「国境なき記者団」への返事の来ないメール

2008-04-30 04:30:31 | Weblog

 基本的人権も国境があってはならない

 若い頃から返事の来ない手紙には(特にラブレターには)慣らされていたから、来ないことに対するもどかしさはないが、世界の人権抑圧が一向に改善されないことのもどかしさはなかなか癒されない。 
 そのもどかしさに耐えかねて、人権の改善に少しでも役に立つ方法はないものかと、自分がいつも言っていることを纏めたに過ぎないが、聖火リレーでマスコミの注目を浴びることとなった「国境なき記者団」に提案の形でメールを出してみることにした。

 先ず検索エンジンから「国境なき記者団」のHPにアクセス。探し方が悪いのか日本語のページに行き当たらない。「ASIA 」のタグをクリックして「Contact us」 E-mail : asia@rsf.org」の文字を探し当て、以下の内容の書き記し、送信した。読み直して、少し手直し。 


 送信者: "手代木恕之" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: asia@rsf.org
件名 : Suggestion(提案)
日時 : 2008年4月23日 16:58

 Suggestion(提案)――Please translate in English.

 ある国の人権抑圧や自由の束縛を国際社会が批判すると、「内政問題だ」とか、「内政不干渉の原則に抵触する不当な介入だ」などと言って人権問題を「内政」問題に閉じ込めて批判を撥ねつけ、人権抑圧政策を維持して自己権力を保守する。

 このような人権問題は「内政問題」とする人権抑圧擁護論に対抗するには人権問題は「内政問題」ではないとする対抗理論を構築し、マスメディアが取り上げるだけの発言力を持った複数の人間がその対抗理論を日常的に世界に向けて発信することで多くの人間の理解を得て「正当理論」化し対抗していく以外に道はないと思います。

 例えば次のようにです。

 「思想・信教の自由、言論の自由、移動の自由等の基本的人権は人間を真に人間らしく生かす基本中の基本的な生命原理としてあるものだから、すべての国のすべての国民が等しく享受しなければならない国家主権を超えた権利であって、国家体制によって制限や違いを設けてはならない。

 国家主権を超えるゆえに、基本的人権に国境は存在せず、それぞれの国家の内政問題から切り離され、『内政不干渉の原則』は無効化する。

 いわば、基本的人権はそれぞれの国家によって恣意的に扱われてなならない。如何なる場合も国家権力の犠牲となってはならない。」

 このような理論が「対抗理論」にはなり得ないということなら、何かしら対抗できる理論を構築しないことには、人権抑圧政策に対する批判は常に、「内政問題だ」とか、「内政不干渉の原則に抵触する不当な介入だ」といった言葉に撥ね返されることになる。「国境なき記者団」でもいいし、あるいは関係他組織でもいいから、撥ね返されない対抗理論を構築することが必要だと思います。

 上記私の「理論」については自作ブログ≪基本的人権は憲法の保障によって獲得する人間のあるべき存在性ではない≫でも書いています。

 参考になりますかどうか、興味があったなら、アクセスしてみてください。

 手代木恕之(Hiroyuki Teshirogi)
 wbs08540@mail.wbs.ne.jp
 幸いなことに日本は基本的人権が憲法で保障されている。空気のように意識せずに基本的人権の恩恵に浴し、同じく意識せずに何不自由なく基本的人権に則った行動を取ることができる。

 このことは基本的人権の保障が政治やスポーツを含めた文化と一致していることによって可能となる自由な行動性であろう。一つでも一致していなければ、自由な行動は不可能となる。

 その一致点を認識せずに「政治とスポーツは別だ」と言う。基本的人権の保障がそのように言える前提条件となっていることにも気づかない。また人権抑圧国家にあっては、支配者側に立っている者だけが言える「政治とスポーツは別だ」であろう。

 多分、基本的人権を意識しないで済むことが基本的人権が保障されていない国の人々の基本的人権上の酸素不足に喘いでいる状況に無理解、あるいは鈍感でいられるのだろう。対岸の火事視することができるのだろう。北京オリンピックの恙(つつが)ない成功は中国式人権抑圧の勝利を意味する。チベット問題を小さくする効果を生むに違いない。 
 ≪中国で逮捕続々 「人権」主張は国家転覆扇動罪≫(asahi.com/ 2008年02月09日10時04分)

 五輪が半年後に迫った中国で、人権の擁護や民主の拡大を求める活動家らへの締めつけが強まっている。特に、「人権」や「民主」を求めただけで「国家政権転覆扇動」の罪に問われて逮捕されるケースが増えている。国際人権団体は、北京五輪の誘致にあたって中国政府が掲げた「人権状況を改善する」との国際的な約束を守るよう求めるが、五輪が近づいて状況はむしろ悪化しているとの見方が強い。

 今月初め、浙江省杭州市の中級人民法院(地裁)は、著名なインターネット作家の呂耿松氏に対し、国家政権転覆扇動罪で懲役4年の実刑判決を言い渡した。

 呂氏は中国の人権弾圧、共産党・政府高官の腐敗などを批判する文章をネット上などで発表してきた。昨年9月に逮捕された。判決が言い渡された法廷では「民主必勝、専制必敗」などと叫んだという。

 米国ニューヨークに本部を置く人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチが北京五輪の開催まで半年を期に発表した声明によると、過去1年に逮捕されるか有罪判決を言い渡された著名な活動家は呂氏で6人目。中国の公安当局が国家政権転覆扇動容疑を名目にした逮捕件数は06年から07年にかけて20%増加したという。そのうえで、同容疑・罪の拡大解釈と乱用が「活動家を黙らせる武器になっている」と批判した。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルやパリに本部を置く「国境なき記者団」なども、中国の人権状況の悪化に懸念を示している。

 目立つのは、北京五輪開催で国際社会の注目が集まることを人権状況の改善につなげようとする取り組みへの弾圧だ。黒竜江省で「五輪より人権を」と署名集めをした楊春林氏も国家政権転覆扇動容疑で逮捕された。

 一般市民への締めつけも強まっているとの見方が一般的だ。

 中国が巨大な市場として脚光を浴びるようになるに従って、主要先進国が人権分野で中国側に厳しい注文をつける場面は少なくなっている。ヒューマン・ライツ・ウオッチのリチャードソン・アジア部長は声明で「国際社会が北京五輪に絡んだ弾圧に沈黙すれば、その弾圧に青信号を出したのと等しい」と警鐘を鳴らしている。
    ◇
 この1年に「国家政権転覆扇動」で逮捕、有罪判決を受けた著名な活動家

 呂耿松氏 2月に懲役4年の判決。浙江省在住のインターネット作家。逮捕後、国際ペンクラブなどが早期解放を求めていた。

 胡佳氏 昨年12月に拘束され、1月に逮捕通知が家族に届いた。北京市在住で妻子も軟禁されている。エイズウイルス感染者の人権擁護に取り組み、北京五輪を期に今年を「中国人権年」とするよう訴えた。

  陳樹慶氏 昨年8月に懲役4年の判決。作家で民主化を求める非公認政党・中国民主党の準備委員会メンバー。

  楊春林氏 昨年8月に逮捕。黒竜江省の元工場労働者で「五輪より人権を」と訴え、署名活動にあたっていた。

  厳正学氏 昨年4月、懲役3年の判決。芸術家。インターネットで文章も発表。懲役刑の被告などに科される「労働改造制度」に反対する署名活動などに取り組んだ。

  張建紅氏 昨年3月、懲役6年の判決。ウェブサイトを運営し、「中国政府を中傷した」などと批判された。

 (ヒューマン・ライツ・ウオッチや中国の国営新華社通信などによる)
 ≪北京五輪を前に、中国政府による「人権侵害」が加速≫(AFP BBNews/2008年01月30日 15:42 発信地:北京/中国 )

 【1月30日 AFP】北京郊外に住む人権活動家の胡佳(Hu Jia)氏と妻の曾金燕(Zeng Jinyan)氏は、かつては客を自宅に招き、お茶を飲みながら、北京五輪(Beijing Olympics)が中国民主化の起爆剤になることへの期待を語っていた。

 それが今では、2人の住むアパートは立ち入り禁止に。タイム(Time)誌の「世界で最も影響力のある100人」に名前を連ねている曾氏が前月、国家政権転覆扇動の疑いで拘束され、妻の方は自宅軟禁に置かれているためだ。

 今週2人のAFP記者がアパートを訪れたところ、アパートには規制線が張られ、複数の私服警官に制止された。「保安上の問題が発生したため調査中。詳細は言えない」のだと言う。

 終身刑に直面している曾氏は、「国家機密が漏れる恐れがある」として弁護士との面会が許されず、「危険人物」との理由で健康不安にもかかわらず保釈も認められていない。

 曾氏の逮捕には、欧米のみならず国内の活動家からも非難が浴びせられている。1989年の天安門事件の際に戦車にひかれて両足を失った北京の弁護士・人権活動家のXu Zhiyong氏は、「曾氏は不正にあえぐ数千人の市民の声を代弁している」という内容の抗議文書を胡錦濤(Hu Jintao)国家主席に送付した。

 夫妻のこうした運命は、北京五輪を前に当局が反体制派の取り締まりを強化している事実を物語る。活動家らは「政府は、五輪招致の際の『人権侵害をやめる』との約束を破っている」と世界に訴えているが、その答えは「当局によるさらなる人権侵害」だという。

 中国の人権問題を監視するChinese Human Rights Defendersは先ごろ発表した報告書で、ここ数週間で多数の知識人、活動家が自宅軟禁に置かれ、言論規制も強化されていると指摘。「五輪が近づくにつれて弾圧も強まる」と予想している。(c)AFP/Charles Whelan
 ≪実刑の胡佳氏、弁護士が面会できないまま控訴期限すぎる≫(asahi.com/2008年04月16日00時51分)

 【北京=坂尻信義】国家政権転覆扇動罪に問われ北京の裁判所で懲役3年6カ月、政治権利剥奪(はくだつ)1年の判決を受けた人権活動家・胡佳氏(34)が控訴するかどうかを相談するため、弁護士が面会を求めたが、拘置所が応じないまま控訴期限が過ぎる事態となっている。

 李方平弁護士によると、控訴期限の14日、胡氏と面会するため同僚弁護士と拘置所に出向いたが、拘置所は胡氏が「医療検査」で不在と説明。李弁護士らは夜まで待ったが、会えなかった。15日午後に拘置所を再訪すると「控訴期限を過ぎているので面会できない」と断られたという。

 肝硬変を患う胡氏の健康状態に妻の曽金燕さんら家族や友人は不安を募らせている。

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自民党幹事長・伊吹文明の合理的判断能力なき自己都合な「民意論」

2008-04-29 11:04:42 | Weblog

 どこの民放局か忘れたが、昨日(4月28日)の朝の番組で伊吹自民党幹事長が衆院山口2区補選について次のように述べているシーンを流していた。

 「自民党が勝っても、民意だと思わないし、民主党が勝っても、民意だと思わない」

 民意を問うものでなければ、では選挙は何を問う場なのだろうか。例えカネで票を買ってそのことが有利に働いた当選だとしても、カネで票を売る民意(=国民の意思)が左右した選挙結果・当落ということなのだから、選挙が民意の所在を問うことで成り立っている構造であることに変わりはない。テレビタレントで面白いからあの人に入れようとする民意が大勢を占めて当落を決定する選挙もある。

 衆院山口2区補選は選挙戦中からマスコミによって野党民主党候補の優勢、与党候補の劣勢が伝えられていた。次の衆院選挙で与野党逆転があってもおかしくない苦しい政治状況の中、与党の幹事長として落選した場合のショックを和らげたい気持があったから、衆院山口2区という日本という全体に於ける単なる一地域の補欠選挙とすることで、日本全体の「民意」ではないとしたかったのだろう。

 だからと言って、合理的判断能力を失っていいというわけにはいかない。政権党の幹事長の地位にある者の見識の問題にも関わってくる。選挙で争点となっていた道路特定財源問題にしても消えた年金記録問題にしても、後期高齢者医療制度問題にしても山口2区という一地域に特殊な問題ではなく、日本全体の問題、日本国民全体の問題としてあるだから、全体的な民意の帰趨が全体の中の一地域である山口2区の民意と共鳴し合う部分が否定し難く存在するはずで、そういった中で与党候補を排除して野党候補を選択したという選挙結果・民意結果は共鳴し合った割合が多いということを示したもので、どうこじつけたとしても一地域の問題に貶めることはできないはずである。

 逆に選挙結果は山口2区という日本の中の一地域の民意が一地域を超えて日本全体の民意の所在を改めて示したとも言える。そのことはマスコミ各社の全国民を対象とした世論調査が証明している。世論調査どおりの選挙結果でもあるからだ。それ程にも地域に関係なく密接に関わっている、民意を刺激せずにおかない道路特定財源問題であり、消えた年金記録問題であり、後期高齢者医療制度問題となっているのである。

 いくら敗戦ショックを和らげる自己都合の言葉だとしても、余りにもこじつけ・牽強付会の言葉となっていて、そうであること自体が合理的判断能力を欠いている証拠なのだが、衆院山口2区補選の民主党候補の当選を民意によって判断された結果でないと価値づけてしまったなら、伊吹自身の京都府1区での当選も民意を受けた負託ではないとしなければ整合性を失う。

 整合性を失うことになるということに気づかないところにも伊吹文明なる政治家の合理的判断能力の程度を限りなく疑わざるを得なくなる。

 伊吹文明のご都合主義・客観的判断能力欠如を解く鍵は伊吹自身が口にした次の言葉から窺うことができる。

 「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国で、悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と自ら口にした言葉が証明している。

 これは大和民族あるいは日本人を優越的に上に置く権威主義からの言葉で、その肯定は自らも権威主義に染まって自分自身を優越的上位に置いているから口にすることができた言葉であろう。民族・国家を上に置くことによって、そこから民族・国家を上に置くに都合のいい「民意」は歓迎されるが、不都合な「民意」は無視するという上に立つ者のみの利益に添った原則が導き出されることになる。

 だから、昨07年の参議院選挙の野党勝利という直近の民意の自民党に不利な局面を限りなく無視すべく、伊吹は05年衆院選挙の与党大躍進の自らに有利な民意を持ち出して、「参議院も民意、衆議院も民意」だと一見同等に扱っているように見えるが、参議院に対する衆議院の優位性を楯に実際は衆議院の民意を上に置く合理的判断を無視した自己都合の意志を働かせることができたのである。

 「民意」を自己都合で価値づける合理的判断を著しく欠く政治家が政権党でそれ相応の地位を占めている。今後とも「おらがセンセイ」だとする「民意」を受けて当選し続け、自民党の何様としてのさばり続けることだろう。素晴らしきかな日本の政界。

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厳戒聖火リレーは中国監視社会の擬似的再現?

2008-04-27 11:20:43 | Weblog

 沿道に数メートル置きに制服警察官が立ち警戒の壁をつくった総勢3000人規模の物々しい厳戒態勢の中、長野聖火リレーは4月26日(08年)午前8時半前に開始。その外側に中国国旗を持った中国人留学生らとチベット留学生やチベット支援者がそれぞれの場所を確保して対峙する中で聖火リレーの行事は行われた。

 聖火ランナーに対する直接の防御は北京五輪組織委員会が派遣した白帽子・青のトレーニングウエアの2人の聖火警備隊員までを準備し、その両者を透明のプラスチック製盾を持った数人のトレーニングウエア・臙脂色の帽子の警察官が前後から守り、さらにその左右を機動隊員を交えたトレーニングウエア姿・臙脂色の帽子の警察官と防犯チョッキを身に付けた同じ臙脂色の帽子の警察官が各2列縦隊で合計占めて90人が整然と一緒に走る物々しいばかりの防御体制を取っていた。

 途中モノを投げつけたり、乱入したりする者が出現して数人が逮捕されたあと、<午後0時半前。大勢の中国人留学生らが集まる「若里公園」(ゴール地点)に聖火が到着。雨の中、公園内は大小の真っ赤な中国国旗で埋め尽くされ、チベット人を支持する人たちが離れた場所で抗議の声をあげ>ていた。(≪北京五輪:長野聖火リレー 沿道、小競り合い/平和の祭典、厳戒(その1)≫毎日jp/08年4月26日)

 さらに国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」のロベール・メナール事務局長、その他がリレーコースの「大門」交差点で聖火の通過後移動し、手錠をかたどった旗を掲げて抗議のデモを行っている。(≪善光寺でチベット暴動の追悼法要、国境なき記者団も抗議活動≫08.4.26/読売新聞)

 聖火ランナーはテレビの画像を見る限り、選出されたランナーが一人ずつ走ってリレーする形を取っていたようだが、一人ずつが掲げるトーチを守るために出動させた警戒態勢にしては異常なまでに物々し過ぎる防備に思えた。

 いわば聖火リレーが行われた時空間上に過剰なまでに物々しい「監視社会」が出現したのである。

 この長野「監視社会」は意図したものではなくても、警備を優先させるあまり中国の監視社会と相互対応し合った、その反映となっていなかったろうか。つまり過剰なまでの警備優先が結果的に中国の監視社会を一時的、擬似的に再現せしめたと言えないだろうか。

 中国は政府の過剰なまでのネット検閲、ネット規制、政府批判の出版物の取締まり・出版禁止、人権活動家の活動制限、テレビと新聞の検閲、ニュース・記事の差し止め、天安門事件で武力弾圧を行ったことで役目の一つとなった国民に対する人民軍の威嚇的支配性等々を手段とした基本的人権を否定する過剰なまでの国民を監視する「監視社会」となっている。その本質部分がミニチュア版・ヒナ型の形を取って長野に出現したのである。

 言葉を換えて言うなら、中国が共産党一党独裁体制で国家秩序(=国民の活動)を監視し、維持しているように長野に於いて警察官3000人体制で秩序を「監視」し、維持した。

 もし中国が民主国家で国民の基本的人権の保障を憲法で明記していたなら、例え抗議デモを予想していたとしても、それを思想・信条の自由と認めて、それが暴力化した場合の取締まりは開催国の判断に任せただろうから、聖火警備隊員まで送ることはなかっただろうし、中国人留学生を動員することもなかたっだろうから、開催国の日本にしてもこうまで過剰な警備に走ることはなかったろう。

 実際にはその逆転現象を描いているのだから、こういった経緯からも中国監視社会がつくり出した長野の過剰警備であり、中国監視社会の擬似的再現と言える。

 もしこの見方が妥当なら、日本政府もJOCも長野市も警察も、当然のことに走った聖火ランナーもそれと知らずに中国監視社会の擬似的再現に手を貸したことになる。

 知らぬが仏で、日本人関係者は聖火を無事に守り、無事に終わることだけが頭にあったからだろう、警察官3000人の警戒体制に何ら疑問を持たない反応を示していた。

 以下昨26日夕方7時のNHKニュースから。

 日本オリンピック委員会・竹田恒和会長「日本中の方々に北京オリンピック大会の開催の意義と平和と友好のメッセージを伝えてくれるもの確信いたしております」(午前8時半前のスタート時で)

 情報が世界に向けて発信されることも考えずに、一国主義の発言となっている。

 長野市鷲澤正一市長「まずまず責任を果たしたと、いうふうに思っています。長野とすれば、平和、えー、に向けての情報発信という、まあ、言い方がいいかどうか分かりませんけれども、というような形はできたのではないかな、というふうには思っていますけども・・・」

 中国とチベットの剥き出しの対立を露わにした聖火リレーだったというのに、どのような「平和に向けての情報発信」と言うのだろうか。厳戒と監視があっての「まずまず」の終了に過ぎなかった。

 野球日本代表監督・星野仙一「この私はすんなりと走れまして、ええー、次の末續君(陸上ランナー)にきちっと、おー、バトンタッチできまして、ええ、非常によかったと思っています。ある意味、気持ちがいいもんですね。トップランナーで、こう聖火を持ってですね、ええ、走るというのは――」

 自分のことだけの自己中心主義に浸った言葉となっている。溢れんばかりの中国国旗もチベット国旗も目に入らなかったに違いない。

 競泳選手・北島康介「コケたらどうしようかと、っていう、そういう心配が一番強かったですね。つまずいたら、格好悪いなあっていうか、僕は泳ぐだけだし、競技をして、みんなに見てもらうことが一番なんで、取り合えず、自分がやることはやって、で、見てくれる人が何か感じてもらえれば、いいんじゃないかなあと思います」

 そう、自分のことだけを考えましょう。

 元プロテニスプレーヤー・松岡修二「10年前、長野聖火リレーを走らせて貰ったんですが、今回は正直、様子は全く違っていたと思います。でも、やっぱりアスリートの思いというのはですね、そういうものは絶対変わらないと思いますし、僕は本当に、その平和とスポーツのよさ、オリンピックのよさを願いながら走らせて貰ったんですが――」

 少しは変って、世界の人権問題も考えてもらいたいものだが、そんな思いはさらさらない。即物的解説しかできない元プロテニスプレーヤーといったところか。

 有森裕子「普通でない中で行われたっていう中で、私は参加した一人として、複雑でした。平和を願っているアスリートたちが自分たちの競技を、あの、真剣に、あの、そのない最高のパフォーマンスで、私は子供たちや、人たちに伝えていく。それが大事な、できることの一つだと思います」

 平和は誰でも願う。願わないのは武器商人ぐらいだろう。しかし現実は願っているとおりの平和を望むことができない多くの人々がいる。そこまで考えずに、平和を願う殆どの人間が「平和を願う」止まりで終わっている。やはり自分たちだけが平和でありさえすれば、結構毛だらけ、猫灰だらけなのだろう。

 崔天凱中日中国大使(中国政府への抗議活動を問われて)「ごく少数の人が長野に来て、オリンピック精神に挑戦し、妨害したが、リレーを応援する多くの人たちの前では小さなことだ」

 「中国政府への抗議活動は長野だけではありませんが、そのことについてはどうお考えですか、小さなことですか?」とやんわりと聞き返したらどうだろうか。

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マスメディアの人権問題に関わる「面従腹背性」

2008-04-25 05:03:00 | Weblog

 この「面従腹背性」は人権問題に限ったことではなく、多くの問題、多くの場面に於いて見受ける傾向だが、今回は人権問題に絞ってその傾向を追及したいと思う。
 
 以前、と言っても3年前のことだが、メーリングリストで次のようなやり取りをした。

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : 万景峰号出航中止の記者会見でも、ただ承るだけの日本のマスコミ
日時 : 2003年7月21日 10:39

 朝鮮総連が記者会見を開いて、万景峰号の日本への出航中止を伝え、麻薬の密輸・不正送金・ミサイル部品の密輸・在日北朝鮮工作員との連絡等に万景峰号を利用しているとの指摘は謂われなき誹謗中傷だと強い調子で非難した。

 北朝鮮は、拉致の事実が存在していたのに、存在しないと長年国ぐるみで否定し続けてきた。いわば、北朝鮮及び金正日は長年の間、どっぷりと『狼と少年』の少年に身を落としていたのである。日本のマスコミは朝鮮総連の声明をただ承るだけではなく、「北朝鮮は拉致で既に『狼と少年』の少年を演じているのである。万景峰号に関わる不正・疑惑は一切ないと宣言したとしても、言葉どおりに素直には信じることはできない」となぜ反論の一つもできないのだろうか。・・・・・

 上記のメーリングリストに対して、朝鮮総連の声明を声明通りに「鵜呑み」に受止める者はいないだけではなく、「ニュース」はあくまで客観的な事実報道であって、「評論」であってはならないから、「それはニュースの役割ではない」との反論を受けた。「ニュースそのものにまで価値判断が含まれてしまったら客観的ではなくなり、それは『ニュース』とは言えない。イラクの報道官が現実の戦況とかけ離れたコメントをしたのをマスコミはそのまま伝えていたが、それを評論家が否定するまでもなく、誰も信じなかった。この総連の声明も全く同じだと思う」といった趣旨の内容である。

 私の答は次のとおりである。

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : Re: [kokkai2] それは「ニュース」の役割ではない 
日時 : 2003年6月15日 12:06

 私自身は、<「ニュース」の役割だと><発言し>たつもりはありませんが、そう受取られたとしたら、私の言葉足らずが原因なのでしょう。私は、あくまでも記者会見の場での記者の役割はそうあってもいいのではないかとの主旨で述べたつもりです。

 <客観的な事実報道>のみで完了させてもいい<「ニュース」>もあれば、それだけでは物足りない<「ニュース」>もあると思います。

 中には、質問を一切受付けないという条件で記者会見を開く場合もありますが、一般的には、開催側の一方的声明・発表で終わるものではなく、記者側からの質問を受ける対の関係を記者会見は原則的な形式としているはずです。その「質問」たるや、発表された内容をうわまわるより多くの<客観的な事実>を知るため、あるいは発表された内容が<客観的な事実>か否かの真偽を確かめたりする手段であり、と同時に、ニュースの受け手に発表内容をうわまわる<客観的な事実>を提供したり、真偽の網を通した<客観的な事実>を知らしめるための手段でもあるはずです。例え、<常識で考えてあの声明が鵜呑みに信じられる訳>のものではなくても、ただ単に、相手が述べた言葉を述べたとおりに承って、いわば、誰が・いつ・何をしたか(発表したか)という、相手側の行為をなぞったに過ぎない種類の<客観的事実>を伝えるだけでは、子どもの使いに似て、芸がなく、記者会見という形式は価値を失います。ファックスでも送ってもらえば、手間も時間も省くことのできる問題となります。

 発明・発見とか、婚約発表の記者会見とかは事実の公表のみでしょうが、その場合でも、出席した記者は色々と質問を浴びせて、より多くのことを聞き出そうとしますが、自己正当化を目的とした種類の記者会見というのもあります。不祥事を起こした会社の謝罪会見も同種のものだと思います。本社の指示ではない、支社が独断でしたことだとか、会社ぐるみと認めたとしても、利益追求に走り過ぎてしまったもので、心底からの邪心がなさしめた不祥事ではない、あるいは一般的に行っていることではないとすることで、比較相対的に自己正当化を図る、あるいは、私の不徳の致すところでと社長が頭を下げることで、会社全体としての自己正当化は訴えるといった仕組みを持たせる構造の記者会見です。

 今回の朝鮮総連の場合も、同じ仕組みの記者会見だと思います。この手の記者会見は、内容が事実と異なると明らかに分かる声明・発表だったとしても、それを言葉どおりに受取るだけでは、その時点で相手側に自己正当化を果たさせることになります。新聞上かテレビ番組内で批判・否定したとしても、あるいは最大公約数の読者・視聴者が批判・否定に同調したとしても、朝鮮総連・北朝鮮は、記者会見場で自己正当を果たした声明・発表どおりの姿勢を取り続けることでしょう。「北朝鮮は拉致で既に『狼と少年』の少年を演じているのである。万景峰号に関わる不正・疑惑は一切ないと宣言したとしても、言葉どおりに素直には信じることはできない」と一言でも返していたなら、朝鮮総連も北朝鮮も、全面的な自己正当化を演じることは難しくなると思います。

 我々に伝わることは勿論重要ですが、それは時間を置いたもので、張本人に時間を置かずにその場で直接伝わることの方がより重要だと思います。

 <イラクの報道官が現実の戦況とかけ離れたコメントをしたのをマスコミはそのまま伝えていました。それを評論家が否定するまでもなく、誰も信じなかった>と言うことですが、イラク国民の殆どは信じて(アメリカのイラク攻撃反対派の中にも、攻撃が失敗することを願うあまりに信じた人間もいたかもしれません)、民兵や自爆テロ要員として志願したり、イラク軍を支持・鼓舞したりして、死傷者をいたずらに増やした側面もあったはずです。つまり、我々が信じなければいいという問題では済まされないということです。

 大本営発表を鵜呑みにして、あるいは中には、偽りの戦果だと気づいていた者もいたでしょうが、大本営というよりも、大日本帝国軍隊の自己正当化に向けて加担したばかりか、それを大袈裟に水増し宣伝して国民を鼓舞・叱咤する戦意高揚報道で、結果的に勝ち目のない戦争から目をそらさせて戦争を長引かせる種を撒き、死傷者をいたずらに増やした事実は、戦果自体を発表のままに揺るぎない<客観的な事実>としただけではなく、発表経緯をそっくり<客観的な事実>としてなぞり、報道した悪しき例の一つですが、そこに無条件に<客観的な事実>とする前提意志(=無条件性)が働いていたとしたら、逆方向の力学を持たせた意志――その場で問い質したり、追及したりして、<客観的な事実>か否かを確認する手続きをそれが不発に終わったとしても、働かせるべきであり、それを慣習とすべきだと思いますが。
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 新聞・テレビが記者会見で相手が喋ったことをそのまま承り、そのまま情報に変えて視聴者・読者に伝達して、その流れを役目として完結するなら情報伝達者としての整合性を維持できる。だが、記者会見では相手が喋るとおりに承って、ニュースとして伝える段階で批判する。あるいは記事にする段階で批判する。さらに社説やコラムで批判記事の形とする。このある意味「面従腹背」と言える非整合性を問題にしている。

 批判対象者が後日テレビの批判コメント、新聞の批判記事を仮に知ったとしても、海千山千の政治権力者たちである、どれ程に気にかけるだろうか。腹の中でせせら笑って、歯牙にもかけまい。

 どれ程に国民の自由を抑圧し、人権を無視しようとも、中国もミャンマーも北朝鮮もそれぞれを支配している国家権力者にとっては「正義は我にあり」だから、痛くも痒くもないことになる。そういったしたたかな相手に記者会見の言葉を話したとおりにそのまま承り、記者会見から離れた場所で時間を置いてその「正義」を批判したとしても、あまりにも間接的過ぎて、直接相手に響かない遠隔操作の批判処理と化す。そういった情報化プロセスをマスメディアの役目とし、それでいて自らを権力の監視者・批判者と任じることに矛盾はないだろうか。

 例えば温家宝首相はチベットで発生した中国に対する抗議意志を示す騒乱について中国全国人民代表大会(全人代)終了後の記者会見で次のように発言したとMSN産経(≪「ダライ・ラマの主張はウソ」 温家宝首相が会見で激しく批判≫08.3.18 15:56 )は伝えている。

 「ダライ集団が組織して謀議を重ね、綿密に策動し扇動して起こした事件であり、ダライ集団の“独立を求めず和平対話”との標榜(ひようぼう)がウソであることを暴露した」

 <ダライ・ラマが「チベットで文化的虐殺が行われている」と発言したことに関し「われわれはチベットを平和解放し、民主改革を実施して現在に至る。チベットは進歩し、発展しており、いわゆる“中国政府がチベット文化を消滅させようとしている”というのは、完全なウソである」と反論した。>

 「ダライが独立の主張を放棄し、チベット、台湾が中国の不可分の領土であると承認すれば、話し合いの門戸はいつでも開いている」・・・・・・・

 最初の「ダライ集団が組織して謀議を重ね、綿密に策動し扇動して起こした事件であり、ダライ集団の“独立を求めず和平対話”との標榜(ひようぼう)がウソであることを暴露した」とする発言に対して、「騒乱が起きる前に “独立を求めず和平対話”の主張に応じて対話の機会を持っていたとしたら、騒乱は起きなかったと思いますか」ぐらいのことは聞くべきではなかったろうか。

 「我々が信じなければいいという問題」で片付くチベット問題ではないのは明らかであり、ニュースや記事の段階で批判すればよりよい方向への期待が持てるという問題でもないことは明らかである。

 二番目の「われわれはチベットを平和解放し、民主改革を実施して現在に至る。チベットは進歩し、発展しており、いわゆる“中国政府がチベット文化を消滅させようとしている”というのは、完全なウソである」に対しては「平和解放し、民主改革を実施して現在に至っていると言うなら、ではなぜ中国側が言うダライ集団の扇動に応じて騒乱に至る抗議のマグマがチベット内部で沸騰するに至ったのか、そのことについてどうお考えですか。その兆候さえ気づかなかったのですか」といったことを聞くべきではなかったろうか。

 あるいは、「チベットを平和解放し、民主改革を実施している、ダライ・ラマがウソをついているということで中国側に何ら不都合はないというなら、騒乱中であろうとなかろうと海外のメディアに自由にチベット入りを許可し、自由な取材を許可すべきではなかったのではないでしょうか。取材制限、あるいは取材禁止は不都合を隠す場合の手段に使われるというのが一般的には受け止められていますが」と相手の自己都合を突くべきではなかったろうか。

 三番目の「ダライが独立の主張を放棄し、チベット、台湾が中国の不可分の領土であると承認すれば、話し合いの門戸はいつでも開いている」に対しては、「最初から、独立は要求せず、高度な自治を求めていると言っています。先ずは条件をつけずに会談して、話し合いの機会を持つべきではないでしょうか」と促すべきではなかったろうか。

 相手の条件をそのまま承り、記事やニュースでダライ・ラマ側が受け入れ難い条件を突きつけたに過ぎないから、実現の見通しは立たないと批判的に解説して、どれ程の効果があるのだろうか。受け入れ難い条件ゆえ、平行線を辿るだけではないかと記者会見の場でこそ指摘し、相手に直接そのことを伝えることも役目とすべきではないだろうか。権力の監視者・批判者を任ずるならばである。あるいは基本的人権の擁護者を任ずるならばである。

 そういったことをも役目として、初めて権力の監視者・批判者を、基本的人権の擁護者を任ずる資格を得るのではないだろうか。

 新聞・テレビが自らの情報手段を駆使して基本的人権の重要さを機会あるごとに訴え、基本的人権を抑圧する国家に対して機会あるごとに批判を加えていながら、何ら相手に届いていない。欧米先進国その他の民主主義国家、あるいは国際機関が軍事国家・独裁国家に対して言論制限の改善や人権抑圧の停止、民主化要求を頻繁に行いながら、歯がゆいことにその実現が満足な形で進んでいない。
 
 マスメディアが記者会見の言葉を単に承って、承ったことを記事の段階で批判する「面従腹背」は相手が存在しない場所での批判と同じく間接的に過ぎ、その分、力を殺いだ批判と化し、権力の監視者・批判者、あるいは人権擁護者としての資格を弱める。批判により直接的な力を持たせるためにも記者会見での相手側の自己に都合のよい「自己正当化」をその場で多少なりとも崩すこと、記者会見で披露する彼らにとってのみの「事実」をそのままに「客観的事実」とさせないことではないだろうか。

 そうすることによって記者会見の言葉を単に承って記事の段階で批判する「面従腹背性」を解消することができ、マスメディアは権力の監視者・批判者・人権擁護者としての資格に整合性を与えることができるはずである。少なくとも一向に改善の兆しが見えない世界の人権状況に直接的な一石を投じ続けることになると思うのだが。
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 (≪「ダライ・ラマの主張はウソ」 温家宝首相が会見で激しく批判≫MSN産経/2008.3.18 15:56 )

 【北京=福島香織】北京で開催されていた第11期全国人民代表大会(全人代=国会に相当)第1回会議は18日午前、温家宝首相の政府活動報告などを採択し、14日間の会期を終えて閉幕した。引き続き行われた記者会見で、温家宝首相はチベット自治区で発生した騒乱について「ダライ集団が組織して謀議を重ね、綿密に策動し扇動して起こした事件であり、ダライ集団の“独立を求めず和平対話”との標榜(ひようぼう)がウソであることを暴露した」と激しく批判した。(「なぜこうなるまで対話の機会を持たなかったのか」等ぐらいのことはすべき。)

 中国政府の最高指導者が公式の場で、今回の騒乱に関連してダライ・ラマ14世を非難するのは初めて。

 温首相は騒乱について、事件がダライ・ラマ支持者の策動である確たる証拠を持っていると説明。「偽善的なウソは鉄の事実を隠しきれない」と述べた。

 また、ダライ・ラマが「チベットで文化的虐殺が行われている」と発言したことに関し「われわれはチベットを平和解放し、民主改革を実施して現在に至る。チベットは進歩し、発展しており、いわゆる“中国政府がチベット文化を消滅させようとしている”というのは、完全なウソである」と反論した。

 一方で「ダライが独立の主張を放棄し、チベット、台湾が中国の不可分の領土であると承認すれば、話し合いの門戸はいつでも開いている」と、これまでの主張を繰り返した。

 これに先立ち、全人代では各活動報告の表決が行われた。最高人民法院(最高裁)と最高人民検察院(最高検)の活動報告では、それぞれ21・9%、22・4%の大量の批判票(反対、棄権)が集まり、汚職・腐敗を取り締まる立場にある司法当局に対する国民の不満の大きさを改めて示した。

 また中央・地方予算案についての批判票は15・9%と比較的高い結果になった。教育、医療など民生を重視した予算案とはいえ、地方の不満をうかがわせた。

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「政治結果責任論」からミャンマー・チベット問題を見る

2008-04-23 03:55:25 | Weblog

 4月19日(08年)土曜日の当ブログ記事≪善光寺聖火リレー辞退/チベット問題抗議は付け足しの体裁?≫に、善光寺の聖火リレー出発地点の辞退は同じ仏教関係者であることからの連帯を主な理由としたものではなく、日に100本前後の聖火リレー開催反対の電話がかかってきたことや世界各地で聖火リレーが中国のチベット問題対応に対する抗議の格好の標的に曝されている事態等から、同じ仏教関係者として何らかのアクションを起こさざるを得なくなった付け足しの体裁ではなかったか、そのことはチベット問題に連帯を申し出る仏教組織が善光寺以外に聞いていないことからも証拠立てることができると書いたが、自分自身は「聞いていな」くても、実際には何らかの抗議のアクションを起こしている仏教組織があるのではないかと、後まで気になった。

 次の日洋式トイレに腰掛けて静かに小便を流していると、かなり前に東本願寺か西本願寺がチベットと関わった記事に出くわした記憶が甦って、早速インターネットで「本願寺 チベット」で検索してみると、真宗大谷派(東本願寺)と浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)のHPが文言は違うものの、同じ題名で同じ趣旨の『声明』を出していた。真宗大谷派(東本願寺)の『声明』は「財団法人全日本仏教会」が「理事名」で発した『声明』をそのまま載せた形となっている。

 ≪チベット情勢についての声明≫/真宗大谷派(東本願寺)(2008.3.24更新)

 <2008年3月17日、財団法人全日本仏教会がチベット情勢についての声明を発表しました。

 チベット情勢についての声明

 日本の伝統仏教界唯一の連合体である財団法人全日本仏教会および世界仏教徒連盟日本センターを代表し、現今のチベット情勢について、以下の通り表明いたします。
 全日本仏教会は世界仏教徒連盟の唯一の日本センターとして、世界仏教徒連盟に加盟する各センターとは、その所属する国家・地域の政治形態の如何に関わりなく、同じ仏・法・僧の帰依三宝の立場から対等な関係を築いてきました。その立場は今後も変わることはありません。
 ラサ市はチベット仏教の聖地です。今回、そのラサ市をはじめ中国各地において僧侶・市民と治安部隊の衝突により多くの死傷者が出ている深刻な事態に対し、私たち日本の仏教徒は深く憂慮しています。関係者に対しては、暴力に訴えることなく、対話による問題解決の可能性を模索するよう強く求めます。
 なお、私たち日本の仏教徒は今後ともチベット情勢の推移を注視してまいります。
   2008年3月17日
財団法人全日本仏教会理事長   安原 晃
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 ≪チベット情勢についての声明≫/浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)

 チベット情勢についての声明

 この度、中国チベット自治区ラサにおいて、僧侶や市民による政府に向けての抗議行動に対して、武装警察隊が出動し、鎮圧にあたり、多数の死傷者を出しているとの報道に接しました。現在、さらに混乱は広がりを見せているとの報道もあり、私たち浄土真宗本願寺派は、いよいよ事態が悪化していくのではないかと深く憂慮しています。

 チベット仏教の聖地とされるラサ市におけるこうした事態は、同じ仏教徒として大変悲しいことであります。 お釈迦さまは、「すべての者は暴力におびえ、すべてのものは死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ダンマパダ』)と説かれています。

 私たちは、宗祖親鸞聖人の「世のなか安穏なれ」との願いのもと、いのちの尊さにめざめ、それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる「御同朋の社会」をめざしています。

 暴力や武力による行動ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重し合いながら、平和的な対話などによって、これらの深刻な事態の速やかな終結を望みます。

       2008(平成20)年3月18日
 
 浄土真宗本願寺派 総 長 不二川公勝
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 上記いずれかの『声明』が善光寺の態度に影響を与えたかどうかは分からない。但し「財団法人全日本仏教会」の加盟団体の一つである。目にしていないことはないはずである。『声明』を出したのが3月17日と18日。善光寺の辞退は1ヵ月後の4月18日。善光寺側が『声明』を受け取っていたと考えると、反応が遅すぎ、『声明』が態度決定の要因の一つとは考えにくくなる。

 真宗大谷派(東本願寺)の「暴力に訴えることなく」と、浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)の「暴力や武力による行動ではなく」はチベット人の抗議形態を批判しているのだろうか、中国当局が弾圧方法とした「武力」を批判しているのだろうか。それとも「平和的な対話」と言っているのだから、双方共に批判しているのだろうか。

 チベットの中国化が民意を問う選挙を手段とした民主主義を通したものではなく、上(中国共産党)からの強制であるなら、政治暴力と言えるもので、非物理的ではあったとしても、既に暴力の形を取っている以上、民主主義制度のない場所でチベット人の抗議が対抗上自己に可能な、世界に訴え、世界の注目を集めるにより有効な物理的な暴力の形を取ったとしても非難はできまい。

 またダライ・ラマとの対話を求めている欧米先進国や日本に対して中国当局がダライ・ラマが受け入れ不可能な条件を掲げている現状からすると、望むべくもない「平和的な対話」を求めていることとなる。

 もしもそういったことを承知で出した「声明」と言うことなら、最初から何もしないわけにはいかないから出した「声明」――声明のための「声明」と化す。「声明」を出すことを目的とした形式・儀式であり、そうである以上、「声明」は形式・儀式を以って完結することとなる。

 たが、当方の思い込みに過ぎない疑いもあるから、「声明」に添って何らかの物理的行動を起こしているかもしれないと思って、ニュース検索してみた。二つの記事に出会った。

 ≪浄土真宗本願寺派:福岡教区、チベット人の人権擁護など要請 /福岡≫(毎日jp/08年4月10日)
 <浄土真宗本願寺派福岡教区(416カ寺)は9日、中国駐福岡総領事館(中央区地行浜)を訪ね、中国政府が中国チベット自治区とチベット人に圧力をかけていることに対し、平和的解決を求める要請書を手渡した。
 要請書は武樹民・福岡総領事にあて、武力鎮圧の中止▽対話による解決▽チベット人の人権擁護--を求めている。また書面では、満州事変(1931年)の際に中国仏教会から日本仏教者へ「侵略戦争停止」を呼びかける書簡が送られた事実に触れ、「当時の日本仏教者はこの要請に対し何も行動せず、侵略戦争を後押しした。このことを深く反省し、非暴力の立場からチベット人の人権を侵害しないよう要請する」と述べている。
 総領事館側は取材に対し「要請書の内容が基にしている(僧侶の拘束や実弾発砲といった)報道は事実ではない」とコメントした。〔福岡都市圏版〕>・・・・・
もう一つは京都新聞だが、閲覧可能期限を過ぎていて、全文を読むことはできなかった。二つあったインデックスの解説だけを紹介すると、

 ≪ラサから3人避難 チベット滞在の大谷大生≫

 <京都新聞 - 2008年3月24日
大谷大(京都市北区)は24日、大規模暴動が起きた中国チベット自治区ラサに滞在していた学生3人が同日までに自治区から避難したと発表した。学生にけがなどはなく、2人は日本に帰国、1人は安全な場所に滞在しているという。 大谷大によると、ラサにいたのは男子・・・・>と<・・・日までに自治区を出て、女子学生2人が23日に帰国した。学生たちは疲れており、当時の状況を聴ける状況ではないという。 大谷大は、真宗大谷派(本山・東本願寺)の宗門校。インド・チベット仏教の研究にも力を入れており、「チベット仏教」などの講座を開設している。>・・・・・

 京都新聞の記事は現地でチベット仏教を勉強していたが、騒動を逃れてチベットをを脱出したといった内容で、抗議活動を伝えるものではなそうだ。

 「浄土真宗本願寺派福岡教区」は中国駐福岡総領事館にチベット問題に関して「平和的解決を求める要請書を手渡」すアクションを起こしているものの、要請の形を取らしめた「事実」は存在しないという相手の態度を崩すことができければ、「要請」は要請の範囲を出ず、無力なまま形式・儀式で終わる。

 確かに「要請書」の手渡しはHPに「声明」を出すだけのことから一歩踏み出してはいる。だが、それらが形式・儀式で完結させないために何らかの工夫があるべきであろう。そうでなければ、「声明」は出すだけ、「要請書」は手渡すだけで了とする自己目的化の道へと進みかねない。実際に多くの声明、要望(書)の類が自己目的化しているのを見ている。

 東本願寺や西本願寺単独でもそれ相応の組織と力を備えているはずだし、それを超えて「財団法人全日本仏教会」ということなら、加盟団体を総合した組織と力は大きなものがあるはずだが、それと比べものにならない組織・権力を備えていながら、日本政府の「声明」、「要望(書)」、「要請・要求」、あるいは「親書」の類がさしたるインパクトを与えずに自己目的化の道を辿ったまま放置状態となっている。

 例えば07年9月27日にミャンマーで市民の反政府デモ取材中の日本人フリーカメラマン長井健司氏(50)がミャンマー当局のデモ治安部隊員に銃撃を受け、殺害された事件で主たる政府構成員の福田首相も高村外相も真相究明と真相究明に欠かせない所持していて所在知れずとなったビデオカメラの返還、そしてミャンマーの人権状況の改善を「要請」していながら、何一つ目的を果たせないでいる。

 昨07年11月にシンガポールで開催された東アジア首脳会談で福田首相は同じく出席していたミャンマー首相と会談し、ミャンマーの民主化と長井健司氏の遺留品返還に対する誠実な対応を直接要求しているにも関わらずである。

 高村外相にしても東アジア首脳会談を機にミャンマー外相と会談して同じ要求を直接伝えている。

 目的を果たせない「会談」に何の意味があるだろうか。意味をつくり出せずに、会談したことが目的だったいうことになりかねない。

 また福田首相は訪中している自民党の伊吹・公明党の北側両幹事長を介して胡錦涛主席にチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ十四世との対話を手段とした平和解決を促す福田親書を手渡しているが、中国側のチベット問題は内政問題だとの姿勢を崩すに至っていない。結果として何の力も持たず、親書を手渡しただけという形式・儀式で完結させることとなっている。相手もだた受け取っただけで終わらせているのだろう。

 多くの政治家が政治は結果責任だという。我が日本の国家主義者首相であった安倍前首相が特に十八番としていた言葉だが、自分の口から「政治は結果責任だ」と言いながら、その言葉を形式・儀式で終わらせ、言葉だけのものに貶めて何ら省みることはなかった。口で言うだけを目的とした言葉であっては、国民の負託を受けた意味を成さなくなる。「結果責任」を果たしてこそ、国民の負託との釣り合いが取れる。

 「政治結果責任論」から言うと、「声明」、「要望(書)」、「要請・要求」「親書」の類がそれぞれの内容を具体化させる結果を得てこそ、責任を果たせたと言える。逆説するなら、具体化させる責任を負う。「政治結果責任」イコール「具体化責任」と言える。

 となると、日本人フリーカメラマン長井健司氏殺害に関わって福田首相や高村外相が遺留品返還や真相究明、民主化を一旦「要望」、「要請」した以上、具体化させる責任――「具体化責任」を負う。相手の頑強な抵抗、もしくは無視に出遭って具体化が進まないときは、形式・儀式で終わらせずに具体化の責任を果たすために具体化を見るまで「要望」、「要請」を手を変え品を変え継続すべきであろう。手段の一つに援助の停止・延期も入る。

 福田首相がチベット問題の解決に向けてダライ・ラマと対話を求める親書を胡錦涛主席に手渡した問題でも、親書でそう要請した時点で具体化責任を負ったのであり、そうである以上、具体化責任(=結果責任)を果たさなければならない。

 胡錦涛主席が5月6日に訪日を予定してしているとのことだが、それを機会にチベット問題の平和的解決を求めるだろうが、そうしないと格好がつかないからただそうするのではなく、形式・儀式の類に貶めないために5月6日まで待たずにあらゆるチャンネルを使って機会あるごとにダライ・ラマとの対話を求める一旦始めたアクションを「声明」、「要望(書)」、「要請」「親書」等の形式で具体化を見るまで具体化責任を果たす努力を積み重ねるべきだろう。具体化こそが結果責任へとつながっていく。

 また、閣僚の退任時、在任中に各自が掲げ、推し進めた政策・活動に関する成果を総括・検証し、それぞれがどれ程の結果を見たか、どれ程の具体化責任を果たしたか、結果責任を問うべきである。そうしなければ単に大臣の椅子に座りました、官僚の操り人形となってすべて乗り越えてきましたで職を全うすることができることとなり、口にした言葉は全部が全部単に口にしただけ、自分の言葉として発したわけではなく、儀式・形式の類でございましたということになりかねない。

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自分を売ることに忙しい田原総一郎

2008-04-20 18:29:01 | Weblog

ジャーナリストでありながら、道理に暗い逆説性

 08年4月10日の『朝日』朝刊、「私の視点」にジャーナリストを名乗っている田原総一郎の記事が掲載されている。≪日中メディア 国益めぐり激論 見えた変化≫

 何様のジャーナリストだとの思い込みが強くて自分を売ることに忙しいから、勢い表現が大袈裟になる。題名を読んだだけで、「激論」「見えた変化」も話し半分以下に受け止めておいた方が無難だとの予防線が事前に働いた(全文を箇条書きに引用)。

〈1〉3月24日、25日(08年)の2日間、北京で日中ジャーナリスト交流会議が開かれた。ギョーザ中毒事件、チベット騒乱、北京五輪・・・・。新聞、テレビなど日本側7人、中国側8人のジャーナリストが10時間にわたって非公開の激論を交わした。議論がかみ合わないまま終わった昨年11月の東京の1回目とうって変わった展開となった。熱いやりとりを紹介したい。

〈2〉両者が激しく対立したのはチベット騒乱の問題だ。中国側の一人は「警官隊が市民を弾圧する現場としてEU(欧州連合)や米国のメディアが報じた映像はチベット以外で撮った偽装だ」と映像を示して訴えた。それに対して私たちは「外国メディアをチベットから閉め出しているから、怪しい映像が出回る。取材させるべきだ」と強く主張した。それに応えたとは言い切れないだろうが、期間中、中国政府は外国メディアにチベット取材を認めている。
 
〈3〉 24日には、国際NGOの「国境なき記者団」のメンバーがチベットでの騒乱鎮圧に抗議して、ギリシャで行われた聖火の採火式に侵入した。だが、中国のテレビはその場面をはずして放映し、中国で流れるCNNのニュースもその場面になると突然、画面が暗転した。
 そのことは2日目の討議でも取り上げられた。日本側が批判すると、中国側の一人が決然とした口調で「放送せず、事実を隠すほうがはるかに中国のデメリットが大きい。本当に愚劣な操作だ」と言い切った。日本側の参加者は、その勇気に感心すると同時に、改革・開放が進んでいることを改めて認識した。

〈4〉最も対立したのは、報道のあり方についてだった。中国側は「報道の究極の目的は国益を高めることである」と主張。日本側は「報道とは、例えば国益を損ねることになっても事実を追及して読者(視聴者)に提供することだ」と反論した。
 戦前、日本政府は戦争を「国益を高めるためだ」とうたい上げ、国民に多大な被害をもたらした。いま国民の多くは、国益は必ずしも国民益にならないと身にしみて知っている。中国側が「国益とはすなわち国民益」ととらえたのは、独立以後、国家に裏切られていないという思いが強いからだろう。

〈5〉日本側は毛沢東の文化大革命を例に挙げ、「政府がうたった国益が国民に深刻な被害を与えたではないか」と追及した。中国側は「毛沢東の全体を10とすると文化大革命失敗の責任は3で、中国共産党を創設して国家を独立させた功績が7ある」と応じた。これは改革・開放を進めた小平が文化大革命を批判したときに示した比率だ。

〈6〉中国側は本音を漏らすこともあれば建前で押し通すこともあったが、討論は両国の参加者が「こんな議論は始めて」と口をそろえるほど充実したものになった。真剣に向き合ったことで、「日中友好の未来をで考える」という交流会議の趣旨にさらに近づいたと言える。そして、中国メディアはいま本当の開放に向けた大きな変革期にあるのだと、実感した。

〈7〉背景には、北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑もあるだろう。滞在中、日本の報道陣としては就任後初めて習近平(シーチンピン)国家副主席と会見できたのも、その表れだろう。

〈8〉では、五輪が終われば流れは元に戻るのか。そうではない。一度開かれた社会は後戻りすることはない。そこに私は期待する。そう思える訪中だった。(引用終わり)・・・・・・・・・

〈1〉昨年11月の前回会議が議論がかみ合わないまま終わったというのは日中間にこれといった懸案事項が横たわっていなかったからではないのか。靖国参拝を強行してきた小泉時代、さらにその後継であった小泉以上に戦前型の国家主義者であり、内側に靖国参拝衝動を強く抱えた安倍晋三時代と違って首相在任中は靖国参拝をしないと明言している福田政権となり、外交上のこれといったトラブルは発生していなかった。

 そのこともあってのことだろう、前回会議1ヶ月後の12月28日の福田訪中は中国側から熱烈歓迎を受けている。だが、ここに来て中国製品の安全性の問題以上にジャーナリズムなら取り上げなければならない基本的人権に関わるチベット問題が騒乱を契機に公の形を取った。

 そういった経緯を考えに入れておけば、「昨年11月の東京の1回目とうって変わった展開となった」は当然の推移で、「うって変ら」ないとしたらどうにかしている。ただそれだけのことに過ぎないことを自分を何様だと売り込みたい意識があるから、さも大袈裟に「うって変わった」と言っているに過ぎない。

〈2〉中国側の「EU(欧州連合)や米国のメディアが報じた映像はチベット以外で撮った偽装だ」とする主張に対して日本側が「外国メディアをチベットから閉め出しているから、怪しい映像が出回る。取材させるべきだ」と反論したと言うが、この反論は中国側の「映像は偽装だ」とする主張を「怪しい映像」とすることで認めることになる。そのことに気づいていない単細胞な反応となっている。中国当局に都合の悪い映像だから、「偽装」だと転化する必要が生じた「偽装」宣伝ということもある。こういったことは人権抑圧国家がよく使う情報操作であろう。

 市民が撮った映像が欧米メディアに流れた可能性も考えなければならない。考えもせずに短絡的に「怪しい映像」に貶めることができるジャーナリストの才能は素晴らしい。素直過ぎるといえば素直過ぎることになるが、素直過ぎの資質はジャーナリストの資質と相反する関係にあるのではないのか。それとも何様になると、単純なまでに素直になるのだろうか。

〈3〉中国当局がギリシャで行われた聖火採火式の混乱のテレビ報道の都合の悪い場面を暗転させて国民に見せない情報操作を行った。日本側が批判すると、「放送せず、事実を隠すほうがはるかに中国のデメリットが大きい。本当に愚劣な操作だ」と中国当局の対応を決然と批判した。その態度に「日本側の参加者は、その勇気に感心すると同時に、改革・開放が進んでいることを改めて認識した。」

 大いに結構な中国に於ける「改革・開放」の大進展と言える。これを以って安請け合いというのであろう。

 だがである。相手の批判に同調して自らも批判することで全部が言論抑圧に組しているわけではないことを示して自分たちの評価を高める。あるいはそのことが批判勢力の存在を証明することとなって、結果として中国当局の言論抑圧を相殺する。そういった目的を持ったわざとなゼスチュアと言うこともある。

 例えそうでなくても、「愚劣な操作」だとする批判が中国当局に効き目のない単なる言葉なら意味はない。

 中国の人権弾圧、共産党・政府高官の腐敗などを批判する文章をネット上などで発表してきた作家の呂耿松氏が国家政権転覆扇動罪で懲役4年の実刑判決を受けたのは今年08年2月初め。同じ中国人人権活動家、胡佳氏は昨年12月に拘束され、逮捕通知が家族に届いたのは08年の今年の1月に入ってから。そして4月3日に懲役3年6月の判決を受けている。

 北京で日中ジャーナリスト交流会議が開催されたのは3月24日、25日(08年)の2日間。田原総一郎が上記記事を掲載したのが08年4月10日。優秀なジャーナリストでございますという態度を取る以上、作家の呂耿松氏の国家政権転覆扇動罪での懲役4年の実刑判決の事実、胡佳氏の懲役3年6月の実刑判決の事実を頭に入れて会議の場に臨んでいたはずである。当然「愚劣な操作」が中国当局にはカエルのツラに小便、柳に風の痛くも痒くもない犬の遠吠えで終わっている状況を把握しなければならない。把握していたなら、「改革・開放が進んでいることを改めて認識した。」などと安請け合いは逆立ちしたってできないだろう。

〈4〉自分を何様のジャーナリストだと思っている田原総一郎は戦前の国家と国民の関係を例に挙げて「報道とは国益を損ねることになっても事実を追及して読者(視聴者)に提供することだ」と言い、必ずしも「国民益」と一致しない「国益」に奉仕するために存在するのではないと言う。

 だが、戦前の日本の国家権力に迎合・阿諛追従して国家権力の言うがままの御用メディアと化し、協力して国民を戦争に駆り立てたのは戦前の新聞やラジオである。いわばジャーナーリズムなる存在自体が絶対善の姿を取るとは限らない。それは戦前も現在も変りはないだろう。ジャーナリズムの世界に住む人間として常にそのことを自戒していなければならないはずだが、何様の田原総一郎にはそんな思いはないらしい。

 田原は「中国側が「国益とはすなわち国民益」ととらえたのは、独立以後、国家に裏切られていないという思いが強いからだろう。」と言っているが、人間が異なる利害の生きものであり、どの利害を代弁しているか、その立ち位置によって姿勢・主張を異にすることを認識していないらしい。

 国家の側に立っている人間はその国家が唱える「国益」がすべとなり、当然の経緯としてその「国益」「国民益」とイコールを成す。例えどのように国民に犠牲を強いようと、その犠牲自体が「国益」と見做される。戦前の軍部・政府が国民を戦争に駆り立て、お国のため・天皇陛下のために命を捧げた名誉の戦死も国民にとっては犠牲であっても、国家にとっては天皇や国への奉仕、「国益」であった。

 中国人ジャーナリストの場合で言えば、中国政府の立場に立ち中国政府と利害を一致させているジャーナリスト、いわば御用ジャーナリストだから、「国家に裏切られていないという思い」を持てるのだろう。民主主義と自由を求める人間、勢力にとっては常に国家権力に裏切られているという思いを持たされているはずである。中国人でなくても、中国人人権活動家の呂耿松氏や胡佳氏が逮捕されて実刑判決を受けたという報道に接したりたり、チベット人の抗議デモに対して武力弾圧を見せられると、中国の民主度に改めて裏切られた思いをする人間が多いはずである。「改革・開放が進んでいることを改めて認識した」と把えるのは何様ジャーナリスト田原総一郎ぐらいのものだろう。

〈5〉日本側が毛沢東の文化大革命を例に挙げ、「政府がうたった国益が国民に深刻な被害を与えたではないか」と追及すると、中国側は「毛沢東の全体を10とすると文化大革命失敗の責任は3で、中国共産党を創設して国家を独立させた功績が7ある」と応じる。「改革・開放を進めた小平が文化大革命を批判したときに示した比率だ」という。

 ここには国家の内容を問い、その限界を問う姿勢がない。人権の自由を認める民主主義体制になければ、経済大国化しても、政治文化的には国家として発展途上にあると主張すべきではなかったろうか。例え「文化大革命失敗の責任は3」だとしても、基本的人権を一切認めなかった文化大革命をそれ以降の中国はさしたる教訓としていないと。教訓とすることができなかったから、今以て人権抑圧を国家の政策としていると批判すべきだったろう。自分を売り込むことにばかりエネルギーを注いでいるから、そんな配慮は起きなかったのか。

〈6〉田原一郎は有意義な会議だったと自画自賛する。「『日中友好の未来を等身大で考える』という交流会議の趣旨にさらに近づいた」と自信たっぷりである。そして「中国メディアはいま本当の開放に向けた大きな変革期にあるのだと、実感した」と言っている。

 果して中国の「改革・開放」は中国人ジャーナリストが握っているのだろうか。お釈迦様の手のひらの孫悟空が手のひらの外に逃れることができなかったように、彼らの活動も国家権力の意志の内側で活動を許されているに過ぎないのではないのか。中国当局のミャンマーやチベットに対する態度がそのことを何よりも証明しているはずである。国家権力の維持・自己保身の利害と一致する限りに於いて、その方向に向けた自由な言論は許すだろうが、一致しない場合は、抑える。その繰返しではなかっただろうか。

 田原総一郎は会議を有意義だった、成功したものだとすることで、そこに自分の力の関与をそれとなく示している。自分が何様のジャーナリストだという思いを満足させることができるからだ。

 だが、会議だけが成功したとしても、中国の現状に連動させることができない議論で終わったなら、会議のための会議と化す。元々独りよがり、独善が強い田原である。自分を前に出すことばかり考えているから、会議を開いて議論しただけでたいしたことを成したと思い込んでしまったのだろう。

 確か去年のことだったと思うが、「サンデープロジェクト」の番組絡みで北朝鮮を訪問して「金(キム)」何とかという外務省関係の要人に拉致問題に関する単独インタビューを行ったことがある。そのとき、「金さんに誠実さを感じた。自分では決められないから、金総書記に会って話すと確約してくれた。拉致問題は必ず進展する」といったことを言って、安請け合いしていたが、あれ以降何ら進展していない。金正日に拉致解決と日本からの経済援助を交換できない事情があることに気づかない見事な客観性の持主なのである。それでいてジャーナリストでございますを名乗っている。

 喉から手が出る程に欲しい日本からの経済援助でありながら、拉致解決と交換できない金正日の事情とは拉致首謀者が金正日に他ならないからだろう。

〈7〉田原は中国メディアが「開放に向けた大きな変革期にある」「背景には、北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑もある」としている。だが、経済のグローバル化に中国も大きく、そして深く関わっている現在、経済面からは世界は中国を孤立させることはできないとする「中国政府の思惑もある」ことも計算に入れなければならない。そういった計算に立って中国は外交を進めている。

 そのことを計算に入れると「滞在中、日本の報道陣としては就任後初めて習近平(シーチンピン)国家副主席と会見できた」ことが「北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑」からだとは必ずしも言えなくなる。会わないことよりも会うメリットは人権だ、自由だ、平等たとうるさい国のジャーナーリストたちに会うことで人権だ、自由だ、平等だに拒絶反応を持っていない、寛容だというゼスチャーを示すことができる。いわば外交辞令上の会見の可能性もある。喜ばせて、なにがしかの恩を売っておこうという計算もなきにしも非ずだろう。

 中には就任後初めての外国要人と会見したことを勲章とするお目出度いジャーナリストもいるだろうから、そういったジャーナリストには外交辞令は大いなる効き目を持つ。

〈8〉最後に日本の優秀なるジャーナリスト田原総一郎は「では、五輪が終われば流れは元に戻るのか。そうではない。一度開かれた社会は後戻りすることはない。そこに私は期待する。そう思える訪中だった。」と自画自賛混じりの期待を示しているが、「一度開かれた社会は後戻りすることはない」。どこにそんな保証があるのだろうか。

 日本では今の日本を戦前の天皇制時代に後戻りさせたくて常に隙を狙っている人間がゾロゾロいる。ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」を反日だと批判し、上映禁止に持っていこうとしている連中もその類だろう。そういった動きに同調するジャーナリストも存在する。田原総一郎も阿諛追従の性格傾向があるから、戦前の日本のマスコミのようにいつ国家権力に追従しない保証はない。

 中国にしたって同じである。危うい綱渡りをしながら、共産党一党独裁体制を国家体制としている。必要と見たなら、後戻りだってするだろう。

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善光寺聖火リレー辞退/チベット問題抗議は付け足しの体裁?

2008-04-19 09:09:57 | Weblog


 午後1時55分からの日テレ『ミヤネ屋』が善光寺の北京オリンピック聖火リレー長野コース出発点の辞退を受け、善光寺代表の単独インタビューを伝えていた。どことなく落ち着きのない早口の喋り方の男だった。

「いわゆる国宝、善光寺、というものを中心としていたしまして、重要文化財でございます。並びに経堂、そしてまた仁王門、ああいったものに関しても、危害、は困る。あってはいけない。そしてまた、勿論一般の参拝客、にも、危害が、あー、あってはならない。ま、そして、また勿論、チベット問題に関しても、同じでございます。同じ宗教者としていたしましてもお坊さんがああいった形で抗議しているところに対して、弾圧を加える。そういったことにも抗議したい。まあ、そういったこともありまして、ま、本当に善光寺として、色々な、その後もご意見、ございましたけども、やはり、辞退しようという、そういうことで決定したという、そういう形でございます


 リポーター(スタジオからの辞退の理由点の確認に対して)「参拝客であったり、重要文化財というものに危害が及ぶ危険性があるという点、それともう一つ、抗議の意味。どちらの方が割合が重いんですか、というふうに確認しましたら、五分五分と思ってくださいと、いうことだったんです」
 
 NHKインターネット記事では「善光寺辞退の経緯」として、<善光寺の代表は、記者会見で「チベット問題の中国政府の対応に憂慮している。善光寺は開かれた寺なので、参拝者の立ち入りを一時的にせよ制限したくないし、寺の国宝も守りたい」などと説明しました>と単独インタビューとは辞退理由の順序が逆になっている。。その解説部分――。

 <聖火リレーのスタート地点の辞退は、善光寺がチベット問題を「同じ仏教徒の問題」として抗議する姿勢を明確にしたものです。

 善光寺によりますと、僧りょの間では、この1か月余り、チベット問題への中国政府の対応から、善光寺での聖火リレーの開催を疑問視する声が広がっていたということです。

 また、聖火リレーの開催に反対する電話が、連日100本前後、善光寺に寄せられていたということです。開催が迫り、僧りょの間では、善光寺の境内をスタート地点とするかをめぐって連日激論が交わされました。

 「いったん引き受けたことは断るべきではない」として計画どおりスタート地点を受け入れるべきだといった意見もあったということですが、結局、「同じ仏教を信仰する者として筋を通そう」という意見が大勢を占め、辞退を決めたということです。>・・・・・

 <善光寺がチベット問題を「同じ仏教徒の問題」として抗議する姿勢を明確にしたものです。>と辞退の重点理由に挙げているが、この見方は妥当な見方なのだろうか。

 「ミヤネ屋」のテレビカメラの前で実際に喋った善光寺代表のインタビューでは、言葉の貧相なのは政治家も同じで、日本の坊主もこの程度だと思えば我慢できるが、辞退理由を国宝・重要文化財の善光寺、経堂、仁王門といったハコモノへの危害を最初に持ってきている。次に「一般の参拝客」への危害。最後にチベット問題に対する「抗議」。

 そしていわゆるどちらに重点を置いての辞退なのかの問いに答えて「五分五分だと思ってください」という返事だったとするリポーターの解説。

 この経緯はNHKが伝える<善光寺がチベット問題を「同じ仏教徒の問題」として抗議する姿勢を明確にしたものです。>とする辞退理由の明確な優先度とズレが生じる。

 確実に言えることはチベット問題に対する「抗議」をいくら国宝、重要文化財とは言え、本堂、仁王門といったハコモノよりも辞退理由の下位に置くわけにはいかないということである。6対4でハコモノへの危害を防ぐ方に重点を置いた辞退ですと。ましてや7対3、あるいは8対2でハコモノ保全優先ですとは、実際にはそうであっても、口が裂けても言えない。

 だが、「五分五分」ということはチベット問題に対する「抗議」がハコモノ保全よりも優先度が決して上ではないことをも証拠立てている。

 もしハコモノや一般参拝客への危害を防ぐことだけに理由を置いた辞退としたなら、同じ仏教に関わる組織として、中国チベット地区での僧侶を含めたチベット人への中国当局による人権抑圧に向けた抗議活動や世界各地での聖火リレーを利用した抗議のデモンストレーションに対する自らの認識を抜け落ちさせることとなる。

 だが、チベット問題に対する「抗議」をすべてとした聖火リレー出発点の辞退なら、一般参拝客も守れるし、ハコモノへの危害も回避可能となる。わざわざ辞退理由にハコモノ保全を挙げる必要もないし、当然のこととして、辞退理由の重要度を「五分五分」とする必要も生じないことになる。

 それともチベット問題に対する「抗議」のみを理由とした辞退としたら、マスコミにそのことだけが取り上げられて報道が集中し大騒ぎになる。チベット問題で突出したくないという事勿れ主義から、緩和剤として一般参拝客や国宝、重要文化財の保全を持ち出したということなのだろうか。

 だから止むを得ずハコモノと一般参拝客の保全を最初に持ってきて、チベット問題に対する「抗議」は後回しにして目立たなくしたということなのだろうか。

 だが、人権問題は人間の存在性に深く関わる問題である。仏教も人間の存在性を問題とする教えであろう。

 【仏教】「紀元5世紀、インドのシャカ族の王子ガウタマ・シッダールタ(釈迦)が6年間の苦行の結果えた悟りの内容を説いた教え。人生は苦であること、その原因としての無常や無我の理を悟り、迷いの根本としての執着(しゅうじゃく)をたち、解脱の境地にいたるべきことを説く。釈迦没後20の部派にわかれたが、これらを自己解脱だけを説く小乗と非難し、他者の救済を主張する大乗仏教が起こった。・・・・
 大乗仏教は中国・朝鮮を経て6世紀に日本に伝来し、聖徳太子や蘇我氏によって積極的に受容され、法隆寺(斑鳩〈いかるが〉寺)や法興寺(飛鳥寺)が建立された。(後略)」(『日本史広辞典』山川出版社)

 日本の仏教が自己解脱だけを説く「小乗仏教ではなく、「大乗仏教」と言うことなら、「他者救済」を主たるテーマとしているはずである。チベット問題に対する抗議を最優先の辞退理由としてどこに不都合があるだろうか。

 形式化した仏教と言うことなら、「抗議」は辞退理由に加えなければ格好がつかないことからの付け足しの体裁となったとしても仕方がない。

 鍵は「聖火リレーの開催に反対する電話が、連日100本前後、善光寺に寄せられていた」ことにあるのではないのか。「開催に反対」の理由はその殆どがチベット問題に対する「抗議」の意思表示として「辞退すべき」という内容だと見るべきで(他にどんな「反対」理由があるだろうか)、それを無視した場合、同じ仏教に関わる組織として体裁を失うことになる。

 体裁を失わない自己保身上の決定からの「辞退」、いわば付け足しの体裁として持ち出した「辞退」だから、ハコモノ保全や一般客の安全が否応もなしに最初に持ってくることになったということもある。

 善光寺代表はインタビューに答えて初めにハコモノ保全とその次に一般客の安全確保を持ってきてから、「ま、そして、また勿論、チベット問題に関しても、同じでございます。同じ宗教者としていたしましてもお坊さんがああいった形で抗議しているところに対して、弾圧を加える。そういったことにも抗議したい。」と辞退理由を述べている。

 この場合の「ま、そして、また勿論」はある程度は強めの意味を与えてはいるものの、付け足しの意識を持たせた言葉であろう。決して積極的な意味合いを持たせた言葉ではない。

 つまりこういうことではないだろうか。聖火リレーに関わってしまった。最初は何事も起こらなかったが、次第に物騒な状況となってきた。「聖火リレーの開催に反対する電話が、連日100本前後、善光寺に寄せられ」るようにもなり、同じ仏教関係者として何らかのアクションを起こさざるを得ない立場に立たされてしまった。そのことの仕方なさからの「辞退」だが、そのことだけを理由とした場合の大騒ぎ・混乱は予想されることで避けたいから、それを誤魔化すためにハコモノの保全と一般客の安全を先に持ってこざるを得なくなって、付け足しの「抗議」の形となってしまった。

 このことはチベット問題に連帯を申し出る仏教組織が善光寺以外に聞いていないことからも証拠立てることができる。
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 【善光寺】「長野市長野元善町にある寺。定額(じょうがく)山と号す。創建の時期・由来は伝説に包まれ不明であるが、7世紀後半には建立されていたと推測され、百済伝来の一光三尊の阿弥陀仏を安置した堂に始まるという。近世以来、この堂を天台宗大勧進と浄土宗の大本願の二宗の僧侶が護持する。鎌倉時代には北条市の保護を受けて全盛をきわめ、親鸞・一遍をはじめ名僧が参詣した。戦国期には、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いによって荒廃し、弘治年間には本尊が甲府に移される事態も生じたが、1598年(慶長)に戻った。本尊の銅造阿弥陀三尊立像(重文)ほかの多くの文化財がある。

 本堂 江戸時代を代表する巨大に寺院建築。現存の本堂は、1707年(宝永4)の再建。正面7間ん、側面16間で裳腰(もこし)がめぐる。屋根は棟がT字型の撞木造。堂内は奥から阿弥陀三尊を安置する瑠璃壇、開基とされる善光夫妻と善佐の木造を納める三卿の間。内々陣、内陣、外陣(げじん)からなる。瑠璃壇・三卿の間の下には戒壇と呼ばれる巡回路が巡る。国宝。」(『日本史広辞典』山川出版社)

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オバマの言葉の胡散臭さ

2008-04-18 08:13:15 | Weblog

 私はヒラリー・クリントン贔屓である。その理由は知性を充分に感じさせる女性であり、女性初のアメリカ大統領を見てみたいからに他ならない。女性初のアメリカ大統領が何をするかを。

 アメリカ初の黒人大統領をオバマで見たいという人間も多くいるに違いない。実現の可能性は後者、オバマに軍配が上がる勢いとなっている。

 バラック・オバマに限りなく大きな可能性を見い出す向きもある。彼が口にした言葉とその卓越した雄弁から詩人だとか預言者のようだとか持ち上げる者もいる。あるいは2月28日の「東亜日報」インターネット記事(≪オバマ氏とヒラリー氏の「言葉の戦争」≫)は彼の演説がケネディ元大統領とキング牧師を合わせたものよりも大きな感動を与えると把える人々がいることを伝えている。

 そういった感動的共鳴が当初の予想を裏切って民主党大統領候補選選での有利な展開を導く大いなる牽引力となっているのだろう。

 当ブログ記事「バラック・オバマはアメリカ合衆国第44代大統領の場合は自らの言葉を自ら裏切ることにならないか」(08.2.11/月曜日)で批判的に取り上げたが、2004年の大統領選民主党候補にジョン・ケリー上院議員を選出した党大会でオバマが行った基調演説の際立った格調の高さが当方の批判に反してまだ無名だったオバマのカリスマ性を世間の目に際立たすターニングポイントとなったらしい。

 「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。・・・・イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」

 原文を「Yakinasu’s Cafe » Blog Archive » But I Am Not A Democrat…」なるHPで探し当てた。

 「Well, I say to them tonight, there’s not a liberal America and a conservative America; there’s the United States of America.

 There’s not a black America and white America and Latino America and Asian America; there’s the United States of America.

 The pundits, the pundits like to slice and dice our country into red states and blue States: red states for Republicans, blue States for Democrats. But I’ve got news for them, too. We worship an awesome God in the blue states, and we don’t like federal agents poking around our libraries in the red states.

 We coach little league in the blue states and, yes, we’ve got some gay friends in the red states.

 There are patriots who opposed the war in Iraq, and there are patriots who supported the war in Iraq.

 We are one people, all of us pledging allegiance to the stars and stripes, all of us defending the United States of America.

 There are patriots who opposed the war in Iraq, and there are patriots who supported the war in Iraq.

 We are one people, all of us pledging allegiance to the stars and stripes, all of us defending the United States of America・・・・」

 英語はからしき苦手のチンプンカンプンの「オッパッピー」、正確な訳は得意な人に任せるしかないが、決してこうあるべきだと希望を語り、理想を求めたのではなく、「現実」を語った言葉となっているように思える。

 人間の現実の姿を見たとき、あるいは社会の現実を見たとき、オバマが言うようには事はそう簡単には片付かないように思えるのだが、オバマは言葉で片付けてしまっている。言葉で自分が言っているようにアメリカはそうだと描いて見せた。

 アメリカがオバマが言うような世界となっていたなら、アメリカの政治家は何のために闘ったらいいのだろうか。政治家の闘いはもはや必要ではなくなる。だが現実には政治家のそれぞれが何らかの利害を代弁しながらの闘いを展開している。結果として利害が様々な矛盾を引き出す悪循環を誘い出している。

 それらの矛盾を避け、それぞれが自分にのみ有利な状況に転換すべく自己利害にのみ立って動くから、政治家を代弁者に仕立てた利害の闘いは激しさを増し、結果としてオバマが描くアメリカと現実のアメリカは異なった様相を展開することとなる。

 日本の場合は現在、道路族議員がその代表的となる利害相克のすさまじい闘いを繰り広げている。

 言葉は確かに人を動かす力を持っている。だが、言葉で人を動かそうと言葉に頼ったとき、言葉は言葉のための言葉となって自己目的化する危険を孕む。言葉だけが美しいものとなり、現実と遊離することとなる。

 オバマが他人の言葉をさも自分が紡ぎ出した言葉であるかのように使った「盗作」が問題となったが、「盗作」であることよりも、その言葉に自己目的化した姿を窺うことができる。

 ≪オバマ氏に盗作疑惑 州知事の演説を引用?≫(MSN産経/2008.2.19 18:33 )

 <【ミルウォーキー(米ウィスコンシン州)=有元隆志】米民主党大統領候補指名争いで18日、クリントン上院議員の陣営は、オバマ上院議員がマサチューセッツ州のパトリック知事の演説を盗作したと非難した。

 オバマ氏は16日の演説で、「私には夢がある-。単なる言葉だろうか。すべての人間は平等につくられた-。単なる言葉だろうか」と述べた。パトリック知事は同様の言葉遣いを2006年の知事選の時にしていた。AP通信によると、クリントン陣営はオバマ氏の候補としての適格性に「疑問を投げかけるものだ」と攻撃している。

 オバマ氏は友人である同知事の“著作権”を明示すべきだったと認めたものの、クリントン氏も「歴史のページをめくるときだ」などとするオバマ氏の言葉遣いを使っていると反論した。>・・・・・・・

 「私には夢がある-。」はマサチューセッツ州パトリック知事が演説で使った言葉で、「すべての人間は平等につくられた-。」は独立宣言の言葉だそうだ。

 オバマは
「単なる言葉だろうか」、いや、そうではないと「否定フレーズ」を用いることで「単なる言葉」ではないことを強調しているが、強調することによって逆に言葉で人を動かそうと言葉に頼った言葉のための言葉の自己目的化に陥っている。

 まさかオバマの夢はアメリカ初の黒人大統領になることではあるまい。子供が将来の夢を聞かれて大統領になるは許されるが、大統領候補の資格を得るべく選挙戦を戦っている現在、大統領になることが夢だとすることは許されない。大統領となって、アメリカをどう改革していくか、アメリカ社会をどう変えていくか、世界の指導国として世界の変革にどう関わっていくか、そのデザインの実現を「夢」としなければならない。「初」を実現したとしても、それは単なる記録に過ぎない。「初」だからと言って、力を持つわけではないからだ。大統領当選は最終目的とすべき困難な事業が待ち構えている出発点に立つに過ぎない。

 「すべての人間は平等につくられた-。」――神はそう言っている。多くの理想主義者がそのように口にしている。

 だが、現実には「すべての人間は平等につくられた-。」「単なる言葉」と化している。例え「単なる言葉」ではなく、「すべての人間は平等につくられた-。」を現実のものとしなければならないとする訴えだとしても、言葉で訴えるだけで片付く程生易しく出来上がっている人間社会の「平等」破綻ではない。

 もし正直な人間なら、「この社会は余りにも不平等につくられている。不平等に扱われている人間がどれ程存在するか。一方に不平等をつくり出して平気でいる人間がいることも問題だ。我々はそういった矛盾と闘っていかなければならない」と言うだろう。但し、正直なだけ、人に感動を与える格調高さは失われる。

 上手の手から水が洩れたのか、サルも木から落ちるの類なのか、ケネディ元大統領とキング牧師を合わせたよりも大きな感動を与える格調の高さ、詩人、預言者と称せられる得意技の言葉でオバマは躓く。

 「ペンシルベニアの田舎町の人々は、失業に苦しんだ結果、社会に怒りを持つようになり、(その反動で)銃や宗教に執着するようになった」≪オバマ氏失言「田舎、銃や宗教に執着」予備選に打撃≫ asahi.com/2008年04月14日20時03分)

 (昨17日夕方のTBS「eニュース」では、「ペンシルベニアの小さな町で失業に苦しむ人々は銃や宗教にすがり、自分たちと異なる人々に反感を抱いている」)

 対するヒラリー・クリントン「エリート意識丸出しで、地方の人々を見下している」(同「asahi.com」記事)

 オバマ「私の言葉の選択がうまくなかった。深く悔やんでいる」

 では、どういうふうな「言葉の選択」であったなら、批判を受けずに「ペンシルベニアの田舎町の人々は、失業に苦しんだ結果、社会に怒りを持つようになり、(その反動で)銃や宗教に執着するようになった」とする主張に正当性を与え得たというのだろうか。こういう言葉を選択すべきだったと明らかにする責任があるはずである。

 大体が上記言葉は政治党派や人種の違いもなく「ただアメリカ合衆国があるだけだ」とする自らの格調高い言葉を自ら裏切るものとなっている。いや、ペンシルベニアの「現実」がオバマの言うとおりの事実なら、「ただアメリカ合衆国があるだけだ」は真っ赤な嘘っぱち、口先だけで言った言葉と化す。 

 オバマの指摘が正しいか否かは別として、「ただアメリカ合衆国があるだけだ」と言いつつ、「ただアメリカ合衆国があるだけだ」では済まない社会の現実があることを自ら摘出する矛盾を犯したのである。

 そうでありながら、「私の言葉の選択がうまくなかった。深く悔やんでいる」とする胡散臭さ。

 日本の保守政治家が歴史認識で誤った発言をして謝罪をしておきながら、真意が伝わらなかったとするのと似たり寄ったりのゴマカシだろう。

 問題なのは「言葉の選択」ではなく、一方で「ただアメリカ合衆国があるだけだ」と格調高く謳いながら、例え的中した事実であっても、「ペンシルベニアの田舎町の人々」の姿・現実をそう見ていたこととの一致しない態度ではないのか。

 昨17日夕方のTBS「eニュース」。
 我が愛しのヒラリー・クリントン「国民を見下すのではなく、国民のために立ち上がる大統領をこそ国民が求めているのを彼は分かっていない」

 そのとおり。オバマは「失業に苦しんだ結果、社会に怒りを持つようになり、(その反動で)銃や宗教に執着するようになった」「ペンシルベニアの田舎町の人々」の現実を「アメリカ合衆国」に抱え込む寛容さを示した得たとき、自らが格調高く唱えた「ただアメリカ合衆国があるだけだ」に僅かながらでも整合性を与えることができる。

 僅かながらというのは、社会の矛盾に見舞われているのは何も「ペンシルベニアの田舎町の人々」だけではないからだ。
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 ≪オバマ氏失言「田舎、銃や宗教に執着」予備選に打撃≫(asahi.com/2008年04月14日20時03分)

 【ワシントン=小村田義之】米大統領選で民主党の候補者指名を狙うオバマ上院議員が、22日のペンシルベニア州での予備選を前に、同州に多い労働者層を差別したかのような「失言」が波紋を広げている。ライバルのヒラリー・クリントン上院議員らから攻撃を受け、手痛い失点となる可能性も出てきた。

 オバマ氏は6日、サンフランシスコでの非公開の資金集めパーティーに参加。「ペンシルベニアの田舎町の人々は、失業に苦しんだ結果、社会に怒りを持つようになり、(その反動で)銃や宗教に執着するようになった」と語っていたことが11日、インターネットで明るみに出た。
 
 187人の代議員枠がある大規模州の同州は工場が多く、雇用不安にさらされる労働者の支持をいかに集めるかが焦点となる。「銃」「宗教」といった米社会では繊細なテーマにも触れたことから、クリントン氏はオバマ氏攻撃にさっそく利用。「エリート意識丸出しで、地方の人々を見下している」と激しくかみついた。

 オバマ氏は問題の発言について、「私の言葉の選択がうまくなかった。深く悔やんでいる」と表明したが、クリントン氏に対しては、自分の発言を政治的に利用していると主張し、「恥を知れ」と激しく反発した。

 同州での最新の各種世論調査では、先行するクリントン氏をオバマ氏が数ポイント差まで追い上げているが、この発言でブレーキがかかる可能性もある。

 保守派の論客、グローバー・ノーキスト氏はABCニュースに「彼は田舎の米国に対して『私はあなたが嫌いだ』と宣言した。この発言で彼は選挙に落ちるだろう」と語った。

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金正日の北朝鮮は戦前の日本を歩いている

2008-04-16 08:14:13 | Weblog

 一昨日4月15日の当ブログ記事≪「北朝鮮、聖火リレーの安全に絶対の自信」は強固な軍事独裁体制の裏返し≫で引用した「AFPBBニュース」の北朝鮮五輪委スポークスマンの言葉。頭が蛍光灯なものだから、読み直してみて気づいたことがある。

  「全国民が調和ある1つの家族を形成し、労働党のもとに心を一つにしている共和国」だとするこの言葉、既に多くの人間によって北朝鮮の国家体制が戦前の日本の国家体制、いわゆる「国体」と照応し合った双子関係にあると指摘されているが、そのことを如実に示した言葉となっている。

 このことは北朝鮮五輪委スポークスマンの言葉と同じ意味のことを言っている戦前日本の国体明徴の書『国体の本義』(1935年/昭和10年発行)の「第一 大日本国体 一、肇国」の冒頭の文言が見事に証明している。

 「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克(よ)く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳(へい)として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々 (いよいよ)鞏(かた)く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

  「以下『日本史広辞典』(山川出版社)と『大辞林』(三省堂)からの意味解釈。
 【皇祖の神勅】(豊葦原瑞穂国<とよあしはらのみずほのくに>は天皇の子孫が統治する国だとする天照大神の勅命)

 【肇国】 「ちょうこく・建国」
 【聖旨】「せいし・天皇の意見。帝王の考え。」
 【忠孝一本】「君主への忠と親への孝とは、対象が異なるだけで、本来同じ真心から出たものであるという水戸学派が唱えた
     考え方」
 【奉体】「うけたまわって、心にとどめ行うこと」
 【忠孝の美徳】「主君への忠義と、親への孝行の美しい徳」
 【国体の精華】(国の体制で真価となる、最も優れているところ。国体の真髄)
 【炳】「へい・疑う余地がないほど明らかなさま。」
 【天壌】「てんじょう・天と地」

 北朝鮮は金正日を頭に戴き、「1つの家族を形成し、労働党のもとに心を一つにしている」、実際には金正日のもとに「心を一つにしている」国家体制を採っていて、戦前の日本は天皇の統治のもと「一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克 (よ)く忠孝の美徳を発揮する」国体を「我が国永遠不変の大本」としていた。

 『国体の本義』に示している国家体制「=国体」は単に言葉をおどろおどろしく大袈裟に装わせているが、北朝鮮五輪委スポークスマンが示した北朝鮮国家体制と本質のところで通じ合っている。

 北朝鮮で金正日を「将軍様」、「首領様」と位置づけているのと同じ線上の天皇の位置づけ、その統治の正統性の確立・大義名分化は『国体の本義』、「第一 大日本国体 二 聖徳」が次のように記している。

 【聖徳】「せいとく・天皇の徳。最高の徳」

 「天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を大御宝とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。この大御心を以て歴代の天皇は、臣民の慶福のために御心を注がせ給ひ、ひとり正しきを勧め給ふのみならず、悪しく枉(まが)れるものをも慈しみ改めしめられるのである。

 かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」

 【大御宝】「おほみたから・人民、百姓。天皇が治める国民、臣民。」
 【赤子】「せきし・天子を父母に譬えるのに対して、国民をあかごに譬えた言葉」
 【皇猷】「こうゆう・帝王の道/猷―ユウ、謀」
 【恢弘】「かいこう・押し広めること。広く大きくすること」
 【協翼】「力を合わせて助ける、補佐する」
 【倚藉】「いしゃ・頼ること、寄ること」
 【神裔】「しんえい・神の子孫。天皇または皇族」

 日本国民は天皇を父とし、皇后を母とし、自らを赤子とした一大家族であった。また天皇は西洋の国家支配者や彼らが信仰する絶対神と違って、神であった天皇の先祖が天皇のうちに現れ、自らも神となっている「現人神」――神を受け継いだ神だと言っているが、天皇制の実体は天皇を頭に戴き、天皇の名のもと、軍部が国民を支配下に置き、操る国家であった。天皇は名ばかりの絶対者に過ぎなかった。

 その点、金正日は父親金日成の支配を受け継いで北朝鮮国民を直接支配下に置き、自らが絶対者として君臨し、国民を操っている

 戦前日本は「天皇ヲ以テ現御神トシ且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ延テ世界ヲ支配スヘキ運命ヲ有ス」として無謀な戦争を仕掛け、国内外の人間の命をムダに奪い、大日本帝国を崩壊させるに至った。
 
 金正日の北朝鮮もかつての日本が韓国併合や中国侵略によって国際関係に行き詰り先進諸国世界を敵としたように国際関係に行き詰まって戦争を仕掛ける道を選択するのか、それとも国内的に行き詰まって、金正日独裁体制がクーデター等で倒されるに至るのか。いずれにしても崩壊のシナリオを描くことは確かであろう。

 崩壊のシナリオが期待不可能の場合、拉致問題も核問題も本質的な解決は連動して期待不可能に向かうに違いない。

 訪韓中のパウエル元米国務長官が高麗大学の招請講演会で<“北朝鮮の政権の未来を占うのは難しいが、金正日も人であるためいつかは死亡する”と言い、“金正日には息子が数人いるが、あまりよさそうには見えない”と言った。>と「Daily NK」インターネット記事が伝えているが、これは後継能力に期待は持てないという条件付きながら、世襲を見越した「世襲容認」発言ともなる。

 世襲権力継承者は権力を与えた自らの血縁者の独裁性を否定した場合、権力継承の正統性を失うことになるから、権力継承の正統性を守る自己保身上の利害からも、また権力継承が血縁者一人の力によって成り立つわけではなく、独裁権力者を取り巻く権力追随者の保証をも力として成り立たせているから、彼らとの利害関係からも独裁性をも受け継ぐことになる。戦前の軍部が天皇を利用して権力行使を自らのものとしたように将来的な北朝鮮に於いても権力追随者が世襲権力者を利用して権力行使を私することもあり得る。

 金正日の軍事優先の独裁政治が世襲権力継承者によって維持された場合、金正日の悪事・悪政、人権抑圧の暴露に発展することになる拉致問題も核問題も解決は遠のくと見なければならない。

 北朝鮮に対して発言力を持った外国要人の権力継承に関わる発言は「権力の世襲」を絶対拒否する発言でなければならないはずだが、パウエルは何を考えているのか。
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 ≪“金正日の後継者問題, よさそうには見えない”≫(Daily NK/ 08-04-13 15:50)
 
 パウエル元国務長官"安全保障による北の変化を予想したがうまくいかず"(朴仁鎬記者)

 訪韓中のコリン・パウエル元米国務省長官が、“韓国、アメリカだけでなく、周辺諸国が北朝鮮の安全を保障すれば、北朝鮮の敵対的な態度が変わると期待したが、北朝鮮は金正日独裁の維持を最優先する国家であるため、うまくいっていない”と明らかにした。

 パウエル元長官は11日、高麗大学の国際関係研究院主催で開かれた招請講演会で、“朝鮮半島の緊張状況は、北朝鮮が朝鮮戦争の前から韓・米と敵対的な関係を作ってきたため”と言い、このように語った。

 更に、“北朝鮮はアメリカが差しのべる手だけでなく、韓国が太陽政策で差し出した手さえ拒否したため、6カ国協議を始めた”と言い、“北朝鮮の安全保障のために6カ国協議が作られたが、北朝鮮の敵対的な態度のせいで、きちんと作動していない”と指摘した。

 パウエル元長官は国務省の長官時代を回想して、“ブッシュ大統領は北朝鮮について話す時、いつも随分心配していた”と述べ、“北朝鮮政権の独裁のため、北朝鮮の住民が飢えることに対して心配していた”と語った。

 また、‘韓米同盟の展望’については、“在韓米軍は、南北統一以後も韓国国民が要求する限り駐屯し続けるだろう”と予想し、“在韓米軍の駐屯は、韓・米両国の共同の利益であるだけでなく、アジアの平和に大きく寄与するだろう”と強調した。

 更に、“李明博大統領は、対北朝鮮関係と韓米同盟の間で、中心をよく見いだしている”と評価し、“この数年間、韓米同盟が様々な紆余曲折を経たが、予定されている李明博大統領の訪米で、韓米同盟の堅固さが再度確認されるだろう”と予想した。
 
 最後にパウエル元長官は、“北朝鮮の政権の未来を占うのは難しいが、金正日も人であるためいつかは死亡する”と言い、“金正日には息子が数人いるが、あまりよさそうには見えない”と言った。

この日の講演会には、300人余りの大学生と取材陣が詰めかけた。パウエル長官は1時間半、自身の20代と在韓米軍に勤務した時 のことを話しながら、参加した大学生たちに、世界化と世界の経済に関心を持ち続け、学習することを願うと語った。

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「北朝鮮、聖火リレーの安全に絶対の自信」は強固な軍事独裁体制の裏返し

2008-04-14 12:10:21 | Weblog

 
「北朝鮮、聖火リレーの安全に絶対の自信」なる文言は4月12日(08年)の「AFPBBニュース」の見出し。

 <【4月12日 AFP】北朝鮮の五輪委員会は、北京五輪の聖火リレーに対する一連の抗議活動を強く批判し、今月下旬に北朝鮮国内を聖火が通過する際には、抗議活動は一切起きないとの見方を明らかにした。朝鮮中央通信(Korean Central News Agency)が12日伝えた。
 北朝鮮五輪委のスポークスマンは「このイベントは全国民が調和ある1つの家族を形成し、労働党の下に心を一つにしている共和国(北朝鮮)内で、計画に従って最も安全かつ円滑に実施される」と述べたという。
 中国は北朝鮮の数少ない同盟国で、北朝鮮はチベット(Tibet)自治区内はもとより、欧米諸国におけるチベット支持者による抗議活動も強く非難してきた。聖火は4月28日に平壌(ピョンヤン、Pyongyang)入りする。
 厳しく統制されている北朝鮮では、無許可のデモはほとんど行われない。(c)AFP>・・・・・

 この自信は金正日が軍事独裁政治を武器として北朝鮮国民の活動・思想を完璧に統制下に置いている確信に裏打ちされたものなのは誰の目にも明らかである。

 このことを裏返すなら、軍事独裁政治が可能とする「抗議活動は一切起きない」聖火リレーということになる。

 聖火ランナーも聖火リレーを出迎える沿道の観衆も北朝鮮当局によって厳選、動員された官製そのものだろうから、「抗議活動は一切起き」ようはずもなく、当然物々しい警備も必要ではないから、聖火リレーのあるべき姿を示すことができるだろう。観衆の祝福・歓声も上からそうするよう動員された意識に従った演技というだけではなく、将軍様や当局に自分たちの忠実さを売り込む阿諛追従の積極性も加わった一意専心だろうから、万が一の間違いもなしに「調和ある1つの家族を形成し、労働党の下に心を一つにしている共和国(北朝鮮)内で、計画に従って最も安全かつ円滑に実施される」ことは既に確定していることだと言える。。

 万が一の間違いが起きるときは金正日の軍事独裁体制が崩壊するとき以外にない。

 金正日は取材制限を一切設けずに外国メディアの立ち入りを自由に許して、見事成功させることになる「抗議活動は一切起きない」熱烈・歓迎一色の場面の数々を取材させ、平和の象徴たる聖火リレーはこうあるべきだとする姿を世界に次々と発信させることになるだろう。

 さらに金正日は「抗議活動は一切起きない」聖火リレーを実現させた自らの統治能力と抗議活動が起きなかった数少ない国として、中国に恩を売ることになるに違いない。勿論これまで何度もしてきたように見返りに何らかの経済援助を引き出すために。

 聖火リレーを秩序正しく整然と執り行ったとしても、それが国民に自由な言論・自由な活動を認めない軍事独裁政治が可能とした「秩序」なら意味もない恐ろしい「秩序」でしかないが、中国の自国民やチベットに対する人権抑圧と共にオリンピックに冠せられる「平和」なるキーワードに対して見事な逆説を描くことになる。

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