副題:中学校非義務教育化による一教科専門学校化が多様な可能性に応じた居場所としうる
尾木直樹は2013年2月1日発売の自著『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』の「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」第6節で、「大きな理想を掲げていじめ解決に取り組んでいきましょう」と取り組み可能性を保証する元気一杯の掛け声で、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」を画像で提示。児童・生徒に対する「直接的アプローチ」と「間接的アプローチ」に分け、「直接的アプローチ」のテーマは「ほほえみを以って子どもを丸ごと愛する受容と寛容」、「間接的アプローチ」のテーマは「全分野への大胆な参画・子どもが主人公」とする「権利としての子ども参画」を高らかに謳い上げている。
その実効性をゆめゆめ疑ってはならない。日本で有数の教育学者尾木直樹の頭脳が生み出した「本気でいじめをなくす」」と銘打った「愛とロマンの提言」である。
「プログラム」の中の「直接的アプローチ」、「個人への対応」は「保護者への防止プリント配布」、「いじめっ子タイプへのケア」、「アトピーっ子へのケア」、「いじめられやすい子に自己肯定感を」の4項目を"いじめをなくすための愛とロマン"として取り挙げているが、「保護者への防止プリント配布」を除いた以下の3項目と、プログラム外で、「大切な視点」だと断っている、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」についてその妥当性に検討を加えたいと思う。
特に「どの子にも居場所と出番」は最重要の課題であろう。学校社会で正当とされる"居場所と出番"をどの子も見つけることができたなら、イジメを"居場所と出番"とする必要はなくなる。当然、尾木直樹は「どの子にも居場所と出番」を最重要課題、"取扱注意"の札を貼り付けて取り組み、尾木直樹流の創造的な答を出さなければならない。
では、最初の(個人への対応)の「いじめっ子タイプへのケア」について見てみる。いじめっ子タイプはどのようにして見つけるのだろうか。「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「今日のいじっ子は明日のいじめられっ子」で、次のように解説している。〈1980年代ぐらいのいじめでは、まだ「いじめる子どもたち」が見えやすい状況にありました。いじめをするのは大体が乱暴で勉強嫌い、そのため成績もあまりよくなくて、日頃の素行も悪いことから教師たちに目をつけられている不良タイプが多かったものです。〉――
だが、現代のイジメは、〈いじめっ子といじめられっ子がわかりやすく記号化されていた時代と違い、教師や親からの信頼が厚い、しっかりとしたリーダータイプの子でさえ、いじめられっ子になり、いじめっ子にもなるのが現代版のいじめです。〉と特定困難性を強調している。但し現場教師だった頃の経験から、「いじめっ子10の特徴」を割り出して紹介している。それはイジメを働いた児童・生徒の性格や行動特性を分析して得たタイプ付けであって、「いじめっ子タイプへのケア」とはそのタイプに当てはまる子どもを選別してケアすることを意味しているはずで、イジメを働いたわけではなく、タイプだからと言って、イジメを働くとは決まっているわけではなく、あくまでもタイプと言うだけでケアする理由をどうように設けるのだろうか。「君はいじめっ子タイプだから、いつかはいじめを働くかもしれない。ケアする必要がある」とでも言うのだろうか。誰が考えても許されるはずもないケアの類いとなるはずだ。
未遂でも既遂でもない、疑わしい行動を取っているわけでもない、タイプというだけで犯罪可能性の容疑をかけてケアするかしないかの選別をかけるのだから、人権侵害、人間差別となる恐れが生じるだけではなく、逆に反発を受けることになる危険性を招くことになる。
但しクラスメートを常習的にからかったり、プロレスごっこでいつも技を仕掛ける子がいる場合、それは既にタイプであることを超えて、疑わしい行動を取っていることになり、声掛けという形でごくごく初期的なケアを心がける必要は出てくるが、相手が自分がしている行為を遊び感覚・ゲーム感覚でしていることと頑なに思い込んでいた場合、ケア自体を受け付けないケースが出てくる。尾木直樹自身もイジメているとは認識していない遊び感覚・ゲーム感覚のイジメの始末の悪さを訴えているのだが、こういった現実に存在するケースを一切考慮しないケア設定となっていることからも、有効性は著しく見い出し難い。
「君がしているプロレスごっこは君がいつも技を仕掛けているが、イジメになっていないか?」
「彼とは友だちで、普通に遊びでプロセスごっこをしているだけですよ。自分の方が力があるから、いつも勝つことになるけど、ときどきわざと負けてやって、バランスを取れということですか。わざと負けて、相手が勝ったことにするなんて、彼を馬鹿にすることにはならないですか?」
「彼は嫌がっていないか?」
「彼に聞いてみてください。もし嫌がっているようだったら、彼と遊ぶのはやめます。わざと負けることなんか、彼を馬鹿にすることだから、そんなことはできませんからね」
「彼」に声掛けをしても、一緒に遊ぶのをやめるという言葉が自身にとって何をされるか分からないという恐怖となって、ある種の威しとなり、「別に嫌でもなんでもないですよ」と答えるケースも出てくる。
「彼」が精神的と身体的苦痛を訴え出て、既遂状態であることを把握して初めて相手に対するそれ相応のケアは正当性を持つこととなり、人権侵害でも人間差別でもなくなるだけではなく、イジメっ子のイジメ被害者に対する人権侵害であり、人間差別であることを伝えることができるが、この場合はあくまでも「いじめっ子へのケア」ということで、ケアとして成り立つが、タイプというだけでは、誰に対してもケアは成り立たないはずだ。
当然、こういった事態を避けるためにも、イジメっ子タイプだからとケアすることによって生じる人権侵害や人間差別を避けるためにも、特定の児童・生徒を対象とするのではなく、児童・生徒全員を対象とした主体性の確立、精神的な自立(自律)を先に持ってこなければ、イジメは簡単には抑えることはできないし、抑えることができたとしたとしても、個々の解決で終わり、イジメは繰り返されることになるだろう。
多くの犯罪者の中から共通する性格を抜き出して犯罪者タイプを導き出すことはできても、犯罪者タイプだからと言って、犯罪予備軍と看做すことは人権上、優生思想に繋がりかねない問題が生じる。2015年から2022年までの間の犯罪に於ける再犯率は48~49%台でほぼ一定していると言うから、半数は更生していることになり、タイプは常にタイプであるとは限らないことを認識しなければならない。だが、尾木直樹は認識不可としている。
尾木直樹自身、「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「これが『いじめをしているときの子どもの特徴』です」で、外見は圧倒的に普通で成績のよい子でも、イジメっ子になるし、人望があって信頼が厚いクラスのリーダーみたいな子が、裏に回ると大変なイジメの首謀者だったといったこともあり得ると警告していることは誰がイジメ加害者になるかはイジメが発覚してから分かることで、このことはタイプでイジメっ子を識別することの不可能性の指摘となり、「いじめっ子タイプへのケア」は人権侵害、人間差別という点でも成立させ得ないことを示す。
当然、尾木直樹の「いじめっ子タイプへのケア」は無駄・無効と言うだけではなく、危険な上、小賢しいだけの発想としかならない。
「アトピーつ子へのケア」はアトピー性皮膚疾患が顔等の見える場所に現れて、容姿を気にし、他人の目を意識するあまり、全てに臆病となって、引っ込み思案を招き、何事につけてもハキハキした態度を取れなくなる。そういっところを突け込まれてイジメを受けやすいことから、ケアが必要ということだろうが、アトピー性皮膚炎は皮膚のバリア機能の低下によって引き起こされ、ストレスが悪化の一因となる心身症に発展、心のケアは治療過程で行うとされている。学校ですべきことは、同じ「第3章 どんな子がいじめをするのか」で、「どんな事情があっても『いじめるほうが100%悪い』のです」と指摘しているのだから、クラス全員・全校生徒対象にアトピー性皮膚炎は伝染しない病気であること、完治までにときには何年とかかる治療困難な病だが、完全治癒するということを誰もが理解しなければならないと強く求めて、「もしアトピー性皮膚炎の児童・生徒が引っ込み思案でいるようなら、仲間に入れてやる、仲間に誘ってやるぐらいの強い意志を持たなければならない。強い意志を持てずに逆にからかったり、冷やかしたり、『キモっ』などと侮蔑の言葉を吐きかけたり差別するようなら、そういった差別をする児童・生徒の方こそが精神の病に罹っていると言える。最低限、そっとしておいてやるぐらいの思い遣りは持たなければならない。そっとしておいてやる思い遣りは無視することとは違うことぐらいは理解しているはずだ。そっとしておいてやる思い遣りはそれなりに相手を気遣う態度だが、無視は相手の存在自体を認めまいとする軽蔑や敵意が僅かでも混じっていて、相手の気持ちを傷つける態度で、この違いが分からないようでは理解力を疑われるだけではなく、人間としての育ちの点でも疑われることになるだろう」等の言葉かけを行って、周囲のイジメや差別を止めることを優先させるべきだろう。
尾木直樹は「いじめっ子タイプ」や、「アトピーつ子」へのケア取り上げるよりはイジメそのもの、差別そのものを問題視すべき課題だとする留意点を忘却する、見当違いも甚だしい過ちを犯して平然としている。この程度の教育者でしかない。
(個人への対応)の「直接的アプローチ」の最後に、「いじめられやすい子に自己肯定感を」と提唱している。「いじめられやすい子」と特定すること自体が尾木直樹は差別や人権侵害になると気づいていない。特にほかのところで、〈実際に起きたいじめ事件を丁寧に分析してみると、決して「弱い者」だけがいじめられているわけではない。〉と指摘している以上、「いじめられやすい子」は選別不可能となるはずだが、この不可能を忘れて、可能とするのはご都合主義以外の何ものでもない。
既に書いていることだが、イジメもイジメる能力や才能に基づいた一つの活動であり、その活動に自身の可能性の追求を置き、追求の成果を自己活躍と看做し、自己活躍自体が自己実現の一つとなり、その自己実現を自己肯定感の根拠とする。自己肯定感に繋がる才能・能力の何らかの発揮は誰にとっても必要だが、その自己肯定感は自身にとって有意義であっても、学校社会に於いて誰にも有害とならない、多くの生徒に参考となる自己肯定感の保持でなければならないのであって、当然、こういった道理を全児童・生徒を対象に理解させなければならない。
いわば、「いじめられやすい子」に限ったことではなく、誰にとっても他者に迷惑や有害とはならない、誰の目にも有意義と見える自己肯定感を持つことは必要であり、持てるように全員を指導していくのが学校教育の本筋であるはずだが、そういった大局に立った教育を通してイジメ加害者を出さないようにしていくことが重要だが、尾木直樹は「いじめられやすい子」を特定する差別や人権侵害まで犯して、そのような子に限定した自己肯定感を云々する姿勢はあまりにも局所的で、狭い視野しか見えてこない。
主体性や自立性(自律性)といった資質を育むことの肝心要の必要性に何ら視点を置かない事柄を取り上げただけでも尾木直樹の「学校におけるいじめ防止実践プログラム」はイジメ防止の目論見としては欠陥製品だと断定せざるを得ないが、「いじめっ子タイプ」や「アトピーつ子」、「いじめられやすい子」に対して意識もできずに見せている差別観や人権侵害になるという点から見ても、有害な数々の提案であり、これが、「人権・愛・ロマン」だと言うから、悪臭フンプンとしたニセモノの教育論だとする評価がふさわしい。
では、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」について尾木直樹が実現可能性あるどのような提言をしているのか見てみる。だが、〈またどの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現も大切な視点となります。「間接的アプローチ」 では、心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立がポイントとなります。厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境をいかに緩和できるかということも学校の取り組みとしては重要になります。〉(蛍光ペンは当方)と謳い、要求するのみで、「実現」に向けた具体策についての助言は何一つ示していない。
ここでポイントとして挙げている、「心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立」も、「居場所と出番のある学級づくりの実現」と深く関わっていて、この実現によって手にするであろう積極的な生き方が活力ある精神的な安定性への獲得に向かい「心安らぐ学習・生活環境」を自分なりに工夫して確立することになるはずで、当然、「居場所と出番」云々を先に持ってこなければならない。
このことだけではない、「居場所と出番」こそが児童・生徒それぞれの可能性追求の機会と場を保証し、そこから自分たちなりの生きる姿が導かれていくのだから、学校は目標としては一人残らずの児童・生徒に対して「居場所と出番」を用意できる体制の構築に向けて努力しなければならない重要事項に入るはずだが、このような認識を尾木直樹は僅かでも持つことができないでいる。
「居場所と出番」を見い出せない象徴的現象が不登校であろう。尾木直樹の書籍出版前年の2012年度の文科省調査「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数676万4619人に対して2万1243人(0.31%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数355万2663人に対して9万1446 人(2.57%)と学年を追うごとに増えていて、因みに2022年度の調査を見ると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数619万6688人に対して10万5112人(0.8%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数324万5395人に対して19万3936人(6.0%)となっていて、少子化傾向であるにも関わらず10年間で小学生の不登校児童数は約8万4千人近く増加、中学生の不登校生徒数は約10万3千人近くに増えている。
「居場所と出番」を見い出せない児童・生徒は不登校児童・生徒に限られているわけではなく、義務教育だからと学校の勉強についていけないままに惰性で学校に行き、惰性で授業を受けている児童・生徒、あるいは参加したい運動部活動、文化部活動もなく、単に学校に機械的に顔を出すだけの児童・生徒、自らの「居場所と出番」だと心得違いをしてイジメを働く児童・生徒等々を含めると、相当数存在することが推定できる。2012年当時を考えても、無視できない人数が存在していたはずだ。
尾木直樹は「第5章」を「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と大々的に名付け、その線上で「学校におけるいじめ防止実践プログラム」を実効性を前提としてであろう、掲げた以上、「居場所と出番」づくりの建設的で有意義な案を優秀な教育学者としての知恵をフルに絞って提供すべき責任を負っていることになるはずだが、何一つ助言も指導も行う気配すら見せていない。尾木直樹は1972年4月から高校教諭として教師生活を出発させ、学校教師を22年間、1994年から教育評論家としての活動をスタートさせている。この書籍出版の2013年初頭まで40年余、教育に携わってきた。「居場所と出番」はイジメ問題の克服にも役立つはずだから、何かしらひとかどの見識――一家言があって然るべきだが、黙して語らず。語るべきアイディアが頭にないから、何も喋れないのだろう。
《こどもの居場所づくりに関する調査研究報告書》(内閣官房こども家庭庁設立準備室/2023年令和5年3月)は、〈社会的居場所とは、「自分自身がポジティブに活動でき、他者から存在や能力を認められ、評価してもらえる活動場所」を指す。〉と解説している。
当方は「居場所」とは主体性をベースとして子ども自身が持つ何らかの能力・才能に基づいた有意義と思える可能性の追求によって自己実現を見い出すことのできる機会と場と解釈している。自分から進んで行う主体性を纏うことができていればいる程、自分にとっての「居場所」は確固とした有意義性を増す。
「居場所」を見つけることができれば、「居場所」そのものが「出番」のチャンスを与える機会と場となる。
「居場所」を見つけ得ない児童・生徒の存在の原因の一つは価値観の多様化を言いながら、学校社会が各教科の成績を主体に運動部活動、文化部活動の成績で色付けした限られた価値観で児童・生徒を評価、結果的に可能性の追求に応じたそれなりの自己実現の機会と場がこういった画一的な価値観が占拠することになった「居場所」となっていて、価値観の多様化を反映していないことが一部の価値観以外を排除する力学を働かせることになっているからだろう。
当然、どのような価値観にも可能な限り対応できるようにする「居場所」の多様化・広範囲化を図らなければならないことになる。この方策として実は2008年11月18日「gooブログ」投稿の《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を‐『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の中で、価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるための学校改革を提案している。「居場所」の確保については直接触れていないが、間接的には触れている。
この記事は私自身のHP『市民ひとりひとり』の第9弾《提案します『中学校構造改革』》(2006年10月2日)に書いた内容を参考にしたもので、中学校を非義務教育化し、同時に学区制を廃止、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採って、好きな教科を学ばせる無試験入学の"専門学校化"とすることを提案している。「自ら学ぶ」形式の選択は自ずと自立性(自律性)と主体性を必須要件とすることとなり、そのような態度の育みへと向かう。
但し一教科を選択後、自身が学びたいこととの違いが気づいた場合は、自己責任に於いて他教科への中途転籍を許すこととする。中学校を例え非義務教育化しても、最低限高卒の学歴は獲得したい一般的な学歴主義から、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、中学校を非義務教育化しても、中学校へ進むだろうと予想されること。この記事には書かなかったが、非義務教育化しても、国が授業料その他を現在通りに負担すべきだろう。
学区制を廃止するのは一教科選択の生徒数がクラスを編成するには少人数過ぎる場合は近隣の中学校の同じ教科の生徒との合同の学級を組むためである。それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とする。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で仕切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。
例えば一教科選択の例としてマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のためにマンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。好きな教科の選択が児童・生徒の価値観の多様化に応じる体制とすることができ、結果的に「居場所」の確保に繋げることができる。
自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。
譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となる。いわば自己選択した一教科を学問への昇華へと持っていく。
具体的にはマンガ科に於いてもただ単にマンガのストーリー作りと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史についてとその伝統、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論について学ぶ。それはマンガ科に限ったことではない、人間や社会を知るプロセスとする。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。
このことは土いじりが好きな生徒の陶芸科に於いても準拠するプロセスとする。各国の陶芸について学び、その歴史について学ぶ。日本各地の陶芸について学ぶ。記事では触れなかったが、勿論、中間試験、期末試験等の試験は行う。出題の素材は無限と言えるだろう。
以上、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性の中学校非義務教育化の"専門学校化"によって、価値観の多様化に応じた「居場所」の確保について大体纏めてみたが、中学校の非義務教育化が非現実的に過ぎるなら、義務教育のまま一教科選択性の"専門学校化"とすることも一つの手である。
だが、学校社会は「価値観の多様化」を言いながら、その多様化に応えて、一部の児童・生徒以外に対してはそれぞれに相応しい「居場所」を提供できず、不登校やイジメ、無気力、その他の問題行動を抑えることができないでいる。
尾木直樹はイジメ対策として「居場所と出番」づくり以外に「厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境」の緩和、「子どもたちがこれまでの自分とは異なる一歩前進した『新しい自分づくり』に挑戦できる」サポート体制の構築等々の必要性を挙げているが、これらの必要性はそれぞれの児童・生徒のそれぞれの「居場所と出番」を用意できる体制を前以って整えておかなければ、満足な解決は期待できないはずだ。
にも関わらず尾木直樹は、〈理念に基づいた確たる構想抜きにしては、学校からいじめを吹き飛ばすことなど叶いません〉と、「構想」だけでイジメを吹き飛ばすことができるかのような言説を弄して得意になっている。この点だけでその悪質性の程度は小さいとは言えないが、「構想」の必要性だけを口にしてその実現は学校現場への丸投げとなっているのだから、綺麗事を口にしているだけの無責任は底が知れない。
綺麗事に過ぎない「」は必要ない。それぞれの児童・生徒が自分で見つけるか、父母や教師の手助けを得て見つけるかした、自らが得意とすることのできる何らかの才能・能力を自身の可能性追求の素材として何らかの有意義な自己実現を目指すことのできる「居場所と出番」を学校社会に用意する具体的な計画と実行こそが求められている。
義務教育のままであっても、非義務教育化であっても、学区制を廃止する「自ら学ぶ」形式の一教科選択性採用の児童・生徒の多様な価値観に対応させる中学校の"専門学校化"は決して非現実的な提案ではない。このことは大学の「一芸入試」が十分に証明してくれる。自己選択によって一つの教科を学問としてそれなりに極めることができれば、手にする知識・教養はほぼ暗記教育で成り立っている従来の教科教育で手にする知識・教養よりも遥かに柔軟性に満ちた生きる力を与えてくれることになるだろう。
何らかの才能・能力を試行錯誤する可能性の追求を自己選択を通して何らかの有意義な自己実現へと持っていく。この一連の試みを自らの「居場所と出番」とする。有意義な活動に向けた自己選択は自ずと主体性を育み高め、自立性(自律性)の確立を伴い、自己責任意識を確固としたものにしていき、自己実現のさらなる高みに向けた引き続いての可能性の追求を試みる方向に向かう。
イジメという活動に基づいた可能性の追求など、取るに足らないちっぽけなものに見えてくるに違いない。
尾木直樹は日本の教育にとって害以外の何ものでもない。
尾木直樹は2013年2月1日発売の自著『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』の「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」第6節で、「大きな理想を掲げていじめ解決に取り組んでいきましょう」と取り組み可能性を保証する元気一杯の掛け声で、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」を画像で提示。児童・生徒に対する「直接的アプローチ」と「間接的アプローチ」に分け、「直接的アプローチ」のテーマは「ほほえみを以って子どもを丸ごと愛する受容と寛容」、「間接的アプローチ」のテーマは「全分野への大胆な参画・子どもが主人公」とする「権利としての子ども参画」を高らかに謳い上げている。
その実効性をゆめゆめ疑ってはならない。日本で有数の教育学者尾木直樹の頭脳が生み出した「本気でいじめをなくす」」と銘打った「愛とロマンの提言」である。
「プログラム」の中の「直接的アプローチ」、「個人への対応」は「保護者への防止プリント配布」、「いじめっ子タイプへのケア」、「アトピーっ子へのケア」、「いじめられやすい子に自己肯定感を」の4項目を"いじめをなくすための愛とロマン"として取り挙げているが、「保護者への防止プリント配布」を除いた以下の3項目と、プログラム外で、「大切な視点」だと断っている、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」についてその妥当性に検討を加えたいと思う。
特に「どの子にも居場所と出番」は最重要の課題であろう。学校社会で正当とされる"居場所と出番"をどの子も見つけることができたなら、イジメを"居場所と出番"とする必要はなくなる。当然、尾木直樹は「どの子にも居場所と出番」を最重要課題、"取扱注意"の札を貼り付けて取り組み、尾木直樹流の創造的な答を出さなければならない。
では、最初の(個人への対応)の「いじめっ子タイプへのケア」について見てみる。いじめっ子タイプはどのようにして見つけるのだろうか。「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「今日のいじっ子は明日のいじめられっ子」で、次のように解説している。〈1980年代ぐらいのいじめでは、まだ「いじめる子どもたち」が見えやすい状況にありました。いじめをするのは大体が乱暴で勉強嫌い、そのため成績もあまりよくなくて、日頃の素行も悪いことから教師たちに目をつけられている不良タイプが多かったものです。〉――
だが、現代のイジメは、〈いじめっ子といじめられっ子がわかりやすく記号化されていた時代と違い、教師や親からの信頼が厚い、しっかりとしたリーダータイプの子でさえ、いじめられっ子になり、いじめっ子にもなるのが現代版のいじめです。〉と特定困難性を強調している。但し現場教師だった頃の経験から、「いじめっ子10の特徴」を割り出して紹介している。それはイジメを働いた児童・生徒の性格や行動特性を分析して得たタイプ付けであって、「いじめっ子タイプへのケア」とはそのタイプに当てはまる子どもを選別してケアすることを意味しているはずで、イジメを働いたわけではなく、タイプだからと言って、イジメを働くとは決まっているわけではなく、あくまでもタイプと言うだけでケアする理由をどうように設けるのだろうか。「君はいじめっ子タイプだから、いつかはいじめを働くかもしれない。ケアする必要がある」とでも言うのだろうか。誰が考えても許されるはずもないケアの類いとなるはずだ。
未遂でも既遂でもない、疑わしい行動を取っているわけでもない、タイプというだけで犯罪可能性の容疑をかけてケアするかしないかの選別をかけるのだから、人権侵害、人間差別となる恐れが生じるだけではなく、逆に反発を受けることになる危険性を招くことになる。
但しクラスメートを常習的にからかったり、プロレスごっこでいつも技を仕掛ける子がいる場合、それは既にタイプであることを超えて、疑わしい行動を取っていることになり、声掛けという形でごくごく初期的なケアを心がける必要は出てくるが、相手が自分がしている行為を遊び感覚・ゲーム感覚でしていることと頑なに思い込んでいた場合、ケア自体を受け付けないケースが出てくる。尾木直樹自身もイジメているとは認識していない遊び感覚・ゲーム感覚のイジメの始末の悪さを訴えているのだが、こういった現実に存在するケースを一切考慮しないケア設定となっていることからも、有効性は著しく見い出し難い。
「君がしているプロレスごっこは君がいつも技を仕掛けているが、イジメになっていないか?」
「彼とは友だちで、普通に遊びでプロセスごっこをしているだけですよ。自分の方が力があるから、いつも勝つことになるけど、ときどきわざと負けてやって、バランスを取れということですか。わざと負けて、相手が勝ったことにするなんて、彼を馬鹿にすることにはならないですか?」
「彼は嫌がっていないか?」
「彼に聞いてみてください。もし嫌がっているようだったら、彼と遊ぶのはやめます。わざと負けることなんか、彼を馬鹿にすることだから、そんなことはできませんからね」
「彼」に声掛けをしても、一緒に遊ぶのをやめるという言葉が自身にとって何をされるか分からないという恐怖となって、ある種の威しとなり、「別に嫌でもなんでもないですよ」と答えるケースも出てくる。
「彼」が精神的と身体的苦痛を訴え出て、既遂状態であることを把握して初めて相手に対するそれ相応のケアは正当性を持つこととなり、人権侵害でも人間差別でもなくなるだけではなく、イジメっ子のイジメ被害者に対する人権侵害であり、人間差別であることを伝えることができるが、この場合はあくまでも「いじめっ子へのケア」ということで、ケアとして成り立つが、タイプというだけでは、誰に対してもケアは成り立たないはずだ。
当然、こういった事態を避けるためにも、イジメっ子タイプだからとケアすることによって生じる人権侵害や人間差別を避けるためにも、特定の児童・生徒を対象とするのではなく、児童・生徒全員を対象とした主体性の確立、精神的な自立(自律)を先に持ってこなければ、イジメは簡単には抑えることはできないし、抑えることができたとしたとしても、個々の解決で終わり、イジメは繰り返されることになるだろう。
多くの犯罪者の中から共通する性格を抜き出して犯罪者タイプを導き出すことはできても、犯罪者タイプだからと言って、犯罪予備軍と看做すことは人権上、優生思想に繋がりかねない問題が生じる。2015年から2022年までの間の犯罪に於ける再犯率は48~49%台でほぼ一定していると言うから、半数は更生していることになり、タイプは常にタイプであるとは限らないことを認識しなければならない。だが、尾木直樹は認識不可としている。
尾木直樹自身、「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「これが『いじめをしているときの子どもの特徴』です」で、外見は圧倒的に普通で成績のよい子でも、イジメっ子になるし、人望があって信頼が厚いクラスのリーダーみたいな子が、裏に回ると大変なイジメの首謀者だったといったこともあり得ると警告していることは誰がイジメ加害者になるかはイジメが発覚してから分かることで、このことはタイプでイジメっ子を識別することの不可能性の指摘となり、「いじめっ子タイプへのケア」は人権侵害、人間差別という点でも成立させ得ないことを示す。
当然、尾木直樹の「いじめっ子タイプへのケア」は無駄・無効と言うだけではなく、危険な上、小賢しいだけの発想としかならない。
「アトピーつ子へのケア」はアトピー性皮膚疾患が顔等の見える場所に現れて、容姿を気にし、他人の目を意識するあまり、全てに臆病となって、引っ込み思案を招き、何事につけてもハキハキした態度を取れなくなる。そういっところを突け込まれてイジメを受けやすいことから、ケアが必要ということだろうが、アトピー性皮膚炎は皮膚のバリア機能の低下によって引き起こされ、ストレスが悪化の一因となる心身症に発展、心のケアは治療過程で行うとされている。学校ですべきことは、同じ「第3章 どんな子がいじめをするのか」で、「どんな事情があっても『いじめるほうが100%悪い』のです」と指摘しているのだから、クラス全員・全校生徒対象にアトピー性皮膚炎は伝染しない病気であること、完治までにときには何年とかかる治療困難な病だが、完全治癒するということを誰もが理解しなければならないと強く求めて、「もしアトピー性皮膚炎の児童・生徒が引っ込み思案でいるようなら、仲間に入れてやる、仲間に誘ってやるぐらいの強い意志を持たなければならない。強い意志を持てずに逆にからかったり、冷やかしたり、『キモっ』などと侮蔑の言葉を吐きかけたり差別するようなら、そういった差別をする児童・生徒の方こそが精神の病に罹っていると言える。最低限、そっとしておいてやるぐらいの思い遣りは持たなければならない。そっとしておいてやる思い遣りは無視することとは違うことぐらいは理解しているはずだ。そっとしておいてやる思い遣りはそれなりに相手を気遣う態度だが、無視は相手の存在自体を認めまいとする軽蔑や敵意が僅かでも混じっていて、相手の気持ちを傷つける態度で、この違いが分からないようでは理解力を疑われるだけではなく、人間としての育ちの点でも疑われることになるだろう」等の言葉かけを行って、周囲のイジメや差別を止めることを優先させるべきだろう。
尾木直樹は「いじめっ子タイプ」や、「アトピーつ子」へのケア取り上げるよりはイジメそのもの、差別そのものを問題視すべき課題だとする留意点を忘却する、見当違いも甚だしい過ちを犯して平然としている。この程度の教育者でしかない。
(個人への対応)の「直接的アプローチ」の最後に、「いじめられやすい子に自己肯定感を」と提唱している。「いじめられやすい子」と特定すること自体が尾木直樹は差別や人権侵害になると気づいていない。特にほかのところで、〈実際に起きたいじめ事件を丁寧に分析してみると、決して「弱い者」だけがいじめられているわけではない。〉と指摘している以上、「いじめられやすい子」は選別不可能となるはずだが、この不可能を忘れて、可能とするのはご都合主義以外の何ものでもない。
既に書いていることだが、イジメもイジメる能力や才能に基づいた一つの活動であり、その活動に自身の可能性の追求を置き、追求の成果を自己活躍と看做し、自己活躍自体が自己実現の一つとなり、その自己実現を自己肯定感の根拠とする。自己肯定感に繋がる才能・能力の何らかの発揮は誰にとっても必要だが、その自己肯定感は自身にとって有意義であっても、学校社会に於いて誰にも有害とならない、多くの生徒に参考となる自己肯定感の保持でなければならないのであって、当然、こういった道理を全児童・生徒を対象に理解させなければならない。
いわば、「いじめられやすい子」に限ったことではなく、誰にとっても他者に迷惑や有害とはならない、誰の目にも有意義と見える自己肯定感を持つことは必要であり、持てるように全員を指導していくのが学校教育の本筋であるはずだが、そういった大局に立った教育を通してイジメ加害者を出さないようにしていくことが重要だが、尾木直樹は「いじめられやすい子」を特定する差別や人権侵害まで犯して、そのような子に限定した自己肯定感を云々する姿勢はあまりにも局所的で、狭い視野しか見えてこない。
主体性や自立性(自律性)といった資質を育むことの肝心要の必要性に何ら視点を置かない事柄を取り上げただけでも尾木直樹の「学校におけるいじめ防止実践プログラム」はイジメ防止の目論見としては欠陥製品だと断定せざるを得ないが、「いじめっ子タイプ」や「アトピーつ子」、「いじめられやすい子」に対して意識もできずに見せている差別観や人権侵害になるという点から見ても、有害な数々の提案であり、これが、「人権・愛・ロマン」だと言うから、悪臭フンプンとしたニセモノの教育論だとする評価がふさわしい。
では、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」について尾木直樹が実現可能性あるどのような提言をしているのか見てみる。だが、〈またどの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現も大切な視点となります。「間接的アプローチ」 では、心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立がポイントとなります。厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境をいかに緩和できるかということも学校の取り組みとしては重要になります。〉(蛍光ペンは当方)と謳い、要求するのみで、「実現」に向けた具体策についての助言は何一つ示していない。
ここでポイントとして挙げている、「心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立」も、「居場所と出番のある学級づくりの実現」と深く関わっていて、この実現によって手にするであろう積極的な生き方が活力ある精神的な安定性への獲得に向かい「心安らぐ学習・生活環境」を自分なりに工夫して確立することになるはずで、当然、「居場所と出番」云々を先に持ってこなければならない。
このことだけではない、「居場所と出番」こそが児童・生徒それぞれの可能性追求の機会と場を保証し、そこから自分たちなりの生きる姿が導かれていくのだから、学校は目標としては一人残らずの児童・生徒に対して「居場所と出番」を用意できる体制の構築に向けて努力しなければならない重要事項に入るはずだが、このような認識を尾木直樹は僅かでも持つことができないでいる。
「居場所と出番」を見い出せない象徴的現象が不登校であろう。尾木直樹の書籍出版前年の2012年度の文科省調査「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数676万4619人に対して2万1243人(0.31%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数355万2663人に対して9万1446 人(2.57%)と学年を追うごとに増えていて、因みに2022年度の調査を見ると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数619万6688人に対して10万5112人(0.8%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数324万5395人に対して19万3936人(6.0%)となっていて、少子化傾向であるにも関わらず10年間で小学生の不登校児童数は約8万4千人近く増加、中学生の不登校生徒数は約10万3千人近くに増えている。
「居場所と出番」を見い出せない児童・生徒は不登校児童・生徒に限られているわけではなく、義務教育だからと学校の勉強についていけないままに惰性で学校に行き、惰性で授業を受けている児童・生徒、あるいは参加したい運動部活動、文化部活動もなく、単に学校に機械的に顔を出すだけの児童・生徒、自らの「居場所と出番」だと心得違いをしてイジメを働く児童・生徒等々を含めると、相当数存在することが推定できる。2012年当時を考えても、無視できない人数が存在していたはずだ。
尾木直樹は「第5章」を「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と大々的に名付け、その線上で「学校におけるいじめ防止実践プログラム」を実効性を前提としてであろう、掲げた以上、「居場所と出番」づくりの建設的で有意義な案を優秀な教育学者としての知恵をフルに絞って提供すべき責任を負っていることになるはずだが、何一つ助言も指導も行う気配すら見せていない。尾木直樹は1972年4月から高校教諭として教師生活を出発させ、学校教師を22年間、1994年から教育評論家としての活動をスタートさせている。この書籍出版の2013年初頭まで40年余、教育に携わってきた。「居場所と出番」はイジメ問題の克服にも役立つはずだから、何かしらひとかどの見識――一家言があって然るべきだが、黙して語らず。語るべきアイディアが頭にないから、何も喋れないのだろう。
《こどもの居場所づくりに関する調査研究報告書》(内閣官房こども家庭庁設立準備室/2023年令和5年3月)は、〈社会的居場所とは、「自分自身がポジティブに活動でき、他者から存在や能力を認められ、評価してもらえる活動場所」を指す。〉と解説している。
当方は「居場所」とは主体性をベースとして子ども自身が持つ何らかの能力・才能に基づいた有意義と思える可能性の追求によって自己実現を見い出すことのできる機会と場と解釈している。自分から進んで行う主体性を纏うことができていればいる程、自分にとっての「居場所」は確固とした有意義性を増す。
「居場所」を見つけることができれば、「居場所」そのものが「出番」のチャンスを与える機会と場となる。
「居場所」を見つけ得ない児童・生徒の存在の原因の一つは価値観の多様化を言いながら、学校社会が各教科の成績を主体に運動部活動、文化部活動の成績で色付けした限られた価値観で児童・生徒を評価、結果的に可能性の追求に応じたそれなりの自己実現の機会と場がこういった画一的な価値観が占拠することになった「居場所」となっていて、価値観の多様化を反映していないことが一部の価値観以外を排除する力学を働かせることになっているからだろう。
当然、どのような価値観にも可能な限り対応できるようにする「居場所」の多様化・広範囲化を図らなければならないことになる。この方策として実は2008年11月18日「gooブログ」投稿の《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を‐『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の中で、価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるための学校改革を提案している。「居場所」の確保については直接触れていないが、間接的には触れている。
この記事は私自身のHP『市民ひとりひとり』の第9弾《提案します『中学校構造改革』》(2006年10月2日)に書いた内容を参考にしたもので、中学校を非義務教育化し、同時に学区制を廃止、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採って、好きな教科を学ばせる無試験入学の"専門学校化"とすることを提案している。「自ら学ぶ」形式の選択は自ずと自立性(自律性)と主体性を必須要件とすることとなり、そのような態度の育みへと向かう。
但し一教科を選択後、自身が学びたいこととの違いが気づいた場合は、自己責任に於いて他教科への中途転籍を許すこととする。中学校を例え非義務教育化しても、最低限高卒の学歴は獲得したい一般的な学歴主義から、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、中学校を非義務教育化しても、中学校へ進むだろうと予想されること。この記事には書かなかったが、非義務教育化しても、国が授業料その他を現在通りに負担すべきだろう。
学区制を廃止するのは一教科選択の生徒数がクラスを編成するには少人数過ぎる場合は近隣の中学校の同じ教科の生徒との合同の学級を組むためである。それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とする。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で仕切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。
例えば一教科選択の例としてマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のためにマンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。好きな教科の選択が児童・生徒の価値観の多様化に応じる体制とすることができ、結果的に「居場所」の確保に繋げることができる。
自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。
譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となる。いわば自己選択した一教科を学問への昇華へと持っていく。
具体的にはマンガ科に於いてもただ単にマンガのストーリー作りと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史についてとその伝統、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論について学ぶ。それはマンガ科に限ったことではない、人間や社会を知るプロセスとする。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。
このことは土いじりが好きな生徒の陶芸科に於いても準拠するプロセスとする。各国の陶芸について学び、その歴史について学ぶ。日本各地の陶芸について学ぶ。記事では触れなかったが、勿論、中間試験、期末試験等の試験は行う。出題の素材は無限と言えるだろう。
以上、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性の中学校非義務教育化の"専門学校化"によって、価値観の多様化に応じた「居場所」の確保について大体纏めてみたが、中学校の非義務教育化が非現実的に過ぎるなら、義務教育のまま一教科選択性の"専門学校化"とすることも一つの手である。
だが、学校社会は「価値観の多様化」を言いながら、その多様化に応えて、一部の児童・生徒以外に対してはそれぞれに相応しい「居場所」を提供できず、不登校やイジメ、無気力、その他の問題行動を抑えることができないでいる。
尾木直樹はイジメ対策として「居場所と出番」づくり以外に「厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境」の緩和、「子どもたちがこれまでの自分とは異なる一歩前進した『新しい自分づくり』に挑戦できる」サポート体制の構築等々の必要性を挙げているが、これらの必要性はそれぞれの児童・生徒のそれぞれの「居場所と出番」を用意できる体制を前以って整えておかなければ、満足な解決は期待できないはずだ。
にも関わらず尾木直樹は、〈理念に基づいた確たる構想抜きにしては、学校からいじめを吹き飛ばすことなど叶いません〉と、「構想」だけでイジメを吹き飛ばすことができるかのような言説を弄して得意になっている。この点だけでその悪質性の程度は小さいとは言えないが、「構想」の必要性だけを口にしてその実現は学校現場への丸投げとなっているのだから、綺麗事を口にしているだけの無責任は底が知れない。
綺麗事に過ぎない「」は必要ない。それぞれの児童・生徒が自分で見つけるか、父母や教師の手助けを得て見つけるかした、自らが得意とすることのできる何らかの才能・能力を自身の可能性追求の素材として何らかの有意義な自己実現を目指すことのできる「居場所と出番」を学校社会に用意する具体的な計画と実行こそが求められている。
義務教育のままであっても、非義務教育化であっても、学区制を廃止する「自ら学ぶ」形式の一教科選択性採用の児童・生徒の多様な価値観に対応させる中学校の"専門学校化"は決して非現実的な提案ではない。このことは大学の「一芸入試」が十分に証明してくれる。自己選択によって一つの教科を学問としてそれなりに極めることができれば、手にする知識・教養はほぼ暗記教育で成り立っている従来の教科教育で手にする知識・教養よりも遥かに柔軟性に満ちた生きる力を与えてくれることになるだろう。
何らかの才能・能力を試行錯誤する可能性の追求を自己選択を通して何らかの有意義な自己実現へと持っていく。この一連の試みを自らの「居場所と出番」とする。有意義な活動に向けた自己選択は自ずと主体性を育み高め、自立性(自律性)の確立を伴い、自己責任意識を確固としたものにしていき、自己実現のさらなる高みに向けた引き続いての可能性の追求を試みる方向に向かう。
イジメという活動に基づいた可能性の追求など、取るに足らないちっぽけなものに見えてくるに違いない。
尾木直樹は日本の教育にとって害以外の何ものでもない。