安倍晋三の部分的成功を全体的成功の如くに大風呂敷を広げた9月29日第187臨時国会所信表明

2014-09-30 10:40:39 | Weblog


 安倍晋三が9月29日午後2時から衆議院本会議で所信表明演説を行った。

 記事が他の野党代表と共に小沢一郎生活の党代表の評価を伝えていた。
 
 小沢代表「安倍総理大臣の演説は言葉は踊っているが、地方の活性化を図るために、具体的に中央や地方の行政の制度をどのように変えるのかや、女性の活躍を進めるために、雇用環境をどう変えていくのかなどが全く見えない。言葉の羅列に終わっており、これでは何も進まない」(NHK NEWS WEB

 小沢代表の評価が当たっているかどうか見てみる。

 演説内容は【安倍首相所信表明演説全文】MSN産経/2014.9.29 15:30)に拠った。リンクはその(1)のみ。 

 冒頭、9月27日昼の御嶽山の噴火に触れて、被災死者に哀悼の意を表し、被災者に御見舞を述べている。次いで「平成26年8月豪雨」を受けた広島の大規模な土砂災害を初めとした全国各地の同様の災害で生じた死者に冥福の祈りを捧げているが、広島の土砂災害では同じ地域で死者が出ている過去の土砂災害やその地域の土質等を情報として把握していなければならなかったはずだから、当然死者が出ることを予想しなければならなかったにも関わらず、ゴルフをしていたのだから、哀悼の意やお見舞いの言葉、冥福を述べる資格はない。

 要するに言葉を踊らせたに過ぎない。

 次いで「福島の復興の加速化」を誓っている。

 「福島は、今、実りの秋を迎えています。先日訪れた広野町では、復興を成し遂げた水田に、黄金色の稲穂が輝いていました」

 「災者の皆さんの『心』の復興にも、大きく力を入れてまいります。仮設住宅への保健師の巡回訪問、子供たちが安心して遊べる居場所づくりなど、被災者の方々の心に寄り添いながら、きめ細かく、丁寧な取り組みを進めます。

 7月に宮城の東松島で出会った安部俊郎さんは、地域の人たちとともに、地域に根付いた農業を進めています。農地の集積、多角化、6次産業化。それによって、農業者の所得を増やし、地域のにぎわいを創出する。私たちが目指す『攻めの農業』の姿が、ここにあります。震災で壊滅的な被害を受けた大地から、最先端の農業が花開こうとしています。」

 “実り”が一方にあるのに対してもう一方で復興から取り残された被災者が多く存在する。《復興の状況と最近の取組み》(復興庁/2014年3月版)から見てみる。

 被災3県の避難者は2014年3月時点で未だ27万人も存在する。安倍晋三は「実りの秋」と言い、「地域に根付いた農業」に触れているが、「津波被災農地に於いて営農再開が可能となった面積の割合」は平成26年7月時点で63%、来年の平成27年5~6月時点で70%の見込み・予定となっていて、100%の見込み・予定は平成28年度末にズレ込む。

 しかも特に福島の農水産品に対する風評被害は未だ強く残っていて、国内ばかりか、海外に於いても40個所にも及ぶ国・地域が現在でも放射性物質の検査証明書の義務づけを行い、12カ国・地域が農水産品の一部輸入停止措置を実施していると「MSN産経」(2014.3.2 12:57)記事が伝えていた。

 放射能検査をして問題無いとした産品を国内市場・輸出市場に出していながら、政府は決定的な打開策を見い出すことができないでいる。安倍晋三は後の方で、「総理就任以来、49カ国を訪問し、延べ200回以上の首脳会談を行いました」と言い、それを以て「地球儀を俯瞰する外交」と例の如くに自慢しているが、安全・安心を納得させることができないのだから、何のための49カ国訪問、延べ200回以上の首脳会談なのか分からない。

 結局のところ、一部の成功を全体的な成功であるかのように言葉を踊らせたに過ぎない。

 次は「地方創生」についての言及である。日本の地方をこうまでも衰退させたのは自民党政治である。自民党の有力政治家が利益誘導で散々に地元に立派な橋や立派な道路、立派な施設を建て、それを日本の政治の文化・伝統としてきた。その成果が地方の衰退であった。

 自民党政治の何が悪かったのか、検証も反省もせずに「地方創世」を言う。

 「東洋文化の研究家であるアレックス・カーさんは、徳島の祖谷に広がる日本の原風景をこう表現しました。鳴門の渦潮など、風光明媚な徳島県では、今年の前半、外国人宿泊者が、前の年から4割増えています。」

 「昨年度、沖縄を訪れた外国人観光客は過去最高となりました。『アジアの懸け橋』たる沖縄の振興に全力で取り組み、この勢いをさらに発展させてまいります」

 地方の衰退という日本の全体的な現実からしたら、部分的な成果を全体的な成果と見せかけて言葉を踊らせているに過ぎないはずだ。

 沖縄訪問の外国人観光客が過去最高となったことを誇っているが、来春の高校生の求人倍率は1.28倍 沖縄0.49倍、青森0.61倍、鹿児島0.63倍。

 今年6月の有効求人倍率は全国平均1.10倍。およそ22年ぶりの高い水準ということだが、 沖縄県0.68倍。7月の有効求人倍率は1.10倍 最も低いのが沖縄県で0.71倍。

 26年度の地域別最賃の引上げは全国平均16円で、最低賃金額の全国加重平均は780円ではあるが、沖縄は全国平均引き上げ額16円を下回る引き上げ額13円で、全国加重平均の780円を13円下回る677円、長崎や熊本等と肩を並べて全国最低額となっている。

 最低賃金は他の賃金と相互反映の関係にあるから、最低賃金が全国最低ということは全体的な生活規模もかなり制約されていることになる。2012年の沖縄の平均年収は全国平均473万円に対して134万も低い339万円となっている。

 徳島の祖谷みたいに風光明媚な景色に恵まれている土地ならいいが、一方に恵まれていないその他多くの過疎地が存在する。だからこその限界集落の増加であって、部分的成功で以って、決定的にその他多くの成功していない地域を覆い隠すレトリックに過ぎない。

 外国人観光客の絶対的多数が東京や京都、北海道の札幌等々、有名観光地に殺到しているはずだ。

 工夫が足りないという問題ではない。工夫して少しは集めることができても、絶対多数は人間の習性として伝統的に人が集まるところに向かう。

 だからこそ、東京一極集中が成り立つ。

 このことを考えると、以下の言葉も部分的成功は期待できても、全体的成功への波及は悲観的とならざるを得ない。

 「鳥取・大山の水の恵みを生かした地ビールは、全国にリピーターを広げ、売り上げを伸ばしています」

 「隠岐の海に浮かぶ島根県海士町では、この言葉がロゴマークになっています。都会のような便利さはない。しかし、海士町の未来のために大事なものは、全てここにある、というメッセージです。 この島にしかない」ものを生かすことで、大きな成功を収めています。

 大きな都市をまねるのではなく、その個性を最大限に生かしていく。発想の転換が必要です。それぞれの町が、『本物はここにしかない』という気概を持てば、景色は一変するに違いありません。

 島のサザエカレーを、年間2万食も売れる商品へと変えたのは、島にやってきた若者です。若者たちのアイデアが、次々とヒット商品につながり、人口2400人ほどの島には、10年間で400人を超える若者たちがIターンでやってきています」――

 若者をIターンで受け入れる素地が全くない、限界集落、あるいはそれに近い地域はいくらでもあるはずだ。

 「今が旬のサンマは、ベトナムではトマト煮が大人気。北海道の根室から輸出されています。

 地元の漁協や商工会議所の皆さんによる一体となった売り込みが、『根室のサンマ』を世界ブランドへと発展させました。『北海道の根室』から『日本の根室』へ。さらには『世界の根室』へと。地方も、オープンな世界に目を向けるべき時代です」

 金字塔を打ち立てた根室の成功として語り継がれることになるだろう。だが、2011年の水産物輸入量269万トン、輸入金額1兆4547億円に対して同水産物輸出量42万トン、輸出金額1741億円の、あまりにも酷過ぎる輸入超過となっている。

 この偏り過ぎた輸出入関係を是正する政策を語るべきだろう。語らずに一部の成功物語を語り、さも全体的な成功物語であるかのように見せかけている。

 正味、言葉を踊らせているだけということになる。 

 「就任後、主要国で最初に、日本を訪問してくださった、インドのモディ首相から、わが国が掲げる『積極的平和主義』について、強い支持を得ることができました。

 わが国は、米国をはじめ、自由や民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々と手を携えながら、世界の平和と安定にこれまで以上に貢献してまいります。 

 その上で、いかなる事態にあっても、国民の命と平和な暮らしは守り抜く。その決意の下、切れ目のない安全保障法制の整備に向けた準備を進めてまいります」――

 「国民の命と平和な暮らしは守り抜く」は外敵や自然災害から守るという安全保障面からのみを言うのではなく、日常的に安心して暮らすことができる生活環境の提供としての生活の安全保障も入る。だが、非正規社員の増加、子どもの貧困の拡大、教育格差の広がり、未婚人口の増加、景気回復に反する実質賃金の低下等々、満足な命と満足な暮しに恵まれない多くの国民が存在し、増加傾向にある。

 当然、「国民の命と平和な暮らしは守り抜く」という言葉は国民の現実を裏切っていることになる。政権を担っていた当時の民主党政治を「裏付けのない『言葉』だけの政治」と批判しているが、自身も犯している「『言葉』だけの政治」であって、要するに言葉を踊らせているに過ぎない。

 「先週ニューヨークで、ヒラリー・クリントン前国務長官と再会を果たしました。

 『前進あるのみ!』

 『女性が輝く社会』を目指す、安倍内閣の挑戦に、昨年、ヒラリーさんが、力強いエールを送ってくれました。

 日本から、世界を変えていく。今月、日本で初めての、女性をテーマとした国際会議を開催し、世界から、活躍している女性の皆さんにお集まりいただきました。日本社会が本当に変わるのか。今や、世界が注目しています」――

 高学歴女性就業率はOECD加盟中日本31位。2013年の国際男女格差は日本は105位。2011年の女性管理職の割合は11.1%。先進国最低水準であるにも関わらず、「女性が輝く社会」を「日本から、世界を変えていく」と大ミエを切っている。

 足元の日本を変えなければならないのに、変えもしないうちに、そのノウハウはないのだから、世界を変えることはできない。できるのはカネを出すことぐらいだろう。

 冷静に足元を見るだけの客観的認識能力さえ持ち合わせていないのだから、単に言葉を踊らせて大風呂敷を広げたことと何ら変わらない。

 「有効求人倍率は、22年ぶりの高水準となり、就業地別では、35の都府県で、仕事の数が求職者の数を上回っています。

 この春、多くの企業で、賃金がアップしました。連合の調査で、平均2%を超える賃上げは過去15年間で最高です。中小企業・小規模事業者でも、1万社余りの調査において、65%で賃上げが実施されています。

 頑張れば、報われる。日本は、その自信を取り戻そうとしています」

 既に触れたように有効求人倍率は地域によって格差があり、実質賃金は下がり続けている。格差の拡大を受けて頑張っても報われない国民が多く存在する。そのことに言及せずに、一部の良い状況だけを見て、「頑張れば、報われる。日本は、その自信を取り戻そうとしています」と言う。

 最初から最後まで部分的成功をさも全体的成功であるかのように大風呂敷を広げた発言で成り立たせている。

 客観的認識能力を書き、言葉を踊らせることしかできない一国のリーダーにまともな政治を求めることはできない。


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9月28日「たかじんのそこまで言って委員会」対竹田恒泰原発再稼働論争に見る櫻井よしこのご都合主義

2014-09-29 11:27:09 | Weblog


 9月28日(2014年)の「たかじんのそこまで言って委員会」は「第2次安倍改造内閣 新閣僚たちのミッション難易度大判定SP!」と題した内容を放送していた。

 要するにばパネラーが各閣僚ごとに任務上存在する主要政策の難易度と、難易度に応じてその政策の遂行能力をミシュランガイドのように星の数(最大3個)で評価しようという趣向の番組構成となっている。

 最初は小渕優子計算大臣の原発再稼働問題を取り上げている。どれ程の難易度の政策であり、どれ程の政策遂行能力を見せることができるか、質していた。

 ここでは委員長代理の資格で辛坊と並んで司会席に並んで立っていた櫻井よしこと竹田恒泰の議論を取り上げる。竹田恒泰が原発反対派だとは無学ゆえ知らなかった。櫻井よしこの原発容認はご都合主義で成り立っている。

 最初に司会の辛坊治郎と櫻井よしことの挨拶としての遣り取りを、原発問題と関係ないが、取り上げてみる。

 辛坊「先週はどうでした」

 櫻井よしこ「何と言っても今はですね、朝日新聞で盛り上がっているのですね。盛り上がっているというのは、やっぱり日本人は基本的に誠実ないい国民だったなあということが、やっぱり慰安婦とかですね、吉田所長の捏造、朝日の捏造記事を知るにつけ、確認できたかなあと――」

 辛坊「じゃあ、毎週やりますか」

  一同、愉快そうに大笑いする。

 民族にしても、あるいは個々の人間にしても、一つの性格で成り立っているわけではない。その一つが常に肯定的な性格で固定されているわけでもない。

 また常に「基本的」な性格を維持するわけではない。基本的に優しい子が置かれた状況次第で凶暴な性格を露わにすることもある。人間は民族や国籍に関係なしに人間としてのありとあらゆる性格を内面に秘めている。そのいずれかが強く現れたり、柔らかく現れたりする。何事もなければ、基本的な性格を維持できるが、人間関係の過程で相手の性格や置かれた状況に応じて基本の性格を守ることのできない場面が多々生じる。

 にも関わらず日本人を「基本的に誠実ないい国民」だと民族単位で規定するのは、どこかで日本民族優越意識に絡め取られているからで、そのことが合理的判断能力を曇らせているのだろう。

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災時には2千人余の朝鮮人が日本人によって虐殺された。現在の在日韓国人に対するヘイトスピーチは世の中全体が殺伐とした閉塞状況に陥ることになったなら、言葉の攻撃が身体的・物理的攻撃の形を取らない保証はない。

 では、櫻井よしこの原発再稼働に関する議論に如何にご都合主義を見て取ることができるか、それぞれの発言の要旨から判断して貰うことにするが、その前に最初に発言した高田万由子のその発言の合理性を見てみる。

 パネルに「遅かれ早かれ再稼働は必至」と書いていた。辛坊がその理由を聞いた。

 高田万由子「そうですね、多分、こう、勿論、反対議論の方っていうのはいらっしゃるんですけど、元々動いていたものですよね。で、被災地っていう地震があって、事故があったから、こういうふうに見直されたんで、元を質せば、こんなことに、あそこで津波に、あんな事故が起こるなんてこと想定するまでもなく、動かしていたわけですよね。

 多分、だから、元に戻るのではないかと」

 辛坊「そんなには難しくはないと」

 高田万由子「そんなに難しくはないと――」

 これが東大出の発言である。まるで東電福島第1原発自体が再稼働して元の状態に戻るかのような発言となっている。

 竹田恒泰と櫻井よしこの発言要旨はそれぞれの発言に従って、交互に取り上げる。間に辛坊の発言を入れることにする。

 周知のことだが、原子力規制委員会が9月10日、九州電力川内原発の再稼働を承認していることを最初に断っておく。 

 竹田恒泰の発言要旨

 「再稼働は簡単。再稼働しない方が大変」

 櫻井よしこの発言要旨

 「福島第1原発に津波が来るまで全部機能していた。40年も前に建設された日本で一番古い原発にも関わらず、マグニチュード9の1000年に一度と言われる大地震に耐えた。ただ津波に対する対策ができていなかったから、電源喪失が起きた。

 日本の原発は地震に非常に強くできている。その上原子力規制委員会が世界一厳しい基準を作ったから、再稼働は大丈夫」

 竹田恒泰の発言要旨

「安全が確認されたと言うが、原子力規制委員会はこの原発は安全ですと一言も言っていない。原発が安全基準に適合しているか否かを判断しただけ。『安全かどうかは言ってません』と委員長は言っている。

 人間は不完全だから、人間が造った物は不完全。原発も不完全で、原発を安全と言ったらウソつきになる。事故が起きないように様々に配慮しているが、事故が起きるかもしれないことを前提としなければ、かつての安全神話になる」

 櫻井よしこの発言要旨

 「竹田さんの言うとおりに田中委員長は安全だとはいえませんと言っている。この原発は我々が設計した安全基準に合致しているということを言っている。

 この日本原子力規制委員会がつくった安全基準は世界一厳しい。だから、合致しているということは、人間は神様でないから、安全だとは言えないけども、一番厳しい安全基準に合致しているということになる。

 但し想像もできないようなことが起きたとき、深層防護という考え方がある。思いもよらないことが起きたときにどうしますかというところまで、今造ろうとしている」

 竹田恒泰の発言要旨

 「震災前も多重防護というのがあって、何が起きても大丈夫と言っていた。(しかし事故が起きた)

 世界で一番厳しい基準に合ったというだけのことで、この原発は安全ですと誰も言っていない。落ちない飛行機がないとのと同じく、完全はない。だから、安全ですよと言って再稼働させたら住民に対するウソつきとなる。正しくリスクを説明して、共有した上で、このリスクを受け入れるかどうか尋ねなければならない。

 ただ一つ考えなければならないのは、活断層がないと思って原発を建てるが、後になって意外と近くに活断層があったということが出てくることもあり、もし活断層の上に原子炉があった場合、活断層が割れると、原子炉が真っ二つになる可能性があると言われている。

 このことを考えると、人間が全ての活断層を発見できて、初めて100%安全と言うことができる。それができなければ、かなりのリスクが残る。それを受け入れることができるかどうか議論するなら、健全だと思う」

 櫻井よしこの発言要旨

 「竹田さんのおっしゃることは正しい。今までの活断層の議論というのは40万年前まで遡って、そこが動いたら大変だというもので、40万年前まで遡るのは人類の歴史から見てどうなのかということも考えていかなければならない。

 だが、活断層が激しく動いた場合はどうなるのかということまで想定して、私たちが考えることができないような地盤強化の構造の原子力発電が考えられている。このことも知って貰いたい」

 竹田恒泰の発言要旨

 「そこにある活断層を正確に把握する知識を人類はまだ持っていない」

 辛坊「活断層に関しては全く不毛な議論。あるちゃんとした地震学者にきいたら、『ちょっと聞きますけど、活断層以外のところは割れないんですか』と聞いたら、『いや、どこでも割れますよ』(一同大笑い)

 そんな、活断層に何の意味があるんだよって。そもそもこんな議論、意味ないなっていう話」

 竹田恒泰の発言要旨

 「一番恐ろしいことは地割れが起きたときに直径50センチの配管が破断する。これはかなり深刻な事故になる可能性がある。地震や津波に対して対策ができていても、地割れが起きた場合、パイプがつながっている保証はないわけで、絶対安全とは言えない。だから、危険があるとうことを受け入れていかなければならない。

 再稼働というと、安全ですという言葉が先行してしまう」

 櫻井よしこの発言要旨

 「頭の体操のために考えて欲しいが、地震列島に住んでいるとか、本州の真ん中にフォッサマグナが通っているとか言うが、それを恐れていたら、新幹線のトンネルとか、海底トンネルとか、恐ろしくてそんなところへは行っていられない。きちんとした技術的なことをして造ってあるんだと認識しなければならない」

 辛坊「リスクとベネフィットの比較衡量が必要。最大どのくらいの危険があるか。それに関してどのくらいの利益があるか、結局そういう話ではないか」
 
 最後に右翼の稲田朋美政調会長が纏める。

 稲田朋美「桜井先生と竹田さんの論争、と言うか、答弁を聞いていると、言っていることは同じなんですね。でも、結論が全く違うということは小渕大臣のミッションって、物凄く難しいという問題じゃないかと思います」

 辛坊「うまく纏めましたね。これはやっぱり身内の大臣であると、これは簡単ですとは言えませんね」

 次のコーナーに移る。

 櫻井よしこは福島第1原発が「マグニチュード9の1000年に一度と言われる大地震に耐えた」と言っているが、2011年3月11日の東日本大震災の震源地は宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル、仙台市の東方沖70キロメートルの太平洋の海底であって、地震の規模はマグニチュード 9.0であるが、最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7ではあっても、福島第1原発のある大熊町は震度6強の揺れであって、最大震度7に襲われたわけではない。

 もし福島第1原発に震度7の揺れが襲ったなら、被害はもっと拡大したはずで、東海地震や東南海地震、南海トラフ地震等を考えた場合、震度7やそれ以上の揺れが他の原発を襲わない保証はない。

 本人は気づいていなかったとしても、ご都合主義なことを言ったことになる。

 東京電力の《福島原子力事故調査報告書》東京電力株式会社/平成24 年6月20 日)によると、地震の影響について次のような記述がある。  

 〈①変電機器の損傷原因

 福島第一原子力発電所においては、地震時に電気設備が損傷し、外部電源停止の原因となった。このことから、損傷を受けた1,2号機超高圧開閉所の空気遮断器・断路器
について損傷原因の分析を行った。

 今回の地震は地表面地震動が非常に大きく、民間指針JEAG 5003「変電所等における電気設備の耐震設計指針」を超過したことが主な原因であり、275kV空気遮断器については、耐震強化のために設置したステーが緩むことにより、遮断部の変位が増大してがいし破損に至ったと推定され、275kV断路器については、接続される空気遮断器倒壊時の荷重がリードを介して加わることによりがいし破損に至ったと推定された。

 なお、本解析結果は「福島第一原子力発電所内外の電気設備の被害状況等に係る記録に関する報告を踏まえた対応について(指示)に対する追加報告について」(平成24年
1月19日)で原子力安全・保安院に提出している。

 ②送電鉄塔の倒壊原因

 地震により、夜の森線No.27鉄塔が倒壊し5~6号機への外部電源が停止した。このことから、夜の森線No.27鉄塔の倒壊原因について分析を行った。

 現地を確認したところ、鉄塔脚部は土砂や倒木に埋もれているが、鉄塔上部は土砂の上に倒れており、電線も土砂や倒木の上に存在する事などから、鉄塔隣接地の盛土が崩壊したことにより鉄塔が倒壊したと判断した

 また、崩壊した盛土については解析の結果、崩壊した箇所の地盤強度が特に低かったとはいえないこと、崩壊箇所の法面が1:3という緩勾配で施工されていたことに加え、最大加速度発生時にも盛土は崩壊していないことから、盛土は供用期間中に発生する確率は低いが大きな強度を持つ地震動(レベル2地震動)に対する耐震性を有していたと考えられた。

 結果的に盛土が崩壊していることから、崩壊原因は、沢を埋めた盛土中に地下水位が存在する状況の中で、史上稀にみる強くて長い地震動の繰り返し応力が作用したことに
より、地下水位内の地盤の強度が低下したことによるものと推定した。〉

 〈①5号機目視確認結果】

 5号機原子炉建屋に設置されている設備について、目視により確認したところ、損傷は認められなかった。

 また、タービン建屋内に設置されている設備を目視により確認したところ、非常用ディーゼル発電機や電源盤など重要な機器については地震による損傷は認められないが、高圧タービンと低圧タービンの中間にある湿分分離器のドレン配管のサポートがずれており、そのドレン配管に接続されている小口径配管1箇所で破損が認められた。これは破損形態から地震による損傷と判断される。〉

 〈地震当日、3号機は、大熊線3Lの受電設備が工事中で使用できなかったため、2号機と常用高圧電源盤(M/C)を相互に接続し受電する構成としており、福島第一原子力発電所で受電中の外部電源は大熊線3Lを除く5回線となっていた。

 今回の地震により、福島第一原子力発電所の外部電源(大熊線1~4L。(3Lは工事中)。夜の森線1L,2L)は、地震発生とほぼ同時期に、全回線が受電停止した。このため、各号機の非常用ディーゼル発電機が自動起動(工事中のものを除く)し、非常用所内電源は確保された。

 その後、津波の建屋への浸入等により6号機の非常用ディーゼル発電機(6B)を除き、各号機の非常用ディーゼル発電機が自動停止し、1~5号機で全交流電源喪失に至った。〉

 〈非常用ディーゼル発電機(非常用D/G)の燃料に使用される軽油タンク、冷却水の水源の一つである復水貯蔵タンクについては、地震の影響と思われる基礎周りの地面の沈降が認められるが、タンクに漏えいなどの損傷は認められない〉――

 地震の揺れによって全回線が受電停止したものの、非常用ディーゼル発電機が自動起動して、非常用所内電源は確保されたが、津波によって6号機以外の非常用ディーゼル発電機が自動停止し、1~5号機で全交流電源喪失に至った。

 一見津波さえ来なければ、全電源喪失に至らなかったように見えるが、震度6ではなく、震度7でも同じだと断言できるだろうか。地震の影響による破損や地面の沈降等、諸々の事象をも考え併せた場合、危機管理上、震度の違いによって影響も違ってくることを考えなければならない。

 櫻井よしこは「深層防護」を言い、「私たちが考えることができないような地盤強化の構造の原子力発電」の構想を言っているが、コストの問題を抜かすご都合主義を見せている。

 また、地盤強化と言っても、敷地内の建物のない場所の工事は可能かもしれないが、既設の原子力発電所の原子炉の下の地盤まで強化できるのだろうか。それを可能としたとしても、相当なコストがかかるはずだ。

 結果として、他の発電コストとそれ程変わらないということが起きる可能性がある。

 竹田恒泰は活断層の原発への悪影響を強調している。「活断層がないと思って原発を建てるが、後になって意外と近くに活断層があったということが出てくることもあり」と言っていることは、福島第一原発の耐震性を考慮する際に東京電力が地震を起こすことがないと認定していたにも関わらず東日本大震災後の4月11日夕方に発生した震度6弱の地震(マグニチュード7.0)によって長さ約10キロに渡って動いた福島第1、第2原発の南40~50キロの福島県いわき市にある「湯ノ岳断層」を指す。

 それが断層であれば、地震によって動く可能性があることを示している。言ってみれば、非活断層の活断層化である。原子力発電所の下に活断層ではなくても、何万年と遡って過去に動いたことがないと判断した断層がもしあれば、地震によって活断層化しない保証はなく、例え断層がなくても、近くの断層が地震によって活断層化して、揺れを大きくする危険性も考慮しなければならないことになる。

 櫻井は活断層の議論に関して「40万年前まで遡るのは人類の歴史から見てどうなのか」と言っているが、原子力規制委員会は2013年1月29日、原子力発電所への地震や津波に関する専門家会合を開いて、活断層の活動時期の範囲を「40万年前以降」に拡大する方針を撤回して、「12万~13万年前以降」とする従来指針を継続、地層が分かりにくいなど判断がつきにくい場合に限り40万年前まで遡って検討することに決めている。

 但し何10万年前と決めようとも、不活性と見ていた単なる断層が大きな地震によって活断層化するなら、何万年前という基準は意味を成さないことになる。

 櫻井よしこは海底トンネルや新幹線のトンネルの、みんなが考えている危険性(ゼロ)と比較して原発の安全性を逆説的に言及しているが、倒れないとされた阪神高速の橋脚が阪神大震災では倒壊している。

 竹田恒泰が言っていた飛行機の墜落と同じである。但し確率はゼロに近いかもしれないが。決してゼロと言うことはできない。たった1度ということもあり得る。

 以上、櫻井よしこのご都合主義な原発容認論を見てきたが、辛坊のジャーナリストでありながら、都合の良いことだけを言っていることを取り上げてみる。

 辛坊は地震学者が活断層でなくても、どこでも地面が割れるという話をしていたことを以って活断層の議論を不毛だとしているが、地震の揺れによって地面に亀裂が入るのと、活断層が長さ10キロとか、あるいはそれ以上大きく動いて、地面に亀裂を生じさせるのとでは意味が全く違う。

 当然、建物が動かなかった断層と動いた断層を跨いだ形で建っていた場合、前者と後者の影響は大きく違うことになる。

 辛坊はまた、「リスクとベネフィットの比較衡量が必要」と言っているが、それを知らしめるためには、竹田が「正しくリスクを説明して、共有した上で、このリスクを受け入れるかどうか尋ねなければならない」と言っているように、安全、安全と言うだけのことはやめて、リスクとベネフィット(利益)についての最大限の説明責任を果たさなければならない。

 果して原子力規制員会にしても、櫻井よしこにしても、辛坊にしても、安全基準を満たしていることは言っても、リスクについて説明責任を尽くしていると言うことができるだろうか。

 いい尽くしていないとしたら、ご都合主義に堕していることになる。

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安倍内閣は北朝鮮の拉致解決の本気度をどう見ているのだろうか

2014-09-28 11:30:39 | Weblog


 金正恩が父親金正日の独裁権力を、それを構成していた側近たち共々引き継いで自らの独裁権力を成り立たせている以上、例え側近たちの権力闘争からそのメンバーの入れ替えが多少はあったとしても、基本のところで独裁権力を実質的に支えているのは側近たちであり、名目上は独裁権力の正統性を親子三代に亘る継承に置いている関係から、その継承を正義として正統づけるためには特に直近の権力移譲者である金正日の権威と正義を些かでも傷つけることがあってはならない制約を金正恩は常に受けている。

 当然、日本人拉致の首謀者が金正日である以上、その解決は金正恩の権威と正義に直結する金正日のそれらを絶対的に死守する線で行われることになって、もし拉致被害者の中に拉致が金正日の指示や命令であることを知り得る立場にいたなら、帰国も表に出すことも許されないことになる。

 と言うことは、2002年9月に金正日が日本人13人の拉致を認め、その後5人が帰国を果たしたということは拉致が金正日の指示や命令であることを知り得ていなかった5人と見做さなければならない。

 事実、5人の口から拉致が金正日の指示・命令であると直接的に知り得た情報として出ていない。

 残る8人(日本政府は現在、拉致被害者を12人と認定している)は死亡したとされたが、死亡の証明に様々な矛盾が存在するばかりか、各方面からの証言から8人のうち何人かは生存している可能性が指摘されている。

 もし事実生存していながら帰国を許されないのは、5人とは反対に金正日の指示や命令であることを知り得る立場にいた8人と見なければならない。

 帰国させれば喉から手が出る程に欲している経済援助をそれなりに手に入れることができるにも関わらず、そうしないのは帰国させることによって拉致被害者の口から拉致が金正日の指示や命令であることが露見した場合、金正日の権威と正義が損なわれて、そのことが金正恩の権威と正義ばかりか、父子権力継承の正統性そのものが否定されかねない事態に発展しないとも限らない。いくら喉から手が出る程に欲していたとしても、経済援助の蜜を取るか、父子権力継承の正統性否定の危険を取るか迫られたなら、前者を無視する以外に道はないはずである。

 正しい見方かどうか分からないが、北朝鮮側が拉致問題は解決済みという態度を取って、残された拉致被害者が帰国を果たせないのは北朝鮮側にそうしなければならない何らかの重大な理由があると見なければならない。

 ところが北朝鮮は今年5月26日から3日間、スウェーデンのストックホルムで日朝政府間協議開催に応じた。3日間の協議終了後、マスコミは 「拉致再調査、合意至らず」と報じたが、5月29日、安倍晋三が首相官邸で記者団に発言している。

 安倍晋三「日朝協議の結果、北朝鮮側は拉致被害者および拉致の疑いが排除されない行方不明の方々を含め、すべての日本人の包括的、 全面調査を行うことを日本側に約束した。その約束に従って『特別調査委員会』が設置され、日本人拉致被害者の調査がスタートすることにな る」(NHK NEWS WEB

 最初の疑問は「包括的全面調査」が完全解決に直結するのかどうかということである。今まで帰国させることができなかった理由が拉致が金正日の指示や命令であることを知り得えていたからだとしたら、完全解決は金正日の権威と正義を損なう危険を伴う。その危険が実際に発生した場合、金正恩自身の権威と正義に直接的に跳ね返って同じように損なわない保証はない。金正恩自身、そのような危険を冒すだろうか。

 どのように進展していくか見守っていたら、北朝鮮を訪問し、北朝鮮でプロレス大会を開催、要人とも会談したアントニオ猪木が9月2日夜帰国、羽田空港で記者会見した。

 アントニオ猪木「私の勘ではありますけど、向こう(北朝鮮)は落としどころを殆ど準備できている。あとは日本の受け入れ態勢がどうなっているか。宴会では下ネタを交えながら、きわどい再調査の名簿の話もした」(スポーツ報知

 「私の勘ではありますけど」と断っているが、「落としどころを殆ど準備できている」と言っている以上、そのような印象を受けたからだろう。だが、完全解決は北朝鮮側が果たさなければならない、単独で担うべき責任であって、落としどころを探って決める解決とは、日朝双方が話し合って双方共に異論のない妥協点を見い出す、日朝双方が担うことになる責任となって、断るまでもなく、完全解決とは似ても似つかない非なるものとなる。

 ここに北朝鮮側の拉致解決の本気度を見る気がした。

 但しあくまでもアントニオ猪木の「勘」に過ぎないとするなら、このことは無視しなければならない。

 だが、次第に雲行きが怪しくなってきた。

 北朝鮮は最初の調査報告を今年の夏の終わりから秋の初めとしてきたが、菅官房長官は9月19日の記者会見で、再調査は全体で1年程度を目標としており、現在はまだ初期段階にあって、現時点でこの段階を超えた説明を行うことはできないと連絡が来たことを明らかにした。

 北朝鮮は自らが明かした残る8人を死亡した等の理由をつけて帰国させないのは拉致が金正日の指示や命令であることを知り得る立場にいたからではないかと疑うことができる以上、監禁や自宅軟禁、あるいは監視等の方法で拉致被害者自体の所在を把握していないことはない。例え誰一人金正日の指示や命令であることを知り得ていなかったとしても、だとすると、帰国させない理由が不可解となるが、自由の身であることを認めて野放しの状態に置いた場合、拉致されたことを誰かに喋りかねない危険や脱北を決行しかねない危険を抱えることになる。

 以上の理由から拉致被害者の所在を把握しているはずだし、菅官房長官も上記9月19日同記者会見で「拉致された方について北朝鮮トップは全て掌握していると思う。誠意を持って対応してほしい」(MSN産経)と発言している。

 にも関わらず、最初に約束した調査報告書の提出時期を先延ばしにして、1年程度を目標とするとした。拉致解決の本気度を疑わないわけにはいかない。

 確実に言えることは、北朝鮮側の拉致再調査開始に合わせて日本政府が制裁を一部解除したことによって受ける北朝鮮側の恩恵を正式な報告書提出まで1年程度そのまま受け取ることができることになるということである。

 ところが、菅官房長官が調査は初期段階だと北朝鮮が伝えてきたとした記者会見発表には北朝鮮の拉致解決の本気度をまさに占うことのできる別の事情が存在していたことを知らせる記事がある。

 《北朝鮮、初回報告は特定失踪者 拉致は「調査中」、日本拒否》47NEWS/2014/09/21 02:00 【共同通信】)

 記事を纏めると、日朝関係筋が9月20日に明らかにした事実として、9月中旬、北朝鮮は再調査に関して拉致の疑いが拭えない特定失踪者と、残留日本人、日本人配偶者の安否情報に限って初回報告に盛り込む考えを日本側に示し、日本政府認定の拉致被害者12人については「調査中」として具体的な情報の提示がなかった。

 対して日本側は12人に関する新たな情報が含まれない限り、報告を受け入れることはできないとして拒否した。

 この日本側の拒否を受けて、北朝鮮側は再調査は全体で1年程度を目標としていて、現在はまだ初期段階だと体裁を繕ったということなのだろう。

 拉致被害者の所在を把握しているはずなのに、日本政府認定の拉致被害者12人の調査結果を「調査中」として初回報告に含まなかった。

 北朝鮮の拉致解決の本気度を示す姿勢を見ないわけにはいかない。

 記事は末尾で次のように解説している。〈日本政府は、北朝鮮が経済的な見返りを得るため、情報を小出しにする駆け引きの姿勢を強めたと分析。拉致被害者12人の調査を最重視する構えだ。〉――

 果して北朝鮮は〈経済的な見返りを得るため、情報を小出しにする駆け引き〉を行っているのだろうか。アメリカの承認という条件をクリアしなければならないが、12人の全面解決、全員帰国を一挙に果たしさえすれば、少なくない、相当な「経済的な見返り」がアメリカが反対したとしても、少なくとも約束されることになって、将来的ないつの日か実行に移されることになる。

 例え経済的な見返りが先延ばしにされたとしても、日本独自のその他の制裁の解除を拉致解決の見返りとすることで報いることになるだろう。例えば万景峰号の入港禁止措置の解除等が考えられるが、北朝鮮に少なくない利益をもたらすはずだ。

 だが、今までと同じように拉致解決を先延ばしにしている。日本でこれで拉致は全面解決だと期待する機運が盛り上がっているにも関わらず、こうまでも先延ばしにする合理的な理由は拉致被害者が金正日の指示や命令で拉致が引き起こされたと知り得ているためとする以外に考えることができない。

 そのために拉致解決の本気度を示すことができないのだとすると辻褄が合う。

 尤も知り得ていない拉致被害者が何人か存在したなら、全員帰国を避ける交渉を行い、巧妙に妥協点を見い出して何人かは帰国を果たすことができるかもしれない。それがアントニオ猪木が言った「落としどころ」ということなのかもしれない。

 このことは北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化交渉担当大使の9月27日の対記者団発言が証明してくれる。日本との政府間協議に出席するために協議開催地の中国・瀋陽に到着したときの発言である。

 宋大使「日本で我々の考えと合わない報道がたくさん出ている。協議で日本側の立場を確認したい」(MSN産経

 日本政府は拉致被害者12人の調査と全員帰国を最重視している。そのことは北朝鮮側に伝えているはずである。

 日本政府が拉致の真相まで求めたとしても、北朝鮮は拉致実行犯が誰であるかはいくらでも誤魔化すことができて、全員帰国を以て拉致の全面解決とすることができる。当然、「日本で我々の考えと合わない報道がたくさん出」ることにはならない。

 出るとしたら、日本側が全面解決としている思惑と北朝鮮側が全面解決としている思惑に大きな違いがあるから、北朝鮮側から見た場合、北朝鮮側と考えが合わない報道となっているということであろう。

 例え帰国させることができない事情が何であれ、北朝鮮側の姿勢からは拉致解決の本気度を見い出すことはできない。安倍晋三以下、どう見ているのだろうか。安倍晋三は「対話と圧力の姿勢を維持しつつ、調査の進捗を見極めていきたい」(NHK NEWS WEB)とばかり言ってはいられない。

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安倍晋三の国家主義を露わに見せつけた、格差拡大を伝える2014年9月26日夜7時NHKニュース

2014-09-27 10:09:34 | Weblog



      生活の党PR

       《9月28日(日) 鈴木克昌代表代行・幹事長『日曜討論』出演》 

      内 容:○臨時国会にどう臨むか
      ○“地方創生”に何が必要か
      ○消費税率10%への引き上げについて
      ○安全保障政策と国民の理解について等   

 昨日、2014年9月26日夜7時からのNHKニュースで、サラリーマンの給与が3年ぶりに前年比増となったことを伝えていた。但し前年比増は正規社員のみのことで、非正規社員は逆に減っていて、格差が広がっていると解説していた。

 途中画面にアベノミクス効果で「雇用と賃金が増えている」と自信に満ちた様子で誇らしげに胸を張り、自らの成果を強調する、例の如くの安倍晋三を登場させていた。

 NHKは安倍晋三を登場させることで、成果と格差という皮肉な対比を意図的に演出したように見えた。

 だが、その登場は安倍晋三の国家主義を露わに見せつけた瞬間でもあった。NHKがこのことをも意図していたかどうかは分からない。

 国家主義とは「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(「大辞林」)を言う。

 しかし現代は個人の権利・自由を最大限に尊重しなければならないとされている。そのため表向きは最大限に尊重するタテマエを取りつつ、経済的な利益の点で国民の利益よりも国家の利益を最優先させて、国民を国家の利益に奉仕する存在とする形で国家主義はその装いを存続させている。

 国家の利益により多く奉仕できる国民はより多くの経済的利益を獲得し得た国民であるのは断るまでもない。

 個人の権利・自由は常に絶対的な姿を取るわけではない。現代の国家主義が国家の経済優先の構造を取るために個人の権利・自由が経済的利益に応じて左右されることも起こり得る。

 経済格差と教育格差の相関関係が何よりもこのことを証明する。経済的に豊かであることが教育を受ける権利を十二分に保障し、貧しいことがその権利を阻害する。

 NHKが伝えたニュースの記事から成果と格差という皮肉な対比と安倍晋三のアベノミクスの効果を誇る発言から、その国家主義を見てみる。但し記事には安倍晋三は登場しない。

 《サラリーマン年収3年ぶり増加》NHK NEWS WEB/2014年09月26日 17時19分) 

○国税庁が去年1年間を通して民間企業で働いた会社員やパート従業員などの給料を調査したところ、平均年収は、前の年より6万円多いおよそ414万円。
○正社員は男性が527万円、女性が356万円、全体では473万円で、前の年より5万円増。
○非正規雇用は男性が225万円、女性が143万円で、全体では前の年より2000円少ない168万円。
○年収1000万円を超える人が前年より14万人増えて186万人、全体の4%となった一方、200万円以下の人は30万人増えて1120万人に上り、全体の24.1%を占める。
○業種別平均年収

 「電気、ガスなど」前年マイナス22万円の696万円と最高。次いで「金融、保険」の617万円、「情報通信」の592万円。
 最低は「宿泊、飲食サービス」の233万円。

 正規と非正規の平均年収の格差が473万円-168万円=305万円もあり、正規と非正規とに関わらず男女格差が存在し、年収1000万円を超える国民が186万人、労働者全体の僅か4%の少数派が年収エリートを築いているのに対して年収が200万円以下の国民は30万人増えて1120万人、全体の24.1%を占める。

 これが国民の経済に関わる足元の格差の実情である。

 では、安倍晋三の自らの経済政策であるアベノミクスを誇る発言を見てみる。

 《シティ主催歓迎晩餐会 安倍内閣総理大臣スピーチ》(2014年〈平成26年〉5月1日)

 安倍晋三「賃金と、雇用が目に見えて上向くことこそ、デフレーション克服に欠かせません。

 もっと嬉しいのは、中小企業の景況感が、製造業では6年ぶり、非製造業では、実に22年ぶりの、プラスになりました。成長の実感が、徐々に浸透してきたということでした」

 《安倍晋三ブリュッセル内外記者会見》(首相官邸/2014年〈平成26年〉6月5日)
 
 安倍晋三「夏のボーナスにつきましては、経団連の調査では、昨年より8.8%上昇しています。この数字は過去30年間で最高の伸び率となっています。雇用においても賃金においても大変よい結果ででてきています。企業収益の向上が賃金に回り、消費につながっていく『経済の好循環』に向けた動きは、途切れていないと判断しています」

 《安倍改造内閣発足安倍晋三記者会見》(首相官邸/2014年〈平成26年〉9月3日)

 安倍晋三「さて、さきの総選挙で政権交代が実現し、危機突破内閣を発足してから600日余り。1人の閣僚も替わることなく、安定的に政策を進めることができました。

 そして今、有効求人倍率はバブル崩壊以来、22年ぶりの高い水準となっています。また、今年の春、多くの企業で給料アップが実現し、連合の調査によれば、賃金の伸び率は過去15年間で最高となりました。内閣一丸となって三本の矢を射込んできた結果、雇用の改善、賃金の上昇という形で景気の好循環が生まれ始めています。この道しかない。私はそう確信しています」

 《産業競争力会議》(首相官邸/2014年〈平成26年〉9月18日) 
 
 安倍晋三「産業競争力会議の皆様のお力をいただきながら、三本の矢の政策によって、間違いなく、日本の景気が好循環を迎えつつあるわけであります。

 雇用においても、あるいは、賃金においても、改善、良い数字が出てきております。

 ただ、ここからが勝負でありますし、これからも経済再生が最優先であります」

 《安倍晋三内外情勢調査会講演》(2014年9月19日)
 
 安倍晋三「今年の春は、連合の調査で、平均2%を超える賃上げが実現しました。過去15年間で最高の賃金アップです」(以上)――

 アベノミクスの効果を通した国全体の経済の成果のみの言及となっていて、足元の格差の状況には一言の言及もない。国家の経済を優先させて、国民個々の経済の状況には目を向けない国家主義者の姿が否応もなしに現れている。

 安倍晋三が数々ある演説のうち、「非正規」という言葉を使っているのは数回しかない。国会答弁では質問者の質問に応じて何回も使っているだろうが、その言葉がどのように非正規雇用者の利益を訴えていようとも、正味のところは各演説での国家の経済を優先させた国家主義に対応していなければ矛盾や二律背反を侵すことになる。

 このことは演説に於ける数少ない「非正規」に言及した発言自体が証明することになる。

 《経済の好循環実現に向けた政労使会議》(首相官邸/2013年9月20日)

 安倍晋三「非正規雇用や女性をはじめとする多様な働き方の重要性など、様々なご意見をいただきました」

 《第186回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説》(2014年〈平成26年〉1月24日)

 安倍晋三「政府、労働界、経済界が、一致協力して、賃金の上昇、非正規雇用労働者のキャリアアップなど、具体的な取組を進めていく。政労使で、そ の認識を共有いたしました」

 《安倍晋三通常国会閉会記者会見》(2014年年6月24日)

 安倍晋三「雇用状況が改善する中、非正規従業員を正社員にする企業も出てきています」

 《安倍晋三、長州「正論」懇話会講演会》(2014年年7月19日)

 安倍晋三「人材への投資の重要性が改めて認識され、非正規従業員を正社員化する企業も出始めています」(以上)――

 味も素っ気もない事務的な発言に終始している。格差解消に向けた視線や意欲はどこからも感じ取ることはできない。

 国家の経済利益、国家の景気を優先させ、そのことに貢献する経済的エリートたる企業や個人を重用しているがゆえの非正規等の社会の下層に位置する国民に対する軽視であるはずだ。

 安倍晋三等の国家主義者にとっての非正規雇用者の価値は安価な人件費が企業の利益獲得に貢献し、その利益が国家の経済に貢献する、そういう構造を担っている点のみであろう。

 当然、非正規雇用者の正社員化は企業の利益や国際競争力を侵害しない範囲のものでなければならない。

 安倍晋三は国家主義者ある。女性の活躍にしても男女平等意識に立った政策ではない。日本国家の経済を活性化し、拡大するための未だ利用し尽くしていない分野であり、人材と見ているに過ぎない。

 男女平等とは男女共に同じ人間存在と見て、そこに差別はないと見る思想であるはずである。また、人間存在の違いが能力の違いを生むのではなく、能力の違いは男女別なく個々の人間に応じて生じると見なければならない。

 だが、安倍晋三が「皇位継承は男系男子という私の方針は変わらない」としていて、そこに男女共に人間存在を平等と見ていない男女不平等観が象徴的に現れている。

 万世一系を伝統としていることからの天皇家に限った「男系男子」と言うだろうが、現代に於いて男女それぞれの人間存在は平等と見る男女平等観に真に立っていたなら、拘ることはできないはずだ。

 そもそからして子どもは親の血を正確に半分ずつ受け継ぐわけではない。ある性格は父親の性格を継ぎ、別の性格は母親の性格を継いだり、父親の性格をより多く継ぐこともあれば、母親の性格をより多く継ぐこともある。そして子どもはそれらを総合した血や後の環境に応じて自らの人間存在や能力を確立していく。

 いわば男か女かではなく、男女別なく人間存在として天皇に相応しい能力を有しているかどうかで決めるのが男女平等姿勢であるはずで、にも関わらず男か女かで決める「男系男子」と限定しているところに男女平等思想を見て取ることはできない。

 また、国家の内容としてある国民個々の人間存在を平等と見る男女観ではなく、伝統的な国家の姿に拘る点に於いても国家主義が現れている。

 基本の姿勢がそうなのだから、女性の活躍もその延長線で把えなければならない。

 格差が進めば進む程、それは安倍晋三の国家主義の成果でもあるのだから、必然的に国家主義者の姿を露わにすることになる。

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娘を生活苦から殺した母親が市に相談に来たとき、「生活にお困りですか」と声をかけなかったのだろうか

2014-09-26 08:51:35 | Weblog


千葉県銚子市の県営住宅の母子家庭で43歳の母親が中学生2年生13歳の娘を殺した。母親は警察に「生活が苦しくなって、将来が不安になり、首を絞めた」と話したという。

 一昨年7月から家賃が滞納していた。昨月8月まで、26カ月も滞納していたことになる。

 「NHK NEWS WEB」から経緯を見てみる。《中学生死亡 殺人容疑で母親逮捕》「NHK NEWS WEB」/2014年9月24日 18時47分)

 9月24日、裁判所の職員が部屋の明け渡しを求めるために訪れ、遺体を発見した。警察の検視の結果だろう、約死後1日以内と見られるとのこと。

 銚子市の記録に母親が去年4月、生活保護の窓口に相談に訪れていたことが残されているという。

 記事は、〈このときの相談は「生活保護の制度について知りたい」という内容で、市側は、生活保護を受けたいという申し出ではなかったため、受給に向けた手続きは取らなかった〉と市の対応を伝えている。

 これ以降の相談の記録はなし。

 他の記事によると、「自分も死のうと思った」と母親の言葉を伝えていて、無理心中を図ろうとしたものの、果たせなかったことになる。

 県としては家賃滞納のパターンがおしなべて貯蓄が殆ど無く、その上働いていても、家賃を払う余裕のない給与のために払うことができないか、失業中で、仕事を探していても、仕事が見つからず、収入が無いために払うことができないか、病気で働くことができず収入ゼロのために払うことができないか、あるいは生きる意欲を失っていて、それが労働意欲の減退となって現れて、働きもせず、食べて寝る以外の営みに怠惰な状況に陥っているというパターンもあるはずで、これらのパターンとは真逆で、心身共に健康で貯蓄も収入も十分にありながら、踏み倒す意思から払わないか、等々、ある程度のパターンは前以て把握しているはずである。
 
 県が母親の家賃滞納に対して裁判所に明け渡し請求の法的手続きを取ったのが何カ月前か分からないが、9月24日に裁判所の職員が部屋の明け渡しを求めるために訪れていたことからして、少なくとも20カ月以上も長期に滞納していた時点で取ったと思われる。

 県は前以て世帯構成が母子家庭であることを把握していたはずで、母親の家賃滞納がどのようなパターンからのものか、裁判所への明け渡し請求の法的手続きの前に本人に直接尋ねることをしなかったのだろうか。
 
 もし尋ねて、家賃滞納に正当な理由があるとすることができたなら、その救済は生活保護の支給以外にないはずだ。

 だが、記事には県が生活保護の手続きを取るよう、市に紹介したとは書いてないから、家賃滞納に正当な理由を見い出すことができなかったために裁判所に手続きを取り、裁判所は手続き通りに部屋の明け渡しを正当とする判決を行い、その判決に従って裁判所の職員を部屋の明け渡しのために派遣したのだろう。

 県は明け渡しによって、家賃滞納の解決にしようとしたわけである。と同時に家賃滞納解決策としての部屋の明け渡し要求は明け渡し以後の母子の生活は問題なしと見ていなければならない。

 問題ありと見ていたなら、江戸時代の非道な悪徳商人や悪代官というわけではないのだから、引き渡しを求めることはできなかったろう。

 裁判所にしても、問題なしの見通しに立って明け渡し判決を言い渡したはずだ。

 対して母親は13歳の娘と無理心中を図ることで家賃滞納、その他一切を解決しようとした。結果的に裁判所の職員が部屋の明け渡しを求めるために訪れた日時の24時間以内に娘を殺して、自分は死に切れずに生き残り、逮捕された。その時点に於ける母親なりの一つの解決である。

 この先娘に対する殺人罪の裁判の判決という一つの解決が待っていて、執行猶予付きではない有罪の判決であったなら、刑務所に入所というもう一つの解決が待ち受け、死ぬまで幾重もの様々な解決を経ていかなければならない。

 母親は去年4月、銚子市の生活保護の窓口に相談に訪れた。但し、〈相談は「生活保護の制度について知りたい」という内容で、市側は、生活保護を受けたいという申し出ではなかったため、受給に向けた手続きは取らなかった〉――
 
 そしてそれきりとなった。

 だが、結果として生活苦から母親は無理心中を図って、13歳の娘だけを殺すことになって、自分は生き残ってしまった。

 小学生や中学生、あるいは高校生が勉強のために「生活保護の制度について知りたい」と生活保護の窓口を訪れたわけではない。尤も現代ではインターネットで調べれば、簡単に知ることができるから、そのような理由でわざわざ尋ねる小中高生は少ないだろう。

 中年の女性が訪れたのである。制度を知りたいという裏には本人か誰か知り合いの生活保護の受給に関わる仕組みを知りたい意図があったはずで、訪問の意図を汲み取って、「誰か生活にお困りですか」と一言でも尋ねるべきだったが、尋ねるだけの親切心を発揮せず、〈市側は、生活保護を受けたいという申し出ではなかったため、受給に向けた手続きは取らなかった〉。

 要するに生活保護の窓口を訪れた市民であっても、市の方から訪問の意図や生活状況を積極的に尋ねることはせず、生活保護受給の申し出であるなら、受給可否の手続きを取り、その申し出でなかったら、受給に向けた手続きは取らないシステムとしている。

 余りにも事務的に過ぎないだろうか。

 このような市の事務的な姿勢に生活保護受給者を一人でも増やすまいとする行政側の意図を感じないわけにはいかない。

 県が部屋の明け渡し以後の母子の生活は問題なしと見ていたであろうことが、あるいは市が「誰か生活にお困りですか」と一言声をかけなかったことが、母親が生活苦を解決する手段として無理心中を図って、娘だけを殺してしまった事実を引き出したとする指摘は結果論に過ぎないとしても、県の部屋の明け渡し要求と市の生活保護受給の申し出ではなかったために受給手続きを取らなかったことが母親の残酷な解決につながっていったことは事実として否定できないはずだ。

 政治家はよく「国民に寄り添う」とか、「市民に寄り添う」という言葉を使うが、実態として果して寄り添っているのだろうか。事務処理が事務的であること以外何も見えてこない。記事からは生身の人間であると感じ取れるのは母親とその13歳の娘だけとなっている。

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産経新聞が日本国憲法がGHQの押し付け憲法だと歴史認識したとしても、日本国民に幸いしたことになる

2014-09-25 08:49:01 | Weblog


 9月24日付の「MSN産経」記事が冒頭次のように書き記している。  

 〈昭和天皇実録には、日本国憲法が連合国軍総司令部(GHQ)の“押し付け”だったことが、明確に記されている。〉

 《【昭和天皇実録を読む】「GHQ作」 押し付けられた日本国憲法を明記》(MSN産経/2014.9.24 08:15)

 根拠となる「昭和天皇実録」の記述を取り上げている。

 〈昭和21年2月22日《去る十三日に国務大臣松本烝治(じょうじ)は(中略)聯合国最高司令部民政局長コートニー・ホイットニーほかと面会し、ホイットニーより、(中略)最高司令部作成の憲法草案を示され、これに基づく憲法起草を要求される》〉――

 昭和21年〈3月5日《昨日午前、聯合国最高司令部に提出された日本国憲法草案は、同司令部において(中略)夜を徹しての改正作業が進められ、この日午後四時頃、司令部での作業が終了する。一方、首相官邸においては、この日、朝より閣議が開かれ、(中略)改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部から求められたことを踏まえ、(中略)勅語(ちょくご)を仰いで同案を天皇の御意志による改正案とすることを決定する》〉――

 要するに昭和21年2月13日、松本烝治国務大臣は最高司令部作成の憲法草案を示されて、これに基づく憲法起草を要求された。3月4日午前、聯合国最高司令部に提出された日本国憲法草案は同司令部に於いて徹夜で改正作業が行われて、3月5日午前4時頃改正業が終了。同司令部からこの改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう求められたため、勅語を仰ぎ、天皇の御意志による改正案とすることを決定したという経緯を取った。

 だから、日本国憲法は連合国軍総司令部押し付け憲法だとしている。

 記事はその上、このような作成経緯を辿った日本国憲法の違法性の根拠を挙げている。

 〈GHQの行為は、被占領地の法律尊重を定めたハーグ陸戦条約(1907年改定)などに反する国際法違反だ。GHQが「改正案を日本側の自主的な案として」発表するよう求めたのも、違法性を認識していたからにほかならない。

 だが、当時の日本に、GHQの非を指摘できるはずもなかった。問答無用で日本の根本規範まで崩そうとするGHQのやり方に、閣僚らは暗然としただろう。〉――

 安倍晋三も2013年4月5日衆院予算委員会で細野豪志民主党議員の質問にハーグ陸戦条約を挙げて、日本国憲法の違法性を訴えている。

 細野豪志「確認ですが、そうしますと、憲法ができたのは、えー、昭和21年ですね。27年に日本はサンフランシスコ平和条約が発効して独立をしていますね。

 つまり、その6年間の間に、もしくはその独立をするときには憲法を新しくしてスタートしておくべきだった、そういうご認識ですか」

 安倍晋三「基本的にはですね、いわば、えー、様々な疑問があってですね、例えばハーグ陸戦協定上ですね、、えー、占領している期間にはその国の基本法を変えてはならない、という規定があるわけでございます。

 ま、しかし、そん中に於いて、えー、我々は事実上占領軍が作った憲法だったことは間違いないわけであります。

 ま、形式的にはですね、そうではないわけであります。しかし、占領下にあって、それが行われたのは確として事実であります。その中に於いてですね、やはり、占領が終わった中に於いて、そういう、いわば機運が盛り上げるべきではなかったか、というのが私の考えであります」――

 日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を受入れたが、「Wikipedia」やその他の解説によると、ポツダム宣言の第10条「我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。」の要求事項が戦勝国による大日本帝国憲法改正意思を示したものであり、GHQの要請もあって、幣原内閣は憲法改正作業に取り掛かっていた。
 
 ところが、1946年2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載。GHQはこの案を「極めて保守的な性格のもの」と批判、GHQ自身が憲法草案を作成することを決定、日本の民間人が立ち上げた憲法研究会「憲法草案要綱」を1946年1月11日に〈叩き台とし、さらに要綱に欠けていた憲法の最高法規性、違憲法令(立法)審査権、最高裁裁判官の選任方法、刑事裁判における人権保障(人身の自由規定)、地方公務員の選挙規定等10項目の原則を追加して、「幕僚長に対する覚書(案件)私的グループによる憲法草案に対する所見」を提出、これにコートニー・ホイットニー民政局長が署名しいわゆる「ラウエル文書」が作成された。(以前からGHQ草案を基にした憲法が制定後、憲法研究会の「要綱」と似ていることが早くから指摘されていたが、ラウエルが「要綱は民主主義的で賛成できる」と評価した文書の発見で、要綱が大きな影響を与えたことが確認された)。〉(Wikipedia)――

 では、松本委員会案を引用してみる。

 《松本国務相「憲法改正私案」》(国立国会図書館/日本国憲法の誕生) 

 (松本丞治一月四日稿/昭和21年1月4日) 

 (極秘)
 三〇部ノ内第二六号

 第三条 天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス

 第十一条 天皇ハ軍ヲ統帥ス

 第二十条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ役務ニ服スル義務ヲ有ス

 第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 第三十一条 日本臣民ハ前数条ニ掲ケタル外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナシ

 天皇の地位は大日本帝国憲法「第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と変わらない。天皇を絶対的存在として、国民を従わせようとしている。

 また信教の自由等基本的人権の保障は「安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ」とか、「法律ノ定ムル所ニ従ヒ」、あるいは「法律ニ依ルニ非スシテ」と、法律等を通した国家意志の決定にかかる、その範囲内の国民の義務・自由となっている。

 いわば国家が法律で決める制限を受けることになる。

 このことは「法律ニ依ルニ非スシテ」という文言が決定的に証明している。この意味は「法律の定めがなければ」だから、法律の定めがあれば、「自由及権利ヲ認メナイ」と裏の意味を取ることになって、国家が決める法律次第の「自由及権利」となる。

 この憲法精神には戦前の憲法精神を戦後も引き継ごうとする意志が露骨なまでに現れている。

 憲法研究会「憲法草案要綱」の要項を「Wikipedia」から見てみる。

 「日本国の統治権は、日本国民より発する」
 「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
 「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
 「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
 「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する――

 天皇と基本的人権に関する「詳細」

 天皇については、「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制を存続させる一方で、主権について「統治権ハ国民ヨリ発ス」として、主権在民の原則をとった。
 基本的人権については、人権について法律の留保などの条件をつけずに、表現の自由・法の下の平等が認められているほか、労働権・生存権・休息権・老齢福祉人格権など社会保障に手厚い人権保障が認められている。(同Wikipedia

 GHQが被占領地の法律尊重を定めたハーグ陸戦条約を厳格に守って、日本政府に憲法改正を全面委任していたなら、戦後の日本は民主化の方向に進むどころか、戦前日本への先祖返りを果たしていたに違いない。

 但し日本の戦争を肯定し、戦前日本国家を肯定している安倍晋三や産経新聞はそれらを否定している日本国憲法を戦前日本への先祖返りを潰えさせた、あるいは戦前日本を取り戻すことを断念させた元凶として認めることができないということなのだろう。

 認めることができない根拠をハーグ条約に置いている。

 例えGHQがハーグ条約違反を犯して日本国民に押し付けた日本国憲法であるとすることが真正な歴史認識だとしても、大多数の日本国民にとっては自分たちの主権者としての地位や基本的人権の保障等にとって幸いした違反であり、押し付けということになるはずだ。

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体罰は日本の伝統ではなく、江戸時代の教育現場では存在しなかったのだろうか

2014-09-24 09:00:28 | Weblog


 9月20日に当ブログ記事《安倍晋三「体罰は日本の伝統ではない」は合理的判断能力ゼロの真っ赤なウソ - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2013年2月23日記事)に対して「Unknown」氏から以下のお叱りを受けた。 

 〈江戸時代の日本の教育を調べてみろと言いたくなる記事内容ですね。無知にもほどがあります。〉

 私は主として既に事実としてある情報を自分なりに読み解いてブログ記事を成り立たせている。その事実としてある情報はインターネット等から掻き集めて、それらを組み合わせて読み解く方法を取っている。

 当然、読み解き方が間違っている場合もあるし、その方が多いかもしれないが、掻き集めなければ事実を知ることができないのだから、事実に関して“有知”から程遠い人間で、無知を曝け出す場合もある。

 その上で体罰は日本の伝統かどうか、改めて考えてみることにする。

 江戸時代までの長く続いた封建時代にしても、それ以降の戦前まで、特に戦前の軍部時代は強度の権威主義を人間関係のメカニズムとしていた。いわば上を絶対とし、下が上に無条件に従属する思考様式・行動様式となっていた。

 この強度の権威主義は戦後も暫くの間生き続け、現在もなお、その基本的なメカニズム自体は生き続けて、日本人の思考様式・行動様式を支配し、構成していると思っている。

 勿論、この権威主義は日本人にのみ特有な思考様式・行動様式ではない。かつてアメリカは白人を上に位置する絶対的存在とし、黒人やその他の有色人種を下の存在と見做して絶対的な従属を強いていた。

 現在も白人を絶対とするこの権威主義を色濃い血としている白人が少なからず存在する。その最たる存在が白人至上主義者の秘密組織であるクー・クラックス・クラウンであろう。

 権威主義の思考様式・行動様式が強度の装いを取れば取る程、上の存在を絶対とする。

 上の絶対に対して下が上の意に叶わなかった場合、上の絶対性は崩れることになる。上は自らの絶対性を守るために下に対して上の意に従わせようとする。それがただ単にどこそこへ行って何々を伝えてこいといった、上が言ったことを単に反復するだけのことなら、たいして問題はないだろうが、上が言ったことを果たすためには下の何らかの能力を必要とする場合、下が自らの能力を以って応えることができなかったなら、その責任を取らせる意味で何らかの懲罰を与えることになる。

 それが体罰の形を取らなかった保証はない。

 イジメにしても、イジメる側が自らを上の絶対的存在としているがゆえに起こる。

 親が何度注意しても、注意した行為を改めることができない幼い子に手を上げる児童虐待は親が自らを失敗も過ちもない絶対的存在に位置づけているからだろう。

 日本人が強度な権威主義を思考様式・行動様式としていた江戸時代に於いて日本の教育の現場に果して体罰は存在しなかったのだろうか。 

 斬り捨て御免は武士に失礼な振舞いに及んだ町人や商人に対する武士を絶対的存在とした最大の体罰と看做すことができる。

 上の武士が下の武士に対して詰め腹を切らすのは自分自身は手を下さないで死を以って償わせる究極の体罰と言えるはずだ。

 現在でも、イジメている相手に「死ね」とか、「生きている価値はない」とか直接罵ったりメールを送りつけたりして、自らは手を下さずに自殺に追い込むイジメのケースが存在する。

 江戸時代の村八分は村の掟に従わなかった村人に対して一切の交際を断つことで無視の形を取るイジメであろう。無視し、村を出て行かざるを得ないように仕向ける。このイジメは精神的な体罰と言うことができる。

 この斬り捨て御免や村八分の懲罰精神が教育の現場で子供同士の間に再生産されなかったろうか。

 在日の呉林俊(オ・リムジュン)著者『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和46年3月15日初版)の中に書いてあったことだが、Kなる女性が4、5歳の子供の頃、同じ年頃の朝鮮人の子どもに「チョウセン」と叫んで石を投げつけ、頭に当てたことを成長して後悔した告白を呉林俊氏に語ったそうだ。

 4、5歳の子供の頃に「チョウセン」なる存在が石を投げつけ、追い払ってもいい部外者であると知り得たのは誰かからの情報でなければならない。「チョウセン」という罵り言葉=差別意識を集約させた言葉自体にしても、彼女が4、5歳に成長して突然知り得たのではなく、誰かかの情報によって植えつけられた蔑む感情が彼女自身によって行為の形で再生産されたという経緯を取ったはずだ。

 大人たちが日常普段の生活の場で精神としていることが言葉や行動の形で現れて、それが子どもに伝わり、子どもたち自身の精神として受け継ぎ、それが子どもたちの言葉や行動となって再生産されていく。

 親から暴力を受けて育った子どもが他の子どもに対して暴力を振るうことが往々にして多いのはこのためであろう。あるいは親から暴力を日常的に受けていた子どもが親となって子どもを育てるとき、暴力を振るいやすい傾向にあるのも、このためであろう。

 ちょっと古くなるが、2007年2月8日当ブログ記事――《政治とカネ/客観的認識性と問題解決の距離-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。 

 〈児童虐待は、1980年代まで日本の専門家は欧米の問題であって、日本には存在しないとしていたという。平安・鎌倉・室町の時代から、継子いじめの物語が存在し、貧困からの乳幼児の間引き問題、捨て子問題が歴史的事実として存在していたにも関わらずである。

 継子いじめが行き過ぎて、虐待死に至らしめた事実がなかったと言えるだろうか。間引きに慣れて、単に邪魔だからと、あるいは子どもが一人増えてもどうにか食べていける状態にあっても、自分の食べ分が減るのがいやで、ついでに間引きしてしまえと殺してしまうということがなかったと言えるだろうか。

 江戸時代は間引きだけではなく捨て子が横行したというが、そのような習慣に便乗して、育児が面倒だからと、あるいは新しい男とやり直すために邪魔だからと、捨て子にしてしまうといったことはなかっただろうか。

 認識が事実をつくる。例え学校側が責任逃れからだろうが何だろうと、いじめをいじめと認識しなければ、いじめはいじめの形を取ることはないのと同じである。専門家に児童虐待という認識がなかったことが原因して、日本には存在しないとしたのではないだろうか。しかし人間の存在性を問題としたとき、その本質は民族の違い(それぞれの文化や慣習の違い)を超えて通底している。

 児童虐待という認識が社会に存在しなければ、そのような事実が起こったとしても、マスコミも世間も児童虐待とは受け取らない。虐待した相手が義父や義母であった場合は、単なる継子いじめと受け止めることになるだろう。〉――

 以上のような認識のもと、「Unknown」氏が〈江戸時代の日本の教育を調べてみろと言いたくなる記事内容ですね。無知にもほどがあります。〉と指摘したように江戸時代の教育の現場で体罰は存在しなかった、それゆえに安倍晋三言うように「体罰は日本の伝統ではない」とすることができるか、インターネット上から情報を掻き集めることにした。

 幸い掻き集めるまでもなく、格好の教材を見つけることができた。全文を参考引用してみる。青文字は『体罰の社会史』の著者である江森一郎氏自身の解説文を引用した個所である。改行を適宜施し、色付けも行った。 

《江森一郎『体罰の社会史』》三日坊主日記/2009年02月03日)
  
江森一郎『体罰の社会史』は1989年発行の本。
江森一郎氏が体罰史という観点を思いついたのは、戸塚宏『私はこの子たちを救いたい』に「日本の歴史が二千年あるとしても、体罰を否定しているのは、最近の三十年間だけで、あとの1970年間は、肯定されているのである」と言っていることだという。

江森一郎氏の考えは正反対に近い。

江戸時代以前にあって体罰否定論者はおそらく最澄と道元だろうということである。

江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。

なんと水戸黄門様も体罰反対をはっきり表明しているそうだ。

闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。

熊沢蕃山はこう書いている。

「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、『不仁』である。(教育方法を)知らないのである」

体罰を否定しているからといっても、厳しく育てるべきだとする点ではほとんど一致している。

しかし、折檻することは、親子の感情を損ね、子どもの性格を表裏あるものにするとして否定的だった。
18世紀後半になると、青陵、大塩平八郎などの体罰肯定論が出てくる。

明治初年に出た『日本教育史資料』によれば、体罰規定のある藩校と郷校は維新期に存在した270藩のうち6校である。

しかも、このうち数藩については明治になってからの規定の可能性があるという。

体罰が否定されるということは現実には体罰が行われていたからであり、藩校に体罰規定がないから体罰がなされなかったわけではない。

薩摩藩、熊本藩、会津藩では、青少年自治組織では「粗暴・残酷な罰(大体集団的リンチがある)」が行われていたが、「一般的傾向とは言えない」と江森一郎氏は言う。

また、寺子屋でも体罰はあまりなされていないそうだ。

「江戸の寺子屋では一般的には体罰に対してきわめて慎重であり、羞恥心に訴えたり、恐怖心を適度に利用したりすること自体が主だったと考えるべきである」

日本に来た外国人の多くは、日本では子どもに対する体罰がほとんど行われていないことを書き記している。

1620年ごろ、イエズス会士フロイスは「日本では、むち打ちは滅多に行わない」と述べている。

1775年に来日したツンベルクは「彼等(日本人)は、決して児童を鞭つことなし」と書いており、幕末のシーボルトは「少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない、是がため、私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」と書き、オールコックは「(日本人)は決して子どもを撲つことはない」と述べている。

このように、日本では子どもが甘やかされ、大事にされていることに驚いている。

ただし、それには美化という側面もあることを江森一郎氏は注意している。

「特に江戸期の日本人は子どもを溺愛し、甘やかすことが一般的で、体罰もあまりひどいものではなかった」

明治12年に制定された「教育令」には体罰禁止規定が明文化されている。

「学校体罰法禁の西欧最先進国であるフランスでさえ、教育令の規定より八年遅れている。それは、わが国の伝統思想の中に国民のエートスとして、体罰を残酷とみる見方が定着している」

体罰が肯定されるようになるのは日露戦争前後が一つの節目だと、江森一郎氏は言う。

「産業革命によって生じる矛盾の深刻さ、それが温床となって体罰的雰囲気が瀰漫してくる」

「体罰の乱用に決定的影響を与えたのは、帝国陸・海軍の教育(調教?)方法であったろう」

軍隊が教育の場のモデルとなった。
「上下(先輩、後輩)関係を根幹としたうっぷんのはけ口として、私的制裁・体罰の場を用意することになったのであろう。この典型が森(有礼、文部大臣)がもっとも重視して軍隊モデルに改造した新教育の寄宿舎生活の場であったことはよく知られている」

「しだいに蔓延する当時の教師による体罰の根源はここにあったのである」

明治以降、体罰が肯定されるようになったのは、体罰が当然視されている欧米の影響もあるのではないかと思う。

「わが国の近世(江戸時代)教育史に比べると、「西欧の教育史は体罰史である」と言ってもよいほど体罰で色どられている。(ちなみに、中国近世においてもそうだった。)」

ルソーやペスタロッチも体罰完全否定論者ではなかったそうだ。
フランスでは今日でも「家庭での体罰は必要悪と考えられ、そのために毎年10万本以上のむちが売られているという」

学校での体罰、軍隊での私的制裁は禁じられていたが、タテマエと実態は乖離している構造は戦後も変わらないと、江森一郎氏は言う。

体罰によって子どもがケガをしたり、殺されるという事件が今でも時々あるが、その際に子どものほうが悪いという論調が見受けられる。

子どもには厳しくするほうがいいという考えは日本の伝統とは違うんだということを知るべきだと思う。

 先ず「三日坊主」氏自身が解説しているように、「体罰が否定されるということは現実には体罰が行われていたからであり、藩校に体罰規定がないから体罰がなされなかったわけではない」は当然の認識である。

 〈江戸時代以前にあって体罰否定論者はおそらく最澄と道元だろうということである。

 江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。

 なんと水戸黄門様も体罰反対をはっきり表明しているそうだ。

 闇斎、素行、藤樹、蕃山といった儒学者や心学者も体罰を否定している。〉――

 体罰が存在するから、あるいは横行しているから、否定しなければならなかった。

 〈折檻することは、親子の感情を損ね、子どもの性格を表裏あるものにするとして否定的だった。〉同じ文脈を取ることになる。折檻が横行していたから、教育上良くないからと否定しなければならなかった。

 否定して簡単になくなるなら、今の時代、イジメも体罰も存在しないことになる。

 「いじめ防止対策推進法」でイジメを禁止規定にしているからといって、イジメが存在しなくなったわけではないのと同じである。体罰にしても厳しく禁止しているが、なくなってはいない。法律や社会的ルール上の禁止行為と現実世界の行為は裏返しの関係にある。

 そうである以上、〈明治初年に出た『日本教育史資料』によれば、体罰規定のある藩校と郷校は維新期に存在した270藩のうち6校である。〉と書いているが、残る264藩の藩校と郷校の全てが体罰に関して何も書いてないからといって、あるいは体罰禁止規定が書き記されていたとしても、このことだけで264藩の藩校と郷校の全てで体罰は存在しないと断定することはできない。

 江戸時代の教育現場に於いても体罰は存在した。

 熊沢蕃山「聞いたことも見たこともない事を、読もうとする気もない子にまずい教え方で読ませれば、先にやったことは忘れてしまうのは当然だ。それを覚えが悪いの、忘れてしまったのと打ちたたきするのは、『不仁』である。(教育方法を)知らないのである」

 「打ちたたき」の体罰が横行していた。

 明治12年に制定の「教育令」が体罰禁止規定を明文化しなければならなかったのは、体罰を教育上の伝統とし、文化としていたからだろう。もし〈江戸時代の初めごろから体罰が忌まれるようになった。〉が事実としたら、体罰はタブーとして明治の時代にも引き継がれていたはずで、体罰禁止規定を明文化する必要はなかったはずである。

 まさか江戸時代には存在しなかった体罰が明治の時代に入って突然日本人の教育の方法として出現したわけではあるまい。

 以上のような体罰の情景に対してキリスト教の布教で来日していた宣教師等は、「日本では、むち打ちは滅多に行わない」「彼等(日本人)は、決して児童を鞭つことなし」「少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない、是がため、私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」「(日本人)は決して子どもを撲つことはない」と見ていた。

 このような外国人の認識に対して江森一郎氏が〈それには美化という側面もある〉と注意していると書き記しているが、美化とは限らない。彼らの前では体罰を行わないか、日本人が劣る民族であると思わせないために体罰は存在しないと説明したか、あるいは殴ったり、打ち叩いたりするのは教育上の躾であって、体罰だと認識していなかったか、いずれかを考えることができる。

 美化も含めて、いずれも人間営為には付き物の心理の働きであるからだ。

 現在でも体罰を教育と看做し、躾や鍛錬だと位置づける親や教師が存在する。

 日本人だけが特別な存在ではない。様々な法律や通達で雁字搦めにしても、体罰やイジメは無くならない。特に上位に位置する者が強度の権威主義に囚われていた場合、上位者である自己を絶対とする余り、下位者のちょっとした過ちや失敗を許すことができなくなって、感情的に許すことができなくなる分、その懲罰意志は身体的力を用いなくても、長時間正座させたり、立たせたりして肉体的と精神的苦痛を与える体罰を発動させやすくなる。

 あるいは仕事を取り上げて閑職に追い遣るというパワハラは現在でも存在する。

 いつの時代に於いても基本的には変わらないはずだ。

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より公平な社会は豚肉、米等輸入関税撤廃、消費税に軽減税率を設けて中低所得層の可処分所得を増やして実現

2014-09-23 09:48:28 | Weblog





      生活の党PR

      「中央日報(韓国日刊新聞)小沢一郎生活の党代表インタビュー掲載」案内

      是非ご一読を。

       《小沢一郎氏「安倍首相が考えを変えない限り、安倍首相を変えるしかない」(1)(2)(3)》    

 安倍晋三がいくら賃金が増えたと言っても、円安と消費税増税による物価高によって実質賃金は年々減少している。大体が安倍晋三の経済政策アベノミクスを多くの人が社会の様々な格差を加速させる“格差ミクス”と見ている。

 企業にしても安部晋三から尻を叩かれて大手企業の正規社員を中心として賃金を少しばかり上げたが、少しばかりだから、円安と消費税増税による物価高に賃金が追いつかないことになるのだが、その主たる基本的原因は国際競争力確保を大義名分として内部留保を優先させているからで、いわば企業自体が社会に向けた利益還元の元栓を限りなく閉めた状態にしているから、段階的に社会の下層に向かって潤沢に流れていくべき利益が阻害されることになっているからだろう。

 しかも雇用形態が年々正規社員が減少して、非正規社員が増加する傾向を取っている。この傾向は全体的な人件費低下状況となって現れる。

 2013年の役員を除く雇用者5201万人のうち,正規の職員・従業員は3294万人で、前年比46万人減少。非正規の職員・従業員は1906万人で、93万人増加となっていて、雇用者全体に占める非正規雇用者は約37%、3人に1人に近づいている。

 但し企業としても経営規模や経営成績発展のために優秀な人材を高額賃金を保障する形で確保しなければならない。優秀人材と非正規と賃金の2極化が益々進むことになる。

 上を手厚くするために下を削り取らなければならないという現象も否定できない。その象徴が経営者の最近の報酬の状況に見ることができる。典型的な例であるが、日産自動車のカルロス・ゴーン社長の2013年度の役員報酬は9億9500万円となっている。

 以下8億とか、6億といった報酬を受け取っている役員もいる。企業の利益が社会の下層にまで流れていかない中での役員の高額報酬である。下への流れを極力少なくすることによって上への流れを多くできているということも疑えないことはない。

 結果、中低所得層の常に生活の圧迫を受ける生活苦の状況は現在も将来も変わらないことになる。つまり賃金には期待できない層が存在し続ける。

 但し低い賃金であっても、可処分所得を増やすことによって見かけの賃金を増やし、生活苦を現在以上に和らげることはできるはずだ。

 例えば現在、アメリカとTPP交渉を進めているが、高い関税をかけている輸入産品の関税を撤廃して、ゼロにしたらどうなるだろう。

 1キロ約65円以下の安価な輸入豚肉は現行482円の関税をかけているという。いわば100グラム6.5円の輸入豚肉が関税込みで54.7円で日本に入って、そこへ流通費やスーパー等の店舗の利益が上乗せされて消費者は買うことになる。それが関税込み54.7円の3倍か4倍の100グラム150円とか200円といった値段となるということであろう。

 もし関税撤廃してゼロとなった場合、1キロ65円以下で入ってきて、それが流通経費や店の利益を上乗せして3倍、4倍となっても、1キロ(100グラムではない)200円から300円の間で買い求めることができる。100グラムに直すと、20円から30円となる。

 関税撤廃で安価な輸入食品を買うことができることによって生じるこのような可処分所得は、1日だけのことではなく、毎日繰返されることを計算すると、中低所得層にとって無視できない金額となる。

 インナーネット上で、約10kgのカリフォルニア産米が約800円の値段だという記述を見つけたが、それが現在778%関税の関税をかけられて、約6224円となる。結果、日本産の10キロ2千円から3千円の米を買わなければならなくなる。

 外国産米が少しぐらい味が落ちても、味醤油を少し混ぜて炊くだけで、香ばしいご飯とすることができる。可処分所得が飛躍的に増えれば、少し贅沢に食材を増やして炊き込みご飯にすれば、美味しく食すこともできる。

 勿論、輸入農畜産物の関税をゼロにすると、日本のコメ農家や畜産農家が打撃を受ける。

 だが、農水省統計で平成26年の農業就業人口は226.6万人に過ぎない。そのうち基幹的農業従事者(自営農業に主として従事した15歳以上の世帯員(農業就業人口) のうち、普段の主な状態が「主に仕事(農業)」である者で、主に家事や育児を行う主婦や学 生等を含まない。)は167.9万人となっている。平均3人世帯として、約503.7万人が農業生産で暮らしている。

 しかも65歳以上農業就業者が144.3万人もいる。高齢化は進み、後継者不足で年々農業就業者が減っているという現状もある。

 この農業就業人口に畜産農家も入っているのだろうか。一応、入っていないと見て、計算してみる。

 200年の家畜飼養農家戸数は、乳用牛が、33600戸、肉用牛が116500戸、豚が11700戸の合計16万1800戸。平均3人家族として、約50万人が家畜飼養で生活していることになる。

 一方、福島県を除く「平成24年国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省)の「世帯数の所得金額階級別相対度数分布」を見ると、「平均所得548万2千円」に対して平均所得金額以下の世帯が国民の半数以上の60.8%も占めている。

 所得の分布状況は――

 「300~400 万円未満」13. 4%、
 「200~300万未満」12.4% 
 「100~200 万円未満」13. 0%。
 「100万円未満」6.9%

 13. 4%の「300~400 万円未満」の世帯はどうにか生活ができるとしても、200万円以下の合計32.3%の世帯は、日本の人口を1億3千万として、4千199万人の国民の生活が圧迫されていると見ることができる。

 農業生産の約503.7万人と家畜飼養の約50万人、合計約550万人の生活者を高い関税で保護することによって、7倍以上に相当する4千199万人の中低所得層の生活が圧迫されていること異なる。果たして公平と言うことができるだろうか。

 農業生産物に関わる第2次産業生活者や第3次産業生活者は無視する。関税ゼロにすれば、輸入農畜産物が増えるから、その加工や売買に関わることで生活のお応用が効くことになるからだ。

 また、食料安全保障の観点から、関税撤廃に反対する勢力が存在するが、輸入先を多角化することによって解決できないことはあるまい。

 勿論、輸入関税ゼロにすることによって打撃を受ける生産者の生活は転職や高級品生産への転換等によって保障しなければならない。相手が高齢者の場合、廃業保証も必要になるだろう。

 恒常的に生活を圧迫されている中低所得層の可処分所得を増やすもう一つの有効な方法が消費税の軽減税率の適用であろう。常日頃から、消費税率が上がると低所得者ほど収入に対する食料品などの生活必需品購入費の割合が高くなり、高所得者よりも税負担率が大きくなる、いわゆる消費税の逆進性が言われている。

 この不公平を正すために食品等については軽減税率を設けるべきで、設けることによって中低所得層は可処分所得を増やすことができ、生活を楽にすることができる。

 尤も高額所得者程生活品の消費により多額のカネをかける関係から、軽減税率を設けると、中低所得層よりも遥かに負担を免れる額が多くなると軽減税率に反対する向きがあるが、その分、所得税の累進課税率を高くして、軽減税率設定で想定される消失分を取り戻せばいいはずだ。

 以上のような方法で中低所得層の可処分所得を増やすことによって、逆に消費が高まることが予想される。個人消費はGDPの6割を占める。その大部分が中以上の所得層の消費が占めることになっていたとしても、中低所得層の消費にしても活発となれば、企業も利益を得ることができ、国の経済も活発となる。

 僅かではあるが、より公平な社会を築くことができる。 

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羽田空港の発着枠増加による利用客増と成田利用客減が占う安倍晋三の地方創生

2014-09-22 09:31:46 | Weblog


 「asahi.com」によると、羽田空港国際線のゴールデンウイーク期間中(4月25日~5月6日)の出入国者数は前年比42%増の約34万1400人(速報値)にのぼったと伝えている。

 対して成田空港の国際線のゴールデンウイーク期間中(4月25日~5月6日)の出入国者数は約74万5490人で、昨年の77万7010人より4・1%減少(速報値)。

 この対照的増減は今春、羽田空港の国際線枠が拡大されたのを受けて日本航空や全日本空輸などの国際線が成田から羽田に週63便シフトしたことが大きく影響しているという。

 また、第2次安倍政権発足以降訪日外国人の増加傾向は円安とビザの発給条件が緩和されたことが原因しているという。

 国際線枠拡大にしても円安にしても、ビザ発給条件が緩和にしても、国の政策である。但しビザ発給条件緩和と円安の恩恵を受けた点については成田にしても羽田にしても、同じ条件となる。

 主として羽田空港の国際線枠拡大が影響した羽田と成田の国際線旅客数の増減ということになる。

 羽田空港の国際線枠拡大という国の政策に対して成田空港は無力であり、羽田空港は労せずして実績を上げることができた。いわば国の政策に左右されたそれぞれの趨勢ということになる。

 成田と羽田を自治体に置き換えたらどうなるのだろう。成田は首都東京の国際空港として発足しているために出入国者数は羽田の約2倍となっていて、依然日本一の座にあるのに対して羽田が地理的に東京に位置しているという事情の違いはあるが、羽田にしても成田にしても国の政策下に位置していることから、両方共地方と位置づけることができる。

 石破地方創生相は地方創生に関して常々、「国が何をするかではなく、地方が何をしたいか、市町村から色々な意見が出てくるものを国は支援する」と言って、地方創生の責任を地方に置いているが、かつての自民党政権は中央集権体制を敷いて国全体の政策を決める権限とカネを握っていたのである。

 地方の側から言うと、国が決めた全体的な政策に従属する形で地方それぞれの政策を決める体制に慣らされて、地方が独自の政策を立案する能力にしても、立案した政策を地方独自の方法で主体的に実施し、その成果に責任を持つ姿勢にしても育てる機会を与えられなかったことから、地方が政策的に自立できない状態のままに現在に至っていることになる。

 しかも地方の主体性や裁量権を阻害するヒモ付き補助金を2011年に民主党政権が廃止し、交付金の一部を地方自治体の裁量で自由に使える「一括交付金」として創設したが、安部政権は2013年度予算案でそれを廃止して、交付金制度を先祖返りさせる形でヒモ付き補助金を復活させている。

 これは地方が政策的に自立できない状態に閉じ込めておこうとする試みであろう。

 にも関わらず石破茂にしても安倍晋三にしても地方に責任を求めようとしている。

 石破茂は金沢市の9月13日の講演で次のようにも言っている。

 石破茂「北海道から九州・沖縄まで事情が違う。日本全体で同じことはやらない。うちの街を良くするためにと地方から(具体案を)言ってくれば、人も出すし、お金も支援する。だが、やる気も知恵もないところはごめんなさいだ」(MSN産経

 石破茂は自民党政権が今まで日本全体で同じ政策を押し付けて地方を政策的に自立できない状態に閉じ込めておきながら、そのことを忘れて、今になって「日本全体で同じことはやらない」と言い、口では自発性と自立を求めている

 石破茂は9月20日の宮崎市の講演では次のように発言している。

 石破茂「『うちの町をこうしたい』というアイデアは、霞ヶ関では考えられないが、知恵と熱意のあるところには国は全面的に応える。地元の人たちが考えたことに霞ヶ関や永田町が全力で応える『地方創生』が日本を救う唯一の道だ」(NHK NEWS WEB
 
 石破茂「うちの町をこうしたいというアイデアは地元でなければ考えられない。それをどう引き出すか。霞が関から若くて知恵のある人を希望があれば出す」(時事ドットコム

 霞ヶ関の若い官僚の思考は先輩官僚から中央集権の血を受け継いでいるはずだ。地方が政策的に自立できていない状態にあり、独自の政策を立案する能力や政策を主体的に実施し、その成果に責任を持つ姿勢が育っていないところへ中央集権の血を受け継いだ官僚を送り込んでも、地方を支配する思考力学だけが働いて、派遣された官僚たちは中央の遠隔操作の駒と化すだけだろう。

 羽田国際線枠拡大等の国の政策を受けた羽田空港のゴールデンウイーク期間中の国際線出入国者数が大幅に増加し、その分成田空港の国際線出入国者数が減った現象は国の政策に従属するだけの地方の姿と重なる。

 いわば成田は日本の多くの地方と同じように自らのアイデアや政策を持ち得なかった。様々な手を打っていたとしても、有効打となり得なかった以上、手を打ったことにはならない。

 羽田にしても同じだろう。国の政策の恩恵次第の地方の姿と変わらない。

 地方創生が実現するか実現しないか、その成果は地方が自立できていない以上、いわば国に従属する形で地方を成り立たせ、現在もそのような姿勢でいる以上、羽田空港と成田空港の国際線乗客数の増減が自分たちの政策からではなく、国の政策を受けた結末であるように、乗客数の増減通りに最終的には国の政策が占うように思えてならない。

 だが、これまでの国の政策は地方を創生させることができなかった。自民党の各歴代政権が地方を自立させなかった、その延長線上に現在の地方があるのだから、安部政権が急に自立を言い始めても、急には言うとおりには対応できないだろう。
 
 羽田空港と成田空港の国際線乗客数増減から地方創生の前途多難を感じた。

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安倍晋三のパフォーマンスなのか、フリースクール視察で披露したズレた教育観

2014-09-21 06:00:31 | Weblog

 
 安倍晋三が9月10日、東京・北区のフリースクールを視察した。記者が追いかけていき、写真を撮り、最後に安倍晋三の周りを囲み、ICレコーダーを突き出して、話を聞くという段取りだったのだろう。

 《首相がフリースクール視察 支援検討》NHK NEWS WEB/2014年9月10日 21時34分)

 視察の内容自体は週1回の音楽の講座に参加して子どもたちに交じって打楽器を使って演奏をしたほか、在校生や卒業生と意見を交わしたという。

 和気藹々だったようだ。
 
 安倍晋三「子どもたちが、いじめなどで学校に行けなくなっている状況から目を背けてはならない。不登校になっている子どもたちにとって、フリースクールのように、様々な学びの場があることや、そこでの経験も生かしながら将来に夢を持って頑張っている子どもたちがいることを多くの人に伝えていきたい。

 様々な生き方、学び方があるということも受け止めながら対応していくことが大切であり、学習面において、あるいは経済面において、どういう支援ができるか検討するよう、下村文部科学大臣に指示したい」――

 優れた教育観の持ち主でなければ、このような素晴らしい言葉は出てこない。

 フリースクールについての記事の解説は、〈不登校になった子どもたちなどが学んだり進路相談を受けたりする民間の施設〉だと紹介している。

 イジメなどで不登校になった子どもたちを受け入れ、「様々な生き方、学び方」の提供の場となっているフリースクールは確かに貴重な存在で、安倍晋三はその存在意義を十二分に理解していることになる。愛国心教育を掲げているだけあって、さすがであると言いたい。

 但し、さすがであるとばかり言ってはいられない。本来は一般的な小学校・中学校・高校が「様々な生き方、学び方」を提供する場でなければならないはずだ。

 そのようになっていないから、そこから弾き出されて、子どもたちはフリースクールに「様々な生き方、学び方」を求めなければならない。

 このような状況は当たり前の教育という観点から言うと、実際には本末転倒であるはずだ。そうであることに気づかずにこのような発言をしているのだから、ズレているとしか言い様がない。

 教育とは社会の成員としての資質を身につけていくこと――社会の成員に相応しい人間形成にあるはずである。テストの成績で計る学力のみで人間形成ができるわけではないのに、大人たちは子どもたちの主たる可能性や価値観をそのようなテストの成績で計る学力に限定、統一し、「様々な生き方、学び方」を排除している。

 いわば子どもたちの主たる可能性や価値観を学力に限定していることの裏返しとしてある「様々な生き方、学び方」の排除ということであろう。

 小学校・中学校・高校が「様々な生き方、学び方」を提供する場となっていないから、子どもたちは学校というものがそのような場であることを学ばず、人間の可能性や価値観というものが様々であるということも学ばず、子どもたち自体がテストの成績で計る学力でお互いの可能性や価値観を評価・判断する狭い世界に生息することになっている。

 イジメにしても、子どもたちがお互いの可能性や価値観が様々であることに無知であることに原因があるはずだ。気に入らない、いい子ぶっているとイジメるのは自身の価値観に反していることのみを以って他者を評価・判断するからだろう。イジメの対象としたその子なりの可能性を評価・判断することができないからだろう。

 緊急避難の場所としてフリースクールの存在意義は認めるが、「様々な生き方、学び方」の提供は一般の学校でこそ定着させなければならない課題であることをそっちのけにした安倍晋三の視察発言となっている。愛国心教育といった国家という上からの教育観に囚われているから、このようなズレた発言をすることになる。

 要するに人気取りのパフォーマンスに過ぎない。教育というものに地に足を着けた視察とは決して言えない。

 上記記事配信の翌日、安倍晋三の視察を、題名通りに皮肉な結果とする記事を配信している。

 《【教育動向】不登校児童生徒が6年ぶり増加 懸念される今後の動向 斎藤剛史》MSN産経/2014.9.11 15:00)

 記事は《Benesse教育情報サイト》からの転用となっている。 

 以下主な内容を拾ってみる。

 文科省は、「病気」と「経済的理由」以外の原因で「年間30日以上」の長期欠席した児童生徒を「不登校」と定義しているということ。

 文部科学省の14(同26)年度「学校基本調査」(速報)によると、最近5年間は減少傾向にあった小中学校の不登校が2013(平成25)年度に6年ぶりに増加したということ。

 人数的には中学校での不登校の増加が目立つが、全児童生徒に占める不登校児の割合では小学校も0.36%と過去最高水準に戻ったということ。

 2013(平成25)年度中に不登校だった小中学校(中等教育学校前期課程を含む)の児童生徒は2012年度比6,928人増の11万9,617人であること。

 前年度から6,928人も増えて11万9,617人も不登校児が存在する。11万9,617人もの生徒が一般の学校で「様々な生き方、学び方」を許されずに弾き出されたと解釈すべきだが、自分なりの生き方、学び方を見い出すことができず、自分の居場所がないなりに学校内に留まっている生徒もいるだろうから、「様々な生き方、学び方」を認めて貰うことができない生徒は不登校児を含めて相当な人数に登ると見なければならない。

 記事に戻る。

 小学校と中学校の両方で不登校が増加し、特に中学校での増加幅が大きいこと。中学校では40人学級の場合、クラスに1人は不登校の生徒がいる計算になるということ。

 小学校は中学校に比べると人数・割合ともに低いものの、少子化により児童の全体数が減少していることもあって、全児童数に占める不登校の割合は、これまで最高だった2000~02(平成12~14)年度の0.36%に並んで過去最高の水準に戻ったということ。

 不登校の増加については教育関係者などの間では、いじめ自殺事件や体罰自殺事件などが相次いだことにより、子どもの安全のため不登校を容認する保護者が増えたことが原因の一つと見る向きもあるということ。

 このことはイジメや体罰を受けた生徒が自殺を選択しなければならない程に「様々な生き方、学び方」が許容されない閉塞した学校社会となっているということでもあるはずだ。「様々な生き方、学び方」を基盤として社会人となるべく人間形成していく教育の場とはなっていないということを示唆している。

 文科省「調査は不登校の理由まで聞いていないので、なぜ増えたかはわからない」

 今後発表予定の不登校の理由まで調べている「問題行動調査」の結果を持って、詳しい対策を打ち出す方針であるということ。

 中学校での不登校の増加は小学校から中学校進学時の急激な変化になじめない「中1ギャップ」なども原因の一つと指摘されており、今後、学制改革の一環として検討されている「小中一貫教育学校」(仮称)の創設などの議論に大きな影響を及ぼすことが予想されるとのこと。

 この「中1ギャップ」も、「様々な生き方、学び方」が許されていないことの反映としてある現象であろう。

 小学校の時と違う子どもと交わることは、勿論、性格が合うかどうかの問題が絡んでくるが、子どもが違えば、その違いに応じてその子が持つ世界もそれなりに違ってくる関係から、今まで知らなかった違う世界と交わるチャンスとなり、それは自分の世界を広げる刺激やキッカケとなり得る。

 違う世界とは地理的や人間関係等の生きる環境の違いも含めて、違う生き方によって形作られる。

 もし小学校で十分に「様々な生き方、学び方」を認め合う訓練がなされていたなら、その流れで中学校に入って初対面の子どもであっても、相互に相手の生き方の違い、学びの違いを、それが反社会的・反道徳的でさえなければ、それ相応に受け入れることができることになる。

 その子がどのような生き方、学び方をして自分とは違う世界を築いていようと、お互いの違いを認め合うことができる。

 但し、交際するかどうかは別問題である。

 交際する場合、違いを認め、その違いに刺激を受けて、自分の世界を広げていくことが可能となる。このような成長の過程こそが、あるいは人格形成の過程こそが、「様々な生き方、学び方」の訓練そのものとなる。

 もし小学校で「様々な生き方、学び方」の訓練を受けていたなら、それを受け継いだ中学校での「様々な生き方、学び方」の反復・延長となる。

 子どもたちが相互に「様々な生き方、学び方」を許容できる身についた思想となっていたなら、中1ギャップという現象は無いに等しい小さな問題となっていくはずだ。

 安倍晋三は人気取りのために不登校の子どもたちにも理解があるところを見せたかったのかもしれないが、「様々な生き方、学び方」は一般の学校でこそ確立すべき教育体制であって、基本的には安倍晋三らしい履き違えた、ズレた発言としか言い様がない。

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