何とまあ、粗雑にして単純なる安倍晋三の頭の中

2006-03-30 04:34:44 | Weblog

 ディスクトップ内を検索する必要があって、そうしていたら、すっかり忘れていたのだが、次のようなメモ書きに出会った。「スットプ・ザ・アベ」には格好の内容ゆえ、加筆・訂正して文章に仕上げ、俎上へ提供することにした。

05年9月19日と、ちょっと古い話だが、テレビ朝日の「TVタックル」で安倍晋三は次のように発言している。

 「アメリカは原爆を2発落として、ポツダム宣言を受諾しろと威した」

 ポツダム宣言は、1945年7月26日に対日降伏勧告宣言として発せられた。

  * * * *
 (以下、出展『Wikipedia』)
 宣言の骨子
a.. 日本国軍(注:政府ではない)の無条件降伏、及び日本国政府によるその保   障
b.. 領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定
c.. 戦争犯罪人の処罰
d.. 日本を世界征服へと導いた勢力の除去
e.. 日本軍は朝鮮半島および台湾から直ちに撤退する
  * * * *
 国体護持(天皇制維持)への言及がなかったために、日本は黙殺した。8月6日に広島、8月9日に長崎へと原爆投下。

 7月26日にポツダム宣言を発して11日後である。ポツダム宣言の黙殺に対する連合国側の回答ではあっても、日本側に関して言えば、国体護持(天皇制維持)への固守を前提とした経緯からの到達点であって、そのような因果性を抜きに「アメリカは原爆を2発落として、ポツダム宣言を受諾しろと威した」と短絡化するのは、粗雑にして単純な頭の持ち主でなければできないご都合主義と言わざるを得ないが、そのご都合主義の正体たるや、日本の悪者性をアメリカに転嫁し、日本を善人と見せかけるペテンに過ぎない。日本民族優越意識に端を発した、侵略戦争ではなかったとしたい願望の一環ではあろうが、やはり粗雑にして単純な頭の持主でなければできない誤魔化しである。

 日本は国体護持(天皇制維持)を最優先事項としていた。広島・長崎を合せて30万人近い原爆死者は、その代償でもあったのである。安倍晋三が粗雑にして単純に言うように、「アメリカは原爆を2発落とし」たということだけではなく、国体護持(天皇制維持)が後押しした原爆投下でもあったのである。

 日本は戦後天皇制を維持できた。そのことと抱き合わせに原爆後遺症者を日本の社会に維持することとなったことを忘れてはならない。天皇制維持がつくり出した原爆後遺症者でもあるからだ。安倍晋三の粗雑にして単純な頭には、そんなことは毛ほども刻み込まれてはいないだろうが。
  * * * *
 (再度、出展『Wikipedia』)
 「同日(長崎原爆投下の8月9日)日ソ中立条約を結んでいたソ連が突如満州に侵攻したことに衝撃を受けた日本政府は、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、10日に連合国に伝達した。

 翌日(8月11日)返答したアメリカは、
 「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」
 「降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従 属する(subject to)」と宣言の内容を繰り返してきた。

 "subject to"の訳について、「制限の下におかれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があったが、国体がどうなるか曖昧なまま、日本は14日の御前会議で改めて宣言受諾を決定した。15日正午、玉音放送(天皇の声を「玉音」と言った)により、日本国民と陸海軍に降伏が伝えられた」
  * * * *

 原爆2発とソ連の満州侵攻にびっくり仰天して、慌てくさって「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定したのだが、ポツダム宣言が「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」としているものの、国体護持(天皇制維持)に関しては明記がなく、「国体がどうなるか」気にしている余裕も失って、「曖昧なまま」の状態で「受諾を決定した」のである。

 つまり、原爆2発とソ連の満州侵攻という食わなくてもいい余分な道草を食ってから、国体護持(天皇制維持)への言及がないという最初の状態に戻り、素直に受諾していれば何事もなく済んだポツダム宣言を往生際悪くもやっと認知したのである。

 ソ連の満州侵攻で、関東軍兵士のことはどうでもいいが、その家族や民間居留民がどれ程犠牲になったことか、このことも高過ぎる代償ではあったが、日本はソ連が日本との間に締結していた中立条約の一方的破棄という卑劣のみを言い立てている。日本はロシア革命の直後の1918(大正7)年に革命への干渉を目的にイギリスやアメリカと共謀してシベリアに出兵し、米英などの撤退後も、今で言う単独行動でシベリアに居座り、その挙句に黒竜江河口の要衝尼港(にこう)で日本守備隊と居留民がバルチザン軍の攻撃を受けた「尼港事件」と、捕虜となった居留民と将兵130人余がバルチザン軍の撤退に合わせて殺害された事態を口実としたその後の北樺太の保障占領といった一部始終は、革命側に〝いい勉強〟をさせた忘れられない出来事であり、その勉強がソ連の満州侵攻に反映されていなかったとは完全には言い切れまい。歴史は主役を代えて25年後に繰返したのである。

 安倍晋三が粗雑にして単純にも言う「威」されてポツダム宣言を受諾したという成り行きは、日本人自体が権威主義を行動様式としていて、「威」されて言いなりになる行動性を民族的に生来的なものとしている性向とも符合する。いわばそのような民族的な刷り込みに整合性を与えたい無意識の自虐性が同じ日本人として安倍晋三もつい無条件に働いて、「威」されて受諾したものと読み取ってしまった部分もあったのかもしれない。

 と言っても、「威」されて言いなりになる行動性とは主体性の欠如の言い直しに過ぎず、自分の意志、自分の考えを持たないからこそ、言いなりになれるのであって、そのような無意志・無考えが日本人は合理的論理性が欠如しているとよく言われていることの原因を成している。安倍晋三は政治家なのだから、なお一層欠けていても、無理はないのかも知れない。次期首相候補だというのだから、日本も捨てたもではない。

 「TVタックル」には民主党の下らない面々も顔を出している。日本の政治が如何に下らないか競い合って証明し合っているようなものであろう。

 安倍晋三はまた、「中国は共産党一党独裁で、国民の自由もない。国民の不満を抑えるために、日本軍を破り、中国を解放したのは中国共産党だと、一党独裁の正統性を訴えるためにも、愛国教育を利用している。首相の靖国神社参拝に反対するのも、中国国民に日本を悪だと説明している手前からで、中国の言うことを聞いて、参拝をやめたとしても、それだけで終わらない」といった内容のことを話していた。
     
 粗雑にして単純にできているからこそできる情けない対中認識である。安倍晋三の言っていることが事実だとしても、そのような中国と政治的にも経済的にも関係を維持していかなければ、日本の立場を失う。経済的にとは言うまでもなく、競争力をつけるための安い人件費及び安い資材と販売市場を中国に大きく依存していることであり、現在の景気回復も、アメリカ経済だけではなく、中国経済にも恩恵を大きく与った動向であるはずで、そのことを都合よく忘却の彼方に置き忘れてしまっているらしい。

 政治的には、アジア地域に於ける主導権・存在感の問題であって、日本の対外的影響力に関わってくる。日本は経済力で、言ってみればカネの力で存在感を誇示してきた。政治力は期待されていなかった。期待したくても、期待できる程の政治力を発揮できなかったからだろう。無意志・無考えからは特段の政治的創造性は生まれてこない。

 しかし中国はアジアとは陸続きであるから、歴史的に侵略と被侵略を繰返すことで、権謀術数・政治的駆け引きを伝統的に磨いてきた。その政治性は日本人性善説を唱えて自己満足に浸っている甘っちょろい日本の比ではない。

 現在もロシア、インド・ベトナムといった大国、あるいは潜在的大国と国境を接していて、過去に紛争を繰返している。アジアの国々は、日本は経済的に無視できない国であっても、政治的には無視できない国ではない。中国とは国境を接しているか、接していなくても陸続きであるゆえに、隣国が中国の影響下に入れば、二次的に国境を接することとなり、経済的にも政治的にも無視できない影響力を秘めている。ただでさえ中国の対外影響力・対外主導権は日本と比較して増大している。裏返すなら、アジア各国は対日重視から対中重視へと比重・軸足を移しつつあると言うことである。

 その現実を踏まえずに、中国は共産党一党独裁だと、如何に陰湿・凶悪であるかを際立たせることのみにエネルギーを注いでいる。カネで手に入れただけの対外存在感を政治的・外交的存在感につなげるだけの政治的創造性を持たないから、バカの一つ覚えのケチをつけることしかできないのだろう。

 靖国神社首相参拝を中止しただけでは問題は解決しないというなら、政治家なのだから、解決できる別の方策を講じるべきだろう。首相の靖国参拝を中止しないで済ませる、いわば対案に当たる解決策である。野党はただ反対するだけではなく対案を出せと一つ覚えの念仏のように繰返しているが、首相の靖国参拝問題を解決し得る「対案」を示し得ずに、野党を非難する資格はない。

 「対案」を示し得ないままでいたから、中国に日本の安保理入り反対の理由の一つにされたのであろう。参拝を中止したとしても何も解決しないのではなく、解決させるための方策を見い出して、日本の方から働きかけなければならなかったのである。それを、何も解決しない、何も解決しないを繰返すだけで、問題を放置してきた。

 ということは、何も解決しないを靖国参拝継続の口実にしていただけのことだということである。解決するなら考えもするが、何も解決しないから、靖国参拝は続けるべきだというわけである。

 日本はアメリカの背後で外交力を発揮しているに過ぎない。中国は安保理事国として、一国で活動できるだけの力を持っている。その手の上げ下げ一つで、世界情勢を大きく変えることもできる。だから、日本も安保入りを果たしたくてウズウズしているのだろうが、果たしたとしても、アメリカの意向に従った手の上げ下げしかできないだろう。アメリカの圧力という「威し」(いわゆる外圧)に簡単に言いなりになる民族的な非主体性(権威主義に於ける下が上に従う行動様式)が、そう仕向けるだろうからである。

 首相の靖国参拝に対する中国の非難を、内政干渉だ、中止したとしても、何も解決しない、一国の首相がお国のために命を捧げた者を追悼するのは当然の行為だ等々、国内向けの正当性しかアピールできないのだから、粗雑にして単純と言うだけではなく、日本の対外的影響力は推して知るべしである。そういったお粗末な状況は安倍晋三が次期総理となったとしても、何も変らないだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国参拝は「心の問題」、中韓の反対も「心の問題」

2006-03-29 06:20:06 | Weblog

 偉大な将軍キム・ジョンイルが憎き敵国日本を侵略し、属国とすべく宣戦布告なき戦争を仕掛けた。北朝鮮軍兵士が命令一下、偉大なキム・ジョンイル首領様と祖国北朝鮮のために勝利を信じて尊い命を捧げる奇襲戦を挑み、名誉の戦死を遂げる。

 そのことは北朝鮮と偉大な首領様キム・ジョンイルにとって、「国に殉じた」名誉ある戦死に値するだろうが、戦前の日本の戦術を思わせる戦闘機もろとも体当たりだ、自爆だといったヤケ糞な戦闘を仕掛けられたりしたら、人命を含めた被害を手ひどく蒙らないわけはない日本及び日本国民にとって、北朝鮮兵士の戦死を名誉ある殉国行為と讃えることができるだろうか。

 ひいきではない相手チームの野手の見事なファインプレーには拍手喝采できるだろうが、それとは訳が違う。

 それと同じく、大日本帝国軍隊兵士が勇ましくも名誉ある戦死を遂げ、国に殉じたと英霊として如何に祭り上げられようと、そのような称賛は侵略され、膨大な人的被害と国そのものの徹底的な破壊を受けた中国や、植民地支配を強いられ、生命や国土の損壊だけではなく、制度や習慣まで捻じ曲げられて精神的屈辱と苦痛を蒙った朝鮮にとっては意味も価値もないことであるばかりか、逆に腹立たしい待遇と映るに違いない。

 「国に殉じた」と「尊崇の念」(安倍の賛辞)を捧げられるたびに、戦争被害者たる立場にある中国人・韓国人が、消しがたく澱み残っている戦争の記憶を、あるいは当時直接心に刻み込まれた戦争の傷跡そのものを逆撫でされる感情を持ったとしても、あるいは戦争を直接知らなくても、歴史として学んだ侵略や植民地化への批判の感情を否定される思いがしたとしても、それは彼らにとって自然な「心の問題」としてある反応ではないだろうか。

 いわば一人の人間にとっての「心の問題」が、その人間だけの事柄で済むとは限らず、立場の違いによって、内容や心に受ける感情に異なった姿を与える場合がある。日本では「英霊」であっても、中国人・韓国人にとっては残酷な戦争加害者であって、その事実は歴史に刻みこまれ、変らない姿を取ることだろう。

 多くの日本人が、靖国神社参拝を批判するのは中国・韓国のみで、他のアジアの国で批判する国はないと言うが、実際にはシンガポールやインドネシアで批判する声が上がっている。それらの声が小さかったり、遠かったりするのは、日本との地理的距離の遠さが心理的距離の遠さとなって、批判の強弱・大小に影響を与えている面もあるに違いない。

 「靖国参拝は心の問題だ」と常々公言している小泉首相が06年度予算成立の後の記者会見で、「中国や韓国が参拝を理由に首脳会談を行わないのは、理解できない。そんな国は中国や韓国だけだ」と中韓の対応を批判したが、一つの戦争を戦った対戦国同士であっても、両者にとって決して同じ戦争ではなく、そのことに対応して、当然戦争に対する反応が異なるということに思い至らない無理解・鈍感さが可能とした発言なのだろう。

 そういった無理解・鈍感さが「心の問題」に現れているばかりか、日本の政治家の必須要件となっている。その代表者が小泉・安倍の両者だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育の再生を考える――小坂憲次文科相は隠れ体罰論者

2006-03-28 07:27:53 | Weblog


 3月26日のフジテレビの「報道2001」で、精神科医と小学校教諭、それに自民党の小坂憲次文科相を交えて教育に関する議論を展開していた。

 小坂氏は、「廊下を走ったら、みんなが走るなと叱る。悪いことをしたら、親も教師も殴って、いけないことだと知らせる。みんなが殴るなら、殴る。殴ったり、殴らなかったりするから、筋が通らないことになる」といった趣旨のことを、正確にその通りに口にしたわけではないが、話していた。

 何を言ってるのだろう、この男は。バカじゃないのかと思ったが、番組が終わるというときになって、「殴る話をしたが、体罰と取られると困る。先生はまず言葉で言って、諭すべきだ。親が殴る場合はあるかもしれないが、先生が殴ってはまずい」と訂正した。

では、先に口にした言葉はどうなるのだろう。親も教師も一致協力して、殴ることを間違いをした場合のしつけの基準的な常套手段とせよと、教育行政を担当する大臣がテレビを通じて日本全国に向けて言ったのである。誰もが殴ることで、筋を通せと。そう簡単に撤回されたんじゃ、筋が通らないではないか。

 日本の政治家に筋を通すことを求めること自体が、土台無理な話かもしれない。

 小坂文科相は体罰容認という批判を恐れて前言訂正をしたまでで、真の姿は隠れ体罰論者といったところだろう。

 「廊下を走るな」と教師は注意し、「廊下を走らないこと」と貼り紙もしてあるのは、そもそもからして「廊下を走る」という行為を違反行為と単純に統一化しているからだろう。小坂文科相も統一化しているからこそ、〝走ったら、叱る〟という反応に向かう。

 中には便を催したが、もう少しで授業が終わると我慢していて、授業終了のチャイムが鳴ると同時に教室を飛び出し、廊下を走ってトイレに向かおうとしていたといったケースもあるだろう。下手に呼び止めて、叱っていたら、廊下で漏らしてしまうことだって起きかねない。

 走っている生徒を見かけると、「こらっ」と声を上げて叱る。「何で走ってるんだ?」、あるいは「バカッ、廊下を走るヤツがいるか?」と怒鳴る。

 こういった光景は廊下を走る場合に限らず、相手の間違いに対する日本のしつけの一般的な風景となっている。怒鳴るだけではすまなくて、つい手を出して殴ることもする。

 まず命令(=言葉の強制)があって、命令によって従わせようとする意志の作動である。殴るのは、言葉の命令を補強する物理的強制力としてあるものであろう。

 このような命令体系(=言葉の強制の体系)を可能としている根拠は、言うまでもなく教師が生徒に対して、あるいは親が子どもに対して、支配と従属の関係にあると見なしていて、その関係を具体化させる手段として、自分を命令する立場に置いているからであろう。

 「廊下を走る」という行為を違反行為と単純に統一化できるのは、ルールと生徒の関係をも支配と従属の力学下に置いているからだろう。いわばルールの無意識的な権威化であって、権威化による生徒のルールへの閉じ込めは、教師対生徒の支配と従属の関係への側面からの援助、もしくは学習に役立たせる利点を持つ。その結果として、統一化への一層の進行という悪循環が生じる。

 体罰は支配と従属の関係の最も急進的・過激な表現形式であろう。小坂文科相が隠れ体罰論者である以上、支配と従属の関係への回帰を望んでいて当然であり、その気持が、「悪いことをしたら、親も教師も殴って、いけないことだと知らせる」といった発言となって現れたのだろう。

 命令が功を奏して、生徒を従属させることができたとしても、どれ程の価値があるのか、疑問である。主体性獲得の補助に役立たなければ、従属に慣れさせるだけのことで、価値なしと言わなければならない。

 廊下を走っていたら、呼び止めて、「なぜ走ってるんだ」と理由を問い質す。相手が理由を言ったとしても、許容できる理由でなければ、許容できない自分の考えを話して、「そんなことで走る理由になるのか?」とか、「そんなことで、走ってもいい理由になるのか」と、その正当性の是非を改めて問い直す。

 この方法は、小坂氏が言ってたように、「言葉で言って、諭す」のとは違う。教師の考えと比較対照的に相手に考えさせることである。勿論、考えさせて、走るのをやめさせることができるとは限らないが、しつけを含めた教育の基本は、他の考えとの比較で考えさせることにあるのではないだろうか。そうさせることで、支配と従属の関係(=命令の体系=言葉の強制の体系)をも薄めることができる。「言葉で言って、諭す」には、命令の気配――その一方性を否応もなしに残すことになる。

 教師はしつけであっても、授業であっても、すべての場面で生徒の考えを導き出す手助けをする。当然教師はどんな場合でも手助けが十分にできるだけの言葉を持っていなければならない。生徒が自分の考えと十分に比較対照できる言葉のことである。そういう姿を取ることが、教育再生の道ではないだろうか。

 「市民ひとりひとり」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三の歴史認識

2006-03-26 06:38:16 | Weblog


 06年2月14日の衆議院予算委員会で民主党の前代表岡田克也氏が、「60年前の戦争責任は誰が負うべきなのか」を、「『ポスト小泉』有力候補の麻生外相、安倍官房長官、谷垣財務相の3人に投げかけた」(06.2.15.朝日朝刊)そうだ。その主旨は「『次のリーダーの歴史認識を問う』狙いだった」と記している。

「戦争責任は誰が負うべきなのか」

 安倍氏の答弁は、「連合国との関係では、極東軍事法廷(東京裁判)でそれぞれA級、B級、C級(戦犯)の方々が裁かれ、責任を取った。それは明確だ」――

 「連合国との関係では」ということは、インドネシア現地でのオランダや中華民国といった対戦国現地での裁判を含めずに、メインたる東京裁判に限った結末を語ったものだろう。「連合国」の告発を受け、裁かれたことで「A級、B級、C級(戦犯)の方々が」「責任を取った」。

 これは事実の経緯を発言したまでで、安倍氏本人の認識とは異なる。問題は「連合国との関係」と「責任を取った」との間の因果性をどう捉えているかであろう。

 そのことは次の安倍氏の答の中から窺うことができる。

 「サンフランシスコ条約で東京裁判を受諾してことについて『その結果、冤罪の人もいたかもしれないが、B,C級で獄中で亡くなった方もいた。しかし、受入れなければ独立を果たせなかった。苦渋の判断の上に我々の現在がある』」

 「冤罪の人もいたかもしれない」は憶測の域を出ない物言いだとすることができるが、単なる推測ではなく、気持の上では確信にウエイトを置いた〝憶測〟と言うことだろう。

 いずれにしても憶測であることによって誰が「冤罪」か特定することが不可能であるために、そのことによって裁判全体の正当性への疑義とすることができる。

 もしも特定できたなら、その者の裁判は不当だと訴えることはできても、冤罪が比較的多数を占めない限り、全体の裁判まで不当とすることはできないばかりか、逆に全体的な正当性を認めることになりかねない。

 いわば安倍氏は「冤罪」を憶測することで、裁判の正当性に疑義を与えている。――もっとはっきり言うなら、裁判は不当なものだと見ているということだろう。安倍氏の心情は憶測を基点として、すべての被告を「冤罪」としたい衝動を蠢かせているのである。

 それと同じ文脈で、「B,C級で獄中で亡くなった方もいた」という発言を読まなければならない。「獄中で亡くな」るのは一般的にもあることで、そのこと自体は批判の対象にはならない。「獄中で亡くなった」「B,C級」に「冤罪の人もいたかもしれない」可能性を関連付けると、裁判の不当性をより強く印象づけることができて、安倍氏が望む〝文脈〟に寄り添わせることが可能となる。

 以上が安倍氏の「東京裁判」に関する正直な認識であり、正直な歴史認識といったところだろう。

 それにしても日本人全体が何らかの形で負わなければならなかった戦争に対する責任を、「連合国との関係」に限った「A級、B級、C級(戦犯)」の命運のみで片付けている安倍氏の感覚は見事なまでに侘しい心の風景とは言えないだろうか。

 安倍氏の認識は一人安倍氏自身限ったものではなく、多くの日本人の心を占めている。その根拠となっている立脚点は、1955(昭和30)年7月19日の衆議院本会議で行われた「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」の趣旨説明で言っているところの、「戦勝国の一方的な戦争裁判なるものが果して国際法理論上正当なものであるか疑問だ」といった主張だったり、「平和に対する罪とか人道に対する罪とかは当時の国際法上準拠すべき法律は何もなく、刑事法上の遡及(「法律や法律要件の効力が、法律の施行や法律要件の成立以前に遡って及ぶこと」・『大辞林』)、すなわち事後法であって」、それらの罪状の設置自体、謂れがないといった主張であろう。

 このことは同じ衆議院本会議での岡田氏の質問と安倍氏等の答弁の模様を伝えた別の朝日の記事(「時時刻刻 戦争総括「小泉後」は 有力閣僚、「侵略」には留保も 『歴史家の判断待つ』」06年2月22日朝刊)の、「『まさに戦勝国によって裁かれた点において責任を取らされた』と述べ」ている安倍氏の言葉に最も集約的に表れている。連合国が戦勝国の力でそう仕向けた裁きであり、「冤罪」に過ぎない。しかし、「受入れなければ独立を果たせなかった」から、自分たちの思いを曲げてまでして、仕方なく受入れた。独立獲得のための背に腹は代えられない代償であったというわけである。

 しかし、この答弁を裏返すと、「戦勝国によって裁かれ」なかったら、誰がどう「裁」き、どう「責任を取」ったかという問題が生じる。それがなかったなら、全体として「戦勝国によって裁」き・裁かれること自体に矛盾はあっただろうか。

 あるいは連合国による裁判の存在自体が否定されるべきだとの主張を正しいこととして受入れたとしても、軍属も含めた日本軍の兵士約230万人、日本の民間人約70万人、アメリカ兵約9万人、それに他の連合国が約17万人といったそれぞれの死者と、中国、朝鮮のアジア各国の軍民合せて少なく見積もっても2000万人の死者を出し、内外の国土を破壊し、荒廃させた戦争は、例えそれが欧米列強と伍して生きていくために日本に残された唯一の方策であったとしても、日本が引金を引いて誘い出した結末である事実は否定することはできず、その事実に付随して発生する責任は当然負わなければならない。日本政府は日本国民を除いて外に対しては、確かに北朝鮮を除いて、金銭的賠償を済ませた。

 その線上で戦争責任の遂行を終わりとした。極東軍事裁判(東京裁判)の結果受諾は「連合国との関係」で生じた強制された「責任」遂行に過ぎない。

 なぜあのような戦争になったのか。なぜあのような残虐行為ができたのか。虐殺・虐待、人体実験等々――少なくとも日本人自身が自らが起こした戦争と戦争行為に対して、日本人自らが裁くことはしなかった。日本人自らが検証することはしなかった。

 東京裁判がなかったなら、果たして戦争責任を追及する日本人自身の手による法廷を設置しただろうか。戦争を検証するための何らかの機会を設けただろうか。一切設けはしなかっただろう。そのことの証明に、「歴史家の判断を待つ」、あるいは歴史の問題は後世の学問に委ねると言うばかりである先延ばしを当てることができる。

 ドイツは連合国によるニュルンベルク裁判と被占領地域に於ける各占領国による裁判以外に、ドイツ自らが各種戦争裁判を設けて、戦争犯罪者を裁き、教育その他を通じて、戦争の検証・総括を行っている。 

 極東軍事裁判を不当とする議論はあっても、そういった議論をする側から、日本人自身の手で検証しよう、検証すべきだと主張する意見は存在しない。このことは〝戦争〟を検証の対象とはしていないからに他ならない。対象とはしないと言うことは、間違った戦争ではない見ているからだろう。警察が取調べの対象に犯罪の容疑がないと見ている人間を除くのと同じ構図である。そこから、『時時刻刻』の見出しにある「『侵略』には留保も」という認識が出てくる。

 最初の記事で、「一方で麻生、安倍両氏は、95年の村山談話、昨年4月の小泉首相演説に触れ、アジア諸国に『痛切なる反省と心からのお詫びの気持を表明する』との政府見解を繰返した」と出ているが、自らが戦争を検証しないで、ときには、侵略戦争ではなかったといった否定発言、あるいはべてが侵略戦争とは言い切れないといった「留保」発言が跡を絶たない状況と東京裁判に対する「冤罪」レベルの認識を考え併せると、「痛切なる反省と心からのお詫びの気持」は、東京裁判が「独立を果た」すための止むを得ない選択であったのと同じく、そのように「表明」するしかない止むを得ない選択に過ぎないのは明らかである。いわば気持(認識)とは裏腹に使い分けていると言うことだろう。

 使い分けた戦争認識だからこそ、安倍氏は、靖国神社は「次の世代の総理も当然参拝すべきだ」などと言える。もし安倍氏が次の「総理」となった場合、一度口にしたことは守るべきで、「当然参拝すべき」だろう。その結果に対しては、勿論、安倍氏自身が責任を負わなければならない。

 「市民ひとりひとり」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

――ストップ・ザ・アベ――

2006-03-23 05:40:12 | Weblog



次期総理をアベに期待する声が高い。
では、アベに期待しない声も少なからずあることを知
らしめてもいいのではないか。
一人一人の声は小さいが、大勢集まれば、少しは大き
な声になる。
 ストップ・ザ・アベの声を広めよう。

◎ポスト小泉の人気トップは安倍、ついで福田康夫だとい
 う。
◎自民党を支持するわけではないが、政権交代が不可能な
 ら、アジアとの連携・友好重視の福田康夫に総理になっ
 てもらおう。
◎政治家が国民のために働くのではなく、国民を「国のた
 めに働」かさせようとする隠れ国家主義者・安倍は民主
 主義がタテマエの日本の総理にふさわしいだろうか。
◎「愛国心」を振りかざすような人間は、政治家だろうと
 誰だろうと、信用すべきではない。
◎安倍が拉致問題で繰返していたタカ派的強硬発言は、小
 泉首相が言うところの「対話と圧力」の「圧力」に見せ
 かけ、拉致解決に何ら役に立たない小泉北朝鮮外交の「
 対話」を埋め合わせて、拉致被害者家族をなだめるため
 の役割分担から出たポーズであって、その程度のお粗末
 な「対話と圧力」でしかなかった。
◎当然、安倍の口の中で引っかかりながらも、ハキハキも
 のを言って、さも決断力がありそうに見せるスタイルに
 騙されてはならない。
◎ストップ・ザ・アベ。

――ストップ・ザ・アベ――に賛同者は、画像を自由に使っ
てください。画像が表示されていないようでしたら、
「市民ひとりひとり」
 にもアップロードしましたから、
利用してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偉大な隠れ国家主義者安倍の時代錯誤な精神

2006-03-22 05:38:45 | Weblog

 「戦後60年、成果と足りないものは何か」と民主党の笹木竜三議員が2月20日の衆院予算委員会で安部官房長官、谷垣財務相、与謝野金融担当相の3政治家に問いかけたと、朝日朝刊(06・2・21)に出ていた。
  
 「安倍氏は『損得を至上の価値としている若者が増えている』ことが反省点だと指摘。家族を愛することや、生まれ育った国のために働くことを『損得を超える価値』の例に挙げ、それを教えてこなかったところに政治家として忸怩たるものがある」と語った」(同記事)とのこと。
  
 ――「損得を超える価値」を「教えてこなかったところに政治家として忸怩たるものがある」。

 安倍は教育者ではなく、政権与党の有力議員である。次期総理大臣とも目されている。いわば国家権力を担う者の一人として、国家の立場から、そう言ったのである。
  
 その立場からの発言に政治家・安倍の基本的精神がものの見事に現れている。国の言うことがすべて正しいとは限らないことを考慮せずに、国家が正しいとする価値観に個人を従わせ、縛ろうとする国家主義の立場に立つ精神である。

 ただ、現在の日本は国家を絶対とすることができない。政治家・安倍は、そうしたい願望を自らの血、自らの主義・主張の中に抱えていると言うことだろう。今さら言うまでもないが、安倍は偉大な隠れ国家主義者なのだ。

 国家主義精神が彼の全身の血に脈々と波打っている。国家主義が許された戦前体質の人間なのである。だから、「家族を愛することや、生まれ育った国のために働くことを『損得を超える価値』」とするなどといった、普通の精神の人間だったなら、必ずしも絶対とすることはできない価値対象を単純・単細胞に絶対とすることができるのである。

 戦前の「生まれ育った国」は絶対だったのか。戦前、国が言っていたことは、殆どが間違っていたのではなかったか。そのような「国のために働」いたことが、どれ程に役立ったというのか。国民の殆どが手痛い目に遭ったのではなかったか。

 愚かしい幻影に過ぎなかった歴史を顧みず、政治家・安倍は、現在もなお「国」を絶対としている。「国」の言うことは正しいとしている。余程時代錯誤な人間でなければできない芸当であろう。このような政治家が信用できるだろうか。できるとしたら、幸せ者だ。

 靖国神社に祀った戦没者を「国のために殉じた」とすることができるのも、〝国〟の価値と〝殉じる〟価値を等価に置いている言葉の配置から窺えるように、国を絶対としているからこそ言える認識であろう。

 国を絶対とするには、国の内容も戦争の中味も問題としない、問題としてはならない。国が絶対であるから、その国に〝殉じる〟国民の行為をも絶対正義とする正当化が可能となる。そこから、日本の戦争は侵略戦争ではなかったという公式を導き出すことができる。戦前の正義を、現在も正義としている。

 当然、教育基本法にも、「愛国心」教育の規定を設けたいわけである。今ある国をより絶対としたいがために、隠れ国家主義者としては国を愛せ、「生まれ育った国のために働」けと言いたい衝動を抑えることができないでいるのだろう。

 「家族」にしても、どうしても愛せない国があるように、同じように愛せない家族というものもある。それぞれに個人に関わる問題であることを無視して、「損得を超える価値」だと国の立場から関わり、従わせようしている。

 「損得を至上の価値としている若者が増えている」にしても、頭の悪い的外れな言いがかりに過ぎない。

 人間は本質的には利害の生きものだから、本来的には「損得」を基準に行動する。その「損得」が社会的基準からはみ出しているということを言っているのだろうが、はみ出しているとしたら、、若者だけではない。

 若者も大人も同じ社会の中で生きている。若者だけ、大人とは関係なしに別個の社会に生きているわけではない。先人である大人がつくり上げた社会の空気を養分として、その影響を受け、生き、育ち、活動している。若者が「損得を至上の価値としている」なら、大人がそうだから、そのことに染まった価値観としてあるに過ぎない。

 いわば大人の精神を受け継いで若者の今があるのであって、若者に先に現れて、若者世界だけにとどまっている精神など存在しない。若者特有の精神・文化と見えるものは、大人から受け継いで、変異したもの、あるいは変異させたものに過ぎない。アメリカの文化を受けついで、日本人の精神を濾過して、日本的に変異したり、変異させたりするのと同列構図にある。

 政治家の族益優先、汚職、官僚の省益優先、汚職、天下り、建設・その他の談合、企業の産地偽装、表示偽装、粉飾決算、脱税、インサイダー取引、不正入札、その他その他――そのような「損得を至上の価値」としていることから起きている若者たちの「損得を至上の価値」なのである。若者は大人の姿を正直かつ忠実に受け継いでいるに過ぎない。

 如何なる国の人間であろうと、如何なる民族の人間であろうと、同じ人間の範囲内の生きものとして生き、存在している。それと同じように、日本の若者は同じ日本人の範囲内の生きものとして生き、存在している。そこから外れることは決してできない。そのことに考え至らないような政治家が次期総裁候補として、最も国民に人気がある。日本人の人間を見る目がないとしか、解釈しようがない。
「市民ひとりひとり」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イルカ騒動から見る規則と危機管理

2006-03-21 06:27:24 | Weblog


 2月末、千葉県一宮町の九十久里浜に大量のゴンドウイルカが打ち上げられというニュースが新聞やテレビで報じられた。浜辺にいたサーファーたちが救助にかかったが、如何せん、相手の体重が体重で、簡単には動かすことができない。動かすことができても、荒い波に押し戻さてしまう悪戦苦闘の繰返しで、海に戻すことができたのは数頭のみで、90頭近くを死なせてしまったという。

 そのときは報じられなかったことだが、3月18日の朝日朝刊が、イルカ救助に当ったサーファー組合長が集まってきたサーファーだけでは人手が足りないと見て、「住民らに救助の手助けを求めるため、町の防災無線の使用を求めた」が、「『災害や人命に関わること以外は放送できない』と断られていた」事実を伝えていた。

 近藤直町長は「(イルカを助けることは)人道的だから、使ってもよかったかもしれない」と反省しつつも、「担当者の判断に誤りはなかったとし」、「海が荒れていたことから、『町の要請で住民が出ると、二次災害も心配だった。(防災無線を)どこまで使っていいのか線引きは難しい』と話」していいたという。

 「担当者」の「災害や人命に関わること以外は放送できない」という対応は、〝救助〟という活動内容を「災害や人命」に関する活動のみに限定して、イルカは〝救助〟活動の対象から排除したからできた対応であろう。いわば「担当者」の頭にある〝救助〟という意識の中にイルカは入れてもらえなっかたのである。あるいはイルカを入れる余地がなかった。そのことの正しい、正しくないは別問題として、「担当者」の意識がそのまま規則の忠実な解釈と遵守に常に添い寝した状態をにあることを如実に物語っていると言えないだろうか。

 規則の忠実な解釈と遵守は、一歩間違えると、危機管理の対応不適合につながる。児童相談所が児童に対する親の虐待を把握していながら、有効な手段を取ることができずに、親の新たな虐待に先を越されて児童を死なせてしまう事例が跡を絶たないのは、規則に則った対応まで怠っているということはないだろうから、規則を離れた場所で即応的な一歩を踏み出せないでいる隙を突かれた危機管理の不適応としてある出来事としか考えられない。

 いわば規則の履行とその時々で必要とされる有効な手立てとの間に少なからず距離があるということだろう。逆説するなら、距離を埋めるまでに至っていないからこそ起っている悲劇でもあろう。

 先ごろ区立中学2年の男子生徒が東京世田谷区のマンションの自宅に放火し、生後2カ月の女児を死なせてしまった事件があった。少年は父親が以前離婚した母親と一緒に暮らしていたが、不登校となり、施設に預けれらた後、希望していた父親と一緒に暮らすことになった。現実の父親は躾に厳しく、一緒に暮らしたいと希望して夢見たに違いない父親との数々の場面は、故郷は遠きにありて思うものと同じく、離れて暮らしていたからこそ手に入れることができた美しい光景でしかなく、裏切られた想いの反動で、父親を困らせてやろうとして放火した結果が、父親と新しい母親との間に生まれた生後2カ月の腹違いの妹まで殺してしまった。

 事件が報じられたとき、施設の職員は退所後の少年の様子を追跡していたのだろうか、追跡していたなら、少年にとっても、新しい両親や生後2ヶ月の妹にとっても、このような悲惨な事件は起らなかったのではないか、退所したら、もう関係者ではないとしてしまったのではないかと思ったりしたが、その後の報道で追跡していたことを知った。

 但し、援助を必要とする当事者の少年に対してではなく、父親に少年のその後の様子を訊ねる形式の追跡調査であった。職員の問いかけに、父親は「落着いている」と答えたそうだ。それで、何事もなく、うまくいっていると思ったのだろう。
 
 その追跡調査が父親に直接会って行った面談だったのか、電話を通しての状況調査だったのか、報道では知ることはできなかった。電話を通してだったら、致命的である。直接的な面談が困難な程に父親と施設との物理的距離が離れているわけではないにも関わらず、相手の感情を理解するには声の調子以外素振りも顔の表情も把握することができない電話を選択することは、長電話を想定するはずはないから、簡略に済ませる意識が働いてのことだろうからで、少年の将来に関わるかもしれない重大な案件だと見なしていたなら、決してしてはならない手段であろう。

 もし電話だとしたら、ただ単に事務所の椅子に腰掛け、手を伸ばして受話器を取り、規則を消化するために一応の様子窺いをした事務処理と疑われても、反論はできないだろう。

 何よりも少年本人に直接会って確かめることが求められたはずである。それが電話であろうと、父親への直接的面談であろうと、少年との接触を省いたことは、その時点での父親と少年の心理的距離を測る意識をも全く省略していたことを示す。

 少年が離婚した母親よりも父親との生活を望んだ以上、父親には父親という立場上の手前があったはずで、父親が父親としての面目や世間体に拘らない保証は限りなく少ないと考慮に入れることができたなら、施設は少年との面談をより重視したに違いない。

 面目や世間体からは、実際の思いや態度は見えにくい。少年や新しい母親とも面接して、それぞれの生活上の葛藤のあるなし、あるとしたら、どのような葛藤か、どの程度に昂進しているか、危険な状態なのか、そういったことを確認することが施設が抱えるべき少年に関わる危機管理というものであろう。

 少なくとも施設はその面倒を省いた。規則になかったから、省いたのか。規則にはあったが、そこまで思いが至らずに省いてしまったとしたら、規則さえも満足に遵守できない危機管理不適応症状に陥っていたということになる。

 「命の尊さ」を誰もが言うが、実際の行動が伴わない例が多い。

近藤直町長の「二次災害も心配だった」は、防災無線の使用要請を断ったことに対する跡付けの弁解に過ぎないのではないか。例え町の要請で開始した行動であっても、個人に関わる危機管理は最終的には自分自身の判断にかかるからである。荒れた波が押し寄せる様子を目で見ただけで、自分の身体をしっかりと立たせていることが可能かどうか、判断しなければならないし、そのような悪状況下でイルカという巨体を動かすのである。子どもが手を出そうとするはずはなく、力があり、俊敏な身動きが可能な若者か壮年者――見ただけの状況で、大体の判断はできるし、判断しなければならい。勿論、実際に行ってみて、イルカを動かせなかったということもあるが、そのことは「二次災害」とは無関係のことである。

 尤も町は断ってよかったのではないかとも考えることができる。日本人は決められていることを指示された場合は、決められたことだからと従うが、決められていないことには、面白半分にできて世間の注目を浴びることができるとか、後で自慢の種になるとか、何らかの利益が計算できなければ、自分から積極的に動くことはしない人種だから、誰も要請に応じなかったら、町全体が恥をかくことになっただろうからである。

 「市民ひとりひとり」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メール問題で、前原民主党代表が侵した「推定無罪」

2006-03-18 06:08:47 | Weblog

 民主党のメール問題は、衆議院懲罰委員会での永田議員に対する弁明聴取の質疑が24日(3月)から行われることがほぼ決定したということだが、17日朝のテレビでは、民主党内では永田辞職包囲網が敷かれ、誰が鈴をつけるかというところまで進んでいるといったことを伝えていた。いわば情報仲介者の名前も含めて、虚偽のメールを掴まされた経緯の解明と、虚偽と見抜けずに事実と見なして国会で追及するに至った永田議員の取るべき責任の程度に集中している。議員辞職すべきか、させるべきか。そこまでしなくてもいいか。

 野田国対委員長の後任に決まったときは、亡霊が出てきたとしか思えなかった新国対委員長の渡部恒三流に言えば、「腹を切るべきか、切らなくてもいいか」となる。渡部氏本人は、「腹を切れ」と言っている。一旦は党員資格停止で片付けた前原代表にしても、「いわゆる懲罰委員会、衆議院の決定に従う」と、結果次第では辞任止むなしの態度だ。

 すべては、永田議員どまりの問題となっている。
 
 玉を出し過ぎたパチンコ台なら話は分かるが、果たして永田議員のみで打ち止めとしていい問題なのだろうか。

 民主党の鳩山幹事長の談話によると、「党首討論でも、新しい決定的な事実を示すに至らなかった。100%の信憑性を立証できていない」といった状況にあったにも関わらず、前原代表はその党首討論で、「確証を得ている。国政調査権の発動をお願いします」と小泉首相に若さ溢れる断固とした厳しい口調で迫った。

 「党首討論を楽しみにしていてほしい」と気を持たせる予告編を打ってまでして、それを裏切って、「新しい決定的な事実」という物的証拠に関わる切り札を持たないまま党首討論に臨み、国政調査権の発動を迫ったというわけである。それがどういうことなのか譬えるなら、カード賭博で言うところの〝no trump〟(切り札なしの勝負)に賭けたということだろう。そうとしか解釈しようがない。そうでなけれ、辻褄が合わなくなる。

 「国政調査権」が発動された場合の手に入れることができると推定し、賭けに出た「確証」が問題となる。前原氏は「資金提供が武部氏の次男を通じてなされたのではないかという確証を得ている」と公言していたのだから、その「確証」とは、証拠はないものの、公言に添った事実の存在を推定していたとしなければならない。

 物的証拠という前提なしに国政調査権が発動されて、前原氏の推定どおりに「資金提供が武部氏の次男を通じてなされ」ていた「確証」を、3千万円が振込まれたとする武部氏の次男の口座から確認できたとしたら、その成功を前例として、物的証拠なしの国政調査権の発動が合理化される危険性を孕むことにならないだろうか。

 このことを正当とする主たる根拠は、火のない所に煙は立たないを正しい道理とする他人や世間の噂への信頼であり、そのことの補強材料が、叩けばホコリが出ない人間はいない、あるいは後ろ暗いところのない人間はいないという決め付けではないだろうか。目的の容疑で物的証拠を見い出せなくても、噂を頼りに誰もが抱えているに違いないホコリや後ろ暗さを突ついて何らかの罪をつくり出すことができれば、その手続きを正当化し得ることを前提としてのみ、調査や捜査が可能となる。

 いわば、目に現れていない憶測の疑いを対象に調査・捜査が行われ、例え目的の容疑は立証できなかったとしても、微罪相当であっても、余罪を摘発できさえしたら、間違っていなかったをルールとすることができる。
 
 こういったプロセスへの展開は、気に入らない人間を陥れようとしてありもしない噂を振り撒いて非難の対象、最悪の場合は捜査の対象に仕向ける密告の風潮を呼び込み、また官憲を含めた真偽を確かめる側も、物的証拠を探す努力を省略して、疑わしさへの見込みのみで判断する傾向への助長を結果とするに違いない。

 このような社会はもはや警察国家を意味する。証拠があるなしに関係なしに、気に入らないとか、何となく胡散臭いといった理由だけで、上位権威にある者は下位権威の者に対して罪を着せたり、名誉を傷つけたり、貶めることが可能となるからである。

 前原代表は自分では気づかずに、そのような方向に向けた意志を働かせたのである。裁判に於いても、犯罪捜査に於いても、「疑わしきは罰せず」、つまり「推定無罪」が大原則である。このことは裁判や犯罪捜査でけではなく、政治家だろうが誰だろうが決して侵してはならない人間関係に於ける絶対的社会規範としてあるものだろう。疑わしいというだけで、あの人が盗んだとは断定も断言もできないのは、「疑わしきは罰せず」・「推定無罪」が社会のルールとしてもあることの証明である。
 
 大袈裟に言うなら、政治家として前原氏は公党の代表を務める責任ある立場にありながら、「疑わしきは罰せず」とか「推定無罪」を頭に思い描くことなく、国会で警察国家を誘導することになるかもしれない無謀な要求を行ったのである。
 
 このことは永田議員以上の罪であり、永田議員以上の責任を取らなければならない大いなる過ちではなかっただろうか。
 「市民ひとりひとり」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

単細胞な「中国脅威論」 

2006-03-15 04:16:04 | Weblog

◆ 単細胞反応な「中国脅威論」 

 声高に「中国脅威論」が叫ばれている。

 国防予算が18年連続2桁の高い伸び率(06年度国防予算は、前年比約15%増)を示していること、その上、予算が何にどう使われているのか、実態が不透明なことが根拠となっている。

 04年11月の中国原潜の石垣島近海で発生した日本の領海侵犯や、同年の東シナ海の日中中間線に於ける中国側の強引な海底油田開発、それに小泉靖国参拝に端を発した中国国内での過激な反日デモ等に対する不快感が背景となって、「中国脅威論」に拍車をかけている面もあるに違いない。

 日本と中国との間に「現実的」に軍事的緊張関係が生じているわけでもないのに、民主党の前原代表がワシントンの講演で、「中国の軍事力は現実的脅威」だと勇ましくもぶった。ストレートに過ぎて、中国側から反撥を受けるのは当然で、一党の代表を務めるほどの政治家ならそのことぐらいは計算に入れておくべきを、中国を訪問して、望んでいた胡錦涛胡主席との首脳会談すら実現させることができなかったのは、愚かにも計算に入れておくことができなかったからだろう。

 問題は軍事予算の規模ではなく、意志である。全体的な国力が大人と子ども程にも差があった現実を無視してアメリカに日本は戦争を挑んだ、その意志である。何か問題が起きたとき、日本にしても世界有数の軍事力を擁している上に、世界1位の突出した軍事力を持つ同盟国であるアメリカの太平洋軍が中国周辺の日本やその他を基地として中国に向けて兵力を展開している状況下で、中国は日本に攻撃する意志を具体化できるだろうか。具体化したとしたら、例え日本が相当な打撃を受けたとしても、中国はかつての無様な日本の二の舞を演じるだけで終わるに違いない。かつての日本ならいざ知らず、歴史を学んでいなければならない今の中国がそこまでバカを犯す「意志」を発揮できるだろうかと言うことである。

 民主党は今年年2月に「見解案」としてだが、中国が日本に対して軍事的行動を起こそうとする「意図」は認めがたいとして、前原代表の「現実的中国脅威論」を事実上棚上げしている。「脅威」が実態的な形を取っていないと認識したということなのだろうが、棚上げという面倒を取らなければならなかったこと自体、当初の判断が外交的な面から言っても、ミスっていたことを示している。前原代表は勇ましいだけでは外交は成り立たないことを知るべきである。

 アメリカ国内にも、あるいは政府内にも「中国脅威論」を主張する勢力が無視しがたく存在する。中国を対象に兵力を展開しているのも、中国の軍事力と体制の違いを考慮に入れてのことだろうが、その一方でアメリカ政府は今回、アメリカ軍と中国軍の交流を決定している。敵を知り、敵に影響を与える戦略なのだろう。

 アメリカの中国に対する敵を知る戦略は、軍の交流だけにとどまらない。交流に先んじて中国語を「アラビア語やロシア語などと並んで『重大言語』の一つに位置づけ」、学校での語学教育を通して「情報収集力や対外発信力を高め」(06年1月28日・朝日新聞夕刊)る国家安全のための戦略(『国家安全言語戦略』)を今年の1月5日に打ち出している。

 尤も学校での中国語学習はアメリカでは既に広い範囲で行われていて、「シカゴの公立校に中国語の授業が初めて取入れられたのは99年」(同記事)だという。元々大国としての潜在力を持っていた中国の、潜在力を裏切らない経済成長と世界的な影響力拡大に合わせてアメリカらしく視野広く対応した動向でもあったのだろう。

 オレゴン州のポートランドでは、「1日の授業のうち半分が英語、半分が中国語というプログラムが一部の幼稚園から高校まで行われてい」て、「今年はこのプログラムをオレゴン大学にも拡大して、『中国語エリート』養成を目指す」計画だそうだが、「年間70万ドルの予算をつけたのは国防総省」(同記事)だとは、『国家安全言語戦略』に添った措置だとしても、国家戦略の実現に向けた長期的視野に立ったプランは見事で、驚きでさえある。

 外国語の習得は、単に会話が可能となることを超えて、会話を通してそれぞれの国の今を生き、生活している人間がそれぞれに持つ文化の相互的な習得に至る。人的交流が相互理解を生む所以であろう。

 日本は政府予算でここまでするだろうか。考えつきもしないだろう。「中国脅威論」を言い立てるだけが精々ではないか。靖国神社参拝強行で対中韓政治・外交が停滞したなら、それを埋め合わせる外交方策を講じる責任が参拝者本人である小泉首相にはあるが、打つ手を見い出せない始末である。このことは内外から日本の政治・外交に戦略性が認められないと酷評される象徴的シーンの一つに挙げることができる。

 中国の軍備増強政策に対しては、中国はいずれの外国とも軍事的危機関係にあるわけではなく、国家指導者の第一番の義務は国民の衣食住を過不足なく、より公平に近い形で保障することであることを考えるなら、軍備増強よりも、都市と農村との経済格差・生活格差の是正や住民の健康に関わる工場廃水や工場煤塵に対する環境汚染問題の改善・整備により多くの国家予算をかけるべきだと、牽制球を投げることも、軍備増強を意識の上で悪と仕向ける戦略の一つに挙げることができるだろう。

 北朝鮮に対しては、一国の体制の維持は国民の生活を保障することによって可能となるのであって、核兵器の開発によってではない。逆に核兵器開発に向けた乏しい国家予算の偏った注入は、国民の飢餓・餓死の解決に何ら役立たないばかりか、解決を阻害する愚かな政策で、体制の維持とは反対に、内側から崩壊させる重大な要因とならないとも限らないだろうぐらいは言ってやるべきだろう。

 中国、北朝鮮とも内政干渉だと言ったなら、国民の衣食住を保障する義務は国家権力を担った人間の理としてあるもので、そのことは人種・民族・国籍を超えた世界的な普遍的価値でなければらないと言い返してやればいい。そうしない指導者は劣ると。
 
 手代木恕之
 HP「市民ひとりひとり」
 http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教育基本法」と「愛国心」

2006-03-13 05:27:07 | Weblog

 自民党の安倍晋三官房長官は改正を目指している『教育基本法』に、「国を愛する心」、いわば「愛国心」の涵養を求める表現を盛り込むべきと主張している。

 日本の政治家・官僚に『愛国心』を言う資格があると思っていること自体、人間が鈍感にできている証拠である。
   
 人間は自己利害の生きもので、自己利害を基準に行動する。「国を愛する」ことが自己利害と一致する場合は、「愛国心」を発揮するだろう。一致しない場合は、自己利害の生きものとして、「愛国心」よりも、自己利害を優先させる。 

 つまり、「愛国心」にしても、自己利害表現に過ぎない。政治家と癒着して、うまい汁にありつけるからという自己利害から、何て素晴しい国だと「国を愛」している人間もいるだろうし、国と関係のある機関に勤めている立場上、「国を愛する心」を表明せざるを得ないという保身上の自己利害から、そうしているという人間もいるに違いない。学校の入学式や卒業式といった行事のときは国旗掲揚と国歌斉唱を義務づけられているから、それに従っているだけのことだと、事勿れであることによって精神的安定を得る自己利害からで、別に「国を愛する心」があるわけではないという人間もいるだろう。

 そういった態度は何も戦後に特有な風潮ではなく、戦前から伝統としてきた。大日本帝国憲法で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し、「神聖ニシテ侵スヘカラス」絶対的存在である「天皇」を頭上に戴きながら、明治の時代も、大正の時代も、さらに昭和の戦前も、政治家・官僚の汚職・不正ははびこるに任していた。何よりも「愛国心」を発揮しなければならない政治家・官僚が「愛国心」ではなく、自己利害を優先させていたのである。しかも、人身売買・飢餓・貧富の格差・差別といった常態化した社会の矛盾を置き去りにしての自己利害優先だった。

 世界が不穏な状況となり、国際関係が緊張しつつあった昭和12年に、帝国憲法の規定だけでは足りずに『国体の本義』を発表して、「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立っており、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある」と、「天皇の大御心を奉体すること」を以て新たな道徳法則とすべきであるとしながら、政治家・官僚の不正・犯罪はなくならず、社会の矛盾の解消に何ら力とはなり得なかった。

 確かに戦前、国民を侵略戦争に駆り立てるには「天皇」と「愛国心」は役に立った。しかしそれは表立たさなければならない同調行為だったからだろう。表立たせなければ、「非国民」、「国賊」、「スパイ」と非難され、社会から弾き出された。もしも表立たせなければならない制約が存在しなかったなら、「愛国心」表明が物質的・経済的な自己利害に一致する人間以外は、どれ程の人間が「愛国心」を振りまわしたりしただろうか。

 そのことの証明は、最も「愛国心」意識の高揚が求められた、「欲しがりません、勝つまでは」という戦争のさなかの窮乏時の、「世の中は星に錨に闇に顔、馬鹿者のみが行列に立つ」光景が十分に説明している。陸軍軍人(「星」)や海軍軍人(「錨」)、それにヤミ屋(「闇」)、土地の有力者(「顔」)といった社会の上層に位置する連中が「愛国心」を振りまわせば振りまわす程、社会の上層者としての地位と権力をより信用あるものとし、そのことが配給の行列に時間をかけて立たずとも横流しやヤミ取引で配給以上の上等な食料品や生活嗜好品を簡単に手に入れる役得行為をより確かに保証する自己利害に役立つ一致があったからこそ可能とした光景というわけだろう。

 つまり、天皇の存在は「天皇バンザイ」と両手を上げさせることができたとしても、表立たない場所での日本人の道徳性に関しては当てにもならなかったのである。戦前の天皇がそうなのだから、戦後の今日に於いても、学校教育で「愛国心」を植えつけることができたとしても、表立たない場所では自己利害優先の欲望力学の前に何の力も持たないだろう。

 そしてそうであることを何よりも政治家・官僚の現在の生態がそのことを如実に物語っている。

 「愛国心」を言うなら、政治家・官僚がまず国民が愛着の持てる国家建設・社会建設を行うべきだろう。政治家が族益や特定勢力との癒着といった自己利害を、官僚が省益や天下りといった自己利害を優先させ、社会の矛盾をつくり出していながら、国民には「愛国心」をでは、片手落ちに過ぎるということだけで片付けることはできない。自分たちが「愛国心」ある人間であることを前提としていて、初めて国民に「愛国心」を求める資格が生じる。政治家・官僚が今のままのザマで、国民に「愛国心」を求めるのは、国民に求めることによって、さも自分たちは既に「愛国心」ある人間であると思わせて、自分たちの薄汚い実態をカモフラージュするトリックを仕掛けるだけのことでしかない。

 同じ自己利害でも、政治家・官僚が社会の一員であることから外れない社会性ある自己利害をルールとしたなら、まあ、日本の政治家・官僚には無理な相談だろうが、国民も、同じルールに立つべく制約を受けることになる。そういった志向性を持つことこそが、形式で片付けることができる愛国心ではない、また、大袈裟に愛国心を振りまわさずとも国や社会の秩序の確立に実体的に役立つ根幹的な要請となるものではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする