「生活の党と山本太郎となかまたち」
《9月26日(土)山本太郎代表がテレビ東京の『田勢康弘の週刊ニュース新書』出演》
番組名:テレビ東京『田勢康弘の週刊ニュース新書』
テーマ:『ひとり牛歩…山本太郎がホンネ激白!!』
日 時:平成27年9月26日(土)午前11:30~12:05
(BSジャパン:午後1時30分~2時5分)
工事費の見積もり上の高騰化とこのことを受けた屋根を取るだ、取らないだといったデザイン、その他で二転、三転と迷走し、挙句の果てに整備計画を白紙に戻し、ゼロベースで見直すことになった新国立競技場の迷走問題を検証した《新国立競技場整備計画経緯検証委員会検証報告書》が9月24日公表された。
責任を問われた文科相の下村博文は辞意を表明、安倍晋三に辞任を申し入れたが、まもなく行われる内閣改造までの留任を指示、これを以て「事実上の更迭」だとか、「引責交代」だと伝えているマスコミもあるが、果たして正当な責任の取り方と言えるのだろうか。
報告書から、下村博文やJSCに関する責任に触れた個所を、必要に応じて注釈をつけて取り上げてみる。
〈日本スポーツ振興センター(JSC)は、文部科学省が所管している独立行政法人で、国立霞ヶ丘競技場(以下、国立競技場)の運営等を行っている。本プロジェクト(新国立競技場の建設)の推進主体であった。〉
〈主務大臣(ここでは下村文科相)は、独立行政法人の理事長を任命する。〉
当然、下村博文は同じく責任を問われた河野一郎JSC理事長に対する任命責任を有することになる。
〈独立行政法人(ここではJSC)は中期目標・中期計画の達成に必要となる予算を主務省(ここでは文科省)に要求し、主務省は財務省との調整を経て独立行政法人に予算を支出する。〉
要するに事業計画立案とその遂行とこれらに必要な予算決定の、情報共有と相互連携を内容とした責任体制に触れている。
と言うことは、責任体制が確立されていなかったことになる。
このこと一つを取っても、主務省文科省のトップである下村博文の責任をは免れることはできない。
ブエノスアイレスIOC総会が2020年東京オリンピック・パラリンピック開催決定の2013年年9月7日から約1カ月後の〈2013年10 月19 日には、毎日新聞が新国立競技場の工事費が最大で3,000 億円になると報道し、その後の23 日には、下村文部科学大臣が国会で、このことについての事実を確認されたため、「最優秀作品となったザハ・ハディッド氏(原文まま)のデザイン、それをそのまま忠実に実現する形での経費試算は約3000億円に達するものでございまして、これは余りにも膨大な予算が掛かり過ぎるということで、率直に申し上げまして、もう縮小する方向で検討する必要があると考えております。デザインそのものは生かす、それから競技場の規模はIOC基準に合わせますが、周辺については縮小する方向で考えたいと思います。」と答弁した。
なお、ヒアリング対象者からは、この報道を受けた国会での審議が行われるまでは、下村文部科学大臣に対して、工事費が最大で3,000 億円になるという情報は、報告されていないことを聴取した。〉
文科省とJSCの間に予算を含めた新国立競技場建設に関わる情報共有と相互連携が満足に行われていなかった。当然、このことに関しては一人JSCに負わせるのではなく、相互責任となる。
〈文部科学省は、JSCの主務省である。文部科学省は、本プロジェクトに関して、主として予算・コストの側面に関する協議等(財務省との調整を含む。)及びJSCに対する技術者の派遣等の人材面の支援(国土交通省との調整を含む。)を行った。〉
「技術者の派遣等の人材面の支援」が適切な選定であったかどうかが問われることになる。
〈本プロジェクトは、タイトなスケジュール、高度な技術を要するデザイン、都心における建設工事等、熟達したプロジェクト・マネジメントが求められるものであったが、JSCにはこれだけの複雑な建設プロジェクトをマネージできるだけの経験を持った者(プロジェクト・マネージャー)はいなかった。JSCは文部科学省に対して人的支援の要請を行い、その結果、文教施設企画部から施設整備に関する知識と経験を有する技術系職員が派遣された。
しかし、もともと文教施設企画部においても、プロジェクト・マネージャーとしてこれだけの国家的プロジェクトをマネージできるだけの経験を持った者はおらず、早期から建設専門家の充実や国土交通省との十分な連携を行うこともなかった。
さらに、民間におけるプロジェクトでは、プロジェクト終了まで同じプロジェクト・マネージャーが担当するのが常識であるが、本プロジェクトにおいては、担当理事も含め、担当者が通常の人事ローテーションで異動していた。また、外部有識者等による様々な会議・委員会等が設置され、重要な意思決定に関して、それらの委員会等の判断を仰ぐ形式をとったことと相まって、権限と責任が曖昧になり、さらには当事者意識が欠如していた。
理事長は、組織の長として、文部科学省に人的支援の要請を行ったという事実はあるが、結果として、国家的プロジェクトに求められる組織体制を整備することはできなかった。〉
人材派遣に関わる適格・優秀な人材不足と言うよりも、そのような人材を選定して派遣するという組織としての体制が不備な状態にあったために適切な対応を文科省は取ることができなかったということであろう。
また、新国立競技場竣工までの人事ローテンションではなく、通常の人事ローテーションでの異動の形を取っていたために権限と責任が曖昧になり、さらには当事者意識が欠如することになった。
最初から最後まで典型的な役人の姿を取っていたと言うことなのだろうが、下村博文に工事費が最大で3000 億円になるという情報が報告されていなかったことと併せて、下村博文自身が事業が適切に進捗しているかどうかの監督を怠っていたと言うこともできる。
〈ヒアリング対象者からは、「ナショナルプロジェクトであるからには、新国立競技場を利活用する裁量権を持っている方には、有識者会議に入っていただいてご意見を頂戴した。」(プロジェクトの意思決定に関しては)「有識者会議の御意見を頂戴し、最終決定するのはJSCだが、独立行政法人の性格上、文部科学省の了解を得ずに決定ということは基本的には無かった。」旨の発言が聴取された。〉
プロジェクトの意思決定は文部科学省の了解を得なければ、JSCは最終決定することができなかった。
にも関わらず、文科省とJSCとの間に情報共有と相互連携が満足に機能せず、しかも文科省はJSCに対する監督を怠っていた。
権限と責任体制の曖昧性、当事者意識の欠如のみが浮き上がる。
〈JSCの設置本部長には、重要事項についての実質的決定権限がなく、文部科学省や有識者会議が頭に並ぶトップ・ヘビーの体制で実質的な意思決定が行われていたことが問題視される。特に、有識者会議のメンバーはそれぞれの分野の実力者であったが、建設工事の専門家と言える者は一人の建築家以外は含まれていなかった。また同会議の位置づけは、JSC理事長の諮問機関であったが、事実上、重要事項について報告した上で了解を得ており、意思決定の承認機関となっていたことから、JSCの意思決定が遅れ、多くの対策が後手に回った感がある。
また、工事費の決定のプロセスこそ、集団的意思決定システムの典型であった。本章2.(1)で指摘しているとおり、本プロジェクトの予算の上限額は、文部科学省・JSCの関係者間の曖昧な了解で推移し、平成25 年8月に設計JVが設計を始めてまもなくザハ・ハディド案で関係団体の要望をすべて取り入れた場合、工事費が3,000 億円を超えることがJSCから文部科学省に報告された際も、「いくらまで縮減せよ」という明確な上限の指示がなされた訳ではなかった。さらに設計JVが作成した試算の1,625 億円と、実際の施工を行う技術協力者・施工予定者の見積もり金額とが大きく乖離するようになった場合どう対処するかというシミュレーションも行われていなかった。
本プロジェクトの意思決定がトップ・ヘビーで、機動性がなかったことは、逆に一旦有識者会議で決定されてしまうと、JSCが後日それを変更することは著しく困難となるという意思決定の硬直性を招いたと言えるであろう。〉
「トップ・ヘビー」とはネットで調べてみると、「船の復原性、 トップヘビー:重心が上昇し、船を起す力が小さくなること。復原力が小さくなった状態を言う」とある。
要するに有識者会議の議論に対抗できる議論の持ち主も責任もJSCには存在しないためにJSCが最終決定権を持つが、有識者会議の議論を後追いする形の、あるいは単に鵜呑みにし、追従する形の決定しかできず、その決定も文科省の決定で最終的に決まるというトップ・ヘビーな体制にあったために意思決定と対策の遅滞を招いた。
JSCと文科省それぞれと両者間の相互的な連携と体制の全てに亘って満足に機能させるだけの構造を構築できていなかった。
体制不備の指摘は続く。JSCに関して。
〈ECI方式(技術協力者・施工予定者の早期設計参加(技術提案競争・交渉方式、いわゆるECI方式: Early Contractor Involvement))の採用には発注者(JSC)側に建築プロジェクトを整合的にマネジメントする体制があることが前提であり、その専門家がいない場合は発注者チームを支援する主体を採用することが必要である。本プロジェクトにあてはめた場合、JSC側に必ずしも整備されたマネジメントチームはなかったが、発注者支援者(ジョイントベンチャーである「山下設計/山下ピーエム・コンサルタンツ/建設技術研究所共同体」)にそのような権限が委譲されているわけでもなかった。〉
〈JSCには、設置本部という本プロジェクトを担当する部署は置かれていた。しかし、担当理事と設置本部長の権限関係は曖昧で、誰がプロジェクト・マネージャーであるかが不明確であった。また、後述の独立行政法人制度に起因する面も一部あるが、プロジェクトの完遂に不可欠な全権が担当理事ないし設置本部長に委任されていなかった。〉
文科省に関して。
〈文部科学省では、JSCを所管するスポーツ・青少年局が予算の協議を担当し、文教施設企画部が施設整備に関する技術的支援を担当するという役割分担となっていた。しかし、スポーツ・青少年局は予算のみを担当し、施設整備に関することは文教施設企画部が責任を負っていると認識していた一方で、文教施設企画部はJSCを所管するスポーツ・青少年局がプロジェクト全体の責任を負っていると認識していたなど、適切な組織体制が構築されていたとは言い難い状況であった。〉
〈経費の削減については、平成25 年8月より、事務次官の下にスポーツ・青少年局、文教施設企画部及びJSCの関係者が集まり、組織的に検討することになったが、専門的・技術的な見地から、関係者がプロジェクトの優先順位を組織として共有していくことができるともっと良かった、という趣旨の発言が前スポーツ・青少年局長よりあった。
また、事務方の最上位である事務次官までは随時相談がなされていた。しかし、工事費が1,300 億円を大幅に上回って規模の見直し等が必要になるとの情報は、平成25年10月の新聞報道の時点以前には、文部科学大臣に報告されていなかった。同年末に工事費について1,625 億円で関係者が合意して以降は、平成27 年4月時点まで、物価上昇・消費税増税で説明のつかない工事費の大幅超過や竣工時期の遅れは報告されていない。すなわち、省全体を統括する文部科学大臣には、定期的にプロジェクトの進捗の報告・相談がなされるようにはなっておらず、解体工事入札の不調等の問題が生じた際に、その顛末の報告だけがなされるという対応となっていた。このことが、結果として、技術協力者・施工予定者より、工期がラグビーワールドカップに間に合わないおそれがあるとの情報がもたらされた際に、文部科学大臣への報告・相談が遅くなった遠因となった可能性がある。
なお、この点に関し、設計JVと技術協力者・施工予定者の見積もりの乖離について、きちんと検討していけばそれなりの予算に収まるので、自分に相談・報告する案件ではないと考えていたのではないか、という趣旨の発言が文部科学大臣よりあった。
文部科学大臣は組織の長として、また、事務次官は事務方の最上位として、上記のような問題が生じることのないように、文部科学省全体を運営・管理する責任があるが、計画に沿ってプロジェクトが推進されているかを常に注意深く見守り、通常の業務の処理というレベルを超えて組織内の調整を図って報告・相談が密に行われる仕組みづくりや風土の醸成(プロジェクト文化)が十分ではなかった。〉
ここで明確に下村博文の監督責任・管理責任を指摘している。文部科学省全体に対する運営・管理する責任とは文部科学省全体を通した自らが所管するJSCに対する監督責任・管理責任でもあり、JSC側から下村博文に報告していることもあったのだから、直接的な監督責任・管理責任もあったはずだ。
以上のこと以外にも文部科学省とJSCの連携体制不備やその他を取り上げているが、最後にもう一つ取り上げる。
〈本来のプロジェクト・マネージャーは、与えられた予算と工期の中で、全権をもって工事に関する一切の事項について決定権を持ち、決断をする者であるが、本プロジェクトで、本来プロジェクト・マネージャーの地位にあると思われる設置本部長(文部科学省とJSCとの間で定期的な情報交換を行う連絡協議会の下の技術支援連絡会内のJSC側の役職)は、文部科学省、財務省、有識者会議等の意思決定のヒエラルキーの最も下に位置しており、通常のプロジェクト・マネジメントの意思決定のヒエラルキーとは全く逆の構造となっていた。工事費や工期等の重要事項に関する設置本部長の実質的決定権は、全くなかったと言ってよい。〉
権限を持つべき者に権限を与えずに、では自分たちがその権限を十全に発揮したかというと、そうではなく、〈すべての重要な決定は、文部科学省、財務省、JSC及び有識者会議のなかで、「止むを得ない」という「空気」を醸成することで行われていた。〉と、他人任せ、リーダー不在、責任回避の馴れ合い状況を呈していた。
安倍晋三は2013年9月7日のアルゼンチン首都ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催が決定されたあとのプレゼンテーションで演説している。
安倍晋三「ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります」
ザハ・ハディド女史デザインの新国立競技場を頭に置いて、世界に向けてこのように宣言し、そのデザインで建設を進めるべく、予算に適う建設費の設定に掛かったが、3000億円という巨額な建設費が見積もられたりして、迷走することになった。その原因がプロジェクト・マネジメント不足の体制が招くことになった他人任せ、リーダー不在、責任回避の馴れ合いにあるとするなら、JSCトップの河野一郎の責任も重いが、それ以上に文科省トップの下村博文の責任は重い。
例え引責交代であったとしても、内閣改造の時期まで文部科学省の大臣として在籍して別の政治家に大臣を引き継ぐことと直ちに辞任するのとでは、責任のとり方の明確さ、重さの点で遥かに異なる。
それを6カ月分の給与と賞与の自主返納で済ませようとしている。
当然、下村博文を文科相に起用した安倍晋三の任命責任をも問わなければならないことになる。
だが、内閣改造時の交代ということなら、下村博文の責任を明確化することを回避させることになるばかりか、安倍晋三の任命責任まで回避させ、曖昧にすることになる。
こんな不条理を許していいものだろうか。