国反発≫(CNN/2008.05.28 Web posted at: 15:56 JST Updated - AP)

 <ロサンゼルス(AP) 中国のチベット政策に批判的な女優のシャロン・ストーンさん(50)が、四川大地震は「業の報い」だと発言し、中国で出演作ボイコットの動きが出るなど反発が強まっている。

(四川大地震は「業の報い」だと発言して物議をかもしている女優のシャロン・ストーンさん)

 ストーンさんは22日、カンヌ映画祭の会場で香港のテレビ局のインタビューに応え「中国人のチベット人に対する処遇に不満を持っている。今回の地震はその報いではないかと思う。人に対して悪いことをすればそれは自分に跳ね返ってくる」とコメントした。

 さらに、国際NGOのチベット・ファウンデーションから被災者の救済支援を訴える手紙を受け取って涙を流したと言い、「自分たちにひどい仕打ちをした相手さえも助けようとする姿勢に心を打たれた」と発言。この映像は動画共有サイトのユーチューブにも流れた。

 米芸能紙ハリウッド・リポーターによると、中国の映画配給最大手UMEシネプレックスの創業者、ウン・シー・ユアン氏はこの発言について「不適切だ」と不快感を表明。系列の映画館では今後、ストーンさんが出演する映画は上映しないと宣言した。

 インターネットでも反発の声が高まっており、ストーンさんのコメントを批判する専用サイトまで開設された。>・・・・・・・

 今まで年齢を考えたことがなかったから、シャロン・ストーンが50歳だとは驚いた。「氷の微笑」出演から何年も経っているのだろう。しかし記事の写真を見ると、少々太り気味となっているが、生き生きした顔の表情にさして変化はない。

 「悪の報い」なる観念はキリスト教徒でなくても、仏教徒だろうとイスラム教徒だろうと殆どの人間に取り付いている、それゆえに誰もが囚われかねない想念に違いない。

 だが、四川省大地震とその甚大な被害が自国民・他国民に関係なく人権抑圧を行う胡錦涛及び温家宝以下の中国共産党のみを困らせ、見舞うこととなる困難なら、「悪の報い」だと言えるが、死者が6万人を超え、行方不明者は2万人弱、倒壊家屋は死者が4万人を超えたと発表された時点で約536万戸、損壊家屋は約2143万戸に上ると中国当局の情報として「asahi.com」が伝え、その後の余震で倒壊が続いているし、ダム化している河川の堰き止め湖が雨で増水して決壊した場合、さらに被害が増えかねない一般中国人の犠牲と困窮を巻き込んだ困難である。「悪の報い」と言ったなら、中国政府を超えて一般中国人まで悪者にすることになる。

 一番の悪者は人権抑圧を続ける代々の中国共産党政府と共産党政府に追従・追随して人権抑圧に加担している学者や知識人、文化人、ジャーナリストといった同じ穴のムジナたちである。災害復旧に躓いて胡錦涛や温家宝が失脚することはあっても、他のムジナたちはさして痛くも痒くもない四川被害ではないだろうか。

 いつの時代も最大・最悪の困難を蒙るのはその地域、その国の社会的弱者と相場は決まっている。ガソリンがほんの少し値上がっても、米の値段がわずかだけ値上がっても小麦粉が値上がっても、一番のシワ寄せは社会的弱者に向かう。割に合わな話だが、このような社会の現実を考えなければならない。

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ミャンマー問題/人的支援受入れの成果に飛びついた(?)潘基文

2008-05-27 09:10:13 | Weblog

 25日(08年5月)の日曜日のブログで紹介したことだが、サイクロン被災民救済のための人的支援受入れ拡大要請のためにミャンマーを訪問していた潘基文国連事務総長と自宅軟禁中のミャンマー民主化運動家のスー・チー女史との面会がセットされなかったことについて土曜日24日の『朝日』朝刊≪時時刻刻 当然の対応ようやく≫が部分記事《軍政、復興資金へ思惑》は、政治こそが問題の国で、被災者を人質に取られた国際社会の代表は、政治を語れない状況におかれている。>と会談が実現しなかったことに歯がみする思いを吐露していたが、昨月曜日5月26日の朝刊(≪スー・チー氏解放求めず ミャンマーに 国連・潘基文議長「今回は目的が違う」≫)では潘議長がバンコクでの記者会見で自らの口から「今回は人道援助が目的で」あって、政治「問題について話す機会はきっとくる」と会談を別機会に譲ったことを明らかにしたと伝えている。
 (左写真/CNN記事から
 「寄付された食料の配給を受けるヤンゴンの子どもたち」)


 但し記事は軍政側からの<「議題を人道援助に限定し政治問題を絡めない」との条件をのまざるを得なかったとみられる。>と、相手の要求に応じて「人道援助」という成果を優先させ「政治問題」は切捨てたのではないかと推測している。
 
 切り捨てたと言って悪ければ、無視したと言うべきか。決して後回しにしたとは言えないだろう。後回しとは順序を変えるだけで、片付ける点は同じなのだから、そのことと違ってスー・チー女史の自宅軟禁からの解放は片付かない問題として続き、同『朝日』記事も言ってることだが、今後とも片付く見通しは立っていないのだから、「その問題について話す機会はきっとくる」としても、「話す」機会だけで終わる確率は高いと言わざるを得ない。このことは「話す」こと(=会談すること)自体が目的となる自己目的化の変質の可能性を示すことにもなる。

 勿論今回の機会を把えて「政治問題」に取り組んだとしても、話すだけで終わる自己目的化を成果としない保証はない。だからこそ、自己目的化を避けるためにも如何なる機会も逃さずに<「政治問題を絡め」>る方策を講じるべきではなかったろうか。

 だとしても、人道援助優先は一見妥当な選択のように見える。何しろ5月16日時点で軍政府が発表した被害人数は死者は8万人に迫り、行方不明者は6万人に迫っているのである。国連推計では死者、行方不明者とも10万人を超えるのではないかとしている。

 このように被害者数を早急にははっきりと確定できないということは被災民は被害を受けたままの状態で、あるいはほぼそれに近い状態で放置され、困窮の真っ只中にあることを示している。そのような状況下にあるサイクロン被災国民を救うことを優先させ、「政治問題」には口にチャックを閉めたとしても間違った選択ではないと受け取られるに違いない。

 多分「議題を人道援助に限定し政治問題を絡めない」との交換条件を獲ち取るために軍政はまずテイン・セイン首相に「被災者支援の局面は終わり、既に再建段階に入った」と、誰もがそんなはずはないと分かっていることだから、滅茶苦茶なことを言わせて人的支援受入れ困難と一旦は思わせ、是が非でも受入れさせたい事務総長側の要求のハードルを下げさせたと疑うこともできる。

 だが、<「議題を人道援助に限定し政治問題を絡めない」との条件>を突きつけられたとしたなら、「すべての政治勢力が力を合わせて対処しなければならない規模の大災害であり大被害ある。サイクロン接近も民主主義制度の重要な根幹を成す「情報公開」制度を有せず、それが機能しなかったことも原因とした被害拡大だったと考えると、このことを教訓に野党勢力と和解し、すべての政治勢力が一致協力して救済と復興に当たると共に民主化にも向けて大きく舵を切るときではないか。ミャンマーの民主化ということになれば、スー・チー女史も当然ながら参加の資格を有すると主張すべきではなかったろうか。

 多分、そういった主張は一応は試みたに違いない。しかし結果として「政治問題」に関しては相手の要求に従った。

 もし事務総長側が<「議題を人道援助に限定し政治問題を絡めない」>を拒否した、それでは軍政側としては人的支援は受け入れることができないと言うことなら、その条件とそれが引き出すこととなる結果を国際社会に公表しなければ子供の使となって私の立場を失う。人的支援受け入れ拒否は多くの被災国民を政府が見殺しにすることに等しく、公表した場合、国際社会の批判を浴びることになり、国際的立場だけではなく、いずれは見殺しにされたことを多くの国民が知ることとなって、国内的にも立場を悪くすることになるのではないのか。そのことばかりか人的支援の受入れ拒否は国際社会からの復興のための財政支援を難しくすることでもあり、国家運営にも支障を来たすことになるだろうと反論したなら、果して軍政側はどういう態度に出ただろか。試しにでも言ったのだろうか。

 人道支援受け入れを認めさせるためにたいした意見主張も反論もせずに「政治問題を絡めない」ことを逆に簡単に受入れたとしたら、潘基文は国連事務総長としての成果を人道支援受入れを手柄とすることに置いた取引だったと疑われても仕方がないし、その疑いが限りなく濃厚だと言わざるを得ない。

 いずれにしても人道的支援を行うことができたとしても、民主主義を伴わない人道支援は、それがどのような形式を取ろうとも被災民にパンのみを保証するものとなるだろう。民主主義と自由を保証しない政治が国民に意味するものは過酷な鎖でしかない。人間精神を抑圧状況下に追いやってパンのみにて生きる国民を多くつくり出す試みに過ぎない。

 となれば、スー・チー女史釈放はミャンマー民主化の試金石となるのだから、人道的支援受入れと「政治問題」と二兎を追う騙し合いの賭けに出るべきではなかったろうか。一兎も得ずで被災民が現状以上の困窮に追いやられる危険性を覚悟でミャンマー軍事政権をも現在以上に国際的にも財政的にも孤立化させる、彼らにとっての危険性を同時に覚悟させる賭けである。

 どちらが自らの覚悟に耐え得るかが勝負の分かれ目となる。 


 ≪スー・チー氏解放求めず ミャンマーに 国連・潘基文議長「今回は目的が違う」≫(『朝日』朝刊/08.5.26)

 【バンコク=柴田直治】国連事務総長として44年ぶりにミャンマー(ビルマ)を訪れた潘基文氏は、サイクロン被害の救援関係者受け入れ拡大を軍事政権に承諾させたことを成果に25日、日程を終えた。だが、自宅軟禁が続くかどうかの瀬戸際にいる民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんに、手を差し伸べることはできなかった。

 軍政のタン・シュエ国家平和発展評議会議長と23日、トップ会談した潘氏は、スー・チーさんら政治犯の解放を求めたのか。24日、バンコクの記者会見で質問が飛ぶと、潘氏は「今回は人道援助が目的だった」と答え、会談で触れなかったことを確認。「その問題について話す機会はきっとくる」と釈明した。

 しかし、スー・チーさんの軟禁問題は今がまさに正念場だ。軍政は昨年5月5日、軟禁の1年延長を宣言しており、本来なら25日には解放するか、軟禁を続けるか何らかの根拠を示さなければならないはずだ。だが、軍政は態度をはっきりさせていない。

 スー・チーさんが03年5月30日、同国北部を遊説中に拘束されてから、間もなく5年。国家防御法裁判抜きの拘束を5年までとしている。同法の適用が決まった段階から数えると、期限は半年ほど延びるが、国民から絶大な支持のあるスー・チーさんを解放することは考えにくく、法の運用を変えたり無視したりする可能性がある。

 潘氏はこれまで特使を3度派遣、タン・シュエ議長に書簡を送り、スー・チーさんらの解放や民主化プロセスへの参加を呼びかけてきたが、今回の訪問に当たっては「議題を人道援助に限定し政治問題を絡めない」との条件をのまざるを得なかったとみられる

 スー・チーさんにとって重要な時期に議長に会いながら、問題を持ち出すことことさえできなかったことに、失望する民主化運動関係者は多い。

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今がミャンマーを軍事攻撃する最大のチャンス

2008-05-25 07:05:12 | Weblog

 国連事務総長の潘基文(パン・ギムン)氏が5月22日、サイクロン被災への国際社会からの人道支援を拒否しているミャンマーの最大都市ヤンゴンを訪れ、軍事政権のテイン・セイン首相と会談して人的支援の受け入れを求めた。
 
(asahi.com記事から/首都ネピドーで23日、会談したミャンマー軍事政権トップのタン・シュエ国家平和発展評議会議長(右)と潘基文国連事務総長=ロイター)

 会談に1時間半もかけてどういう結末を得たかというと、5月22日の「asahi.com」記事≪ミャンマー軍政、支援受け入れ拒否 国連事務総長と会談≫は次のように伝えている。

 潘氏「一国の対応能力を超えており、物資が迅速に到達していないことにいらだっている。必要なのは支援要員で、受け入れに柔軟になるべきだ」

 テイン・セイン首相「被災者支援の局面は終わり、すでに再建段階に入った」

 1時間半もかけた割にはあっさりとしたつれない結末となっている。

 次の日の5月23日に潘基文国連事務総長は軍事政権トップのタン・シュエ国家平和発展評議会議長と初会談。これ程名と実体とが相応じていない人物も珍しいに違いない。軍事独裁者が「国家平和発展評議会議長」を名乗っているのである。ノーベル平和賞を受賞してもおかしくない名と実体との隔離と言える。

 2時間以上続いたという会談の経緯を昨土曜日5月24日の『朝日』朝刊記事≪ミャンマー軍政、人的援助受け入れ合意 国連総長と会談≫は次のように伝えている。

 <前日に自ら被災地を視察して被災状況を確認した潘氏は、国際社会による被災者支援の専門家や医師ら人的援助の必要性を訴えた。要員の受け入れはあくまで人道支援が目的で、政治的背景はないことを説得したとみられる。

 これに対し、タン・シュエ議長は「純粋に人道支援が目的で、それ以外の行動をしないことが明確ならば、受け入れない理由は見つからない」と述べ、人的援助の受け入れを認めた。議長は終始無表情で潘氏の話を聞いていたという。>・・・・・

 但し、<円滑な被災者支援への始動に「大きな進展」との認識を示す一方で、具体的な人的支援の受け入れについては「細目は決まっていない」と述べた>そうで、<24日夜のミャンマー国営放送は合意について全く伝えておらず、潘氏は「合意の履行が最も重要だ。世界中がミャンマーを見ている」と念を押した。>という。

 記事は被災状況と軍政の対応を次のように伝えている。<ミャンマー南西部エヤワディ管区のデルタ地帯を中心に大きな被害を出し>ており、<国連の推計では被災から3週間たった今も最大250万人が避難生活を送っており、必要とされている食料や水、テントなどの緊急物資の2割も被災者には届いていない。軍政は各国からの物的支援は受け入れてきたが、人的援助は友好国の中国、インド、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国などの数カ国に限定し、各30人までしか受け入れを許してこなかった。 >・・・・・・・

 そして『朝日』は「人的援助受諾」の理由を外交関係者の推測を交えて3点、同日付関連記事≪時時刻刻 当然の対応ようやく≫の中で《軍政、復興資金へ思惑》の副題で内幕風に挙げている。

 1点は、一旦はテイン・セイン首相に人的支援受入れを断らせて期待値を下げておいて、譲歩の大きさと驚きを演出しようとした。

 2点目は、王都と名づけた新首都(ネピドー)に国連の顔を呼びつけて、この国の権力の所在がどこにあるか国際社会に示したかった。

 3点目は、ヤンゴンでの欧米も参加する支援国会議25日開催のタイミングに合わせて復興に必要とされるミャンマーの国内総生産額131億ドル(06年)に迫る100億ドル(約1兆円)を引き出す関係上、譲歩のカードを切った。

 多分次の1点も付け加えるべきではないだろうか。たった一日経過した次の日の受諾である。すべての最終的決定権はテイン・セイン首相ではなく、タン・シュエ議長自身にあることを誇示し、自身の存在感を高める目的の勿体付けに一旦受入れ拒否した。独裁者というのは内実はケチ臭くできているから、金正日ならずともやることなのである。 

 「時時刻刻」は最後に次のように伝えている。

 <これまで再三にわたってスー・チーさんの解放を求めてきた潘氏にとっては重要な節目のはずだが。軍政は今回の訪問中にスー・チーさんとの面会予定は入れさせなかったとみられる。
 政治こそが問題の国で、被災者を人質に取られた国際社会の代表は、政治を語れない状況におかれている。>――――
 
 国際社会からの被災者支援の専門家や医者といった人的支援もサイクロン被害復興支援金も被災者救済の「国民保護」に役立ちはするだろうが、それ以上に軍政維持救済の役に立つ背中合わせの貢献となり得ることは間違いない事実となるだろう。国際社会は平和を意図しながら、国民に物質的にはどうにか食いつないでいく安心を与えはするものの、人間らしく生き、活動する平和を保証できないままで終わる矛盾を残すに違いない。

 そして軍政は5月23日に潘基文国連事務総長と被災者救済を議題とした会談をしておきながら、その舌の根も乾かない翌日の5月24日、サイクロン襲来で被災地以外は5月10日投票の予定通りに実施していた新憲法案の是非を問う国民投票を、優先すべき被災者救援を他処に被災地でも行う「国民保護」とは矛盾する行為を平気で行っている。

 サイクロンの手痛い被害にも関わらず、被災民も軍政を支持している、軍政は信頼され、信任を受けた、軍政の災害対応は間違っていないと、それを投票賛成の形で示し、既成事実としたかったのだろう。

 これらの権力維持を絶対優先とし「国民保護」を後回しとする矛盾行為を早急且つ全面的に解決するには軍事攻撃以外の方法はないのではないだろうか。もし中国が反対するなら、ミャンマーのサイクロン被災国民は中国四川大地震の被災国民と同じ状況に置かれている。中国政府は地震による被災国民の困窮を無視できず、「国民保護」の責任を果たすべくあらゆる努力を惜しまないに違いない。ところがミャンマー軍政はハリケーン接近の情報を外国から得ていながら、国民にその危険報知と避難勧告の「国民保護」に動かなかったばかりか、被害が生じたあとも被災国民救済の「国民保護」の責任を満足に果たしてもいない。「国民保護」という点で自国民、他国民の違いがあるだろうか。自国民保護には動くが、「内政不干渉」の原則を掲げて、他国民保護はその国の問題で外国には関係ないで済ますことができるだろうか。最優先すべきは自国民、他国民の関係なしに国家権力は「国民保護」の責任を負うという一点の成否でその存続価値を問うべきではないかと説得する。

 幸い首都ネピドーはハリケーン被災中心地ヤンゴンの北320キロと離れている。その住人はタン・シュエ議長以下軍政関係者と軍政に保護され、軍政を間接的に支える彼らと同じムジナの位置にいるヤンゴンから移住させられた公務員を主体としている。軍事攻撃による人的被害は被災国民を救済・保護するための止むを得ない代償と見るべきだろう。あるいは自由を抑圧されたミャンマー国民を解放する代償だと。

 米大統領選民主党指名争いで劣勢に立たされているヒラリー・クリントンが23日、選挙戦を継続する意思表示として「私の夫(ビル・クリントン前大統領)は九二年の大統領選挙で六月半ばまで勝利が決まらなかった。ロバート・ケネディ氏はカリフォルニア州で六月に暗殺された」(≪『ケネディ長官は6月に暗殺』 クリントン氏が選挙戦継続理由≫東京新聞/2008年5月24日 夕刊)と地元紙に語ったそうだが、逆転の望みがほぼなくなった状況でワラをも掴みたい願望、あるいは妄想がつくり出した抑えがたい思いだったろうが、願望、妄想の類で抑えておくべきで、決して口が裂けても言ってはならない言葉だったはずである。

 ミャンマー軍事攻撃も抑えがたい思いではあっても口にすべき言葉ではないかもしれない。しかし広く世界にまで発言影響力がある人間が「今がミャンマーを軍事攻撃する最大のチャンスだ」と意図的に話し、上記理由を述べた場合、ミャンマー軍政に対する圧力とならないだろうか。何らかの圧力となれば、それはわずかながらにでもミャンマー「国民保護」の力へと転換されることになるに違いない。

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テストで成果を測る教育は暗記の強化に役立っても、「考える力」を育まない

2008-05-24 12:35:33 | Weblog

 昨23日(08年5月)文部科学省は教育振興基本計画原案の概要を全省庁に示した。2008~12年度間に教職員の2万5千人程度の増員、教育への公的支出を今後10年間に国内総生産(GDP)の3.5%から5.0%を上回る水準を目指すことを柱とした内容らしい。

 対して財務省は少子化に向かっている状況下での教員の増員と社会保障費削減を目指して財政再建に努めている中での教育費のみの増加は国民の理解を得られないと反撥を示していると今朝のNHKニュースが伝えていた。

 「NHKインターネット記事」では次のような解説となっている。文部科学省の「計画案に対し、財務省側は、日本はOECDの平均に比べて子どもが少なく、1人当たりの投資額でみるとそん色がないうえ、投資額と成績に関連性はないなどと反発しており、計画の閣議決定に向けた調整は難航する見通しです。」

 「投資額と成績に関連性はない」ことはない。親の財力が保証することとなる子供の教育への投資の格差と教育格差との相関関係が統計によっても証明されているのである。親が塾代を十分に支払う能力があって塾に通える子と親が塾代を支払う能力がなくて塾に通えない子とは親の支払い能力に応じた成績格差が一般的には生じるのと同様に国が教育にカネをかけるのとかけないのでは格差は生じるはずである。

 生じないとしたら、東京都杉並区立和田中学校は大手進学塾SAPIXと提携し、塾講師を招いて夜間塾(「夜スペシャル」)を開催し、できない生徒の成績の底上げではなく、できる生徒の成績(成績上位の生徒の学力)の底上げをなお図るといった塾の効力を知っていて、それを最大限に活用すべく特別授業を越えた特別教育など行いはしなかったろう。

 夜間塾開講は08年1月から開始され、5月下旬から成績上位の生徒に限定していた受講枠を希望者全員に提供することにするということだが、週3日で1万8千円、週4日で2万4千円という授業料(≪東京・杉並区立和田中学、進学塾と提携 -夜間塾問題を検証する-≫)は月に直すと、それぞれ5万4千円、9万6千円ともなり、親にそれ相応の収入がなければ手に入れ難い教育機会となるだろう。

 カネの力(経済力)に裏打ちされた教育への投資が知識の獲得を左右する構図を地でいっている「夜間塾」なのである。

 経済協力開発機構(OECD)が2000年から3年ごとに世界の57カ国・地域の15歳(日本では高校1年生)を対象に実施している学習到達度調査(PISA)でアジアの国々がトップグループを占める中、日本が調査のたびに成績順位を下げるという結果を受けて文科省は小学校6年生と中学3年生を対象に07年4月に全国学力テストを実施した。結果は平均で70%以上の一応の成績を収めた「基礎学力」と比較して読解力や知識活用といった「応用力」に関しては10%~20%劣るという学習到達度調査(PISA)と同じような傾向を示した。

 その原因を文科省も学校も親もゆとり教育による授業減に求め、文科省は「総合学習」の時間を減らして「学力向上」の名のもと教科時間数の増加を図り、全国学力テストの成績の悪かった小中学校は同じく「学力向上」を大義名分に放課後や土曜休校日を利用した補習授業に走った。テストの成績を上げないことには学校の責任、つまりは教職員の責任が果たせない、教育能力に関係してくると切羽詰ったからだろう。

 杉並区立和田中学校の「夜間塾」はその典型的な現象に過ぎない。違いは成績上位の生徒の成績の方が上げる可能性と上がる可能性が高いことから、いわば勉強のできない生徒に四苦八苦しても始まらないから、成績上位の生徒の層を厚くして、全体の成績を底上げしようとしているところにあるに違いない。そのための塾の活用、塾の学校内への取り込みなのだろう。

 だが、「学力」のモノサシが数値で表現されるテストの成績となっている以上、教科授業の強化は従来以上にテストの成績向上を目的とすることとなり、元々の日本の基本的教育形式である教師が一定の知識を伝達し、それを生徒がなぞって暗記し、暗記した知識をテストの設問に当てはめてテストの成績とする暗記教育を強化することになる。

 文科省は教科授業の強化は基礎学力をつけることが目的で、そこから出発して考える力や理解力を身につけさせ、日本の生徒に欠けているとされる「応用力」に発展させる計画らしいが、与えられた知識をそのままの形でなぞって受け止める形式の暗記教育にはいくらなぞり知識を積み重ねたとしても、「考える」というプロセスは存在しないし、「考える」プロセスを省くことによって可能となる教育形式だから、当然、その先にある「読解力」はおろか、「理解力」の獲得まで期待困難で、当然満足な「応用力」の満足な形での到達は期待不可能となる。

 全国学力テストでは基礎学力を測るテスト問題とは別に「読解力」や「理解力」を測るテスト問題を用意して「応用力」がどれ程身についているか試行したが、設問とその解答を求めるテストの形式で測ることから、設問の傾向と傾向に対する対策を講じる、いわば参考書会社が参考書の目玉としている「傾向と対策」に従った、あるいはそれを真似た授業によってテストが求める知識は暗記化が可能となる。

 当然考えられることは日本全国の学校に「応用力」を問うテストに備えた「傾向と対策」授業が蔓延することとはなっても、そのことが逆に「読解力」や「理解力」、ひいては「応用力」を育む障害となる結果を生みかねない。

 「読解力」とは文章、あるいは情報を読み、その内容を理解する過程で頭に暗記した知識(=既成の知識)を記憶に呼び覚まして、それをただ当てはめて読み解くのではなく、自分なりの解釈を加えて自分独自の情報として読み取る能力、自分独自の「理解」を施すことを言い、それを如何に活用・応用して新たな事態(他の情報解読や自己活動)に役立てるかが「応用力」と言うものであろう。

 このような知識・情報の受容と活用のプロセスには暗記のメカニズムは存在しないし、存在させてはならない。暗記教育とは言ってみれば知識授受の一律化を言い、固定観念を育てても、そこからは「応用力」=考える力は生まれない。一律化とは正反対の、解釈は生徒それぞれの考えに任す多様性の要求とその要求に応えた解釈の多様な活用によってのみ「応用力」は生まれる。

 このことと日本の教育が基本的には暗記教育であることを5月20日の朝日新聞夕刊記事≪講義をしない数学講義≫が物の見事に教えている。

 <早稲田大学教育学部(東京都新宿)に「講義をしない講義」がある。数学科の近藤庄一教授(60)の講義で、近藤さんは教壇に座ったまま説明などしない。学生たちは自分で問題を解き、質問があれば教壇に聞きに行く。本格的に始めてから4年目。自分で考える楽しさを知ってほしいという近藤さんの狙いは少しずつ芽を出しつつある。

 早大・近藤教授、質問のみに答える。「考える楽しさ知って」

 午後4時過ぎ、1年生の必修科目「代数序論」の講義が始まった。学生早く60人。この日の講義内容と問題が書いてあるプリントが配布され、学生たちは目を通してから問題を解き始めた。
 しばらくすると、質問する学生が次々と教壇へ。一時は行列もできた。近藤さんは一人ずつ対応。解き終わった学生は答案用紙を提出し90分の講義は終わった。答案は採点して次回の講義の際に返却するが、それについても説明はせず、質問があれば個別に答えることにしている。
 ある男子学生は「最初は戸惑ったが慣れた。数学は結局自分でやらないとわからないので」。一方、「通常の講義の方がいい」という女子学生も。
 文部科学省も「あまり聞いたことがない」というやり方だ。近藤さんも以前は黒板に要点を書きながら内容を説明する通常の講義をしていた。だが、次第に「学生はノートを取っているが、私の説明より少し遅れる。ただ写しているだけで大事な話を理解していないのではないか」と気になるようになった。
 きちんと理解してもらって、かつ学習意欲を引き出すためにはどうすればいいか。その結論が「講義はしない。理解しにくいところは個別に説明する」というやり方だった。
 さらに新入生たちに、それまで勉強してきた「受験数学」から脱却してもらう目的もあった。「入学したばかりの学生は、数学は教えられた解き方を覚えるものという誤ったイメージを持っている。数学で大事なのは考えることで、解き方もいろいろあることを知ってほしい」
 この講義をキッカケに、大きく成長した学生もいる。
 4年生の渡邉友以さん(21)は前期は問題がぜんぜん解けず、後期から質問を積極的に質問するようにした。「先生は聞けば教えてくれるので理解がどんどん進んだ。一番下だった成績も一番上まで上がりました」。今は大学院に進んで中学・高校の数学教師になることを目指している。「数学は暗記じゃないことを教えたい」
 4年生の山崎正嗣さん(21)は「先生に質問して、わかればわかるほどその先を知りたくなった」。卒業後は塾で中高生に数学を教える。「自分で考える楽しさを伝えられれば」と意気込んでいる。(杉本潔)>・・・・・・・

 「ただ写しているだけで大事な話を理解していないのではないか」という状況、「入学したばかりの学生は、数学は教えられた解き方を覚えるものという誤ったイメージを持っている」という状況は日本の学校教育が暗記教育を構造としていることを証明している。

 数学だけではなく「大事なのは考えることで、解き方もいろいろあることを知」ることが、知識・情報に自分なりの解釈を加えて自分独自の情報として読み取り理解する作業であり、そこから他の知識・情報の処理に向けた自分独自の「応用」が可能となる。 


 ≪教育振興計画案 調整難航か≫ (NHKインターネット記事/5月23日 23時23分 )

 文部科学省は、教育投資や、小中学校の教職員を増やす数値目標を盛り込んだ「教育振興基本計画」の案を財務省などに示しましたが、財務省側は、投資額と学力に関連性はないなどと反発しており、閣議決定に向けた調整は難航する見通しです。

 文部科学省は、今後5年間の政府の教育方針を示す「教育振興基本計画」の案をまとめ、23日、財務省をはじめ、すべての府と省に提示しました。計画案は、子どもの学力を向上させるため、今後10年間で、GDP・国内総生産に占める教育投資の割合を今の3.5%からOECD・経済協力開発機構の加盟国の平均である5%を上回るよう目指すことを盛り込んでいます。また、授業時間を増やす新しい学習指導要領を3年後から実施するため、少人数教育や英語の指導などにあてる、小中学校の教職員を今後5年間でおよそ2万5000人増やす数値目標も明記しました。この計画案に対し、財務省側は、日本はOECDの平均に比べて子どもが少なく、1人当たりの投資額でみるとそん色がないうえ、投資額と成績に関連性はないなどと反発しており、計画の閣議決定に向けた調整は難航する見通しです。

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四川大地震報道/「個人物語」はチベット人もミャンマー人も持っている

2008-05-22 10:39:58 | Weblog

 日本時間の5月12日午後3時半頃中国・四川省で発生したマグニチュードは7.5(後に8.0と修正される)の大地震報道は当然の流れとして最初は被害規模の全体像からスタートした。死者が1万人に迫るとか、倒壊建物は50万戸、生き埋め1万人。行方不明者何人といった具合に。あるいは校舎の倒壊により、多数の生徒が倒壊建物の下敷きになっているとか。

(asahi.com記事/中国四川省綿竹で21日、崩壊した小学校の前で12歳の子どもの写真を抱え、泣き崩れる母親=ロイター)

 死者は4万人に達し、行方不明者は3万人を超えているというから、死者はさらに相当数増えるに違いない。

 報道が被害規模の全体像を伝えている間は個々の生命の姿は全体像の陰に隠れて見えてこない。名前も顔もない人数でもって紹介されるだけとなっている。だが、報道が被害者の「個人物語」に移った途端にそれぞれの生命の姿が剥き出しに曝け出される。その酷さ、悲惨さ、虚しさ、脆さ等々を携えて顔と名前を持ち、生命(いのち)を備えた人間として前面に出でてくる。

 倒壊した学校校舎の前で額に入れた子供の写真を胸に抱きかかえて建物の下敷きになっているから誰か早く助け出してくれと泣き叫ぶ母親たち。お父さんもお母さんも死んじゃったと目を手でこすりながら泣きじゃくって途方に暮れる小学生低学年くらいの少女。子供も夫も家もすべて失くしてしまったと絶望感を顔全体に漂わせて泣きながら悲嘆にくれる中年女性等々、予期しない災害が見舞うこととなった過酷な運命になす術もなく無力な状態で立たされた個人個人の姿が次々と紹介されていく。

 かくかように報道の「個人物語」は死者にしても行方不明者にしても、また死者や行方不明者を出した親兄弟、姉妹、近親者にしても、顔と名前をを備えた生命(いのち)ある一人ひとりとして描き出すこととなる。

 それは生命(いのち)そのものが何ものにもまして尊い存在だからであろう。奪われたり喪うことによって尊い存在となるのではなく、奪われたり喪うことによってその尊さまで奪われたり喪うことになるから、そのことへの怒り、悲嘆、そして押しとどめることのできない無力感・絶望感にに囚われることになる。

 生命(いのち)はこの世に存在してこそ、価値ある存在となる。人間らしく自由に生き・活動する生命(いのち)を保障されてこそ、その生命(いのち)は真の価値を備える。死は生命(いのち)が自由に生き・活動することの終焉を意味する。

 学校の校舎の倒壊で子供を喪った父母が教育関係者に校舎だけが倒れたのはなぜなのかと抗議を行ったのは校舎の耐震性のなさが子供が自由に生き・活動する生命(いのち)の保障を奪い、そのことが原因となって二度と自由に生き・活動することはないことへの悲しみ・怒りからだろう。

 5月21日の読売インターネット記事≪日本救助隊の犠牲者への黙とう、中国で絶賛≫は次のように嬉しい内容を伝えている。

 <【北京=杉山祐之】四川大地震被災地での活動を終え、21日に帰国する日本の国際緊急援助隊救助チームが、中国で絶賛されている。

 生存者救出こそならなかったが、整列して犠牲者に黙とうをささげた1枚の写真が、中国人の心を激しく揺さぶったためだ

 この写真は、援助隊が17日、四川省青川県で母子の遺体を発見した時のもので、国営新華社通信が配信、全国のネットに転載された。

 「ありがとう、日本」「感動した」「かっこいいぞ」……インターネット掲示板に賛辞があふれた。犠牲者数万人、遺体は直ちに埋葬という絶望的状況に圧倒されていた中国の人々は、外国、しかも、過去の「歴史」から多くが嫌悪感を抱く日本の救援隊が、二つの同胞の命にささげた敬意に打たれた。

 「大事にしてくれた」ことへの感謝と同時に、失われた命もおろそかにしない姿勢は、「我々も犠牲者に最後の尊厳を与えるよう努力すべきだ」(新京報紙の論文)という、中国人としての自省にもつながった

 ネット掲示板は元来、「反日」の温床だが、日本隊の黙とうで、「対日観が大きく変わった」との声も寄せられている。強硬派らしい人物は「日本と戦わなくてはならない時は全力で戦う」と記した後、「だが、日本人が助けを必要としている時には必ず行く」と続けた。「とっとと出て行け!」という反日的な声には即座に非難が集中した。> 


 「失われた命もおろそかにしない姿勢」とは、「失われ」ていない、この世に現在生きて在る「命もおろそかにしない姿勢」を前提として正当化される姿勢であろう。

 またそういった生命(いのち)の扱いに感謝するのは、自らもそういった生命(いのち)の扱いをしてこそ、「感謝」は真正な感情の発露となりうる。

 この世に現在生きて在る生命(いのち)を疎かにしておいて、死んだ生命(いのち)対しては疎かにせず敬虔に扱う、丁寧に黙祷を捧げるなどというのは滑稽な倒錯でしかないし、自分は疎かに扱っておいて、他人が丁寧に扱うのを感謝するというのも倒錯行為でしかない。

 もし中国人が日本救助隊の発見遺体に対する「整列した黙祷」の捧げを 「失われた命もおろそかにしない姿勢」と受け止め、そのような丁寧な扱いに感謝の気持を抱くなら、チベット人もミャンマー人もそれぞれが「個人物語」を抱えているのである。中国当局がチベット人に対して、ミャンマー軍事政権がミャンマー国民に対して人間らしく自由に生き・活動することに制限を加える生命(いのち)の「疎かな扱い」に敏感であるべきで、無頓着であるのは一国主義的であり過ぎるのではないだろうか。

 あるいは国籍や民族の違いで生命(いのち)の扱いに差別を設ける矛盾行為にならないだろうか。

 国籍や民族の違いに関係なしに死者に対しても尊厳を示す。現在生きて在る生命(いのち)に対しても尊厳の気持を忘れない。そうしてこそ生命(いのち)を「おろそかにしない姿勢」だとすることが初めてできるはずである。 
 ≪四川大地震、校舎崩壊に怒り 子ども亡くした父母ら≫(asahi.com/2008年05月21日23時32分)

 【都江堰(とこうえん)(中国四川省)=小山謙太郎】パソコンやコピー機を放り出して踏み壊す母親。テントを引きずり倒し、怒りをぶちまける父親――。

 中国・四川大地震で校舎が崩落、生徒ら430人が亡くなった四川省都江堰市の新建小学校の父母ら約400人が21日、臨時に置かれた市教育局のテントに押しかけた。

 「周りの建物が無事だったのに、校舎だけ崩れたのはおかしい」

 校舎の建築に問題があったとする父母らは、教育局長を取り囲み、建築を許した責任、救援が遅れた理由などについて説明を求めた。

 「時間をください」。小さな声を絞り出す教育局長。

 「そう言って、いつもだまされてきた!」。父母らは教育局の備品を壊し始めた。

 救援物資の中に子供用リュックを見つけた母親が叫んだ。「私たちは子供を失った。今更こんなもの要りますか?」。次々とリュックを空に放り投げた。「不要(プーヤオ)(いらない)!」「不要!」。涙ぐんだ声が飛ぶ。

 900人が生き埋めになった同市の聚源中学校でも、父母らが市への抗議を準備。綿竹市にも同じ動きがあり、校舎崩落の責任を問う声が広がっている。

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消費税増税率の「試算」は「国民の安心」を誘導する「試算」であるべき

2008-05-20 10:45:05 | Weblog

 生活困窮者と自殺者の増加率も同時に「試算」し、その対処方法も提示すべき

 <政府の社会保障国民会議が19日、基礎年金の財源をすべて税で賄った場合、09年度に9.5~18%まで消費税を引き上げる必要があるとの試算を公表したと今日(08年5月20日)の『朝日』朝刊≪税方式導入なら消費税「9.5~18%」 公的年金で試算≫が冒頭箇所で伝えている。

 但し、<保険料負担は減るが、増税との差し引きで年金受給者や会社員世帯では負担増となる一方、厚生年金の拠出金がなくなる企業の負担は減る。>ということである。

 このことは殊更説明するまでもなく、一般家庭の負担が増え、その分企業の負担を軽減する企業優遇・国民生活虐待の絵柄となっている。

 この絵柄に関して『朝日』は同じ日付けの関連記事≪時時刻刻 税方式「重い家計負担」≫で、<はじき出された数字は、税方式が家計に与える負担の大きさを想像以上に明らかにした。政府高官は「政府が(試算で)メッセージを発したということでは全くない。全額方式も決してタブーではない」と火消しに懸命だ。>と紹介している。

 つまり、全額方式を避けたい政府の意向が働いた「試算」だから、その正当化に企業優遇・国民生活虐待の「メッセージ」となったというわけではないと「火消し」に躍起となっているというわけである。

 しかし政府高官の「火消し」も記事が伝える厚労省の態度が無効化することとなっている。<数字をはじき出す実務を担った厚生労働省は「年金は自助努力の面がある。保険料を充てるのが理解を得やすい。消費税は他の社会保障費に回したい」との立場だ。同省は「中立」を強調するが、今回の試算について、幹部の一人は「やはり『なかなか税方式は難しい』と受け取らざるを得ないのではないか」と歓迎する。>と伝えて、全額方式への回避意向が働いた「試算」だと解釈した記事内容となっている。

 使途名目が何であれ、いずれは消費税増税は避けられない事態だと言われている。上記『朝日』記事は全額税方式の場合の企業負担軽減分の「従業員への還元」に言及しているが、年金の全額税方式でっても、他の社会保障費に回す遣り方であっても、消費税増税を行った場合、何パーセント増税につき使途名目に応じて何人程度の生活困窮者が出るか、そのことと従来の生活困窮に加えた新たな消費増税負担によるさらなる生活困窮によってどれ程の自殺者が出るか、併せて「試算」すべきだろう。国民の福祉に直接関わっていく消費税増税だからである。

 年間自殺者が3万人を超える。『参考資料:警察庁発表 自殺者数の統計』(H19年6月発表)によると、平成18年度(06年度)の自殺者総数は32155人で、平成18年中の《原因・動機別 自殺者数》の場合は総数10466人、そのうち「経済・生活問題」、いわば生活苦からの自殺が「年度」と「年中」の違いからなのか、29%も占めていて3010人となっているが、単純に平成18年度(06年度)の自殺者総数32155人の29%とすると、9324人となる。

 カネで解決する部分もある「健康問題」による自殺者41%のうち何%かを加えると(一例として健康保険料が支払えず、病気を我慢して死に至ってしまったといった人間が相当数いることを挙げることができる)消費税増税を引き金とした生活困窮が自殺への手引きとなる可能性は決して否定できないはずである。

 また消費税増税による個人消費の冷え込みが経済の足を引っ張り、そのことがさらなる生活困窮者を生み出す悪循環の規模も「試算」して発表すべきだろう。

 消費税増税によって生じるそういった諸々のマイナス要因を予想・「試算」して、その上で全体的な対策を示し、国民にどう対処すべきかの道筋となる全体的な政策・全体像を提示して国民の安心を引き出してこそ、政治が「国民保護の責任」を果たす第一歩ではないだろうか。

 いわばどのような「試算」であろうと、「国民の安心」を誘導する「試算」であるべきで、「国民の安心」を置き去りにした国の政策に誘導するための「試算」であってはならない。

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四川省大地震とミャンマーサイクロンと「保護する責任」

2008-05-18 07:42:27 | Weblog

 至って不勉強の至り、無知な話だが、国連総会特別首脳会議が05年に「保護する責任」といった国家が国際社会と共々負うべきとした理念を掲げたことなど知らなかった。常々当ブログで言っている「すべての国のすべての国民が等しく享受しなければならない人間的条件性から言って基本的人権は国家主権を超えるゆえに、基本的人権に国境は存在せず、それぞれの国家の内政問題から切り離され、《内政不干渉の原則》には抵触しない」、「内政不干渉」を理由に国家権力の国民に対する恣意的な人権抑圧を擁護・傍観してはならない、外国は国家権力による人権抑圧に積極的に干渉すべきだとする主張に相通じるものがあるが、「保護する責任」なる理念から、今回の中国・四川省大地震と胡錦涛を国家主席、温家宝を首相とする中国共産党政府の未曾有の被災者救済、さらにミャンマーの軍政下に置かれたミャンマー国民を考えてみた。

(「asahi.com」記事から/中国四川省綿陽で16日、到着した胡錦濤国家主席(中央右)を出迎える温家宝首相(新華社)=AP)

 まずは「保護する責任」なる理念を「Wikipedia」から見てみる。

 <基本理念
 国家主権は人々を保護する責任を伴う。
 国家が保護する責任を果たせない場合は国際社会がその責任を務める。
 国際社会の保護する責任は不干渉原則に優先する。

 不干渉原則に優先する理由
 主権概念に固有の義務
 国連憲章24条による安全保障理事会の責任
 国際人権文書、国際人道法および国内法に基づく特定の法的義務
 国家、地域的機関及び安保理による慣行の発展
 
 3つの包含要素
 保護する責任には、「予防する責任」を筆頭に、「対応する責任」と「再建する責任」の3つの要素が包含されている。このうち、最も重要なのが「予防する責任」である。あらゆる干渉行動は、その実施に先行して予防的手段が尽くされなければならない。

 予防する責任 (Responsibility to Prevent) - 紛争の原因に対する取り組み
 対応する責任 (Responsibility to React) - 状況に対する強制措置(軍事干渉も含む)を含む手段に
       よる対応
 再建する責任 (Responsibility to Rebuild) - 復興、和解などへの十全な支援の提供

 軍事行動の正当化要件
 保護する責任の遂行における軍事行動は、例外的で特別な措置であるため、それらの行動が正当化されるには、具体的に次の6つの要件が満たされる必要がある。
正当な権限 (Legitimate Authority) - 国連憲章第7章、第51条、第8章に基づ
くものでなければならない。

 正当な理由 (Just Cause) - 大規模な人命の喪失、又は大規模な人道的危機が現在存在し、又は差し迫
      っていること(急迫不正の侵害)。
 正当な意図 (Right Intention) - 体制転覆等が目的でなく、体制が人民を害する能力を無力化するこ
      とが目的でなければならない。
 手段の均衡 (Proportional Means) - 措置の規模、期間、威力などは、人道目的を守るために必要最小
      限でなければならない。
 合理的見通し (Reasonable Prospect) - 干渉前よりも事態が悪化しないという、措置の合理的な成
      功の見通しがなければならない。
 最後の手段 (Last Resort) - 交渉、停戦監視、仲介など、あらゆる外交的手段および非軍事的手段を
      追求したうえで、それでも成功しないと考えられる合理的な根拠があって初めてとられる手
      段でなければならない。>――

 「国家主権は人々を保護する責任を伴う」は国家権力の当然の義務であり、責任である。その当然のことを果たしていない無責任な国家権力が存在する。無責任に何ら後ろめたさもなく国家の代表者の顔をして憚らない。

 但し「人々を保護する責任」と言っても、物質的に飢えない生活を保障すれば国家の責任を果たしたとは言えないのは断るまでもない。物質的にも精神的にも人間らしく生きる生活、「人間らしい生活」を保障して、初めて「国民保護」と言える。「人間らしい生活」は基本的人権を絶対要件とするのは、これまた断るまでもないことであろう。

 中国・四川省で地震が発生したのは5月12日。日本の国際緊急援助隊の第1陣31人が四川省の成都空港に到着したのは生き埋め生存限界とされる「発生後72時間」(3日間)である5月15日午後を過ぎた5月16日未明であり、そこから被災地に向かった。日本に引き続いて、現在韓国、シンガポール、ロシアの3カ国が救援隊を派遣しているという。

 中国政府が自然災害で外国の救助隊を受け入れるのは異例のことだそうだが、道路や建物は回復可能だが、回復不可能な人的被害である「死」を如何に少なくとどめるかの救助活動が政府の「国民保護」の主たる責任項目となり、その成否が胡錦涛体制の存在意義に関わってくる。地震が与えた物理的破壊の大きさが予見させる人的被害の回復困難さが胡錦涛体制の存在意義を貶めかねない要因に向かう恐れから外国からの救助隊を巻き込むことで「国民保護」の責任を相殺する意味合いもあったのだろう。

 だから外国救助隊の受入れが結果的に生き埋め生存限界とされる「発生後72時間」(3日間)を過ぎた後付けの選択となったのだろう。このことも国家の「国民保護」の責任に関わってくる。ロシア救援隊が5月17日夜に初めて生存者1人を発見したと言うことだが、外国救援隊の生存者の発見が多い程、なぜもっと早くに派遣要請をしなかったのか、そうしていたなら、もっと多くの生存者を発見できていたのではないのかという声に変わるに違いない。そうなった場合、後付けの外国救援隊派遣要請は責任の相殺どころか、中国当局が「国民保護」をどの程度認識していたか検証を受けることになる両刃の剣となり得る。

 災害対策本部が伝えた5月17日午後2時時点の死者数が2万8881人に上ることを日経インターネット記事で知った。すべては被災地及び被災者の救援を通した「国民保護」の成果にかかっている。「国民保護」が国家権力にとって如何に重要か、最重点の政治課題であるかを証明して余りある。そこにゴマカシがあってはならないのは当然のことだろう。

 胡錦涛の言葉――

1.現地に向かう特別機の中で「地震の救援活動は今、最も厳しい時にある。寸秒を争って最大限の努力をしなければならない」

 「地震発生後72時間という人命救助に大事な時間を過ぎたが、人の命を救うことに全力をあげなければならない。同時に、負傷者の救助や交通・通信・電力などの復旧を急ぎ、民衆の生活を保障しなければならない」(≪四川大地震:胡錦濤主席、被災地の北川県に向う≫(中国情報局/2008/05/16(金) 20:56:01更新)

2.「救助活動は最も重大な局面に入った。全力で時間と戦い、最終的な勝利を手にするため、すべての困難を乗り越えなければならない」≪「救助活動は最も重大な局面」被災地入りの胡錦濤主席≫(MAN産経/2008.5.16 20:52 )

3.四川省に向かう機中で「地震発生からすでに72時間以上が過ぎたが、人命救助は依然として最も重要な任務だ。負傷者の治療や、交通、通信、電力など基礎的なインフラの復旧も急がなければならない」≪胡錦濤主席が綿陽市に到着≫(日経新聞/08.5.16))

 すべては人命救助=「国民保護」を念頭に置いた、そのことを最優先課題とした発言となっている。

 国民を「保護する責任」を有することから当然の措置とは言え、国家権力者としてかくこれ程までに「国民保護」に関して最優先課題の軸足を置きながら、ミャンマー軍政当局の民主化デモに対する武力弾圧やサイクロン被災者に対して窺うことができる「国民保護」の放棄とも言える不備・欠如に「内政問題」だからと鈍感でいられる態度の違いは明らかに自己に降りかかる責任の有無からきているのだろう。

 地震被災者救済に対応遅れや不手際があったと認められた場合、国家の指導者としての評価を落とし、その地位からの失脚の可能性も生じる。失脚した場合歴史に記録され、世界中の人間に記憶される不名誉を担うことを意味する。

 だがミャンマー問題に関しては中国の国益のみを考えていれば、「国民保護」の責任から自由でいられる。いわば中国に於ける「保護する責任」は国連の規定に反して国際社会的な相互性を無視した単独主義と化していると言える。

 この自国民のみを対象とした「保護する責任」(「国民保護」)の単独主義は同時に国や政治体制によっ人間に差別を与える政策行為となる。極端な言い方をするなら、中国に経済的利益や軍事的利益をもたらす友好国であるミャンマーの軍政が維持されれば、ミャンマー国民はどうなってもいいという差別主義を外交政策としているということである。

 自国民に対する「国民保護」だけではなく、政治権力の犠牲となっている他国民の保護まで考慮してこそ、国連が規定した「保護する責任」に於ける国際的相互性を担うことができるのだと思うのだが、どんなものだろうか。四川大地震の救済で見せる「国民保護」から学んで、ミャンマー軍政の犠牲となっているミャンマー国民の窮状に思いを馳せたなら、ミャンマー軍政を「内政干渉」あるいは「内政問題」だとして擁護することはできまい。


 参考までに。

 「救援強行」揺れる国連 ミャンマーサイクロン被害(『朝日』朝刊/08.5.17)

 自然災害にあえぐ国民を国家が十分に救おうとしないとき、国際社会はその主権を侵してでも救援を強行すべきか。ミャンマー(ビルマ)のサイクロン被害が国連に重い問いを突きつけている。閉鎖国家の中で苦しむ人々の救済のために世界は何ができるのかの論争でもある。
 仏 保護する責任 中国 内政干渉

 今月7日(08年5月7日)、安全保障理事会の非公式協議。ミャンマーの軍事政権が国際援助を拒み続けている問題をめぐり、フランスと中国が激しい論戦を繰り広げた。

 「サイクロン自体は自然災害だが、その後は人災だ。疫病などで新たな被害の波が押し寄せてる恐れがある。早急に介入すべきだ」

 中国「国内問題に介入すべきではない。国際法上も災害救援のための強制介入を認めた合意や取り決めはない。そんな空論は時間の無駄だ」

 仏側には米、英、ベルギーなど、中国側にはロシア、南アフリカ、リビアなどがつき、安保理は分裂状態。協議は今後も続く見通しだ。

 仏などが介入の根拠としているのは、05年に国連で採択された「保護する責任」 と呼ばれる合意だ。すべての国家は国民を守る責任を負う。それができなければ、国際社会が強制代行する責任があることをうたっている。
 
 ただその合意が主に想定していたのは、集団虐殺や民族浄化などの政治暴力や迫害だった。自然災害への対処は強制介入の発動対象に含まれるのか議論はなかった。

 仏は今回のミャンマー問題について「情勢は急速に政治化しつつある」 と主張している。軍政は自力で救助活動を十分に施す能力がないのに国際援助を拒むのは政治的行為であり、その結果として人命の大量喪失が起きるのを防ぐ責任が国際社会にあるとの考えだ。

 国連は、ミャンマーの被災地で250万人が脅威にさらされているともている。これまで空輸による物質の投下など限定的な救援はあったが、「大規模な地上活動なしに実効的な救援はありえない」(英NGOオックスファム)。仏英米はミャンマー沖に海軍艦船を展開しており、上陸用舟艇やヘリコプターなどを駆使した本格救援活動の準備態勢をとっている。

 しかし、中国は激しく抵抗している。国連筋によると、中国代表は安保理で「『保護する責任』が天災に適用される道理はない。フランス人はインテリと思っていたが、議論を持ち出す場を間違えたのではないか。自分の外相のところに行って議論したらどうか」と外交上異例とも言える言葉遣いで反論した。

 中国は最近の安保理では、ミャンマーの民主化を求める2度の議長声明に同意する譲歩をしてきたが、今回は一歩も譲らない構えだ。もし災害救助を国際介入の大義に加える前例を認めれば、もう一つの閉鎖的な友好国・北朝鮮への適用の可能性も生まれる。しばしば起きる大水害による被災と飢餓も当然、「保護する責任」の範囲内に入る。さらにチベットなど中国自身の敏感な「内政問題」にまで波及しかねない。

 そんな中国に同調するリビアなども国家体制の安定のために国際介入を嫌う国々だ。安保理を分かつ賛否両派の対立は根源的な国の価値観の違いに根ざしている。

 キーワード【保護する責任】 05年の国連総会特別首脳会議が採択した「成果文書」に盛り込まれた理念。ルワンダの虐殺などを教訓に、危険にさらされた人間は国家だけではなく国際社会にも守る責任があるとし、必要な場合は安保理を通して共同行動をとることをうたった。
 同年に創設60周年を迎えた国連の包括的改革の一環。03年のイラク戦争後の混乱で米国の単独行動主義の限界が露呈した中、国際社会は多国間主義で人道危機に対処することを申し合わせた形だった。実際に発動されたケースはまだない。

 欧米も賛否分かれる

 欧米側でも賛否両論が交錯している。「国連は人道介入の約束を忘れたのか」(米ワシントン・ポスト紙)という積極論の一方で、イラク戦争などを教訓に「介入はむやみに行うものではなく、綿密な検討が必要」(英ガーディアン紙)との慎重論もある。それは主に強制援助に伴う欧米側のコスト負担を懸念したものだ。

 そもそも援助の強制執行ができるのかとの疑問も多い。米欧がミャンマー国内に物資を運び込むために港湾を開放させ、軍艦船を接岸し、領内に多数のヘリコプターを飛ばす活動が軍政の承認なしに可能なのか。救援目的とはいえ、領内に侵入した外国軍にミャンマー軍が攻撃を加える事態になれば、「被災地」は「戦場」と化す。そうした懸念から「現時点では強制援助が懸命な選択肢とは思えない」(ホームズ国連緊急援助調整官)と国連内にも異論がある。

 それでも仏政府が今回、国連の場で「保護する責任」の初適用を発案したことは、災害救助の論議に一石を投じたことは間違いない。安保理論争の中で起きた中国四川省の大地震を受けて、中国がかつての閉鎖的な態度から一転、国際支援の受け入れを示したことは「前向きな成果」とみる向きもある。(あらゆる選択を試みないことには、被害結果に応じて国の責任が問われることになるからだろう。たいした人命救助ができなかったということになれば、政府の救助体制の不備を問われ、天安門事件のように歴史に刻み込まれることになる。)

 国連では近年、失敗国家閉鎖国家の内部で起きる国民の大量死を防ぐことができなかったことをめぐる焦燥感が漂っている。スーダンのダルフールやソマリアに加え、イラクの混乱にも有効な手を打てずにきた。

 そんな中で、人権侵害への積極介入論者であるクシュネル仏外相が「保護する責任」を新たな武器に掲げ、国家ではなく人間の安全保障をのための「攻め」の声を上げたことは野心的な試みとして評価されている。

 最優先で保護すべき者は国民か、国家体制か。そんな基本的な価値認識を共有できない閉鎖国家とどう向き合い、政治の壁を越えて人々の窮状を救うために何ができるかのか。未曾有の災害を契機とした国際的な模索に、日本ももっと積極的に参加すべきではないか。 
 記事はミャンマーに対する人道的介入が軍政当局の抵抗にあって戦争化する危険を指摘しているが、ミャンマー最大の後ろ盾である中国が「内政不干渉」の看板を取り下げて賛成したなら、軍政当局と言えども、直ちに軍事独裁体制崩壊につながりかねない戦争を自ら引き起こす可能性は限りなくゼロに近いのではないだろうか。

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「内政不干渉」と地続きのミャンマーサイクロン被災者の惨状と国際社会の無力

2008-05-16 19:28:37 | Weblog

 07年9月にミャンマーで仏教僧を中心にその他市民による民主化要求デモが発生、ミャンマー軍政当局は武力で弾圧。その際日本人映像ジャーナリスト長井健司氏がデモ鎮圧の官憲に至近距離から銃で謀殺される事件が起きている。軍政当局は9月27日未明に民主化要求の芽を潰す目的で旧首都ヤンゴン市内の僧院を急襲して仏教僧100名を拘束、軍事独裁による人権の抑圧統治の原状回復に無事成功した。

(タン・シュエ議長の写真とともに、どれも「軍の指導の下でミャンマーは分裂・弱体化を免れて着実な発展を遂げた」と軍の実績を強調し、国民は軍の下に一致団結し、国内と海外の妨害勢力を排除し規律ある民主化を進めなければならない、としている。/「NHK解説委員室ブログ」


 また日本人映像ジャーナリスト長井健司氏殺害に関わる日本政府の再三に亘る真相究明と遺留品変換の要求を言葉でのみ約束し、実際行動で責任を果たすことを無視、日本政府の要求の無力化にも成功している。

 このような軍事独裁政治維持・国民抑圧政治維持の成功は安保理常任理事国の中ロの強い擁護があってのことなのは改めて断るまでもない周知の事実となっている。07年1月12日、国連安全保障理事会はミャンマー(ビルマ)の軍事政権を非難し、自宅軟禁中の民主化指導者アウン・サン・スー・チー氏の釈放などを求めた米英提案の決議案を採決したが、中ロがミャンマーの現状は安保理の取り扱う「国際平和と安全に対する脅威」に当たらないとして拒否権を行使、同案を否決している(≪ミャンマー非難決議で安保理 中ロ拒否権、否決≫(07.1.13/『朝日』朝刊から)。

 揃って拒否権を行使したのは旧ソ連時代の72年以来35年ぶりだという。記事は「拒否権行使」の経緯を次のように伝えている。

 <決議案はミャンマーにおける人権状況の悪化に「深刻な懸念」を示し、「地域の平和と安全に対する危機を最小化する明確な前進が必要だ」と主張。軍事政権に対し、速やかな民主化移行に向けた話し合いを進め、表現や政治活動の自由を認めて、すべての政治犯を無条件解放するよう求めた。

 中国の王光亜・国連大使は反対演説で「ミャンマーの問題は主権国家の内政問題であり、隣国のいずれも地域的な平和と安全に対する脅威だとは認識していない」と主張。ロシアのチュルキン大使も「問題は国連総会や人権理事会の枠組みで検討されており、安保理がこれを代行するのは逆効果」と同調した。>・・・・

 要するにミャンマー問題は「内政問題」だとする中国の基本姿勢は「見て見ぬ振りをしろ」論に当たる。近所で父親が子供に暴力を日常的に振るって虐待し、子供が生命の危機に相当する深刻な被害を受けているが、あくまでもその家庭内の問題であって、向こう三軒両隣及び地域の「平和と安全に対する脅威」とはなっていないから干渉すべきではない、見て見ぬ振りが妥当だと主張するのと同列の行為となっている。

 そう、ミャンマー国民が独裁国家権力にどう自由を抑圧され、どれ程に非人間的な扱いを受け、政治活動を如何ように制限されていようとも、それがミャンマーの国境を越えて隣国にまで波及して「地域的な平和と安全に対する脅威」となっていない以上、ミャンマー自身の問題、「内政問題」で収めるべきだと主張したのである。

 そして中国及びロシアのそのような基本姿勢は上記07年9月のミャンマー国民の民主化要求デモに対しても基本姿勢として維持・踏襲された。米英仏などの欧米先進国の強い非難、経済制裁要求に対して特に中国は「中国は他国の内政に干渉しない」という姿勢を取り続け、「隣国としてミャンマー情勢の安定と経済発展を期待しており、ミャンマー政府、国民が現在の問題に適切に対応していくと信じる(中国外務省・姜瑜副報道局長)」(≪ミャンマー情勢:事態の早期沈静化を望む姿勢…中国≫毎日jp/ 07.9.25)としてミャンマーの民主化を軍事政権にゲタを預ける倒錯行為によって対ミャンマー政策を維持・踏襲した。

 これは児童相談所が子供を虐待する恐れのあると分かっている親に子供を渡す倒錯行為になぞらえることができる。「現在の問題に適切に対応」とは軍事政権によるより強固な政治活動の制限、人権抑圧以外にないからだ。

 その結果、国連安全保障理事会でミャンマー軍事政権に対して民主化要求デモの「弾圧的措置の停止」を求めた米英等の議長声明案は中ロの反対にあって「強い遺憾を示す」とするミャンマー軍政を擁護する弱い表現に変えられ、採択されることとなった。

 ミャンマー軍政当局にしても、中国の強い後ろ盾を受けて民主化デモ武力弾圧を「国内問題」とする態度を固守した。

 要するに「地域的な平和と安全に対する脅威」「脅威」とは軍事独裁国家権力の人権抑圧・自由の抑圧、政治活動の制限等によって受ける国民の「脅威」であることは断るまでもないことで(まさか反軍事政権・民主化要求デモを軍事政権が「脅威」としているという意味の「脅威」ではあるまい)、それが「地域的な平和と安全に対する脅威」とまでなっていない、つまり国内問題にとどまっているからと「内政問題」だとして「内政不干渉」の原則に立つべきだとする主張はその「脅威」を過小評価もしくは無化するするもので、そのような姿勢はそのまま軍事政権擁護、あるいは軍事独裁政治肯定につながる主張であり、結果的に軍事政権の国民に対する自由と人権の抑圧、政治活動の制限に水戸黄門の「葵の御門」のついた印籠同様の強力な免罪符を与える政策行為そのものと言える

 そのような中ロの「内政不干渉」、「内政問題」を正当理由としたミャンマー軍事独裁政権肯定及び人権と自由の抑圧、政治活動の制限の免罪に欧米先進国の強い反対姿勢とは一線を画して日本を始めASEAN諸国が中途半端な姿勢で追随している。

 そして今回の大型サイクロン「ナルギス」の襲来による死者4万人を超える死者と行方不明者3万人近くという現時点での人的被害がインド気象局や「アジア災害予防センター」の警告を無視してミャンマー軍事政権が国民を守るための適切な危機管理対応を行わなかったことが原因であることと、国際社会からの緊急援助物資は積極的に受け入れているものの、医療関係者を始めとした支援要員や専門家といった人的支援の受け入れは遅まきながらタイや中国、インドなど近隣国と一部国際機関に限定して災害支援のエキスパートを揃えた欧米先進国や日本からの受け入れを拒否していることが被災地の復旧及び被災者の救援を遅らせている要因となっている。

 その上被災者救援を後回しにして新憲法草案の賛否を問う国民投票を強行、現軍事独裁政権の正当性認知を優先させた。

 こういったミャンマー軍事独裁政権の国民福祉を無視する態度は中国やロシア、その他の国が長年「内政不干渉」、「内政問題」を理由に軍事政権の軍事独裁政治及び国民に対する人権と自由の抑圧、政治活動の制限を肯定することでそのことに免罪符を与えたことと地続きとなった国の姿であろう。別個の出来事ではありようがない。

 国際社会が中ロその他の国の「内政不干渉」論、「内政問題」説に如何に無力であるか物語って余りあるが、中ロの強力と国際社会の無力がない交ぜとなったミャンマー国民の悲惨な悲劇としか言いようがない。

 日本政府は<1988年9月の国軍による全権掌握後、1989年2月現政権が客観的に見て政府承認を行うための国際法上の要件を既に満たしていると判断するに至ったため同政権を承認>(外務省HP)している。日本政府は機会あるごとにミャンマーに対して民主化及び人権状況の改善を促してきたとしているが、それがまったく効果を見ていない以上、日本にとってはミャンマー軍事政権承認以来の地続きとなる、軍事独裁政権肯定と肯定による独裁政治免罪符付与によってもたらされたミャンマー国民の今回の惨状と言える。

 我々はこのことを記憶の歴史に刻みつけ、例え他国の問題であっても、自由と人権の抑圧に関わる「内政不干渉」、「内政問題」の姿勢がいずれの国の国民の生命・活動を如何に蔑ろにする危険要素であるかを訴え続けていなければならない。

 このことは中国・四川省巨大地震の被災者にも言える国家権力との関係ではないだろうか。

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「真に必要な道路」建設は自民党道路行政の絶対命題

2008-05-14 07:57:00 | Weblog

 ――道路特定財源を2008年度以降10年間維持する内容を盛り込んだ「改正道路整備費財源特例法」が参院での否決を受けて13日午後の衆院本会議で憲法59条の規定に基づき、与党による3分の2以上の多数で再可決・成立した。再可決に先立って道路特定財源の「09年度一般財源化」を閣議決定したが、福田政権がいつまで持つとの保証はなく、道路建設は「真に必要な道路」という大義名分をつけて今までと変わらない大盤振舞いの建設がほぼ保証されることとなった。道路族・道路官僚は「ほぼ」を「絶対」に変えるべく国のため・国民のために身命を賭すことになるだろう。ありがたいことである――

 いくら日本の政治家・官僚・役人たちが創造力に欠けているからといって、「不必要な道路」を日本全国に張り巡らそうと計画し、カネをかけて建設するようなバカなことはしてこなかっただろう。すべて「真に必要な道路」と言うことで計画立て、建設してきた道路ばかりのはずである。

 また日本の政治家・官僚・役人たちがいくら創造力に欠けているからといって道路建設を道路を造ることだけを目的として計画立ててきたわけではあるまい。道路を造るために道路を建設するとなったなら、滑稽な自己目的化と言わざるを得ない。地域の産業育成、地域住民の生活向上――いわば各地域の発展、ひいては日本全体の発展を大きな目的として、発展を促進する基盤としての役目を与えられて道路は計画され、建設されてきた道路ばかりのはずである。

 あるいはゼネンコンに天下った旧建設省や現国土交通省の官僚が天下り先で肩身が狭い思いをしないで済むよう、高額の給与と高額のボーナスと高額の退職金まで計算に入れて彼らに支払うコストを上まわる仕事を与えることを目的に道路を建設するといった、天下り官僚のための道路建設は決して一つとしてなかったはずである。

 天下り官僚のために端ガネの工事など発注はできない、交通量予測を水増ししてでも省庁に在籍していた当時の地位と力に見合う大工事にすべく過大粉飾した設計のもと地域事情に合わない豪華建設費をかけた豪華道路など日本のどこにも建設するようなことはしなかったに違いない。
 
 後に続く天下りに道を開いておくための「真に必要な道路」を策定し、発注した道路建設など一つとして存在しないだろうし、各天下りにバランスよく仕事が回り、バランスよく成果を上げてもらうために談合を仕組んで偏りなく配分し、高値で発注したといった道路も一つとして建設されなかったはずである。

 日本のすべての道路は地域住民の生活向上を含めた地域発展を目的とし、その上に日本という国の発展を見据えた基盤整備を目的として建設されてきたし、今後とも同じ目的で「真に必要な道路」として建設され、その予定コースから外れることは決してないはずである。決して道路族や道路官僚のための道路建設などでは行われなかったし、将来的にも道路族や道路官僚のための道路建設は決して行われることはないはずである。

 つまり常に「真に必要な道路」として「正しい道路建設」が行われてきたし、これからも「真に必要な道路」としての「正しい道路建設」が踏襲されていくことだろう。これが日本の道路建設のウソ偽りない歴史であり文化・伝統であった。決して「不必要な道路」と分かっていても道路族議員や道路官僚、その天下りの幸せのために「正しくない道路建設」を敢行するようなことはなかった。そのような道路行政を重要な要素として日本の発展は築かれていき、今の日本がある。明日の日本がある。

 だから5月12日の≪地方有料道、6割が赤字 76%が需要予測下回る≫≪100円稼ぐのに経費186円 借金膨らむ「赤字道路」≫(の関連し合う「asahi.com」の二つの記事を見て、ガセネタではないかと疑った。

 地方道路と言えども、優秀な国会議員、優秀な中央官僚を見習ってその優秀さを受け継いだ地方政治家及び地方役人が策定した道路である。地域住民の生活向上、地域の発展を目的としたのであって、その目的に添って「真に必要な道路」として計画され、建設されたのである。地方政治家や役人、あるいはゼネコン等の建設会社を潤すためにその「不必要」に目をつぶり、その「ムダ」に知らぬ顔をして「不必要な道路」、「ムダな道路」を建設することなどあり得ないのだから、赤字が発生するはずはない。

 まかり間違って一つ二つの赤字路線が生じたとしても、地域発展のために「真に必要」を絶対命題として建設した道路のはずなのだから「76%」もの地方有料道路が需要予測を下回り、「6割が赤字」といったムダをつくり出すはずはないのである。
 一つ二つの例外は除いて、日本の道路は地方道路であろうとなかろうとすべて「真に必要な道路」として計画され、「真に必要な道路」として建設されたのである。そのことを忘れず、記憶していかなければならない。だからこそ国会議員と中央官僚と地方政治家と地方役人がグルになって「必要な道路」の大合唱を日本全国で繰り広げている。

 日本の道路が一つ二つの例外を除いて「真に必要な道路」の条件をすべて満たして地域発展に貢献し、その貢献の先に地域住民の生活向上のみならず、地方財政の歳入増にも貢献し、決して地方財政を圧迫する要因とはなっていない以上、上記見出しの「asahi.com」記事は日本の道路に関してはガセネタ、あり得ない話として逆に絶対記憶の対象としなければならないだろう。

 ≪地方有料道、6割が赤字 76%が需要予測下回る≫

 <全国の地方道路公社が運営する有料道路の約6割が、通行料収入では建設費を返済できない「赤字路線」となっていることがわかった。返済のために重ねた借金の処理で、最終的に多額の税金を投入することになる恐れが強い。ずさんな交通量予測に基づく道路整備が各地で続いている実態が浮かんだ。

 全国39の地方道路公社に、それぞれが運営する有料道路の06年度の実績を取材し、計125路線のデータをまとめた。

 有料道路は、道路特定財源などを原資とする国からの借入金や銀行からの借入金などでまかなった建設費を、完成後原則30年間の償還期間内に料金収入で返済し、以後は無料開放する仕組み。計画交通量を達成できず、想定した通行料収入が得られないと、新たに返済資金を借り入れる必要があり、雪だるま式に借金が膨らむことになる。

 各公社によると、06年度の交通量が計画に達しなかったのは125路線中95路線(76.0%)。うち23路線は経費節減で支出を抑えるなどして、建設費の償還計画を守ったが、72路線(57.6%)は、通行料収入では足りず、新たに銀行から借り入れたり、黒字路線による内部留保資金から充当したりして返済資金をまかなった。

 交通量の達成率の全路線平均は81.9%。50%に満たなかったのは28路線に及んだ。

 並行する県道の渋滞緩和効果を狙って整備した長良川右岸の場合、1日平均8071台の交通量を見込んだが実際には849台。

 借金返済が順調に進み、償還期間を終えた時点で予定通り無料開放できると各公社が見込んでいるのは55路線ある。しかし経済の好転や道路の知名度が上がることでの利用増を見込んだ回答もあり、期待通りの結果が得られるかは不透明だ。残る70路線は新たな税金の投入や料金徴収期間の延長といった方策が必要となる恐れが強い。

 これまでに無料開放された64路線の中でも、29路線は当初計画通りに借金を返すことができず、地元自治体が補助金や負担金などの形で肩代わりし、その総額は500億円を超える。借金が膨らむのを防ぐため、償還期間の途中で大規模な税金を投じ、借金を返済し無料開放した例も少なくない。

 こうした現状は、地元の大規模事業計画と関係していることが多い。計画に伴う交通の増加を見込んで建設されたが、事業が不振で利用低迷に直結しているという。福島空港のアクセス道に位置づけられた福島空港道路は、空港事業の赤字状態が慢性化。多摩ニュータウンの整備に伴う渋滞解消が目的だった東京都西部の稲城大橋有料道路も、ニュータウン事業の不振が響いている。

 各地の道路公社でつくる「全国地方道路公社連絡協議会」は、国土交通省や財務省に対し、道路特定財源制度の維持と新たな財政的支援制度の創設を求めている。(松川敦志)

 キーワード【地方道路公社】

 1970年制定の地方道路公社法に基づき地方自治体の出資で設立される特別法人。現在36都府県と3市にある。国や自治体のなどの予算ではなく、借入金で事業に着手するため、一般道路に比べ短期間で道路を造ることができる。有料道路建設には地元議会の同意や国の許可が必要となる。 


  ≪100円稼ぐのに経費186円 借金膨らむ「赤字道路」≫((asahi.com/2008年05月12日08時07分)

 <身近な地方有料道路の半数以上が「赤字路線」と化していた実態が、朝日新聞の調査で明らかになった。100円を稼ぐための経費が186円。そんな計算になる不採算道路もある。各地の現状は、「真に必要な道路」は造り続けるとする道路行政に、重い課題を突きつける。

 常磐自動車道から北関東自動車道に入り、東へ約24キロ進むと料金所があった。ここから先は、茨城県道路公社が運営する県道「常陸(ひたち)那珂(なか)有料道路」だ。普通車100円、トラックなど大型車なら150円。通行料は決して高くはないが、周囲の車は次々、料金所を通過せずに、左端に隣り合う出口へと向かった。

 「東日本の新しい国際流通拠点」をうたう常陸那珂港と北関東道を結ぶ自動車専用道路として県が計画。94年に有料道路としての事業認可を国から受け、99年に供用開始した。

 06年度の通行量を見てみると、1日平均9524台が利用する計画だったのが、実際には1割強にすぎない1325台。100円を稼ぐのに諸経費や人件費で186円かかった計算になるという。借金を返すどころか、毎年膨らんでいく状態だ。当初の借金32億5千万円は現在、38億2千万円になった。

 「ここを第2の横浜港にする」。有料道路終点近くの海べりで旅館を経営する黒沢一さん(77)は、地元市議だった父が40年ほど前に当時の茨城県知事から聞かされた言葉を覚えている。同公社の担当者によると、道路の利用低迷は常陸那珂港が未完成のままであることが大きな原因だという。

 同公社が管理する有料道路は7路線。計画交通量を達成できているのは1路線しかなく、常陸那珂を含む3路線は達成率が5割に達しない。

 03年以降、約30人いた職員のうち3分の1をリストラし、沿道の草刈りの回数を減らして経費削減に取り組んだ。しかし努力ももう限界。劇的に交通量が増えない限り、赤字路線は多額の借金を税金で処理せざるを得なくなる。公社担当者は「経済状況の変化などさまざまな原因が考えられるが、見通しが甘かったと言われればそれまで」と話す。

 交通量予測の甘さから返済計画が破綻(はたん)し、税金で借金を処理した例は各地にある。

 山梨県内の有名観光地、清里高原へのアクセス道として98年に開通した「清里高原有料道路」は、見込んだ交通量の3割程度しかない状況が続き、県が道路を買い上げる形を取って借金を処理。税金による出費は約50億円に上った。

 福井県の永平寺へのアクセス道として74年に開通した「永平寺有料道路」も、償還期間の終わった04年時点で18億円余りの借金が残り、県が税金で処理した。

 予測の甘さについて、ある公社担当者は「『期待値』的な側面があるのは事実」と話す。有料道路研究センターの織方弘道代表「とにかく道路を造るという目的が先に立ち、つじつまの合う数字をはじき出しているケースが多いのだろう。巨額の赤字を生み続ける東京湾アクアラインや本四架橋と構図は同じだ」と指摘する。
 「真に必要な道路」を絶対命題として道路建設を行ってきた日本の道路行政の歴史・伝統・文化を改竄・否定する邪悪極まりない論調となっている。このことは「助け合いの精神での道路整備」をテーマに03~05年度で約80回実施、道路整備特会から計5億円支出、06年度は実施したが、回数や費用は把握していないと誤魔化している道路ミュージカル、ツルハシを手に「道路を造れ、道路を造れ、俺たちみんなの生きる道だ、車の走れる道路を造れ、日本の明日をつくる道路だ」(『朝日』記事から)と声高らかに謳い上げる「みちぶしん」に象徴させている国会議員と中央官僚と地方政治家と地方役人がグルになって日本全国で繰り広げている「真に必要な道路」の大合唱に冷水を浴びせる、まさしく「陰謀」そのものであろう。

 公明党が片棒担いだ自民党道路行政は永遠である。。どのような陰謀を張り巡らせられようとも、「真に必要」という声を絶やすことはできない。「真に必要な道路」とは「真に必要な道路」のことである以上、「真に必要」というニーズに応えて道路を一つ一つ建設して「真に必要」を満たしていかなければならない。

 「改正道路整備費財源特例法」の再可決・成立は「真に必要な道路」を日本中に実現する改めての第一歩なのである。

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