人材派遣会社の不法派遣や不法なピンハネが社会問題となっている。そのことを受けてのことなのだろう、厚生労働省は労働者保護が不十分との指摘が出ている日雇い派遣制度を2008年度にも見直し、規制を強化する方針を固めたという。その柱は、
①派遣先企業に支払い料金を公開させて、派遣会社の極端なピンハネの防
止を図る。
②業務内容など労働条件の事前明示を徹底させる。
紹介手数料、あるいは斡旋手数料と言いながら、江戸時代、いやそれ以前から上前を撥ねるピンハネは目に余るものがあったに違いない。民主主義・人権の今の時代であっても相当にあくどいのだから、時代を溯れば、そのあくどさは過酷の方向に向かう。
江戸時代の徳川幕府という国家権力による年貢徴収に関わる「五公五民」とか「四公六民」とかはその最たる国家公認のピンハネだったろう。今で言うなら、月20万円稼いでも、「五公五民」なら10万円、「四公六民」なら8万円を税金に持っていかれるということである。農民を搾取しながら、身分上は武士の次に置くゴマカシを天下公認としていた。
国民の8割を占めた当時の百姓は一部富農を除いて過酷で難儀な生活を強いられた。現在の格差とは比較にならない格差社会に生かされていた。最下層の水呑み百姓はその名の通り水で水増しした粟・稗雑穀のおかゆばかりを主食としていたという。そうでなければ「水呑み」と呼称されることはなかっただろうから。「高掛りの年貢・諸役や村役を負担しないため、村の構成員と認められなかった」と『日本史広辞典』(山川出版社)には出ている。裏を返せば、負担できるだけの能力・財政的裏づけを持っていなかった程貧しかったということ。村で生活をしながら、村人にうちに入れてもらえなかった。
「高掛り物」江戸時代、村高に応じて賦課された付加税の総称。(『大辞林』三省堂)
桝添口先だけ威勢のいい厚労相は<高齢化社会を支える仕組みづくりを考える「人生85年ビジョン懇談会」を設置>し、ビジョン実現に<ラテン系の人生の楽しみ方や江戸時代の高齢者の暮らしを参考にする>(07.12.24『朝日』夕刊≪人生85年を考える委員に菊川さんら 厚生省が懇談会≫)としている。余裕ある、あるいは余裕の上に粋な老後生活を送ることができたのは特に町に住むほんの一握りの富裕な人間のみなで、それが落語や芝居といった今の時代で言う社会的な情報に当時から取り上げられていたから現在も目立つ記録として記憶されているだけのことで、決して一般的な江戸時代の高齢者の姿ではなく、所詮カネが保障した豊かな老後生活に過ぎない。一方人口の8割を占める百姓の殆どは死ぬまであくせくと働かなければならなかった生涯を送らされ、それが一般的な姿だった。
今の時代の「人生85年ビジョン」に江戸時代の高齢者を参考の対象とすることができるのは知らぬが仏の無知に囚われているからに他ならない。記事は<会のメンバーは女優の菊川怜さんや演出家のテリー伊藤さん、オタク評論家の岡田斗司夫さんら計18人の多彩な顔ぶれが並ぶ。人生85年を生きいきと楽しめるよう、現在の日本と異なる文化や価値観などを参考に、暮らしや働き方に関するビジョンを3月をめどにまとめる。>と伝えているが、老後のカネが保障されるなら他人の世話を待たなくとも自己解決できる「老後ビジョン」であって、年金が満足に受け取れるかどうか老後のカネの保障自体が危うい状況となっていることに一片の考慮を払わずに委員を引き受けて何とも思わないタレント連中もいい気なものだが、年金不安をつくり出した元凶と同じ立場に位置する厚労相にしたら「人生85年ビジョン懇談会」設置の前に老後のカネの保障となる年金問題の解決を先ず優先事項とすべきを、解決の目途が立たない中で人生の楽しみ方を国主導で伝授しようとするのもいい気なものである。
他の時代を参考にとは体のいい口実で、今の時代を誤魔化そうとするサギに違いない。桝添のこれまでの大臣行為からも、詐欺師と疑えないこともない。
池田勇人が首相当時「所得倍増」を叫んでいた高度経済成長時代黎明期には暴力団や暴力団をバックとした組織が東京の山谷、大阪の釜ケ崎、横浜の寿町などのドヤ街でその日暮しのドヤ住人を日雇い労働者に仕立てるべく芋づる式にピックアップして、と言うよりも人狩りして乗り付けさせておいた三輪車の幌つきの荷台にぎゅうぎゅう詰めにして工事現場に運んだ。勿論、日給はピンハネされた。幌つき三輪車は時代の発展と共にダットサン等の幌つきと変わり、10人乗りのバンへと変化していった。
携帯電話の今の時代、日雇い労働者は登録してある人材派遣会社に携帯を入れ、その指示で自分で電車・バス等を使って派遣先まで自分で移動すると言う。人材派遣会社にとっては人狩りに人手と時間の手間が省けて派遣に機能性を持たせることができ、便利な経営となっただろうが、そのことはそのままピンハネによって元々便利な存在だった日雇い人間がなお一層便利な存在となったことを意味する。利便性がギブアンドテークの双方向にではなく、強い立場の者がテークアンドテークする一方にのみ有利に働く状況が経済格差拡大発生の主たる要因なのは言うまでもない。
厚生労働省が「派遣先企業に支払い料金を公開させて、派遣会社の極端なピンハネの防止を図る」といっても、人材派遣が営利事業にとどまる以上、頭を撥ねるだけで実入りのいいピンハネの構造は変わるはずはない。実入りがよくなければ、誰もやらないだろう。人材派遣会社はこれまでも支払うとした給料の中から「データー装備費」とか「保険料」とかの名目を設けて天引きし、巧妙にピンハネの上乗せを図ってきた。「うま味」を確保する法の抜け道を考え出すに違いない。
法の改正によってもしもうま味も何もない人材派遣となったなら、派遣業から撤退する会社が相次ぐことになる。困るのは直接の雇用を避けてコスト削減競争に生き抜かなければならない大手企業である。彼らがそれ相応に持っている政治圧力によって、厚生労働省は程々のうま味を人材派遣会社に保証する中途半端な法改正で終わる恐れがある。
このことは最低賃金が使用者側の企業に配慮されて計算され、時給がなかなか1000円に届かない現状(現行時給平均673円)が証拠立てている。
非正規社員がなくなり、全員が正規社員となることが理想であるが、必要悪として存在し続けることになるなら、日雇い等の非正規社員の賃金をピンハネから可能な限り守る最善の方法は人材派遣業を営利事業から非営利事業に変える以外にない。非営利とするなら、運営主体はNPO以外に考えることはできない。
そこで社民党の出番である。党自体がNPOの代打を務める。護憲や戦争反対にしても、そのことを通した一般生活者の利益を目的として掲げている政策だろうが、日雇い労働者の利益向上を実際面から直接的に支援することは一般労働者の賃金向上政策の一助にもなる。
経営方法としては厚生労働省が日雇い派遣制度改正で方針としようとしている「業務内容など労働条件の事前明示を徹底させる」は当然の措置だが、「派遣先企業に支払い料金を公開させて、派遣会社の極端なピンハネの防止を図る」ではなく、非営利である以上、ピンハネは一切行わないこととする。
派遣先企業の支払い料金をその明細書のコピーをつけて各日雇い労働者に対する支払い賃金とし、そこから派遣業務に必要とする事務経費を差引いて支払う。携帯電話を使えば、特別な事務所もいらない。党本部の一室を宛がうことで片付く。パソコンでの管理をうまくやれば、それ程の人数も要らない。派遣先企業の業種と日雇い労働者が望む労働業種をうまく見合いさせるだけのことで、ときには相性が悪い場面が生じることもあるだろうが、そのときは事務的・機械的に離婚させて、別の見合いを演出させるだけのことである。
但し派遣事業を通して政治資金を稼ごうなどといったスケベ心を出さないことである。出したなら、従来の派遣会社と同じ境遇に堕落することになる。
事務経費を除いた一切の賃金を支払うのだから、交通費等の労働者側の経緯は自己負担とする。当然従来どおりにボーナスもない。かかる事務経費を除いて単なる給料の引渡しのみを役目とする。
相手が自己負担の国民年金ではなく、半額自己負担・半額企業負担の厚生年金を望んだ場合、企業側が支払い義務を負う同額の金額はその事務経費を加算して支払い給料から天引きし、その業務を行うこととする。当然国民年金を望む者と厚生年金を望む者とでは天引きされる事務経費と併せて受け取り給料の額に違いが生じることになる。
日雇い労働者にしても従来の営利の人材派遣会社よりも社民党の非営利の派遣の方がより高額の賃金が保証されるとなったなら、社民党の派遣事業との契約へと雪崩を打つだろうし、日雇い労働者を必要とする企業も、支払い賃金に変りがないとしたら、最終的により高額の賃金を保証する派遣事業所といやでも契約を結ばざるを得なくなる。ピンハネの多い事業所と契約を結ぼうものなら、世間から批判を受けることになるだろうから。
当然のことだが、社民党は契約した労働者に対して選挙のときに社民党候補に投票を義務付けることはできない。選挙運動はできる。最もカネがかからない方法は選挙時に携帯で仕事を指示する機会を通して、社民党候補に一票をと一声かけることだろう。結果は本人の意思に任せるしかないが、与えている利益に対する見返りのそれしかない一票の利益はかなり期待できるのではないだろうか。そのことに賭けた非営利の人材派遣事業とする。
見返りの利益を限りなく確実にするためには誠実に非営利を貫くことであろう。誠実に非営利を貫くということは日雇い労働者の立場に立ち、その利益獲得に最大限貢献すると言うことである。
参考までに≪日雇い派遣の規制強化、料金など明示徹底・厚労省方針≫ (07.12.23/日経新聞インターネット記事)を引用。
厚生労働省は労働者保護が不十分との指摘が出ている日雇い派遣制度を2008年度にも見直し、規制を強化する方針を固めた。派遣先企業が支払う料金を公開させることで派遣会社が極端に多額の手数料をとることを防止したり、業務内容など労働条件の事前明示を徹底することが柱。25日に開く労働政策審議会(厚労相の諮問機関)の労働力需給制度部会で提案する。
日雇い派遣大手のグッドウィルが労働者派遣法で禁止されている港湾業への派遣などの行為を繰り返していたとして、厚労省は全事業所に事業停止命令を出す方針。与党は「日雇い派遣の制度自体を見直すべきだ」と主張しており、厚労省は具体策の詰めに入った。(12:55)
「沖縄集団自決検定」問題は「軍の直接的強制」はなかったとする検定意見を撤回しないまま教科書への「軍の関与」はあったとする記述は認めるねじれた修正結果となった。と言うよりも、姑息的な一時凌ぎの結末を見せた。
当ブログ『ニッポン情報解読』by手代木恕之の07年10月3日記事≪沖縄集団自決検定/「政治的介入はあってはならない」のマヤカシ≫で(検定)<修正して沖縄県民が納得した場合、沖縄県民感情への考慮から発した修正だということになって、「考慮」は「事実」とは異なるとする暗黙の思惑が裏打ちされることになり、軍命令による「集団自決」はなかったが永遠の動かぬ「事実」だとされかねない。>と書いたが、「軍の直接的強制」はなかったを「事実」とする基本線を維持した「軍の関与」修正なのだから、例えば麻生太郎が2003年5月31日に日本の知性の最高峰東京大学の学園祭で「創氏改名は朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と最高峰の知性に見合う講演を行い、韓国から発言の撤回と謝罪、議員辞職などを求める抗議文を受けて「言葉が足りず、真意が伝わらなかったことは誠に残念だ。遺憾な発言であり、韓国国民に対して率直におわびを申し上げる」と謝罪したものの、麻生太郎の中ではあくまでも「創氏改名は朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」が歴史の「事実」であり、「言葉が足りず、真意が伝わらなかったことは誠に残念だ」云々はこれ以上騒がれて自身の地位を危うくすることを避ける自己保身からの沈静化のための表面的な取り繕い・一時凌ぎに過ぎないのと同じ構図を持つ、「軍の関与」は「軍の直接的強制」否定を「事実」とするための止むを得ない措置であり続けるに違いない。
そしてまた「沖縄集団自決」検定に関わるこのような歴史認識修正の構図は安倍晋三前首相の従軍慰安婦問題での「広義の強制性」は存在したが「狭義の強制性」は存在せず、軍の直接的な強制はなかったとする主張と対応する日本軍無罪説を基盤としている。
この手の日本軍無罪説は安倍晋三も含めた日本の保守国家主義政治家たちが脈々と受け継いできた日本民族は優越民族であるゆえの日本民族無誤謬説(=侵略戦争否定・従軍慰安婦軍強制否定・南京虐殺否定etc.etc)と対応し合い、日本民族優秀性の全体を構成する欠かすことのできない主要な一部材であろう。何と言っても天皇の軍隊であった上に、戦前の大日本帝国を演じ、歴史を演じた主役だったのだから、外国人に対してだけではなく、特に自国民に対して人道に過つことはするはずはないとしなければ日本民族優越論は土台から潰え去ることとなる。
軍は絶対的存在とされていた天皇の意志を体した存在・組織だった。それゆえに軍の存在そのものも絶対性を備え、絶対的な存在であるゆえの強制性を担っていた。
絶対的存在者とは絶対的命令者であることを意味する。いわば絶対的命令者である天皇の軍隊たる大日本帝国軍隊は天皇の意志・天皇の絶対性を体し、国民に対して絶対的命令者の位置に存在していた。威嚇的権威主義が蔓延していた戦前である、誰が軍隊に逆らえたであろうか。日本軍に逆らうことは天皇に逆らうことであった。逆らえば、天皇陛下バンザイは成り立たなくなり、そのことへの否定となる。そのような絶対的命令性=天皇陛下バンザイが特攻隊や玉砕を可能とした一大要素であろう。
多くの日本人が毒されている日本優越民族意識、優秀だからこそ過つことなないとする日本民族無誤謬性が象徴的に姿を見せた発言が日本の代表的政治家中曽根康弘の1986年の「アメリカは多民族国家だから知的レベルが高くない、日本は単一民族国家だから高い」とした発言であろう。
アメリカは日本の単一民族への拘りから比較したら無制限とも言える人種・民族に拘らない外国からの才能を積極的に受入れ、結果として国内外の才能がそれぞれの才能を刺激し合うことで優秀な頭脳・思想を生み出してきている。そして日本は自民族の優秀性を信じていながら、アメリカの優秀な頭脳・思想を学習する立場に立つ矛盾を平気で犯して何ら恥じない。
中曽根発言は元帝国軍人・元青年将校らしく日本民族優越意識を基本思想とした自民族中心主義に囚われて公平に目を向ける客観性を欠如させることとなった思い込み(=自民族無誤謬意識)に過ぎない。
意識の中で天皇を絶対的存在とする間は、いわば2600年の歴史や万世一系を有難い最大・最高の価値ある日本の歴史・伝統・文化とする間は日本民族優越性と優越であるとするために導き出さなければならなくなる日本民族無誤謬性の囚われから解き放たれることはないに違いない。
天皇の絶対性の虎の威を借りて何様化した狐たち日本軍が(何と程度の低い者たちの集団だったか)軍以外の個人の内面にまで土足で踏みにじり、その何様化した絶対性を押し付けた。その最大・最終の押し付けが単に強がって拳を振り上げていただけの「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の最後の場面の住民への転化・巻き添えであり、軍がそうする以上従わなければならないとする天皇の絶対性を体現した軍の絶対性に対する住民の側の無条件の従属が「集団自決」の形を取った「生きて虜囚の辱を受けず・・・」云々であろう。
そしてそのことは共に戦うことを命じて戦う武器として手渡したのではない手榴弾を軍自らが住民に配布した経緯が最もよく証明している。
検定審日本史小委員会は「軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない」(asahi.com記事)としているが、01年に放映されたNHK番組「ETV2001 問われる戦時性暴力」で「取材どおりに放映する」との約束を政治家の圧力によって破り、内容を改変したとする取材を受けた側の市民団体「戦争と女性への暴力」日本ネットワークの訴訟での高裁判決が「制作に携わる者の方針を離れて、国会議員などの発言を(注・安部や中川昭一を指す)必要以上に重く受け止め、その意図を忖度し、当たり障りのないように番組を改変した」(≪番組改変訴訟 NHKに賠償命令 「議員の意図忖度」 東京高裁判決≫07.1.30『朝日』朝刊から)としている関係構図と同じで、住民は軍の「意図を必要以上に忖度」し、「当たり障りのない」態度で済ます問題ではないために「必要以上に」過剰反応した軍の絶対性に対する従属であったことは疑い得ない。
高裁の判決は最高裁が判決の見直しがされる可能性を持つ双方の意見を聞く弁論の開催を来年4月24日に決定したと言うことだから、判決がどう変わるか予断を許さないが、判決が如何に変わろうとも、沖縄集団自決が天皇の絶対性を体した軍に対する過剰な「忖度」行為であることに変わりはないだろう。
* * * * * * * *
参考までに。下線筆者。
≪「集団自決」に「軍の関与」復活 検定意見を実質修正≫(asahi.com/2007年12月27日06時47分)
<沖縄戦の「集団自決」をめぐり、来春から使われる高校日本史の教科書検定で「日本軍の強制」が削除された問題で、渡海文部科学相は26日、教科書会社6社から出されていた訂正申請を承認した。「日本軍が強制した」という直接的な記述は避けつつ、「軍の関与」や「戦中の軍の教育」などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、「集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因」と読める内容になった。
一度検定に合格した教科書の記述に沖縄側が激しく反発したことをきっかけに異例の再審議となった。6社中5社は文科省側とやりとりしながら、訂正申請を一度取り下げたうえで、修正して再申請し承認された。文科省は、「軍の強制」を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった。
渡海氏はこの日の会見で「審議経過も明らかにしており、沖縄の理解をいただきたいと思っている」と語った。一方、9月末に開かれた沖縄県民大会の実行委員長を務めた仲里利信・県議会議長も会見し、「記述の回復がほぼなされ、これまでの検定意見は自動的に消滅したと考えている」と表明した。ただし、県民大会で決議した「検定意見の撤回」が実現しなかったことには不満の声も根強く、28日に実行委員会を開いて、正式な態度表明をするという。
渡海氏は県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、諮問機関の教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた。
今回の再審議では、「日本軍が強制した」と記した訂正を認めるかどうかが焦点だった。日本史小委は、沖縄戦や軍事史の専門家9人に意見を求めたうえで、(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる――という「基本的とらえ方」をまとめた。この方針に沿って、教科書会社に訂正申請の根拠となる資料の提出や説明を求めた。
その結果、三省堂、実教出版、清水書院、第一学習社、東京書籍の5社は訂正申請にあった「自決を強要された」「集団自害と殺し合いを強制した」といった直接的な表現を取り下げ、「日本軍の関与」「米軍の捕虜となることを許さないなど指導」との表現に変えて再申請した。山川出版社は事実関係だけで、背景や要因には触れなかった。
「強制的な状況のもとで」「『強制集団死』とする見方が出されている」といった記述も承認された。文科省は「『強制』や『強要』があれば即不合格になるのではなく、全体の文脈の中で小委が判断した」と説明している。>
≪NHK番組改変訴訟:来年4月弁論 最高裁が2審見直しか≫(毎日新聞/07.12.20)
<戦時下の性暴力に関するNHK番組の取材に協力した市民団体「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(バウネット)が「政治的圧力で番組が改変された」として、NHKと制作会社2社に賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は20日、双方の意見を聞く弁論を来年4月24日に開くことを決めた。NHKなど3社に200万円の支払いを命じた2審・東京高裁判決(今年1月)が見直される見通しになった。
取材対象者の「期待権」と報道機関の「編集の自由」を巡る初の最高裁判決となる。両者の関係について一般基準を示すなど、内容次第では取材の在り方に大きな影響を与える可能性もある。
問題の番組は、バウネットが開いた「女性国際戦犯法廷」を一部カットして、01年に放映された「ETV2001 問われる戦時性暴力」。
2審は、取材前にNHK側が「ありのまま伝える」と説明した経緯などから、「改変はバウネットの番組への期待と信頼を侵害した。変更を伝えないのは説明義務違反」と判断した。また、NHK幹部が放映前に面談した安倍晋三前首相(当時は官房副長官)らの意図をそんたくして当たり障りのない番組に改変したと認定した。【高倉友彰】>
公明党本部が年明けの大阪府知事選で自民党の立候補の要請を受け、一旦は「出馬は2万%ない」と否定しながら自らの言葉を裏切って、このことだけで政治家の資格は「2万%」もあると保証される言葉の裏切りだが、立候補を受諾、連立相手の自民党の推薦決定に反して推薦・支持しない方針を打ち出したという日刊スポーツ新聞のインターネット記事≪公明党、橋下氏を推薦せず≫[2007年12月26日21時5分]に出合った。そのあらましを箇条書きにすると、
①公明党大阪府議団は「党本部には推薦を求めない」と全会一致で決定。
自らは推薦「そんなの関係ねえ、オッパピー」で、推薦より一歩引いた
「支持」。
②公明党本部の対応はさらに一歩引いた推薦・支持両方とも「そんなの関
係ねえ、オッパピー」の「自主投票」。
③大阪府議団の推薦見送りの理由「核武装論など、今までの発言に支持者
から反発があった」こと。但し、「府政改革に取り組もうとする熱意を
感じた」として、「支持」はすることに決定。
④大阪府知事選には民主、国民新両党が推薦する大阪大大学院教授の熊谷
貞俊氏(62)と共産党推薦の弁護士梅田章二氏(57)も出馬表明してい
る。
大阪大大学院教授の熊谷貞俊氏はテレビ放映のドラマ「ガリレオ」の主人公堅物の理系教授のイメージと重なることから「阪大のガリレオ」とニックネームで呼ばれるようになったといったことを≪橋下弁護士に強敵、阪大のガリレオ出馬表明へ…大阪府知事選≫(07.12.13/サンスポ)が伝えていたが、学生に親しまれる人柄であることを髣髴させる記事内容となっていて、このように報道されるだけで橋下の「核武装」容認論やテレビで見せる軽っぽい印象(人間まで軽いと見るかどうかは人それぞれの判断にかかっているが)との比較対照を受けて民主党に有利に作用する選挙戦となる可能性もある。
自民党は柳の下の2匹目のドジョウを狙ったのではないだろうかと勘繰れないことはない。宮崎知事選でお笑いタレントのそのまんま東に自党推薦候補が痛い敗北を喫した。笑いを売って人気を得ている同じテレビタレントの、しかも大阪育ち、法律事務所も大阪市内に開業の肩書きも見栄えがいい弁護士ということで票獲得が望めるのではないか、宮崎県知事選の痛い失敗を反面教師として知名度をテレビタレントに求めて起用という点での2匹目のドジョウカードを引いたという疑いである。
自民党が橋下弁護士に立候補の要請をしたという形を取っているが、連立を組む公明党に何ら相談もせずに独断で進めた話なのだろうか。そうだとしても、新聞・テレビで報道された時点で公明党の知るところとなった擁立話であろう。異を唱える場面が何ら見受けられなかったということは、例え自民党単独で進めた話でも、決定したことは大勢を占めることになる。
橋下弁護士は一旦は固辞したものの立候補を受諾。自民党の方から立候補を要請した関係から「推薦」は当然の待遇だが、与党の一角を占めている公明党としても、少なくとも橋下擁立を見守っていた都合上、自民党に準ずる待遇が必要となる。当然「推薦」でなければ異を唱えなかった経緯から判断して奇異な態度となる。
ところが公明党は本部は推薦も支持も見送り、大阪府議団のみが「推薦」ではなく、一歩距離を置いた「支持」のみの自民党に対する親近性に反する待遇という逆説性を帯びることとなった。
なぜ公明党は橋下立候補受諾決定後、このような自らの党としての態度を白日の下に曝したのでは選挙戦に不利に働く要因となるのは明白なのだから、何ら相談がなかった擁立話だと百歩譲ったとしても、自民党が橋下擁立を進めている間に擁立決定の場合の自らの態度を暗々裏に示さなかったのだろう。
公明党は自民党まで不利な状況に巻き込む〝隙間風〟を敢えて演出することとなった。
自民党が橋下擁立話を進めている間は何ら異議申し立てもせずに沈黙を守っていたということは言ってみれば自民党にお任せの態度だったというわけである。任せておきながら、決定後の態度は自民党お任せでないのは矛盾する。裏切り行為とも言える。矛盾、あるいは裏切りを敢えて犯した理由を考えるなら、橋下擁立決定後の「阪大のガリレオ」熊谷貞俊氏の民主党による擁立以外、要因を挙げることはできない。
いわば、民主党の「阪大のガリレオ」擁立が変えた公明党の自民党に対する矛盾行為・裏切り偽行為ということではないだろうか。と言うことは最初は勝てると踏んだタレント候補だったが、それが「阪大のガリレオ」立候補受諾以後「勝てる」がいささか怪しい状況となった。少なくとも「勝てるだろうか」と疑心暗鬼を持たざるを得なくなったといったところかもしれない。
つまり橋下弁護士は確かにテレビタレント弁護士としては人気はあるが、その発言に批判も多いのに対して大衆が自らに縁遠い資質であるゆえに彼らの憧れを擽る知性と教養を纏っているとおぼしき「阪大のガリレオ」などと称される強力なライバルが民主党候補として突如登場した。
いわばテレビの世界で通用させてきたお笑い系のタレント性を選ぶか、大学や大学院という教養世界で通用させてきた知性と教養のタレント性を選ぶか、どちらも大衆好みの選択肢が二つ示された結果、支持が片一方に偏ることは難しい状況となり、当落は予断を許さなくなった。
その上、ただでさえ自民党人気は下落傾向にある。現大阪府知事の大田房江が3期目の続投に意欲を燃やしていたが、「政治とカネ」にまつわる疑惑の浮上等で前2回支持してきた自民党・公明党・民主党などが不支持を表明、2期8年間お仲間だった太田自身の3期目の立候補を詰め腹を切らす形でお仲間から外す失態を演じてもいる。
そういった不利な状況下で、民主党の「阪大のガリレオ」擁立によって公明党は橋下擁立が選挙で失敗に終わった場合のなおさらのダメージをも視野に入れなければならない楽観できない後のない場所に立たされたと計算したのだろう。毒を食らわば皿まで、一蓮托生で自民党と運命を共にするか、それとも例え冷たい仕打ちと恨まれても、完全に別れることはできないのだから、せめて一歩距離を置くことでダメージを最小限にとどめる策をめぐらすべきか。
それが後者の公明党本部は「自主投票」の決定、公明党大阪府議団は「推薦」ではなく一段ランク下の「支持」で可能性の高い落選という最悪の事態から受けるダメージに備えた距離の取り方というわけなのだろう。
いわば選挙を戦わずして双方の候補者を見比べ、当落を予想して逃げたのである。民主党候補と比較して確実に勝てると計算したなら、連立与党を組んでいる自民党が擁立した候補者である、誰が党本部は「自主投票」、府議団は「推薦」ではなく「支持」といった距離の取り方をするだろうか。公明党らしいと言えば公明党らしいが、なかなか計算高いではないか。「機を見るに敏」と言うよりも、まさに「機を見て逃げるに敏」と形容した方がふさわしい。
自民党と連立を組んでいながら、選挙カーの上に立つのは自民党幹部や閣僚のみで、大田公明党代表も冬芝国土交通相も北側幹事長も立たず、マイクも握らない奇妙な光景が演じられることになるのである。
橋下タレントが落選した場合、自民党が貧乏クジを引くことになる。いや、公明党が自民党だけに貧乏クジを引かせると言った方が正確である。
* * * * * * * *
参考までに日刊スポーツ記事とサンスポ記事を引用。
≪橋下弁護士に強敵、阪大のガリレオ出馬表明へ…大阪府知事選≫(サンスポ/07.12.14.検索)
<年明けの大阪府知事選(1月10日告示、27日投開票)で、民主党から出馬を要請されていた大阪大大学院工学研究科教授の熊谷貞俊氏(62)は13日、出馬する考えを同党の大阪府連幹部に伝えた。府連は14日に熊谷氏の推薦を決め、党本部に申請する運び。
また熊谷氏は13日午前、大阪府豊中市の自宅前で報道陣に「大きな会見をします。17日にパーティーがあるでしょ」と語り、17日に大阪市内で開かれる府連主催の政治資金パーティーで、正式に出馬表明する意向を明らかにした。
熊谷氏は昭和43年、東大工学部卒業。大阪大学大学院基礎工学研究科などを経て平成2年に教授に就任した。テーマはロボットの「知能」。非線形回路理論など専門分野の言葉は難解そうだ。
堅物の理系教授のイメージはまさに、フジテレビ系の月9ドラマ「ガリレオ」で俳優の福山雅治(38)が演じる大学の物理学科の准教授、別名・変人ガリレオと重なる。そこで熊谷氏についた異名が「阪大のガリレオ」だ。
府知事選ではこれまでに共産党推薦の弁護士、梅田章二氏(57)、タレントで弁護士の橋下徹氏(38)らが立候補を表明。橋下氏は平成15年から日本テレビ系「行列のできる相談所」など全国ネットの番組に出演、抜群の知名度で選挙戦をリードするのではとの下馬評が流れていたが、そこへ民主党の支援を受ける「阪大のガリレオ」が出現。選挙は一転、誰が勝ってもおかしくない大混戦となる可能性が高まった。>
≪公明党、橋下氏を推薦せず≫[日刊スポーツ/2007年12月26日21時5分]
<大阪府知事選で公明党幹部は26日、推薦を求めている弁護士でタレントの橋下徹氏(38)の推薦、支持はしない方針を明らかにした。党本部の正式対応としては「自主投票」の形。ただ地元組織の対応は大阪府本部の判断に委ねる考えで、大阪府議団は「支持」を決めた。
推薦する予定の自民党とはずれが生じることになり、公明党の組織力に期待していた橋下氏の選挙戦略は見直しを求められそうだ。
この日の公明党府議団総会では「党本部には推薦を求めない」と全会一致で決め、府本部代表の白浜一良参院議員も了承した。
推薦見送りの理由について野田昌洋幹事長は「核武装論など、今までの発言に支持者から反発があった」と説明。ただ府議団は「府政改革に取り組もうとする熱意を感じた」として、橋下氏を「支持」することとした。
自民党は大阪府連が23日に推薦を決め、党本部も正式決定する見通し。公明党が「府議団の支持」にとどめたことに自民党府議団の朝倉秀実幹事長は「公明党が一緒に力を合わせて戦ってくれることに変わりない」と話した。
橋下氏は芸能事務所を通じて「支持していただき公明党府議団には大変感謝している」とコメントした。
大阪府知事選には民主、国民新両党が推薦する大阪大大学院教授の熊谷貞俊氏(62)と、共産党推薦の弁護士梅田章二氏(57)も出馬表明している。>
先ず第一番に何と言っても天下り官僚と現役官僚が双方共に元上司と部下(先輩・後輩)の権威主義的人間関係の力学に縛られた行動を取るからである。天下り官僚は元上司としての上に立った権威主義的人間関係を笠に着て相手を従わせる意向を自然と取り、現役官僚は部下として下にいた従う態度を取る。
守屋接待ゴルフ事件の発覚後、防衛商社による守屋接待を地で行くような内容の自衛隊の自衛隊員に対する倫理啓発ビデオがテレビで紹介され、そのそっくりな構図が話題となった。ワイロ(=カネ)と接待ゴルフを武器に商取引の成立を迫るその商力学には商社に天下った(?)元上司と現役自衛隊員である部下の先輩・後輩の権威主義的な上下の人間関係が明らかに有力なベースとなっていた。
現役自衛隊員が「先輩」と呼んだのに対して、「おいおい、先輩は昔の話だよ」と言いながら、顧客である自衛隊員に対して自分が客であるような上に立つ態度を取っていた。現役を引退しても先輩としての威光・権威を失わないのが日本社会に於ける権威主義の行動様式となっている。情けない話だが、あくまでも上下関係なのである。人間として対等な関係を築くことができない。権威主義の行動様式は上に立った場合の傲慢さと下に位置した場合の卑屈さを関係要素としている。
ここに自律できない日本人の姿(=上下関係で縛られた日本人の姿)がある。
二番目に天下った先輩官僚に利益を供与し、便宜を図るのは自分が天下った場合に同じ待遇がお返しとして望めることを予定行動としているからだろう。ギブアンドテークの関係に立っている。その確実性は天下り順に同様の待遇が繰返し保証される構図を歴史とし、伝統・文化として確立させているからこそ、予定調和とすることができるギブアンドテークであろう。
そしてそのような構図は断るまでもなく上司から部下への権威主義的人間関係を基準として可能となる。上に立つ者の押し付けと下に位置する者の従う上下の関係なくして可能となるはずはない天下りの企業利益形成の効用であろう。
この構図を断ち切ったとき、自分の天下り後の利益の保証を自ら打ち捨てることになる。結果として退職後の自己の利益の確保につながる天下った元官僚・元上司に対する保護・利益供与が企業の保護・利益獲得を一直線の成果とすることになる。
こういった自己優先保護に直結する天下った元上司への優先保護とその結果的成果である企業保護の構図がエイズ問題に於ける非加熱製剤のアメリカやその他の外国の製造承認取消しに比較する遅れの構図、今回の薬害肝炎で問題となっているフィブリノゲン製剤の製造承認取消しに向けた対応遅れの構図となって現れていないはずはない。
現役官僚にとっては自己保護の裏返しである天下り元官僚・元上司の保護が至上命題であり、その結果としての企業保の構図には一般国民の生命に対する視点を最初から欠いているからだ。官僚たちの行動は自己利害保護を最優先の動機としてはいるが、そこには国民の生命保護は動機として一切含まれていない。
このことはエイズ被害対策や肝炎被害対策、その他の薬害対策の遅れが証明している。似たり寄ったりの薬害を性懲りもなく繰返す官僚たちの薬害に対する学習無能力が証明している。学習しているのは如何に有利な天下りをするか、そのために天下った元上司の立場が有利となる状況を提供して企業に利益を与え、そのことを通して企業に利益を与える者としての付加価値を自分につけて天下りとして如何に自分を高く売るかだけだろう。
天下りは諸悪の根源であることを肝に銘ずべし
薬害肝炎裁判で大阪高裁が国や製薬会社の責任に期限を設ける線引きを行った東京地裁判決を受けて12月13日に示した和解案に対して原告側が全員一律救済を求めて拒否。
対して国は16日東京地裁判決を基準に期間内に投与された原告には「和解金」、期間外に投与された原告には一括して「訴訟追行費」を支払うとする基金案を原告側に提示。原告側は期間外の患者は今後提訴しても救済対象から外れるため、「被害者を線引きするもの」と拒否(≪薬害肝炎、原告は基金案拒否 「未提訴者も同じ救済を」≫07.12.17/asahi.comから)。
20日に至って桝添厚労相が政府の和解修正案を提示。和解金の大幅増額を提示しているものの東京地裁の線引きを踏まえた、それを基準とした和解金の支払いの修正案だったため、原告側は受入れ拒否。
桝添「全員救済につなげるために一生懸命知恵を絞った。国による事実上の全員救済」(07.12.20/読売新聞≪薬害肝炎和解案 原告「国に声届かず」 官房長官「最大限の回答」≫)
町村官房長官(20日午前の臨時閣議後の記者会見)「大阪高裁の和解骨子案に矛盾する内容での和解はできないとの前提に立ち、最大限、被害者の皆様をどう救済できるかということを考えて内容を組み立てた。直接、または間接に、事実上、全員救済をすることができる回答を作ったつもりだ。一日も早くこの問題が解決されることを心から願っている」(同読売記事)
これは三権分立の制度を踏まえるなら、行政府は司法の判断を拒否できないとする考えに添うものだろうが、政府の和解修正案次第では大阪高裁もそれに対応した和解案を示す用意を示しているのだから、町村官房長官の言っていることは言い逃れに過ぎない。
そして支持率が30%そこそこに急落してにっちもさっちもいかなくなったのか、福田首相は投与時期の線引きを行わない一律救済に応じる議員立法を今国会に提出し、成立を目指す方針を表明した。
国の責任については正午過ぎの首相官邸で次のように述べている。
福田「薬事行政、許認可行政ですからね、そういう意味に於ける、ええ、私は国の責任、道義的責任も含めて、いろいろあると思います。その辺は、あの、党の方でもって、ええ、その辺はどういう判断するか、これからの作業の大事な部分であると思います」(12月24日午後7時のNHKニュース)
国の責任がどういう表現・範囲となるかはまだ不明だが、原告側が望むに近い着地点に到達した。後手後手の着地である。国側が望んだ着地点に反して原告側が意図している方向の着地点に同じ落着くなら、先手を打つべきを、支持率急落・お先真っ暗という崖っぷちに立たされ背中をどやしつけられなければ方向転換ができなかった。
安倍晋三は演出も何もない口先だけのお粗末な総理大臣だったが、ワンフレーズの演出を編み出して自分を表に出すのが得意な小泉には福田は適わなかったと言うことか。
<政府・与党の救済策の基本方針
▽行政・司法の枠を超え、血液製剤の投与時期を問わず、症状に応じて一
律の金額を補償
▽投与を証明し、薬害被害者として認定するための第三者機関の設置を検
討
▽薬害の解決が遅れたことへの国の責任に言及し、被害者の苦痛へのおわ
びを表明
▽薬害の再発防止に最善の努力をし、医薬品の副作用に関する情報公開な
どを推進
(07.12.24/読売新聞インターネット記事≪薬害肝炎 一律救済へ 首相「議員立法で」…今国会で成立図る≫
桝添「基本的には合意であるとかね、それから政府声明であるとかね、法律であるとか、色んな形の、その、手法もあると思います。基本はもう二度と起こさないんだと。反省すべきは反省し、謝罪すべきは謝罪し、償うべきは償って、二度とこういうことは起こさせないんだと、そういう精神が貫かれて欲しいなという気がします」(上記NHKニュース)
よく言うよ。東京地裁判決と大阪高裁の和解案に添って国の責任は「そんなの関係ねえ、オッパッピー」の線引きをした和解修正案を示しておいて、その舌の根も乾かないうちの「反省すべきは反省し、謝罪すべきは謝罪し、償うべきは償って、二度とこういうことは起こさせないんだと、そういう精神が貫かれて欲しい」とは二枚舌の言い草ではないか。
和解案を出す前に言うべき言葉であったろう。
町村官房長官「全部法律に書かなければならないと、いうことはないだろうと思います。責任論を煮詰めていくことによってですね、肝心の救済という実態が遅れてしまっては、ある意味では、何の意味もないんではないだろうか。いわゆる責任というものを超越して、この立法作業をすることになるのではないだろうか。こうした薬害・被害というものをできるだけさせない、というためにですね、そうした決意なり、考え方、を貫かれたもの、そういう法案になることが適切だろうと、そう考えています」
この場に及んでも国の責任を限りなく棚上げしたい意思を覗かせている。責任は「決意なり、考え方」で済まそうというのである。高校野球開会式の「正々堂々と戦うことを誓います」の「宣誓」並みに押さえておこうという魂胆なのだろう。野球留学だ、特待生だ、優秀な選手はプロ球団から金を受け取っていたり、学費や寮費・食事代免除だと特別待遇のウラ取引の存在が既に「正々堂々」から懸け離れていて開会式の「正々堂々」が形式化しているように国の責任も形式化させかねない意図が見えみえである。
政府が国の責任の線引きに拘るのは薬には副作用が付きもので、すべてに政府の責任を認め補償していたのでは薬事行政に支障が来たすという理由を挙げていたが、地震に備えた対策は重要だが、いくら対策を施しても地震起きなくなるわけのものではない。起きた場合の備えも肝要となってくる。
薬の認可にしても同じだろう。薬の開発、及び開発された薬に対する国の許認可にしても、人間がやることである。薬を認可して投与に至る事前の対策も重要ではあるが、副作用のない薬は存在しないと言われている以上、自身と同じで薬害が起きない保証はどこにもない。
要は薬害が起きた場合の事後対策であろう。その薬が安全であるかどうかの投与状況に関わる行き渡った情報収集、投与の過程で薬害を発生させる恐れがあるなしの的確な判断を下す情報分析、いち早い察知と情報公開による被害拡大の阻止、人間の命の保全を基本態度として人の命の差し障りを如何に最小限にとどめ、どう救うかに重点を置く人間の安全保障第一の危機管理。
これまでの薬害対策が許認可省庁が天下り官僚を保護するために企業利益を優先させて被害者救済と国の責任が後手に回り被害を拡大させてきた経緯から判断するなら、製薬会社への官僚の天下りを一切禁止とする対策が被害を最小限にとどめるが絶対的条件ではないだろうか。
自分で工夫させる力(=自分で判断する力・自分で考える力)を子どもたちから奪っていないか
10月に小学校のグランドを会場に地区の祭があった。私は自治会の副会長として開会式で自治会の大きな旗持ちの役目を担っていた。前日設置した野外舞台前に整列した各旗の背後にそれぞれの自治会の祭の参加者が一列縦隊で並ぶ。要するに開会式を見栄えよくする体裁・儀式である。
地区の祭と言えば、素朴なものと相場は決まっているが、自然発生的な祭ではなく、つくった祭であることと元々体裁・儀式好きの民族性を抱えているものだから、開会式だけが頭でっかちに仰々しい演出となっている。一種のハコモノであろう。
もう一つの体裁・儀式が市会議員・県会議員、さらに衆議院議員までが祝辞の言葉を述べに駆けつけたことである。政治家を呼ばなければならない程に大袈裟なものなのだろうか。挨拶自体が祭を通して住民同士がコミュニケーションを深め合い、地区の発展につなげて欲しいといった似たり寄ったりと決まっている。中には他の祭にも呼ばれたが、こんなに集まっている会場はなかった、皆さんの熱心さを見て取ることができるといったおべんちゃらを言う議員もいた。
有意義に過ごす自分なりの時間を自分でつくる能力がなくて、他人がお膳立てしてくれた時間を過ごすことでしか一日一日を埋めることができない人間だって相当に混じっているだろうから、いわば主体的・自律的に生活していない人間まで混じっていることを考えると、参加者の数だけを見た表面的な評価は客観性の欠如の賜物だろう。
祭の内容は地区の若い男女で構成した太鼓塾の太鼓演奏、若い母親と園児の踊り、女性交通指導員の交通安全に関わる話と身体の俊敏性を目覚めさる目的のちょっとした手足を動かす運動、カラオケ、そして地区出身の非有名女性演歌歌手の演歌。声に張りがあり声量豊かないい声をしているのだが、いい曲に恵まれなかったのか、売れるだけの雰囲気を持っていなかったのか、とにかく名前を聞いたこともない歌手だった。確か10年近く毎年この祭に招かれていて30代半ばを過ぎているということだったが、その縁で結婚式で歌う仕事が舞い込んできたと嬉しそうに話していたが、売れなくても好きで活動しているといった様子だった。
あとは婦人会だとか街づくり委員会だとかの自治会所属の各団体が焼きそばや焼き鳥、農産物とかの売店を広げている。
行事そのものの内容がこの程度で地域の発展とつながっているわけのものでもなく、市会議員・県会議員・衆議院議員たちの開会式祝辞演出が如何に仰々しく頭でっかちであるか物語って余りあるが、この手の体裁・儀式は地区体育祭にしても老人の日の地区祝賀会にしても付き物となっている。
開会式終了後に自治会所属団体「青少年育成委員会」主催の小学生の子どもたちによる菜の花の苗を植える行事が加えられていた。苗を植える場所は小学校から200メートル程離れた場所に流れている川の土手。地区消防団のラッパ吹奏隊のラッパ吹奏を先頭に各自治会の旗が続き、しんがりに苗を植える子どもたちが続くと決められていた。
ところが行事進行係がマイクで決められていた通りに「旗を先頭にして」と指示すべきところを、それを抜かして「子どもたちは苗植えに移動してください」と指示したものだから、川へ向かう位置に最も近い最後列に並んでいた子どもたちが先頭に立って歩き出したために、旗持ちが逆にしんがりとなって行進することになった。「でも、そんなこと関係ねえ、関係ねえ、オッパッピー」で流れに任せる。
連絡不行き届きだったからなのか、決められていた通りに旗持ちが先頭に来なかったためか、校門脇で待機していた消防団ラッパ吹奏隊は脇を子どもたちがぞろぞろ歩くに任せて先頭に立つべく動こうとしない。途中旗と歩くのが遅い子どもたちと入り混じり、雑然とした人の流れと化す。旗が川までの道を半ばまで進んだところでラッパ隊が先頭に立つまでその場に待機するよう後ろから順繰りに連絡が入った。
順繰りだから、先頭の子どもまで届くに時間がかかる。土手まで一本道となった場所から先方を見通すと、既に土手の坂を上っている子どもたちの姿が見える。しかもなかなかラッパ隊が来ない。そうこうするうちに背後の人込みが動き出した。ラッパ隊が来ないのにどうしたのだろうと思っていると、「そのまま川へ向かうようにだってさ」と二度目の連絡がやはり後ろから銃繰りに入った。また規則もなく雑然とぞろぞろと歩く。とても行進とは言えなかったが、これも「そんなの関係ねえ、オッパッピー」である。
誰が考え出したのか、菜の花の苗を植える目的だけのために消防団ラッパ隊が先頭に立ってラッパを高らかに鳴らして行進する後ろを旗持ちが続き、次に子どもたちがぞろぞろと歩く姿は戦前の軍国主義の時代の世相には似つかわしかっただろうが、今の時代仰々しく滑稽なものに映っただろうから、却って結果はよかったのかもしれない。消防団にしてもバカらしくて旗持ちが来ないことを理由に動こうとしなかったのかもしれない。そうでなかったら、ラッパ隊が先頭に立つまでその場に待機するよう連絡を入れたときにいやでも消防団は動かざるを得なかったはずだが、来なかったところを見ると、先頭はもう土手についているのではないのかとか理由をつけて動こうとしなかったのだろう。
私自身は菜の花の苗を川の土手に植えに行く目的だけのために消防団のラッパ隊を先頭に行進するという話を聞いたときにその仰々しさ、大袈裟さな振舞いに滑稽なものを感じていたにも関わらず、その仰々しさ・滑稽さを実地に体験してみたくてその行進に大いに期待していた。途中で江戸時代の火事場の纏い持ちのように自治会の旗を高く掲げて左右に大きく振り、布地を風に大きく靡かせるシーンを演じたら面白かろうとさえ思っていた。
残念ながら消防隊が動かなかったものだから、戦前でなければ味わえないような貴重な体験となるはずの折角の機会を逸することになってしまった。
ラッパ隊はどのような曲を吹奏する予定でいたのだろうか。「聖者の行進」だったのだろうか。「軍艦マーチ」ということはないだろうが、「聖者の行進」でも滑稽なのに「軍艦マーチ」だったったなら戦前に限りなく近づくことはできたとしても、仰々しさ・滑稽さは最高潮に達していたに違いない。
前置きが長くなったが、問題は「青少年育成委員会」主催の菜の花の苗植えである。「青少年育成委員会」主催となれば、「青少年育成」がテーマ・目的の苗植えでなければならない。
土手は6月の第一日曜日に自治会で草刈したあと雑草は生え放題にぼうぼうとしていたのを、これも自治会所属団体の街づくり委員会が苗を植える範囲だけ1週間前に草刈機で雑草を刈り取り、苗を植えることができる大きさの小さな穴を前以って掘ってすぐに植えることができるように準備してあった。
しかも子どもの参加者には祭会場のみで使える300円の商品券が貰える仕組みになっていた。子どもたちがすることは苗をビニールのポットから取り出して前以て掘ってあった穴に置き、土をかぶせて両手で軽く押さえ、如雨露で川の水を汲んで苗の周りにかけて300円の商品券を受け取ることだけであった。
50人以上100人近くは参加していただろうか。とにかく土手の周囲は小学生でごった返していた。後日の水遣りは青少年育成委員会のおじさんが何日か置きに通ってきて行っているらしかった。上終われば子どもたちはノータッチである。
前々からの傾向であったが、OECDの「学習到達度調査」でも日本の子どもは読解力・理解力・判断力等の基軸となる「考える力」が劣っているという結果が出ている。そのために日本政府は「考える力」を養う教育政策推進の参考材料とすべく、今年の4月に小学6年生と中学3年生を対象とした「基礎学力」と「理解力」を別個に測る初めての形式の算数(数学)と国語のテストを全国一斉に行った。
現在の日本の教育政策は「考える力」の育成を最重要のテーマに位置づけたわけである。
「考える力」がどの程度ついているかはテストである程度測ることができるかもしれない。しかし「考える力」をつけるには学校の授業での教えのみでつくわけではない。幼い頃からの日々の活動の中で身につけていく考える習慣が素地となることで、それを引き継いだ発展が考える力を開花させていくものだろう。素地のないところには何も育たない。
考える習慣は様々な活動の中での様々な工夫によって培われる。工夫=考えることだからである。工夫する機会を持つことで、思考回路が「考える」に入る。
そして直接的な工夫は自分で行うこと、独力から生まれる。未知の活動はそれを行うのに他者の工夫が必要だが、活動を発展させるそれ以降の工夫は自分が担ってこそ、考える力は身についていく。他者の工夫にばかり頼っていたのでは考える力は身につかない。
だが、大人が草刈して掘った穴に菜の花の苗をビニールポットから移し変える、言われた通りに土をかけて手で押さえ、水をかけるだけでどこに工夫の機会を見い出したらいいのだろうか。大人がお膳立てしたことをお膳立てしたとおりになぞれば完結する「青少年育成」事業なのである。工夫があるとすればゲットした300円の商品券を焼きそばを買うか焼き鳥を買うか、駄菓子を買うか決めることぐらいだろう。
最初から何を買うと決めていたなら、工夫はどこにもないことになる。
大人がお膳立てするのではなく、子どもたち自身に草刈ガマを持たせて、こう狩るんだよと教えて草を刈らす。最初は下手で刈っていく間にこうすればうまく刈れる、ああすればうまく刈れると工夫していく。狩り終わったなら、移植ベラを一つずつ持たせて穴の掘り方を教え、自分たちで掘らせる。いくつか掘っていくうちに上手に掘れるようになっていったなら、どう掘ったらいいか自然と考え工夫しているからだ。
大人たちが何から何までお膳立てすることで、子どもたちから工夫する機会、考える機会を奪っている。現在の日本の教育政策に逆行することを「青少年育成」の名のもと大人たちは行っているわけである。
役員は2年の任期となっている。再来年度育成委員を引き受けて、やり方を変えるように提案するつもりでいるが、多分答は決まっている。そのような方法に変えたら誰も参加する者はいないだろうと。「だったら、中止すべきだ。300円の商品券で釣って苗植えを機械的にこなすだけで終わる形式的育成なら、やめた方がいい」
「そこまで言ったらおしまいだ。何もしないよりも、何かして経験の機会を与えるだけでも意味はあるはずだ」
殆どの団体の上層部は長年顔ぶれが変わらないそうだ。団体の地位を占め、活動することで地域の発展に貢献しているとして、それを有意義な人生の過ごし方と考えている節がある。いわば団体の運営が設立趣旨にお構いなく自分たちの活動のための存在と化している。その結果、何かすること自体に価値を置く。「青少年育成」とは名ばかりでも、その名前を借りて「青少年育成」らしき行事を行いすれば、自分たちの活動となると言うわけである。
参加者が少なければ自分たちの活動の評価が下がる。ゼロになって中止となったら、評価が下がるだけで終わらず、自分たちの活動の機会そのものの喪失につながりかねない。だから300円の商品券を与えてでも参加者を底上げして、何人が参加したと参加人数を勲章とする。自分たちの活動が主となっているから、子どもたちから工夫する機会、考える機会を奪っているだけではなく、倒錯した「青少年育成」となっていることに気づきもしない。
このような子供の考える力を奪う活動は一地域のみの問題ではないだろう。例えば大人の性犯罪から守るために子供たちに持たせる防犯ブザーでもこのことが言える。
05年11月22日に広島市で下校中の小1女児が殺害された事件の9日後に栃木県今市市で小1女児が殺され、未解決となっているが、今市市の小学校は広島での事件を受けてその2年前から持たせていた防犯ブザーの所持状況を調べたところ、電池切れがあったり自宅に置きっ放しになっていたり不所持者が多数見つかったために、市教委からの指示を受けて所持するよう徹底させた矢先の事件だと言う。
また広島市の事件当時も広島市内の小学生の中で所持させていた防犯ブザーを所持していなかった児童もいたという。
上からの指示で持つと言うことは上からの指示がなければ持たないことを意味する。だから上からの指示で持たせた物を常に持たせ続けさせるためには、所持・不所持の検査を定期的に行って上からの指示を有効な状態に置かなければならない。
今市市の場合、所持・不所持の検査を定期的に行わないことによって上の指示を無効化状態に置いたから不所持者を多数出すことになったのだろう。
これは上に従った行動であって、自分の判断で行った行動ではないからだ。上からの指示がなければ持たない、あるいは持たなくなる行為にどれ程に意味があるのだろうか。
だとしたら、すべて自分の考え・自分の判断に従わせるべきではないだろうか。それぞれの考え・判断にこそ価値を置く。低学年生の場合は親の協力を得て一人一人に必要かどうか自分で考え・判断させて所持・不所持を決めたなら、それがいずれの判断であっても、それぞれの判断に責任が生じて責任行為となって付き纏うことになる。所持するのもよし、所持しないのもよし。一端所持すると決めて所持しなくなるのも自己決定とする。すべて自分の考え・判断次第だとする。
ところが市教委とか校長、あるいは教師といった上の者が一律に持たせることによって子どもたちの自分で考え・判断する機会を奪い、自分で考え・判断する力の育みを損なうこととなっている。
定期的な検査を行わなければ有効化しない行為にそれ程の意味はあるまい。例え上からの指示によって子どもの命を救うことになったとしても、自分の考え・判断に従って責任を持って行動する主体性の確立という意味でどれ程に役に立っているだろうか。上からの指示に従わせる代償に主体性という生命を奪っていることにならないだろうか。考え・判断するということも生命の営みに関係する。それを損なうのである。
大人が何かもでもお膳立てして子どもに従わせるのではなく、子どもたちの考え・判断に任せてこそ、考えるたり工夫したりすることを通して生命を輝かすことになる。
誇ってもいい、「美しい国 日本」
asahi.com記事(2007年12月20日21時26分)≪百貨店など10社に警告 家具・地鶏で不当表示 公取委≫
<大手百貨店やスーパーが中元や特設イベントで扱った鶏肉や家具などを産地表示が誤ったまま販売していた問題で、公正取引委員会は20日、伊勢丹や小田急百貨店など計10社に対し、景品表示法違反(優良誤認、原産国不当表示)のおそれがあるとして警告を出した。各店から発注を受けた業者が、発注の産地とは異なる商品などを納入し、各店がそのまま販売していたという。公取委は業界団体に対し、店が自ら表示を確認したうえで販売するよう要望書を出した。
調べでは、小田急百貨店(東京)は、今年5~7月に魚の干物を集めた中元商品「山口・仙崎一夜干」の詰め合わせを販売したが、セットには山口・仙崎産だけではなく、山口・下関産のフグや、島根・浜田産のカレイなど別産地の干物も含まれていた。
また、スーパーのユニー(愛知)は5~8月、宮崎県知事似のイラスト入りの中元用カタログに、ブロイラーを「宮崎地鶏」と表示して販売。ジェイアール西日本伊勢丹(京都)も、催事場の宮崎特集コーナーで扱ったブロイラーについて、新聞チラシに「地鶏炭火焼」と表示した。
丸井今井(北海道)▽伊勢丹(東京)▽京王百貨店(同)▽松屋(同)▽岩田屋(福岡)▽宮崎山形屋(宮崎)▽山形屋(鹿児島)の7店は家具販売で警告を受けた。各店は9~10月、「イタリア展」などのタイトルをつけた催事場で、中国製のイス(約3万円)やソファ(十数万円)を販売したという。
いずれも納入業者が仕入れ段階で産地などを誤ったのが原因だという。「一夜干」では、店は仙崎産を指定したが、納入業者が他産地の干物を混ぜていた。家具では、卸売業者が輸入業者に発注する際に、中国産の家具をイタリア産と勘違いしていたという。
景表法の対象は、消費者に直接、表示をする業者となる。そのため、不当表示の原因が仕入れ段階にあったとしても、法に問われるのは小売店だけとなる。
公取委は「百貨店への消費者の信頼は非常に大きいが、販売時に表示の再確認をしている店はほとんどない」と指摘している。>――
◎各店は9~10月、「イタリア展」などのタイトルをつけた催事場で、中国製のイス(約3万円)やソファ(十数万円)を販売したという。
◎家具では、卸売業者が輸入業者に発注する際に、中国産の家具をイタリア産と勘違いしていたという。
◎景表法の対象は、消費者に直接、表示をする業者となる。そのため、不当表示の原因が仕入れ段階にあったとしても、法に問われるのは小売店だけとなる。
業者は発注間違えだと言うが、例え電話での注文であるなしに関係なくカタログを基準とするはずである。カタログにはイタリア製か中国製か表示がしてあるだろう。また百貨店で扱うイタリア高級家具と中国家具がそれが最高級品であってもそれぞれの値段の見当と差違は経験上の常識としているだろうから、金額の点からも間違いようがないのではないか。
また、発注品が剥き出しで届くわけではない。ダンボールその他で梱包された状態で届けられるだろうし、製品を傷つけないために百貨店の催事スペースに搬入するまで梱包した状態が維持される。梱包材の表示文字によっても中国製かイタリア製か判断できる。発注間違えだとは俄かには信じ難い。
もし搬入時に表示文字が何も記されていない梱包材で包まれていたとしたら、それは製造国を不明とするために途中で入れ替えた可能性が生じる。
百貨店は自己利益を最大限に獲得することを優先させるために納入業者に対して納入商品の単価を情け容赦なく叩く商慣習にあるということを聞いたことがあるが、納入業者側がその不利益を穴埋めするために中国製をイタリア製と偽ったといったことではないだろうか。
大手ゼネコンに下請単価をギリギリカットされることで自分たちの利益そのものを削られた下請業者が手抜き工事で応えて不利益を帳消しにしようとするようにである。
耐震偽装、賞味期限表示偽装、産地偽装、偽造食品・偽造製品等々、ブランドを偽るゴマカシが跡を絶たない。ブランドどおりの商品・製品の類は存在しないのではないかと疑いたくなる程の偽装・偽造のオンパレード、跳梁跋扈となっている。
あとでテレビのヤラセ報道だと露見したが、今年7月に中国で水に浸してボロボロに細かく砕いたダンボールを豚肉に加えて水増しした肉まん作りの場面を北京のテレビが隠し撮りして放送したあと、インターネットの掲示板に「何を信じて食べればいいのか」といった書き込みが殺到した(07.7.12.asahi.com≪「偽肉まん」は、豚肉と段ボールの割合が4対6 中国≫から)ということだが、元々偽ブランド品が国内はおろか海外にまで氾濫させている中国のことでだったから、日本の反響は中国人のやることはと見くだすふうなところがあったと思う。
しかし日本のあるべきブランドを裏切る偽ブランドの横行は中国のそれに優るとも劣らない氾濫ぶりである。フジテレビ系列で放送された関西テレビ制作の「発掘!あるある大事典2」を例に出すまでもなく日本のテレビの番組本来のブランドを偽るヤラセ・捏造番組(=偽ブランド番組)にしても、中国の「肉まん」捏造偽ブランド番組どころではない活躍ぶりではないだろうか。
「公取委は業界団体に対し、店が自ら表示を確認したうえで販売するよう要望書を出した」と言うことだが、百貨店側にしたらありとあらゆる場面で偽ブランドが横行する日本の社会の現状を考えに入れた万が一の危機管理体制を常に発動状態にしておくべきだったのではないだろうか。
百貨店の危機管理欠如と言い、どう転んでも誇ってもいい、「美しい国 日本」の姿と言える。「でも、そんなの関係ねえ、オッパッピー」でさらなる偽ブランド社会に向けて邁進するか。安倍晋三が唱える「美しい国 日本」を完全な状態で完成させるためにも。
死人に口なしを疑う
馬込容疑者が銃を所持していることに不安を感じた近隣の住民が交番に銃を取り上げるように一昨年の05年4月に申し出た。その経緯を昨19日(07年12月)朝のTBS、「みのもんたの朝ズバッ」で次のように報じていた。
馬込容疑者の近隣の住民が、「夜中の2時ごろ来て、トイレを貸してくださいと言った」、「私たちが家のどこに寝ているか分かっているよ、と言われた」。別のテレビでは「迷彩服を着て銃を持って通りを歩いていた」といったことも報じている。
そして「警察にね、どうしてね、銃を持たせたかって」、近くの交番に抗議した。この情報は交番の警察官によって佐世保警察署に報告されたと言う。対する「佐世保警察署・生活安全課・警部補の報告書」
「馬込にあたっては銃の一斉検査、更新時の調査に於いては医師の診断書に『問題ない』旨の記載あり、また言動にあっても現在は問題ない状況にある。緊急に銃を取り上げたりする根拠もない。銃器を取り上げることはできない状況である」
だが、その一方で銃を発射不可能にする目的の「先台」を預けることを警察は馬込に要請している。
この部分を「朝ズバッ」では次のように報じている。
佐世保警察署の記者会見での質疑(Q&A)をクリップで説明。
Q「『先台』を保管したいと申し出たことについて馬込容疑者は」
A「一応『分かりました』と返事した』
Q「その後『先台』は?」
A「預かったと言う記録はない」
Q「預けていなかったあとの警察の対応は」
A「このあと、『先台』の提出は要請していない。任意な行為で強制力は
ない。法の遵守事項ではない」
警察が電話で「先台」を保管すると申し出たのに対して馬込容疑者は「分かりました」と受諾したが、実際には預けなかった。警察もそれ以上の対応は求めなかった。
先台に関しての経緯は各新聞のインターネット記事も同様の内容となっている。
四つの疑問が生じる。一つ目は、「銃器を取り上げることはできない状況である」としながら、その一方で発射不可能にすることになるのだから、「銃器を取り上げる」に準じる「先台」の保管を申し出たことに飛躍があることである。自動車免許証を取り上げるに至る交通違反を起こしていないが、所有している車を保管しますと申し出るような矛盾がそこにある。
二つ目の疑問は、「先台」を保管したいと申し出たについての理由をどう述べたかである。どのインターネット記事もその点について触れていないし、「朝ズバッ」のインタビューでも問い質していない。
18日の佐世保署内での記者会見。
記者「対応された警察官が馬込容疑者に当時先台を警察が保管したいと申
し出たというような事実はありますか?」
警察「それは事実です、ハイ」
記者「で、その申し出について馬込容疑者はどのような対応をされ、した
んでしょうか?」
警察「一応分かりましたとは返事はしております」(同「朝ズバッ」)の
みである。
理由もつけずに「先台を署に保管したい」と申し出た、馬込は「分かりました」と承諾したでは会話の体裁を成さないし、不自然に過ぎる。警察が理由を述べなかったら、馬込は「なぜですか?」と理由を問い質すだろうし、それに対して警察は理由を述べなければならなくなる。いずれにしても「理由」は必要となる。
当然その理由は銃そのものを所持禁止にする程ではないが、発射不可能にすることを納得させるに足る銃所持不適格性を告げる内容であったはずである。まさか先台をつけていたら暴発する危険があるからといった理由ではあるまい。だとしたら、すべての銃のすべての先台を預からなければならなくなる。
その内容によっては、提出を受けないまま放置したことが適切であったかどうかが判断できる。「任意な行為で強制力はない。法の遵守事項ではない」との説明が正当性を得るためには、先台を預かるについての〝理由〟(=不適格性)が殆ど問題にする程の内容ではない場合に限る。
もし実際に問題にする程の内容でなかったなら、なぜ馬込容疑者は「分かりました」と簡単に承諾したかの疑問が新たに生じる。逆に「なぜそんな理由で先台を警察に預けなければならないのですか」と問い返したはずである。「分かりました」と承諾したというなら、銃所持禁止に準ずる銃所持不適格性を理由としていなければならない上に本人が納得する説得性を持った内容でなければならない。
いわば問題にしなければならないほどの理由でなければならないことになる。事と次第によっては「任意な行為で強制力はない。法の遵守事項ではない」で放置することは許されなくなる。
三番目の疑問は、「先台」を預かったとしても、銃そのものを所持禁止にしたわけではないのだから、新たに銃を購入することで「先台」の不足を補うことができる。当然警察は申し出以前に先回りをして銃砲店にどこの誰に対しては銃の販売をしてはならないとする通達を出して初めて、「先台」の保管は万全を期すことになる。説明するまでもなく、「分かりました」と言って受話器を置いたと同時に銃砲店に走らない保証はないからだ。
だが、<火薬類取締法では、個人が保管できる散弾は800発が上限。馬込容疑者は市内の銃砲店で昨年11月までに複数回に分けて、計2000発を購入してしたという。>(2007/12/17付 西日本新聞朝刊≪佐世保乱射 車などに散弾2700発 馬込容疑者 防弾チョッキ着け死亡≫)から、いくら「任意行為」であっても、保管を申し出た以上、保管まで持っていかなかった手落ちと銃砲店に通達出さずじまいの二重の手落ちがあったと言えるのではないか。
とすると、「先台」の提出は「任意な行為で強制力はない。法の遵守事項ではない」は責任逃れの口実と化す。
四番目の疑問は、「馬込にあたっては銃の一斉検査、更新時の調査に於いては医師の診断書に『問題ない』旨の記載あり、また言動にあっても現在は問題ない状況にある。緊急に銃を取り上げたりする根拠もない。銃器を取り上げることはできない状況である」ことと、銃を発射不可能とする「先台」の保管を申し出たが、これは「任意な行為で強制力はない」ために、馬込容疑者から「先台」の提供は受けることができなかったと近隣住民に報告したかどうかの疑問である。
近隣住民の不安だとの要請を受けた警察の対応なのだから、最終的な結果の説明があって然るべきであろう。しかしインタビューを受けた住民からは「先台」の「さ」の字も出てこなかった。「警察は先台を保管するように馬込に言ったらしいんですが、任意行為だ、強制力はないと言って、ついには預かることもできなかったんですよ」といった警察に対する批判は聞くことができなかった。なぜなのだろう。
以上の疑問を解くとしたなら、考えられる理由は一つ、近隣住民の要請を受けて銃を取り上げなかったために銃乱射・2人殺害の事件が発生した警察の怠慢を誤魔化し、責任逃れに死人に口なしで「先台」話をデッチ上げたのでないかという疑いである。
マスコミはそこら辺を明らかにするよう求めるべきではなかっただろうか。
「朝ズバッ」でコメンテーターとして出演していた元検事、大澤孝征弁護士が「先台を出してっていうふうに電話で指示したって言うのはいかがなものか。やはり取りにいきます、出してくださいというとこまでやっておく必要があったのではないか・・・・」と言っていたが、児童相談所が児童に対する虐待を把握していながら、以後の経過を家庭訪問などをせず、電話での聞き取りといった安易な座仕事で済ませて結果として児童を虐待死させてしまうのと対応した電話での申し出と言える。
いずれにしても事件は起きた。銃を取り上げなかった判断も、「先台」の保管を申し出て相手の承諾を受けながら保管まで持っていかないまま放置した判断も、それが事実だとすると、結果として間違っていた。銃を使用できなくすべきだと見極めるだけの判断を示すことができなかった。警察は自身の対応を「適切な対応」と言っているが、そのことに反して「適切な対応ではなかった」と言うことだろう。
簡単に言えば、近隣住民の不安が当たり、警察の判断は間違っていたと言うことである。
≪石原伸氏、山崎派入り 政界再編見据える≫(07.12.12.『朝日』朝刊)
<自民党の石原伸晃・前成政調会長は11日、山崎拓元副総裁のパーティーで山崎派に入会する意向を明らかにした。石原氏は記者団に「若いころは若手だけでやればよかったが、私も時間も過ぎた。しっかりしたグループの人たちと一緒に仕事をしていきたい」と強調。無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任した石原氏としても、政界の流動化を見据えて、派閥に所属するメリットを考えたものと見られる。
石原氏の加入により、同派は衆院36人、参院3人の計39人になる。同派は9月の総裁選で対応が分かれ、会長の山崎氏の求心力低下が懸念されていた。
次世代のホープと言われる石原氏を派内に抱えることで、派閥の求心力を高める狙いもある。>
「若いころは若手だけでやればよかった」は、そうすれば若手だけのグループを作ることができて、そのグループの主導的位置に立てたのだろうがという思いを表明したものであろう。そこには集団頼みの意識がある。若手と数を頼んで行動しておけばよかったという後悔が。
この意識は、これまでは如何なるグループ・派閥とは無縁の無派閥だったことと、「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任した」経歴が見せる独立独歩と一見矛盾するようだが、見方によっては矛盾を解くことができる。
「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任」は小泉・安倍の後ろ盾があったからで、両者にとって石原伸晃の必要性は親が芥川賞作家でもある現東京都知事の石原慎太郎であり、叔父がかつての人気俳優だった石原裕次郎だということの毛並みを備えていて名の通りがいいことと一般的な国会議員の年齢と比較した若さにあったのだろう。
小泉・安倍が自らの内閣の新鮮さと派閥依存人事でないこと、適材適所の人材抜擢だといったことの象徴として石原伸晃が持っているそれらをウリにしたと言うことである。内閣支持率底上げの素材として起用した意味合いもあったに違いない。
もし石原伸晃が出自とは無関係にそれなりに見るべき政治的才能と人格を備えた人間なら、「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任」していた間に老若関わらずに人を惹きつけていたろう。行政改革・規制改革担当大臣・国土交通大臣・観光立国担当大臣、党政務調査会長、党幹事長代理等を歴任し、自由民主党東京都連合会会長に就いていてTOKYO自民党政経塾を主宰までしている(Wikipediaから引用)。その政治的才能が優れていたなら、やはり毛並みを裏切らないな、そんじょそこらの議員と違うなと敬服され、自然と人は集まる。当然「若いころは若手だけでやればよかった」という後悔は生まれない。
そうでなかったから、小泉・安倍の後ろ盾を失うと、ポツンと取り残されてしまった。
「これまで1人で政治活動を行ってきたが、国家や安全保障に関することは仲間とともに声を大きくしていかないと実現しない。山崎氏のもとで汗をかきたい」≪石原伸晃氏が山崎派入り≫(日刊スポーツ/07年12月11日20時38分)
「衆参のねじれた政治体制の中で、私も意見を発する足場が欲しい」≪政界:自民・石原伸晃氏、山崎派へ≫(毎日新聞 2007年12月12日 東京朝刊)
いずれの発言も自主独立の方向ではなく、自己を仲間の中に置こうとする集団に同調する方向へ向かわせる内容となっている。当然のこととして、不特定多数の他者が自己に集まるのとは逆の集団力学に自分を絡め取らせることだから,石原個人の主導性を窺うことは決してできない。
1990年の衆議員初当選から今日までの17年間に「無派閥にも関わらず、小泉・安倍の両内閣で閣僚や党の要職を歴任し」てきた実績が主導性の獲得に何ら役に立たなかったことの証明でしかない。
と言うことは、それぞれに歴任してきた職務は官僚や各諮問会議等が決定した政策をなぞっていただけの見せ掛けの主導性だったと言うほかない。結果として行政改革も道路改革も誰がやっても同じという結末で終わっている。
これまでは毛並みと若さで持ってきた。若くもなくなりつつあり、いつかは何らかの能力で裏打ちしなければメッキが剥がれることになる毛並みが「要職歴任」というチャンスを与えられながら、裏打ちできなかったからこそメッキも剥がれて、派閥頼みの活躍に活路を開こうということなのだろう。
つまり誰かの後ろ盾がないまま無派閥でいると埋没してしまいそうな危機感からの後ろ盾を派閥に変更する動きとしての派閥入り、集団頼みなのだろうが、そのことは同時に無派閥を維持するに必要事項となる政治的主導性不在と毛並みと若さの有効性の喪失を物語る。
派閥は偉大なり。「でも、そんなの関係ねえ、オッパッピー」と言える議員がどれだけいるだろうか。
小泉内閣時代以降、自民党の派閥は溶解した、派閥政治は終わった、「自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた」といった主張が流布したが、そういった流布に対して、以前ブログでこんなことを書いた。
「政治家一人一人が自らの考えに従って行動し、例え同じ考えの他の政治家と連携して協同することはあっても、その人間の支配を受けない、あくまでも自己を自律的な立場に置く。いわば自己自身の支配者は自己とすることによって、常に自律的でいられる。そういった姿が本来の姿であって、政治家一人一人がそういう姿形を取ったとき初めて派閥の解体と言えるのではないだろうか。
だが、決してそういう姿は取らない。日本人自らが自らの行動様式としている集団主義・権威主義から免れることはできないだろうから。」
ここで言う「集団主義・権威主義」とは自己自身の能力を頼み、自己自身を権威として自分ならではの主導性を獲得する姿を取るのではなく、派閥(=数)を頼み、派閥(=数)を権威として派閥(=数)の主導性に従う姿を取ることを言う。
14日夜、37歳の男が佐世保のスポーツクラブで猟銃を乱射、呼び出しておいた小中高通じての同級生の男性とクラブインストラクターの26歳の女性を射殺、他6人に負傷を負わせた。犯人は逃亡、信者として通っていた教会で猟銃自殺。
<近所の住民は「昔はきちんとあいさつをする、いい子だった」と話す。しかし5年ほど前に散弾銃や空気銃を保有するようになってからは、自宅の離れにこもりがちになるなど、人を寄せ付けない雰囲気になった。教会にも年に数えるほどしか姿を見せなくなった。
大音量で音楽をかけたり、銃を手に漫然と出歩いたり。迷彩服を着て釣りに出かけたこともあった。奇妙な行動が目撃されるようになり、近所の住民が「あんな人が銃を持っているのは怖い」と警察に相談することもあったという。>(≪所有後に奇行次々 住民「怖い」と相談も≫07.12.15/15:21/東京新聞)
昨夜のNHK夜7時のニュース。
容疑者が弾を買っていた銃砲店主「あまり人が選ばなかった銃をお持ちになった。狩猟家つーか、普通の人のではなく、何かマニアっぽいと思いますけどね」
容疑者が会員となっていた地元の猟友会の理事「日頃ですね、非常に落着いていてですね、そんなふうなことを起こすような、人間じゃあ、全然見受けられなかったんですね」
アナウンサー「しかし近所では容疑者が銃を持っていることが噂になって、危なくて怖いと心配する人もいた」
近所の中年主婦「何でいるんですか、猟銃なんか。いらないと思いますよ、猟銃なんかは。猟もしないのに」
近所の中高年男性「銃を持っているから、ね、何であんな人に銃を持たせるかって言ってやかましく言ったんですよ。そしたら、そんなこといちいち言う筋合いはないってことを言って警察が逆に私に食ってかかったんです」
そう、警察が「厳正な審査のもと適切に(長崎県警察本部の記者会見での発言をアナウンサーが要約した言葉「手続きは厳正な審査のもと適切にやった。法を満たしていれば、許すしかない」と述べました。)処理し許可した案件を部外者がいちいち言う筋合いはない。黙れ、黙れ、引き下がらっしゃい」というわけである。
警察のこの対応には上は下を従わせ下は上に従う権威主義的意識構造に於ける上に立つ者の下の者に対する権威のひけらかしがある。
いわば警察は民間人に対して自分を上に置いていた。上に置いているからこそ可能とした問答無用なのである。対等の位置か下の位置に置いていたなら、耳を傾けたはずである。今夏の安倍自民党の参院選大敗北が自分たちを国民の上に置いて国民の目線に立たなかったからで、目線に立たない親切さの喪失が国民の要望無視につながったのであり、そのしっぺ返しが選挙結果となって現れた。
今回の警察の対応も同じ構造をなす。「そんなこといちいち言う筋合いはないってことを言って警察が逆に私に食ってかかったんです」は親切さの喪失そのものの現れであろう。そしてそれは警察を上に置いていたからこそできた住民の要望無視の態度なのは断るまでもない。そのしっぺ返しが警察(公安委員会)が許可した散弾銃での犯罪ということなのだろう。
警察が管轄住民に上に立つ態度を取るのは自身が権威主義的行動性に絡め取られているからである。自らを上に立たせて下を従わせようとする態度は自らが下の位置に立つ場合は権威主義的行動性に従って上の立場にある者に言いなりに従う態度を取る。
その顕著な一例が1995(平成7)3月30日に当時の国松警察庁長官狙撃事件を挙げることができる。警視庁が山梨県・上九一色村のオウム真理教施設を強制捜査した直後の狙撃事件だったことからオウム信徒の犯行を疑い、翌96年5月オウム信徒の警視庁巡査長を容疑者として取調べ犯行供述を受けたが矛盾点が多くて立件し切れず、迷宮入りに至っている。
警察長官の銃撃、一時危篤状態となる世間騒然の事態を受けて警察庁は都道府県警察本部長会議を開いて短銃の摘発を指示した。都道府県警察本部長は各自治体に戻り各都市の警察署長を集めて警察署長会議を開き、上から指示された徹底的な銃の摘発を命じた。署長は勤務署に戻り、短銃摘発に特化した指示を下の者に伝える。
それ以降集中した同じ1995年の群馬県警前橋署(7月)・愛媛県警・長崎県警の短銃押収工作事件、さらに翌1996年の警視庁蔵前暑・警視庁城東暑の短銃押収工作事件は各都道府県本部長が警察庁の、各都市の警察署長が各都道府県本部長の、各署員が各署長の上の者の拳銃摘発指示を各段階段階で下の者であるそれぞれが権威主義的従属性から絶対と受け止める場所に自分を追い込んだために起きた、最も下の者に強くかかることになる圧力性の最終成果であろう。
警察組織が上から下まで権威主義性に絡め取られている姿となっていることを物語る一例である。上が成果を求め、下がその指示に応えて成果を上げようとしたとき権威主義的力学が生じる。権威主義性を行動様式としている組織では最も下の者に最も強い権威主義の圧力がかかる。
下の者のそのような圧力は外部の下の者に向かうことでカタルシスを得る。それが「そんなこといちいち言う筋合いはないってことを言って警察が逆に私に食ってかかった」態度となって現れた。
警察は社会の治安と市民の生命の安全を守る危機管理の役目を担う。しかし乱射事件を受けた警察の記者会見は「手続きは厳正な審査のもと適切にやった。法を満たしていれば、許すしかない」のみで自らの役目を完結させている。許可した銃が適正に使用されているかどうか審査することも社会の治安と市民の生命の安全を守る危機管理の役目に添わせなければならない必要不可欠事項であろう。3年ごとに銃所持の更新手続きを必要とするだけでは済むまい。
警察が権威主義的に市民の上に立つ姿勢を維持する間は社会の治安と市民の生命の安全を守るという適正な危機管理は期待できない。そのことは各地での警察の不適切対応によって市民の生命が失われたり、脅かされたりしている事件が証拠立てている。
昨日の朝日新聞夕刊にも出ていたが、宇都宮での散弾銃で主婦が二人殺害された事件もその一つである。参考までにasahi.com記事から。
≪県警の銃許可は違法、銃撃予見できた 宇都宮地裁≫(07年05月24日12時51分)
<宇都宮市で02年7月、主婦2人を猟銃で殺傷し自殺した男(当時62)に銃所持を許可したのは違法だとして、遺族らが当時の栃木県公安委員長と宇都宮南署員2人、県を相手に総額7700万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が24日、宇都宮地裁であった。福島節男裁判長は、「銃所持の許可審査で事実誤認があり、許可がなければ主婦が死に至ることはなかった」として県警の責任を全面的に認め、県に4700万円の賠償を命じた。公安委員長と署員2人への請求は退けた。
銃刀法は「他人の生命や公共の安全などを害するおそれがあると認めるに足りる相当な理由がある者」に対して銃所持の許可を出すことを禁じている。訴訟では、男に所持を認めた場合の危険性についての「予見可能性」が争点になった。
判決によると、殺害された田中公子さん(当時60)と男は隣家同士で、事件の約20年前からトラブル関係にあった。02年4月に男が銃許可を申請したのを受け、
身辺調査に当たった当時の宇都宮南署地域課員は「許可には熟慮を要する」と報告。
この報告や田中さんの同署などへの度重なる申し立てから、銃許可担当の同署生活安全課はトラブルを認識していたが、近隣の家や田中さん方の聞き取りすらしないなど調査が不十分なまま同年6月、銃所持を認めた。
判決は、男が銃を田中さんへの加害目的に使うために申請をしたと認定。これに対して、県警は男に加害意思はなく、温和な性格だと誤認。「身元調査した警察官が熟慮を要するとの意見をつけたにもかかわらず、特段の調査をせず、通常行うべき身元調査も不十分だった」として、銃所持を許可する要件は満たされていなかったと断じた。
その上で、県警は「主婦や近隣住民に対して猟銃による攻撃が行われる恐れがあることは予見し得た」と指摘し、銃が許可されなければ2人が殺傷されることはなかったと認定。「殺傷目的に作られた凶器の銃の所持許可に際して、警察に幅広い裁量が認められている。今回の許可は社会通念に照らして著しく妥当性を欠き、違法と過失の程度は相当大きい」とし、銃所持許可と、死亡や負傷との間に因果関係を認めた。
原告側は、予見可能性について「判断は慎重であってもありすぎることはない」と指摘。その上で、10年余の担当歴があった同課の当時の実務担当者にとってすら「熟慮を要する」といった慎重な意見は初めてだったにもかかわらず、組織として詳しい調査をしなかったことを批判していた。
これに対し被告側は「近所の住民らは2人のトラブルに巻き込まれるのを嫌っていた。聞き込みをしても、把握していなかった重要な情報がもたらされなかったのは明らか」と反論。トラブルは「いささか度の過ぎた隣同士のいさかいだった」と主張した。>