今日(07.11.30)夕方7時のNHKニュースで、<大学や高校を卒業するときにいわゆる就職氷河期を迎え、思いどおりの就職ができなかった人たちに再チャレンジの機会を与えようと行われた国家公務員の中途採用試験の合格発表が行われ、150倍以上の狭き門をくぐり抜けて162人が合格を果たしました。>(文章はNHKインターネット記事≪再チャレンジで162人合格≫)とやっていた。
ついでに時事通信社のインターネット記事を覗いてみた、
<人事院は30日、フリーターや子育てを一段落させた女性を含む幅広い人を対象に実施した国家公務員中途採用者選考試験(再チャレンジ試験)の合格者を発表した。合格者数は162人(うち女性34人)。申込者数は2万5075人(同7882人)だったため、倍率は155倍となった。
同試験は学歴と職歴を問わず、4月1日現在の年齢が29歳から39歳までであればだれでも受験できる。合格者も各年齢からまんべんなく出ていた。>(2007/11/30-17:25 ≪再チャレンジ試験で162人合格=人事院≫
「学歴と職歴を問わず」と言うことだが、大学卒業時期と「就職氷河期」が運悪く重なってしまって思うような就職先を選ぶことができなかった知合いの30歳の男性が受験したことを思い出した。
「どうせダメですよ。大学卒業して7年、頭がサビ付いているし、155倍ですからね、何と言っても」
自信なさそうに言っていた。
「ダメモトでやるさ」
自分のことではないから気楽なことを言う。だが、自分のことではなくても結果が気になる。ダメだったら、聞いて悪いかったということになるが、自分のことではないとなると野次馬根性は押さえ難く旺盛になる。「155倍」の本人に対する運命を知りたいではないか。ダメだった場合、「155倍だからなあ」と倍率に責任をかぶせることができるし、本人にしても「155倍」をダメ理由とすることがきる。
電話して合否を聞いてみた。
「えーえ、お蔭さまで合格できました」
弾んだ声で言う。受かっていてくれればいいがと思いつつかけはしたが、合格と知った瞬間、何だか騙されたような気がした。あの自信のなさはウソだったのか。155倍は何だったのだと、「155倍」という倍率にも誤魔化されたような気がしてきた。
「155倍を見事突破できました」
受話器を通しても抑えきれない嬉しさが伝わってくる。何だかたいしたことのない「155倍」に見えてくるから不思議だ――と言ったら、不合格の受験者に失礼になるだろうが。
「よかった。おめでとう」と言うだけで電話を切ったのでは、あいつ、不合格を期待して結果を聞いてきたのではないかと勘繰られそうで、将来の抱負を聞いてみた。
「一応大学を出ています。ノンキャリアでもノンキャリアに最大限可能な昇進・昇給に励み、地を這ってでも天下りできる地位にまで出世したいと思います。天下りを経験しない公務員なんて、公務員として失格者の烙印を押されるようなものです」
一段と声を高くして雄弁に一気に喋った。何とも頼もしい限りではないか。雄弁はとどまるところを知らない。
「外部と契約業務に関わることのできる課長とかにまで出世したなら、随意契約で最大限キックバックの甘い汁に預かり、ゴルフ接待は勿論、飲み食いの接待を受けて愉しい公務員生活を送りたいと思います。公務員の特権です。大学卒業後3年間もフリーターしか職にありつくことができず、その間ずっとネットカフェ難民状態だったですからね。まだ人間を取り戻していません。公務員になれて、初めて取り戻せると思います」
ネットカフェ難民から抜け出した後、史上空前の何兆という営業利益を上げている企業に勤務したものの、身分は派遣社員、契約社員でしかなく、毎日のように2時間残業、3時間残業はザラの安い給料で夜遅くまでこき使われて、人間を取り戻せないままの境遇に置かれてきた。
「いいところへ天下りできるといいね」
本人の希望には逆らうことはできない。
「一度の天下りで満足するつもりはありません。まだよく事情は分かりませんが、ノンキャリアに許される範囲の〝渡り〟を繰返します。回数ごとに減っていくでしょうが、希望としては3回か4回の退職金を手にしたいですね」
世の中は様々だ。離婚を繰返すごとに慰謝料と養育費で財産を減らしていく人間と、天下りを繰返す〝渡り〟で得る高額給与と退職金で財産を増やしていく人間。小泉元首相は「人生色々」と言ったが、その「色々」の中に上記二つの人生模様も入れていたのだろうか。
「自分のカネで絶対ゴルフはしません。自分のカネで飲み食いしません。自分のカネで飲み食いするとしたら、家で5リットル2~3千円のペットボトル入り焼酎ですね。自分のカネは爪に火を灯すように最小限に切り詰め、人様のカネで勝負します。リタイヤしたとき安穏で豊かな老後の生活が送ることができるための備えです。年金は当てにしません。いくらいい年金を貰っても、年金だけではいい暮らしは望めませんからね」
それって自分のために尽くす公務員と言うことではないかと思ったら、
「僕は公務員になった以上、自分のために尽くすべきだと思います。悪いですか?」
悪いなどと毛ほども思っていない無邪気な聞き方をした。
「悪くはないさ。先輩方の教えをしっかりと守り、先輩方の態度をよく見習って、一日でも早く先輩方と瓜二つの公務員になることだね。それが成功したら、必ず君の希望は叶う」
「勿論何から何まで先輩の教えを守り、何から何まで先輩の態度を見習って、自分の希望を必ず叶えます」
彼を責めることはできない。少なくとも公務員を職としている人間は責める資格はないのではないだろうか。彼の目指す公務員像は公務員世界の体質・慣習をそっくり凝縮した姿だからだ。公務員として立派な志だと逆に褒めるべきだろう。
天下り慣習は武士の情けからなのか
大関在位44場所目で史上最多の11度目のカド番に立たされて迎えた大相撲九州場所(福岡市・07.11.11~11.25)13日目で7勝6敗と負け越しにあと2敗と残すところがなくなったばかりか、「負け越せば引退」と本人自らが口にしていた大関魁皇の勝ち越しがかかった大事な14日目の同じ大関琴光喜との取組みを25日(07.11)の『西日本新聞』インターネット記事≪魁皇 耐えて勝ち越し 満身創痍 かど番11度 現役続行を明言≫は次のように伝えている。
<鋭く踏み込んで前へ攻め抜いた。相手の左腕を手繰って右、そして左と、もろ差しに。追い込みながら左下手投げで転がした。大歓声に包まれ土俵を下りると感無量の表情に。5勝5敗となった10日目に「負け越したらもう終わり」と自ら退路を断った戦いに勝ち、来年初場所も大関として土俵に上がることができる。「もちろん、そのつもり(来年も現役)でやる」と前を見据えた。>
だが、新聞記事では一見快勝に見えるこの一番は既に9勝を上げて勝ち越しを決めていたものの、初日に黒星、中日に黒星、そして魁皇戦の前々日(千代大海戦)と前日(安美錦)に続けて敗れて優勝戦線から脱落していた琴光喜が勝ちを譲って魁皇のカド番脱出に手を貸したからこそ実現できた魁皇が「転がし」、琴光喜が「転が」された快勝のようにも見えた。
魁皇は福岡県直方市出身だそうで、九州場所はいわゆるご当地場所である。ご当地贔屓もあってその声援には場内一丸となって手拍子で後押しする景気のよさがあった。そのような魁皇ファンにしたら正真正銘の「左下手投げで転がした」快勝でカド番脱出、見事に勝ち越しを決めた一番と見たに違いない。
かけた色眼鏡によっても勝負の見え方が違ってくる。利害損得がかけさせた色眼鏡ということもある。
今年6月に入門したての17歳の時太山を「かわいがり」と称する「指導」で制裁を加え、暴行死に至らしめた時津風親方の事件がテレビ・新聞を賑わしていた10月頃、どこのテレビ局か忘れたが、ワイドショーにコメンテーターとして生主演していた元小結で現在タレントの竜虎が竹刀で叩くこともあるが、そういった厳しい指導は若い力士に強くなってもらいたい「愛情」からの厳しさで、ビール瓶まで使った制裁まがいの指導は時津部屋に限った異例のことでどの部屋でも行われていることではないと大相撲擁護の主張を展開、「週刊現代」が1月に報じた横綱朝青龍八百長疑惑問題もあり得ない話と言下に否定、7勝7敗で迎えた力士の千秋楽で不思議と勝ち越しを決める相手力士の力を抜いた相撲に関しても八百長ではなく、「武士の情けだ」と「武士情け説」を打ち立てた。
確か、お互いに一生懸命相撲を取っている、相手がこの一番で負け越して現在の地位を失って番付を下げるのは忍びないと、「武士の情け」から勝ちを譲るのであって、決して八百長ではないといったことを言っていた。
「武士の情け」も愛情の一種だが、ご大層なことで恐れ入る。そういった理由からだとしても、自分が既に勝ち越していて、ここで一番負けても番付が下がる心配はない余裕があってのことで、そこには損得勘定の計算が否応なしにも存在する。
負け越していた力士が7勝7敗の力士に「武士の情け」から勝ちを譲って勝ち越しを果たさせることもあるだろうが、相手力士に何らかの義理があって、一番負けても番付をさらに一枚余分に下げるだけのことだと損得計算があっての譲りであろう。もしその力士がここで負けたなら十両に落ちるという位置にいたなら、いくら義理があっても勝ちを譲ることはできまい。次の場所で再入幕できる成算を持った力士は殆どいないだろうから。
逆に十両に落ちないように「愛情」もしくは「武士の情け」をかけられて、相手力士から自らの勝ち越しを捨てて負け越しを選ぶ「愛情」もしくは「武士の情け」を受けるといったことは十分に考えられる。
また、一度勝ち譲って勝ち越しの機会を与えことのある力士が自分が7勝7敗で勝ち越しのかかる千秋楽の一番を迎えたところ、一度勝ちを譲った相手だった場合、勝ちを譲ってもらうお返しを願うことはないだろうか。もし相手が期待に応えなかった場合、何だ、あの野郎ということになるに違いない。恩知らずな野郎だと。
このような感情の発露(=怒りの発露)が生じるということは利害損得の感情が絡んでいるからに他ならない。勝ちを譲る星の分け合いは決して無償の行為ではないと言うことである。
逆説するなら、「愛情」にしても「武士の情け」にしても、無償の「愛情」、無償の「武士の情け」など存在しないと言うことの証明でしかない。人間という生きものが利害損得の生きものであることによって宿命づけられた手かせ・足かせであろう。
男女の「愛情」にしても、一頃前は「三高」と言って、高収入・高学歴・高身長が若い女性の最適な結婚条件と騒がれていて、利害損得に操られていた。
このことは現在も似た状況にある。年収が低いと結婚率が低いという昨今の統計にしても、収入が結婚に於ける利害損得の対象となっていることを証明している。「高収入」ほど結婚率が高いということだが、「三高」のうちの「高身長」は生まれつきのものでどうしようもないが、カネがあればスーツから靴、腕時計、ネクタイとブランド品で身を固めることができ、それ相応に見栄えをよくすることができるから、「高収入」によってある程度カバーできる「高身長」と言うことになる。そしてそもそもの「高収入」は学歴が何と言ってもモノを言うから、「高収入」の中に「高学歴」の条件は一般的にではあるが、暗黙のうちに満たされていることになる。
独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の調査として≪年収低いと結婚率も低く≫(05.8.3『朝日』夕刊)なる記事が次のように伝えている。
<25~29歳でみると、年収が500万円以上あると半数以上が結婚している一方、パート・派遣など非正規雇用者の結婚率は14.8%にとどまった。晩婚化や非婚化は若者の価値観だけの問題では ないことが鮮明になった。
仕事の有無や内容、家族関係などについて5年ごとに調べる総務省の就業構造基本調査(02年、対象約44万世帯)のデータを同機構の「若年移行支援研究会」が分析した。
まず何らかの仕事をしている有業男性の結婚率は、25~29歳では32.4%、30~34歳は57.2%だった。 これを年収別に集計したところ、25~29歳の年収1千万~1499万円では結婚率72.5%に達しているのに対し、年収250万~299万円では26.3%、300万~399万円は35.6%にとどまる。
30~34歳では年収300万円以上で過半数が結婚しているが、高収入層ほど結婚率も 上がるという傾向は変わらない。
雇用形態で見ると、30~34歳の正社員の結婚率は59.6%、自営業者は64.5%だったのに対して、非正規雇用者では30.2%と半分以下だった。
さらに仕事をしていない無業男性の結婚率は、25~29歳で7.5%、30~34歳で15.8%にとどまっている。
小杉礼子副統括研究員は「少子化につながる晩婚化、未婚化と、若者の就労問題は切り離して考えられない。とくに最近はパートや派遣など非正規雇用が増え、収入面で結婚に踏み切れない人が増えているのではないか」と話している。 >
結婚が如何にカネがあるなしの利害損得の力にかかっているかを証明して余りある。テレビで活躍するギャルタレントたちは「結婚相手の条件は?」と聞かれて、「おカネのある人」と言って憚らない。
ここ2、3年の傾向として非正規雇用社員の増加傾向と一般労働者収入の低下傾向にあるから、上記の結婚と収入の関係を当てはめると、低収入者の結婚率は一段と下がっていると言うことになるのではないだろうか。
官僚の天下りに於いて天下った元幹部官僚に省の仕事の便宜を図るのは、自分たち現職が天下った場合に同じようにおいしい仕事を斡旋してもらうことを期待するからであり、そうしてもらうことによって自身の能力に付加価値が保証されるからだろう。いわば官僚OBの天下り先の会社においしい仕事を斡旋しておけば、自分が天下った場合、同じように天下り先の会社においしい仕事を斡旋してもらえて安心して天下り先に居場所が確保できるという利害損得を予定調和に据えた慣習であろう。
官僚たちも天下り慣習を「愛情」や「武士の情け」からの行為だと公言しているのだろうか。大相撲の星の分け合いを「愛情」とか「武士の情け」とか言えるとしたら、官僚たちの天下りも同じように「愛情」もしくは「武士の情け」だとすることができる。
千代大海が千秋楽に休場したのは、魁皇が勝ち越したと言うものの、8勝7敗の一つの勝ち越しではかわいそうだと「愛情」もしくは「武士の情け」から千秋楽で当たる魁皇に勝ちを譲った場合、あるいは以前星の分け合いで譲ってもらった義理からその恩返しで譲った場合(いつ引退してもおかしくない魁皇の体調だから、義理を返す機会を逸してしまう恐れもある)、最後まで優勝争いに加わっていた成績と大関という地位から考えてプライド上格好がつかない、不自然となるからと、あるいは八百長問題が取り沙汰されているから用心しなければならないといった事情も加わって。故障を理由に休場することで魁皇の不戦勝と言うことにすれば、自らの誇りも負けることの不自然さも八百長の取り沙汰からも免れるからとした選択だったと勘繰れないことはない。
多分千秋楽で白鳳が琴光喜に敗れる番狂わせを予想していなかったに違いない。白鳳が順当に勝って自力優勝すると踏んでいたからこそできた不戦勝による魁皇への勝ち星のプレゼントと言える。
逆を予想していたなら、優勝決定戦で白鳳に敗れる可能性の方が高いとしても、琴光喜が白鳳を破ったような番狂わせが生じない保証はない。長い間優勝から遠ざかっている千代大海である。少しぐらい体調が悪くても、僅かなチャンスにも賭けたはずである。
大相撲の特に千秋楽に多い星の分け合いも官僚たちの退職後の再就職斡旋に過ぎないとしている天下りも所詮裏側に利害損得を介在させた馴れ合いでしかない。馴れ合いが大相撲を面白くなくさせている原因であり、天下りに不正を付き纏わせる原因であろう。
今までも力の入らない勝負を何度も見せられてきた。「日本の国技」だなどとご大層なことを言う人間がいるが、「国技」を振り回さない方がいい。大相撲が例え国が正式に決めた「国技」であっても、利害損得の人間が演じる「国技」であることに変わりはない。利害損得が関係する以上、その分割引かなければならない。
スポーツの一つという地位を与えるだけで十分である。外国人力士の存在なくして成り立たない「国技」ともなっている。面白い勝負もあれば、面白くもない勝負もある。星の分け合いも結構。前頭の上位と下位を行ったり来たりのエスカレーターだかエレベーターだかも結構、けた繰りも張り手も飛ぶのもハタキも結構。人それぞれ。「国技」と騒ぐから、おかしなことになる。横綱審議会の何様たちは自分たちが完璧な生きものであることを自任しているからなのだろう、大相撲に「国技」だからと完璧さを求める資格を誰よりも持っているから事細かにうるさいことが言える。何様ではないからうるさいことは言えないファンがいることも考えてもらいたい。
大体が「国技」だ「品格」だを通すとするなら、横綱の次の地位に位置しながら44場所中10場所も負け越して(ケガで途中休場ということもあるだろうが)次の場所をカド番で迎える大関の存在に何も言わないのは矛盾している。居座らせているから、星の分け合いも生じる。引退勧告して然るべきではないか。
中国にこそ、民主化要求せよ
11月19日(07年)の『朝日』夕刊。(下線筆者)
≪「北朝鮮 今のままでは先細り・消滅も」首相、核放棄促す CNNで≫
【ワシントン=小村田義之】福田首相は18日放映された米CNNテレビのインタビューで、北朝鮮の核開発問題に関連して「(北朝鮮は)今のままでは先細り、いずれは消滅してしまうのではないか」と述べ、北朝鮮に核兵器を放棄し、国際社会と足並みをそろえるよう強く求めた。軍事的な「中国脅威論」については「私はどちらかといえば楽観的な立場にある」と語り、中国を敵視しない姿勢を示した。
インタビューは16日の日米首脳会談後に収録された。首相は北朝鮮について「独立国として自立していくことを希望するならば核兵器は放棄すべきだ」と指摘。さらに、「経済の自立を考えた場合、日本の経済的な協力も必要だから、当然、日朝間の拉致問題の解決も必要だ」と述べた。
「核兵器を放棄しないと北朝鮮が破壊されるということか」と問われると、首相は「破壊されるかどうかではない。(非常に鎖国的な、閉鎖的な国家で、人々は非常に不幸な状況にある。)自由社会と全く違う体制を組んでいる社会だから、自立とはいえない」と述べた。そのうえで「いずれは消滅してしまうのではないか」という表現で北朝鮮の変化を求めた。米国の北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除問題には言及しなかった。
中国の軍事計画については「今はそれほどのものではないが、今のペースで増強されていけば、将来大きな脅威になる」と指摘。一方、「問題は(軍事力を)持つだけでなく、その意思だ」との考えも示し、「中国が攻撃的な軍事力を持つことになれば、世界中の脅威になる。それは許されないと思っているから、私はどちらかといえば、楽観的な立場にある」と語った。
インド洋での給油活動中断に関連して、「地球規模での安全保障の責任を日本が果たすかどうか」を問われた首相は、「議会、国民の間でさらに議論をつめる必要がある」と、憲法改正には慎重な姿勢を示した。>
福田首相は初の外国訪問先に米国を選び、11月15日に訪米、ブッシュ大統領と会談、そして東アジア首脳会議に出席するために11月19日午後政府専用機で羽田空港を出発、同日夜シンガポールに到着した。
そして11月21日、当地でミャンマーのテイン・セイン首相と会談。その読売インターネット記事(07.11.21./ 22:34)。
≪日本・ミャンマー首脳会談、福田首相が民主化の進展求める≫
<福田首相は21日、シンガポールでミャンマーのテイン・セイン首相と会談した。
福田首相は「(民主化指導者の)アウン・サン・スー・チーさんと実質的な対話をすべきだ。ぜひ変化を示してほしい」と述べ、ミャンマーの民主化の進展を強く求めた。
これに対し、テイン・セイン首相は、「国連との協力の成果も出ている」と強調。西側諸国が課している経済制裁が民主化の進展を阻害していると反論した。
福田首相はまた、ジャーナリストの長井健司さんが治安部隊の発砲で死亡した事件について、真相究明と遺留品の返還など誠実な対応を要求した。(シンガポールで、花田吉雄)>
一方我が日本の誉れ高い外務大臣高村正彦が「間違いなく持っていた物が返ってきていないのは、客観的事実。特にビデオみたいな物は、真相究明に役に立つ物ですから、返るまで求めていく」(07.10.9/ABC WEBNEWS)と表明したのは10月9日。
このことに関連した外務省・「ミャンマー情勢」報道官会見記録(平成19年10月9日(火曜日)17時10分~ 於:本省会見室)
<(問)ミャンマーの件ですが、長井さんが銃撃された後、その映像、画像等が報道されており、それによると所持品などを治安当局関係者から取られているようですが、外務省はその辺の映像等は確認されているでしょうか。また、今後の対応については如何でしょうか。
(報道官)長井さんの件については、今2点あり、長井さんが殺害された状況の真相究明ということと、殺害した人物の処罰にかかわる問題等がひとつ。それから、遺留品の返還に拘わる問題がもうひとつあります。それらの近況だけをお話しますと、まず長井さんの殺害の関係では、先週、長井さんのご遺体が日本に到着し、その日の内に杏林大学で司法解剖が行われ、その結果も公にされています。更に、警察当局の方で、殺害された時の映像がありますので、その映像・画像の分析が現在行われており、その結果を得ましたら、改めてその内容を私どもからミャンマー側に伝えて、真相の究明を強く求めるという流れになっていくだろうと思います。
もうひとつ、遺留品の関係ですが、これは新たに殺害後、問題となっているビデオカメラ、長井さんのものと思われるビデオカメラを軍の関係者が所持している映像が出て参りましたので、その映像の話をミャンマー側に伝えており、先般、薮中外務審議官から遺留品、特にビデオカメラの問題について返還を強く求めておりますから、今回、軍の関係者がそのビデオカメラと思われるものを持っているという映像があるという話をミャンマー側に伝えて、その返還を督促しているというのが現在の状況です。
(問)長井さんが銃撃された時刻と死亡推定時刻はどういう風に把握されているのでしょうか。
(報道官)私の手元には殺害された正確な時刻がどうという資料はないのですが、撮影された画像から推定される状況等をミャンマー側に話して、且つ、その画像から判断するに至近距離から撃たれたとしか思えないという状況を伝えているということです。その点に関しては、警察の方で専門的な観点から画像の映像を分析するという作業をしてくれておりますので、そのような根拠も踏まえて改めて真相究明を求めるということになっていくと思います。
(問)軍関係者がビデオを所持している映像が出て来たということですが、新たに出て来たのですか。
(報道官)その映像についてはご覧になられている方も多いと思います。私もテレビで見ました。その映像によれば確かに数名の軍関係者が現場と思しき場所でビデオカメラのようなものを手に持っている場面が出てまいりましたので、そのことをミャンマー側にも伝えたということです。
(問)その映像を受けて、日本政府ないし外務省として、問題のビデオカメラが今、ミャンマーの軍関係者に押収されている可能性が以前よりも高まったという認識なのでしょうか。
(報道官)元々、そのビデオカメラについては、物理的にどういう状況になっているかまでははっきりとしていなかった訳です。ただ日本側の関係者の手元には戻ってはいないということだけははっきりしておりましたので、ミャンマー側にはそれを見つけて返却して欲しいということを言っていた訳です。しかし、今回の映像を以て、軍関係者自身がそれを持っているのではないかと推測される状況になりましたので、私どもで画像を見た感じをミャンマー側に改めて伝えました。外交ルートを通じ、今申し上げたような情報も踏まえて、ビデオカメラの所在をはっきりさせて日本側に速やかに戻してもらいたいという話をしているということです。
(問)お伝えになったのは今日ですか。
(報道官)今日だったか昨日だったか、ここ1、2日の間に、この画像を見る機会があり、その中身を先方に伝えたということです。ミャンマー側に伝えたのが、正確に昨日だったのか今日の午前中だったのかは別途確認したいと思いますが、週末の放送でそういう画像が出ていましたので、それを伝えたということです。
(問)外務省としては、あの映像に映っていたのは長井さんのカメラであるという可能性が高いという印象なのでしょうか。
(報道官)そういう印象を持ちました。画像としては複数の軍関係者が集まり、その中の1人がビデオカメラと思われるものを所持している様子ということで、その詳細の状況が分かるまでの画像ではなかったと思います。ただ、状況からして長井さんのビデオカメラである可能性が高いのではないかという印象を持ちましたので、そのことを情報としてミャンマー側に伝えたということです。>
何とも隔靴掻痒のもどかしさだけがあって、熱いものを感じない外務省の応対であるが、外務省はビデオ返還をミャンマー側に求めた。高村外務大臣が一旦真相究明と「返るまで求めていく」と断言した以上、それは政府の約束として外務省は履行の責任を有することとなる。
だが、「返還」は遅々として進まなかった。高村外相が真相究明と「返るまで求めていく」と表明したのは10月9日。それから1ケ月も経過した11月4日、長井健司ジャーナリスト(50)所属APF通信社・山路徹代表が事件を国際刑事裁判所(ICC)で審理するよう求める考えを明らかにしている。
<記者会見した山路代表は「事件について何も解明されていない。国際社会の同意を得て、殺害の責任の所在を明らかにして裁いて欲しい」と述べた。今月中旬にも遺族と共に高村外相と会い、日本政府としてICCに事件を付託するよう求めるという。
(中略)
ミャンマー政府の外務副大臣から2日、弔意を表す手紙が遺族に届いたことにも触れ、山路代表は「紙切れ1枚には何の意味もない。ビデオテープを返し、兵士が発砲に至った事実関係を明らかにしてもらいたい」>(07.11.4/19:59/asahi.com≪長井さん殺害、ICCで審理を 通信社代表が会見≫)
どのような経過を見ているのだろうか。自分が気づかないだけのことなのか、とんと報道がない。
そして今回の東アジア首脳会議を機会に行われた11月21日の日本・ミャンマー首脳会談での福田首相の民主化要求と「遺留品返還に対する誠実な対応の要求」。
その前日11月20日午前「長井健司ジャーナリスト射殺事件真相究明と本人所有のビデオカメラなどの返還を改めて求めた」高村外相対ミャンマー外相会談。
そもそもの発端であるミャンマーの反政府デモを取材中だったジャーナリスト長井さんがミャンマーの官憲に謀殺されたのは9月27日。高村外相が真相究明と長井さん所有のビデオカメラを「返るまで求めていく」と表明したのは上記謀殺から12日後の10月9日。
日・ミャンマー外相会談で我が日本の高村外相がミャンマーの民主化とビデオ返還を求めたのが10月9日から1ケ月と10日の11月20日午前。
長井さん謀殺からほぼ2カ月経過している。東アジア首脳会談を機会として日本の首相と外相が再度ミャンマーの首脳に対して民主化要求とビデオ返還を求めたということは、2カ月間、二つの要求はまったく機能しなかったということの証明でしかない。
アジアの盟主を任ずる日本(その地位と名誉は甚だしく頼りなくなってきている)が重要・不可欠な援助国の立場を以ってして被援助国たるミャンマーに対して「要求」が2カ月間機能しなかったということは、民主化要求もビデオ返還要求も形式のまま推移していたことを意味する。
「政治は結果である」と言ったのはあの美しい国家主義者の前首相安倍晋三である。結果を伴わない政治・外交は形式で終わったとしか言いようがない。
となれば、東アジア首脳会談を機に行われた福田首相の民主化要求・ビデオ返還も、高村外相の同じ民主化要求・ビデオ返還も、これまで形式で終わっていたのだから、今後も何ら成果も進展も見ずに形式で推移する危険性を多分に孕んでいると言える。いわば多分に日本国民に見せるために手続き上必要だから行った会談であり、要求した民主化とビデオ返還と言えないこともない.。少なくともそういった体裁で終わる可能性を含んでいる。
軍事独裁国家ミャンマーが国際社会の民主化要求にしぶとく抵抗するのは何と言っても共産党一党独裁という似た者体制のアジアの大国・世界の大国中国の強固な後ろ盾があるからだろう。<中国は今年1月(07年)米英がミャンマー軍政非難決議を提出した際、国連安保理で「内政不干渉」を理由に、8年ぶりの拒否権を行使してまで採択を阻止し>(07.9.28『朝日』朝刊≪時時刻刻 ミャンマーを注視≫)てもいるし、今回のミャンマーの僧侶らによる反政府デモでの国際社会の批判に「内政干渉」だとしてミャンマー軍政擁護の姿勢を崩さなかった。
東アジア首脳会談を利用して中国もミャンマー首相と会談し、民主化を求めているが、一方で国際社会の経済その他の制裁に「問題をさらに複雑化させるだけだ」と反対している。対ミャンマー民主化要求は日本の要求とまた違った意味で〝形式〟に過ぎないだろう。民主化によって得るものよりも失うものの方が多い可能性が予想されるからだ。現在の状況を見ると、軍政が維持された方が得るものばかりで、失うものは殆どないに違いない。
大体が共産党一党独裁の中国である。世界から独裁国家が一つでも消えてなくなるのは肩身の狭い思いに駆られることになり、淋しい限りだろう。自身の独裁体制を維持するためには仲間はたくさんいた方がいい。
ミャンマーが中国を強力な後ろ盾としている限り、民主化要求が形式化し、ビデオ返還要求も無効となる危険を限りなく抱えているとするなら、同じ形式化したとしても、中国そのものに民主化を要求すべきではなかっただろうか。
しかし最初の記事の「米CNNテレビのインタビュー」では福田首相は中国に民主化を要求する言葉を一言も発していない。ミャンマーにできたとしても、中国にはできない民主化の歌を忘れた福田カナリヤとなっている。
アメリカはかねがね機会あるごとに中国の民主化を要求している。今年9月のシドニーで行われたAPECでも面と向かって中国に要求した。
≪北京五輪を機に民主化を 米大統領、中国に促す≫(07/09/07 10:34【共同通信】)
<【シドニー7日共同】ブッシュ米大統領は7日、シドニーで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)ビジネスサミットで演説し、来年開かれる北京五輪を契機に、中国が「開放性と寛容」を示すべきだと述べ、中国指導部に一層の民主化を呼び掛けた。
また、北朝鮮に対して人権状況の改善を求めたほか、ミャンマー軍事政権の民主活動家抑圧を強く非難した。
6日に中国の胡錦濤国家主席と会談したばかりのブッシュ大統領は、北京五輪が「全世界の目が北京に注がれる瞬間となる」と指摘。人間の尊厳を尊重することなどを訴え、より開かれた社会を目指す取り組みを中国指導部に促した。>
まずはミャンマーの民主化・ビデオ返還を実現させるためには、アメリカと共同歩調を取る形で中国に対して民主化要求の少なくとも圧力を掛けてミャンマーに対する中国の後ろ盾を弱めることが先決問題ではないだろうか。
今朝(07.11.23)の『朝日』朝刊(下線、筆者)。
≪山田洋行、過大請求新たに2件 防衛省が取引停止処分≫
<防衛省は22日、軍需専門商社「山田洋行」との航空機材など2件の取引で、同社が過大請求していたとして、過払い金を返すまで同社と米子会社「ヤマダインターナショナルコーポレーション」を取引停止処分にした。2件の水増し額は約370万円だが、米津佳彦・山田洋行社長は「見積書を改ざんした。かなりの契約で過大請求していた可能性が高い」と説明しているという。
米津社長が同日、装備施設本部を訪れ、過大請求を報告した。守屋武昌・前防衛事務次官の関与が指摘されたヘリコプター装備品契約でも、同社は過大請求を指摘されており、防衛省は同社との契約を可能な限りさかのぼって精査する。
同社との取引は過去5年間で中央調達分123件、地方調達分約550件に上る。同社が00年度に契約した海上自衛隊哨戒ヘリの装備品「チャフ・フレア射出装置」の取引で過大請求が指摘されたことから、同社がかかわった米欧のメーカー40社との取引について順次、メーカーに問い合わせている。うち見積書の金額がメーカーの見積書と食い違う取引を山田洋行側に確認したところ、2件について過大請求を認めたという。契約時には、業務上横領容疑などで逮捕された宮崎元伸・元専務(69)が在籍していた。
同社が認めたのは、
(1)03年度に約830万円で契約した海自救難機US2のプロペラ整備用機材
(2)04年度に約390万円で契約した海自哨戒ヘリSH60Kの油圧系統制
御用機材(未精算)で、それぞれ約310万円、約60万円過大請求
していたという。
US2の取引では、米国メーカーからの見積書をヤマダインターに送らせていたといい、同省は、山田洋行側が金額を水増ししたとみている。
防衛庁(当時)は、00年度にチャフ・フレア射出装置を8億1000万円で山田洋行と契約。その後過大請求が指摘され、1億9000万円減額して「契約変更」したが、同社は処分などはされなかった。守屋氏が担当課に電話するなどしていたことがわかっている。>
守屋武昌前防衛事務次官に対する300回を超えるゴルフ接待。その合計額1500万円。その他防衛省幹部や現職幹部自衛官に対するゴルフ接待、飲み食い接待、守屋武昌への還暦祝い20万円、自民党額賀議員のパーティー券購入220万円、さらにお車代その他その他。すべて判明している事柄のみであって、判明していないで隠されている事柄の存在も予想できる。
これらは政治家では額賀一人だけに限った高待遇ではないだろう。ゴルフが守屋武昌一人に限ったことではないように。
その上山田洋行は宮崎元専務の方針として防衛省に対して天下り採用基準額を設けていてた。<自衛隊への売上額10億円につき1人が受け入れの目安となっており、「防衛省側の暗黙の合意事項」になっていたという。>(07.11.13『朝日』朝刊≪山田洋行へ防衛省へ天下り 「売上額10億円で1人」≫)。
「売上額10億円」で天下り1人を引受けても十分に割に合うと胸算用したからこその「合意事項」だろうが、同時に「売上額10億円で1人」を約束した時点で、天下り官僚1人に対して「売上額10億円」を功績とする、それに相当する高額給与・高額退職金の待遇をも約束したことを示す。
前任の天下りが「売上額10億円」を果して、次の天下り「1人」を約束できるからである。当然のこととして1人に付き、「売上額10億円」に相応する高待遇を約束しなければならない。そういう構図でなければ、売上額を「10億円」と挙げた意味を失う。「売上額10億円」で天下りを1人養えるだけではなく、会社の利益も見込めるということでなければならない。「売上額10億円」は天下りの成績基準でもあるのだ。
大体が「売上額10億円」で天下りが1人ではなく、2人も養える金額なら、防衛省側が不当取引だと反対しただろう。常に上に位置するのは防衛省であり、下に位置しなければならないのは山田洋行だからである。防衛省の意向に逆らうことはできない。
「売上額10億円で1人」が防衛省対山田洋行にとっての順当な取引だとすると、在籍することとなった天下り官僚が総額計算であっても、1人に付き採用基準の「売上額10億円」分の業績を次に上げないことには、「売上額10億円」を功績とした待遇で応じているのだから、差引き計算にマイナスが生じて、「合意事項」が破綻すだけではなく、養い分か会社の利益を取り崩すことになる。いわば「合意事項」を機能させ、なお且つ養い分をカバーし、会社の利益を上げ続けるためには天下り官僚1人につき「売上額10億円」分を常にクリアさせていかなければならない。一種の自転車操業である。
同『朝日』記事によると、山田洋行の中央調達分のみの同省向けの売上額は
99年度――160億円
00年度――159億円
02~05年度――25億~43億円で推移
06年度――約33億円となっていて、99年度と比較してジリ貧状態となって
いる。
これに対して地方調達分の年度別の取引金額は記事から判断できないが、防衛省と<同社との取引は過去5年間で中央調達分123件、地方調達分約550件に上る。>(上記≪山田洋行、過大請求新たに2件 防衛省が取引停止処分≫となっている。
<山田洋行への天下りは、陸将2人、空将1人を含む3自衛隊の将官が中心。最近では05年に陸上自衛隊西部方面隊幕僚長(陸将)、04年に陸自航空学校霞ヶ浦分校長(陸将補)、03年にも陸自と空自の将補2人を受け入れ>、<守屋武昌・前防衛事務次官(63)のゴルフ接待が発覚する前には、将官クラスを含むOB10人が「顧問」の肩書きを持っていたが、その後2人が辞任した。>(同『朝日』記事)ということだから、昨06年度は売上額約33億円にプラスして件数で上回る地方調達分で67億円売上なければ10人×「売上額10億円で1人」=100億円を満たすことができなくなって天下り官僚の養い分(=待遇金額)も会社の利益の確保も覚束なくなる。「合意事項」どころか、会社経営そのものが破綻しかねない。
もし地方調達分で67億円売り上げてていたなら、その中に投資回収分も含まれているだろうから、過大請求は必要事項でなくなる。
守屋武昌に対する接待は異常に突出してはいたものの、彼一人に対してだけではないゴルフ接待や飲み食い接待、パーティ券購入・お車代、還暦祝いや盆暮れの高額商品の贈答に加えて、天下り官僚に対する高額給与・高額退職金待遇、いわゆる養い分etc.etc――すべては会社利益を上げるための投資でなければならない。単に官僚のご機嫌を取るためのムダ遣いであろうはずはない。商売人がカネをドブに捨てるようなことはしない。「売上額10億円」は天下り1人受け入れの「目安」であるが、防衛省幹部や幹部自衛隊員一人ひとりに投じた投資と天下りに待遇の形で投じている投資に対する予定回収金額をそこに含んでいなければ、投資分はドブに捨ててしまうことになる。それプラス会社の利益があって初めて、投資を投資として生かすことができる。そうでなければ「売上額10億円」という金額は弾き出した意味をも失う。
過大請求が行われたということは地方調達分が67億円に満たないからだろう。いわば赤字分を埋める方策が最後手段として残された「過大請求」であり、投資に相当する金額の回収行為ということでなければならない。
中央・地方合わせた取引件数が合計673件。海自救難機US2のプロペラ整備用機材と海自哨戒ヘリSH60Kの油圧系統制御用機材で<それぞれ約310万円、約60万円過大請求していた>、その平均を取って、少々乱暴な計算だが、(310+60)÷2=185万円×673件≒12億4500万円となる。この中に「チャフ・フレア射出装置」での減額分「1億9000万円」を過大請求分として加え、さらに山田洋行社長が「見積書を改ざんした。かなりの契約で過大請求していた可能性が高い」と言っていることとを併せると、12億4500万円ではまだまだ少ない計算とは言えないだろうか。
その証拠として1998年にNECが防衛庁に装備品製造代金を水増し請求し、過払いを受けていた金額は318億円を比較対照として挙げることができる。山田洋行の会社の規模に反して天下りを<十人も受け入れているのは大手メーカー並みで、社員約120人の中堅商社では突出している。>(同≪山田洋行へ防衛省へ天下り 「売上額10億円で1人」≫)投資事情を考えると、318億円に対する12億4500万円は少々窮屈な数字となる。過大請求も「大手並み」であってこそ、体力に抗した天下りの過剰引受け、過大接待が償却可能となる。
会社維持が唯一絶対の至上命題なのである。自分たちの利益は会社が維持されて初めて保証される。中堅会社が大手並みに分を弁えずに背伸びをすれば、当然のこととして正当な投資回収行為であったとしても、過大請求が生半可では満たされない額になったとしても不思議はない。
昨11月21日(07年)の夕方7時のNHKニュース。大阪に本社がある鉄鋼メーカー栗本鉄工所が全国の高速道路の橋桁などに使われている金属製の型枠の強度データを改竄し納入していたと報じた。
社長以下の会社幹部たちが例の如くマイクを並べた長テーブルの向こう側から一斉に立ち上がって一斉に頭を深々と下げる企業不正報告記者会見時の決まりきった謝罪の儀式が行われるのを見て、思わず笑ってしまった。
よくもまあ不正があちこちで行われているものだと感心したからだ。そして性懲りもなく繰返される同じ謝罪の儀式。食品偽装や産地偽装どころではない。紳士の職業の見本たる金融機関にしたって、リスクを説明しないで、儲け一方のような勧誘で金融商品を売る。損保大手6社の火災保険・地震保険・自動車保険の取り過ぎ計220億円(07.11.21『朝日』朝刊)。
政治家・官僚の口利き・接待付け、仕事せず、高額給料・高額退職金だけを掠め取っていく殿様天下り等々にしても、社会的地位に伴う責任を果たしていないという点でサギ・不正に当たる行為だろう。
サギ・不正は人目の届かないウラで行われる。隠すべき行為であるにも関わらず、こうまでも次々と発覚・露見して世間の目に曝すことになるのも驚きである。
栗本工業所のサギ・不正の手口は、高速道路の橋桁の重量を軽くするためにコンクリートの内部に埋め込む鋼管型枠(鉄製円形型枠)の加重時変形1センチ以内と定められた基準を満たさない、最大2・3センチ変形製品の強度データを1センチ以内と改竄・納入、さらに基準厚さを最大で0・4ミリ下回る欠陥製品もデータを改竄して正規製品として納入していたというもの。それを昭和40年頃から40年以上も続けていた。見事なロングラン(=長期興行)である。
マンション販売のヒューザー等が販売したマンションの鉄筋が設計士の構造計算書偽装によって直径・本数とも基準以下であったことが発覚、大型地震に耐えないとした05年の耐震偽装と、偽装対象が橋桁とマンションの違いがあるのみで、同質のサギ・不正に当たる。
いや、全額政府出資の特殊法人・道路公団の民営化は05年の10月だから、ロングランの殆どは政府相手のサギ・不正と言える。より悪質な栗本工業の悪事ではないだろうか。
尤も政府やその他国家機関に所属する政治家・官僚のサギ・不正の横行・蔓延から比べたら、どうってことはない小さな問題なのかもしれない。
耐震偽装されたマンションその他は建替えや補強工事を余儀なくされたが(引越しや建替え費用・補強費用等の新たな負担といった余分な失費や精神的な疲労は大変なものがあったに違いない)、今回の栗本工業の強度データ改竄欠陥型枠は各高速道路会社が管理する全国の高速道路7300カ所あまりと国が管理する直轄部分の高速道路1700カ所に使われているということだが、各高速道路会社と国土交通省は、橋桁の内部に空間を確保するための型枠で、橋桁そのものの強度は保たれ、安全性に問題はないが、長期的にみて安全に支障が出る可能性もあるとして緊急点検を実施するとしている。
「安全性に問題はない」なら、規格は実質的に必要な耐性以上を基準としていたということになる。例えば食品の実質的な品質保持期限は賞味期限や消費期限以上の日数が求められているのと同じで、確実な安全を確保するために限度以上の強度を求めていたということなのだろう。
だが、日本の高架道路はどのような地震にも耐えられると「安全神話」を高々と標榜していたが、阪神大震災で高架道が倒壊したのは「限度以上の強度」が役に立たなかったことの証明であり、そのような過去の教訓(=「安全神話」の崩壊)を無視することにならないだろうか。「長期的にみて安全に支障が出る可能性もあるとして緊急点検を実施する」にしてもである。
安倍前内閣の経済政策は言ってみれば景気上昇を絶対判断とした「景気底上げ神話」で成り立っていたが、ここにきて原油高騰やサブプライムローン問題等で景気の雲行き自体が怪しくなってきたように絶対・完璧な「神話」は存在しない。
最近は殆ど使わなくなった稲藁で編んだ縄だが、それを刃物を使わずに手の力だけで切る場合、切る場所で縄を二本に折り、折った箇所を縄をなうときのように手のひらに挟んでこすって網目を緩めてから、力が入るようにそこから少し離れた場所を1本ずつ握っていきなり左右に引っ張ると、「キレる大人たち」ではないが、急激な正反対の張力が働いて具合よくプツンと切れる。
クレーンで重量に応じた規格のワイヤーを使って重量物を上げ下ろしするとき、静かに上げ下ろしすれば問題はないが、吊り上げているとき、滅多にないことだが、レバー操作を間違えていきなり下降操作すると、重量物は上に持ち上げられる慣性が働いているから、吊っていたワイヤーは緩むものの、一瞬宙に止まってからワイヤーが緩んだ長さだけ重力を伴って急激に落下し、そこで急激に止まるために手の力で藁を切るときのようにワイヤーに上下方向の強い張力が激しく働き、安全を図って規格以上に太いワイヤーを使用していても、簡単に切れてしまうことがある。悪くすると、荷の落下だけではなく、反動を受けて棹がクレーンの本体ごと前につんのめる形で転倒することもある。
阪神大震災の教訓から橋脚だけでなく、道路上の橋桁まで薄い鉄板を巻く補強工事を施しているが、直下型地震で高架道の橋桁が急激に上方向に突き上げられてから一瞬の間を置いて落下した場合の下の方向への衝撃が重力も加わってより強く働く予想外の事態を考慮に入れるなら、「長期的にみて」の視点は無効とならないだろうか。「長期的」経過を経てひび割れが生じた、では改修しようでは、そこに大型地震の突発に備える視点が入っていないことになるからだ。
「長期的」経過を経てひび割れが生じたとしても、阪神大震災級の地震に耐えられる耐震構造となっているとするなら、栗本工業は2005年に発覚した鋼鉄製橋梁の建設工事での橋梁メーカー談合事件で名誉ある一員に加わってもいるのである。鋼管型枠(鉄製円形型枠)の加重時変形が規格の1センチ以内を下回る2・3センチ以内でも強度は十分に保てると見て、安心・安全だからとデータを偽装し、安上がりの製品を納入、不当に利益を得ていた疑いが出てくる。食品会社が賞味期限の切れた製品を食べても健康に害はない、安心・安全だからと賞味期限を先に延ばした日付のレッテルに張り替えて再度売りに出すようにである。
だとしたら、規格として法律等で定められた各基準はタテマエに過ぎないことになる。タテマエでしかないから、大丈夫だ、大丈夫だとサギ・不正の要因となさしめているのだろうか。
安心・安全を目的とした規格上の余裕(=遊び)が「余裕」であることを無視して、不正利益獲得の「遊び」となっているとしたら、納入製品自体の検査を厳格にする以外に方法はない。検査体制にも責任があることになる。謝罪記者会見が儀式化しているように、検査自体も儀式化していないだろうか。とにかく怠慢な役人世界である。
11月18日の日曜日の朝、フジテレビ「報道2001」で民主党代表小沢一郎が出演して、連立問題について「連立という言葉が報道でも国民の間でも独り歩きして・・・」と言っていた。
自治会の行事で標高304メートルとかいう山頂の公園の市から委託されている草刈と茶畑の整備に出かけて午前中取られてしまったために詳しく聞くことができなかったが、小沢辞任表明記者会見で、政権交代が最終目標だが、連立を組むことで政権の一翼を担い、民主党の政策を実現させて政権担当能力があることを国民に示し、その上で民主党政権を実現させる、それが民主党政権実現の早道だと言っていたことと、連立を組んでも、選挙は別々に戦うんですからと述べていたこととを考え併せてみた。
既に同じ情報解読を誰かが行っているとしたら、ご容赦を。
先ず連立を組んで、すべての政策に関して政策協議を行う。両党の政策を足して2で割る方式ではなく、参院与野党逆転の状況を人質に民主党の政策を少しでも多く呑ませるよう迫って、法案に自民色よりも民主党色を際立たせて政策担当能力があることを国民に認知させていく。
衆議員は例え途中解散がなくても、残り任期は1年10ヶ月。1年10ヶ月かけて、連立政権内での民主党の存在感を国民に印象付ける。1年10ヶ月経過すれば、自動的に衆議院は任期満了・総選挙へと突入する。
選挙で例え民主党が予期していたように自民党議席を上回ることができなくても、成立させた法案に民主党色を埋め込むことができて国民に民主党にも政権担当能力があることを認知させることができたなら、その議席差は左程大きくならないことが予想される。そのことと総選挙後約9カ月ある次の参院選までは参議院与野党逆転の状況は人質として維持できる。次の参院選挙で自民党の勝利が確定しない限り連立は解消できないから、民主党は依然として主導権を握ることができる。
もし総選挙で民主党が自民党を破ったなら、衆参与野党逆転状況をつくり出すことができるから、そのとき初めて自民党との連立をご破算にして小沢が「最終目標」だとしていた民主党主体の自民党に変わる政権交代を実現させることができ、二大政党時代の幕開けを告げることができる。
こういったプロセスを小沢一郎は頭に描いていたのだろうか。
問題が二つある。総選挙で勝利して自民党との連立を解消するとき、民主党が元の民主党にそのまま戻る保証があるかということである。自民党としては何人の民主党議員を一本釣して自民党に入党させれば、公明党を加えて過半数を握れると計算し役職やその他エサにできるあらゆるエサを用意して勧誘するだろうし、元々自民党にごく近い民主党議員の中には連立を組んでいた間、自民党と一緒の政治に居心地のよさを感じてしまった者や、小沢に使われるよりはましだといった者も出てくることが予想される。
いわば連立を解消したとしても、総選挙の結果どおりの議席数で民主党を維持できなかった場合の誤算である。脱党者が衆議員だけではなく、参議院でも出てきたとき、虎の子としてきた参議院与野党逆転状況をも失いかねない。元の木阿弥の自民党一党独裁状況に戻ると言うことである。
こうなった場合、総選挙で負けたケース以上に最悪の結果に至る。
もう一つの考えられる誤算として、連立政権が一時的にも滞りなく運営された場合、連立政権も悪くないと安定を望む国民が少なくない数で出てきたとき、次の総選挙でバランス感覚が働いて、それが民主党の票数の伸びを抑える動きとなり、結果として自民党に優勢な状況を生じせしめて、連立政権そのものが民主党敗北の原因となることである。
そうなった場合、民主党の方から連立維持の必要性が生じて、主導権は自民党に移り、連立を解消したいにも解消できない身動きできない自縄自縛の状態に陥りかねない。
連立政権が次の総選挙後、さらに次の参院選挙後も続くこととなったら、自民党と民主党の政策協議も次第に緊張感を失って和気藹々のものとなりかねず、当然のこととしてガン細胞が全身にまわるように政治全体が緊張感を失うこととなり、政治は連立政権維持のための政治へと自己目的化することも予想される。官僚たちも安心してあの手この手を使った国民の生活を考えない、自分たちだけの生活を考えた天下りやその他官僚利益獲得に邁進することになるだろう。
いずれにしても捕らぬ狸の皮算用の誤算を考えて、小沢一郎は社民党や国民新党、さらには共産党の協力を必要とする状況が生じる場合のことを考えて、各方面に亘って前以て相談して、合意を取り付けることができた場合の行動とすべきだったろう。
権威主義が働いた常識の統一
07年11月13日のスポーツニチ。
≪大相撲:何でダメ?黒海もみあげ禁止令に怒る≫
<大相撲九州場所2日目、黒海に「もみあげ禁止令」が通告された。場所前の巡業からエルビス・プレスリーばりのもみあげを蓄えていたが、初日夜に師匠の追手風親方(元幕内・大翔山)から「そんなことでなく相撲で目立て!」と忠告され、やむなくきれいにそって土俵を務めた。黒海は「前にもはやしていた力士がいたのに、何でダメなのか。巡業でも好評だったのに。正直すごく腹が立つ」と不満そう。取組でも白露山に敗れ、散々な1日となった。>
九州場所初日(07.11.11)NHK大相撲中継。通路に現れたときの黒海を見て、思わずニヤリと笑みがこぼれた。控えに座って待つ間の黒海、行司に呼び出されて土俵に上がり、塩を取りに行く黒海。仕切る黒海。露鵬に上々の勝ちをして蹲踞して勝ち名乗りを受ける黒海。モミアゲばかりに目が行ってしまう。なかなかいいじゃないかとニヤニヤが止まらない。
黒々と長く伸ばしたモミアゲの内側最短部の端が左右から鼻下の方向にまで三角形の形で極端に伸び、顔の殆どを隠す印象を与えている。こういった思い切った形のモミアゲは大胆な気持ちにならなければなかなかできない。その上愛嬌があっていいと思った。
「サイコー」の褒め言葉を与えたい程の出来栄えと言えた。ところが正面解説の北の富士が「似合わない。感心しない。まあ、本人がいいと言ってるんだから、いいんじゃないですか?」と投げやりに言い、お気に召さない様子。
向正面解説の舞の海「私は似合うと思います。巡業では人気があった」というようなことを言っていた。奴凧の大袈裟な頬ヒゲふうで、その大袈裟なところがまさしく愛嬌がある。外国人奴凧といったところだ。正月に揚げる凧のキャラクターに十分使える風貌に思えた。最近凧を揚げる光景を見かけることは少なくなったが、相撲ファンなら、部屋のアクセサリーに利用もできる。野球を全然知らなくても、ハンカチ王子の人気にあやかるべく所属大学チームの試合に朝早くから群がったように、人気次第で相撲を知らないオバサンやギャルまで惹き付ける可能性は否定できない。
ところが2日目、黒海の顔からきれいさっぱりモミアゲが消えている。相撲協会からお咎めが出たなと思ったが、アナウンサーはモミアゲが剃ってあることは言ったが、お咎めに関しては何も言わない。インターネットで検索したら、上記記事に出会った。
記事は親方の忠告を受けて剃ったとなっているが、舞の海が巡業中から生やしていたと言っているし、黒海自身も「巡業でも好評だったのに」と言っている。
となれば、親方も承知していたはずのモミアゲだろうから、禁止するなら早くから禁止していただろう。相撲協会からの注意があって親方がそれに従った疑いが濃い。
似合う似合わないは他人の言うことである。黒海にしても社会的に既に大の大人なのだから、本人の判断に任せればいいのに、任せることができない。協会はなぜ注意しないんだといった「お叱り」が自分たちのところにまわりまわってくるのを恐れて、先手を打ち批判されそうなことは前以て摘み取ってしまおうとしたのではないか。そうすることが自分たちを責任の及ばない安全地帯に置くことができるからだ。試しにやらせてみろといった冒険心がない。裏を返すと、事勿れな無責任主義を事としているからだろう。結果として、社会的な常識にごくごく当たり前に添った当たり障りのない態度に終始することとなる。
黒海が世間の反応を見て、どうも評判がよくないようだとやめてしまうのも本人の判断、評判が悪かろうがよかろうが続けるのも本人の判断。本人自身の趣向であって、生やすについては本人なりに気分一新を狙ったとか、それなりの動機付け(モチベーション)があったはずである。活動への意欲向上に人間は常に何らかの動機付けを欲する。
確か新庄が大リーグから日本に戻って日本ハムに入団したときだったと思うが、野球解説者の元タイガース捕手(後に西武へ移籍していたかもしれない)、田淵幸一が野球解説の途中で「新庄みたいな二流選手が大リーグで活躍できるようでは、大リーグもたいしたことはない」と言っていた。
人間は引越しして新たな住まいに身を置き、そこを生活拠点として新生活の第一歩を踏み出すだけで、心機一転、頑張るぞという気持ちになり、仕事に対する意欲も湧いてくる。プロ野球の選手がFAの資格を獲得しても元々の球団に残留する場合もあるが、環境を変えて改めて自分を試してみようと新天地を求め他球団に移るのは、新たな飛躍への動機付けとしたいからだろう。
日本のプロ野球から一段上の能力集団である大リーグに移籍するのは自分の能力がどれだけあるか、大リーグで通用するかどうか、ある面イチかバチかの挑戦が目的で、そのことのみで自身を精神的にも能力的にも高める、あるいは奮い立たせる動機付けに十分になり得る。錚々たる大リーガーの面々と混じったとき、否が応でもかつて経験したことのない激しい充実感が湧きあがってくるはずで、湧き上がってこないとしたら、その時点で挑戦の意味を失う。
そして日本では味わうことのなかった大リーグから受ける刺激を挑戦の意欲にうまく相乗作用させて実際のプレーに反映させ得たとき、日本からのすべての選手が成功するとは言えないが、多くの選手がそれ相応に活躍することになるのは高い場所への〝挑戦〟と新しい環境から受ける刺激とが絡み合った動機付けがあるからこそだろう。新庄の大リーグでのそれなりの活躍も、上記経緯を踏んでいたからに違いない。
かつてのスタープレやーであり、現在プロ野球解説者・田淵幸一は大リーグ移籍日本人選手が挑戦という動機付けによって得ることとなるプラスαの力を考えるまでに至らなかった。
新庄が06年にシーズンを終えてからではなく、開幕草々にその年限りでの引退を表明したのは、最後のシーズンにいい成績が残せるよう自分自身を鞭打つ動機付けの意味合いもあったからに違いない。それが彼自身の活躍だけではななく、ファンやチームをも活気づけて、パリーグ優勝・日本シリーズ優勝の大きな動機付けともなったはずである。
日本相撲協会は黒海の少なくとも心機一転を図った動機付けを奪った。それが師匠の追手風親方発祥の禁止だったとしても、そのことに相撲協会が何ら意思表示を示さなかったことは相撲協会も同じ意見だということを示している。
黒海の動機付けが結果として好結果に結びつくかどうかは未知数だが、好結果を目的としていたことは確実に言える。ハワイ出身の元大関小錦が大相撲のアメリカ場所巡業で「ジャパニーズ・ロボコッポ」と英語で紹介していた高見盛の通路をやや顔を仰向き加減して手を肘から前に突き出したまま歩くロボットを思わせる歩き方、土俵上でその手を下に激しく振って自分を奮い立たせるパフォーマンス、勝っても負けても手を前に突き出す姿勢に戻って天を仰ぐように顔を上に向ける、これもロボットを思わせる仕草は多くのファンの声援を呼び、それら両方が相混ざって身体が大きくもないし特別な才能もない高見盛りの戦う意欲を駆り立てる動機付けともなっているはずである。
もし大相撲の品格を言うのだったら、安倍晋三の「規律を知る凛とした美しい国、日本」と同様に口で言っているだけの「品格」に過ぎないが(時太山暴行死事件で見せた師匠及び北の湖理事長以下の日本相撲協会の面々の振舞いがその最たる証拠となる)、高見盛りのパフォーマンスにしても「品格」の部類に反することになる。
要するに「品格」とはキレイゴトそのものでしかなく、中身は相撲協会の面白くも何ともない常識を塗り込めてつくり上げてあるに過ぎない。大人の判断と判断に従った行動を求めるだけで十分だからだ。
今ひとつ人気のない外国人力士黒海が「巡業でも好評だった」独特・異形なモミアゲによって自身の活躍への意欲を駆り立てる動機付けに加えて人気を博した場合は、それがさらなる動機付けとなる相乗効果を生み、予想外の成績を上げない保証はなかったはずである。元々馬力のある相撲取りなのだから。
社会のルールに反したわけではない、月並み・平凡な社会的常識から見て少々異様に見えるというだけで相手を大人と見ることができずに上からの指示に従わせるということは面白くもない上の常識の支配下に置こうとする権威主義の行動様式に則った意識の働きによるものだろう。
外国人奴凧・黒海が初日1日だけのお披露目だったとは、何としても惜しい気がする。
ある日突然、大銀杏を金髪に染めて土俵に上がる関取が出てこないだろうか。出てきたら、拍手喝采してやるのだが。
07年11月14日『朝日』朝刊≪孤独が生む「暴走老人」≫はキレる高齢者を題材に現代を見つめた『暴走老人!』(文芸春秋)を8月に出版したという作家・藤原智美氏に聞くという形式を取った記事である。(下線は筆者)
<疎外感、情報化が追い打ち
東京・新宿の路上で、お年寄り同士が胸座をつかむ。確定申告に訪れた税務署で、スーツ姿の初老の男性が窓口の女性に怒鳴り散らす。スーパーのサービスカウンターで、70歳前後の男性が拳でテーブルを叩いて甲高い声で怒る。
どれも、私自身が数年前から目にしてきた光景だ。驚いた。身なりのちゃんとした人が、公共の場で、アカの他人に。遭遇した「事件」を機に、現代社会の窮屈さ、生きづらさの源を見つめたいと書いたのが『暴走老人!』。ときに不可解な行動で周囲と摩擦を起こし、暴力的な行動に走るお年寄りだ。
尋常でない怒りによる暴言・暴力のきっかけはささいなことだが、背後には孤独感や社会へのストレスが蓄積されている。
ストレスはすべて人間関係から生じ、別の人間関係で解消するしかない。キレるかどうかの境目は、グチをきいてくれる人がいるかどうか。お年寄りを支える人間関係の輪が欠けていく中では、見いだしにくい。
「切れるお年寄り」は何も男性に限った話ではないが、幸せの象徴だったマイホームから子どもは独立し、連れ合いが先立ち、残されたのは1人。地域社会にも個を支える力はなく、人間関係は疎遠。リタイヤ後は職場の人間関係からも遠ざかるという状況だ。
情報社会も追い打ちをかける。パソコンや携帯電話の進歩は加速し、日々更新される技術を使いこなすのは、若者ほど容易ではない。現代のコミュニケーションの標準からずれていく疎外感を味わっている。
パソコンや携帯はコミュニケーションの新たなルールさえ作り出す。待ち合わせに遅れる時、メールをせずに電話すると失礼になるといった具合だ。過去の経験則が生かせず、むしろ邪魔になることに、お年寄りの生きづらさがある。
「自分もキレる」自覚が必要
社会の変化に伴って言葉の力が弱まった影響も大きい。①他者や社会のことを考える②自分の感情のありか〔例えば、なせ、怒っているのか〕を理解する③人とかかわる、そのいずれの言葉も弱まった。人に怒りを伝える適切な言語的スキルがない分、感情が激しく露出して、キレる。
病院の床に寝転がり、手足をばたばたさせてわめき散らす年配の男性がいた、と医師が話していた。原因は順番を巡るトラブル。自己を表現する言葉を持ち合わせず、感情で訴える「赤ん坊化」した例だ。
また、フルマラソンをするおじいちゃん、フラダンスで活躍するおばあちゃんという健康長寿のイメージもストレスになる。世間は「あなたは、あなたのままでいい」と子どもに言っても、お年寄りには言ってくれない。
キレる社会を食い止めるには、「ひとごと」と思わず、自分もキレる危険性があると自覚することだ。自分は正当に抗議したと思っても、きちんと対応できていないこともある。自分に不利益をもたらし、他者も傷つけることを想像する力を持つことが、怒りの発火を抑えることになるはずだ。
一定期間、携帯やパソコン、テレビなどの情報を意識的に断つ、「情報断食」をして、生のコミュニケーションを取り戻す時間を持つことも一法だろう。また、暴力的行為への対処方法やルール作りも大切だ。
自分たちが生み出したストレス社会にどう向き合うのか。個人の気の持ち方や心のあり方に還元するのではなく、社会全体で考える必要があるのではないのか。〔聞き手・森本美紀〕>
その主張が錆び付いてしまったのか、最近は口にされることもなくなった教師集団「プロ教師の会」だが、その主張がまだ世間にもてはやされていた1990年代後半、月刊誌で読んだことだが、「プロ教師の会」の一員諏訪哲二高校教諭(現日本教育大学院大学客員教授)が確か、「外部からそう仕向けるような『非合理的な力』を借りて授業が分からなくても、自己規制をしておとなしくしていた」昔の生徒たちを懐かしみ、そういった管理教育で教室を支配したい衝動を疼かせていた。
「非合理的な力」が何を示すか具体的には明示していなかったと思うが、「外部から仕向ける」と言うのだから、教師自身が自発的な力とし得ないもの、いわば自助努力ではなし得ない場所にあるものだろう。
その裏を返すと、その当時からの教室の無秩序は「外部からそう仕向けるような『非合理的な力』」を失って、授業が分からなくても、生徒がおとなしく「自己規制」することがなくなってしまったことが原因で起きているということになる。
このことは教室の秩序は「外部からそう仕向けるような『非合理的な力』」を変数として、それとの対応で授業が分からなくてもおとなしくしていた生徒の「自己規制」によって成り立っていたことを証明する。と言うことは、教師自身は舞台の役者が与えられた役の衣装を纏って舞台上を動き回るように「外部からそう仕向けるような『非合理的な力』」によって与えられてい秩序に助けられて教室に立つことができていたことの証明でもある。
これと同じことを「プロ教師の会」の代表選手の一人でもあり、その主張を本にして売れっ子作家となった河上亮一も言っている。
「学校は教育の場だから、〝力〟は必要ないというが、根強い世論である。しかし
、学校で教育が行われるためには、教師―生徒の関係、つまり教師の言うことを生徒が聞くという関係が成立していなければならない。うるさい生徒を注意して静かにならなければ、授業などできないからである。しかし先にもふれたように、この〝力〟は、親や地域社会の支持があってはじめて発揮されるもので、その後ろ盾を失ったいま、学校からこの〝力〟が消えつつあるのである。いじめをエスカレートさせないために教師の指導力を発揮させたいと思うのなら、基本的な〝力〟を教師にあたえ、それを支持しなければならないのだ」(『学校崩壊』草思社)
言っていることは教室の秩序は「親や地域社会の支持があってはじめて発揮される」外部認知型の「力」があって成り立つもので、外部認知を失って教師は指導力を発揮できなくなった結果、「教師の言うことを生徒が聞くという関係」が損なわれ、荒れるままに任せるに至っている、と言うことだろう。
教室の秩序に関わるこの教師対生徒の関係も外的要因を変数とする関係式にあり、諏訪哲二の「外部からそう仕向けるような『非合理的な力』」と対応する。
偉大なプロ教師・河上亮一はその「力」について同じ著書の第3部「何のための勉強か――中学から高校へ」の中の「父性の力こそが学校を支える」、「怖い教師が必要だ」で、「大切なのは、教師の生徒に向かう姿勢である。父性的という言葉を使ったが、ひらたく言えば、あっ、この先生はお母さんとは違う、怖いというふうに思わせることなのだ。
怖いからとりあえず黙っていなくてはいけないとか、座っていなくてはいけないということを繰り返す中で、自分を抑える力を少しずつつけるようにしなくてはいけないのだ」と言及している。
要するに戦後の昭和30~40年代以前の封建的な怖い父親が持っていた殴りつけることで子どもを言うことを聞かせてきた「父性の力」を教師にも与えられることを望んでいて、与えられるについては封建時代を離れて民主主義の時代だから、「親や地域社会の支持」がなければ実現しないと言っているのである。
「怖いというふうに思わせる」には、張子の虎であってはならない。言うことを聞かない生徒には必要に応じて社会的認知によって教師自身が纏うこととなる「父性の力」に実体を持たせ、本当に怖いのだと思い込ませる必要が生じる。いわば「怖いというふうに思わせる」だけでは張子の虎と化してしまうから、必要に応じて物理的強制力(=体罰)で実体化しなければならない。
かくかように「外部からの力」を借りて諏訪は「授業が分からなくても、おとなしくしている」、河上は怖いから「教師の言うことを生徒が聞く」という生徒の「自己規制」を教室秩序構築の最善の処方箋だと訴えて止まない。要するに二人とも体罰容認派なのである。
「あっ、この先生はお母さんとは違う、怖いというふうに思わせる」「親や地域社会の支持があってはじめて発揮される」「父性の力」(=体罰への恐怖)に支配されて「教師のいうことを生徒が聞く」自己規制、あるいは「外部からそう仕向けるような非合理的な力」に支配されて「授業が分からなくても、おとなしく席に座っている」自己規制は現在の民主主義の時代に於ける人間の存在性を考えるとき、それが許されるとするのは楽観的に過ぎないのではないだろうか。人権意識との兼ね合いで、生徒は居心地悪い場所に立たされることになる。
確かに父親や教師といった世間の大人が怖い存在であった時代は、怖い教師に関係する場合に限って、つまり、直接怖い教師の授業を受けるか、怖くない教師でも教室の秩序を乱せばすぐに怖い教師に告げ口することから、間接的に関わることになる場合に限って、生徒は授業が分からなくても、あるいは授業が死ぬ程退屈で面白くなくても、自己規制しておとなしく席に座っていた。そして教師は授業ができる生徒だけを相手にしていた。
だが、戦後の民主主義の時代の社会の情報も手伝った権利意識の発達は授業が分からなくても、退屈で面白くなくてもおとなしく席に座っている自己規制に不合理感を与え、その結果として権利意識の現われとしてのその反動が今日に於ける学校荒廃の様々な姿を取らせているのではないだろうか。
権利意識が社会的に無力な姿を取るのは上が下を従わせ、下が上に従う上下関係を基本構造とした権威主義の思考様式・行動様式を古くからの民族性としている関係から、上下関係を払拭できず、その残滓を色濃く残しているために上の者も下の者に対して、下の者も上の者に対して権威主義意識に邪魔されて権利意識を正当に表現することに不得手だからだろう。
その最も象徴的、且つ顕著な上下関係が今日の親子関係と言える。権威主義の横行が許されていた時代は親は怒鳴りさえすれば子どもに言うことを聞かせることができ、子どもは親の威嚇に自己規制しておとなしく従ったが、権利意識は高まったものの、親は子供を従わせるとする上の者の意識、子どもは親に従うとする下の意識にそれぞれ囚われて権威主義の範囲内でしか権利意識を意思表示ができない結果の混乱が殆ど口を利かない親子の会話の不在と言うことではないだろうか。
要するに権威主義の無視できない残滓が権利意識の滑らかな発現を阻害し、上下関係の磁場でスムーズに噛み合わないコミュニケーション状況をつくり出していると言える。
こういった関係は親と子どもの関係、あるいは教師対生徒の上下関係だけではなく、同じ権威主義を行動様式としている関係から、会社での上下関係、夫婦間の上下関係にも(対等にうまく付き合う夫婦もいるが、熟年離婚現象がその多くないことを物語っている)当然のこととして同じ色彩を与えている。
夫が自己を上の者と位置づけ、妻を下の者に位置づけて上の者が下の者を従わせる権威主義的な意思表示を絶対として、下の者に暗黙の「自己規制」を強いる。下の位置に立たされた妻はこの関係を当たり前のものとして諦め、「授業が分からなくても、自己規制をしておとなしくしていた」かつての生徒のように権利意識を押し殺して「自己規制」を自らに強いる。
だが、目を閉じようと耳を塞ごうと飛び込んでくる膨大なまでの社会の情報は日々個人の権利の在りようを訴えている。妻の夫に対する反乱、部下の上司に対する反乱等々の情報。あるいは夫よりも社会的に活躍して著名人化し、それなりの権威を獲得する妻の存在等の情報。あるいは離婚して家庭的に自立し、新しい仕事を見つけて自分の人生を歩み出す女性等の情報。
だが、上の者に下の者が従う権威主義の軛に「自己規制」を強いられてきた下の者たちが権利意識にしっかりと目覚めて、正当な自己主張の姿を常に取るとは限らない。その多くは「自己規制」から逃れられず、権威主義と権利意識とのせめぎあいに疲れて「自己規制」に対する忍耐が臨界点に達したとき、ちょっとした火の気でガスが爆発するように、ちょっとした人間関係の衝突、あるいは齟齬から「自己規制」が爆発、過激、且つ突発的なキレるという形を取るのではないだろうか。
例えば上記『朝日』記事のキレる老人の一例。<病院の床に寝転がり、手足をばたばたさせてわめき散らす年配の男性がいた、と医師が話していた。原因は順番を巡るトラブル。自己を表現する言葉を持ち合わせず、感情で訴える「赤ん坊化」した例だ。>と言葉の有無の問題だとしているが、年配に達する人生を経験しているのである、例え稚拙でも「自己を表現する言葉を持ち合わせ」ていないはずはない。「公」(おおやけ)を上に置き、「私」(わたし)を下に置く権威主義に縛られた人間は上に置いた「公」に従う下の者の「自己規制」を慣習としていることから「公」に対し言葉をよりよく発信し得ないということが起こる。例えば家では妻を怒鳴り散らしているが、会社に行くと上司には何も言えず、ペコペコ頭ばかり下げている人間はこの例に当てはまる。
もしこの「年配の男性」が妻帯者で妻を自己と対等の位置に置く他者の権利をも尊重する人間なら、妻の言い分に耳を傾け、自分の言い分も主張して、双方の主張に程よい折り合いをつける権利意識の双方向性を慣習化していただろうから、病院で「順番を巡る」問題でも他にもいる順番待ちの患者の権利との兼ね合いで、自分の名前が呼び出されるまで待つ権威主義からのものではない「自己規制」か、あるいは緊急に診察の必要を感じたなら、その必要に応じて自己権利の主張を適当な言葉で言い表すことができたはずで、それができなかったということは少なくとも「公」の場では自己を下に置いて上に従う権威主義の抑圧があったことから起きた「自己を表現する言葉を持ち合わせ」ていないということではなかっただろうか。
80歳の妻が「こき使われた」と75歳の夫を布団をかぶせて窒息死させようとした事件や「お前を捨ててやる」と言われたことを根に持った51歳の妻が55歳の夫を斧で殴り殺した最近の年配夫婦間、もしくは高齢夫婦間の妻による夫殺人・殺人未遂から簡単に浮かび上がってくる光景は、夫が自己を上の者の位置に置き、下の位置に立たせた妻を上の者として従わせ、妻が下の者として上の位置に立つ夫に権利意識を抑圧した「自己規制」で従ってきた権威主義的人間関係そのものであろう。
もし権威主義的人間関係から双方共に解放されていて対等な立場から権利意識をそれ相応に満足のいく形で発散させていたなら、その過程で「自己規制」をまったく無縁のものとしたお互いに通じ合う自己主張の言葉を相互に獲得し、夫婦間の問題をその場その場で話し合っていただろうから、こき使うこともこき使われることも、「お前を捨ててやる」といった残酷な言葉を発することも、投げつけられることのなかったはずである。
しかし逆の状況にあった。とすると、上記『朝日』記事が言っているように「社会の変化に伴って言葉の力が弱まった」と言うことではなく、権威主義的な抑圧関係が上下双方向の言葉の発信を阻害していて、そのことによる言葉の未獲得、あるいは未発達が言葉の不在となって現れているだけのことで、そのことが一見「言葉の弱まり」に見せているに過ぎないのではないか。
アメリカ映画を観ていると、閣僚が大統領と激しく議論し、ときには衝突する。大学生が教授と激しく議論し、ときには言い合いとなる。一刑事が上司である課長や署長とまで激しく議論し、ときには罵り合いとなり、最後に「クソったれ」と悪態までつく。
日本では一般的場面でも、映画・テレビでも見かけることのない光景である。下の者は上の者に従うことを自らの行動様式とし、上の者は下の者を従わせることを当然の人間関係としている。いわば上下は相互に一対の対応形式で人間関係を推移させているから、個の確立云々が言われ、自律(自立)云々が言われるのだろう。
特に自己を上に置いた権威主義の行動様式を慣習としてきた人間は、相手の権利を尊重する言葉を持たないだけではなく、地域との人間関係を新たに構築する場合は上の立場に立った権威主義で対応しようとするために、簡単には溶け込めない。妻に先立たれると、権威主義的に一対の関係としてきたことが原因して、一人ではどのような行動を取ったらいいか、たちまち戸惑うこととなる。
とすると、「一定期間、携帯やパソコン、テレビなどの情報を意識的に断つ、『情報断食』をして、生のコミュニケーションを取り戻す時間を持つ」方法はさして役に立たないように思える。地域社会に「個を支える力」がないのは、権威主義的関係にある人間同士は上下意識で相互に支え合うことができるが、そこから離れた人間は上下の力学が及ばないことによる「支える力」の不在であろう。権威主義の関係から離れた人間の方も、それを捨てて改めて上下関係の中に入ることは煩わしく、ためらう。
携帯やパソコンといった「現代のコミュニケーションの標準からずれていく疎外感を味わ」うのは、そのことを上の者に直接嘲笑われるか、陰で小馬鹿にされているかもしれないと関係妄想する心理的圧迫からで、権威主義的人間関係から無縁の立場にいたら、「俺には俺の生き方がある」と言える。世間が「あなたは、あなたのままでいい」と言ってくれなくても、自分は自分のままでいいのだと自己を守ることができる。
ところが自分を上に立たせた夫が最初は渋々認めていたものの、妻が外で自由に「フラダンスで活躍」され、妻だけが生き生きし出すと、自分の支配下から離れたようで「勝手に外に出歩くな」と言ったとき、家では普段から夫に従うことに慣らされていたことが原因して妻が権利意識に訴えずに「自己規制」しようものなら、その抑圧・忍耐が破れる方向に膨張していかないはずはなく、膨張が臨界点に達した場合、当然キレるという感情の爆発の形を取らない保証はない。
「グチをきいてくれる人」がいたとしても、一時的なストレス解消方法でしかなく、自らを権威主義性から解放しないことには対症療法とはならないだろう。権威主義性から自由になったとき、例え「お年寄りを支える人間関係の輪が欠けてい」たとしても、一人でしたたかに生きていけるに違いない。
07年4月の「知識の活用」(応用力)を問う中学生国語Bテスト。成績は「基礎知識」を問う国語Aの82・2%を10ポイント下回る72%と小学6年生と同じく「知識の活用」が「基礎的知識」を下回る。
前回≪小学6年生学力テストを分析する≫と同じく、私自身の考えは途中途中に青文字で示した。問題用紙は縦書きだが、便宜上横書きに変えたのも同じ。問題の途中の「広告カード」のイラストは言葉のみで表した。
* * * * * * * *
中学校第3 学年/国語 B
注 意
1 先生の合図があるまで、この冊子を開かないでください。
2 調査問題は、一ページから十六ページまであります。
3 解答は、すべて解答用紙(解答冊子の「国語B」)に記入してください
。
4 解答は、HBまたはBの黒鉛筆(シャープペンシルも可)を使い、濃く
、はっきりと書いてください。
5 解答を選択肢から選ぶ問題は、解答用紙のマーク欄の番号や記号を黒く
塗りつぶしてください。
6 解答を記述する問題は、指示された解答欄に記入してください。解答欄
からはみ出さないように書いてください。
7 解答用紙の解答欄は、裏面にもあります。
8 この冊子の空いている場所は、下書きに使用してもかまいません。
9 調査時間は、四十五分間です。
10 「国語B」の解答用紙に、組、出席番号、性別を記入し、マーク欄を
黒く塗りつぶしてください。
問題は、次のページから始まります。
(小学生と同じくテストのたびに受けることになる「注意」なのだろうから、口頭で受けて頭に入れさせる訓練を最初から行うべきだろう。それをご丁寧にも「濃く、はっきりと」と太字にして下線まで引くお膳立てを用意してやる。親が布団の上げ下ろしから部屋の掃除までしてやる生活上のお膳立てと同じことをしている。同じことをしながら、一方で親の教育は大切であると言う。
例えどのような些細なことでも自身で判断させるという訓練を積み重ねることで判断力はついていくのだが、大人が逆のことをしている。)
【1】次は、中学生の前田さんが「総合的な学習の時間」でロボットについ
て調べたことを発表する原稿【A】と、そのときに使用する表
【B】です。これを読んで、あとの問いに答えなさい。
【A】
私は、インターネットを使って、ロボットについて調べました。
まず分かったことは、日本は、①工場で働く産業用ロボットの分野で世界をリードする存在であるということです。これも驚きだったのですが、さらに驚いたのは、アニメや空想の世界のものだと思い、あこがれでさえあったロボットが、現実のものになりつつあるということです。②災害救助用ロボットや二足歩行ロボットなどの様々なロボットが、次々と生み出されているのです。みなさんも、テレビなどで二本の足で歩くロボットを見たことがあるのではないでしょうか。日本は、世界有数のロボット大国なのです。
また、私が思っていた以上に、多くの人がロボットに親しんでいるということも分かりました。大学などでロボットを研究している人たちがロボットの性能を競い合うコンテストが、毎年開催されています。テレビでも放映されているので、みなさんも知っているのではないでしょうか。これ以外にも、幅広い年齢層の人が参加する③様々なロボットの競技会が、全国各地で開かれています。
しかし、ロボットが私たちの生活の中で多く使われるようになればなるほど、改めて考えなければならないことも増えてくると思います。例えば、ロボットに頼りすぎることはないかということや、ロボットを使うことが人を危険に巻き込むようなことはないかということなどです。人と人とのコミュニケーションの問題も考えられるかもしれません。
④幼いころからロボットに親しみ、ロボットをパートナーと考えることが可能となった私たちは、その長所と短所を十分に理解しながら、ロボットと共存する未来社会を描いていく必要があるのではないでしょうか。
* * * * * * * *
【B】
ア(「キャタピラ付きのヘビ型ロボット」の写真)長さ120cm
・地震の災害地などに於いて、人間が入れないところで救援活動ができる
。
・転がっても、すぐに体勢を戻すことができる。
・頭部に取りつけてあるカメラで被災者を探すことができる。
イ(「二足歩行型ロボット」の写真)高さ40cm
・近づく人を赤外線センサーで検知し、チラシを配る。
・手渡しに成功するとお礼のポーズ。失敗すると謝りのポーズをとる。
・一定の時間、人が近づいて来なければ立ち上がり、腕を振って注意をひ
こうとする。
ウ(「人型非歩行ロボット」の写真/足なし置物型)高さ100cm
・十名までの人の顔を識別できる。
・日常生活に必要な一万語を認識し、人とコミュニケーションをとること
ができる。
・留守中に変わったことがあれば、所有者に連絡する。
(社団法人日本ロボット工業会ホームページ、東京工業大学ホームページによる。)
1.前田さんは、【B】の表を配布して、説明に生かしたいと考えてい
ます。この表は、【A】の文章の下線線部1から4のどこで
具体的な例として使うのがよいでしょうか。1から4のうち、最も
適切なものを一つ選びなさい。
【正答例】
1. 2
2.前田さんは、【B】の表と一緒に、ロボットを開発した人の考えも紹
介することにしました。次は、どのロボットを開発した人の考えです
か。【B】の表のアからウのうち、最も適切なものを一つ選びな
さい。
<少子高齢化が進む社会において、家庭での様々な会話を通じて、楽しく、安心な暮らしをサポートする存在としてロボットを提案した。>
(社団法人日本ロボット工業会ホームページによる。)
【正答例】
2. ウ
3.【A】の文章中にロボットと共存する未来社会とありますが、あな
たは、どのような未来社会を想像しますか。次の条件1と条件2に
したがって書きなさい。
条件1 人間とロボットとの未来の関係についてのあなたの考えを書くこ
と。
条件2 【B】の表に示されているロボットの「性能・特徴」のいずれ
かに触れること。
【正答例】
3.
(例1)
ロボットは、人間にはできない危険な仕事をしたり、生活のサポート
をしたりすることができるようになっている。これからはもっとロボ
ットの果たす役割が大きくなり、人間の生活に欠かせない存在になる
と思う
。
(例2)
人とコミュニケーションをとることができるロボットが増えれば、逆
に人と人とのコミュニケーションに問題が生じるのではないか。
(これってロボットに関して多くの人間が言っていることではないのか。世間一般の指摘をなぞらせているに過ぎない。判断能力を問いながら、生徒の判断を世間一般の常識に統一しようとするもので、生徒自身の独自性を問う質問となっていない。
「幼いころからロボットに親しみ、ロボットをパートナーと考えることが可能となった私たち」はもっともらしい指摘ではあるが、事実その通りになっているのか。
人とコミュニケーションを取るロボットは一般生活者には高額すぎて一部の利用にとどまることが予想されることと、何万語を認識しようとも、最初は物珍しさがあったとしても、機械であることに変わりはないから同じ声の調子、同じ反応――いわばプログラムに埋め込まれた決まりきったコミュニケーションに慣れが生じて飽きがくる可能性はないだろうか。物珍しさの刺激が薄れた場合、単なる置物と化す可能性が予想されて、人間間のコミュニケーションの問題が生じる前に普及しないように思える。
テレビとロボットを比較するとよく分かる。テレビはもはや人間にとってなくてはならないコミュニケーション手段となっている。テレビの情報を鵜呑みにし、その情報に振り回される弊害も起きている。人間のコミュニケーションを問題にするなら、テレビとロボットの違いを問うことも一つの方法ではないだろうか。テレビは決して片方向のコミュニケーション手段ではない。人間がテレビの発信する情報に反応することによって、両方向のコミュニケーション機会となっている。テレビの情報を受け手がどう解釈するかによって判断能力が問われる。
それが人間間のコミュニケーションに反映する。
直接的に言葉と言葉を交すのではなく、メールの方が言いたいことを言えるといった携帯電話のメールを使ったコミュニケーションの偏重、ゲームを1日の主たるコミュニケーション手段としている若者、インターネットオークションやインターネット株取引にはまって日々の刺激とし、人間間の直接的なコミュニケーションが減少している現象。一匹や2匹のペットで我慢できず、何十匹と捨て猫や捨て犬を拾ってきて家で飼い、それら犬やネコの飼育と会話で1日を過ごし、世間と並みの付き合い(=並みのコミュニケーション)ができなくなった人間。
とすると、コミュニケーションの問題に関しては、「人は現在、どのようなコミュニケーション方法を生活手段としているか。そこに何か問題が潜んでいないか」と問うことも、答に応じて生徒それぞれの判断を窺うことができる。「考えさせる」ことを目的とするなら、世間一般の指摘をなぞらせる、あるいは世間一般の指摘に導くのではなく、生徒それぞれの考えを問う質問を用意すべきだろう。)
【2】 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
一
ある日のことでございます。お釈迦様(しゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(注1)の蕊(ずい)からは、何ともいえない好(よい)匂(にお)いが、絶え間なくあたりへ溢(あふ)れております。極楽はちょうど朝なのでございましょう。
やがてお釈迦様はその池のふちにお佇(たたず)みになって、水の面を蔽(おお)っている蓮の葉の間から、ふと下の容子(ようす)を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底に当たっておりますから、水晶のような水を透(す)き徹(とお)して、三途(さんず)の河や針の山の景色が、ちょうど覗(のぞ)き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、犍陀多(かんだた)という男が一人、ほかの罪人といっしょに蠢(うごめ)いている姿が、お眼(め)に止まりました。この犍陀多という男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊(おおどろぼう)でございますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛(くも)が一匹、 路(みち)ばたを這(は)って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみにとるということは、いくら何でも可哀(かわい)そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
お釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けたことがあるのをお思い出しになりました。そうしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠(ひすい)のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白蓮の間から、遥(はる)か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下ろしなさいました。
二
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人といっしょに、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくらやみからぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものといっては、ただ罪人がつく微(かす)かな嘆息(ためいき)ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に咽(むせ)びながら、まるで死にかかった蛙(かわず)のように、ただもがいてばかりおりました。
ところがある時のことでございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとしたやみの中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍(う)って喜びました。この糸に縋すがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいることさえもできましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
こう思いましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。もとより大泥坊のことでございますから、こういうことには昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦(あせ)ってみたところで、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下ろしました。
すると、一生懸命にのぼったかいがあって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもうやみの底にいつの間にかかくれております。それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかもしれません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出したことのない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻(あり)の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、大きな口を開いたまま、眼ばかり動かしておりました。自分一人でさえ断(き)れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えることができましょう。もし万一途中で断れたといたしましたら、せっかくここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。そんなことがあったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体だれに尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がっている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから、犍陀多もたまりません。あっという間もなく風を切って、 独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見るうちにやみの底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
三
お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、浅ましくおぼしめされたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには(注2)頓着(とんじゃく)いたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら(注3)ら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何ともいえない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。
( 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)「蜘蛛の糸」による。)
(注1) 蕊=種子植物の生殖器官。おしべやめしべの総称。
(注2) 頓着=深く心に掛けること。気にすること。
(注3) 萼=花のがく
中学3年国語B学力テストを分析する(2)に続く
1.この文章の内容や表現について説明する場合、どのように
説明したらよいですか。次の1から4のうち、最も適切な
ものを一つ選びなさい。
1 地獄にいた犍陀多は、蜘蛛を殺さずに助けたことの報いに、お釈迦様が
極楽から垂らした細い蜘蛛の糸をよじのぼって、無事に地獄から抜け出す
ことができます。このような内容が、現在、過去、未来の表現を複雑にか
らませ、時間的な広がりをもつように書かれています。
2 地獄にいた犍陀多は、蜘蛛を殺さずに助けたことの報いに、お釈迦様が
救い出そうとしたにもかかわらず、自分だけ抜け出そうとしたため、再び
地獄に落ちます。このような内容が、敬体を主としたていねいな文末表現
で、読者に語りかけるように書かれています。
3 お釈迦様は、蜘蛛を殺さずに助けたことの報いに、地獄にいた犍陀多を
救い出そうとしますが、犍陀多が優柔不断であったため失敗します。この
ような内容が、作品全体にわたって、お釈迦様の目を通して見ているよう
に書かれています。
4 お釈迦様は、蜘蛛を殺さずに助けたことの報いに、地獄にいた犍陀多を
何とかして救い出そうと懸命に働きかけます。このような内容が、お釈迦
様の悲しみと苦しみを際立(きわだ)たせるように、視覚や聴覚などに訴
える豊かな比喩(ひゆ)を用いて書かれています。
【正答例】
1. 2
(正解が最も多かった設問でなかったろうか。逆に言うと、正解を与えるための設問となっている。物語をざっとなぞるだけで正解が分かる。
人間は社会の一員として、それぞれが生きる姿を常に問われる。また、相互に問わなければならない。人を命ある生きものと認めることができずにその命を無暗に奪う人殺しを一方で犯しながら、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみにとるということは、いくら何でも可哀そうだ。」と小さな蜘蛛を助ける矛盾。
その差引勘定もせずに、蜘蛛一匹助けたからといって、少なくとも一旦はお釈迦様から許し(=慈悲)を与えられる矛盾。この許しは不正な手段で事業を広げ、名士として地域から尊敬される生き様が許される構図と共通する。
読んで矛盾や疑問に感じたことがないかを問う方法を取るべきではないか。人の命を考えない人間が蜘蛛を助けて、一度でも極楽へ誘われようとした。その矛盾を看取させることの方が人間の姿を考えさせる(=判断させる)教育に役立つ。人間の姿を考えるということは自分の姿をも考えることにつながる。人間のありようを考え、社会を考えることに発展していく。社会を考えるとは、社会で生きる力を育むことにつながる。人間や社会に関する判断能力を養う。
日本は戦争は起こしたが、中国や朝鮮に対して鉄道を造ったり、教育を施したり、近代産業を興したり、いいこともやってきたと、どれ程に中国人や朝鮮人の命を奪ってきたか外国の地を破壊し荒廃させたかを差引き計算せずに自らの功績のみを誇るのを許すに似たお釈迦さまの慈悲である。)
2.次は、「二」の場面の一部です。この部分を朗読する場合の工夫につい
て、あとの問いに答えなさい。(①から⑥は、文の番号を表す。)
①すると、一生懸命にのぼったかいがあって、さっきまで自分がいた血の
池は、今ではもうやみの底にいつの間にかかくれております。
②それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってし
まいました。
③この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも
しれません。
④犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出し
たことのない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。
⑤ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪
人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やは
り上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。
⑥犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、
大きな口を開いたまま、眼ばかり動かしておりました。
ア この部分を、話の展開に沿って大きく二つに分けるとすれば、どこで
分けますか。次の1から5のうち、最も適切なものを一つ選びな
さい。
1 ①と②の間で分ける。
2 ②と③の間で分ける。
3 ③と④の間で分ける。
4 ④と⑤の間で分ける。
5 ⑤と⑥の間で分ける。
【正答例】
2.ア 4
イ アで答えたところで二つに分けて朗読する場合、前と後ろとをどのよ
うに読み分けますか。次の1から4のうち、最も適切なものを一つ
選びなさい。
1 前は、不安を感じている様子が表れるように読み、後ろは、次第に不
安が解消される様子が表れるように読む。
2 前は、不安を感じている様子が表れるように読み、後ろは、その不安
が急に増大する様子が表れるように読む。
3 前は、希望をもっている様子が表れるように読み、後ろは、予想外の
展開に驚いている様子が表れるように読む。
4 前は、希望をもっている様子が表れるように読み、後ろは、その希望
がふくらんでいく様子が表れるように読む。
【正答例】
3.イ 3
(朗読方法を複数用意して、その中から選択させるのではなく、どう朗読したらよいか、方法自体を問う方がべきで、「知識の活用」(応用力)、判断能力の訓練になると思うのだが、中学3年生には無理な注文なのだろうか。
しかし、小学生低学年からそのような訓練を日常化することで到達できる「知識の活用」(応用力)、判断能力ではないだろうか。)
3.中学生の中山さんと木村さんは、以前に読んだ「蜘蛛の糸」は、「三」
の場面が省略されていたことを思い出しました。そして、次のような会話
を交わしました。
中山さん 私はこの「三」はないほうがいいと思うな。
木村さん いや、この作品には「三」があったほうがいいと思うよ。
あなたは、中山さん、木村さんのどちらの考えに賛成しますか。どちらか一人を選び、あなたが選んだ人の名前を解答用紙に書かれている書き出しの文の〔 〕内に書きなさい。そのうえで、あなたがそのように考える理由を、次の条件1から条件3にしたがって書きなさい。なお、読み返して文章を直したいときは、二本線で消したり行間に書き加えたりしてもかまいません。
条件1 書き出しの文に続けて書くこと。
条件2 本文中の表現や内容に触れること。
条件3 八十字以上、百二十字以内で書くこと。(解答用紙に書かれてい
る書き出しの文の字数を含む。)
私は〔 〕さんの考えに賛成します 。
【正答例】
2.(例2)
私は〔中山〕さんの考えに賛成します「三」の場面がないと蜘蛛の糸
が「短く垂れているばかり」で終わるため、話が印象的で余韻が残るし
、どうして蜘蛛の糸が切れて犍陀多が地獄に落ちてしまったのか、自分
で考えてみることができるからです。
(例2)
私は〔木村〕さんの考えに賛成します「二」で終わると、犍陀多が地
獄へまっさかさまに落ちてしまった場面で終わり、地獄から抜け出す機
会を与えたお釈迦様の話に戻らないため、話が途中で切れてしまうよう
に感じるからです。
(正答率がさして高くない質問ではなかったろうか。多くの生徒が【正答例】が示すように具体的に判断することができたかどうかが問題となる。
お釈迦様は人殺しである犍陀多を蜘蛛を助けたからと言って地獄から助け出そうとした。犍陀多一人を助け出すことを目的としたはずである。一人だけ助け出す方法を取らずに、地獄に落ちた不特定多数の他の罪人まで助け出す結果となる方法を取った。罪人たちの中には犍陀多と同じように蜘蛛といった小さな命を助け出す善行を施した者がいたのだろうか。いるとしたら犍陀多一人だけを助けようとするのは矛盾するし、いなければ、犍陀多の後に続くのを許すのも矛盾する。
助け出す条件はあくまでもそれが人間の命ではなく昆虫といった小さな命に慈悲の心を起こしてその命を助けたことにある。
物語から矛盾点を含めて何か感じたことを答えさせる方法も生徒それぞれの感受性を確認できる。
蜘蛛を一匹助けたとしても人を殺しているのである。その構図は蜘蛛を助けたことでお釈迦命に命を助けられることとなっても、自分の命だけ助かろうとして他の命を無視する構図と一致するもので、何ら矛盾はない。この視点からだと、いじめや殺人、社会的重圧からの自殺等の多発に見る今の時代、今の社会の命無視、「命の生き剥がし」を学ぶ契機となり得る。)
【3】書店へ職業体験に行った三人の中学生(中川さん・小林さん・山口
さん)は、店長さんに本の広告カードの作成を頼まれました。次は
、三人の作った広告カードと、三人が店長さんを交えて話をしてい
る様子【A】です。これを読んで、あとの問いに答えなさい。
○広告カードの作成を 依頼された本
『都会のトム&ソーヤー④』
(ロデオもどきなのか、首にヒモをつけた豚に跨って右手を頭に当てて、豚じゃあ感じが出ないといった顔をしている少年に折りたたみ椅子に腰掛けた少年が映画監督気分なのか、片手にメガホンを持ち映画撮影用のカメラを向けている表紙。都会のいたずらっ子がトム&ソーヤー張りにいたずらまがいの冒険を繰り広げると言った内容なのか。)
<中川さんの広告カード> (カード右側に中学の制服を着たいたずらっ子めいた顔の少年二人がピースサインしているイラスト。)
(「僕らはいつも迷コンビ!?」
知性派の創也(そうや)と
いわゆるふつうの内人(ないと)
二人の冒険はもう止まらない。
今度はなぞめいた洋館へ出発。
同世代として共感すること間違いなし
都会のトム&ソーヤー④
はやみねかおる
<小林さんの広告カード>(イラストなし、文字のみ)
(はやみねかおるさんの
人気シリーズ
都会(まち)のトム&ソーヤ④
我が校はじまって以来の天才といわれる創也と
平凡な中学生 内人(ないと)。
二人が繰り広げる冒険はかなり変わっている。
えっ?今度は古びた洋館でキモ試し!?
あなたのクラスにもこんなコンビいませんか?
<山口さんの広告カード>(イラストなし、文字のみ)
(「内人(ないと)くん、冒険
の始まりだよ」)
いつだってこうして創也との冒険が
始まる。創也の頭脳と内人の
サバイバル知識があれば向かう
ところ敵なし!?
中学生コンビが今回挑むのはオバケ
屋敷。この冒険は見逃せない。
中学生必読!!の一冊です。
都会(まち)のトム&ソーヤ④
はやみねかおる
〈店長さんが紹介してくれた、店員さんが同じシリーズの本について作った広告カード〉(星をちりばめたのみのイラスト)
(大人だって子どもだって
この本読めばトムソーヤ。
創也と内人が繰り広げる冒険はとってもユニーク。
今度は誘拐事件にまき込まれる!?
読めば、子どもは冒険気分。大人は子どものころの
ワクワクした気持ちがよみがえるはず。
すべての人に夢と希望を与えてくれる一冊です。
都会(まち)のトム&ソーヤ③
はやみねかおる
店長さん ①これは、本の題名がすぐに目にとびこんでくる点がいいね。
やはり魅力的な題名の本はよく売れるからね。
②こっちのカードは、(注)コピーにひかれるなあ。五音や七音は日
本人の心にしっくりくるリズムなので、印象に残るんだよ。
③このカードは、本文中の強烈な一文を引用してコピーにしたアイ
デアがいいなあ。本文をちらっと見せるのも、読んでみたい気にさ
せるのに効果的なんだよ。
中川さん ありがとうございます。この五日間の職業体験で、店員さんが
作られた魅力的な広告カードをたくさん見ることができたので、とて
も参考になりました。
小林さん 思った以上に、お客様が広告カードを読まれていたことにも驚
きました。そして、そういうお客様は、いろんなカードの前で立ち止
まってじっくり読んで、やはりそこで紹介されている本を買っていか
れましたね。
山口さん 店員さんの広告カードは、読者であるお客様と同じ目線で書か
れているのがいいのでしょうね。
店長さん いいところに気づいたね。そういう意味では、君たちのカード
に加えてほしい視点があるんだよ。今回君たちに作成を頼んだ本も、
いろんなお客様に読んでもらって楽しい気分を味わっていただきたい
んだ。このカードと君たちのカードを比べてごらん。
(注) コピー=読み手の注意を引く広告文。宣伝文句。
1.【A】の中で、店長さんが評価している①これ ②こっちのカード
③このカード は、それぞれだれの広告カードに当たりますか。次の
1から4のうち、広告カードを書いた人の組み合わせとして最も適切
なものを一つ選びなさい。
1 ① 中川さん ② 山口さん ③ 小林さん
2 ① 中川さん ② 小林さん ③ 山口さん
3 ① 小林さん ② 山口さん ③ 中川さん
4 ① 小林さん ② 中川さん ③ 山口さん
【正答例】
1.4
(考えさせるよりも、なぞりの域を出ていない。店長の言葉を広告カードの絵に当てはめていけば、大体の答が出てくる。また、「小林さん」の「本の題名がすぐに目にとびこんでくる点」さえ分かれば、3か4か、確率2分の1で正答が出ることになる。全部分からなくても、確率4分の1で正答が出ていると可能性もあり得る。テストも解釈や理解力よりもテクニックがものを言う場合がある。
いわば正答から正しい理解力・判断能力を正確に逆算できるとは限らない。何か短い文章を読ませて、コピーを書かせたらいい。100人100色のコピーができる。そこから的確なコピーに仕上がっているかどうかを判断する。採点者側に判断する力がないというなら、話は別となる。)
2.三人の作った広告カードには、「本の題名(書名)」のように共通し
て書かれている情報がいくつかあります。「本の題名(書名)」以
外に共通して書かれている情報を二つ書きなさい。
【正答例】
2.著者名、登場人物(本の内容、コピー(宣伝文句)なども可)
(「共通して書かれている情報」に「本の題名(書名)」を例として挙げていることから「著者名」、「登場人物」に視線が向くように仕向ける設問構造となっている。この構造に反して、「本の内容」、「コピー」まで共通情報として記し得たかどうかで、判断力・理解力が測れる。
公平を期すとしたら、例を挙げずにすべての共通情報を書き出させるべきではなかったろうか。)
3.【A】の中に、このカードと君たちのカードを比べてごらん。とあり
ますが、四人の会話を踏まえ、三人の作った広告カードと店長さんが
紹介してくれた広告カードを比較して、その違いを説明しなさい。
【正答例】
3.三人が作った広告カードは、対象者が中学生であるのに対し、店長さ
ん三が紹介してくれた広告カードは、中学生に限らず幅広い年齢層の
読者を対象としている。
(三人は物語を平面で把えた説明となっているが、店員の説明は「読めば、子どもは冒険気分。大人は子どものころのワクワクした気持ちがよみがえる」と、読み出せばたちまちトム&ソーヤーの二人の主人公になった気分に浸れることをうまく伝えている。
「参考」として、「〈広告カードが並ぶ書店〉」の写真が最後に添付されているが、添付せずに、「あなたは書店に行ったとき、広告カードを読んだことがありますか」と問う設問を用意することも注意力・判断力・理解力に深く関わって効果があるのではないだろうか。「最近興味を持って読んだ広告カードの対象書名と、どのような内容のカードだったか、簡潔に書き出しなさい」とする。
読んでいない生徒はその限りではないが、そういった生徒でも書店に行く機会があったなら、広告カードに注意が向くはずである。注意力・判断力・理解力をつけていく第一歩となる。)