東京大空襲訴訟高裁判決「旧軍人・軍属への補償は戦闘行為などの職務を命じた国が使用者として行うもので、合理的根拠ある」の意味

2020-08-31 07:29:53 | Weblog
 当ブログのテーマと関係ないが、先ず安倍晋三首相辞任から。

 安倍晋三のウルトラC

 安倍晋三が2020年8月28日の記者会見で潰瘍性大腸炎が再発し、激務に耐え得ないとかで自民党総裁任期を1年を残して首相を辞任した。記者会見で次のように述べている。

 安倍晋三「今後の治療として、現在の薬に加えまして更に新しい薬の投与を行うことといたしました。今週初めの再検診においては、投薬の効果があるということは確認されたものの、この投薬はある程度継続的な処方が必要であり、予断は許しません」

 新薬服用の効果はあったが、その効果を病状回復にまで持っていくためにはある程度の継続的な処方が必要であり、それまでの期間、現在の体調では国民の負託に応えうる自信が持てない。よって辞任することにした云々となる。

 もし病状回復までの新薬服用の効果期間を1年と置いていたらどうだろうか。1年後の総裁選に遣り残したことがあると立候補も可能となる。憲法改正、北方領土返還、拉致被害者帰国、地方創生戦略の見直し 格差拡大是正、東京一極集中是正・・・・等々。遣り残したことの方が多いくらいである。

 ここで鍵となるのは官房長官の菅義偉が自民党総裁選に出馬することを自民党幹事長シーラカンスの二階俊博ら政権幹部に伝えて、二階俊博からは「頑張ってほしい」と激励されたとマスコミが伝えているし、8月31日朝のNHKニュースは、「二階派幹部は、菅氏が立候補すれば派閥として支援する可能性を示唆した。」と報じている。

 もし菅義偉が首相になったとしても、任期は来年の9月まで。この間に総選挙がある。野党結集の影響を受けて、政権を失わない程度に一定程度、議席を減らしてくれれば、政権を失うこと程怖いことはないという経験をしている自民党からすれば、安倍待望論が湧き起こらないとも限らない。菅義偉をワンポイントリリーフとすれば、安倍晋三の再登板は遣りやすくなる。再登板なら、総裁任期は3年だから、3年間、じっくりと腰を落ち着けて安倍政治に取り組むことができる。うまくいけば、さらに3年間・・・・。そのために辞任を1年早めた????

 既にこういったシナリオが出来上がっているのかもしれない。安倍晋三にとってはウルトラCのシナリオだが、反安倍陣営にとっては悪夢のシナリオとなる。

 2020年8月24日エントリ当ブログ《NHKSP「忘れられた戦後補償」から見る民間被害者への補償回避は憲法第14条が定める「法のもとの平等」違反 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に対して次のようなコメントを頂いた。

 軍人恩給は報奨 (ニガウリ)2020-08-24 17:17:33 軍人軍属恩給は聖戦(正義の戦争)に対する尽忠報国へのご褒美(報奨)として与えられている。その趣旨から当然のように、職業軍人に厚く与えられている。そこに問題がある。沖縄では準軍属として遺族年金を受けている人がいるが、彼らは戦争に協力したと報告書に自書しなければ準軍属としては認められなかった事も問題である。

 軍人軍属恩給を「問題がある」と批判しているが、軍人軍属に対する恩給が「ご褒美(報奨)」として位置づけられているのか、ちょっと気になって調べてみた。一部抜粋。

「恩給制度の概要」(総務省) 
 
(6)昭和28年(1953年)旧軍人軍属の恩給復活(法律第155号)

II 恩給の意義、性格

 恩給制度は、旧軍人等が公務のために死亡した場合、公務による傷病のために退職した場合、相当年限忠実に勤務して退職した場合において、国家に身体、生命を捧げて尽くすべき関係にあった、これらの者及びその遺族の生活の支えとして給付される国家補償を基本とする年金制度である。

III 恩給の対象者

 現在、「共済制度移行前の退職文官等」及び「旧軍人」並びに「その遺族」が対象となっている。(約23万人。うち98%が旧軍人関係)

 要するに恩給制度は旧軍人を主たる対象としている。そして恩給そのものは「国家に身体、生命を捧げて尽く」したことに対する国家による補償――「国家補償」を基本的性格としているとしている。

 一方で戦争被害に遭った民間人には、2020年8月15日夜放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」によると、引揚者、被爆者、シベリア抑留者などに対しては救済措置は施されたが、空襲被害者等に対しては何ら補償を受けることができなかった。理由は「国家に身体、生命を捧げて尽く」す「公務」のための死亡・傷病ではなかったからということであり、引揚者、被爆者、シベリア抑留者程には苦労していないということからなのかもしれない。

 名古屋空襲で被害を受けた市民の補償請求訴訟に対して最高裁は1987年(昭和62年)6月26日に、「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」という判断を示した。

 1945年3月10日の東京大空襲の被災者と遺族113人が旧軍人・軍属には恩給や遺族年金が支給されるのに民間被災者に補償がないのは「法の下の平等」を定めた憲法に違反するなどと主張し、2007年3月9日に東京地方裁判所に提訴した補償請求訴訟では2009年12月14日に「原告請求棄却」の判決を下し、この判決を不服として東京高裁に控訴、2010年(平成22年)7月23日第1回口頭弁論、2012年(平成24年)4月25日に請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、原告側控訴を棄却した。

 原告は最高裁にさらに上告。最高裁は2013年5月8日、審理を1度もせずに「民事訴訟法の上告と上告受理の条項に当たらない。原告らの請求をいずれも棄却する」と上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。

 以上がネット等で調べた空襲被害者の補償訴訟の経緯である。

 要するに東京大空襲訴訟に関しては東京高裁判決が旧軍人・軍属及びその遺族に対する恩給等の補償の正当性を論理づけていることになる。高裁判決をネット上で捜したが、見つけることができなかった。

 但し判決の一部を電子書籍の中から見つけることができたが、引用を禁止している。と言っても、著作権法32 条1 項は、〈公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。〉と規定している。

 要するに引用が分かる形にすれば、引用できることになっている。引用電子書籍に対して敬意を評するために1584円を出して購入することにした。

  「戦争経済大国」(斎藤貴男著/ Google Books)
 
 〈戦時災害保護法が廃止されたのは生活困窮者に対しては、その困窮が戦争により生じたものかであるか否かなどその理由に関係なく一律に保護を与えるとの方針に基づくものであり、同方針に基づき、戦時災害保護法の廃止と同時に生活保護法が、また、昭和22年には児童福祉法が、昭和24年には身体障害者福祉法が、それぞれ制定されたこと、他方、戦争傷病者戦没者遺族等援護法は(中略)その趣旨は戦地に赴いて戦闘行為に参加するなど死傷の危険性の高い職務を国から命ぜられ、その職務に従事した軍人軍属等については、その職務上の負傷、疾病または死亡につき国がその職務を命じた使用者あるいは使用者類似の立場から補償を行うというものであること、また、恩給法は、国との雇用関係にあった旧軍人に対し、文官に対すると同様に国が使用者の立場から補償を行うという趣旨のものであったことからすると、これらの法律が軍人軍属を対象として補償を定めたことには合理的な根拠があるということができ、この対象とされなかった者との区別が非合理あるということはできない。このことは、既に前傾最高裁判昭和62年6月26日第1小法廷で判示しているところである。〉

 東京高裁判決のこの箇所は原告の訴えに対応した判断である。原告側から別の訴えがあって、その訴えに対応した別の判断の存在は判決の全文を知ることができないから、どう応えようもない。中途半端な解釈になるかもしれないし、以下の解釈が既に誰かの手によってなされている可能性も否定できないが、自分なりに感取したことを並べてみる。

 但し引用判決が判決の主たる部分を占めていることは次の報道からも証明できる。

 〈東京大空襲訴訟、二審も国の賠償責任認めず 東京高裁〉(日経電子版/2012/4/25)(一部抜粋)

 〈東京大空襲では約10万人が死亡したとされる。原告らは、旧軍人・軍属には恩給や遺族年金が支給されるのに、民間の被災者に補償がないのは「法の下の平等」を定めた憲法に違反するなどと主張した。

判決理由で鈴木裁判長は「空襲で多大な苦痛を受けた原告らが不公平感を感じることは心情的には理解できる」としつつ、「旧軍人・軍属への補償は、戦闘行為などの職務を命じた国が使用者として行うもので、合理的根拠がある」と述べた。〉――

 引用判決とこの報道内容は相互に対応していて、主たる判決を占めていることが分かる。

 判決は要するに「戦争傷病者戦没者遺族等援護法」の趣旨は旧日本国家を旧日本軍と一体と看做して(=国から命ぜられ、その職務に従事し)、「戦地に赴いて戦闘行為に参加するなど死傷の危険性の高い職務」「上の負傷、疾病または死亡につき国がその職務を命じた使用者あるいは使用者類似の立場から補償を行うというものである」として、旧日本国家=旧日本軍が軍人・軍属に対して「使用者あるいは使用者類似の立場」にあったと看做している。

 恩給法にしても、「国との雇用関係にあった」ことから、「国が使用者の立場から補償を行う」と正当性の根拠としている。

 いわば旧日本国家=旧日本軍と軍人・軍属は「雇用関係にあった」。と言うことは、民間人空襲被害者は旧日本国家=旧日本軍と雇用関係になかったから、補償対象外に置かれたとしていることになる。

 このことは上記、〈恩給の意義、性格〉と対応する。「国家に身体、生命を捧げて尽く」す「公務」内の死及び死傷であるから補償するとして、「公務」外の民間人を補償対象外に置いていることと何ら変わりはない。

 ここで「補償」という言葉の意味を取り上げておく。〈損失を補って、つぐなうこと。特に、損害賠償として、財産や健康上の損失を金銭でつぐなうこと。「goo国語辞書」〉とある。つまり「補償」は常に責任の発生に基づいた行為ということになる。責任が発生しない行為に関して如何なる「補償」も発生しない。

 日本政府は戦争責任を認めていない。自存自衛の戦争だとか民族解放の戦争だとか、正当化している。安倍晋三にしても、「侵略という定義は国際的にも定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかということに於いて(評価が)違う」と戦前日本の戦争を侵略戦争だとは認めていない。

 だが、日本政府は「戦争傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」で、旧日本国家=旧日本軍と軍人・軍属が「雇用関係にあった」と看做して、「戦地に赴いて戦闘行為に参加するなど死傷の危険性の高い職務を国から命ぜられ」て被ることになった「負傷、疾病または死亡」させたことの責任を認めていることになる。責任を認めているからこそ、「補償」を対置させている。

 つまり「使用者あるいは使用者類似の立場」上の責任を認めた「補償」となっている。

 であるなら、例え民間人空襲被害者が旧日本国家=旧日本軍と雇用関係になかったとしても、国から命ぜられた旧軍人・軍属の「死傷の危険性の高い職務」の巻き添えを食らい、その「死傷の危険性」が民間人にまで及び、「負傷、疾病または死亡」を被った場合の日本国家の責任は免責できるとすることができるのだろうか。

 バスが整備不良やバス運転手の過剰勤務で事故を起こし、運転手・乗客に死傷者が出たなら、運転手・乗客共に整備不良の巻き添えを食らったことになり、バス会社は乗客に関しては雇用関係にはなかった、「使用者あるいは使用者類似の立場」になかったかという理由で補償を免れることができるわけではない。

 バス運転手が心筋梗塞、クモ膜下出血等の何らかの身体的原因か、飲酒等の運転規則に反して事故を起こして、乗客ばかりか、通行人をも巻き添えにして、死傷させたとしたら、乗客に対しても通行人に対しても雇用関係にはなかった、「使用者あるいは使用者類似の立場」になかったかとして、補償なしで済ますことができるわけではない。

 民法

第715条(使用者等の責任) ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。

2 使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。

3 前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。

 要するに民法の立場から言うと、各戦闘のために雇用関係にあった軍人・軍属を使用する旧日本軍(=旧日本政府)は被用者たる軍人・軍属がその戦闘の執行について第三者たる民間人に加えた場合の損害を賠償する責任を負うということになる。

 〈ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
〉とする免責を日本の戦争、あるいは各戦闘に適用可能とすることができるかどうかである。

 1941年(昭和16年)7月12日に内閣総理大臣直轄の総力戦研究所が日米開戦を想定した勝敗の帰趨を読み取る総力戦机上演習を行った結果、「日本必敗」とした。

 この「日本必敗」の根拠となった日米の国力(エネルギー資源も含む)・軍事力格差等を無視したのは当時の首相就任3カ月前の東条英機陸軍大臣で、総力戦研究所の職員を前にして行った訓示で日露戦争を例に取り、「勝てる戦争ではなかったが、しかし勝った。意外裡な事が勝利に繋がっていく」と、「意外裡」(=計算外の要素)に頼り、緻密性と合理性を持たせた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の理論と方法)を蔑ろにした、勝てる見込みのない無謀な戦争を引き起こしたのだから、民法に於ける使用者責任の免責事項は日本の戦争に限っては適用不可としなければならない。

 日本政府は旧軍人・軍属が旧日本軍(旧日本国家)と雇用関係にあったからと言って、その雇用関係から生じた「負傷、疾病または死亡」等の損害に対して補償を済ますだけではなく、第三者(民間人空襲被害者)をも巻き込んだ損害にも補償する責任を負うはずである。

 当然、「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかった」とする「受忍」論も不当な判断ということになるはずである。

コメント
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NHKSP「忘れられた戦後補償」から見る民間被害者への補償回避は憲法第14条が定める「法のもとの平等」違反

2020-08-24 11:40:18 | 政治
  
【訂正と謝罪】

 NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」の文字起こし文、一箇所が抜けていました。訂正して、謝罪します。文字起こしする際、要所、要所に注釈を加えていくのですが、その注釈を削除するとき、文字起こし文まで削除してしまったようです。

 〈書き落としたことの付け加え〉

 広瀬修子解説者が「2年半に及んだ懇談会(戦後処理問題懇談会のこと)は民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の法律上の義務によるものではないと結論づけました。そしてその理由として今戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり、不公平、とする考え方が新たに付け加えられたのです」と述べていますが、公平な戦後処理をして、その不足費用を「戦争を知らない世代」にまで負担させれば、日本の愚かな戦争の歴史が「戦争を知らない世代」にまで引き継がれていくプラス面が出てくる可能性があります。

 「下らない戦争のツケを何で俺たちに・私達にまで支払わせるのか」

 下らない戦争を忘れたくても、忘れることはできないはず。

 2020年8月15日夜放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を見た。当該HPには、〈国家総動員体制で遂行された日本の戦争。310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は様々な形で戦争への協力を求められた民間人だった。しかし、これまで国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象とする政策を選択してきた。国家が遂行した戦争の責任とは何なのか。膨大な資料と当事者の証言から検証する。〉と番組紹介を行っている。

 戦没者の内訳は番組では紹介していないが、

 軍人、軍属等  約230万人
 外地の一般邦人 約30万人
 空襲などによる国内の戦災死没者 約50万人――合計約310万人

 なぜ日本という国家は戦争責任を認めて、責任の代償としての国家補償を行わないのだろう。昭和天皇が自らの名前で宣戦布告の詔書を発した責任感から、そのことへの反省の言葉を国民に発したいと願いながら、当時の首相吉田茂に止められたというのも、天皇自身が「反省」すれば、当時の「大日本帝国」という国家は間違っていたとする歴史認識が成立することになるからだろう。

 なぜなら、このような場合の「反省」は間違っていたことを認める事実経過を前提とするからである。自身の言動を振り返って、正しかったか悪かったかを考えるという意味での「反省」ではない。

 要するに戦傷病者及び戦没軍人・軍属、その遺族に対する補償も、空襲被害者への補償回避も、戦争責任回避を前提としている。軍人・軍属、その遺族に対する補償は戦争責任を認めたから始めたことではない。認めていたなら、空襲被害者に対する補償も戦争責任の観点から、実施する義務を負うことになる。

 軍人・軍属は国のための戦争に尊い命を捧げたか、あるいは尊い命に身体的障害を負ったがために補償しているのであって、戦争責任とは無関係の観点に置いている。そして軍人・軍属に対する補償が厚いのは軍人・軍属を政治家や役人たちと同様に国家側の存在、国家経営の構成員と看做し、一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品と見ていることからのぞんざいな扱いであろう。

 このことが現れている発言を後で紹介する。最後に番組の文字起こし文を載せておく。

 番組は最後の方で、「現在の日本の戦後補償の全体像」を示す。

 補償   軍人・軍属など(現在までに60兆円以上)
 救済措置 引揚者 〈シベリア抑留者など(シベリア抑留者特別措置法・2010年6月16日 衆院本会議で可決、成立)〉
      被爆者 〈被爆者特別措置法・1968年5月20日公布〉
 なし   空襲被害者など

 なぜ軍人・軍属、その遺族にだけ60兆円ものカネが支払われて、空襲被害者など約30万人に対しては一切の補償は無いのかは、やはり軍人・軍属は国家経営の構成員だからだろう。国のために命を捧げて、国家を守ってくれる有難い存在である。

 だが、国を守っているのは軍人・軍属だけではない。

 番組が伝えている補償問題に関わった当時の役人の発言記録や現在のインタビュー発言などから、軍人・軍属優先・一般国民軽視の認識を窺ってみる。

 番組でも紹介されているが、1946年(昭和21年)に連合国最高司令官の指令により、重症者に関わる傷病恩給を除き、旧軍人軍属の恩給は廃止されている。ところが1953年(昭和28年)になって旧軍人軍属の恩給を復活させている。

 日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。つまり恩給復活は日本国憲法下に於いて行われた。

 最初に「日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第14条」を掲げておく、

 〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉

 引揚者は新憲法で定められた財産権を根拠に補償を要求、1957年に「引揚者給付金等補償法」が制定されて464億円が支給されることになったが、番組は支給の有無を検討した1954年から1966年までの『在外財産問題審議会』に関わった役人達へのインタビュー発言を伝えている。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為であり、地震とか津波といった天災と全く異なる。全体としての国の財政能力にはそう大きな余力はない。現実には、国民1人1人が負担するもの・・・・」

 「地震とか津波」は国・地方の対策不備によって被害を大きくすることはあっても、基本的に人間が引き起こす災害ではない。だが、戦争は国家という人間集団が引き起こし、国民を巻き込む人災に位置づけることができる。いわば戦争を計画・遂行した主催者は国であって、国民は戦争への参加者に過ぎない。当然、国家の責任が問われることになり、責任を負う一つの形である補償問題は避けて通ることはできなくなる。

 ところが、元大蔵省理財局長河野通一は「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為」だとして、日本の戦争に最初から正当性を与えている。あるいは戦争性善説を打ち出している。

 つまり戦争が生み出した国民に対する補償は戦争責任と常に結びつけた状態で議論しなければならないのだが、戦争責任論から離れた場所から、補償を「国の財政能力」の問題で片付けている。役人らしい酷薄さである。

 アメリカを相手に戦争を起こす「財政能力」もなしに戦争を引き起こした責任すら埒外に置いている。

 河野通一のもう一つの発言。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「これ(引揚者の財産喪失)は敗戦という非常事態で起こった問題であり、憲法や平和条約の個々の規定でもって法律問題にしようとすること自体が無理がある」

 戦争を引き起こし、敗戦を招いた主体、あるいは戦争、そして敗戦というを因果律を招いた主体としての国家の責任への視点を同じく欠いている。責任意識を少しでも持っていたなら、憲法でダメなら、一般法でという認識を起こすことになるが、責任意識がないから、補償に対する拒絶感しか示すことができない。
 
 森永貞一郎発言議事録(元大蔵省事務次官)「平和条約そのものが強制的に飲まされた条約なのであるのだから、このような事態による損害の補償を国に対して要求することはできない」

 ここでも平和条約は戦争を起こした結果であるという因果律をそっちのけにしている。また、戦争被害は平和条約の結果ではない。因果律を無視しているから、戦争を起こしたことの是非の認識を欠くことになる。欠いているから、当然、補償への視点を失う。

 秋山昌廣(元大蔵官僚・元防衛事務次官)「サンフランシスコ条約を締結するという公共の目的のためにね、自分たちの財産が日本の政府・国家のために犠牲になったんだというような(フッと鼻で軽く笑い)議論は、まあ、成り立ちうるわけですよね。

 政府とか大蔵省としてはこの問題が他の戦後処理問題に波及するというの相当懸念したと思いますね。注意したっていいますかね。恐れたと思いますねえ。国家が補償する、そういう、その、義務はないっていう結論は、まあー、しょうがなかったんじゃないかとおもいますねえ、うん」

 敗戦の結果、外地在住日本人は引揚げの際、財産の持ち出しを禁止された。戦争責任論に立って補償した場合、「他の戦後処理問題に波及する」から、戦争責任論には触れずに補償の義務はないことにする。

 要するに役人らしく、国家のことしか考えない。戦後の民主憲法下にありながら、国民を個人個人として扱ってはいない。

 空襲被害者に対する補償に関して。

 植村尚史(元厚生省援護課長補佐・現早稲田大学教授)「被害を一つ一つ救済していくというよりも、まあ、国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていくっていうことで、その被害はカバーされていくんだろうっていう、そう言う考え方でずっと進んできたことは確かだと思うんですね。

 法律的な意味で補償する責任っていうものは直ちにあるわけではないっていうのが、まあ、ずっと戦後からの、まあ、日本の認識だったいうふうに思っています」

 やはり戦争責任の有無を出発点としていない、国家のことしか考えない国家優先の立場に立った発言でしかない。「国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていく」という原理が常に平等・正常に機能するのかどうかを考える頭さえない。

 手を失ったり、足を失ったりして、失明したりして、社会で公平に活躍する機会を失っていた場合でも、国全体の豊かさに応じて豊かになる保証を与え得る、落ちこぼれは生じないという楽観主義を振り撒いているに過ぎない。この楽観主義が保証可能なら、格差社会など生じない。
 
 「戦後処理問題懇談会」(1982~84年)に関する各役人の発言を見てみる

 小林與三次(元自治事務次官)「個人の生命、身体、財産を中心に個人と国家の問題で議論したらいいんであって、忘れてというか、そのとき問題にしなかったものだってあるんじゃないのか」

 他人事のような発言となっている。あくまでも当時の日本国家の戦争責任の有無で議論を始め、補償の有無の結論に到達しなければなならないのに「個人の生命、身体、財産を中心」とした「個人と国家」の議論の問題だと矮小化している。

 国の戦争責任を抜いて、「個人と国家」の問題をどう議論しろと言うのだろう。

 河野一之(元大蔵事務次官)「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃあ困る。交付金をやるようなことをやりますと、やっぱり民間で広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていないんですよ。やっぱり寄こせというような議論が出てくると思うんです」

 国側の人間としての責任意識はどこにも見えない。

 番組は名古屋空襲で被害を受けた市民が補償請求の訴訟を起こしたのに対して1983年の名古屋高裁の棄却判決を紹介している。

 「戦争は国の存否に関わる非常事態であり、その犠牲は国民が等しく受忍しなけれならなかった」

 この判決も出発点は戦争性善説となっている。

 戦後処理問題を所管する総理府の事務方トップだった禿河徹映(とくがわてつえい)(元総理府次長)の発言。

 禿河徹映「国を上げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体が責任があるという意味じゃありませんけれども、まあ、国を上げて総力戦でやって、それで戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい。

 本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 「戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい」、「自力で頑張ってくださいと言うしかなかった」

 名古屋高裁判決と同じく、「受忍」せよと上からのお達しとなっている。

 であるなら、空襲被害者たちだけに「受忍」を求めるのではなく、軍人・軍属、その遺族に対しても、同じ国民として同じ「受忍」を求めるべきだったのではないのか。

 軍人・軍属、その遺族は特別扱いして、特に空襲被害者たちに「受忍」を求めるのは差別であり、「日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第14条」の〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉に明らかに反することになる。

 軍人・軍属に対する補償が厚いのは軍人・軍属を政治家や役人たちと同様に国家側の存在、国家経営の構成員と看做し、一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品と見ていることからのぞんざいな扱いであろうと先に触れたが、このことは閣僚たちの靖国神社参拝に現れている。

 経済再生相の西村康稔が終戦の日の翌日に靖国神社を参拝している。

 西村康稔「英霊の方々の犠牲の上に、こんにちの日本の平和と繁栄が築かれたことは決して忘れてはいけない。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないことや、日本が戦後、平和国家として歩んできた歩みを、さらに進めることを改めて心に誓ったところだ」(NHK NEWS WEB)

 安倍晋三も同じような国家主義を披露している。

 靖國神社は戦没した軍人・軍属を英霊として祀っている。国家は政治家や役人、軍人・軍属だけで成り立っているわけではない。一般市民のたゆまない勤労の膨大な積み重ねも「こんにちの日本の平和と繁栄」を築く一大要素となり得ているのであって、それを「英霊の方々」だけに限定する。如何に軍人・軍属を優先しているかが分かる。

 国家主義を纏っていると、国家経営の構成員を政治家・役人・軍人、軍属のみに限定することになる。

 環境相の小泉進次郎も8月15日の午前に参拝。

 小泉進次郎「どの国であろうと、その国のために尊い犠牲を払った方に心からの敬意と哀悼の誠をささげることは当然だ」

 「その国のために尊い犠牲を払った」存在を軍人・軍属に限定していて、戦争被害を受けた一般市民は頭には置いていない。見事な国家主義である。

 戦後になっても、政治家・役人の多くが国家主義に立っているから、政戦争責任を認めず、軍人・軍属と違って、国家経営の構成員ではない一般市民である空爆被害者への補償を回避することなる。一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品としか見ていないからだ。

 当然、個人と向き合うことを優先させているドイツやイタリアと一般市民に対する戦争補償の差が出てくる

 NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」(2020年8月15日(土) 午後9:00~午後10:00)

 (解説)

 国家総動員体制で遂行された日本の戦争。310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は様々な形で戦争への協力を求められた民間人だった。しかし、これまで国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象とする政策を選択してきた。国家が遂行した戦争の責任とは何なのか。膨大な資料と当事者の証言から検証する。

(文字起こし)

 (卒業写真を前に置いて)

 「卒業写真のね、塗りつぶしてますね。これです」

 広瀬修子解説「自らの下半身を自ら黒く塗りつぶした1枚の卒業写真。75年前、6歳の少女は米軍の空襲に見舞われました。そして左足を一瞬にして失いました。心と体に負った痛みを誰にも理解されないまま、少女は長い戦後を生きてきました。

 安野輝子さん「私はいつも普通になりたい、普通になりたい。いつも普通を望んでいたんですよ。人並みではないから。

 楽しいと思ったことは一回もないわ、あたし。うん、楽しいいうこと知らんもね。うれしいっていうことはいっぱいありますよ。楽しいって、どんなのが楽しいかわからへん」

 (国民が日の丸の旗を振って、列車で出征していく兵士を熱狂的に見送るシーン)

 広瀬修子解説「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道を辿った日本の戦争。米軍の無差別空襲。沖縄での地上戦」

 石に座って震えている、体、服共に汚れた子供の姿。

 広瀬修子解説「広島・長崎への原爆投下(被害に遭った市民の姿)。そして外地からの厳しい引揚げ(行列をなす引揚者の姿)。80万人の民間人が犠牲になりました。

 民間被害者は国家補償を求め続けてきましたが、その訴えは一貫して退けられてきました(車椅子の女性。松葉杖をついた男性)」

 街でビラを配り、訴えている一群。「空襲によって手を奪われ、目を奪われ――」、

 広瀬修子解説「この75年、国はどのように戦後補償問題を処理しようとしてきたのか。今回、私達は民間被害者への補償の在り方を検討した2万4千ページに及ぶ政府の内部文書を入手しました。

 (文書内の「国の補償義務は無い」の文字。そして「受任」の文字)

 浮び上がったのは国がその責任を認めず、一人ひとりが受任すべき被害としてきた実態。補償政策の検討に当たった元官僚たちは初めて重い口を開きました」

 元総理府次長「本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 石原信雄(元内閣官房副長官)「広い範囲で戦争の被害を受けた人がいるわけですよ。それについて残念ながら、未解決のまま残っている」

 広瀬修子解説「世論もまた、補償によって尊厳を取り戻したいという民間被害者に対して冷淡でした」

 「欲張り婆さん」、「乞食根性」の文字。ヒトラーがオープンカーに乗って、ハイル・ヒトラーの敬礼。旗を振る群衆。

 広瀬修子解説「一方、日本と軍事同盟を結んでいたドイツとイタリアは国の責務として軍人も民間被害者も平等に補償してきました」

 (ドイツなのか、イタリアなのか、空襲のシーンと路上に並べられた多くの死体の映像。)

 ドイツの歴史学者「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。すべての市民に対する責任を果たすため戦争を経験した多くの国で民間人への社会システムが整えられていったのです」

 広瀬修子解説「国策を推し進めた国家はその体制に組み込まれ、被害を負った個人にどのような責任を果たすべきなのか。初めて浮かび上がる戦後史の空白です」

 東京都永田町。衆議院議員会館前の一角。毎週木曜日。ここを決まって訪れるお年寄りたちがいました」

 (キャリーケースに旗竿を持った女性。

 幟旗(「全国空襲被害者連絡協議会」?)

 防空頭巾をかぶった女性(ビラ配り)「こんにちは。先の大戦の空襲被害者が救済立法を求めています」

 広瀬修子解説「国に補償を求めてきた民間の空襲被害者たち。自分たちに残された時間は少ないと街頭で訴え続けています」

 大阪堺市 ある一軒家。女性が玄関のドアを開けて、出迎える。

 広瀬修子解説「75年前のあの夏、人生を大きく変えられた安野輝子(81)さんです。空襲で左足を失い、移動(?)するときは義足を欠かせません。当時の処置が悪く、今も切断面に豆ができるため、数日間歩けなくなることもあるといいいます」
 
 安野輝子さん「豆できたら、いくら薬をつけてもダメやから、できた豆の周囲をはさみで切るんですよ」

 (1945年7月 鹿児島県川内市の空襲のシーン) 

 広瀬修子解説「米軍による空襲は安野さんが暮らしていた鹿児島県川内市にも向けられました。県内で約3700人が命を落としました。6歳だった安野さん。爆弾の破片が直撃し、左足の膝下が一瞬にしてもぎ取られました」

 安野輝子さん「翌日か翌々日ぐらいだったかな。治療、処置室に行って、赤チンつけるだけなんですよ、治療って。だけどそのときにこのぐらいのアレ(容器)にね、多分、そのときに見たのはこれぐらいやな、そこへ私の足が浮いてたんですよ。、アルコールに漬けてあって。

 ああ、私の足やって。そのとき分かった」

 広瀬修子解説「安野さんの家族は家と財産を失い、義足を作る余裕はありませんでした。アルバムには笑顔の写真が一枚もありません」

 安野輝子さん「戦争やからしょうがないやんって言う人が結構多いんですよ。まあ、未だにありますよね。戦争やからしょうがないとかね、うん。

 物凄く最初はそんなんばっかりでしたよ。『気の毒やったね、残念やったね』とかは言うても」

 広瀬修子解説「アジアや太平洋諸国に甚大な被害を出し、日本人だけで310万人が犠牲となった先の戦争」

 (空襲、撃沈される日本の軍艦、訓練場の行軍する日本兵。白馬に跨る昭和天皇。戦車の横で1人は直立不動で、1人は抜いた軍刀を斜め下に向けて恭順を示している。捧げ銃の兵士集団)

 広瀬修子解説「国は戦場で命を落とした軍人や軍属、その遺族などに対し、これまで60兆円の補償を行ってきました」

 (上陸用舟艇から海岸に次々と上陸する米兵、)

 広瀬修子解説「しかし戦況の悪化に伴なって大きな犠牲を払うようになった民間人は補償の対象にしてきませんでした」

 沖縄戦での火炎放射器。崖から飛び降りる日本人女性。爆弾を次々と投下する米軍機。)

 広瀬修子解説「戦時中、米軍は日本の200箇所以上の都市を狙った空襲。民間人の被害の全貌は明らかになっていません」

 (日本人死屍累々の様子。米軍艦船からの火を吹く激しい艦砲射撃。)

 広瀬修子解説「多くの命を奪われた沖縄戦(顔を服も汚れて、一人取り残されて震える子供)。戦後、国が戦闘に参加したとみなした民間人の一部は補償の対象になりましたが、4万人が枠組みから外されました。

 広島と長崎で原爆で亡くなったのはその都市だけで21万人にのぼり、多くの人々が後遺症に苦しめられました。大東亜共栄圏の建設を謳った戦前の日本。外地では戦争や終戦の混乱の中、30万人が死亡。320万人が引揚げを余儀なくされ、財産を失いました。

 国家総動員体制のもと、総力戦に参加したのは軍人・軍属だけではありません。(バケツ消火訓練)老若南女を問わず、様々な形で戦争への協力が求められた民間人。しかし国はその被害への補償は一貫して避け続けてきたのです」

 キャプション 「民間被害者(空襲被害者 被爆者 引揚者 シベリア抑留者など)」

 広瀬修子解説「10万の人々が一夜のうちに犠牲となった東京大空襲。海老名香葉子(86歳)さんは両親を始め家族6人を失いました」

 海老名香葉子さん、薄いサングラスをかけ、背中を少し丸めて、花束を持って、街を歩いている。

 海老名香葉子さん「ここはもう焼死体で山のようになっていたらしいですね。だから、(家族は)身元不明者の中に入っているか。親の骨ぐらい拾いたいな。

 ちょっと待って下さい(3人の女子小学生を呼び止める)。2年生。そう」

 広瀬修子解説「11歳で孤児になった海老名さん。家族は自宅近くで命を落としたと言われていますが、詳しいことは分かっていません。敗戦後の混乱の中、周囲が止めても、家族の足取りを捜し続けました」

 海老名香葉子さん「こちらの塀はもう少し向こう寄りでしたね。ですから、これを乗り越えて、この間で(みんな)尽きたんでしょうね。(花を覆っていた紙を剥がし、一輪の菊を塀の隙間から塀の内側に立て掛ける。)」

 広瀬修子解説「海老名さんたち被害者は遺骨の調査だけでもしてほしいと国や東京都に訴え続けてきましたが、叶いませんでした」

 海老名香葉子さん「ずっと歩いて、歩いて、歩いて、もうダメだって諦めたんです。もうダメだって、お役人様はダメだって。諦めました。諦めて、自分でここだって所は掘り起こしてでも探そうっていう気持ちでいたときもありました。

 こんな土饅頭になっているところを一生懸命ほじったこともありました。『バカなことしてるな』って言われましたけど、けれども夢中でしたから。「そんなことをしたら、大変なことになっちゃう』と言われたんですけどね。頭がそうなっちゃってたから。

  (米軍の爆弾透過のシーン)

 広瀬修子解説「なぜ国は民間被害者への補償を避け続けてきたのか。今回私達は終戦直後から1980年代にかけて政府が民間被害者への補償を検討した膨大な記録を入手しました。

 その一つ、『在外財産問題審議会』の議事録です。民間被害者への国の姿勢の起点になっているのが外地からの引揚者に対する補償問題でした。(外地での引揚者の長い列。)

 サンフランシスコ平和条約(1951年調印)で海外で暮らしていた日本人の財産、在外財産を連合国の手に委ねることを決めた日本。(調印する吉田茂)それに対し、引揚者は新憲法で定められた財産権を根拠に補償を要求(引揚者団体全国連合会集会)。国は対応を迫られたのです。『在外財産問題審議会』(1954~1966年)では1954年から10年以上に亘り国に補償の義務があるかどうか、検討していました」

 字幕「国の補償義務の有無を検討」

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為であり、地震とか津波といった天災と全く異なる。全体としての国の財政能力にはそう大きな余力はない。現実には、国民1人1人が負担するもの・・・・」

 広瀬修子解説「大蔵省の交換たちは国家補償を避けるための憲法解釈を議論していました。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「これ敗戦という非常事態で起こった問題であり、憲法や平和条約の個々の規定でもって法律問題にしようとすること自体が無理がある」

 森永貞一郎発言議事録(元大蔵省事務次官)「平和条約そのものが強制的に飲まされた条約なのであるのだから、このような事態による損害の補償を国に対して要求することはできない」

 広瀬修子解説「審議会では日本の独立型(?)の講和条約は憲法の枠を超える処理だと結論づけました。財産権を根拠にした引揚者の訴えは認められず、補償の義務はないとしたのです。

 元大蔵官僚で、この審議会の事務局にいた秋山昌廣(元防衛事務次官)さんが取材に応じました。引揚者に補償を行えば、ほかの民間被害者にも扉を開くとして、一線は譲れなかったと証言します」

 秋山昌廣「サンフランシスコ条約を締結するという公共の目的のためにね、自分たちの財産が日本の政府・国家のために犠牲になったんだというような(フッと鼻で軽く笑い)議論は、まあ、成り立ちうるわけですよね。

 政府とか大蔵省としてはこの問題が他の戦後処理問題に波及するというのを相当懸念したと思いますね。注意したっていいますかね。恐れたと思いますねえ。国家が補償する、そういう、その、義務はないっていう結論は、まあー、しょうがなかったんじゃないかと思いますねえ、うん」

 広瀬修子解説「国に補償する義務はないというこのときの結論はその後も民間被害者の高い壁になっていきました」

 (東条英機「天皇陛下バンザーイ」

 学生らで満席の競技場(?)で行進する兵士。勤労奉仕の女学生)

 広瀬修子解説「実は戦時中の日本は民間被害者に対して救済措置を設けていました。『戦時災害保護法』。空襲などによる民間被害者に金銭的な手当をしていたのです。民間人に戦争協力を促し、総力戦の士気を維持するための措置でした。

 しかし戦後、GHQ、連合国軍総司令部は軍国主義の温床になっていたとして戦時災害保護法を軍人恩給と共に廃止しました。軍人恩給とは国家と雇用関係にあった軍人や軍属への年金のような補償制度です。

 GHQは軍人・軍属、民間人も、社会保障を充実させることで等しく扱う政策を採ったのです」

 広島 福山

 広瀬修子解説「軍人・軍属の夫や息子をなくした戦没者遺族もまた、国の補償政策の転換で苦渋を舐めました。桒田シゲヨさん。104歳です。夫の幸太郎さんは10年以上、前線を転々とした末、中尉のとき、沖縄戦で亡くなりました。」

 NHK男性「後ろは旦那さんですか」(軍人姿の写真)

 桒田シゲヨさん「うん。ええ人じゃったよ。ちゃんとした人じゃったよ。なーんか夢に出てきたり、それからこんだ、まあ、生きとったらなあ」

 広瀬修子解説「働き手を失った桒田さんは幼い子供を抱え、厳しい生活を強いられていました」

 ユダヤ人への虐待が行われたアウシュビッツ強制収容所で見つかった謎のメモ。

 「大量虐殺を目撃した。私達は殺されるだろう」

 桒田シゲヨさん「(色褪せした写真を見ながら)長男、次男、私。30なんぼでしょうかなあ。私がメソメソしちゃいけん。泣いちゃいけん思うて、ごはん食べるときはお茶でもかけてばさばさと反対側の方を向いて涙みせんようにし、牛を飼いよって、天井にわらがアリや、そこへ行って、牛を飼うような格好をして、わらの中で大声で泣いておったですよ」

 NHK男性「やっぱり旦那さんを愛していらっしゃったから」
 
 桒田シゲヨさん「愛しとったいうか、尊敬しとったいうんかな、。愛ということじゃない。尊敬しとったんかな」

 広瀬修子解説「苦境に喘ぐ戦没者遺族。(広島公文書館)補償を復活させるために行政は大きな役割を果たしていたことが広島市に残されていた公文書から明らかになってきました。広島県がGHQの占領下だった1949年(8月)に各市町村に出した通達です。

 戦前、軍人やその家族への保障を担っていた行政がGHQの方針の陰で戦没者遺族を組織化、財政的支援まで行っていたのです。

 「朝日ニュース」映画 (「遺家族の叫び (東京 神奈川) 戦没者遺族大会 1952年1月)

 ニュース広解説「二十日には全国から遺家族代表約800人が東京に集まり・・・・」

 広瀬修子解説「各地で結成された遺族会は補償を求め、国への働きかけを強めていきました。そして日本が独立した2日後、戦没者遺族を支援する援護法(「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」)が公布。翌年(1952年)には軍人恩給も復活しました。

 当初、戦犯は補償が制限されていました。厚生省の内部文書からそれが覆された過程も分かってきました。(キャプション「元陸海軍の士官など厚生官僚」)旧軍部の流れを汲む厚生省には陸海軍の士官クラスが横滑りし、強い影響力が温存されました。

 軍出身の官僚が世論工作を行い、戦犯の名誉回復や支援活動を後押ししていたのです。

 復活した恩給制度は戦前の陸海軍の階級格差が反映されていました(キャプション「公務扶助料統計表」1955年3月末)。大将経験者の遺族には戦犯であっても、兵の6.5倍を受賜(じゅし))し、閣僚経験者に対しては(キャプション「陸軍大将 東条英機538,560」(単位円))現在の貨幣価値で年1千万円前後が支払われました。その一方、旧植民地出身の将兵は恩給の対象から外されたのです。

 沖縄戦で夫を失った桒田シゲヨさんは恩給が復活した67年前のことを覚えています。夫の恩給は当時年に3万8千円余り(「恩給証書」の映像)。現在の貨幣価値でおよそ75万円でした」

 桒田シゲヨさん「これが命の交換かいうような感じもしましたよな」

 (国会議事堂の映像。署名活動)

 広瀬修子解説「終戦後、戦没者遺族と同じように辛酸を舐めていた民間被害者たち。国家補償は一貫して阻まれてきたため、何らかの救済措置だけでも実現させてほしいと訴えています。空襲被害者などのための超党派(空襲)議連の会長を務める河村建夫元内閣官房長官。民間被害者の救済は戦後日本が積み残してきた課題だと言います。

 河村建夫「この問題、戦後の総決算としてやっぱり放置すべきではないんではないかという思いがありました。国が何かの形で慰謝する仕組みを作ったらどうかというのが皆さんのご意見でありましたので、そういう特別給付金考えたらどうかという、それを考えながら、一応の法案を形を整えてきておりますので、これを進めていかなければいけないと思っております」

 広瀬修子解説「(キャプション「東京大空襲・戦災資料センター」東京 江東)なぜ空襲被害者は目を背けられ続けたのか。被害者が全国組織を結成したのは終戦から27年が経った1972年のことでした。世論に訴えるためにその活動を記録したおよそ20時間に及ぶ映像が残されていました」

 車椅子に乗っている中年女性の映像。その横に左眼が失明しているのが、眼帯をした同年齢くらいの女性。キャプション「全国戦災障害者連絡会の活動 1972年~」

 男性活動家「あの忌まわしい、悪魔のような30年前の・・・・(聞き取れない)空襲によって――」

 広瀬修子解説「日本はGNP、国民総生産で世界第2位になるなど、財政的にも余裕が生まれていた時代でした。(片足をなくし、松葉杖をついて通行している被害者の一人)空襲被害者は厚生省などに軍人・軍属と同様の補償を実現する法律や被害の実態調査を求めました。多いときで750人いた会員たちは国や世論に働きかけるために封印してきた辛い記憶を告白しました」

 藤原まりこさん(大阪市)(左足を失い、椅子に座り、腿から下の義足を膝に抱えている。映像)「年頃でね、トイレもね、やっぱししにくくて、足を投げ出してせなあかんし、スカートを履きたいし、脚も曲がるしね、中学2年のとき、思い切って(脚を)切断したんです」

 広瀬修子解説「しかし全国に散る被害者たちが後遺症を抱えて活動を広げていくことは容易ではありませんでした。(キャプション「愛知県 名古屋」)7歳のとき、足に大ヤケドを負った脇田弘義さん(82歳)は歩行が困難になりました」

 (妻の腰に両手を回して抱きつき、妻がその手を持って膝をついたままの夫を引きずって家の中を移動させる、あるいは膝を曲げたままの姿勢でついた手で、「よいしょ、よいしょ」と体を前へ持っていって移動する映像。)

 妻きみ枝さん(77歳)「つかってあげるわ。引っ張っていってあげるわ」

 脇田弘義さん「重たいぞ」

 広瀬修子解説「脇田さんは補償を得て、暮らしにゆとりを持つことに期待を抱いていました。しかし会に加わっても、思うような活動はできませんでした」

 脇田弘義さん「苦しい。動けない。1人じゃ行けないじゃん。行きたいけど、行けれん」

 広瀬修子解説「その頃(若い頃)の脇田さんを記録した映像です。障害に対する理解が今以上に乏しかった当時、妻のきみ枝さんが外で働き、脇田さんは子育をしながら、服の仕立ての内職をしていました。生活が逼迫する中でいつ実現するかもわからない補償を求める活動は重荷になっていきました」

 妻きみ枝さん「行くとなると、みんな連れていかないかんし、1人だけじゃ行けれんもんでね。お父さんも車椅子に乗せて、子供を放っておけないから、連れて、時間がなかったんね。生活の方が一杯で」

 広瀬修子解説「空襲被害者たちの当初の希望は次第に失望に変わっていきました。浜松空襲で受けた傷の後遺症で苦しむ木津正男(93歳)さんです。地元で空襲被疑者の会を組織し、補償を求めて手弁当で活動に参加してきました。木津さんたち地方の被害者も何度も上京し、官庁に陳情。しかし門前払いに終わりました」

 木津正男さん「大蔵省も行きましたよ。もう一発で断られましたね。厚生省も玄関払い。1日で3軒か4軒回ったね。いきなりお払い箱で、それでもうダメだった。もう皆さん、遅すぎたと。もう時効じゃない?早く言えば。そこまで知恵が回らんじゃん。自分の体で自分の体が動けんだもん、言うこと利かんだもん。

 だって、手がない人は書けんじゃん。書きたくたって。足悪い人は歩けへんじゃん」

 広瀬修子解説「当時厚生省(元厚生省援護課長補佐・現早稲田大学教授)で戦後補償問題に関わっていた植村尚史(うえむらひさし)さん。財政規模は高度成長で拡大したものの、被害者への補償を検討する機運はなかったと言います」

 植村尚史「被害を一つ一つ救済していくというよりも、まあ、国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていくっていうことで、その被害はカバーされていくんだろうっていう、そう言う考え方でずっと進んできたことは確かだと思うんですね。

 法律的な意味で補償する責任っていうものは直ちにあるわけではないっていうのが、まあ、ずっと戦後からの、まあ、日本の認識だったいうふうに思っています」

 広瀬修子解説「行政だけではなく、司法も民間被害者の訴えを退けて行きます。1983年、名古屋空襲訴訟に対する高裁の判決です。『戦争は国の存否に関わる非常事態であり、その犠牲は国民が等しく受忍しなけれならなかった』として訴えを棄却。

 そして後に最高裁(名古屋空襲訴訟 1987年判決)は戦争被害に対する保障は憲法が全く予想していないものと結論づけました。

 民間被害者への補償を避け続けてきた日本。しかし世界に目を転ずれば、その戦後補償の在り方は異質でした」

 アドルフ・ヒトラー「我々は国家とともに歩み、我々のあとに輝かしいドイツができるのだ」

 広瀬修子解説「同じ敗戦国のドイツでは連合国軍のベルリンへの空襲などでおよそ120万人の民間人が犠牲になりました。しかも領土縮小で財産を失った引揚者が1200万人以上いました。戦争終結の5年後(1950年12月20日)、西ドイツは連邦援護法を制定。国は全ての戦争被害に対する責任があるとして国や民間人といった立場に関係なく、被害に応じた補償が行われてきたのです。

 同じく枢軸国だったイタリア。犠牲となった民間人はおよそ15万人に及びます。戦後、財政不安に陥ることが多かったイタリアにとって補償は容易なことではありませんでした。しかし1978年、民間被害者に軍人と同等な年金を支給する関連法(戦争年金に関する諸法規制の統一法典)を制定。例え補償額が少なくとも、国家が個人の被害を認めることを重視したのです(キャプション「国が当然持つべき感謝の念と連帯の意を表すための補償」)。

 コンスタンティン・ゴシュラー教授(ボーフム大学歴史学部)「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。国家が引き起こした戦争で被害を受けた個人に補償することは国家と市民の間の約束です。

 第二次大戦は総力戦で、軍人だけではなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれて亡くなりました。軍人と民間人の間に差があるとは考えられなかったのです」

 菊の御紋がついた大扉、靖国神社。

 広瀬修子解説「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大ていったのが日本の戦後補償でした。今回、その役割を中心で担った人物が遺した、補償に関する大量の資料が見つかりました」

 矢追則子(板垣征四郎の孫)「ここには征四郎の遺品などをここに置いています」

 広瀬修子解説「満州事変を引き起こし、のちに陸軍大臣にもなった板垣征四郎(元陸軍大将)。東京裁判でA級戦犯として死刑になりました」

 矢追則子「これが(囚人服)板垣征四郎の遺品ですね。(囚人番号766T)。(アルバムの二人並んだ写真)これ父ですね。これが征四郎で、これが正ですね」

 広瀬修子解説「征四郎の息子正。国内最大の遺族団体、日本遺族会の事務局長を務めました。板垣正は最大で125万世帯の会員を率い、のちに参議院議員としても軍人・軍属への補償の拡充に当たりました。

  矢追則子「生き残った者同士の使命として遺族さんのために奉仕するというか、その人達の思いを踏みにじるようなことがあってはいけないみたいな、生き残りの自分がやらなければいけないことなんだと言っていました」

 広瀬修子解説「軍人や軍属に対する補償は年々積み増しされていきます。様々な加算制度や一時金整備、恩給の他にも新たな給付金が設けられていきました。物価に合わせた増額と対象範囲の拡大で補償額は一気に拡大していくことになりました。

 板垣は金銭的な補償だけではなく、遺族への精神的な支援にも力を注ぎます。

 矢追則子「(アルバムの写真)これは遺骨収集団ですね。よくね、行ってましたね、遺骨収集は。作業服で遺骨を集めている写真とか」

 広瀬修子解説「遺骨収集や戦没者の慰霊巡回などの事業も年々拡充されていきました。

 矢追則子「父が何か日記というか」

 広瀬修子解説「遺品の中に残されていた板垣の日記。戦没者遺族への強い思いが記されていました。『国家存立の基礎は、国のため死も辞さぬ精神である。犠牲的精神・献身的精神をこそたたえたい』

 軍人・軍属に対する補償制度を担い、総理府の事務方トップ(元総理府次長)も務めた海老原義彦さんです。日本の戦後補償はある一面では被害者の組織力が方向づけたと打ち明けました」

  海老原義彦「(戦没者遺族は)『国のために夫をささげて、戦後の辛い中を子どもたちをどうやって育てるか、もう涙ながらの物語があるんですよ』というようなことをおっしゃるわけですよね。『そういう中を潜ってきた我々をね、見殺しにするんですか』

 政治家としてはこれは無視できないと言うか、むしろ積極的に要求の趣旨に賛同して動いた方が自分のためにもなるし」

 広瀬修子解説「民間被害者たちは社会から忘れられていきました。鹿児島県川内市の空襲で6歳のときに左足を失った安野輝子さんです。中学校に通えなかった安野さんは13歳のときに大阪に引っ越し、洋裁の仕事を始めました。

 空襲の会を記録した映像の中に安野さんの姿もありました」

 (本人の説明とキャプション「昭和20年7月16日 鹿児島県川内市にて被災 左脚下腿切断」)

 広瀬修子解説「安野さんは一人の人間として社会に受け入れてほしいと考え続けていました」

 パソコンで空襲の会を記録した映像を再生している。

 安野輝子さん「これ、私。(右隣の女性を指し)で、片山さん」

 広瀬修子解説「会で出会った片山靖子さん。5歳のとき、大阪大空襲で顔や手に大やけどを負いました。安野さんにとって同い年で同じ悩みを抱える片山さんを何でも話せる仲間でした」

 安野輝子さん「ようはっきり覚えているけど、彼女はスラっとしてな、足もきれいし、長いんですうよ。何でこんなあれがです。(片山さんが)『輝ちゃんいいね、顔どうもないから』って。(私は)『足あかんや』言うて。

 彼女は物凄いきれいな長い足や。歩いているとき、そんな話をしたことありましたわ」

 広瀬修子解説「顔や手の傷跡を気にしていた片山さんはずっと人前に出ることを避ける生活を送っていました」

 テーブルを挟んで椅子に座っての会話。

 男性「それ(手術)の費用は全部自費いうことでしょう?」

 片山靖子さん「勿論です、ええ」

 男性「これが美容整形に入るって、どないしても納得できませんね」
 
 片山靖子さん「ええ」

 広瀬修子解説「彼女たちにとって補償とは生きている証を求めることにほかなりませんでした」

 安野輝子さん「そんでまあ、ちょっと、まあ、そんな、あれやけど、結婚したいなと思う人があったんかな。そんなこと聞きましたね。手もあれ(やけど)していたけど、きれいな字も書けるし、機能性ってあんまり失ってないんやけど、せやけど顔もケロイドやし、手もこんなやから、『世間には出られない』っていうことは言ってたし」

 広瀬修子解説「二人が出会って6年目、活動への理解が広がらない中で片山さんは自ら命を絶ちました。40歳でした」

 空襲被害者の会 会報 片山靖子さんの突然の死(10月2日)

 安野輝子さん「亡くなった日は朝電話貰ってな、彼女が亡くなったって聞いたとき、仕事やったから、午前中ひとり先行って、お参りしてきたってことありましたわ、うん。

 何でやねん、彼女あんなに『頑張ろう』って言うてたのに思うて、みんなつらい日してるけど、彼女はずっと凄い気にしてたし、そやけど、会に入ってよかったって言ってたし、一緒に頑張ろうってあんなに言うてたのにーと思って」

 広瀬修子解説「空襲被害者の会にとって国会も壁になっていました。補償を実現させるための法案(「戦時災害援護法案」)は1970年代から14回に亘り提出されましたが、全て廃案になりました。

 この頃、空襲被害者たちに届いた手紙が残されていました。心無い世論が被害者の気力さえ奪っていきました」

 届いた手紙・男性の声で「生きているだけでも有難いと思え」

 届いた手紙・女性の声で『戦争で苦しんだのはお前たちばかりではない。国家の責任にし、金をせびろうとする浅ましい乞食根性」
  
 届いた手紙・男性の声で「欲張り婆さんが。今更何を言っている。そんなに金がほしいのか」

 広瀬修子解説「戦争から30年以上が経過した1980年代(竹の子族の路上パフォーマンス)(キャプション「戦後処理問題懇談会(1982~84年)」)。国は戦後補償問題に区切りをつけようとします。

 外地からの引揚者やシベリア抑留者の求めに応じて設置された『戦後処理問題懇談会』。その検討記録を独自に入手しました。当初はあらゆる民間被害者について検討し直すべきだという意見も出ていました」

 小林與三次(元自治事務次官)「個人の生命、身体、財産を中心に個人と国家の問題で議論したらいいんであって、忘れてというか、そのとき問題にしなかったものだってあるんじゃないのか」

 広瀬修子解説「しかし委員の殆どが救済対象を絞る方向に議論を進めていきました」

 河野一之(元大蔵事務次官)「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃあ困る。交付金をやるようなことをやりますと、やっぱり民間で広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていないんですよ。やっぱり寄こせというような議論が出てくると思うんです」

  広瀬修子解説「2年半に及んだ懇談会は民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の法律上の義務によるものではないと結論づけました。そしてその理由として今戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり、不公平、とする考え方が新たに付け加えられたのです・

 戦後処理問題を所管する総理府の事務方トップだった禿河徹映(とくがわてつえい)(元総理府次長)さん。当時の判断について初めて証言しました」

 禿河徹映「国を上げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体が責任があるという意味じゃないありませんけれども、まあ、国を上げて総力戦でやって、それで戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい。

 本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 (映像 『戦後処理問題懇談会』検討記録一部「前述のとおり、戦争損害の公平化に関する措置は、国の特別の施策によるものであって、法律の義務によるものではないと考えるが、なおこのことは個々具体的に検討を要する。」)

 広瀬修子解説「戦争被害への責任を棚上げしたまま、戦後を歩んできた私達。1990年代に被爆者への援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)が制定されたとき、内閣官房副長官を務めていた石原信雄さんです」

 1994年「国家補償にもとづく原爆被爆者援護法を制定せよ」の横幕を掲げて街頭活動をする一団の映像

 キャプション「被爆者援護法 制定 1994年12月」

 広瀬修子解説「被爆者たちは国の責任を問うためにあくまで国家補償を求めていました。当時石原さんらが念頭に置いていたのは日本に補償を求め始めていたアジアの被害者たちの動向です。国は救済措置として金銭的手当はしたものの、国家補償という形はあくまで選択しませんでした」

 石原信雄「政府が一定の範囲の人について補償措置を講ずれば、当然、そういう問題に火がつくことはあり得るわけで、想定されておったわけですけど、アジアの人たちが、補償要求する人たちがいるであろうということは分かっていましたよ。

 だからやっぱりね、結局(国内の)戦争犠牲者に対する政府の補償措置というのは極めて限定的であったと。特定の範囲の人しか対象になっていない。これは残念ながら認めざるを得ないんですよ。その典型的な例が原爆被爆者援護法ですよ。それよりもっともっと広い範囲で戦争の被害を受けた人がいるわけですよ。

 それについて残念ながら未解決のまま残ってる。これはもう認めざるを得ないですね」

 広瀬修子解説「現在の日本の戦後補償の全体像です」

 補償   軍人・軍属など
 救済措置 引揚者 被爆者 シベリア抑留者など
 なし   空襲被害者など

 広瀬修子解説「軍人・軍属などへの補償はこれまで60兆円以上、救済措置を取られた民間被害者もいましたが、その規模は限定されていました。

 先の戦争から75年。軍人・軍属やその遺族への補償の拡充を求めてきた日本遺族会です」

 水落敏栄(日本遺族会会長、参議院議員)「戦後75年になりますよ。国民の8割以上が戦後生まれで、あの戦争が人々から忘れ去られようとしています」

 広瀬修子解説「今、日本遺族会の会員は57万世帯にまで減少。解散を余儀なくされる地域も出ています」

 戦没者の女性遺児「うちはね、マレー半島のボルネオというところで亡くなって、父親の顔は全然知りません」

 戦没者の女性遺児「私の父親なアッツ島です。私はあまり感じなかったですが、母親がひとりであれですからねえ」

 広瀬修子解説「国内最大の遺族会からも戦争は遠ざかろうとしています。あらゆる補償の枠組みから外されてきた空襲被害者たち。救済法案の実現を目指す超党派の議員連盟(キャプション「空爆被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟」)です。

 柿沢未途「75年という機会を迎えておりますので、何とか前に進めてまいりたい」

 広瀬修子解説「軍人・軍属やその遺族への補償は厚生労働省が担当していますが、空襲被害者に関しては今なお担当省庁さえ決まっていません」

 平沢勝栄「政府としてはどこが所管するのがいいんですかね。総務省なんですか、厚労省なんですか、内閣府なんですか」

 不規則発言「このままだと前に進まないんだよ」

 衆議院法制局「まあ、あの、所管としては厚生労働省を想定するような(法案の)要項となっておるところでございます」

 厚生労働省「(空襲被害者など)一般戦災者の方々については対象としていないということでございまして、私どもの所掌からははみ出ているという、現状についてはそういうことになっています」

 議員が個々に発言というよりも呟く。「つくったらできる」 「法律を作ればできるんです」
 
 広瀬修子解説「議員連盟は救済法案の国会提出を目指していますが、今年も実現できていません」

 東京大空襲でん家族6人を失った海老名香葉子さんです(墓参りして花を供え、数珠をこすって墓に祈る)。地元の被害者が祀られた場所に足繁く通っています。6人の家族がどこで亡くなったのか、今もわかっていません。民間被害者たちの戦争は今も終わっていません」

 海老名香葉子さん「心の中じゃね、親のことを思うと、やっぱり涙が出ます。いくつになっても、こんなおばあさんが、80過ぎのおばあさんが夢の中で母が出てくると、『母ちゃーん』って朝起きて泣いています。もしかしたら、今もどこかに生きているかもしれない。こんなおばあさんになっても、未だにそう思います。どこか病院にいるんじゃないかなあとかね」

 広瀬修子解説「7月16日の午後。75年前のこのとき、安野輝子さんは空襲で左脚を失いました。この日安野さんは自立するために覚えた洋裁でマスクを作っていました」

 安野輝子さん「お世話になった人で適した人があったら、差し上げようと思って」(ミシンでマスク作り)

 広瀬修子解説「新型コロナウイルスに不安を抱える友人に配りたいと考えていました」

 安野輝子さん「今日やったんや、75年前の。今日、セミ少ないね、今は(ミシンの前から庭を振り返って)」

 広瀬修子解説「失われていく残された時間。活動を共にしてきた仲間の多くが既にこの世を去っています」

 安野輝子さん「何だっただろうと、自分でも思っているぐらいやから、この75年。日常的にはほとんど忙しくしていましたね。まあね、そんなに悪い・・・・(暫く沈黙)いい人生だったとは言えませんね。ほかに方法はなかったんかなと思ったりもあるから。でも、まあまあじゃないでしょうか」

 広瀬修子解説「国家が遂行したあの戦争であまりにも多くの人々が犠牲になり、あまりにも多くの人々が痛みを抱えたまま生きることを強いられました。国も、私達も、その責任から目を背けたまま、75年目の夏がまた過ぎ去ろうとしています」

 安野さんのマスクづくりの映像が流れ続ける(終わり)

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安倍晋三が言うように「強制的に軍が家に入り込み、女性を人さらいのように連れて」いかない従軍慰安婦強制連行は無罪放免とすることができるのか

2020-08-17 09:30:34 | 政治
 既に当ブログに書いてきたことが相当に混じっていることを最初に断っておく。

  「自民党総裁選立候補者討論会」(日本記者クラブ/2012年9月15日)

 安倍晋三「この、いわゆる慰安婦の問題については、私、仲間とずうっと勉強してきました。その勉強の結果は、それを示すものは全くなかったということですね。証言についても、それは裏づけがとれたものも全くないという、そういう中において、『河野談話』 は、ある意味においては政治的に、外交的に発出されたものであります。

  あの『河野談話』によって、強制的に軍が人の家に入り込んでいって女性を人さらいのように連れていって、そして慰安婦にした、この不名誉を日本はいま背負っていくことになってしまったんですね。しかし、安倍政権のときにその強制性を証明するものがなかったということを閣議決定をしました。

 しかし、そのことを多くの人たちは知りませんね。また、アメリカにおいても、また海外においてもそれは共有されていません。

 いま、アメリカでどういうことか起こっているかというと、韓国系のアメリカ人がsex slaves の碑をたくさんつくり始めているんです。その根拠の1つに『河野談話』がなっているのも事実でありますから、そこにおいては、もうすでに修正しましたが、その修正したことをもう一度確定する必要があるなあと私は思います。私たちの子や孫の代にもこの不名誉を背負わせるわけにはいかないだろうと思います。

 「強制的に軍が人の家に入り込んでいって女性を人さらいのように連れていって、そして慰安婦にした」という歴史的事実はなかった。その事実については安倍政権が第1次政権時の2007年3月8日提出の辻元清美の質問書に対する2007年3月16日の答弁書で閣議決定していると説明している。

 その一方で同じ答弁書は、「官房長官談話(河野談話)は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである」としている。つまり安倍晋三は常々『河野談話』は「政府として引き継いでいる」と言っているが、安倍晋三自身は個人としては引き継いでいないということにほかならない。

 安倍晋三はこの辻元清美の質問書に対する閣議決定した答弁書については国会でも答弁している。

 2013年2月7日衆議院予算委員会。質問者である前原誠司民主党議員に対する答弁。

 安倍晋三「整理をいたしますと、まずは、先の第1次安倍内閣のときにおいて、(辻元清美による安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する)質問主意書に対して答弁書を出しています。これは安倍内閣として閣議決定したものですね。つまりそれは、強制連行を示す証拠はなかったということです。つまり、人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。

 しかし、それまでは、そうだったと言われていたわけですよ。そうだったと言われていたものを、それを示す証拠はなかったということを、安倍内閣に於いてこれは明らかにしたんです。しかし、それはなかなか、多くの人たちはその認識を共有していませんね。

 また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかったということではないかと」

 ここでも、「官憲が家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという強制性はなかった」云々によって従軍慰安婦強制連行の事実はなかったと断じている。

 と言うことは、人家外・路上での拉致・誘拐の強制連行、いわば従軍慰安婦強制連行の事実は存在したことになる。「如何なる場所からも少女たちを人さらいのごとくに連れていって、慰安婦としたといった強制性はなかった〉とは断っていない。

 但し安倍晋三は人家外・路上での拉致・誘拐といったその種の「強制性」、従軍慰安婦強制連行の事実は歴史認識上、無罪放免としていることになる。つまりその程度のことは許されるとの倫理観で対処している。

 2014年9月14日のNHK「日曜討論」は、「党首に問う いま政治がすべきことは」をテーマとしていた。その中で安倍晋三は朝日新聞の従軍慰安婦に関わる誤報に関連して、次のように発言している。

 安倍晋三「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき、子どもをさらって慰安婦にしたという記事を見れば、皆、怒る。間違っていたというファクトを、朝日新聞自体がもっと努力して伝える必要もある。それを韓国との関係改善に生かしていくことができればいいし、いかに事実でないことを国際的に明らかにするかを我々もよく考えなければいけない」

 要するにあくまでも「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき、子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実はなかったと強硬に主張している。いかなる場所からもと断らずに強硬に主張すればする程、人家外、あるいは路上で「日本兵が人さらいのように子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実は強硬なまでに存在することになる。

 逆説するなら、人家外、あるいは路上で「日本兵が人さらいのように子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実が強硬なまでに存在するからこそ、「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき」とする、見つけることができなかった事実を条件として、その事実のみで従軍慰安婦強制連行の歴史的事実を無罪放免とする作為が疑えないこともない。
 
 人家外、あるいは路上での従軍慰安婦強制連行の歴史的事実は枚挙に暇がない。

 2004年初版の『日本軍に棄てられた少女たち』――インドネシアの慰安婦悲話――(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・コモンズ)はインドネシアのスハルト政権下の1969年8月に政治犯としてブル島に送られらた作者のプラムディヤ・アナンタ・トゥールと流刑地で知り合ったりした仲間は政治犯以外の女性先住者の存在を知ることとなる。彼女たちは日本軍に騙されてブル島に連れて来られものの、1945年の日本の敗戦と共に島に置き去りにされた元慰安婦たちで、著書は著者のプラムディヤ・アナンタ・トゥール氏と共に仲間たちが彼女たちの慰安婦にされた経緯の聞き取り調査に基づいた内容となっている。

 慰安婦にされた主な理由は日本やシンガポールに「留学」させるというもので、「留学」話を担ったのは現地の日本軍政監部(太平洋戦争中、オランダ領東インド=インドネシアを占領した日本軍が設置した軍政の中枢機構)であった。指揮命令系統の要所要所は軍人が占めていたであろうが、総体的には役人が組織の運営に当たっていたから、軍人みたいに体力・腕力に物を言わせて、力づくで拉致・連行・監禁を専門とすることができず、平和裏に「留学」話で釣る知能犯罪に相成ったという次第なのだろう。 
 
 『日本軍に棄てられた少女たち』の最初の方に桃山学院大学兼任講師鈴木隆史氏が2013年3月と8月に南スラウェシ州を訪れて、元慰安婦に聞き取り調査して纏めた、「私は決してあの苦しみを忘れらない、そして伝えたい」の一文を寄せている。

 題名の意味は元慰安婦の苦しみを忘れずに多くの人に伝えたいというものである。

 ミンチェ(2013年86歳)のケース。

 14歳で日本兵に拉致される。

 作者が訪ねて行くのを4日間知人の家で待っていて、話した内容。

 「たとえ相手がどんなに謝罪しても、私を強姦した相手を決して許すことはできません。私はそのとき、『許してほしい、家に返してほしい』と相手の足にすがりつき、足に口づけしてまでお願いをしたのに、その日本兵は私を蹴飛ばしたのです。

 日本兵は突然、大きなトラックでやって来ました。私たちが家の前でケンバ(石を使った子供の遊び)をしているときです。私は14歳でした。(スラウェシ島の)バニュキという村です。日本兵は首のところに日除けのついた帽子をかぶっていました。兵隊たちが飛び降りてくるので、何が起きたのかとびっくりして見ていると、いきなり私たちを捕まえて、トラックの中に放り込むのです。

 一緒にいたのは10人くらいで、みんなトラックに乗せられました。私は大声で泣き叫んで母親を呼ぶと、母が家から飛び出してきて私を取り返そうとしました。しかし日本兵はそれを許しません。すがる母親を銃で殴り、母はよろめいて後ろに下がりました。それを見てトラックから飛び降りて母のところに駆け寄ろうとした私も、銃で殴られたのです。

 トラックに日本兵は8人ぐらい乗っていて、みんな銃を持っていました。トラックの中には既に女の子たちが10人ほど乗せられていて、私たちを入れると20人。みんな泣いていました。本当に辛く、悲しかったのです。そのときの私の気持がどんなものか、わかりますか。思い出すと今も気が狂いそうです。

 それから、センカンという村に連れて行かれました。タナ・ブギスというところがあります。でも、どのように行ったのかは、トラックに幌がかけていたのでわかりません。着くと部屋に入れられました。木造の高床式の家です。全部で20部屋ありました。周囲の様子は、日本兵が警備していたので、まったく分かりません。捕まった翌日に兵隊たちがやってきて、強姦されました。続けて何人もの兵隊が・・・・・。

 本当に死んだほうがましだと思いました。でも、神様がまだ死ぬことを許してくれなかったのでしょう。だから、こうして生きています。ほぼ6カ月間、私はそこにいました。

 一人が終わったら、また次の日本人がやってくる。どう思いますか。ちょうど15歳になろうとしていたところで、初めてのときはまだ初潮を迎えていなかったのです。そこには日本人の医者(軍医)がいて、検査をしていて、何かあると薬をくれました。料理も日本兵がやっていました。インドネシア人が入って料理をすることは許されません。私たちと会話することを恐れていたのでしょう。部屋にはベッドなんてありません。板の上にマットを敷いていました。あるのはシーツだけです。

 私は日本兵が他の女性と話している隙を見て、裏から逃げ出しました。このまま日本兵に姦され続けるくらいなら、捕まってもいいから逃げようと思ったのです。私自身が過ちを犯したわけではありません。〈神様どうか私を助けてください〉と祈り、近くの家に駆け込みました。

 『おばさん、私をここに匿(かくま)ってください』

 どうしたのかと訝(いぶか)る彼女に。すべてを話しました。

 『日本兵が怖いのです。彼らは私を強姦します。耐えられません。本当に辛いのです』

 彼女は私をかわいそうに思ってくれたのでしょう。『どこに帰るのか』と聞かれたので、『マカッサルへ帰りたい』と言いました。たまたま彼女の息子がトラックの運転手をしていて、彼女に男性の服を着せてもらい、帽子もかぶって、逃げたのです。とても怖かったです。とにかく耐えられなかった。

 トラックで家まで送ってもらい、母親に再会できました。お互いに抱き合って喜んだ。彼女は私が6カ月も戻ってこないので、日本兵に連れて行かれて殺されたと思っていたようです。突然、目の前に死んだはずの私が現れて、母はとても喜んでくれましたが、他の親戚たちは私を受け入れてくれませんでした。嫌ったのです。親族の恥だと言って。

 私が日本人に強姦されたこと話を母から聞いたようです。母にどうしていたのかと尋ねられたので、(慰安所に)連れて行かれたことを話しました。それを母が親戚に話し、みんなに伝わったのです。誰一人として私を受け入れてくれませんでした。ここではこのようなことが起きれば、親戚中が恥ずかしいと感じます。死んだほうがましだと、他の人に聞いてご覧なさい。私のような人が家族にいたらどうするか。『恥だと言って殺す』と答えるでしょう。父親も受け入れてくれませんでした。

 母親だけが私を受け入れてくれました。彼女も日本兵に殴られていたからです。私が戻ったとき、母は病気でした。彼女が3カ月後に亡くなると、家を出ました。親戚の一人が、お前がここに残っていれば殺すと脅したからです。

 私はそれからずっと他人の家で皿を洗ったり洗濯をしたりして生きてきました。結婚もしていません。一人で生きてきました。最初は小学校時代の友人の家にやっかいになりました。彼女の母親が私のことを好いていてくれましたから。本当のことを話すのは恥ずかしかったので、友人には嘘をつきました。

 『私の父親が再婚して、その継母が私に辛く当たるので、一緒にいたくない。だから家を出てきたのだ』と、いつもそのように言い、家を転々としてきました。気に入られたなら、、しばらくいる。嫌われているなと思ったら、すぐに出て行く。そんな暮らしをずっと続けてきました。どれだけの家を移り歩いたのか覚えていません。この歳になるまでずって転々としているのですから。

 彼らからお金はもらっていません。だって、お手伝いとして雇われたわけではなく、私が一方的においてもらっているのですから。持ち物は、ナイロン袋に詰めた一枚のサロンと二着の服だけ。荷物と呼べるものはありません。

 私は仕事をしていなければ、あのこと(強姦)を思い出します。だから、いつも体を動かして働いているのです。あの辛さは、いまのいままで忘れたことはありません。そしていま、私の秘密を初めてここでしゃべっています。今日が最初です。他の人には恥ずかしいので話していません。でも、もうこの辛さには耐えられない。そこで私は決心したのです。これからどんどん歳をとって、しゃべれなくなっていきます。話を聞きたいという人がいたから、話すことにしました。私のつらい経験を話してもいいと思ったのです。

 あの日のことは、いつも夢に出てきます。思い出すたびに泣いています。辛い思い出は、とても忘れることはできません。もし忘れられるとしたら、お墓に入ったときでしょう。生きている間は、決して頭から離れることはない。たとえ、その兵隊が自らの行為を悔いて謝罪したとしても、私は決して許しません。本当に日本兵は残酷です。ひどい。

 いつも夢に見ます。いったい、どうしたらいいのか。いつになったら私は幸せを感じることができるのでしょうか。私はこの苦しみから抜け出したい。でも、苦しみは勝手にやってくるのです。どうすることもできません。私がこうなってのは、すべてあのことがあったから。日本兵にこんな目に遭わされなければ、苦しんでなんかいません。お金や謝罪では、消えないでしょう。わたしは、すべては神にゆだねています。人にはそれぞれの運命があります。それはどういうものかわかりません。それに、自分では好きなように変えられない。すべて神の手にゆだねられているのです。

 神が私をかわいそうに思ってくれるのか。それとも、このままの人生を送れというのか。いずれにせよ、私は祈り続けています。私も他の人たちと同じような人生が送れるようにと。

 あなた(作者)が、倒れている私を(話すことに)立ち上がらせてくれたのよ」

 確かに安倍晋三が言うように「人さらいのように人の家に入って」はこなかった。だが、「家の前」で遊んでいた14歳の少女とその仲間の合わせて約10人を大きなトラックに乗ってやってきた日本兵が飛び降りてきて、「人さらいのように」捕まえ、荷台に放り込んで拉致・連行して、慰安婦にした。いわば強制売春を課した。

 家の中で取っ捕まえようと家の外で取っ捕まえようと、取っ捕まえたあとの展開はどちらも拉致・連行・強制売春と同じである。拉致・連行までは犯罪の性格に於いて「人さらい」そのものであり、強制売春まで加われば、その「強制性」は犯罪性を遥かに強めていることになる。にも関わらず、安倍晋三は「人さらいのように人の家に入って」の強制性でなければ、従軍慰安婦強制連行の歴史的事実に当たらないとして無罪放免としている。

 さらに鈴木隆史氏の一文から「人さらいのように人の家に入って」ではない、拉致・連行・強制売春の例を取り上げてみる。

 ヌラのケース(年齢不詳)

 スラウェシ島ブンガワイ村生まれ。15歳で日本兵に捕まる。

 「家から1キロほど離れたところの学校に通っていたの。友達を歩いているとき、誰もいない場所で、帽子をかぶった日本兵が乗ったトラックに出会ったの。トラックには幌がかぶせてあったわ。私たちが怖くて逃げると、『もって来い、もって来い(こっちに来いということか?)。何だ、こらっ』と言って叫ぶの。そして片っ端から私たちを捕まえて、トラックの上に放り上げるのよ。

 一緒に捕まったのは全部で8人。道の途中でも捕まえて、トラックに乗せたわ。幌があるから外は見えない。みんな泣いていると、兵隊が『バゲロー、泣くな』ッて言うの。トラックでルーラというところに連れて行かれたわ。そこは竹の家が並んでいて、入れって言われたの。服はぼろぼろになっていて、しかも一枚だけだったから、寒かったのを覚えているわ。

 そこで食事を作っていたのはゴトウ班長という人。彼は『飯ごう、持ってこい』と言った。でも、ご飯は少しと、塩魚が少しだけ。竹の家はとても長くて、一人に一部屋与えられたの。お互いにのぞいてはだめだった。本当に辛かった。竹の家では、日本兵に『なんだ、この野郎』って怒鳴られたわ。殴られはしなかったけど。

 小さなサロン一枚もらっただけで、寒かった。それと軍医がいたわ。名前はカワサキ。彼が注射したの。まだ、子どもだったから。何のための注射なのか聞けなかった。

 たくさんの兵隊が次々とやってきたわ。とにかく日本兵は人間じゃなかった。私たちを動物のように扱ったの、食事も少しだけ。魚と味噌を少し。私たちは食べられなかった。それに大根の漬物も、酸っぱくて食べられなかった。捨てると怒られたの。それで、みんな痩せていたわ。向こうで亡くなった女性もいた。寒かったからかしら。私は8カ月くらいいたかしら。兵隊たちがパレパレなどからもやって来たわ。

 私はもう歳なの。処女だった私をこんな目に遭わせておいて、これまで日本は何もしてくれないの。

 (慰安所から)帰るとき、一銭たりとも貰えなかった。遠いルーラから実家まで歩いたのよ。お金がないから、飲み物も買えなかった。私が家に戻ると、ようやく私がどこにいたのか家族にわかったのね。でも、家族は私を受け入れてくれなかったわ。ジキジキジュパン、ジョウトウ、ナイデスネ(日本人とセックスした女性は汚い)。『ジキジキジュパンは出て行け』って。その時の苦しみと悲しみは言葉では言い表せない。

 幌付きトラックで乗り付けて、子供を見つけると、手当たり次第にトラックに放り込み、連れ去る。まさか当時の日本軍兵士は70年近く後に安倍晋三が「官憲がですね、家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかった」と無罪放免してくれることを知っていて、決して家に中には押し入らずに家の外や路上で専ら拉致・連行して、強制売春の用に供していたのだろうか。家の中にまで押し入ってしたことではないのだから、無罪放免されるのだとばかりに。

 プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の著作、『日本軍に棄てられた少女たち』の本文の中から日本軍政監部がインドネシアの地方行政機関(県長から郡長、村長、区長)を通じて、証拠を残さないためにだろう、常に「口頭」で伝えられたという「留学」への誘いについて記述してあるニ例の概略を取り上げてみる。

 政治犯仲間のスティクノ氏が定住区の畑にいたとき、彼と同じスマラン出身と分かったスリ・スラトリと名乗る女性が現れた。

 1944年、彼女がまだ14歳のとき、勉強を続けるために東京に送ってやると日本軍が約束した。両親は当初この約束を断り続けたが、日本軍はこの拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)へ楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅した。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意した。

 スリ・スラトリ「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けたのち、228人が船に乗せられて、ある島に連れて行かれました。その島がブル等と呼ばれているのを知ったのはしばらくしてからです」

 日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出された。スラトリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選択するが、地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物となった。

 次は政治犯仲間のスティク氏が仲間の二人から聞いた、スワルティと名乗った女性の話。

 スワルティ「私は14歳で5年制の国民学校を終えていました。そんな折、日本軍政監部が私と同い年の少女たちに東京で勉強させる機会を与えると宣伝していると聞きました。この話は学校だけでなく、郡長、村長、区長、組長といった役人を通じても広められたのです。私は228人の少女たちからなる一団の一人として、船でジャワ島を出発しました。船名や船の大きさなど覚えていません。途中、島々に寄港しながら航海を続け、最後にブル島南部に着き、上陸させられます。大東亜戦争の栄光と勝利のためという口実を前にして、私たち少女は『甘い約束』をどうしても避けられず、それどころか、強制的に宣伝に従わされました。私たちはここで、すでに周到に用意されていた寮に無理やり入れられました。スマランから入ったのは私を含めて22人です。その後は筆舌に尽くせぬ苦難の連続で、それが現在も続いています」

 ブル島についた少女たちは山々を越え、、島の最高峰カパラットマダ山の麓にある日本軍の地下壕に収容され、少女たちはこの陣地内で、経験のないまま、日本兵の野蛮さの中に投げ込まれた。

 少女たちはここで、尊厳、理想、自尊心、外部との接触、礼節、文化など、全てを失った。持てるもの全てを強奪され尽くしてしまった。

 日本軍が敗北すると、少女たちはこの地下の陣地内に取り残された。日本兵たちが知らぬ間に彼女たちを置き去りにし、姿を消した。

 確かにこの14歳の二人の少女は「人さらいのように人の家に入って」連れ去られたわけではない。日本軍政監部という当時のインドネシアに於ける政治と軍事の頂点を通して持ちかけられた「留学」への誘いに乗った。一方は天皇の名前まで使った威しに屈し、一方は大東亜戦争の栄光と勝利のためという口実に従った。

 だが、「留学」の約束は果たされず、待ち構えていたのは強制売春=「sex slaves」の境遇であった。単に「人さらい」のような拉致・連行の経緯を省いているだけで、最終結末は他の例と何一つ変わっていない。

 だからと言って、安倍晋三が言うように「強制的に軍が家に入り込み、女性を人さらいのように連れて」いかない拉致・連行・強制売春、あるいは拉致・連行を省いた強制売春に関しては従軍慰安婦強制連行の歴史的事実の事例に入らないとして無罪放免とすることができるのだろうか。

 できるとする安倍晋三の倫理観を疑わなければならない。

 因みに明治40年4月24日公布、明治41年10月1日施行当時の「刑法(明治40年法律第45号)」第224条は「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上5年以下の懲役に処する」とある。1881年(明治14年)に制定、1908年(明治41年)再制定、1947年(昭和22年)廃止の陸軍刑法第88条ノ2は、「戰地又ハ帝國軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ1年以上ノ懲役ニ處ス ②前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ3年以上ノ懲役ニ處シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ懲役ニ處ス」とある。

 未成年の少女を拉致・連行し、強制売春に従事させていた日本帝国陸軍兵士は刑法を超える存在と化していた。拉致・連行の強行犯に関わらなくても、「留学」を餌に強制売春に追い込んだ日本軍政監部にしても、違法性の意識は持っていなかった。

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日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[1]

2020-08-10 11:06:51 | 教育
 2011年度から小学校5、6年生で英語授業が必修化された。5、6年生にさらに3年生、4年生加えた英語必修化が2020年4月から全面実施され、既に2018年度から移行措置が取られていたと言う。

 3、4年生の英語学習は「外国語活動」と名付けれらていて、その目標は、「聞くこと」「話すこと(やり取り)」「話すこと(発表)」の3つだそうだ。
 一方、5、6年生の英語学習は「外国語」の名称となっていて、その目標は、3、4年生で学んだことに加えて、「読むこと」「書くこと」、つまり話言葉の上積みの上に文字での扱いを自在にするということなのだろう。

 小学校高学年からのこの両方を達成して、英語という言語を用いたコミュニケーション活動をそれなりに活発化できれば、英語が国際共通語であることから、極度にグローバル化した今日、日本人の大方が必要に応じて国際社会の一員としての資格を持った諸活動の入り口に立つことが可能となるということなのだろう。

 ひと頃、「郷に入らば郷に従え、日本に来た外国人はここは日本なのだから、自国語を用いずに日本語を話せ」と主張する一部日本人がいたが、だからと言って、国際共通語である英語の地位を無視して済ますことができない現実は如何ともし難く立ちはだかる。

 例えば、私自身もそうだが、日本以外の国の情報を日本語訳に頼っていたなら、特に英語圏の情報の獲得に積極性を欠くことになるし、グローバル化に反して情報領域を自ら狭くすることになる。

 よく聞く話で、街で外国人に出会うと、英語が全然話せないことから、話しかけられたら面倒という思いで近づかないようにするということだが、その距離感を情報活動に於いて常に持ち続けることになりかねない。

 英語教育のもう一つの主な反対意見として「美しい日本語がありながら、その日本語さえも満足に習得できていない段階で、英語を習ってどうする。日本語の習得が先ではないか」というものがある。この反対意見の持ち主の多くは世界の他の言語と比較して日本語を特に優秀な言語と看做す保守派に多く見受けられるようだ。

 いくら日本語が優秀な言語であったとしても、それを用いる日本人が良からぬ言動の持ち主であった場合は、日本語の優秀さは意味をなくす。自分自身にしても偉そうな口が利けはしないが、要するに言語の優秀さよりもその言語を用いる人間個々が言語の優秀さに対応しているか否かを問題としなければならないが、この点は考慮に入れていないようだ。

 学校で英語を学んだとしても、使うことのできる能力にまで持っていくことができない現状は学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないことも原因としてあるのかもしれない。使うことができる機会がそれなりにあれば、学んだことが生きてくるし、使う機会を通して、学校で学ばなかった英語も自分から学習していくこともできる。

 だが、学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないこの状況は一般的には変化はないものと見るならば、今までと同様に学校の英語教育のみで、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能の底上げを今まで以上に図らなければならないことになる。

 そこで自分自身が英語の「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能を全く以て欠いていることを承知の上で、現状の使うことができるところにまで十分に持っていくことができていない学校英語教育を使うことのできる場所にまで持っていく教育内容の変更を身の程知らずにも提案してみることにした。

 その方法とは英語に関わる4技能習得のみに重点を置くのではなく、英語の授業を総合教育化し、総合教育化の中で4技能を習得させることとする。

 総合教育化の方法は日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇を活用する。具体的には3年生以上の各クラスの生徒を端数が出ないように5人、ないし6、7人にチーム分けして、各チームにメンバー同士の協力で、先ずテーマを決めさせて、日本語朗読劇を創作させる。

 この創作が総合教育化の手始めとなる。

 教師も時には相談に応じて、メンバーと同数の登場人物を設定して、セリフの多い少ないは少しぐらい偏っても、登場人物全てのセリフを頭に入れることになるから、さほど問題にしないことにして、とにかくメンバーと決められた生徒が主体となって、一編ずつの日本語朗読劇を全てのチームに共同で創作させる。

 創作させたところで、朗読劇だから、教壇に並んで立って、話す順番が来た者から台本を見ながらセリフを読み上げていくことになるが、先ず、どのメンバーも、台本を丸ごと暗記することを前提に始めることにする。

 但しセリフを単に読み上げるだけでは、朗読劇という体裁とはならない。セリフを用いた感情や思い入れの表出を場面、場面に応じて演じて初めて劇の体裁を取ることになる。教師は助言を与えて、台本の単なる読み上げで終わらせずに朗読劇の体裁でセリフを読み上げることができるまでに指導しなければならない。と同時に生徒全員でそれぞれのチームごとの朗読劇と演技の出来栄えを批評させ合うこととする。

 批評は鑑賞眼や判断力を養うことになる。

 台本を暗記したメンバーから台本なしのセリフ劇へと移行させる。全員がセリフ劇に移行できたところで、各チームが創作した日本語朗読劇を各チームごとに英和辞書や和英辞典、あるいはネットの翻訳アプリを使って、メンバーの力だけで英語朗読劇に翻訳させる。但しこの際に英語教師や「外国語指導助手」(ALT)は一切手を出さないことにする。あくまでもチームメンバーの協力のもと、自力で英語に翻訳させる。

 翻訳ができたところで、それが正しい英語となっているかどうか、そのとき初めて教師やALTの指導・助言のもと、各チームの朗読劇ごとに校正していくことにする。それぞれのチームが翻訳した英語が正しい英語への手直しとなることへの興味から、その校正授業に集中できない生徒は少ないはずである。

 この校正の段階で文法的な知識を一通り体系的に学ぶことにする。一通りなのは「話す」、「聞く」に重点を置くためである。

 各チームのすべての英語朗読劇が正しい英語によって校正されたのち、外国語指導助手が最適任だと思うが、チームごとの英語朗読劇の台本を朗読した撮影映像を家のパソコンかテレビで見ることができるようにDVDか、家にパソコンやブルーレイレコーダーがない生徒にはラジカセで聞くことができるようにCDにして、チームごとにそれぞれのメンバー全員に渡す。

 演者はあくまでも朗読劇として台本を読むのは勿論のことであるが、同時に英会話に於ける口の動きと言葉自体がより明確に伝わるように顔中心の撮影とし、演劇風に少々オーバーなアクセントとイントネーションを用いて音読することとする。

 教室に大型ディスプレイか電子黒板があるなら、そこに映して、目で捉えた口の動きと耳で捉えたアクセントやイントネーションの関連を学習して、生徒それぞれが「聞く」、「話す」の英語の2技能習得の参考にする。

 生徒一人ひとりにDVDかCDが渡されているから、自宅でも練習することができる。CDは映像で見ることはできないが、教室で映像を見ているなら、自身が上手に朗読できるようになるために自然と頭を研ぎ澄ますことになって、耳のみで映像までを思い浮かべることになる。

 文部科学省の達成年度2018年~2022年の「教育のICT化に向けた環境整備5か年計画」では、学習者用コンピュータは3クラスに1クラス分程度整備、指導者用コンピュータは授業を担任する教師1人1台、大型提示装置(大型テレビ、プロジェクタ、電子黒板)は100%整備と、それぞれに謳っているから、大型テレビや電子黒板が用意されていない教室でも、暫く待てば、英語朗読の模範を示す映像の閲覧に事欠かなくなることになる。

 次に各チームごとの英語朗読劇となる。正しい英語に手直しされた英語朗読劇台本を使い、日本語朗読劇と同様に全てのチームが自チームの台本を丸ごと暗記することを決まりとして、英語朗読劇を始めることにする。

 英語台本の読みに一定程度慣れて、余裕が出てくれば、既に日本語の台本を暗記しているから、おいおい日本語で意味を取りながら英語の文字を追い、セリフとして読み上げていくことができる。日本語で意味を取ることができるようになれば、英文の暗記を早めることができる。

 勿論、日本語朗読劇と同様に英語朗読劇もその台本を暗記したメンバーから順に台本なしの英語セリフ劇へと移行する。その場に立ったままの朗読劇の姿勢でセリフを口にしたとしても、日本語朗読劇も、英語朗読劇も、声によってだけではなく、ほんの僅かでしかなかったとしても、許される範囲の身振り、手振りで感情や思い入れを表出できるようになれば、一定程度の演劇に近づいていく。

 この状態に到達できるようになれば、「聞く」、「話す」の英語の2技能習得は達成できる。

 文部科学省は自己表現能力やコミュニケーション能力の向上のために学校教育での演劇教育を奨励しているということだが、プロの演劇集団を招いて、その演劇を鑑賞させるといったことに重点を置いているようで、生徒自らが演じる演劇教育はまだ重要視されていないように見える。

 文部科学省のホームページにある、「劇・ダンスに関する新学習指導要領における記述例(抜粋)」を見ると、小学校第1学年と2学年を対象とした国語の授業で、〈物語の読み聞かせを聞いたり、物語を演じたりすること〉との記述はあるが、第3学年以上にはこの記述は見当たらない。

 ここで思い切って3年生から6年生までの英語教育に日本語朗読劇とそれを英語に翻訳した英語朗読劇を取り入れた場合、子どもたちへの様々な効果が期待できる。

 先ず第一番に5、6人かの小集団となってメンバーがお互いに協力し合い、朗読劇を創作すること自体が創造力の育みだけではなく、人間関係の構築能力、あるいは他者との協調精神を養う力となり、さらに新しいものを作り出すという作業は子どもたちの感性を磨いていくことになる。

 また、それが朗読劇であり、セリフを暗記して台本なしの表現へと発展させたセリフ劇であったとしても、自分自身とは異なる劇中人物を演じること自体が集中力だけではなく、自己表現能力を育むことになり、他の登場人物と演じ合って、息を合わせることは他者を知ることを手がかりとして始まる自己形成やコミュニケーション能力の育みに役立っていく。

 さらに人間の現実や社会の現実の一部でも捉えた朗読劇を創作できたなら、創作できたことと、それを言葉で演じることは虚構でありながら、人間の現実や社会の現実を学んでいくキッカケを与えてくれる。

 このことは演じる者のみならず、観劇する側の生徒に対しても同じように人間の現実や社会の現実を学んでいく機会を与えることができる。

 そしてこのような様々な能力を手に入れることができた場合、それらの能力は社会で生きていくための力となってくれるはずである。

 要するに日本語朗読劇の創作から始まって、その朗読劇と英語翻訳した英語朗読劇のそれぞれの台本を用いた朗読と台本を暗記して、台本から離れたそれぞれのセリフ劇で英語の「読む・聞く・話す」の3技能をマスターしながら、社会で生きていくための様々な能力を学び取ることができるように仕向けるこの教育方法が英語授業の総合教育化ということになる。

 簡単に言い替えると、単に英語を学ぶだけで終わらせない、自己表現能力や自己形成能力、人間関係構築能力等々の様々な能力まで学んでいくことができる総合教育となる。

 英語の技能に関して言うと、残る英語学習は書く技能だけを残すことになる。英語で読むこと、聞くこと、話すことがスラスラとできるようになれば、英単語の綴りの基本はローマ字式だから、書くことはさして難しくはない。

 また、日本語朗読劇創作は国語範疇の教育であり、国語と英語の総合教育ということにもなる。

 参考のために小学校6年生用の日本語朗読劇を創作してみた。出来栄えは保証の限りではないが、方法論として提示しておく。

 朗読劇の上演時間と文章量はほぼ1万字・30分の関係にあるということからすると、この日本語朗読劇は約1時間ものということになって、少々長過ぎる嫌いがあるが、各チームの上演時間をどのくらいにするか、クラスごとに決めて、決めた範囲で創作していけばいい。

 英会話が全然できない者として英語翻訳は一から十まで翻訳アプリの「DeepL翻訳」とネット翻訳の「Google翻訳」、同じくネット翻訳である楽天の「Infoseekマルチ翻訳」と、「Weblio 翻訳」、その他に頼った。

 翻訳した英文の間違い訂正は英文校正ツールであるフリーソフトの「Ginger」に全面的に頼り、同じくフリーソフトのテキスト読み上げツール「Balabolka(バラボルカ)」を使って、英語朗読劇台本を読み上げて貰えば、それをオーディオファイルとして保存、何度でも聞き返して、言葉と意味を聞き取る練習もできる。

 但し英語翻訳した朗読劇台本はここでは割愛することにした。

 日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[2]に続く
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日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[2] 

2020-08-10 10:52:31 | 教育
 小学6年生用日本語朗読劇台本『5郎んちの父さんと母さんの離婚危機』

     (1)

 日曜日の公営住宅の1郎の部屋に仲間が3人来ている。仲間は5人。
4郎「3郎、テレビゲームしよう」
3郎「また餌食になりたいんだ?」
4郎「バカ言え、今度は勝つ」
3郎「同じセリフをいつまで続ければ、気が済むんだか」
4郎「今日から俺は勝ち続ける」
3郎「ハイ、ハイ。勝ち続けてください」
1郎「そろそろゲームソフトも新しいのを1本ぐらい入れないと」
2郎「大丈夫だよ。同じのだって、結構楽しめる」
3郎「正月のお年玉、みんなで少しづつ出し合って、中古を買おうか」
1郎「未だ4ヶ月も先の話じゃないか」
2郎「4ヶ月なんか、すぐに来る」
1郎「5郎、遅いな。いつも約束の時間には遅れたことがないのに」
4郎「お袋に『日曜日ぐらい勉強しろ、勉強しろ』って、言われて、出て来れないのかも」
2郎「5郎、俺んち中ではトップの成績だからな」
3郎「クラスでは真ん中より下だけど、五郎の母さんだけ、教育ママしている」
1郎「俺んち父さんは、『勉強なんかできなくたって、体さえ丈夫なら、どうにかなる』っていつも言っている。勉強でうるさいことは言わない」
4郎「1郎、いつだったか言ってたな。『宿題やっていたら、宿題なんかしなくたっていい。何も書かずに出せばいい』って」
1郎「あんときは物凄く酔っ払っていた。酔っ払っているときに言ったことは、『俺、そんなこと言ったか?』って、覚えていないことが多くて、当てには 
ならない。『勉強なんかできなくたって、体さえ丈夫なら、どうにかなる』っていうのは酒を飲んでいないときも言っているから、信用できる」
2郎「1郎ちは父さんしかいないから、俺んちみたいに父さんと母さんから、『遊んでばかりいないで、少しぐらい勉強しろ』って言われないからいい」
1郎「洗濯したり、ご飯を作ったり、母さん代わりのことさせられているから、勉強しろとまで言えないのだと思う。だから、『体さえ丈夫なら』って言っているのだと思う」
4郎「俺んちは2郎んちと同じで、父さんと母さんからも、勉強もしろ、運動もしろってうるさい」
3郎「俺んちはテストの採点や通信簿の成績を見たあと、『もう少し勉強しなければなあ』って嘆く」
4郎「そんときだけなら、いいじゃないか」
3郎「嘆いたあと、『お父さんもお母さんも成績はよくなかったけど、少しぐらい上回って欲しい』って付け足す」
1郎「自分ができなかったのに子どもにだけいい成績を求めるよりもいい」
4郎「俺んちは最後には『高校ぐらい、受からないようなら、おしまいだぞ』ってハッパかけてくる」
1郎「5郎、来たかな」
3郎「来たようだ」
5郎「ごめん、遅くなって」
1郎「時間厳守ってわけじゃないけど、何だが元気がないな」
5郎「うん・・・・」
1郎「遊んでばかりいないで、勉強しろって言われたのか」
5郎「そんなこと、言われない」
 首を弱々しく振る。
1郎「じゃあ、何で遅くなったんだ?」
5郎「まあ・・・・」
1郎「俺たちの間では秘密なしって、約束し合っているじゃないか」
3郎「忘れたのか?」
5郎「忘れてはいない」
1郎「じゃあ、遅くなった理由を言えよ」
5郎「出かけようとしたとき、母さんから『あんたは私の子じゃないからね』って、いきなり言われた」
1郎「何だって?鼻の穴が広がっているとこなんか、母さんとそっくりじゃないか。カバの子を豚の子と言うようなもんじゃないか」
5郎「ひどいなあ・・・・」
2郎「そうだよ、カバの子はカバの子。豚の子は豚の子。変えることなんかできるもんか」
3郎「どこからどう見たって、母さんそっくりだ」
4郎「親子そのものじゃないか」
2郎「DNA鑑定して貰えよ」
1郎「いや、鼻鑑定で間に合う」
 5郎を除いて、笑い合う。5郎、付き合い笑い。
1郎「何かあったのか、お前と母さんの間で」
5郎「何もなかった。いきなり言われた」
1郎「いや、何もなければ、そんなことは言わない。どこからか貰われてきたってことか?」
2郎「橋の下から拾ってきた子だっていうのはよくある話だけど」
4郎「俺は小さい頃、何度も言われた。言うことを聞かなければ、橋の下に戻すからって言われた」
1郎「作り話と分かっていれば、戻したければ戻せって話だけど、そんときどうした?」
4郎「助産婦さんが近所の人で、『私が取り上げたんですよ。大きくなったね』って、会うのはときたまだけど、会うたびに言われているから、母さんから橋の下物語を最初言われたときは何のことなんだろうとピンと来なくって、『ああ、そう』と言っただけで聞き流した。三度目か四度目に言われたとき、助産婦さんを連れてきて、確かめて貰うことができたけど、どういうふうに捨てられていたのか、季節はいつか、聞くことにした」
1郎「どう答えた?」
4郎「夏の涼しい日にダンボールに入れられて捨てられていた」
1郎「誕生日はいつだっけ」
4郎「8月3日」
1郎「一番暑い頃だけど、夏の涼しい日っていうのは怪しいな。暑い日にしたら、赤ん坊が汗をかいていたことになって、残酷過ぎると思って涼しい日にしたんじゃないのか?」
4郎「そこまでは考えなかったけど、『何時頃見つけた?』『夕方6時頃』『当時住んでいた家から、その川まで何キロ離れていた?』『2百メートルかそこらで、散歩コースになっていた』
段々睨めつけるような恐い顔になってきて、『橋の名前は』と聞いたら、『いい加減にしなさい』って、怒鳴られてしまった。それ以来、言われなくなった」
1郎「拾ってきた子ではなくて、『あんたは私の子じゃないからね』って、どういうことなんだろう」
5郎「『私の子じゃなくて、お父さんの子だから』って言われた。『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って」
1郎「いきなりそんなこと言われたって、面食らうよな」
5郎「面食らう」
2郎「面食らう」
3郎「面食らうに決まっている」
4郎「面食らわなかったら、どこまで頭が悪いんだって、疑われる」
5郎「おい」
4郎「ゴメン、ゴメン。つい・・・・」
5郎「つい、何だ?」
4郎「口が滑った」
5郎「本当のこと、言ったってことじゃないか」
1郎「テレビでやってた外国映画で高校生の親父が『頭が悪くたって、出世する奴がいる。俺はなれなかったけど、同じ頭が悪くても、出世するような悪い頭になれ』って言っていた。随分前に見た映画だけど、なぜか覚えている」
3郎「そうだよ。『頭が悪いな』って言われたら、『出世する悪い頭なんだから』って言い返せばいい」
1郎「頭が悪くても、出世する悪い頭だからをおまじないにすればいい」
4郎「5郎一人だけのおまじないにするのは勿体ない。みんなのおまじないにしよう」
2郎「いい、いい、賛成」
3郎「全員賛成」
1郎「5郎、『あんたは私の子じゃないからね』なんて、いきなり言われるなんて、おかしいな」
2郎「おかしい」
3郎「どこをどう考えても、おかしい」
4郎「おかし過ぎて、笑っちゃう」
1郎「どこからどう見たって、5郎はお前んちの母さんの子なのにな」
2郎「テレビでは、『あんたは本当はお父さんの子じゃないんだからね』っていうのはよくある」
3郎「ある、ある」
4郎「あるある大辞典」
1郎「お前んち父さんと母さんの間に何かあったんじゃないか?」
5郎「何かって?」
1郎「何かって、何かさ」
5郎(考える顔)「昨日、夜中に何か声が聞こえると思って、目が覚めた。最初、何の物音か分からなかったけど、隣の部屋で父さんと母さんが何か話しているんだって分かった。普通の声の調子ではなかった」
2郎「前にもあったことか?」
1郎「前にもあったことなら、目が覚めたら、またかあと思う」
2郎「ああ、そうか」
5郎「声を抑えていたけど、何か言い争っているように聞こえた」
1郎「お前んちの父さん、最近、変わったことないか?」
5郎「変わったこと?そう言えば、1ヶ月程前から1週間に1日、帰って来ない日があって、おとついが帰ってこない日だった」
1郎「おとつい?おとつい帰ってこなくて、次の日に帰ってきたときに言い争うのではなく、夜中になってから、言い争うのか?」
4郎「子どもの前では言い争わないようにしているのかもしれない」
1郎「お前んちもそうか」
4郎「まさか・・・・。平気で言い争う」
2郎「俺んちも平気で言い争う」
3郎「子供がいたって、お構いなしだ」
5郎「うちもそう」
1郎「え、何だって?おかしいじゃないか。次の日に帰ってきたときに言い争わずに5郎が寝てから、言い争うなんて」
5郎「帰ってこない次の日は帰りが遅いから」
4郎「遅いって、何時頃?」
5郎「さあ、分からない」
1郎「なぜ?」
5郎「最初に帰ってこなかった日、次の日も、俺が寝るまで帰ってこなかったから、二日続けて帰ってこないんだなと思っていたら、朝になっていたから、遅くに帰ってきたんだなって分かった」
3郎「確か、5郎、テレビを見ていて、9時から10時の間に寝るって言ってたな?」
5郎「うん」
1郎「帰ってこなかった日の次の日はいつも5郎が寝てから帰ってくるのか?」
5郎「うん」
1郎「そうか。浮気だな」
5郎「どういうこと?」
1郎「最初の日は女のところに泊まったとしても、次の日、普通に帰ってきて、同僚と飲み過ぎて、酔っ払ってしまって、同僚のところに泊まってしまったとか、何だかんだと誤魔化すことができる」
4郎「テレビでときどきやってる」
1郎「ところが、浮気がバレてしまった。それで泊まってきた次の日は遅く帰ってくるようになった」
5郎「なぜ?」
1郎「お前んち母さんが隣の部屋で寝ている5郎の目を覚ましてしまう程の大きな声を出すことができないのが分かっているからだ」
5郎「でも、この間は目が覚めてしまった」
1郎「帰ってこない日の次の日の夜は5郎に気づかれないようにいつも声を低くして言い争っていたんだけど、5郎がおとついまで気づかなかっただけなんだ。きっと」
3郎「納得がいったようだな」
1郎「5郎の母さんが『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って言ったのは別れた場合、5郎は父さんの方に引き取らせることになっているか、引き取らせようとしているか、どっちかじゃないか?」
4郎「『あんたは私の子じゃないからね』っていうのと、どう関係あるんだか」
1郎「父さんの方に引き取らせるのを5郎に納得させるためなのかもしれない。そうだ、テレビでやってた大衆演劇で本当は手放したくない子どもをおっかさんが『あんたは私の子じゃないからね、あんたは私の子じゃないからね』って、子どもに言い聞かせながら追いやるシーンがあった」
3郎「5郎んち母さんがいくら大衆演劇のおっかさんを演じても、顔が似てたんじゃ、5郎の今の年齢では信じさせることはできないと思う」
1郎「そうだな。5郎、信じたのか?」
5郎「びっくりして、頭がこんがらがって、俺は母さんの子じゃないんだって思った」
1郎、2郎、3郎、4郎(同時に)「信じたんだ」
1郎「5郎んち父さんと母さんが別れた場合、5郎を5郎んち父さんの方に引き取らせるつもりで言ったのだとしたら、別れる話がかなり進んでいるかもしれない」
5郎「俺はどう見たって、母さんの子だ」
1郎「別れた場合、5郎はどっちに引き取られたいんだ?」
5郎「父さんと母さんは別れない」
2郎「例えばの話だから」
5郎「どっちか分からない。母さんかも」
3郎「5郎は5郎んち母さんから、『あんたは父さんの子じゃないからね』って言わればよかったんだ」
4郎「どっちも言われたくないよな」
3郎「例えばの話」
5郎「うーん。よかったかもしれない」
1郎「5郎は自分の顔とかあさんの顔が似ていることに気づいていたんだ」
5郎「思ったことはなかったけど、気づいていたのかもしれない」
1郎「順を追って考えてみよう。俺んちは別れようというとこまでいったとき、俺をどっちが面倒を見るとか、どっちが引き取るとかの話になったけど、一度だって、母さんから『あんたは私の子じゃないからね』なんて言われたこともないし、父さんからも『お前は俺の子じゃないからな』なんて言われたことはない」
3郎「1郎が父さんの子じゃなければ、1郎は今、1郎んち父さんと一緒に暮らしていない」
1郎「いや、血の繋がっていない親子が同じ家で暮らす話はときどきテレビでやってる」
4郎「5郎んちはそういう家だったのか」
1郎「5郎と5郎んち母さんは血が繋がっている」
3郎(笑いながら)「繋がっていないなんて言ったら、5郎と5郎んち母さんに悪い」
5郎「バカにしてるな」
3郎「別にバカにしていない」
4郎「だけど、5郎んち母さんは『あんたは私の子じゃないからね』って言った」
2郎「俺んちはもう決めてある。妹は母さんが。俺は父さんが。『わたしたちが別れることになったら、あんたはお父さんに引き取られていくんだからね。今からちゃんと覚悟しておかなければならないのよ』って、ときどき言われる。でも、まだ別れない」
1郎「いつも喧嘩したあとだろ?」
2郎「喧嘩したあとのこともあるけれど、そうでないときもある」
1郎「喧嘩までいかなくても、父さんと母さんの間で何か我慢できないような嫌なことがあったあとなんだ。2郎がいないときに何かあったときは2郎が気づいていないだけってこともある」
2郎「そう言えば、朝起きたときいきなり言われたことがある。言われ慣れしているけど、寝ぼけ眼のとき急に言われたから、びっくりした」
1郎「5郎んちも、別れるとか別れないとかの話にまでいっていたなら、別れた場合、5郎をどっちが引き取るかまで話していると思う」
4郎「5郎んちの父さんの方が引き取るか、母さんの方が引き取るか、どっちかの話だとしたら、5郎に『あんたは私の子じゃないから』ってことまで普通は言う必要がない」
1郎「そうだな。言う必要がないことまで言った。でも、言う必要があったから、言ったはずだ」
3郎「何だか、頭がこんがらがってくる」
1郎「普通は言う必要がないんだけど、5郎んち母さんからしたら、言う必要があったから、言ったんだろう。必要がなければ、言わない」
2郎「その必要が何なのか分からなければ」
1郎「情報が少な過ぎる。『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』って言ったってことは別れるとか別れないとかの話にまで進んでいるのは確かだと思うが・・・・。5郎、情けない顔するなよ。よくある話じゃないか」
3郎「俺んち父さんなんか、一度浮気がバレて、父さんが着ているものは洗濯しなくなって、ご飯は弟を入れて4人分だったのが、父さん抜きで3人分しか作らなくなって、父さんが夜勤で遅くなると、三人が先に風呂に入って、入り終わったあと、お湯を抜いてしまったり、最後に『二度と浮気はしません』と誓約書を書かせて、やっと元に戻った」
4郎「その誓約書は額縁に入れて、壁に吊るしてあるんだろ?」
3郎「4郎んちも、そうなのか?」
4郎「俺んち父さんは母さんから、『もし約束を破ったら、玄関の壁に吊るし変えるからね』って言われてる」
2郎「玄関じゃ、たまらない。すぐ人目について、近所にも浮気が知れてしまう。でも、浮気封じにはいい手かも」
1郎「男のお前が感心してどうする?」
2郎「5郎んちでも使えると思って」
1郎「別れる、別れないまで行ってたら、『浮気はしません』なんていう誓約書は書かない」
2郎「あー、そうか」
4郎「まあ、武雄んちもシングルマザーだし、花子んちもシングルマザーだし」
2郎「シングルマザーは結菜んちもそうだし、さくらんちもそう」
1郎「教頭の福知山桃子先生もシングル・マザーで、男の子を二人、育てたっていう」
4郎「体育の杉浦と付き合っているっていう噂があるピアノが弾ける山中詩穂先生もシングル・マザーらしい」
3郎「悠斗んちはシングルファザーで、大樹んちもシングルファザーだし」
1郎「俺んちもシングルファザー。ほかにも探せば、ほかのクラスにも、先生の中にも、シングル・マザーだ、シングルファザーだっていうのがいるかもしれない。5郎んちも、万が一、別れることになったとしても、そういったうちの一つになるだけじゃないか」
5郎「俺んちは別れない」
1郎「うまくいくように祈るけど、5郎んち父さんは1ヶ月も前から1週間に1日、泊まって帰ってきて、母さんの方が『いつかはお父さんが育てることになるからね』って言った。ある程度覚悟しておいた方がいいかもよ」
5郎「俺んちは別れない。そんな父さんや母さんじゃない」
1郎「こういうことかもしれない。5郎んち母さんは5郎を引き取ってくれるなら、別れてもいいって条件をつけた。5郎んち父さんは別れることになったとしても、5郎を引き取ることはできないと言っている」
5郎「どういうこと?」
1郎「5郎んち母さんは父さんに自分と別れさせないようにするために相手ができないと言っていることを要求しているのかも知れない」
3郎「そうか。どうしても別れたければ、引き取りたくない5郎を引き取らなければならなくなる」
4郎「5郎んち父さんが別れる方を選んで、5郎を引き取ることになったとしたら?」
1郎「5郎んち母さんは別れさせないために5郎を引き取れと言っただけで、本当は望んでいないことだとしたら、それが裏目に出た場合の用心に『あんたは私の子じゃないからね』とか、『私の子じゃなくて、お父さんの子だから』とか、『私は育てだだけ。いつかはお父さんが育てることになるからね』とか、無理に5郎に言い聞かせているのかもしれない」
2郎「1郎はどっちを予想している?5郎んち父さんが別れる方を選んで、5郎を引き取るか、5郎を引き取ることができないからって、別れない方を選ぶか」
1郎「相手の女がどんな女なのか、情報が全然ない。5郎んち母さんよりも若くて、美人なら、勝ち目はないかもしれないし、5郎んち母さんが5郎を引き取ってくれるなら、別れると言っているのかどうかも、はっきりしたことが分からない」
3郎「そういう条件をつけているのは確かさ。鼻を見ただけで親子だって分かるのに、『あんたは私の子じゃないからね』なんてこと言えない」
1郎「別れる条件としている5郎を引き取ることが5郎んち父さんができないと言っているとしたら、相手の女が幼い子持ちで、5郎、12歳だろ?」
5郎「うん、12歳になった」
1郎「12歳にもなった男の子の子育てまでさせるのは悪いと思っているのか、相手の女が子どもがいるいないに関係なく、引き取るのは厭だと言っているのか、どちらかなのかもしれない。とにかく情報が少ない」
2郎「相手の女が厭だと言っているとしたら、5郎んち父さんは別れることができない。喜べ、5郎」
1郎「確かなことは何も分からないんだから、5郎を元気づけるにしても、覚悟を決めさせるにしても、確かな情報がなければ」
4郎「じゃあ、確かな情報を手に入れればいい」
1郎「簡単に言うなよ。相手の女がどこに住んでいるのかさえ、分からないんだから」
3郎「5郎んち父さんを金曜日の仕事帰りに女の家まで後を尾けたら?」
1郎「5郎んち父さん、何で通勤してるんだ?」
5郎「車」
1郎「じゃあ、尾行も車でなければ、できない」
2郎「テレビではタクシーを掴まえて尾行する」
1郎「テレビだから、うまく掴まる。うまく掴まったとしても、小学生の集団が『あの車の後を尾けてください』なんて頼んだら、たちまち怪しまれてしまう」
4郎「スマホで位置が確認できるGPS端末を5郎んち父さんの車に取り付けたらどうかな。小学生がランドセルなんかにぶら下げておくやつ。5センチ角程だし、テレビの刑事ドラマで見かける」
1郎「カネがかかるんだろ?調べてみろよ」
4郎「ちょっとスマホで調べてみる。あった、あった。2年間の利用料金込みでGPS端末価格が1万4000円。で、3年目以降の利用料金が月額440円。GPS端末価格が5280円で、利用料金が月額600円。端末価格が8580円で、月額利用料が748円などがある」
1郎「一度しか使わないのに5千円だ、1万円だと使っていられるか?」
4郎「こんなに高いとは思ってもいなかった」
1郎「誰かに借りればいい。1、2年生の弟がいて、使っているうちはないか?」
全員「・・・・・」
1郎「いないだろうなあ。どこんちも大事に育てて貰っているようには見えないからなあ」
4郎(スマホを見ながら)「浮気調査用GPS発信機5日間レンタル9800円、365日使い放題返却不要3万8280円なんていうのもある。いや、参考までに調べただけだから」
3郎「小さい頃遊んで貰った親戚のおじさんがオートバイ通勤している。オートバイなら、尾行できる」
1郎「おじさんて、いくつなんだ?」
3郎「33歳。弁当屋に務めていて、朝5時から午後2時までだから」
2郎「頼めるのか?」
3郎「タンス動かすとか、棚を取り付けるとか、頼めば、すぐ来てくれる」
1郎「理由を言って、頼んでみろよ。今度の金曜日。5郎、5郎んち父さんの写真、1枚用意しておけよ。それに車のナンバー、メモしたやつ」

     (2)

 その週の土曜日の朝の学校。
1郎「3郎、オートバイのおじさんから報告あったか?」
3郎「あった。永田町2丁目の永田ハイツ。10部屋あるシャレた2階建てのアパートで、2階に向かう玄関が自動ドア付きの内階段で、建物の真ん中に取り付けてあって、2階の左側から2番目の8号室に住んでるんだって。他の部屋を探す振りをして、5郎んち父さんがその部屋に入っていくところまで後を尾けて、見届けたって言ってた。名字は森。表札に森とだけ書いてあったって」
1郎「5郎、昨日は帰ってこなかったんだな」
5郎「帰ってこなかった。今日はいつものように俺が寝てから、帰ってくると思う」
1郎「4郎、スマホの地図アプリで永田ハイツを探し出せるか」
4郎「ああ。あった。ここから4、5キロ離れている。自転車だと、15分か、20分程度だな」
1郎「見せてみ。住宅街のようだな。見張るにいい場所がなかったら、ハイツを挟んだこの四つ角とこの四つ角近くの、電柱があれば、電柱の陰に二組に別れて立って、一人ずつ、交代でハイツの前を行ったり来たりしよう。近くにスーパーか何か、自転車を止めておくとこないか?」
4郎「100メートル程離れたところに神社がある」
1郎「じゃあ、神社を集合場所にして、月曜日にそこで夕方5時に集まることにしようか?」
2郎「今日、学校終わってから、すぐに行けば、1時頃には着くけど?」
1郎「女の方が土曜日でも仕事ならいいけど、土日休みで、ずうっと部屋にいると、仕事帰りを狙って、どんな女か、確かめることができない」
2郎「そうか」
1郎「月曜日が定休日のとこもあるけど、土日定休よりも少ないだろうから。月曜日がダメなら、火曜日にまた行けばいい」
4郎「でも、5郎、早く知りたいだろう?」
5郎「早く知りたいけど、ちょっと怖い」
4郎「今日行って、ダメなら、月曜日にまた行けばいい」
1郎「そうか。じゃあ、普段の心がけを信じて、今日行くか」
4郎「俺たち、普段の心がけがいいもんな」
2郎(笑いながら)「俺も今日でもいい」
3郎「俺も今日でいい。どうせ、俺たち遊ぶ以外にすることはないんだから」
1郎「じゃあ、今日にしよう。女が5時までの仕事に賭けて、みんな一旦うちに帰って、昼飯食べてから、俺の部屋に集まって、神社に4時に着くように出かけよう」
2郎、3郎、4郎(同時に)「よし、決まった」
1郎「永田ハイツに行ったら、4郎と俺とで誰か住んでいる人間を探している振りをして2階まで上がってみる。『このアパートじゃないな』とか呟いて、一旦敷地の外に出る」
2郎、3郎、4郎、5郎(同時に)「分かった」
1郎「ハイツの前を行ったり来たりするために地図でも持ってった方がいいかな」
3郎「家に本になっている道路地図がある」
1郎「それを広げながら、歩けばいい。もう一組はスケッチブックでも広げながら歩くか。ボールペンを握っていて、何か書く振りをしながら」
5郎「分かった」
1郎「誰かスケッチブック持っていないだろうか」
2郎「山田がいつも持っている。絵を描くのが好きだから」
1郎「借りられるか?」
2郎「と思う」
1郎「じゃあ、借りてきてくれ」

 神社。  
1郎「4郎のスマホの地図で見たとき、吉田ハイツの敷地よりもずっと狭かったけど、教室よりも狭い敷地だな」
4郎「自転車を停めておける」
2郎「この町に来るのは初めてだ」
4郎「俺も初めて」
3郎「俺も」
5郎「俺も」
1郎「お賽銭を投げて、うまくいくように祈ろう」
4郎「俺、今日の小遣い、ジュース飲んで、使っちまった」
2郎「俺もジュースに使ってしまった」
3郎「俺も」
5郎「俺は今日は小遣いなし」
1郎「大丈夫、ジュースのカネ以外に5円、用意してきた」
4郎「食事の買い物に使うカネを小遣いに使ったら、父さんに怒られるんだろ?」
1郎「大丈夫。怒られたって、殴られたりしない」
3郎「スーパーに行くたびに家計簿のノートにレシートを貼っておいて、月末に財布の残金と合っているかどうかチェックされるって言ってたな」
1郎「差し引き合計したときの1円単位のおカネは面倒臭いらしく、チェックしない。5円玉、10円玉、100円玉の1枚や2枚、なくしやすいから、足りないのがときたまなら、『なくしてしまったのか』程度で済む。500円玉となると、1枚足りなくても、『お前、自分の小遣いにしたな』と怒られる。今回は5円だから、問題はない」
4郎「じゃあ、1郎にお賽銭、投げてもらうか」
1郎「代表して、5郎に投げて貰おう。5郎にいい結果が出なければ、何にもならないから」
4郎「じゃあ、5郎、投げろよ」
5郎「俺がお賽銭投げて、うまくいくかどうか」
1郎「自信を持て」
5郎「じゃあ、俺にやらせて貰う。何てお願いしたらいいのかだろう」
1郎「願い事は口にしない方がいいって言うけど、構わない。俺が最初に願い事を言うから、自分に願い事がなければ、俺に続けてもいい」
4郎「じゃあ、みんなそうしよう」
 一斉に柏手を3回ずつ打つ。
1郎「5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように」
2郎, 3郎、4郎、5郎(同時に)「5郎ち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように」
 全員して再び柏手を3度打つ。
1郎「自転車をこのまま置いて、永田ハイツまで行って、怪しまれないように張り込もう」
2郎「張り込みなんて、初めてだ。緊張する」
3郎「俺も初めてだ」
4郎「俺も初めてだ」
1郎「5郎も初めてだろ?」
5郎「うん」
1郎「緊張しているな。5郎んち父さんが取られる心配はない女に見えるか、取られてしまいそうな女に見えるかで、腹の決めどころが違ってくるからな」
3郎「5郎んち父さん、そんなに女にモテるふうには見えない」
4郎「俺は5郎んち母さんしか知らないけど、5郎は父さんの子でもあるんだろ?」
5郎「だと思う」
4郎「5郎は父さんの子でもあるんだ。5郎の父さんはたいしてモテやしない。安心しろ」
5郎「たいしてモテないと思う」
1郎「あの、長い生け垣があるところだな」
4郎(スマホを見ながら)「そのようだ」
1郎「建物の横に吉田ハイツと書いてある。ここだ」
2郎「なかなか立派なアパートだ。こんなアパートに住んだことはない」
3郎「俺もだ」
1郎「ちょっと待て。ウインカーを出している車が後ろから来た。道の反対側に移動して、3郎、地図を広げろ。広げた地図をみんなで覗き込んで、俺が覗き込んでいる振りをしながら、様子を窺ってみる」
4郎(3郎が広げた地図を横から覗きながら)「確かこのアパートのはずだな?」
3郎「もう一つ先の通りかもしれない」 
2郎「そうだな。もう一つ先の通りかも」
1郎「赤の軽ノッポ。運転手はよく見えない。性別不明。色から言ったら、女の可能性大。スピードを緩めた。若い女だ。中に入っていった。顔を上げるな。バックミラーで見られているかもしれない」
3郎「いい調子だ、実況中継」
1郎「助手席に女の子が乗っている。幼稚園か保育園の制服を着ている」
2郎「顔を上げてよかったら、合図して欲しい」
1郎「運転席をこっちに向けて車をバックさせ、駐車させている。結構美人だ。4郎、目指す女かどうか分からないけど、車から降りるところをいつものように腰のところから動画撮影できるだろ?」
4郎「任せてくれ」
1郎「ドアを開けながら、こっちを見た。車から降りた。真正面からのショットをうまく撮ってくれよ。車の前を回って、助手席から降りた女の子と手を繋いで、向こう向きに歩き出した。今のうちなら、顔を上げても大丈夫だ」
4郎「後ろ姿を見ただけでも、5郎んち母さんよりもずっと若く見える。スタイルも全然いい。5郎んち母さんからはぴっちりした白のジーンズは想像できない」
2郎「若いときは穿けたかもしれないが、うちの母さんと一緒で、太ももの途中で引っかかってしまうはずだ」
3郎「後ろ姿だけで美人に見える」
1郎「相手の女だとまだ決まったわけではない。2階に向かう玄関の方に歩いていく」
4郎「自動ドアだ。3郎のおじさんが言っていたとおりだ」
2郎「2階に住んでいるんだ」
1郎「2階の廊下は建物の向こう側だ。どの部屋に入っていくか見えない」
3郎「建物の向こう側に回ってみよう」
1郎「いや、2階の左側から2番目の部屋のベランダに洗濯物が干してある。部屋の女なら、すぐに取り込む」
4郎「1郎んちは洗濯をするのも、干すのも、取り込むのも1郎がやるんだったな」
1郎「ああ・・・。カーテンが開いた」
2郎「女の影が映った」
1郎「地図に目を落とせ。俺が様子を窺う。4郎、動画を撮れ」
4郎 (スマホのディスプレイを見ながら)「同じ女だ」
1郎「ああ、同じ女だ。あの若い女が5郎んち父さんの女だ。決まりだな。引き上げよう。分かれば、もう用はない」
4郎「決まりだな」
3郎「5郎んち父さんとあの女の組合せがピンとこない。5郎、どう思う?」
5郎「何が何だか、訳が分からない」
1郎「5郎は何も知りたくないかもしれない。俺も父さんと母さんが別れるときはずっと目を閉じていたい気持ちだった。受け入れることができることだけ、受け入れていった」
4郎「5郎、元気を出せ」
5郎「うん」
3郎「俺たちがついている」
2郎「俺もついている」
1郎(4郎にだけ聞こえるように声を小さくして)「さっき撮った動画、うまく撮れているか」
4郎「うん、このとおり撮れている」
1郎「5郎んち母さんはこんなシャレた格好をするときがあるのか?」
4郎「ないと思うよ。若いときはあったかもしれないけど」
1郎「昔の話か」
4郎「1郎が神社で『5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように』って折角祈ったのに、効き目がなかったな。賽銭の5円が少な過ぎたのかな」
1郎「賽銭の額は関係ないと思うよ。千円、弾んだとしても、結果は同じだから」
4郎「今の時間だと、4時半に仕事を終えて、幼稚園か保育園に子どもを迎えに行って、帰ってきたといったところだな」
5郎「俺んち父さんの子かな?」
1郎「おお、びっくりした。急に声をかけてきたから。最近だろ、帰ってこなくなったの?」
5郎「1ヶ月程前から」
1郎「5郎んち父さんの子じゃないと思うよ。顔も似ていないし」
5郎「俺んち父さんの子じゃない」
2郎「よかったな。知らぬ間に妹ができていなくて」
5郎「うん、よかった」
3郎「テレビドラマでは知らない兄さんがいた、弟がいた、姉さんや妹がいたって話はよくある」
1郎「保健の田口先生ぐらいの年齢に見えたから、まだ30前じゃないのか」
4郎「同じくらいかもしれない」
3郎「同じくらいだ」
2郎「田口先生もオシャレだ」
1郎「5郎んち母さんはいくつなんだ」
5郎「確か38歳とか言っていたのを聞いたことがある」
1郎「年齢では明らかに勝ち目はないな」
4郎「勝ち目はない」
5郎「30過ぎてから産んだ子かもしれない」
1郎「ない、ない。30前に見えるんだから23、4の頃の子じゃないか。片や5郎んち母さんの方は中年太りが大分進んでいる」
5郎「2郎んち母さんも、3郎んち母さんも、4郎んち母さんも、中年太りが進んでいるじゃないか」
4郎「俺んち母さんはそんなに進んでいない」
1郎「誰かと勝負しなければならないわけではないから、立場が違う」
4郎「俺んち母さんもたいして中年太りしていないけど、若い誰かと勝負しなければならなくなったら、慌てるかも」
5郎「母さん、少しは痩せればいいのに」
1郎「残酷なことを言うようだが、勝負の真っ最中だとすると、年齢だけではなく、スタイルもオシャレなところも、顔の点でも勝ち目はないな」
3郎「5郎んち父さんは5郎んち母さんとどうしても別れたければ、5郎を引き取らなければならない」
1郎「5郎を引き取ったら、8号室の女は子ども2人の世話をしなければならないから、女の方が5郎を引き取るのは厭だと言っていて、5郎んち父さんは女の言うとおりに5郎は引き取ることができないと言っているのかもしれない」
5郎「どこかへ行ってしまいたい」
4郎「どこか行く当てがあるのか?」
5郎(弱々しく首を振って)「いや」
1郎「5郎んち母さんは『相手はどんな女のよ』って最初に聞いたのかもしれない。それで幼い女の子が一人いると分かって、二人は面倒見れやしないだろうと考えて、5郎を引き取ってくれるなら、別れてもいいと言い出したのかもしれない」
4郎「じゃあ、5郎んち母さんが5郎に『あんたは私の子じゃないからね』って言ったのは?」
1郎「そりゃあ、やっぱり・・・・、(少し考えてから)もしもだよ、8号室の女が5郎んち父さんとどうしても一緒になりたくて、一緒になるには5郎を引き取って、面倒をみるしかないと覚悟したとしたら?」
3郎「5郎んち父さんは5郎んち母さんと別れることができる」
1郎「5郎んち母さんが自分と5郎んち父さんを別れさせないために言い出したことで、それが失敗した場合は?」
4郎「5郎を手放すことになる」
1郎「5郎を手放すのがもし本心でないとしたら?」
2郎「5郎んち母さんは別れたくなかった5郎んち父さんと別れる上に5郎まで手放すことになる」
1郎「5郎んち母さんはあとになって、『やっぱり5郎は私が引き取る』とは意地でも言えないから、計画が失敗して、5郎まで手放すことになった場合に備えて、『5郎は私の子じゃない』って自分に言い聞かせていたのかもしれない」
4郎「自分にだけ言い聞かせればいいことで、5郎に『あんたは私の子じゃない』なんて言う必要はないと思う」
1郎「5郎にも覚悟させなければならないと思ったんじゃないのか」
2郎「悪いのは5郎んち父さんとあの女だっていうのに」
4郎「少しぐらいスタイルがいいのと年が若いのと顔がきれいなのを鼻にかけて、5郎んち父さんを騙したんだ。5郎んち父さんは何も悪くない。悪いのはあの女だけだ」
1郎「トバッチリが5郎のところまで来てるんだから、あの女だけの問題にすることはできない」
4郎「そうか。そうだな。5郎んち父さんも悪い」
1郎「あの女に引き取られることになっても、どこをどう見ても、5郎は5郎んち母さんの子だから」
3郎「そうだよ。5郎んち母さんの子であることに変わりはない」
5郎「うん」
1郎「最初は慣れるのが大変だろけど、あの女が5郎んち母さんの代わりをするだけなんだ」
2郎「隣のクラスの野田、知ってるだろ?」
5郎「知ってる」
2郎「野田んち父さんは最初の野田んち母さんと別れて、新しい母さんと一緒になった。最初は嫌がっていたけど、今では『お母さん、お母さん』と呼んで、一緒に遊びに行ったりしている」
1郎「前の母さんもときどき野田に会いに来て、車でどこかに遊びに連れてって貰ってるって言ってたな」
2郎「言ってた、言ってた」
1郎「二人も母んがいて、二人の母さんに遊んで貰えるなんて、贅沢だな」
3郎「俺んち父さんも母さんと別れても、誰かと再婚してくれると、母さんが二人できて、別々のところへと遊びに連れてって貰えるかもしれない」
4郎「3郎、そんなこと父さんや母さんの前で言うなよ。『二人を別れさせるつもりか』って、殴られてしまうかもしれない」
1郎「3郎んち父さんも、5郎んち父さんみたいにほかに女がいたら、『喜んで別れてやる』なんて言い出すかもしれない。やっぱり言わない方がいいな」
3郎「俺んち父さんはそんな父さんじゃない。一日も帰ってこない日なんてない」
1郎「5郎、心配するな。例え引き取られても、新しい母さんにそのうち慣れて、新しい母さんと一緒に遊びに行ったり、前の母さんとも、どこか遊びに連れて行って貰ったりするようになるかもしれない」
5郎「うん・・・・・」
1郎「元気を出せ。自分が元気を出さなければ、誰が元気を出すんだ?」
2郎「俺が代わって元気を出してやる」
3郎「代わって、どうする」
 (ほかの4人は遠慮なく笑うが、5郎は元気なく笑う。)
4郎「5年生になって、スマホを持ち始めた頃、撮りためていた写真を間違えて消してしまって、物凄く落ち込んだ」
3郎「無料の復元アプリがあることを教えて貰って、全部復元できたときはたちまち元気を回復することができたって話だろ?何度も聞いている」
4郎「この話、5郎には初めてだよな」
5郎「もう何度も聞いている」
4郎(大袈裟にびっくりする。)「え、え、え、えー・・・・」
1郎「5郎を笑わせようとしたな」
4郎「いや。初めてする話だと思った」
1郎(笑いながら)「ウソつけ」
 (1郎、2郎、3郎、4郎、笑う。5郎は先程よりも元気を出して笑う。)
1郎「5郎は母さんの方に引き取られたいんだろ?」
5郎「うん」
1郎「5郎んち母さんの方に勝ち目がなくて、5郎んち母さんと5郎んち父さんが別れて、どちらの子になったとしても、それで5郎の人生が終わるわけじゃないんだから」
5郎「うん。分かってる」
1郎「まだまだ続くんだ。中学、高校へ行くなら、中学、高校へと続く」
4郎「大学へ行くんだろ?」
5郎「分からない。考えたこともない」
1郎「大学へ行けば、大学と続くんだ。行かなくても、いつかは社会に出て、5郎の人生は続いていく。ここで元気をなくしていてどうする?元気を出していこう」
 (1郎、拳を握った腕を突き上げる。)
2郎、3郎、4郎(同時に腕を突き上げて)「元気を出していこう」
5郎「うん、元気を出していく」

     (3)

 (次の週の月曜日の朝の教室)
5郎「日曜日にあの女が訪ねてきた」
1郎「何だって?いよいよ正体を現したか?宣戦布告か?」
5郎「宣戦布告というわけではないけど」
1郎「仲直りに来たわけじゃないだろ?」
5郎「『このとおり新しい子が生まれるから、5郎君を引き取ることはできません。幼稚園に通ってる子も抱えているんです』って言った」
1郎「新しい子だって?」
5郎「大きくなっているお腹を両手で重そうに抱えていた。重過ぎて、息が切れるようだった」
1郎「おとついの土曜日に見たときはお腹は大きくなかったじゃないか」
5郎「えっ?えー?。そうだったけか」
1郎「4郎、動画見せてやれ」
4郎「ほら、見てみろ。どこをどう見たって、お腹なんか大きくない」
5郎「ホントだ」
4郎「白い、細いズボンを穿いていて、スラーっとしている」
1郎「5郎を引き取りたくないから、急いでお腹の中に子どもがいることにしたんだ」 
3郎「いつだったか、テレビのお笑い番組でやってた。男に騙された女が服の下にぬいぐるみを入れて、お腹を大きくして、その男が新しく掴まえた女と一緒にいるところに行って、『お腹の子はこの男の子よ。もうすぐ産まれるんだから、堕ろすことはできない。この男の形見に産んで育てる』」
2郎「見た見た。騙した男が新しく掴まえた女は社長令嬢で、その女は男に『結婚前に女の一人や二人作ったってどうでもいいことだけど、よその女が産んだ子どもは財産争いの元になるから、どうにかして』と言い、男は台所から包丁を持ってきて、『お腹の子だけ消すわけにはいかないから、お前も一緒に消えて貰うことにする』」
4郎「社長令嬢は両手を広げて、逃げる女の行く手を遮ろうとするが、女は殺されたらたまらないって、ソファの上だろうと、テーブルの上だろうとヒョイヒョイと飛び乗って、ところ構わずに逃げ回った」
3郎「男が『お腹にもうすぐ産まれる子がいるのに身軽に動き回り過ぎないか?』」
2郎「『私が身軽なのはお腹の子がぬいぐるみだからなんだけど、あんたが身軽に私から逃げていくことができたのは真心が風船より軽かったからよ』」
4郎「『うるせえ。風船より軽かったから、カネのある方向へと風に流されていくことができたんだ。子どもがぬいぐるみなら、お前まで消えて貰う理由がなくなった。帰れ、帰れ』」
2郎「『あんたに私を消す理由がなくても、タダで引き下がるわけにはいかないのよ』」
3郎「服の下から大きなタヌキのぬいぐるみを取り出して、『タヌキめっ』って投げつけた」
4郎「ぬいぐるみが男に当たると、破けて、中に入っていたたくさんの1万円札が舞い散った。男と社長令嬢はびっくりして、二人共、四つん這いになって床に散った1万円札を掻き集めにかかった」
2郎「女は『おもちゃの1万円札だからね』って言って、部屋を出ていった。男も社長令嬢も掻き集めるの忙しくて、女が言ったことが耳に入らず、狂ったように1万円札を掻き集め続けた。ゼ・エンド」
1郎「5郎は見なかったのか?」
5郎「見た」
1郎「だったら、話に入れよ」
5郎「ごめん。あんまりみんながテンポよく繋いでいったから、入りそこねた。1郎は見なかったの?」
1郎「見たけど、5郎がいつ話に潜り込むか気になって、そっちの方に気を取らていた」
 (1郎、2郎、3郎、4郎、笑う。5郎、照れ笑いする。)
1郎「ぬいぐるみを入れていたのか何を入れていたのか分からないけど、お腹を大きくした女は何を言いに来たんだ?」
5郎「『このとおり敏夫さんの・・・』、俺んち父さんの名前なんだ。『子どももできるし、前の夫との間にできた3歳の保育園児も抱えていて、5郎君を引き取って世話ができる程、手が回りませんから」
1郎「つまり女は5郎を引き取らないまま、離婚を承諾してくださいって言いに来たんだ」
4郎「宣戦布告じゃないか」
5郎「俺を引き取らずに俺んち父さんと一緒になるからっていうことは言わなかった」
4郎「言わなくたって、言ったのと同じなんだ」
1郎「5郎を引き取ることができないから、敏夫さんと一緒になるのは諦めますなんて言ったのか?」
5郎「言わなかった」
1郎「そんなことを言ったら、5郎んち父さんの子どもに見せかけて、腹を大きくした意味がなくなってしまう」
3郎(女の声色で)「『敏夫さんの子どもまでできたんだから、敏夫さんと一緒になるしかありません』(自分の声に戻って)っていうことなんだな」
1郎「5郎んち母さんはどう反応したんだ」
5郎「父さんに『あんたって人は。女に子どもまでつくって。勝手に作る方が悪いんだからね、私と別れるなら、やっぱり5郎は引き取って貰う。5郎は私の子じゃない、あんたの子だからね』」
4郎「父さんの返事は?」
5郎「『バカ言え、どこをどう見たってお前の子じゃないか。俺の子じゃないって言えるけど、お前の子ではないとは神様、仏様でも言えやしない』」
1郎「まあ、どう公平に見ても、5郎んち父さんの方が正しいことを言っているふうに見える。5郎はどう思う?」
5郎「父さんの方が正しいことを言っているふうには見えるけど」
1郎「お腹の子どもについては何も言わなかったのか?」
5郎「『できてしまったものはしょうがないじゃないか。できた以上、産んで、育てるには手がかかるんだ。5郎まで面倒は見れない。引き取ることなんか、できるはずはない』」
1郎「やっぱり5郎を引き取らずに女と一緒になるつもりでいる」
4郎「宣戦布告どころか、すでに戦争は勃発している」
1郎「で、5郎んち母さんは?」
5郎「『私も新しい男を見つけて、やり直すことにしたんだから、5郎の面倒は見れない。誰かさんみたいに女房、子どもがいながら、軽い気持ちで若い女を見つけて、子どもまで作ったように私も身軽になってほかの男の子どもが欲しくなったのよ』」
3郎「何だか無理して言っているように聞こえる」
1郎「5郎んち母さんが女と5郎んち父さんを一緒にさせないために5郎を引き取らせようといくら頑張っても、何だか勝ち目がないように見える」
5郎「なぜ?」
1郎「子どもができたんだからって、ウソまでついて、5郎を引き取らせようとするのを諦めさせようとしているんだから」
4郎「5郎がどっちに引き取られようと、5郎んち母さんと5郎んち父さんは別れることになるってわけだな」
5郎「4郎、スマホ貸してくれ。母さんに見せる。子どもができたなんて、すぐウソだって分かる」
1郎「ウソだと分かるだけのことで、引き取れ、引き取らないの話は続く」
2郎「5郎の運命や如何に」
1郎「大人が決めることで、5郎は答を出すことはできない」
4郎「1郎は経験しているからなあ」
3郎「経験者の言葉は重い」
1郎「5郎の気が済むんだったら、4郎のスマホを借りて、5郎んち母さんに見せればいい」
5郎「いや、やめておく」
4郎「元気を出せよ、5郎」
5郎「うん・・・・」
3郎「あんまり変わらないな」
1郎「5郎は待つしかない」
5郎「うん、そうする」
1郎「5郎、いいおまじない教えてやる。神社でした、『5郎んち父さんの女が5郎んち母さんよりも美人でなくて、歳も取っていますように』の願い事は全然通じなかったけど――」
4郎「お賽銭が5円だったことが悪かったわけじゃない」
1郎「さっき、俺、『5郎がどっちに引き取られても、5郎の人生が終わるわけじゃない』って言ったけど、5郎は自分では答を出すことはできないんだから、『母さんと父さんが別れて、俺の人生が変わることになったとしても、それで俺の人生が終わるわけじゃない』をおまじないにして、何か不安になったとき、自分に言い聞かせれば、何か効き目があるかもしれない」
5郎「ありがとう、そうする」
4郎「1郎はそんなおまじないをしてたのか?」
1郎「人から教えられたわけじゃないけど、いつ頃からか、父さんと母さんの仲が悪いことを忘れるためにおまじないにしていた」
2郎「忘れることができた?」
1郎「いや、忘れることはできなかったけど、何か自分に言い聞かせることがあると、少しは自分の支えになってくれる」
4郎「5郎、試しに一度おまじないしてみ」
5郎「ここではいい。ちゃんとおまじないにするから」
3郎「一度ここでやっておけば、二度目からは抵抗なくできるかもしれない」
5郎「母さんと父さんが別れて、俺の人生が変わることになったとしても、それで俺の人生が終わるわけじゃない」
4郎「よしよし。それでいい。俺も俺んち父さんと母さんが別れるような話になったら、自分のおまじないにしよう」
3郎「俺も俺んち父さんと母さんが別れるようなことを言い出したら、自分のおまじないにする」
2郎「俺は今この瞬間から、自分のおまじないにする。いつ父さんと母さんが別れるとか、別れないとかの話になってもいいように」
4郎「手回しがいいな」
2郎「喧嘩することが多いから、用心するに越したことはない」
1郎「別れる、別れないは全部大人が決めることで、俺たちは答を出すことはできない」

 1週間経過。
1郎「無理に聞くのは控えていたけど、1週間経つのに5郎、母さんのことも、父さんのことも、あの女のことも、何も話さなくなったな」
4郎「1郎の忠告どおりに例のおまじないを唱えて、どうなるか様子を見ているのかもしれない」
1郎「5郎と5郎んち母さんからしたら、5郎んち父さんが女と別れてくれるのが一番いいんだろうけど、そんなふうになるようには思えない。5郎は一つの試練を背負うことになって、それを乗り越えていかなければならない」
4郎「みんなで支えてやれば、乗り越えていける。な、3郎」
3郎「乗り越えていける。な、2郎」
2郎「大丈夫。みんなで支えよう」
4郎「5郎が来た。最近、いつもは始業時間ギリギリだけど、今日は少し早いな」
1郎「どうした、5郎。目を吊り上げて。」
5郎「に、に、に・・・・・」
1郎、2郎、3郎、4郎(同時に)「落ち着け」 
5郎「に、逃げた」
1郎「誰が?」
4郎「ニワトリでも逃げたのか」
3郎「ニワトリなんか飼っていないはずだ」
5郎「父さんが逃げた」
1郎「父さんが?逃げた?どういうことだ」
5郎「母さんが言ってた。『逃げた』って」
1郎「落ち着いて話してみろ」
5郎「何が起こるのか、怖くなって、みんなには黙っていたんだけど、いつものように金曜日に帰って来ないのではなく、火曜日から帰ってこなくなった。夜遅くに帰ってきて、次の日の朝、いるってこともなかった」
1郎「そんなこと、初めてのことか?」
5郎「母さん、初めてだって言ってた」
1郎「そのまま放っておいたのか?」
5郎「『どうせ帰ってくる。放っておけばいい』って怒ってた。『5郎には悪いけど、5郎を引き取れないんだったら、別れてやらないんだから』って」
4郎「それで、そのままにしておいたんだ?」
5郎「日曜日の昼ちょっと過ぎに父さんの会社の上司からうちに電話があった。母さんは、『ちょっと外出しています』と言ってから、『少し気分が良くなったから、リハビリを兼ねて散歩に出かけたところです』とか、『スマホを置き忘れてしまったもんですから』とか言っていた」
3郎「会社は日曜日は休みじゃないのか」
5郎「休みだけど、俺んち母さんにどんな電話だったか聞いてみた。体の調子が悪いから、二三日休ませて貰うからって火曜日の朝、会社に連絡が入ってからずうっと休んでいるけど、今週の水曜日の商談を月曜日に繰り上げてくれないかってお客さんの方から急に電話が入ったから、いいですよって答えておいたけど、月曜日には出てこれそうか、帰ってきたら聞いて、私のところに電話を入れて欲しいって頼まれたんだって」
1郎「5郎、一気に喋ったな。お家の一大事感がモロに伝わってくる」
5郎「いや、いや、いや・・・」
1郎「まあ、落ち着けよ。それで5郎んち母さんが『逃げた』って言ったのは、そのまま家に帰ってこないのを予感したからだろうか?」
4郎「どういうことなんだ?」
1郎「5郎んち母さんびっくりしたろ?家に帰ってこないだけではなく、会社も休んでいたんだから。そのことを会社の上司に話したのか?」
5郎「話さなかった。『家に戻り次第、電話するように言っておきます』と言って、電話を切った」
1郎「相手が5郎んち父さんの会社の上司だから、どうにか落ち着いていれたけど、5郎に当たり散らさなかったか?」
5郎「当たり散らすことはなかったけど、ピリピリしていて、怖かった。『会社を休んで、どこへ行ってるのよ。あの女のところに決まってる』」
1郎「5郎はあの女が住んでいるハイツを言ってしまったんだ?」
5郎「母さんの顔から目を逸らすことができなかった」
1郎「住んでいるところを知っているから、普通に母さんの顔を見ることができなかった」
5郎「『あんた、知ってるの?あの女の住んでるところ。知ってるんだね』って。知らないって言いたかったけど、言えなかった」
4郎「それで教えた」
5郎「タクシー呼んで、母さんと一緒にあの女が住んでいるハイツに行った」
1郎「もぬけの殻だったんだ」
5郎「8号室のベランダ側の窓に『空室』と書いた大きな紙が貼ってあった」
1郎「大家を探し出して、どこへ引っ越したのか聞いたのか」
5郎「聞かなかった。『ああ、やっぱり逃げたんだ』って言って、タクシーで帰ってきた。タクシーに乗っている間、何も口を利かなかった」
1郎「5郎がシングルマザーの子の仲間入りする瞬間なんだ。覚えておいた方がいい。5郎一人だけがシングルマザーの子というわけではない」
4郎「武雄んちもシングルマザーだし、花子んちもシングルマザーだし」
2郎「結菜んちもシングルマザーだし、さくらんちもシングルマザーだ」
1郎「教頭の福知山桃子先生もシングル・マザーで、男の子二人、育てたっていう」
4郎「体育の杉浦と付き合っているっていうピアノが弾ける山中詩穂先生もシングル・マザーらしい」
3郎「悠斗んちはシングルファザーで、大樹んちもシングルファザーだし」
1郎「俺んちもシングルファザーだ。ほかにも探せば、シングルマザーだって、シングルファザーだってたくさんいるはずだ。一人親は5郎一人というわけじゃない。シングル・マザーの子になったとしても、5郎の人生が終わるわけじゃない。元気を出せ」
5郎「うん」
4郎「昨日はよく眠れなかったろ?」
5郎「眠れなかった。母さん、すっかり気が抜けたみたいになってしまって、夕ご飯の支度に取り掛かったのが夜10時を過ぎた頃で、食べ始めたのが11時近くだった。朝になって、今日は仕事する元気が出ないって言って、パート先に電話して、休んだ」
3郎「よく休むのか」
5郎「今まで全然休んだことはなかったと思う。今まで全然休まなかった」
2郎「5郎んち母さん、どこから見ても元気そうだったからな」
1郎「大丈夫だよ。5郎んち母さんもそのうち元気が出てきて、ほかに父さんになる男を見つけて、その男の子どもを生むなんてこともあるかもしれない」
4郎「そしたら、5郎、父さんが二人もできる。羨ましいな」
3郎「前の父さんとも仲直りして、遊びに連れて行って貰うところが2倍に増えるかもしれない」
2郎「お小遣いも一人よりも二人の方が多く貰える。いいな」
1郎「もし新しく子供ができたとしても、新しい弟か妹をちゃんと迎えてやれよ」
5郎「うん、そうする」
1郎「俺んち父さんも新しい母さんを見つけて、弟か妹をつくってくれればいいんだけどな。そしたら、酒の量が少しは減るかもしれないのに」(終)
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安倍政権のコロナ感染抑止効果は緊急事態宣言を受けた外出・移動自粛のみ 自粛緩和下の感染再拡大がその証明 緩和下の対策に無策

2020-08-03 10:52:46 | 政治
 安倍晋三は2020年4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言を発出、4月16日に対象地域を全国に拡大、当初の7都府県に北海道、茨城、石川、岐阜、愛知、京都の6道府県を加えた13の都道府県を「特定警戒都道府県」と位置づけた。
 そして5月14日に北海道・東京・埼玉・千葉・神奈川・大阪・京都・兵庫の8都道府県を除く39県で緊急事態宣言を解除決定。5月21日に大阪・京都・兵庫の3府県について緊急事態宣言解除決定。緊急事態宣言は東京・神奈川・埼玉・千葉・北海道の5都道県で継続。

 5月25日に首都圏1都3県と北海道の緊急事態宣言を解除。約1か月半ぶりに全国で解除。(以上「NHK NEWS WEB」記事から)

 緊急事態宣言では繁華街の接待を伴う飲食店等への外出自粛要請や、不要不急の帰省や旅行などの他都府県への移動自粛要請などの緊急事態措置を行っている。いわゆる外出・移動の自粛である。イベント開催自粛も、外出・移動自粛の一形態である。特定空間での3密(密閉、 密集、 密接)回避にしても、外出・移動自粛の結果、生み出される形態ということになる。

 そのほかに安倍政権はコロナ感染抑止対策としてマスクの着用、手洗いの励行を要請した。

 政府新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は2020年5月29日、「緊急事態宣言の効果」を総括している。

 〈報告日ベースでは新規感染者数のピークは4月10日頃。推定感染時刻ベースでは感染時期のピークは4月1日頃。〉

 ウイルス感染から発症までの潜伏期間の平均を10日前後に置いていることになる。

 〈緊急事態宣言前(3月末)から、市民の行動変容等により、新規感染者は減少傾向〉にあり、〈緊急事態宣言後は、実効再生産数(1人の感染者が次に平均で何人にうつすかを示す指標)が再反転せず、宣言期間中を通じて1を下回り、低位で維持。〉云々と総括、4月7日からの安倍政権の緊急事態宣言の効果を一定程度認めている。

 だが、2020年5月25日の緊急事態宣言全面解除後の6月半ばから、新規感染者数は増減を見せながら次第に増加傾向を辿っていき、6月15日新規感染者が73名だったものが7月30日1148名、7月31日、1323名、8月1日1539名と最多を記録している。当初は夜の接待を伴う飲食の場での感染者が多く出て、マスクをしていない3密下の感染のように見られていたが、緊急事態宣言下と同じくマスクや手洗いをしているはずの状況下での感染である市中感染がなくなったわけではなく、ここに来て増加傾向にあることを見ると、マスク装着の有無が感染を分けているわけではなく、マスクや手洗いに於ける感染抑止の効果さえ、疑わしくなり、緊急事態宣言に基づいた外出・移動の自粛が唯一の見るべき感染抑止対策に見えてくる。

 事実、マスクがコロナ感染防止に完全ではないことを次の記事は伝えている。

 「新型コロナウイルスとマスクの効果について」(厚労省)

新型コロナウイルス関連肺炎(新型肺炎)の感染拡大に伴い、予防対策としてマスクの有効性についての質問が増えています。

厚生労働省新型インフルエンザ専門家会議は、
「症状のある人が、咳・くしゃみによる飛沫の飛散を防ぐために不織布(ふ しょくふ)製マスクを積極的に着用することが推奨される(咳エチケット)」としており、 不織布製マスクについて、

(1)咳・くしゃみなどの症状のある人が使用する場合 咳・くしゃみなどの症状のある人は、周囲の人に感染を拡大する可能性があるため、可能な限り外出すべきではない。また、やむを得ず外出する際には、 咳・くしゃみによる飛沫の飛散を防ぐために不織布製マスクを積極的に着用することが推奨される。これは咳エチケットの一部である。

(2)健康な人が不織布製マスクを使用する場合 マスクを着用することにより、机、ドアノブ、スイッチなどに付着したウイルスが手を介して口や鼻に直接触れることを防ぐことから、ある程度は接触感染を減らすことが期待される。 また、環境中のウイルスを含んだ飛沫は不織布製マスクのフィルターにある程度は捕捉される。しかしながら、感染していない健康な人が、不織布製マスクを着用することで飛沫を完全に吸い込まないようにすることは出来ない。
としています。

 要するに2008年11月20日開催の厚生労働省新型インフルエンザ専門家会議のマスクの有効性に関わる見解をそのままにコロナウイするに於ける有効性に転用している。

 〈咳・くしゃみによる飛沫の飛散を防ぐために不織布製マスクを積極的に着用することが推奨される。〉が、〈感染していない健康な人が、不織布製マスクを着用することで飛沫を完全に吸い込まないようにすることは出来ない。〉
 「不織布」とは、「繊維を織らずに絡み合わせたシート状に布」とネットで紹介されている。推奨はするものの、コロナウイルス感染防止に100%役立つとは限りないと断っている。全国全ての各家庭に2枚ずつ配布したアベノマスクは不織布製マスクではなく、推奨外の布マスクである。安倍晋三は不織布製マスクが完全ではないにも関わらず、より完全ではない布マスクを各家庭に配って、自慢気な態度を取った。

 安倍晋三は2020年4月28日の衆議院予算委員会で、「今般配布される布マスクの定着が進むことで全体として現在のマスク需要の拡大状況を凌げるのではないかという話もあったところでございます」と発言している。要するにアベノマスク配布の自慢の矛先は感染防止に対してではなく、需給調整にあった。

 2020年5月6日に安倍晋三がニコニコ生放送「安倍首相に質問!みんなが聞きたい新型コロナ対応に答える生放送」に出演、「こういうものを出すと、今まで溜められていた在庫もずいぶん出てまいりました。価格も下がってきたという成果もありますので、そういう成果はあったのかなあと思います」と発言したのも、当然のこととして頷くことができる。

 緊急事態宣言下の外出・移動の自粛による人と人との接触の極端な減少がマスクの感染防止の不完全性な効能を隠して、効果があるように見せかけた側面もあったはずである。でなければ、マスクを外す必要が迫られるカラオケボックスや居酒屋、ナイトクラブ等の感染はともかく、3密回避しなくても、マスクと手洗いを励行していさえすれば、市中感染は速度は遅くても、減少傾向を辿っていいはずである。だが、ここに来て、マスクをしているはずの人達の間でも感染は増加傾向に転じている。

 「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」(新型コロナウイルス感染症対策本部決定/2020年5月25 日変更)は新型コロナウイルス感染症に対する感染管理として手洗いの消毒、人と人との距離の維持等のほかに室内の換気励行を求めている。3密(密閉・密集・密接)の回避である。

 緊急事態宣言解除後も室内の換気励行を実践していたはずだが、特に居酒屋やカラオケ、バー、クラブの感染が増加した原因は室内の換気励行を怠っていたからだろうか。このような飲食店がマスクを外した状態での「密集・密接」は避けがたいとしても、室内の換気励行を実践していたなら、厚労省は、〈一般的な家庭用エアコンは、室内の空気を循環させるだけで換気を行っていません。新型コロナウイルスを含む微粒子等を室外に排出するためには、冷房時でもこまめに換気を行い、部屋の空気を入れ替える必要があります。〉と換気の効能を謳っているのが、〈日本の新築住宅や新築ビルには、換気回数が決められているが、古い建物の場合は、冷暖房はあるのですが、換気に関しての規定はない。〉(「ヨコタ総建」ことからすると、バーやクラブは古いビルに多く開店していることを考えると、この種の店でのクラスターが多い事態は窓もなく、ビル自体が換気システムを備えていないための換気不可能が原因ということも考えられる。

 要するに室内の換気励行が不可能か、励行を怠っていたことになる。緊急事態宣言を受けた営業自粛という外出・移動の自粛が3密回避状態をつくっていてくれて、感染抑止に繋がっていたことになる。まさに安倍政権のコロナ感染抑止効果は緊急事態宣言に基づいた外出・移動自粛のみと言うことになる。

 ここに来ての感染急拡大で東京都知事小池百合子知事は来月3日から酒を提供する飲食店などに営業時間の短縮を要請する考えを示したことは時間限定・場所限定の外出・移動自粛にほかならない。つまり、外出・移動自粛以外に感染抑止の効果策は見出し得ていないことを示している。

 感染者が7月31日にが71人と5日連続で過去最多を更新し、8月1日が58人と増加傾向を辿っている沖縄県は県独自の緊急事態宣言を発出、8月1日から沖縄本島全域での不要不急の外出自粛、県を跨ぐ移動の自粛、県外からの訪問の慎重な判断、那覇市内の飲食店に対して午前5時から午後10時までのは営業時間の短縮、イベントの開催の中止か延期、規模の縮小の検討要請等を求めることにしたと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 これも時間限定・場所限定の外出・移動自粛の一変型に過ぎない。

 京都府も感染拡大を受けて、5つのルールを呼びかけることを決めている。

▽飲み会や宴会を行う際は2時間を上限とする
▽10人程度を超える大人数は避ける
▽深夜の実施は控える
▽ガイドラインを順守している店を利用する
▽店舗で感染が起きた場合に利用者に通知する連絡サービスのアプリを活用する(NHK NEWS WEB)

 この5ルールも時間限定・場所限定の外出・移動自粛の体裁を取っていて、これ以外に感染抑止策がないことを表している。

 ところが安倍政権は感染者がこれだけ増えていながら、緊急事態宣言の再発出を一貫して否定し続けている。

 2020年7月31日の官房長官閣議後記者会見。

 菅義偉「現在の感染状況は3月、4月の増加スピードよりもやや緩慢だが、一部地域では感染拡大のスピードが増して、憂慮すべき状況であり、重症者も徐々に増加していると分析されている。
 こうした状況を総合的に判断すると、現時点で緊急事態宣言を再び発出し、社会経済活動を全面的に縮小させる状況にあるとは考えていないが、分科会を開催して専門家の意見を伺い、引き続き、感染拡大防止と社会経済活動の両立に向けて取り組んでいく。

 (現在の状況が感染拡大の「第2波」に当たるかどうかについて)政府として、厳密な定義を置いているわけでない。いずれにせよ、感染拡大の次なる波に万全の対策を期していきたい」(NHK NEWS WEB)

 「感染拡大防止と社会経済活動の両立に向けて取り組んでいく」――結構なことだが、政府及び自治体の「感染拡大防止」が外出・移動自粛以外に何の役にも立っていないにも関わらず、外出・移動自粛を主たる柱とする緊急事態宣言の再発出はしないと平気で矛盾したことを言っている。社会経済活動を維持したい一心からだろうが、時間限定・場所限定の外出・移動自粛であっても、社会経済活動の阻害要因となることは目に見えているのだから、外出・移動自粛以外の感染拡大防止を提示しなければならないはずだが、「感染拡大防止」を言うだけで、何ら策を施そうとしていない。

 この点、安倍晋三も何ら変わりはない。「第13回経済財政諮問会議」(首相官邸/2020年7月31日)
  
 安倍晋三「本日は、中長期の経済財政試算について、議論を行いました。今般の感染症拡大により経済活動や国民生活への影響が甚大かつ広範に及ぶ中で、まずは政府として、感染拡大の防止を徹底しながら、雇用の維持と事業の継続、また国民生活の下支えに力を尽くすとともに、経済の活性化を推進してまいります。

 その上で、我が国が目指す将来の姿として、誰もが実感できる質の高い成長と、そして持続可能な財政を実現してまいります。今回試算で示された、我が国の中長期の経済財政状況は、厳しいものではありますが、引き続き、経済再生なくして財政健全化なしの基本方針の下で、経済・財政一体改革の着実な推進に努めてまいりたいと思います」

 「感染拡大の防止」が全くできていないにも関わらず、「感染拡大の防止を徹底しながら」社会経済活動を維持すると、「感染拡大の防止」ができているかのように言う。この図々しさを隠すために格差社会を作っておきながら、「誰もが実感できる質の高い成長と、そして持続可能な財政を実現してまいります」などと綺麗事を言って、なお図々しさを発揮している。

 ビル換気システムや窓がなくても、厚労省が求めている、〈一般的な家庭用エアコンは、室内の空気を循環させるだけで換気を行っていません。新型コロナウイルスを含む微粒子等を室外に排出するためには、冷房時でもこまめに換気を行い、部屋の空気を入れ替える必要〉を別の形で満たす方法はある。但し効果があるかどうかは科学的実証を要する。

 シーリングファン(天井に取り付ける扇風機)をカウンターなら、客の頭上に客が座ることができる人数分取り付ける。ボックス席なら、ボックス中央の天井に大きめの羽のシーリングファンをボックス席の数だけ取り付ける。最近のシーリングファンは静音技術が発達していて、ゆったりと羽を動かせば、音をうるさく感じることはないと言う。要するにシーリングファンで真下向きの風をつくって、衣服に付着したウイルスを床に落とす。当然、衣服等に付着していたウイルスは床に集まり、靴で踏みつけ、靴と共に移動することになる。

 だが、靴対策は不要だとする記事がある。

 「新型コロナウイルス感染症に対する感染管理」(改訂 2020年6月2日国立感染症研究所 国立国際医療研究センター 国際感染症センター) 

🔴医療機関におけるCOVID-19 の疑いがある人やCOVID-19 患者の診療時の感染予防策
※床、靴底からウイルスPCR陽性であったとの報告があるが、以下の理由からさらなる感染対策の拡大は不要である。
・遺伝子の検出はされたが、これが院内感染の要因となったとの報告は見られない。
・通常の清掃以上の床や靴底の消毒については安全な方法がはっきりしておらず、作業を増やすことで手指衛生などの通常の感染予防策が不十分になる、周囲環境を飛沫などで汚染させるリスクがある。

 一方で床のウイルスの危険性を伝える記事も存在する。

 「災害時の避難所 床付近でも感染リスク 新型コロナ」 (NHK NEWS WEB/2020年5月13日 12時26分)

 特殊な装置を使い、人のくしゃみと同じ量の飛まつを発生させ、高感度カメラで撮影すると、1.5メートルほど先の床の付近に集中して落下することが分かった。その上を人が歩くと、ホコリなどに付着した飛沫が床の上に舞い上がる様子が見られた、近くでくしゃみや咳をして空気が動くだけでも、ホコリは床から20センチほどの高さまで舞い上がった等々、伝えている。 
  
 当然、靴を履いていれば、靴と共に移動することになる。穿いていなければ、靴下か足の裏についての移動となる。

 次の記事も床のウイルスの危険性を伝えている。「ウイルスが靴底付着、拡散 微粒子は4メートル飛散も―中国武漢の臨時病院で調査」(時事ドットコム/2020年04月19日18時58分)
  
 軍事医学科学院の研究チームによる調査で、集中治療室(ICU)に出入りする医師や看護師らの靴底にウイルスが付着し、薬剤部などに拡散していたほか、ウイルスを含む微粒子が約4メートル飛散した可能性が判明した。

 〈集中治療室の方が一般病棟より汚染され、パソコンのマウスやごみ箱、ベッドの手すり、ドアノブにウイルスがよく付着しているのは予想通りだったが、エアコンの空気吹き出し口や床から検出される割合も高かった。ウイルスを含む微粒子が患者のせきなどで飛沫(ひまつ)として放出された後、空気の流れに運ばれたとみられる。患者の周囲で採取した空気サンプルからもウイルスが検出され、集中治療室ではベッドに寝ている患者の上半身から約4メートル離れた位置で採取したサンプルから検出された。〉

 〈研究チームは、医師や看護師らが患者のいるエリアから出る際は靴底を消毒し、患者のマスクも捨てる前に消毒するよう勧告している。〉

 両記事共に国立感染症研究所の床、靴底に対するウイルス対策は不要とする主張とは大違いの内容となっている。

 シーリングファンによって床に落ちた場合のウイルスは靴に付着して人と共に移動することを防ぐために食品工場への出入りの際に細菌を工場内に持ち込ませないために入り口に長靴の底を洗うための水深のごく浅い消毒槽が備えてあるように店の出入り口にアルコール書毒液を含ませたスポンジを入れた900×700×150程度の長方形の容器を置き、出入りのたびに靴やハイヒール等の底を消毒させてから出入りさせる仕掛けにしておけば、ウイルスの移動を可能な限り押さえることができる。

 シーリングファンに加えて、アルコールをミストにして噴射する噴射ノズルを配置した配管を客ごとの頭上に設置して、タイマーで一定時間ごとに噴射すれば、シーリングファンの風で衣服から落ちないウイルスの殺菌に効果はないだろうか。科学的実証が必要だが、水滴を霧状にしたミスト噴射は濡れた感覚がしないし、ゴムホースや塩ビ管で噴射ノズルを繋げて、天井に吊るし、配管の先にアルコールを貯めておくことができる水槽を取り付けておけば稼働できるから、費用も左程かからない。但しタイマーの取り付けとなると、専門家の手間が必要になるかもしれない。

 ミスト噴射等を使って店内の床を常時湿り気を持たせておけば、人の移動と共にウイルスが舞い上がることもない。再三断っているが、科学的実証を経なければならないが、経た上で効果があるということなら、どのような外出・移動の自粛に頼ることなく、社会経済活動を維持した状態で感染抑止が可能となる。

 効果がなければ、「感染拡大の防止」ができない状況下で、「雇用の維持と事業の継続、また国民生活の下支えに力を尽くすとともに、経済の活性化を推進」することなどできないのだから、「ワクチンの開発と確保」(2020年7月31日、官邸会見発言)に頼る以外に打つ手がないいうことなら、あまりに無策過ぎる。

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