7月30日の参議院特別委員会で、安倍晋三が集団的自衛権の行使を容認しても、「(他国の)戦争に巻き込まれることは絶対にないと断言したい」と述べたと、「asahi.com」記事が伝えている。
安倍晋三は傲岸・不遜にも、いつから歴史の裁断者となったのだろう。
裁断者とは物事の善悪・正邪を判断して断定する者のことを言う。
2014年8月と11月、2人の邦人が「イスラム国」に拘束された。
安倍晋三は犯行主体が「イスラム国」の可能性を認識していながら、翌年の2015年1月17日、エジプト・カイロで日エジプト経済合同委員会合で政策スピーチを行った。
安倍晋三「イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと戦う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」――
「ISIL(「イスラム国」)がもたらす脅威を少しでも食い止める」ためと「ISILと戦う周辺各国」の人材開発やインフラ整備――いわば国造りの一助に総額で2億ドル程度の支援を約束した。
「ISILと戦う周辺各国」に対して「イスラム国」の勢威を食い止めるお手伝いをします、そのために必要な2億ドルを支援しますと約束したのだから、「イスラム国」から見たら、日本の安倍晋三からの宣戦布告と見たとしても不思議はないだろう。
「イスラム国」は2邦人拘束に対してメールで身代金を要求したが、安倍政権は無視、多分、最後通告の意味でだろう、安倍晋三の対「イスラム国」宣戦布告となるエジプトスピーチから3日後の2015年1月20日、インターネット上に人質2邦人の姿を写した動画を掲載した。
「イスラム国」の一員らしき黒尽くめの男が英語で話しかけた。
「日本の総理大臣へ。日本はイスラム国から8500キロ以上も離れたところにあるが、イスラム国に対する十字軍に進んで参加した。我々の女性と子どもを殺害し、イスラム教徒の家を破壊するために1億ドルを支援した。だから、この日本人の男の解放には1億ドルかかる。それから、日本は、イスラム国の拡大を防ごうと、さらに1億ドルを支援した。よって、この別の男の解放にはさらに1億ドルかかる」
安倍晋三はテロリストとは交渉せずの姿勢を取り、身代金要求を無視した。日本が連合国側のポツダム宣言受諾要求を無視したために広島と長崎に原子爆弾を落とされたが、その被害規模は格段に違っても、無視に対する報復の構造は似ている。
その後、色々と経緯はあったが、日本時間の2月1日、「イスラム国」が再びネット上に投稿した動画は2人のうち、残された1人の殺害された姿を映し出していた。黒尽くめのテロリストは次のように警告を発した。
「日本政府はおろかな同盟国や、邪悪な有志連合と同じように『イスラム国』の力と権威を理解できなかった。我々の軍はお前たちの血に飢えている。安倍総理大臣よ、勝てない戦争に参加した向こう見ずな決断によってこのナイフは後藤健二を殺すだけでなく今後もあなたの国民はどこにいても殺されることになる。日本の悪夢が始まる」
海外の日本人に対すると同時に日本国内でのテロを予告した。
安倍政権が強行採決で安全保障関連法案を成立させて法として施行後、集団的自衛権行使権と後方支援活動権を手に入れた場合、有志連合の指導国としてアメリカは「イスラム国」空爆を実施しているが、国際平和支援法の後方支援に関して武器の提供は含まないが、弾薬の提供や武器・他国の兵士の輸送、さらに給油や給水の提供が許されることになることから、それらについて米政府は日本政府に対して自衛隊の支援を要請することになるだろう。
このことは昨日7月30日の参議院特別委員会で生活の党の山本太郎共同代表がイラク戦争時日本の航空自衛隊が輸送を担った内の約6割が米軍要員であったことを問い質して、防衛相も認めているから、間違いない。
つまりアメリカやその他の国の空爆によって「イスラム国」戦闘員が殺害された場合、その爆撃機の燃料の一部は日本が提供したものと看做される。イラク軍が使用する弾薬も「イスラム国」戦闘員を殺害する直接物として一部は日本が提供した弾薬と見る可能性も出てくる。
もし「イスラム国」がこの報復として日本国内で大勢の日本人が集まる場所でテロを発生させて多くの犠牲者を出した場合、あるいは海外で日本人が多人数集まるイベント等でテロを発生させて相当数の犠牲者を出した場合、危機管理上次のテロも想定しなければならない関係上、集団的自衛権発動の新3要件が言う、〈国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険〉の切迫に該当し、国民の生存に関わる危機事態は国家そのものの存立危機事態と考えなければならないことから、「イスラム国」によるアメリカやイラク等の密接な関係にある他国に対する武力攻撃が行われている上での国家及び国民の危機事態ということで日本政府は集団的自衛権の発動に迫られることになる可能性は絶対的に否定できない。
いわば後方支援に始まって、集団的自衛権を発動させてアメリカやイラクと共に戦う偶然が(必然かもしれない)訪れない保証はない。
であるにも関わらず、「戦争に巻き込まれることは絶対ないと断言したい」と言い切ることができる。そもそもからして新3要件を条件にアメリカを主対象として集団的自衛権の発動を想定していながら、そう言うこと自体、矛盾しているし、神ならぬ身の安倍晋三が歴史の裁断者であるかのように断言するのは不遜且つ傲慢以外の何ものでもない。
そのように断言できるのは、安全保障関連法案がそれぞれに用意しておかなければならないそれぞれの危機管理が最悪の事態を想定していないという矛盾した構造を取っているからだろう。
自衛隊員に関しての想定しなければならない最悪の事態とは自衛隊員に犠牲者が出るという事態であり、あるいは部隊が全滅する事態であり、国に関して言うと、戦争に巻き込まれる事態である。
想定しない危機管理は福島第1原発事故のように起きた場合の危機に対して混乱や無秩序を招いて、的確に対応できないことになる。想定することによって、危機をよりよく制御できることになる。
安倍晋三の最悪の事態を想定しない、言ってみれば「安全神話」に立った安全保障関連法案は全く以って信用できない。
もし想定していながら、法案を通すために隠蔽して、無理やり「安全神話」を成り立たせているのだとしたら、尚更に信用できない。
安倍晋三が7月28日の参議院特別委員会で自身の戦後70年談話について次のように述べたという。
安倍晋三「70年前、日本は敗戦を迎え、二度と戦争の惨禍を引き起こしてはならないという決意の下に戦後、平和国家としての歩みを進めてきた。自由で民主的な国を作り、基本的人権そして法の支配を尊んできた。同時に、また、まだ日本が貧しい時代から、地域やアジアの発展のために貢献もしてきた。
まさに70年前の痛切な反省のうえに、日本は自国そして地域の平和維持のためにしっかりと貢献しなければならない。今後、さらに、地域や世界の平和と安定のために、より一層貢献していくという積極的平和主義の旗を掲げながら、よりよき世界を作っていくために貢献していく、そういうメッセージを発信していきたい」(NHK NEWS WEB)
安倍晋三は「70年前、日本は敗戦を迎え、二度と戦争の惨禍を引き起こしてはならないという決意の下に戦後、平和国家としての歩みを進めてきた」と言っている。
だが、このように言う資格は日本の過去の戦争、過去の歴史に謙虚に向き合い、謙虚な反省を示す姿勢を持って者に限られる。謙虚に向き合いもせず、謙虚な反省を示さない者が“戦後日本の平和国家としての歩み”を語る資格があるだろうか。
もしそのような者が語ったとしたら、謙虚な反省を欠いたまま「二度と戦争の惨禍を引き起こしてはならないという決意」を示していることになり、その決意を口先だけの偽りと見做さないわけにはいかない。
果して安倍晋三は日本の過去の戦争、過去の歴史に謙虚に向き合い、謙虚な反省を常に胸に抱いていて、そういう姿勢の保持によってホンモノの意志とすることのできる「二度と戦争の惨禍を引き起こしてはならないという決意」を多くの国民と共に分ち合っていることで初めて語る資格を得る“戦後日本の平和国家としての歩み”を機会あるごとに常套句のように口にしているのだろうか。
一例を挙げるだけで十分である。何度かブログに書いてきたことだが、安倍晋三は日本の戦争について2014年3月3日午後の参議院予算委で次のように答弁している。
安倍晋三「安部内閣としてはですね、侵略や植民地支配を否定してきたことは勿論、一度もないわけでありまして、その上に於い て累次の機会に申し上げてきたとおりですね、『わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』、その認識 に於いては、安部内閣としても同じであり、これまでの歴代内閣の立場を引き継いでいるということであります」
「侵略や植民地支配を否定してきたことは勿論、一度もない」――
この1年前の2013年4月23日の参院予算委では日本の戦争について次のように発言している。
安倍晋三「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」
同じ年の2013年5月8日午前中の参議院予算員会でも同じ趣旨のことを述べている。
安倍晋三「侵略の定義は、学問的なフィールドで様々な議論があり、政治家としてそこに立ち入ることはしないということを申し上げた。絶対的な定義は学問的には決まっていないということを申し上げた。
かつて多くの国々、とりわけアジアの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことは過去の内閣と同じ認識だ。その深刻な反省から、戦後の歩みを始め、自由と民主主義、基本的な人権をしっかりと守り、多くの国と共有する普遍的な価値を広げる努力もしてきた」
安倍晋三は先ず「侵略や植民地支配を否定してきたことは勿論、一度もない」と言っている。日本の戦争がさも侵略や植民地支配の戦争だと肯定しているかのように聞こえる。
だが、「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で見方によって違ってくる」という言い方で、あるいは「侵略の定義は、学問的なフィールドで様々な議論があり、絶対的な定義は学問的には決まっていない」との口実で、日本の戦争が侵略や植民地支配の戦争であるかどうかを歴史認識する判断から離れた場所に自分を立たせている。
そのことが「政治家としてそこに立ち入ることはしない」と言っていることに当たる。
侵略の「絶対的な定義は学問的には決まっていない」としている、あるいは侵略かどうかは「国と国との関係で見方が違ってくる」としている安倍晋三の言い分を認めるとしたら、日本の戦争が侵略、あるいは植民地支配の戦争であるかどうかの歴史認識は不可能ということになる。いわば肯定も否定もできない。
だが、安倍晋三は「侵略や植民地支配を否定してきたことは勿論、一度もない」という表現で日本の戦争が侵略、あるいは植民地支配の戦争であることを一度も否定していないと発言している。
このように発言するには侵略や植民地支配についての何らかの定義に基づかなければできない。
何らかの定義に基づいて日本の戦争が「侵略や植民地支配を否定してきたことは勿論、一度もない」と発言していながら、「侵略という定義は国際的にも定まっていない」、あるいは「侵略の定義は、学問的なフィールドで様々な議論があり、絶対的な定義は学問的には決まっていない」と二重基準を駆使する。
このように日本の過去の戦争・過去の歴史に不正直・不誠実な二重基準の姿勢の安倍晋三に“戦後日本の平和国家としての歩み”を常套句のように口にする資格が真にあると言うことができるだろうか。
断じてないはずだ。にも関わらず、“戦後日本の平和国家としての歩み”を口にする。そのマヤカシに気づかなければならない。
戦前の日本はアジア解放、あるいは八紘一宇(世界を一つの家にする)の大理想を掲げて南方進出を開始しているが、1943年5月31日御前会議決定の「大東亜政略指導大綱」は、〈「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム〉と決定している。そしてこの決定を、〈当分発表セス〉と秘密事項扱いにしている。
現在のインドネシア・マレーシア・ブルネイに当たるスマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスは石油、天然ガス、石炭、錫、銅、ニッケル、ボーキサイト、砂鉄、マンガン等の鉱物資源が豊富で、そのような資源国はアジア解放、あるいは八紘一宇の大理想を裏切って「帝国領土」ヘと植民地化して、「重要資源ノ供給源」とする。
このような植民地化は侵略なくして不可能であり、事実オランダ軍と戦争して勝利して、オランダ軍に代わって占領する形で侵略を果たしている。
インドネシアその他で侵略者として位置していたからこそ、未成年者を含む現地人女性を拉致・誘拐の形で暴力的に連行し、従軍慰安婦という形で性奴隷とすることができた。
安倍晋三は実際の70年談話でも、アジアの国々に多大は被害をもたらした日本の戦争に対する反省や「二度と戦争の惨禍を引き起こしてはならないという決意」を口にするだろう。
但し最初に取り上げた7月28日の参議院特別委員会での安倍晋三の発言と同じく反省や決意は短い言葉で取り上げるのみで済まして、“戦後日本の平和国家としての歩み”を長々とした言葉であれやこれや言い尽くすはずだ。
日本の過去の戦争、過去の歴史に真に謙虚に向き合いもせず、真に謙虚に反省していないことの当然の反映と見なければならない。
過去を反省した者のみがよりよく未来を語る資格を有する。過去を反省しない者が、未来を語る資格を自らに与えることは不遜・傲慢以外の何ものでもない。
だが、安倍晋三はこの原理を認識せずに日本の未来を語ることができる稀有なまでに不遜・傲慢な政治家である。
今首相補佐官の礒崎陽輔の安全保障関連法案に関して法的安定性の確保を軽視した発言が問題となっている。7月26日の大分市講演で飛び出した発言だそうだが、どう発言したか7月28日付「TOKYO Web」記事からその要旨を見てみる。
礒崎陽輔「憲法には自衛権について何も書いていない。1959年の砂川事件(最高裁)判決は、わが国の存立を全うするための自衛の措置は国家固有の権能であるとした。
中身を言わないから政府は解釈してきた。昔は憲法9条全体の解釈から、わが国の自衛権は必要最小限度でなければならず、集団的自衛権は必要最小限度を超えるから駄目だと解釈してきた。72年の政府見解だ。
ただ、その時はまだ自衛隊は外に行く状況ではなかった。その後40年たって、北朝鮮は核兵器やミサイルを開発し、中国も軍備を拡張している。
政府はずっと必要最小限度という基準で自衛権を見てきたが、40年たって時代が変わったのではないか。集団的自衛権もわが国を守るためのものだったらいいのではないか、と提案している。
何を考えないといけないか。法的安定性は関係ない。(集団的自衛権行使が)わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない。わが国を守るために必要なことを憲法が駄目だと言うことはあり得ない。『憲法解釈を変えるのはおかしい』と言われるが、時代が変わったのだから政府の解釈は必要に応じて変わる。
(安全保障関連法案の審議は)九月中旬までには何とか終わらせたいが、相手のある話だから簡単にはいかない」――
マスコミは法的安定性軽視の点で磯崎発言を把えているが、この発言にはいくつかの重要な問題点がある。問題点のある発言を以下に列挙してみる。
「集団的自衛権もわが国を守るためのものだったらいいのではないか」
「法的安定性は関係ない」
「(集団的自衛権行使が)わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない」
「わが国を守るために必要なことを憲法が駄目だと言うことはあり得ない」
「時代が変わったのだから政府の解釈は必要に応じて変わる」・・・・・・
先ず、我が国を守るためであるなら、「憲法が駄目だと言うことはあり得ない」という表現で憲法よりも優先されると、国家の最高法規である日本国憲法を国防の下に置こうとしている。
いわば国防を絶対正義としていて、国防であるなら、何でも許されるとする意思を覗かせている。絶対正義としているから、「集団的自衛権もわが国を守るためのものだったらいいのではないか」と、集団的自衛権に関わる権限も活動範囲も何ら問題とせずに無条件の承認を求めることができる。
国防を絶対正義とし、憲法よりも国防を優先させていることは、「(集団的自衛権行使が)わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない」という言い回しにも現れている。意味していることは「わが国を守るために必要な措置かどうか」を考えればいいと言うことであって、国防を絶対正義としているからこそ可能となる国防優先であろう。
憲法よりも国防を優先させて国防を絶対正義とする行き着く先が「法的安定性は関係ない」とする法秩序無視と社会秩序無視の認識であろう。
なぜなら、国防絶対正義と法的安定性無関係は相互対応し合う関係にあるからだ。
法的安定性とは、法が様々に解釈されてその適用が随意とならないために法を厳格に規定することで確保されるそれ自体の安定性と法を厳格に規定すると同時にその適用もが厳格であることによって社会の安定性が確保されることまで含めて法的安定性と言う。
「法的安定性は関係ない」と言うことは法の厳格な規定も厳格な適用も問題視しないとすることで法自体の安定性も社会の安定性も無視する態度を取っていることになって、そのような態度を取ることで「わが国を守るために必要なことを憲法が駄目だと言うことはあり得ない」と、憲法よりも国防を優先させて国防を絶対正義とすることが可能とり、また国防を絶対正義とすることによって法的安定性をも問題視しないで済むのであって、両者は否応もなしに相互対応し合う関係を取る。
また、「時代が変わったのだから政府の解釈は必要に応じて変わる」とする憲法を無視した随意性は「法的安定性は関係ない」とすることによって成立することになる。
そして法的安定性を無関係とする礒崎陽輔の国防絶対正義が何よりも問題なのは、これが戦前の思想であって、それがあるはずもない戦後の民主主義の社会に突如として蘇らせたことである。
戦前、政府・軍部は天皇と国家の名前の元、国防を憲法よりも何よりも優先させて絶対正義としていた。「守れ日の丸 汚すな歴史」、「遂げよ聖戦 興せよ東亜」、「欲しがりません勝つまでは」等々、天皇の国家体制を守ること、国を守ることが絶対正義とされていた。
国防を絶対正義としていたからこそ、その正義に非協力的な国民は非国民とされ、あるいは米英のスパイとされ、近所づきあいから除け者とされるなどの社会的排除を受けた。
かくこのように礒崎陽輔の発言は単に法的安定性を軽視したことだけに問題があるわけではない。憲法を無視し、国防を絶対正義としている点にこそ、重大な問題を孕んでいる。
礒崎陽輔は東大の法学部卒業だということだが、日本の最高学府に学んだ者がこのように時代錯誤な戦前の国防絶対正義に取り憑かれている。このような人物が首相補佐官として内閣の一角を占めている。その資格があるとは見えない。
ところが官房長官の菅義偉は礒崎陽輔を擁護している。7月28日午後記者会見。
菅義偉「発言は法的安定性を否定をしたわけでもなく、私は問題ないと思っていた。しかし、一方で、きのうから参議院の審議が始まるところだったので、誤解を与えるような発言はやはり慎むべきである、こういう趣旨のことを電話で注意した」
記者「野党から礒崎氏の更迭や辞任を求める声が出ているが、その必要性はあるか」
菅義偉「法的安定性を完全に否定したわけではないので、そこは当たらないと思う」(NHK NEWS WEB)
単に「法的安定性は関係ない」との発言だけを把えて評価している。「何を考えないといけないか。法的安定性は関係ない。(集団的自衛権行使が)わが国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない。わが国を守るために必要なことを憲法が駄目だと言うことはあり得ない」と、国防を憲法よりも優先させた上で、「法的安定性は関係ない」との言い回しで国防を絶対正義とする時代錯誤な戦前の思想を持ち出したのである。
菅義偉の頭の程度ばかりか、責任意識をも疑わないわけにはいかない。
礒崎陽輔は発言を謝罪したということだが、謝罪で済む問題ではない。存在自体を時代錯誤と見なければならない。その存在を排除することによって時代錯誤の思想をも排除可能となる。
7月16日(2015年)に衆議院で可決した安全保障関連法案が7月27日、参議院本会議で審議入りし、代表質問が行われた。最初の質問者自民党の山本順三が野党が示している徴兵制への懸念を取り上げていた。
山本順三「衆院では116時間もの審議が行われたが、野党各党は『戦争法案だ』『徴兵制につながる』など、情緒的な議論に終始してきた。時間は長くても法案の必要性や中身についての真正面からの議論ではなかった。これこそが国民に法案の中身が伝わらず、理解を妨げた要因ではないか。戦後70年、わが国は平和国家として確固たる歩みを進めてきた。その矜持(きょうじ)を持ちながら、さらなる時代の変化に対応するのが平和安全法制だ。
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『今回の法案は徴兵制につながる』という声もある。これこそは、なぜそうなるのか全く理解できない、根も葉もない、悪意に満ちた感情的、扇動的論理だ。大前提として徴兵制は憲法上認められない。首相も何度も説明してきた。『憲法を改正するつもりだろう』といわれるが、自民党の憲法改正草案でも徴兵制など全く考えていない。また、自衛隊には多くの志願者がいる。最新の防衛白書によれば、採用の倍率は職種にもよるが、主要な種目では3・6倍から58倍にのぼる。事実として徴兵制の必要は全くない」
安倍晋三「そもそも徴兵制は憲法18条が禁止する『意に反する苦役』に該当するなど明確な憲法違反だ。徴兵制の導入は全くない。このような憲法解釈を変更する余地は全くない。いかなる安全保障環境の変化があろうとも、徴兵制が本人の意思に反して、兵役に服する義務を強制的に負わせるものという本質が変わることない。
さらに申し上げれば、自衛隊はハイテク装備で固められたプロ集団であり、隊員育成には長い時間がかかる。安全保障政策上も徴兵制は必要ない。長く徴兵制を取ってきたドイツ、フランスも21世紀に入ってから徴兵制をやめており、G7(主要7カ国)諸国はいずれも徴兵制をとっていない。
国際的に見ても、集団的自衛権の行使の有無と徴兵制か志願制かは関係ない。スイスは集団的自衛権を行使しないが、徴兵制を採用しており、集団的自衛権の行使を前提とするNATO(北大西洋条約機構)構成国である米英独仏などは志願制の下で軍を維持している。首相が替わっても、政権が替わっても徴兵制導入の余地は全くない」(以上産経ニュース)
果して徴兵制への懸念は「情緒的な議論」なのか。「根も葉もない、悪意に満ちた感情的、扇動的論理だ」と一概に切り捨てることができるのだろうか。
人口減少時代で今後若者の人口が減っていく。その上後方支援を名目とした海外派遣が多くなって自衛隊員のリスクが高まった場合の予測される自衛隊への志願者が減少した場面での隊員不足にどう対処するのだろうか。
安倍晋三は外国を例に取り、「ドイツ、フランスも21世紀に入ってから徴兵制をやめており、G7(主要7カ国)諸国はいずれも徴兵制をとっていない」などと言って、日本ではあり得ない事実に代えようとしているが、こと安倍晋三に限っては参考にはならない。
安倍晋三は徴兵制は憲法違反だと言い、禁止している根拠として憲法18条を挙げた。
「日本国憲法 第3章国民の権利及び義務 第18条」は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
つまり安倍晋三の論理は自分から志願した兵役は「奴隷的拘束」ではなく、「意に反する苦役」でもないが、徴兵制に基づいた兵役は「奴隷的拘束」であり、「意に反する苦役」に当たるから、憲法違反だと言っていることになる。
戦前、日本国憲法は存在しなかったが、戦前の大日本帝国憲法は第20条で「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」と徴兵制を敷いていて、現在の日本国憲法第18条で解釈すると、その徴兵制に基づいた兵役は「奴隷的拘束」及び「意に反する苦役」に相当することになる。
だが、戦前の日本国民の多くは「天皇陛下のため・お国のため」と勇んで戦場に赴いた。「奴隷的拘束」だ、「意に反する苦役」だと思っていたなら、ああまでも国家・軍部の戦意発揚に乗っかって愛国心を発揮することはなかったろう。
逆に身体的条件から兵役を除外された国民は「お国のためにお役に立つことができないのは恥ずかしい」と愛国心発揮の最も大事な機会を奪われて肩身の狭い思いをしたという。
このような現象は憲法が徴兵制を敷いているかどうか以上に“愛国心”という思想・心情がより大きく影響している国民の、当時の支配的な存在性であったはずだ。
戦前のこの愛国心は盲目的な愛国心ですらあった。但し直接的には天皇を日本国に於ける最大の権威として敬う気持から発した愛国心――権威主義に絡め取られた天皇の日本に対する愛国心であった。
1946年発行の『菊と刀』( ルース・ベネディクト)に次のような一節がある。
〈多くの俘虜たちがいっていたように、日本人は「天皇の命令とあれば、たとえ竹やり一本のほかになんの武器がなくても、躊躇せずに戦うであろう。がそれと同じように、もしそれが天皇の命令ならば、すみやかに戦いをやめるであろう」「もし天皇がそうお命じになれば、日本は明日にでもさっそく武器を捨てるであろう」「満州の関東軍――あの最も好戦的で強硬派の――でさえその武器をおくであろう」「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめる」
この天皇に対する無条件、無制限の忠誠は、天皇以外の他のすべての人物および集団に対してはさまざまな批判が加えられる事実と、著しい対照を示していた。
・・・・・・
天皇の最高至上の地位はごく近年のものであるにも関わらず、どうしてこんなことがありうるのであろうか。〉――
いわば“愛国心”という思想・心情を培養液とすることによって、いくら日本国憲法が第18条で禁じているとしたとしても、直接的な文言で「徴兵制を禁ず」と書いていない以上、「奴隷的拘束」及び「意に反する苦役」と規定して支配することになっている“苦”の衣を徴兵制から剥いで、戦前同様の“喜び”の衣を纏わせることも可能だということである。
特に安倍晋三は愛国心の涵養に熱心である。第1次安倍政権時代の2006年、安倍晋三本人は「愛国心」という言葉を直接表現してキーワードとすることを欲したが、連立与党の公明党や愛国心を盛り込むことに反対する野党や世論に配慮して、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とする遠回しな表現を盛り込んだ教育基本法の改正に成功して、「国と郷土を愛する」愛国心教育に道を開いた。
このように改正教育基本法よって小学生の時から愛国心教育を義務づけ、2004年発売の安倍晋三と岡崎久彦との対談集『この国を守る決意』で、「命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と「汗と血を流す」愛国心を求めて止まない安倍晋三である。
愛国心は徴兵制を「奴隷的拘束」としない、あるいは「意に反する苦役」としない、逆に率先垂範の“喜び”とするという論理の元、そのように受け取る愛国心ある若者のみを徴兵制の対象とすることも可能で、国家が進んで徴兵制に応じた若者を愛国心ある人物として賞賛の対象とし、徴兵制に応じない若者を愛国心がない人物として賞賛の対象から外した場合に生じる国家主義的な毀誉褒貶は、戦前既に経験しているように自ずとそこに日本人が行動様式としている権威主義の力学を伴って前者を善(=愛国者)とし、後者を悪(=非国民)とする社会的受容と社会的排除の価値観が働き、前者に従うべきとする社会的圧力が一般化しない保証はない。
要するに安倍晋三の日本国憲法第18条を根拠とした徴兵制の否定は絶対ではないことになる。
大体が安倍晋三は砂川事件最高裁判決が集団的自衛権を合憲とした判決ではないにも関わらず日本国憲法が禁じている集団的自衛権の合憲の根拠とし、憲法解釈でその行使の実現を目指している。
いわば安倍晋三は日本国憲法の法的安定性を自ら侵害し、破壊している張本人である。
国民に「汗と血を流す」愛国心を求めて止まない天皇主義者で国家主義者の安倍晋三であることを考え併せると、憲法解釈徴兵制容認のどのようなウルトラCが飛び出さないとも限らない。
徴兵制を杞憂とする根拠はないことになる。山本順三が言うことに同調して「根も葉もない、悪意に満ちた感情的、扇動的論理だ」と決めつけることも危険と言うことになる。日本国憲法の破壊者である安倍晋三を信用してはならない。
岩手県矢巾町中2男子イジメ自殺で、担任女教師が生活記録ノートに書いた自殺を仄めかす文章と教室での中2男子の言葉や表情にギャップを感じ、本当に自殺するとまでは予期できなかったとの趣旨の説明をしていることが分かったと7月25日付の「毎日jp」が伝えている。
6月29日の「生活記録ノート」
男子生徒「ボクがいつ消えるかわかりません。ですが先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」
担任女性教師「明日からの研修たのしみましょうね」
男子生徒の訴えに対する、それとは余りにも脈絡のない担任女性教師のアッケカランとした反応についての自己正当化の弁解である。
記事は関係者の話として伝えている。多分、担任教師から聞き取りを行った一人なのだろう。
担任教師が6月29日の中2男子の記録を確認したのはノートの提出を受けた6月30日の給食の時間帯であったという。
時間節約のために昼食を取りながら「生活記録ノート」に目を通していたのかもしれない。あるいはそうすることを習慣としていたのかもしれない。
担任席の近くに中2男子の席があるため様子を観察したが、笑顔で友人と話しており、食欲もあるように見えた。
担任は給食の後、中2男子を呼んで状態を尋ねた。
中2男子「大丈夫です。心配しないでください」(といった趣旨の言葉を返した)
その直後、バスの席など翌日に控えた研修旅行に会話の内容が変わったことから、担任はノートに「明日からの研修たのしみましょうね」と書いた。
記事は最後に中2男子が、〈それ以前にもノートに自殺をほのめかす記載をしていたが、担任は同様に村松さんが明るく振る舞っているように見えたので、本当に自殺すると思わず、生活指導担当の教諭や、定期的に訪問してくるスクールカウンセラーに報告や相談はしていなかった〉と説明していると書いている。
これで中2男子の自殺仄めかしの書き込みに対する余りにも脈絡のないアッケカランとした担任女性教師の反応に納得がいく――というわけには全然いかない。
一応の筋道は通っている。だが、余りにも表面的な反応に過ぎる。中2男子の給食中の様子と給食後に交わした言葉の内容を単に表面的に観察して表面的な答を導き出したに過ぎない。それだけのことである。
教室では明るい様子をしているのに、では、なぜ「生活記録ノート」に死を仄めかす記述をするのか、疑問の一カケラも持たなかった。教室で見せている姿と「生活記録ノート」で見せている姿の落差(=ギャップ)について自らに問いかけることは何もしなかった。
学校教師になるについては大学の教育学部で児童心理学等の人間心理学を学んでいて、人間がときには本心とは異なる姿を見せるものだということ、あるいは本心を隠して別の心を見せるものだということを学んだはずだが、教室での明るい様子を以てして「生活記録ノート」で見せていた姿をあっさりと打ち消してしまった。
あるいは学校教育者である以上、イジメの心理学を学んでいなければならないはずだが、学んでいれば、イジメる側の心理とイジメを受ける側の心理をそれなりに把握することになるはずだが、それすらも学んでいなかった。
学んでいたとしても、知識・情報として活用するまでに至っていなかった。
例えば1994年11月27日に自宅裏の柿の木で首を吊った愛知県西尾市の中2男子大河内清輝君のイジメ自殺事件は小学校6年生の頃からイジメが始まり、それが自殺するまで続いていたことに学校は的確に対応できなかったのだが、その一つの原因は学校側がイジメを疑いながら、人間がときには本心とは異なる姿を見せるものだということ、あるいは本心を隠して別の心を見せるものだという人間心理に何ら思いを致すことなく、本人の否定を額面通りに否定と受け止めたことにもあるはずだ。
自殺した年の1994年9月16日、学年回で清輝君の様子について話し合った時、養護教諭は「視線が定まらなかったり、体の揺れがとまらなかったことがあった」と報告して心理テストの実施を勧めた。
翌9月17日、心理テスト実施。清輝君は「友達はいい人、クラスのみんなは優しい。将来はいい高校、いい大学に入り、いい会社に入りたい。勉強は大切、成績は上げたい」と書いた。
自殺の2カ月と10日前だから、イジメに苦しい思いをしていたはずなのに、友達の中に置かれている真の自分の姿を自ら否定して、日々楽しく学校生活を送っているかのような別の姿を見せた。
養護教諭のみが清輝くんは自分を偽っているのではないかとい疑った。視線が定まらないこと、体を不自然に揺らしていることと心理テストで見せた姿の落差(=ギャップ)の違いを疑ってのことなのだろう、ますます心配になって、学年の先生に相談してカウンセリングを受けることを勧めたということだが、清輝くんの叔母が「清輝はカウンセリングを受けさせず、家庭で話し合う」としたことから、カウンセリングの話はそのままになってしまった。
9月22日、17日から家出していたイジメグループの数名が刈谷市刈谷署に保護され、このうちの1人が乗っていた自転車が盗難自転車で、「清輝君が8月下旬に盗んだもの」と話した。
9月24日、清輝君と父親が刈谷署に出頭。その後、学校に行き「自転車は同級生に取らされた」と報告した。父親はその席で「8月に岡崎で自分で転んで自分の自転車を壊したと言っているが、自転車の壊れはイジメでないか調べてほしい」と話した。
担任が清輝くんに父親の言ったことを尋ねると、イジメを否定、「自分で転んだために壊れた」と最後まで言い通したという。
「自転車は同級生に取らされた」と言うことは同級生と清輝くんの関係が同級生の命令を断った場合、身体的及び精神的な何らかの不利、あるいはダメージを被る恐れのある支配と従属の関係にあるということであり、そのような関係になかったら、同級生は自転車を取って来いと命令することもないだろうから、一応は支配と従属の関係を疑って、そのような関係と「自分で転んだため」としている自転車の壊れた理由を関連づけたとき、清輝くんの言い分を額面通りに受け取らずに一度は疑ってみる必要があるのだが、そこに何ら疑いを生じさせずに否定を額面通りに否定とのみ把えて、否定から何も推察することはしなかった。
清輝くんが教師たちに見せている姿を見せている姿どおりだと受け止めて、本心を隠して別の心を見せている姿だとは一切疑わなかった。
2011年10月11日朝、イジメを受けて自宅マンションから飛び降りて自殺した大津市の中2男子の場合も、男性担任教諭が9月以降、「いじめがある」との噂を別の生徒から聞き、男子生徒と同級生との喧嘩のような姿も目撃、男子生徒に直接確認したところ、男子生徒は「大丈夫。同級生とも仲よくしたい」と話したために担任教師はそれ以上調査しなかった。
その他の多くのイジメ自殺でも、イジメを受けている児童・生徒は報復の恐れやプライドから、あるいは親に心配をかけさせたくない思いなどから自身の本心を隠してイジメを否定し、他人の前では明るく振舞ったりする例を数多く見ることができる。
だが、岩手県矢巾町中の自殺した中2男子担任の女性教師は過去のイジメ事件からイジメを受ける生徒のそういった姿を何も学んでいなかったか、学んでいたとしても、知識・情報として活用するまでに至っていなかったために(後者は何も学んでいないことと同じになる)普段の姿と「生活記録ノート」で見せている姿の落差(=ギャップ)に疑問を抱いて答を見つけ出す努力をせず、中2男子が普段は明るく振舞っていることを以って生活指導担当教諭やスクールカウンセラーに報告や相談もしていなかったことの弁解とした。
そのように弁解すること自体が過去のイジメから何も学んでいなかった、あるいは学んでいたとしてもその知識・情報を活用できていなかった、そのいずれかに気づいていないことの証拠としかならない。
学校教師という立場にある人間の何も学んでいないという姿勢の逆説は何を物語るのだろう。
――死が中央にでんと居座っているかのようだ。――
7月24日、2020年東京オリンピック・パラリンピックの大会シンボルとなる公式エンブレムが発表された。エンブレムとはブレザーの胸や自動車などにつける紋章のことだそうだ。
オリンピックの方のデザインがどのようなイメージで成り立たせているのか、「NHK NEWS WEB」記事、《東京五輪 エンブレムは「T」をイメージ》(2015年7月24日 22時52分)から見てみる。
デザイン全体は、「TOKYO(東京)」、「TEAM(チーム)」、「明日」を意味する「TOMORROW(トゥモロー)」の3つの言葉の頭文字の「T」をイメージしたと解説にあるから、ゴールド色の左側上部縦横二等辺で底辺に当たる斜線個所が部分的円状をしているデザインは「T」の字の上部横棒の左側のはみ出しに当たり、右側はみ出しは真紅色の小さな円形で表現しているということなのだろう。
この真紅色の日の丸様の小さな円は、日の丸だとしたら遠慮がちな大きさに見えるが、「ひとりひとりのハートの鼓動」を表徴させていると記事は解説している。
左側上部の形を逆転させた右側下部の灰色(に見える)個所は単に「T」の字の内側を円形に見せる必要上、対角線上に反転させて位置させたデザインであろう。
このはっきりとしない円形は「1つになった世界」を表現させているそうだ。
はっきりとしない円形で表現させた「1つになった世界」とは不確かな世界を象徴させているとも解釈できて、なかなか意味深となる。
中央の幅の広い黒色で表現した縦長方形は「T」の字の縦棒に当たり、この黒色は全ての色が集まって生まれる色であることから、「多様性」を表現しているそうだと記事は説明している。
「T」の字の縦棒は頭の横棒のバランスを取る支柱、あるいは土台を意味するだろうから、「ひとりひとりのハートの鼓動」を持った、太く逞しい縦長方形で表した「多様性」が、「TOKYO」、「TEAM」、「TOMORROW」を支えて、「1つになった世界」を形成していくということになるのだろう。
意味としては素晴らしい。
但しパッと見た感覚でデザイナーがそれぞれに込めた意味を把えることができるデザインとなっているかどうかである。
いくら黒色が全ての色が集まって生まれる色であることから「多様性」を象徴させていたとしても、縦長方形の黒色の太い柱が中央にデンと位置していて、支柱もしくは土台として他を支えるという意味づけを見た感じだけで解釈できるのだろうか。
解釈できるとしたら、何ら問題はないことになる。
もし解釈できないとしたら、デザイン自体の素晴らしさを感じ取るためにはデザイナーが意味させているところを常に頭に入れておいて、意味しているとおりの解釈を施して見なければならない。
私自身はパッと見たとき、中心に「T」の字を置いていることは分かったが、失礼なことではあるが、「T」の字の縦長方形の黒色を葬式のときに使う、白黒を交互に配色した幔幕(鯨幕)の黒色部分の縦長の一片に見てしまった。
いわば死の象徴に見えてしまった。
その連想からだろう、「T」の字の頭の右側はみ出しのゴールドの形状が、「T」の字の縦長方形の黒色の縦棒と合わせて死神が持つ鎌に見え、「T」の字の横棒右側はみ出しとしてデザインさせた日の丸様の真紅色の小さな円を死に往く者の魂のこの世への縋(すが)りに見えた。
美意識がその程度だと言ってしまえば、おしまいだが、なおかつ人間がひねくれ者に仕上がっている。きっと評判は上々なのだろう。上記記事は室伏広治選手の「遊び心のある素晴らしいデザインだと思う」との声も伝えている。
考え過ぎて、意味を込め過ぎたといったことはないはずだ。
橋下徹が、〈米カリフォルニア州サンフランシスコ市議会の委員会で、慰安婦の碑または像の設置を支持する決議案が審議される問題で、姉妹都市の橋下徹大阪市長は(7月)23日の定例記者会見で、「旧日本軍だけを取り上げるのだとすればアンフェア」と述べ、決議案の内容を確認し、見解をただす文書を送る方針を明らかにした。〉と7月24日付け「産経ニュース」、《橋下氏「旧日本軍だけ取り上げるならアンフェア」 姉妹市・サンフランシスコ市議会の慰安婦像設置決議案に見解ただす文書》の表題記事が冒頭で伝えている。
決議案は複数のサンフランシスコ市議が共同提案。
橋下徹は慰安婦を「(先の大戦で)日本軍に拉致され、性的奴隷の扱いを受けることを強制された20万人のアジアの女性や少女」などと表現していることを問題視しているようだ。
橋下徹「先の戦争で女性の人権が蹂躙されたのは事実。今も紛争地帯で苦しんでいる女性がおり、二度とやってはいけないと表明するのは当然。先の大戦時に世界各国がどうしていたのか。日本だけ特別に非難することはあってはならない。
(決議案が旧日本軍だけを取り上げているのが事実なら)アンフェアだ。おかしい。(碑か像に)刻み込む文言によっては姉妹都市や日米関係に影響する」
但し見解を質す文書は決議案の趣旨を確認するもので、抗議ではないとしているという。
最後に記事は、〈サンフランシスコ市議会は平成25年(2013年)6月、橋下氏の慰安婦をめぐる発言に対して非難決議を採択。この際も「20万人の性的奴隷」との表現を用いており、橋下氏は当時、決議撤回を求める書簡を送っていた。〉と解説している。
橋下徹は「先の戦争で女性の人権が蹂躙されたのは事実。今も紛争地帯で苦しんでいる女性」の存在を指摘して戦時、あるいは戦地に於ける女性の人権蹂躙が一般的であったことを示した上で、「日本だけ特別に非難することはあってはならない」と日本の従軍慰安婦問題を戦時、あるいは戦地に於ける一般的な女性の人権蹂躙の中に紛れ込ませて相対化し、前者と後者を同質・同レベルの出来事だとしている。
安倍晋三も日本の従軍慰安婦問題では橋下徹と同じスタンスを取っている。いわば20世紀・21世紀の戦時・戦地に於ける女性に対する人権蹂躙の中に日本の従軍慰安婦問題を紛れ込ませて、同質・同レベルの人権蹂躙だとして、橋下徹のようにはっきりとは口にしないが、日本が特別に非難される謂れのないことを暗に示している。
オバマ大統領が2014年4月23日・24日と日本を訪問、4月25日午前中離陸し、次の訪問国韓国に向かった。同日午後、パク・クネ韓国大統領と首脳会談を行い、会談後共同記者会見に臨んでいる。
先ずパク・クネ大統領が、安倍晋三が先月従軍慰安婦の問題について政府の謝罪と反省を示した河野官房長官談話を見直す考えはないと表明したことに触れて次のように発言したという。
パク大統領「安倍総理大臣が約束したことに関して誠意ある行動が重要だ。今後、日本が大きな力を傾けてくれればと思う」
オバマ大統領「(慰安婦の問題は)甚だしい人権侵害で衝撃的なものだ。安倍総理大臣も日本国民も、過去は誠実、公正に認識されなければならないことは分かっていると思う。
日韓両国はアメリカの重要な同盟国だ。過去のわだかまりを解決すると同時に未来に目を向けてほしいというのが私の願いだ」(NHK NEWS WEB)――
このオバマ大統領の発言に対して安倍晋三は4月27日午後、視察先の岩手県岩泉町で記者の質問に答えている。
安倍晋三「筆舌に尽くし難い思いをされた慰安婦の方々のことを思うと、本当に胸が痛む思いだ20世紀は女性を始め、多くの人権が侵害をされた世紀だった。
21世紀はそうしたことが起こらない世紀にするために日本としても大きな貢献をしていきたい。今後とも国際社会に対して、日本の考え方、日本の方針について説明していきたい」(NHK NEWS WEB)――
日本の慰安婦問題を20世紀の女性に対する人権侵害と同列に扱うことで一般化し、日本の従軍慰安婦問題が決して特別ではないことを発言の裏で仄めかしている。
勿論、橋下徹の歴史認識通りに、あるいは安倍晋三の歴史認識通りに前者・後者が事実同質・同レベルの戦時・戦地に於ける一般的な女性に対する人権蹂躙であるなら問題はない。果して同質・同レベルの人権蹂躙だとすることができるのかが問題となる。
2010年1月12日のハイチ巨大地震の復興・再建に各国から国連平和維持活動(PKO)部隊が派遣された。ところが2015年5月15日付の国連内部監査部が多分、先に働きかけたのはPKO部隊員の方なのだろう、支援物資提供の対価としてハイチ女性の肉体を報酬としていたことを報告書で明らかにしたと「asahi.com」記事が伝えている。
この取引関係にハイチ女性200人以上が加わっていたという。
もしハイチ女性の方から先に働きかけた取引なら、ハイチ女性は自身の肉体提供の対価としてPKO隊員からの支援物資を報酬としていたことになる。
尤もこういったことが慣習化すると、働きかける側はハイチ女性であったり、PKO部隊員であったり、時と場合で攻守を変えるようになった違いない。
記事は、〈ハイチのほか、リベリアや南スーダン、コンゴ民主共和国のPKO部隊。リベリアでは18~30歳の女性489人への調査で、25%以上がPKO隊員との取引の性交渉を証言し〉ているが、〈国連は隊員に対し、支援物資などを見返りとした性交渉と、18歳以下との性交渉を禁じている。〉と解説している。
しかしこの取引関係は女性の人権を蔑ろにするものであっても、あくまでもPKO部隊員対ハイチ女性個人――個人対個人の一種の商取引であって、それぞれのPKO部隊が女性に提供する物資を支援物資の中から抽出してストックしておき、交渉にも関わって取引を主導、成立させて、交渉が成立した場合の性行為の場を部隊内に前以て用意しておいて提供し、性行為終了後に取り決めた支援物資を報酬として渡すといった組織的なアクションとして存在した取引だとはどの記事も書いてはいない。
だが、各国の元従軍慰安婦の証言から炙り出すことができる日本の従軍慰安婦問題の多くは日本軍兵士が数人から10人前後の集団で軍用トラック等で駆けつけて占領地の未成年含めた若い現地人女性を力づくで捕まえ、拉致同然に強制連行して、部隊が用意した慰安所に監禁、部隊の兵士ほぼ全員が代わる代わるに強制的に売春を強いた、日本軍が軍として組織的に行った女性に対する人権蹂躙となっている。
強制的な拉致・監禁と強制売春の対象とされた従軍慰安婦にとっては決して個人対個人の取引で成立させた性行為とは言えないし、兵士が休日あるいは夜間に部隊駐屯地を抜け出して現地人女性を強姦するといった個人の犯罪で片付けることができる問題ではないし、日本軍という組織が個人性を超えて集団で行った女性に対する人権蹂躙、あるいは人権侵害であり、他の国の軍隊も同じく軍隊として組織的に行っていた売春形態とされていない以上、橋下徹や安倍晋三のように20世紀の女性に対する他の人権侵害や人権蹂躙と同質・同レベルに置いて相対化することも一般化することも決して許されない。
にも関わらず、橋下徹も安倍晋三も日本の従軍慰安婦問題が日本軍の組織的関与による人権蹂躙、あるいは人権侵害なのか、兵士の個人的関与による人権蹂躙、あるいは人権侵害なのかの区別をつけないままに20世紀の他の女性に関わる負の人権問題と同質・同レベルとする相対化・一般化を行って、日本という国の免罪を謀ろうと意図している。
理由は両者共に従軍慰安婦問題に関して個人の人権や尊厳を守る立ち場から個人主義(=個々の人格を至上のものとして個人の良心と自由による思想・行為を重視し、そこに義務と責任を発現する立場。〈大辞林〉を重視することよりも、それを国家の犯罪とした場合に失う国家としての品位を守ることを最大の利害とする国家主義の立場に立っているからであり、その上合理的判断能力を欠いているからに他ならないだろう。
「生活の党と山本太郎となかまたち」
《7月24日(金)小沢一郎代表のメディア出演のご案内》
◆番組名:ニコニコニュース「『立憲主義の危機』はなぜ起きるのか」
◆日 時:平成27年7月24日(金)午後4時~6時
◆内 容:「自由と平等とデモクラシーを考える市民の会」主催の鼎談を生中継いたします。
憲法学者ありで日本近代史にも造詣が深い樋口陽一氏、歴史学者であり独自の近代史観を持たれている小路
田泰直氏、そして生活の党と山本太郎となかまたちの小沢一郎代表の3人で『「立憲主義の危機」はなぜ起
きるのか』をテーマに議論します。
《7月21日 小沢一郎代表記者会見要旨党HP掲載ご案内》
7月21日に行われた小沢一郎代表の定例記者会見要旨を前編と後編に分けて党ホームページに掲載
しました。ぜひご一読ください。
【質疑要旨】(前編)
○SEALDsの抗議行動への参加について
○盗聴法改正案の違憲性の指摘について
○民法改正案の審議滞りについて
《7月21日 小沢一郎代表記者会見要旨党HP掲載ご案内》
【質疑要旨】(後編)
○安保法案は米国に頼まれて作ったのではないかとの指摘について
○安保法案が可決成立した場合の現実政治への影響について
2014年5月26日から5月28日までスウェーデン・ストックホルムで開催の日朝政府間協議で北朝鮮が「特別調査委員会」を立ち上げて、拉致被害者を始めとするすべての日本人に関する包括的かつ全面的な調査を約束してから、1年余が経つ。
日本側代表団の報告を受けて、5月29日午後、安倍晋三が首相官邸で記者会見した。
安倍晋三「ストックホルムで行われた日朝協議の結果、北朝鮮側は拉致被害者および拉致の疑いが排除されない行方不明の方々を 含め、全ての日本人の包括的全面調査を行うことを日本側に約束をしました。
その約束に従って、特別調査委員会が設置をされ、日本人拉致被害者の調査がスタートすることになります。
安倍政権にとりまして、拉致問題の全面解決、最重要課題の一つであります。
全ての拉致被害者のご家族がご自身の手でお子さんたちを抱きしめる日がやってくるまで、私たちの使命は終わらない。 この決意を持って取り組んできたところでありますが、全面解決へ向けて第一歩となることを期待しています。
詳しくはこの後、官房長官からお話をさせていただきます」(MS産経)
「安倍政権にとりまして、拉致問題の全面解決、最重要課題の一つであります」と前々から言っていたことを改めて強調したについては相当に解決の可能性を見ていたからだろう。
安倍晋三は記者会見後、周囲に「北朝鮮が拉致被害者らが見つかったら帰すと約束したのは初めてだ」と評価したと別の「MS産経」記事が伝えているが、解決の可能性を見ていたことからの評価であるはずである。
引き続いて官房長官の菅義偉は北朝鮮側が「特別調査委員会」を立ち上げ、調査を開始する時点で人的往来の規制措置や人道目的の北朝鮮籍の船舶の日本への入港禁止措置など、日本が独自に行っている制裁措置の一部を解除する日本政府の方針を示した。
この一部制裁解除の方針も安倍晋三の解決の可能性の反映であったはずだ。
5月29日の菅義偉の記者会見の一問一答を「時事ドットコム」記事が伝えている。一部を紹介する。
記者「実効的な調査をどう担保するか」
菅義偉「北朝鮮代表の宋日昊・日朝国交正常化交渉担当大使から、調査開始時点までに特別調査委員会の具体的な組織、構成、責任者等について日本側に通報する との明確な発言があった。調査委は、全機関を対象とした調査を行える権限を付与される。日本は、調査の進捗過程について随時通報を受けて協議し、調査結果を直接確認できる仕組みを確保している」
記者「調査委の設置時期と調査期限は」
菅義偉「(設置時期は)3週間前後。終了時期は現時点では決めていないが、何年も(かかる)ということはあり得ないと思う」
「調査開始時点までに特別調査委員会の具体的な組織、構成、責任者等について日本側に通報する との明確な発言があった」と言うことは、5月26日から5月28日までのスウェーデン・ストックホルムで開催の日朝政府間協議ではそこまで詰めていなかったことになる。
つまり北朝鮮の出方任せだったことになる。
にも関わらず、「日本は、調査の進捗過程について随時通報を受けて協議し、調査結果を直接確認できる仕組みを確保している」と、監視体制(=「調査結果を直接確認できる仕組み」)の構築済みを言い、実効性確保に自信を見せた。
ここで朝鮮総連機関紙・朝鮮新報が安倍晋三と菅義偉の5月29日の記者会見翌日の5月30日付で気になる発言を載せている。
「再調査の結果を確認し、拉致問題決着の道筋を日本国民に提示するのは日本の政権担当者の役割だ」(時事ドットコム)
言っていることは、拉致調査の北朝鮮側の回答となる報告書を受けて、例え日本国民が不満を示しても、その不満を宥めて納得させるのは日本政府の役割だということであろう。
程々のところで手を打てと言っているようなもので、裏を返すと、程々のところで手を打つ回答しか出せないということになる。
北朝鮮側の調査開始時点での制裁一部解除の政府のこの動きに日本人拉致被害者家族連絡会は拉致問題の進展に強い期待を見せたが、解決しないうちの一部制裁解除に不安も見せた。
この不安が朝鮮新報の記事発言から受けた心証かどうか分からないが、実効性を不安視していることからの全面解決前の一部制裁解除に対する不安ということであるはずだ。
6月1日のNHK「日曜討論」
菅義偉「(スウェーデンでの日朝政府間協議で)日本側の調査団の滞在も合意文書に入れられた。北朝鮮に滞在して関係者に会ったり、関係するところまで出かけていく。私どもから強く要請して受け入れられており、しっかりスタート台に立ちたい」(NHK NEWS WEB)
日本側の調査団の派遣・滞在とは5月29日の記者会見で述べた「調査結果を直接確認できる仕組み」(=監視体制)のことを指すはずで、この点に実効性確保を置いていて、自信の根拠となっていることになる。
6月1日日曜日のフジテレビ「新報道2001」
山本有二元金融担当相「(北朝鮮側は)『全ての日本人』と(調査)対象を広げた。当てがある日本人、帰すつもりがある日本人がいるという前提でないと、こう いうことは言わない」(MSN産経)
日本政府の意気込みと拉致解決に向けた自信を窺うことのできる発言となっている。今回の北朝鮮の行動を信用できると踏んだからこその意気込みと自信であろう。
ところが5月末のストックホルムでの日朝政府間協議から1カ月経つというのに調査が開始されない。日本政府は北朝鮮が5月末にストックホルムで立ち上げを約束した「特別調査委員会」の組織、構成、権限、責任者等について説明を受けることを主たる目的として、日本側の働きかけで7月1日、中国・北京で日朝政府間協議を開くことの了承を北朝鮮から取り付けた。
要するに5月末のスウェーデン・ストックホルムで開催の日朝政府間協議で「特別調査委員会」の組織、構成、権限、責任者等について詰めていなかったばかりか、1カ月も調査が開始されず、調査開始時点までに日本側に通報するとしたこれらの約束が未だ果たされていないことから、その辺のお伺いを立てるために日本側が呼びかけて7月1日に北京で確認の日朝政府間協議を開くことになったということになる。
何となく意気込みと自信に反する、ご機嫌を損ねてはならないといった腫れ物に触るような日本政府の北朝鮮の出方任せの対応に見える。
ところが北朝鮮は7月1日2日前の6月29日午前5時頃、6月26日に引き続いて短距離弾道ミサイルを日本海に向けて発射した。
6月29日の記者会見。
小野寺防衛相「国際社会の懸念を無視してミサイルの発射を繰り返すのは、周辺国を含めて、非常に大きな問題となる。せっかく日朝政府間協議で、北朝鮮に対してさまざまな交渉ができつつある中での今回の発射というのは、決して北朝鮮のためにもならない」(NHK NEWS WEB)
拉致問題、その他について交渉の最中のミサイル発射に日本政府は北朝鮮の真意を測りかね、疑心暗鬼に陥ったが、拉致問題等とミサイル発射を別問題とし、制裁解除方針は維持、政府間協議をそのまま開催することにした。
つまり北朝鮮のミサイル発射よりも何よりも拉致解決を優先させた。
7月1日の北京での政府間協議は一応ミサイル発射問題を取り上げたが、目的とした話し合いで予定通りに終わり、安倍晋三に内容を報告することになった。
日本政府にとってこの重大な時期に北朝鮮は翌日の7月2日、再び短距離弾道ミサイルを日本海に向けて発射した。
いくらミサイルを発射しても日本側から日朝政府間協議を打ち切る心配はないと高を括ったのか、最初から拉致問題を解決する気がなかったからなのかは分からないが、少なくとも解決に向けた真摯な姿勢を窺うことはできないはずだ。
この一連のミサイル発射で北朝鮮側の姿勢をどう占ったのか分からないが、安倍晋三は日本側代表団の報告を受けて7月3日午前、首相官邸で関係閣僚会議と国家安全保障会議(NSC)を開催、独自制裁の一部解除方針を決めた。
国家安全保障会議(NSC)まで開いて協議したのだから、見通しに自信があったはずだ。見通しに反する結果なら、何のために国家安全保障会議まで開いたのかということになるし、国家安全保障会議という名に恥じることになる。
安倍晋三(関係閣僚会議とNSC後、官邸で記者団に)「国家的な決断、意思決定ができる組織が前面に出るという、かつてない態勢ができたと判断した。行動対行動の原則に従い、日本が取ってきた一部の措置を解除したい」(MS産経)
ミサイル発射に対する疑心暗鬼は吹っ飛び、再び解決への意気込みと自身を取り戻したようだ。
それが約束だったのだろう、日本政府は7月4日、「特別調査委員会」を設置したことが確認されたことから制裁の一部解除を決定、これを受けて北朝鮮は同7月4日に調査を開始した。
7月1日の北京での協議では初回報告は「夏の終わりから秋の初め」で合意していたが、一向に報告がない。その報告遅延の理由と日本側は拉致解決を最優先としていることを伝えるために10月28日、29日の両日、北朝鮮・平壌で日朝政府間協議を再び開くことになった。
8月21日記者会見。
山谷えり子「夏の終わりから秋の初めごろにかけて第1回目の報告があるとのことで、もうそろそろというふうに思うが、具体的な日時や形態などは示されていない。
圧力に重点を置いた対話と圧力という基本的な姿勢の下、すべての被害者の一日も早い帰国の実現、そして、帰国した被害者らが安心して日本で暮らせるように環境整備をしていきたい。仮に北朝鮮が不誠実な対応をした場合には、すぐに全員を返すようにということを求めていきたい」
「具体的な日時と形態」は取り決めていなかった。取り決めるだけの交渉能力を日本側代表団は持たなかった。
日本側代表団がその程度なら、山谷えり子も程度の低い矛盾したことを言っている。「仮に北朝鮮が不誠実な対応をした場合には、すぐに全員を返すようにということを求めていきたい」
誠実な対応あってこその解決可能性であって、誠実な対応を唯一前提としなければならないはずだが、「不誠実な対応をした場合」を前提にして全員帰国を求めて、それが可能であるかのような矛盾したことを平気で言う。
可能であるなら、北朝鮮側の不誠実な対応を問題とせずに既に全員帰国を果たしていたはずだ。
9月3日、次世代の党参議院議員アントニオ猪木が北朝鮮・平壌でのプロレス大会を終えて帰国した羽田空港で記者会見している。
アントニオ猪木「私の勘ではありますけど、向こう(北朝鮮)は落としどころをほとんど準備できている。あとは日本の受け入れ態勢がどうなっているか」(スポーツ報知)
「落としどころ」とはこの辺でいいだろうと双方が納得できる妥協点を言う。だが、拉致問題はこの辺でいいだろうと双方が納得して解決する問題ではない。アントニオ猪木が言っていることは朝鮮総連機関紙・朝鮮新報が「再調査の結果を確認し、拉致問題決着の道筋を日本国民に提示するのは日本の政権担当者の役割だ」と書いて、程々のところで手を打つべきだと促していたことと相互対応している。
そのお陰でアントニオ猪木の発言と朝鮮新報の記述から北朝鮮側の拉致解決に向けた姿勢を窺うことができる。誠実な対応は期待できないという姿勢である。
日本政府は中国・北京の大使館ルートを通じて北朝鮮側に履行状況や最初の通報時期などを照会した結果、9月18日に北朝鮮側から回答があった。9月19日、閣議後記者会見。
菅義偉「(9月18日に)『特別調査委員会はすべての日本人に関する調査を誠実に進めている。調査は全体で1年程度を目標としており、現在はまだ初期段階にある。現時点でこの段階を超えた説明を行うことはできない』という連絡があった。
日本側としては、北朝鮮側が拉致被害者を始めとするすべての日本人に関する包括的かつ全面的な調査を迅速に行い、その結果を速やかに通報すべきと考えており、このような問題意識を北朝鮮側にしっかりと伝えている。
調査の現状について、さらに詳細な説明を早期に受ける必要があると考えており、具体的なやり方を今後、北京の大使館ルートを通じて調整を行っていきたい。
7月の時点で、北朝鮮からの最初の通報は『夏の終わりから秋の初めごろ』ということで双方の認識が一致していたが、現時点で最初の通報時期は未定だ。通報が遅れる理由の説明も現時点ではない。
交渉ルートが長年にわたり閉ざされてきたわけだが、今回初めて交渉の道が開かれた。そこで約1年という期限を、私から申し上げたのに対して、今回初めて北朝鮮側も期限を切ってきた」(NHK NEWS WEB)
北朝鮮側から「調査は全体で1年程度を目標としており、現在はまだ初期段階にある」と問い合わせに回答があったと言いながら、「約1年という期限を、私から申し上げた」と矛盾した言い方をしている。
それとも目標通りに1年で報告をお願いしたいと申し出たと言うことなのだろうか。
北朝鮮が調査を開始したのは7月4日。それから1年程度と言うことなら、2015年7月上旬ということになる。「夏の終わりから秋の初め」どころではない。
この北朝鮮側の報告遅れにしても、日本側の報告待ちにしても、北朝鮮側の出方任せだけが目立つ。制裁解除というカードを持ちながら、何ら主導権を握ることができない。
この報告の遅れで安倍晋三以下、日本側は相当疑心暗鬼に駆られたに違いない。当初の拉致解決に向けた意気込みと自信は相当に薄れたはずだ。
北朝鮮が調査を開始した2014年7月4日から1年経過した2015年7月3日、調査結果の報告の延期を政府に連絡してきていたことが日朝関係筋の話で分かったと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。
記事は〈調査結果の報告をいつまでも先送りにすることは容認できず、北朝鮮側の対応は遺憾だとしながらも、制裁を強化したり、協議を打ち切ったりすれば、拉致被害者の帰国の実現は、より難しくなりかねないとして、北朝鮮側の連絡を受け入れることを決め〉たと解説している。
制裁を強化することもできず、協議の打ち切りもできず、すべて北朝鮮側の出方任せであることのみが続くことになった。
安倍晋三(7月3日の衆議院特別委員会)「我が国は去年5月のストックホルムでの日朝間の合意を誠実に履行してきている。日朝間に合意された具体的な期間があるわけではないが、調査開始から1年が経過する今もなお、拉致被害者の帰国が実現していないことは、誠に遺憾だ。
北京の大使館ルートで働きかけを行ってきたが、今般、先方より、『すべての日本人に関する包括的調査を誠実に行ってきているが、今しばらく時間がかかる』旨の連絡があった。政府としては、遺憾ではあるが、北朝鮮からの具体的な動きを早急に引き出すべく、働きかけを強化するため、外務大臣と拉致問題担当大臣に指示した。
その結果も見極めつつ、日本政府としての今後の対応を判断していく。政府としては、引き続き、『対話と圧力』、『行動対行動』の原則を貫き、すべての拉致被害者の帰国を実現するため、全力を尽くしていく」(NHK NEWS WEB)
言っている趣旨はいつもの発言と同じである。「働きかけを強化」しても北朝鮮側の出方任せであるという交渉の構造は変わらない。「『対話と圧力』、『行動対行動』の原則」をいくら言い立てようと、北朝鮮側の出方任せを一度も突き崩すことができなかったのだから、今後とも突き崩すことができると期待できるわけではない。
特に「行動対行動」を掲げて一部制裁解除したものの、1年間効果を見ることができなかった。
拉致被害者家族連絡会と支援団体「拉致被害者を救う会」は政府の態度とは反対に7月22日、制裁の強化を訴える緊急集会を開いた。
だが、安倍晋三は北朝鮮側の出方任せから抜け出ることはできないだろうし、もし制裁を強化したなら、国家安全保障会議(NSC)まで開いて、「国家的な決断、意思決定ができる組織が前面に出るという、かつてない態勢ができたと判断した。行動対行動の原則に従い、日本が取ってきた一部の措置を解除したい」と決断した自身の責任に跳ね返ることになって、その責任を問われることは間違いない。
責任追及を回避するためにもこの場面での制裁強化はできないはずだ。
「生活の党と山本太郎となかまたち」
《7月21日 小沢代表記者会見動画党HP掲載ご案内》
こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
小沢代表は7月21日、国会内で記者会見を行い、「戦前軍部のように官僚機構がひとり歩きする」
と安保法制の現実政治への影響に懸念を示しました。
また、安保法案への今後の対応や「シールズ」行動への参加等の質問に答えました。
「憲法第9条のもとで許容される自衛の措置」に関する政府見解は次のようになっている。
《憲法と自衛権》(防衛省)
〈憲法第9条のもとで許容される自衛の措置
今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。
憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。
一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。〉――
そして安全保障環境(パワーバランス)の変化、その他のことを言って、〈憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新3要件〉の構築とその項目を並べている。
日本国憲法前文の「国民の平和的生存権」関する個所を拾ってみる。
〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。〉
そして前文最後で、〈日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。〉と宣言している。
日本国憲法前文が言う〈平和のうちに生存する権利〉(=「国民の平和的生存権」)は〈恒久の平和〉への念願と〈平和を愛する諸国民の公正と信義〉を力として保障することを求めている。
では、日本国憲法第3章「国民の権利及び義務」第13条はどう規定しているか。
〈すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。〉――
「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は最大限尊重されるべきことを謳っている。
問題は最大限尊重される恒常的な環境を日本国憲法はどこに置いているかということである。
当然、日本国憲法「第2章 戦争放棄」第9条に関係してくる。
第9条第1項は、〈日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 〉
第2項は、〈前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 〉と規定している。
つまり日本国憲法第9条は、〈正義と秩序を基調とする国際平和〉の誠実な希求を戦争放棄と武力の不行使・交戦権の否認を手段とすることを求めている。
このことは日本国憲法前文の〈平和のうちに生存する権利〉(=「国民の平和的生存権」)を〈恒久の平和〉への念願と〈平和を愛する諸国民の公正と信義〉を力として保障することを求めていることと相互対応している。
この相互対応関係からすると、日本国憲法第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が最大限尊重される恒常的な環境とは戦争放棄と武力の不行使・交戦権の否認を手段とした戦争のない平和な状況を言うことになるはずだ。
つまり「憲法第9条のもとで許容される自衛の措置」に関する政府見解を否定することになるが、政府見解が自衛権の行使を前提として憲法解釈しているから、憲法第9条が戦争放棄と武力の不行使・交戦権の否認を規定しているにも関わらず憲法前文と憲法第13条を持ち出し、三者を結びつけて、憲法第9条が〈我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置〉までは禁じていないはずだと9条自体を否定する、許されるはずもない特例を無理矢理に設けたといったところだろう。
大体が自衛の措置はそれが個別的であろうと集団的であろうと、戦力の保持と交戦の機会を必要とするのだから、憲法9条に真っ向から違反することになる。
東条英機がその遺書で、「日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然しからざれば、盗人が跋扈する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)」と日本国憲法第9条の規定を批判しているが、例えどこに矛盾があろうと、第9条を厳格に守った上で日本と日本国民の安全と生存は保障されるべきであるとする、そういった憲法なのである。
また、憲法前文の〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。〉とする文言を、「平和を愛する諸国民ばかりではない。そういった理想主義で成り立たせた架空の公正と信義」が日本の安全と生存に役立つ保証があるのかという批判もあるが、しかし日本国憲法はそのような理想を目指すことを義務づけた、そういった憲法なのである。
もし日本の安全保障に役立たない、矛盾した日本国憲法であると解釈するなら、憲法を改正して、そういった憲法ではない、矛盾のない、自分たちの解釈通りのものとしなければならないはずだ。
だが、第9条の規定を捻じ曲げて自衛権を行使しようとする長年の陰謀を実現させようとしている。
1カ月以上も前の記事になるが、《「日本ぼめ」なぜ受けるのか、何が心に響くのか》(asahi.com/2015年6月15日21時37分)なる記事が冒頭、〈かっこいい日本、「クールジャパン」を海外に売り込もう。そんな動きの一方、日本のここがすごいという外国人のほめ言葉がよく伝えられる昨今。少し、熱くほめられすぎてないか?〉の出だしで、昨今の主としてテレビ番組の“日本ボメ”の現象を取り上げていた。
記事は2人の人物にこの現象を解説させている。一人はライター・編集者の武田砂鉄氏。聞き手は畑川剛毅記者と村上研志記者。
〈■肯定ばかり、だから安心
テレビ番組で、日本のラーメン屋の行列を「美しく冷静に行列に並ぶことができるのは日本人だけ。規律正しい国民だ」と外国人のキャスターにリポートさせていた。併せて流した映像は裕福ではなさそうなインド人がバケツを持って並ぶ姿。そこまでして「日本」をたたえますか。
僕も日本は好きです。しかし、何でもかんでも日本を褒めがちな風潮は気持ち悪い。外と比較し、外を下げて、自分たちを持ち上げる。「日本アゲ」ですね。欧州の先進国でも電車の発車時刻は遅れて当たり前なのに「定刻発車できる日本はすごい」とか。
1998年から3年半、「ここがヘンだよ日本人」という番組がありました。世界から見ると日本人はこんなにおかしく見えるよと、それを面白がり、笑いのめす度量があった。今なら「自虐的だ」と叱られるのでしょうか。「世界の日本人ジョーク集」が売れたのは約10年前。自分たちを笑う余裕がありました。
書店の店頭で目立つ、日本を褒める本は三本柱です。ただただ称賛する本、中国や韓国をけなす本、「昔の日本人と比べ今はだらしない」と叱る説教調の本。嫌中・嫌韓本はヘイトスピーチの社会問題化などで失速気味。その分を「褒め本」が埋めています。
三本柱の購読層は重なり、中心となるのはいずれも50代以上の男女。中韓への鬱憤(うっぷん)を日本アゲで埋める構図です。ひと昔前までは「日本の方が上」と余裕で感じていられた状況が、中韓の経済規模拡大で変わった。日本褒めは、プライドが崩れた中高年を優しく慰め、安心材料を提供しているともいえます。
安心の作り方も粗雑です。ある本は「日本を褒める」本文の多くが、ネットに投稿された外国人の日本を称賛する書き込み。一面的なところがウケる。物事には否定的な見方も肯定的な見方もあるはずなのに肯定以外は切り捨てる。それを繰り返し「日本はやっぱり素晴らしい」「まだ大丈夫だ」と安心する。
現状を精緻(せいち)に分析し、解決策をあれこれ探る難しい本よりも、風邪薬の効能書きの「熱が出たらこの薬」みたいに、「不安になったら日本アゲを読め」という図式が出来上がっているのでしょう。
もう一つ気になるのは、行列や定刻発車という個別事例がいきなり「日本という国」「日本人」という「大きめの主語」に昇華してしまうこと。理解に苦しみます。行列に整然と並ぶ姿が、なぜ「日本人はすごい」に直結するのか。
「せっかく褒められて気持ちよくなっているのに、気の利かない野郎だ」と思われようとも、その都度立ち止まってぐずぐずと考え続ける以外にないと思う。さもないと、いつしか「大きめの主語」に取り込まれ、翻弄(ほんろう)されてしまいます。〉――
「美しく冷静に行列に並ぶことができるのは日本人だけ。規律正しい国民だ」はその通りだろう。だが、この手の規律は全員が全員とは言わないが、その多くが自律的・主体的な規律ではなく、世間の慣習を権威として、その権威に機械的に従属する規律に過ぎない。
自律的・主体的な規律であったなら、煙草の吸殻の処理に於いても、空き缶や空きビンの処理に於いても、同じように自律的・主体的な規律が発揮されて、ポイ捨てといった状況は起きることはなないだろう。
最近は社会的なルールが厳しくなって、吸い殻のポイ捨ても空き缶や空きビンのポイ捨ては少なくなったが、このこと自体が自律的・主体的な規律とは反対のルールに従えという他律性の規律に従属した行動であることを示しているのだが、それでも雑草が生い茂っていて捨てたあと人目につきにくい川原や、車の窓から捨てても、植え込みの陰に隠れて同じく人目につきにくい道路の中央分離帯などには大量のゴミやビン・缶が今なお棄てられている。
要するに規律正しい行動も規律正しくない行動も、自身が決めたあるべき規律――自律的・主体的な規律に基づいた行動ではなく、多くは世間の目を基準として行動しているということである。
また、規律がそれぞれの自己を基準とした自律的・主体的なものとなっていないから、“日本ボメ”という他人の仕掛け――他律性の仕掛けにそれぞれは良し悪しがあるのだとする相対的思考能力を欠如させて簡単に乗せられることになる。
もう1人はタレントのパックンことパトリック・ハーラン氏。
〈■親切で安全、実際いい国
来日して22年になります。数年前まで「日本てダメだよね。そう思わない?」と短所を挙げて同意を求められることが多かった。指摘してほしいというお願いも多かった。
「日本語が難しいから国際化ができない」「日本人は創造性がなく物まねばかり」「ネクラでしょう?」。マイナス思考に陥ってしまった日本人が、マイナス面を裏打ちしてくれる情報を欲しがっているのかな、こんなにいい国に住んでいるのに、なぜコンプレックスを持つんだろうと、すごく不思議でした。
僕は日本人の明るくよく笑う国民性が好きです。意外かもしれないけど、ネクラでもない。大体は優しく親切で丁寧だし、自分からは動かないけど「困ってる」と助けを求める人は必ず助ける。日本人のよさ、だと思いますね。
日本がいい国、誇るべき国なのは間違いないですよ。アメリカでは、もう20年前には「働き過ぎ」以外、かっこいい国だと思われていたんじゃないかなあ。物事がきちんと処理される国だし、お尻が洗える便座をつくってしまうとか、発想力が豊か。何より安全です。
それに、僕は結構かっこいいイタリア製の自転車に乗っていますが、鍵をかけなくても一度も盗まれたことがない。アメリカの友人に話してもなかなか理解してくれません。落とした財布は戻ってくる。羽田空港のコンコースで席をとるために置いたスマホも盗まれないんだから。そんな国、確かにほかにないよ!〉――
「自分からは動かないけど『困ってる』と助けを求める人は必ず助ける。日本人のよさ、だと思いますね」と言っているが、「自分からは動かないけど」という行動性自体に自律的・主体的な規律に基づいた行動ではない、日本人の他律性を窺うことができる。
しかしこれはあくまでも傾向であって、時と場合に応じて自律的・主体的に行動する場合もあれば、上や周囲からの指示や命令に基づかなければ行動できない他律性に縛られる場合もあるだろうし、あるいは前者・後者いずれかの傾向に傾いた行動ということもあるだろう。
要するに同じ日本人でも人それぞれなのであって、日本人であること――日本人性によって決まるわけではない。
テレビでは頻繁に「落とした財布は戻ってくる」を神話として取り上げているが、《平成26年中 遺失物取扱状況》(警視庁HP)によると、2014年の現金の遺失届約79億6千9百万円に対して拾得届は約33億4千万円となっていて、半分以下しか届けられていない。残りの43億円すべてが失くしたときの状態のまま人目につかない状態で放置されているとは考えにくいから、多くは誰かが拾って、ラッキーとばかりに懐した――ネコババしたと考えなければならない。
遺失届したものの、拾得届がなく、自身のカネを失った者は日本人だけだろうか。そのような日本人の声ばかりか、もしそこに外国人が混じっていたなら、テレビはその声までも拾っていないことになる。
一般的に複数で拾った場合、人は正直になりやすいし、正直であろうとする。お互いが他の人間の目を意識して、狡くなれないからだ。逆に誰もが積極的に正直な行動を取ろうとする。誰もが自分を正直な人間に見せようとするからだ。
だが、一人で他の人間の目のないところで拾った場合、自身の性格に忠実な行動を取ることになる。正直な人間は自身の正直な性格に忠実に届け出るだろうし、狡い人間は自身の狡い性格に忠実にネコババするに違いない。
尤も正直な人間であっても、ときには魔が差して、自身の正直な性格を裏切ることがある。罪の意識を感じながら、拾ったカネに頼ってしまうこともあるだろう。
同じ日本人であっても様々である。日本人として行動様式が似通っていても、似通った行動様式の中での性格の現れ方は様々であって、単純ではない。にも関わらず、武田砂鉄氏が言っているように「物事には否定的な見方も肯定的な見方もあるはずなのに肯定以外は切り捨てる」といった一方的な見方・考え方に陥って、日本人を肯定一方の評価で把えると、それを民族としての全体性だと考えるようになり、日本人は優れていると民族のレベルで優秀とする民族優越意識に囚われることになる。
このことは武田砂鉄氏が「行列や定刻発車という個別事例がいきなり『日本という国』『日本人』という『大きめの主語』に昇華してしまう」と言っていることに当たる。
これらのことを単なる杞憂で片付けることはできない。なぜなら、過去の歴史に於いて何度か日本人の多くが日本民族優越意識に冒されてきているからだ。
最近の日本人の自信は国家主義者で、日本国家を前面に押し出している安倍晋三のお陰なのだろう。
戦争中の日本兵は被占領地の兵士や住民から傲慢で残虐と見られていた。日本国民もアジアの国民を下に見、特に朝鮮人や中国人に対する日本人を遥か上に置いた差別はひどいものがあった。日本民族優越意識に冒されていたからこそできた差別であり、傲慢で残虐な態度であったはずだ。
だが、惨めな敗戦によって日本人は卑屈なまでに自信を失った。日本民族優越意識がウソであったかのように消え失せた。
日本人に再び自信を回復させたのは日本経済の回復によってだった。
かつて日本が急激に高度経済成長の階段を駆け上がっていった時代、朝鮮戦争特需がそのキッカケと弾みをつけた歴史の皮肉な偶然を考えずに自分たちの能力が成し遂げつつある歴史の偉業とばかりに考えて自信過剰となり、日本民族優越意識の頭を再びもたげさた。
そのような姿がアジアの貧しい国々の国民に対して傲慢な日本人を映し出すことになった。一度ブログに書いたことだが、2005年8月5日「朝日新聞」朝刊、《岐路のアジア(8)途上国援助 円借款離れ 中国台頭》はタイのナロンチャイ元商務相の発言を伝えている。
「以前の日本は東南アジアのボスみたいな態度だったが、最近は腰が低くなり、対等に近い関係になった。タイの発展の成果だ」
タイが国力をつけ、その国力そのものから日本も利益を受ける側に立つことになって、下手に上に立つ者の態度は取ることができなくなったということだろう。
このような位置関係の変化はタイだけに限らないはずだ。アジアの国々が経験していった日本の態度の変化であろう。
日本人は少しでも自信を回復すると、自信をもたらす出来事の成り立ちの原因を日本人の優秀さに置く。例えばどの国にも景気の波はあり、波に応じてどの国も景気回復はあるにも関わらず、日本が景気を回復すると、それを日本人の優秀さが原因だとする。
日銀の異次元の金融緩和によって円安と株高が実現したとしても、アメリカと中国が不況であったなら、日本の景気回復の目は見ることはなかったろう。特にこれまでの中国の好景気が影響した日本の景気回復であり、反映と相互性に制約されていることを常に頭に置いた相対的思考を常としていなければならない。
また日本の景気回復は一般国民を置き忘れた景気回復であり、決して完全な形のものではないことも忘れてはならない。
もし日本民族は優秀であるが真正な事実であるなら、一般国民を置き忘れた景気回復などあるはずもない。政治家の政策に矛盾があるからこその置き忘れであろう。
だが、根っからの権威主義的行動様式から、日本民族を最上の権威とすることを欲する意識から逃れることができないため、自信回復が個人として行動するのではなく、優秀な日本人として行動する全体性を招くことになって、その結果、何事も民族の違いで正誤・上下等々を評価するようになり、自ずと他民族に対して上から目線となって、それが日本民族優越意識となって現れて、他の国の国民をして傲慢な人間に映ることになる。
かくこのような日本民族優越意識を免れるためには優秀であるかどうかは民族に関係しない個人の能力に応じるという相対的に物事を把える思考、また優秀であっても、個人の中にあるいくつもの能力の内、限られた能力であって、全ての能力が優秀という万能の人間は存在しないとする相対的思考に立たなければならない。
如何なる国の民族優越意識も、その国の全ての人間の全ての能力を他の民族よりも優秀とし、万能の人間と見做すことによって成り立たせている。その結果、他民族を差別し、蔑視することになる。
ヘイトスピーチも、それを行う自分たちを優秀な日本人であるとし、優秀な日本民族という立場から行っているからこそできる憎悪表現であるはずだ。