米国初の黒人大統領オバマと外国人参政権問題

2010-01-31 08:37:47 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。

 鳩山首相が首相官邸で記者団の質問に答えて、今国会に政府案として提出する方針の永住外国人への地方選挙権付与法案について、法案提出を見送ることもあり得るとの考えを示したと、1月29日の「asahi.com」記事――《外国人選挙権法案、提出見送りも 首相が表明》で伝えている。

 「連立政権だから連立与党でまとまることが最低限必要だ。今は国民新党が強く反対しているので、簡単な話ではない」

 鳩山政権は11日の政府・民主党首脳会議で同法案を今国会に提出することで合意していたが、国民新党の亀井静香代表が一貫して反対しているほか、民主党内にも根強い慎重論があること、国民新党幹部が27日、反対の考えは変わらないとし、「法案なんて元々出せるわけがない」と述べていたというから、その反対意志の強さにたじろいだといったところか。

 1月16、17日に朝日新聞が実施した電話全国世論調査によると、〈外国人参政権に賛成60%、反対29%〉で、賛成が反対の2倍にも達している。(《外国人参政権に賛成60%、反対29% 朝日世論調査》asahi.com/2010年1月19日0時3分)

 但し、賛成意思を引っ張っているのは民主党支持層と内閣支持層で、民主党支持層が賛成―70%、反対―23%。内閣支持層が賛成―70%、反対―23%。

 賛成に棹差して反対意思方向へ引き戻そうとしているのが自民党支持層ではあるが、賛成―45%、反対―45%のタイスコアを獲得するのが精一杯で、反対意見が優勢を占めている自民党自体の意識と〈支持者の意識とは必ずしも一致していないようだ。〉と解説している。

 このことに加味して、〈30、40代で賛成が7割台なのに対し、60代では54%、70歳以上では37%にとどまる。〉としている世代別意識からすると、反対意見の代表者に保守層が主として鎮座していることが分かる。

 この反対保守層に国民新党も同類とすることができる。

 《外国人参政権 首都圏の知事、相次ぎ「反対」》msn産経/2010.1.27 08:56)が、石原慎太郎東京都知事、上田清司埼玉県知事、松沢成文神奈川県知事、森田健作千葉県知事の名前を挙げて、首都圏の知事が総じて反対や疑義を表明していると伝えている。

 森田千葉県知事「国籍を持って投票すべきだというのが私の考えだ」

 松沢神奈川県知事「国民の主権をいじる問題で一方的に国会で決めていいのか」

 上田埼玉県知事「ナーバスな問題。国家の基本の話は1回の国会の多数決で片づける話ではない。・・・・基地問題など外交、安全にかかわる話が市長選のテーマになることもある。国の運命を左右する話には、日本国籍を持った人が投票すべきだ」

 石原都知事の反対の言葉は、《【石原知事会見詳報(1)】外国人参政権「危ない試み。発想おかしい」》msn産経/2010.1.15 23:24)に詳しく載っている。

 石原都知事「絶対反対。地方の時代ということは地方によって国全体が動くことがあるんですね。例えばね、六ケ所村の再処理の問題なんかもね。とにかく、地方の政治そのものは国家の政治につながる時代に地方だからいいだのね、国政はいかんというのはおかしな話でね、日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら。ですから、国籍を取りやすいシステムをつくったらよろしいんでね。私は前から新しい移民政策するべきだって言ってますけど。まして、いろいろ歴史のいきさつがあってもですね、日本に永住してらっしゃる方々は何も韓国の人に限らず、そういった方々がですね、望むならね、国籍を変えたらいい。ま、国籍を変えたくないという理由もあるでしょう。しからばですね、外国人のままでいてもらいたい」

 石原都知事「永住しているからといって、地方に限って参政権与えるっていうのは、これはもう、何ていうのかな、時間的、空間的に日本そのものが狭くなってるときに、まして地方主権ということを言われているときに、それが国籍を持たない人たちの意向で国そのものが左右されかねない。そういう、私は、その発想そのものがおかしいと思いますな。これから先どんな問題が出てくるか分かりませんけど、そういう人たちが束になって民族移動のような形で、案件によって、何というのかな、投票を起こしたら、例えば千代田区のような1人区なんかっていうのは人口が極めて少ないのに、あそこで、どんな問題がこれから起こるか知りませんが、そういうものを想定するとですね、私はとてもね、危ない試みだと思いますね」

 森田千葉県知事、石原東京都知事は元自民党保守派の人間である。上田清司埼玉県知事は、〈「初立候補のときから、新自由クラブ、自由連合、新生党、新進党、フロムファイブ、民政党、民主党と政界再編に伴い所属政党を変わったが、政策信条的には一貫して保守系である。〉(Wikipedia)という。

 松沢成文神奈川県知事は民主党に所属していたが、〈2007年の神奈川県知事選挙では自民党県連推薦の杉野正候補を破り再選。 ちなみに同時に行われた東京都知事選では現職である石原の支持を表明し、これに対して石原も松沢への応援に駆けつけている。〉(Wikipedia)ということからすると、民主党保守派に所属していると見ていいだろうから、各県知事共に保守派の立場からの反対ということではないだろうか。

 最初の「msn産経」には首都圏の知事ばかりか、都道府県議会でも反対の動きは広がっていることを伝えている。

 先ず全国都道府県議会議長会が1月21日、〈「民主主義の根幹にかかわる問題で、拙速に法案提出や審議されるべき案件ではない」とする特別決議を採択〉したと言う。

 そして、〈かつて都道府県議会では34、市町村では1200を超える議会が、参政権付与に賛成する立場から意見書や決議を採択したが、鳩山政権発足後、参政権付与が現実味を増すにつれて危機感が拡大〉、〈これまで賛成していた茨城や千葉、石川、富山、島根、佐賀、長崎、大分の8県が昨年の政権発足後に反対決議に転じ〉、そのほかに熊本、香川、埼玉、大分、秋田、新潟、、山形の各県の名前を挙げて反対の決議や意見書を採択したとしている。

 〈参政権付与が現実味を増すにつれて危機感が拡大〉、賛成から反対に転じたとすると、最初の賛成は永住外国人に理解がある、進歩的で物分りがいい地方政治家であるところを見せるための、ホンネを隠したポーズだったことになる。この無節操を何ら恥じることなく賛成から反対に平然と転じることができる神経はなかなかのものである。

 首都圏の知事の反対の根拠として第一番に国籍を有していないことを挙げている。松沢神奈川県知事にしても、「国民の主権をいじる問題」だと言っているから、国籍の有無を問題としている。そして、国籍を変えることを勧めている。

 国籍を変えることが地方政治に参加する条件だと。国籍を獲得したら、当然国政にも参加できる権利を有することになる。

 日本国籍を有しなければなぜ悪いのかと言うと、石原都知事の言葉で代表させると、「国籍を持たない人たちの意向で国そのものが左右されかねない」ことの懸念を挙げている。

 石原は、「そういう人たちが束になって民族移動のような形で、案件によって、何というのかな、投票を起こしたら」と言っているが、現在でもそういった手を使っているかどうか分からないが、かつて創価学会が市議会選挙レベルで公明党候補者を当選させるために他市町村に住む創価学会員の住民票を前以て大量に移動させて投票に参加させるといったことをしていたということだが、そういったことを言っているのだろう。

 この方法は日本国籍を取ったとしても可能である。創価学会員が全部が全部日本国籍を有していないとすることはできないだろうから、創価学会員もできたこととなって、国籍の有無は条件とはならない投票行動となる。

 2009年1月のアメリカ大統領選挙民主党予備選ではヒスパニック系の多くがヒラリー候補を応援、しかしヒラリーがオバマに敗れると、ヒラリーを支持したヒスパニック系は共和党候補のマケインに投票すると言う者が出たが、結果的に多くのヒスパニック系がオバマ支持に流れている。勿論、黒人の大多数はオバマに投票したと言われている。

 例えアメリカ国籍を有していても、民族的な集団意識で統一的な投票行動を起こすケースがあることからすると、石原が言っていることは、やはり国籍の有無は無関係な投票行動となる。

 また民族レベルでなくても、宗教や企業、あるいは職業団体、労働団体、さらに何らかの活動団体が推す候補に対して各組織が集団的に統一的な投票行動に出るケースは当たり前の風景となっている。当然、特定の組織の「意向で国そのものが左右され」ることもあり得る話となるが、だからと言って、利害関係を異にする組織、あるいは国民が異を唱えることはできないはずである。

 「民族移動のような形」の統一した投票行動が懸念されると言うなら、実際の投票は選挙権以外に市町村の選挙管理委員会が管理する選挙人名簿に登録されていることを要件としていて、登録はその住民票が作られた日(他の市町村からの転入者は転入届出をした日)から引き続き3ヶ月以上、その市町村の住民基本台帳に記録されていることとしているということだから、投票日から3ヶ月以前近くに転入した住民の生活実態を調べれば、分かることではないだろうか。

 コストがかかるということなら、違反者から多額の罰金を徴収できるように法律を変えれば問題は解決する。

 上田埼玉県知事が「国の運命を左右する話には、日本国籍を持った人が投票すべきだ」と、石原都知事の「地方の時代ということは地方によって国全体が動くことがある」の言葉に相当することを言っているが、「日本国籍を持った人」が常に正しい判断を下す保証はない。戦前の政府・軍部の判断は日本国籍を有していながら、悪い方向に「国の運命を左右」した。

 いわば「日本国籍」は正しい判断の根拠とは必ずしもなり得ない。

 それを正しい判断をするという文脈で、「日本国籍を持った人が投票すべきだ」としているのは、日本国籍に何か優越的なおまじないがあるとしているからだろう。この意識は日本民族優越意識につながる。

 どの国も利害を異にする集団を抱えていて、異なる利害の数だけそれぞれが正しいとする判断が存在するだろうから、物事は多数決で決するしかない。民主主義が考え出された所以であろう。

 2009年のアメリカ大統領選でそれぞれの民族・人種が自らの帰属意識に従って集団的に統一的な投票行動を起こすのみであったなら、米国内の黒人人種比率が12.9%(2005年「Wikipedia」)ということからしたら、オバマの当選はなかったに違いない。それぞれの民族・人種が自らの集団に特有としている利害を超えて、黒人候補のオバマに投票する判断を下し、アメリカ合衆国初の黒人大統領をアメリカ史に登場させた。

 国籍を取ったとしても、自らの人種・民族への帰属意識に従った集団的に統一的な投票行動を起こすことも可能ということなら、またそういった投票行動を法律で禁止することはできないのだから、いわば国籍を持っていない者が「国政を左右する」、「地方によって国全体が動くことがある」のは反対だとするのは理由にはならないということになって、国籍を取らないままに永住外国人がそれぞれの民族・人種に従った集団意識を持ったとしても、その集団に特有の利害の一つと把えて、民主主主義のルールに則って異なる利害との多数決による調整に委ねるべきが最善の道ではないだろうか。

 どうも石原都知事や他の知事の反対がその理由として投票行動の根拠とはならない国籍を掲げているところを見ると、単に外国人に対する忌避意識が参政権付与の反対につながっているように見える。

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鳩山総理大臣所信表明演説(1)

2010-01-30 16:00:33 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――


 鳩山総理大臣所信表明演説(1)

 各項目ごとに纏めてみた。「 一 はじめに」で、

 「いのちを、守りたい。

 いのちを守りたいと、願うのです。

 生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。
 
 若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。」と言い、続けて――

 「働くいのちを守りたい」をテーマとして、雇用の確保と求職活動中の失業者が「いついかなるときでも人間を孤立させない、人との接点を失わさない、共同体の一員として活動していける社会、経済活動はもとより、文化、スポーツ、ボランティア活動などを通じて、すべての人が社会との接点を持つ、そんな居場所と出番のある新しい共同体のあり方」を提起している。

 次に「世界のいのちを守りたい」をテーマとして、「生まれくる子どもたちが成人になったとき、核の脅威が歴史の教科書の中で過去の教訓と化している、そんな未来をつくりたいと願います」という言い回しで、核廃絶の未来を提起している。

 さらに国際社会の責任として、「世界中の子どもたちが飢餓や感染症、紛争や地雷によっていのちを奪われることのない社会」、「誰もが衛生的な水を飲むことができ、差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らし」の保障の提起。

 「今回のハイチ地震のような被害の拡大を国際的な協力で最小限に食い止め、新たな感染症の大流行を可能な限り抑え込むため、いのちを守るネットワークのアジア、そして世界全体」への構築の提起。

 このような思いがハイチ地震発生と同時の即座な医療支援チームの派遣となったのだろう。

 次に「地球のいのちを守りたい」をテーマとして、人間活動に於ける「現代の産業活動や生活スタイルは、豊かさをもたらす一方で」、この地球が資源の浪費、地球環境の破壊、生態系の激変、生物種の多くの絶滅等によって、「確実に、人類が現在のような文明生活をおくることができる『残り時間』を短くしている」。「今を生きる私たちの未来への責任として」、「私たちの叡智を総動員し、地球というシステムと調和した『人間圏』はいかにあるべきか、具体策を講じていく」と提起している。

 「このような思いから、平成22年度予算を『いのちを守る予算」と名付け、これを日本の新しいあり方への第一歩として、国会議員の皆さん、そして、すべての国民の皆さまに提示し、活発なご議論をいただきたい」と提起している。

 次に「二 目指すべき日本のあり方」に移る。

 昨年末、インドを訪問して訪れたマハトマ・ガンジー師の慰霊碑に80数年前に刻まれたという「七つの社会的大罪」、「理念なき政治」、「労働なき富」、「良心なき快楽」、「人格なき教育」、「道徳なき商業」、「人間性なき科学」、「犠牲なき宗教」を取り上げる。

 「今の日本と世界が抱える諸問題を、鋭く言い当てているのではないでしょうか」と言い、「二十世紀の物質的な豊かさを支えてきた経済が、本当の意味で人を豊かにし、幸せをもたらしてきたのか」と言って、本人も資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた「道徳なき商業」、「労働なき富」を、どのように制御していくべきなのかと提起しているのだから、「七つの社会的大罪」の克服こそが「本当の意味で人を豊かにし、幸せをもたらし」、「いのちを守る」人間社会をつくる契機として、そういった国の形を取って日本は歩んでいくべきだと提起しているのだろう。

 次に「人間のための経済」を提起している。

 こう言っている。「経済のグローバル化や情報通信の高度化とともに、私たちの生活は日々便利になり、物質的には驚くほど豊かになりました。一方、一昨年の金融危機で直面したように、私たちが自らつくり出した経済システムを制御できない事態が発生しています」――

 だが、物質的豊かさが恩恵として世界のすべての人間にもたらされているわけではないこと、そのことの影響から、周囲の物質的な豊かさに反して逆にそれを手に入れることができないために物質的な豊かさへの欲求から基本の生活が苦しめられている人間の存在、いわば貧富の格差が存在することをここで取り上げるべきを、取り上げていない。

 但し、言っていることは素晴らしい。「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です」云々。

 そして続けて言う。「かつて、日本の企業風土には、社会への貢献を重視する伝統が色濃くありました。働く人々、得意先や取引先、地域との長期的な信頼関係に支えられ、百年以上の歴史を誇る『長寿企業』が約2万社を数えるのは、日本の企業が社会の中の『共同体』として確固たる地位を占めてきたことの証しです。今こそ、国際競争を生き抜きつつも、社会的存在として地域社会にも貢献する日本型企業モデルを提案していかなければなりません。ガンジー師の言葉を借りれば、『商業の道徳』を育み、『労働をともなう富』を取り戻すための挑戦です」――

 客観的認識能力を欠いたたわいもないことを言っている。「かつて、日本の企業風土には、社会への貢献を重視する伝統が色濃くありました」は日本に一度も飢餓も餓死も貧困も経済格差も存在しないと言っていることと同じである。江戸時代に引き続いて、明治、大正、昭和、戦後昭和初期にも貧しい地方では娘を身売りに出し、生まれてくる子どもを飯を食わせることができないからと間引きする風習を残していた。地方が貧しかったからこそ、大人の出稼ぎ、金の卵と称する集団就職列車が成り立つこととなった。

 基本の客観的認識能力を欠いていたなら、言っていることの素晴らしさは単なる言葉の素晴らしさで終わる。間違った認識の上には間違った問題解決の道しか見い出すことができないからだ。

 大体が「かつて、日本の企業風土には、社会への貢献を重視する伝統が色濃くありました」なら、ガンジーの「七つの社会的大罪」を取り上げる必要はない。取り上げたこと自体が日本の企業風土に対する侮辱に相当する矛盾行為となる。

 企業利益を優先し、ときには結果的に社会貢献しただけのことだろう。

 次に 「『新しい公共』によって支えられる日本」を提起している。

 「人の幸福や地域の豊かさは、企業による社会的な貢献や政治の力だけで実現できるものではありません」と、市民同士やNPOが共に力を携え、「教育や子育て、街づくり、介護や福祉など身近な課題を解決」していく「新しい公共」としての「自立と共生を基本とする人間らしい社会」の構築を提起し、そのことによって「肥大化した『官』」のスリム化を提起している。

 そして、「一昨日、『新しい公共』円卓会議の初会合を開催」したこと、「これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き、『新しい公共』の担い手を拡大する社会制度のあり方について、5月を目途に具体的な提案」を纏めること、この活動支援を目的として「寄付税制の拡充」を適している。

 市民同士やNPO等が担う「新しい公共」もいいいが、企業の経済活動、政治の影響の大枠から出るものではない。景気の低迷が企業の社会活動や寄付行為を抑える要因となり、景気の低迷による企業の減益が政府税収に影響し、国民生活の行方の大部分を決定することになるからだ。

次のテーマは「文化立国としての日本」

 「日本を世界に誇る文化の国にしていきたい」と提案している。「ここで言う文化とは、狭く芸術その他の文化活動だけを指すのではなく、国民の生活・行動様式や経済のあり方、さらには価値観を含む概念」だと。

 「厳しい環境・エネルギー・食料制約、人類史上例のない少子高齢化などの問題に直面する中で、様々な文化の架け橋として、また、唯一の被爆国として、さらには、伝統文化と現代文明の融和を最も進めている国のひとつとして、日本は、世界に対して、この困難な課題が山積する時代に適合した、独自の生活・行動様式や経済制度を提示していくべきだと」提起している。

 「多くの国の人々が、一度でよいから日本を訪ねたい、できることなら暮らしたいと憧れる、愛され、輝きのある国となること。異なる文化を理解し、尊重することを大切にしながら、国際社会から信頼され、国民が日本に生まれたことに誇りを感ずるような文化を育んでいきたいのです」――

 「伝統文化と現代文明の融和を最も進めている国のひとつ」だと言っているが、本質的な生活の精神は利害・利益を基本としているのだから、例え「融和」されていたとしても、利害・利益の色彩を纏った「融和」ににとどまっているはずだ。だから、各種社会の矛盾を引きずることになる。

 次に「人材と知恵で世界に貢献する日本」

 「新しい未来を切り拓くとき、基本となるのは、人を育てる教育であり、人間の可能性を創造する科学です」――

 「文化の国、人間のための経済にとって必要なのは、単に数字で評価される『人格なき教育』や、結果的に人類の生存を脅かすような『人間性なき科学』」ではなく、「一人ひとりが地域という共同体、日本という国家、地球という生命体の一員として、より大きなものに貢献する、そんな『人格』を養う教育」と「『人間性』ある科学」の提起を行っている。
 
 「科学もまた、人間の叡智を結集し、人類の生存にかかわる深刻な問題の解決や、人間のための経済に大きく貢献する、そんな『人間性』ある科学でなければなりません。疾病、環境・エネルギー、食料、水といった分野では、かつての産業革命にも匹敵する、しかし全く位相の異なる革新的な技術が必要です。その母となるのが科学です」

 このように「社会全体として教育と科学に大きな資源を振り向けて」いくことが「私が申し上げ続けてきた『コンクリートから人へ』という言葉の意味するところ」だと言っている。

 「三 のいのちを守るために」

 「公共事業予算を18・3パーセント削減すると同時に、社会保障費は9・8パーセント増、文教科学費は5・2パーセント増と大きくメリハリをつけた予算編成」を行って、「来年度予算を『いのちを守る予算』に転換」した。これが「国民の皆さまが選択された政権交代の成果です」と言っている。

 次にテーマとして「子どものいのちを守る」政策を提起している。「子ども手当」の創設、「すべての意志ある若者が教育を受けられる」ための高校の実質無償化。さらに「子ども・子育てビジョン」に基づいた「待機児童の解消」、「幼保一体化による保育サービスの充実」、「放課後児童対策の拡充」等を推し進めて、「子どもの成長を担うご家族の負担を、社会全体で分かち合う環境づくり」を提起している。

 「いのちを守る医療と年金の再生」

 社会保障費の抑制や地域の医療現場の軽視によって崩壊寸前となっている「国民医療」 の建て直しの提起。「健康な暮らしを支える医療へと再生」することの提起。「医師養成数」の増加、10年ぶりの「診療報酬プラス改定」、「救急・産科・小児科などの充実」、「重い肝炎治療」に対する助成対象の拡大と自己負担限度額引き下げのの提起。「健康寿命を伸ばすとの観点から、統合医療の積極的な推進」の提起。年金記録問題を「国家プロジェクト」ととして取り組む提案。

 すべては財政再建及び財政健全化と両輪で推し進めなければならない。財政再建を進め、健全化することができなければ、国民負担のみの方向に進むこととなって、差引きマイナスとなった場合、絵に描いた餅で終わる。

 次は「働くいのちを守り、人間を孤立させない」がテーマ――

 働く人々のいのちを守り、人間を孤立させないための雇用確保の提起。雇用調整助成金支給要件の大幅緩和、非正規雇用のセーフティネットの強化、雇用保険の対象の抜本的拡充、「労働をコストや効率で、あるいは生産過程の歯車としか捉えず、日本の高い技術力の伝承をも損ないかねない」「登録型派遣や製造業への派遣を原則禁止」とする抜本的見直し。「生活費支援を含む恒久的な求職者支援制度」の平成23度の創設。

 「若者、女性、高齢者、チャレンジドの方々など、すべての人が、孤立することなく、能力を活かし、生きがいや誇りを持って社会に参加できる環境を整えるため、就業の実態を丁寧に把握し、妨げとなっている制度や慣行の是正」への取り組み。「社会のあらゆる面で男女共同参画を推進し、チャレンジドの方々が、共同体の一員として生き生きと暮らせるよう、障害者自立支援法の廃止や障害者権利条約の批准などに向けた、改革の基本方針」の策定の提起。さらに自殺対策の強化、「消防と医療の連携」による救急救命体制の充実、「犯罪が起こりにくい社会つくり」、「犯罪捜査の高度化」といった具合に盛りだくさん提起している。

 「四 危機を好機に--フロンティアを切り拓く--」として、「いのちのための成長を担う新産業の創造」を提起している。

 「人間は、成人して身体の成長が止まっても、様々な苦難や逆境を乗り越えながら、人格的に成長を遂げていきます。私たちが目指す新たな『成長』も、日本経済の質的脱皮による、人間のための、いのちのための成長でなくてはなりません。この成長を誘発する原動力が、環境・エネルギー分野と医療・介護・健康分野における『危機』なのです」と「環境・エネルギー分野と医療・介護・健康分野」の成長を具体的な提起目標に掲げている。

 「温室効果ガスの1990年比2020年25パーセント削減」を「日本の経済の体質を変え、新しい需要を生み出すチャンス」だと提起し、「日本の誇る世界最高水準の環境技術を最大限に活用した『グリーン・イノベーション』」の推進と「『チャレンジ25』によって、低炭素型社会の実現」を提起している。

 さらに「医療・介護・健康産業の質的充実」による「いのちを守る社会」の構築と同時に「新たな雇用の創造」、「医療・介護技術の研究開発や事業創造を『ライフ・イノベーション』として促進」した「健康長寿社会の実現」を提起している。

 次に「成長のフロンティアとしてのアジア」をテーマとして、アジアを据えた政策を提起している。

 「日本と共通の深刻な課題を抱えるアジア諸国と、日本の知識や経験を共有し、ともに成長することを目指」すと提起している。

 「アジアを単なる製品の輸出先と捉えるのではありません。環境を守り、安全を担保しつつ、高度な技術やサービスをパッケージにした新たなシステム、例えば、スマートグリッド(人工知能や通信機能を搭載した計測機器等を設置して電力需給を自動的に調整する機能を持たせる事により、電力供給を人の手を介さず最適化できるようにした電力網)や大量輸送、高度情報通信システムを共有し、地域全体で繁栄を分かち合います。それが、この地域に新たな需要を創出し、自律的な経済成長に貢献する」ことの提起を行っている。
 
 だが、アジアの国々が日本取り残して経済成長を続けている以上、アジアの経済が吐き出すカネを頼りにするということであって、そのカネを日本自身に引き寄せよて潤うということであろう。また、例え日本の技術を必要としたとしても、アジアの経済が吐き出すカネを頼りにする以上、アジア主導の日本の成長となる。戦後から現在までの日本対アジアの関係が逆転したことによって生じた日本主導からアジア主導への変化であろう。

 次に「経済成長のみならず、幅広い文化交流や友好関係の土台を築く」ことを目標とした「訪日外国人を2020年までに2500万人、3000万人まで増やすことを目標」とした「総合的な観光政推進」の提起。

 次に「地域経済を成長の源に」をテーマとしての提起を掲げている。

 11年ぶりの「地方交付税1・1兆円増」、「地域経済の活性化や雇用機会の創出などを目的とした2兆円規模の景気対策枠」の新設を掲げている。

 さらに「地域における成長のフロンティア(最前線、新天地)拡大に向けた支援」として、「農林水産業を、生産から加工、流通まで一体的に捉え、新たな価値を創出する『六次産業化』」の推進、「戸別所得補償制度による農業の再生」、「世界に冠たる日本の食文化と高度な農林水産技術を組み合わせ、森林や農山漁村の魅力を活かした新たな観光資源・産業資源」の創出、「食料自給率の50パーセントまでの引上げ」の推進等々の提起。

 「中小企業憲章」の策定による意欲ある中小企業が日本経済の成長を支える展望を切り拓く政策の提起。

 「高速道路の無料化」の社会実験を経た上での段階的実施、日本郵政の「持株会社・四分社化体制の経営形態」の再編と「郵政事業の抜本的な見直し」の提起。

 次に「地域主権の確立」をテーマとした提起。

 「地域のことは、その地域に住む住民が責任をもって決める」、単なる制度の改革で終わらない「地域主権の実現」の提起についてこう言っている。

「今日の中央集権的な体質は、明治の富国強兵の国是のもとに導入され、戦時体制の中で盤石に強化され、戦後の復興と高度成長期において因習化されたものです。地域主権の実現は、この中央政府と関連公的法人のピラミッド体系を、自律的でフラットな地域主権型の構造に変革する、国のかたちの一大改革であり、鳩山内閣の改革の一丁目一番地です」――

 「中央集権的な体質」は「明治の富国強兵の国是」から始まった因習ではなく、日本人が民族性としている権威主義性からきている因習であろう。江戸時代も幕藩体制と言いながら、藩制度は幕府を中央に据えて下に位置した、幕府制度が担った中央集権体制の引き写しに過ぎなかった。いわば幕府を頂点に据えた中央集権体制であると同時に地方に於いても各藩を頂点に据えた中央集権体制を採っていた。明治となって、それを引き継ぎつつ、天皇という一つの存在を頂点とするための天皇制の確立と歩調を合わせて各地方の中央集権体制を弱めて、天皇をバックとして日本政府を絶対的中央とした中央集権体制を確立していったに過ぎない。民族性としている権威主義性からきている因習であるからこそ、戦後も引き継ぐこととなった。

 基本の認識を誤ると、目指すべき結果さえ誤る。日本人は組織を以って行動するとき、権威主義の行動性に災いされて上下関係、縦割りをつくりたがるからだ。「地域主権」が県を頂点として市町村を下に従えた中央集権体制として引き継ぐことにならない保証はない。

 「地方に対する不必要な義務付けや枠付けを、地方分権改革推進計画に沿って一切廃止する」こと、「道路や河川等の維持管理費に係る直轄事業負担金制度」」の廃止、「国と地方の関係を上下関係ではなく対等なものとするため、国と地方との協議の場を新たな法律によって設置」すること、「ひも付き補助金の一括交付金化」、「出先機関の抜本的な改革」等々を目標とした「地域主権戦略大綱」策定の提起。

 さらに「緑の分権改革」の推進、「情報通信技術の徹底的な利活用による「コンクリートの道」から「光の道」への発想転換」の提起、「地域の絆の再生や成長の基盤づくり」の取り組みへの提起。そしてこれらを以って「本年を地域主権革命元年」とすると提起している。

 鳩山総理大臣所信表明演説に続く


 
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鳩山総理大臣所信表明演説(2)

2010-01-30 15:30:07 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 鳩山総理大臣所信表明演説(2)

 次のテーマとして「責任ある経済財政運営」の提起――

 先ず最初に「日本経済を確かな回復軌道に乗せる」、そのために「当初予算としては過去最大規模となる平成22年度予算を編成」したことを謳っている。

 その上で政治が果たすべき重要な責任として「財政の規律」を取り上げている。「新規国債発行額約44兆円以下」に抑えたこと、「事業仕分けと公益法人の基金返納等により政権政策を実行するために必要な約三兆円の財源を確保」できたこと、「将来を見据え、本年前半には、複数年度を視野に入れた中期財政フレームを策定するとともに、中長期的な財政規律のあり方を含む財政運営戦略を策定し、財政健全化に向けた長く大きな道筋」を提起、これらを以って「財政の規律」に向けた取り組みだとしている。

 次は「五 題解決に向けた責任ある政治」がテーマ。

 従来型の「旧態依然たる分配型の政治を行う限り、ガンジー師のいう『理念なき政治』」を引きずることになる。それを打破するのは「『責任ある政治』を実践」だと提起している。

 そのための政策として先ず第一に「『戦後行政の大掃除』の本格実施」を提起している。

 事業仕分けによって。官僚たちの「上から目線の発想で、つい身内をかばいがちだった従来型の予算編成を、国民の主体的参加と監視のもとで抜本的に変更できた」ことは「ひとえに政権交代のたまものです」と自画自賛。

 予算編成は最終結果ではない。配分した予算という名のカネを如何に有効活用して、如何に国民生活に恩恵をもたらすかを最終結果としなければならないはずである。現在家を造り替えている段階に過ぎない。中で生活する国民の生活がそれによって向上するか否かが問題となる。

 それを抜きに家の造り替えについて述べる。

 「『戦後行政の大掃除』は、しかし、まだ始まったばかりです」と前置きして、「『中抜き』の構造で無駄遣いの温床となってい」る疑いの濃い「独立行政法人や公益法人」の改革、「監視が行き届かないまま垂れ流されてきた特別会計の整理統合」と特別会計に対する事業仕分け、「行政刷新会議の法定化」等を提起、「より強固な権限と組織によって改革を断行」するとしている。

 次に行政組織や国家公務員のあり方を見直す「政治主導による行政体制の見直し」をテーマに据えている。

 「省庁の縦割りの排除」、「国家的な視点から予算や税制の骨格などを編成する国家戦略局の設置」、「幹部人事の内閣一元管理を実現するための内閣人事局の設置」、「官邸主導による適材適所の人材登用」、こうした改革を断行するための「関連法案の今国会への提出」、「国民の視点に立った府省編成」、「『裏下り』と揶揄される事実上の天下りあっせん慣行」を含めた「税金の無駄遣いの最大の要因である天下りあっせんの根絶」、「国家公務員の労働基本権のあり方」の模索、同じく国家公務員の「定年まで勤務できる環境の整備」と「給与体系を含めた人件費の見直し」等の「新たな国家公務員制度改革」を提起している。

 次のテーマとして「こうした改革を行う上で、まず国会議員が自ら範を垂れる必要があります」からと、「政治家自ら襟を正す」ことを提起している。

 但し、「国会における議員定数や歳費のあり方」についての見直しの議論の提起と、「政治資金の問題」と「企業・団体献金の取扱い」の議論の提起のみで「政治家自ら襟を正す」についての言及を終えている。あまり触れたくなかったからなのか、230文字かそこらしかない短い切り上げとなっている。

 次に「六 世界に新たな価値を発信する日本」という大きなテーマを提起している。

 「文化融合の国、日本」と題して――

 「日本は四方を豊かな実りの海に囲まれた海洋国家です。

 古来より、日本は、大陸や朝鮮半島からこの海を渡った人々を通じて多様な文化や技術を吸収し、独自の文化と融合させて豊かな文化を育んできました。漢字と仮名、公家と武家、神道と仏教、あるいは江戸と上方、東国の金貨制と西国の銀貨制というように、複合的な伝統と慣習、経済社会制度を併存させてきたことは日本の文化の一つの特長です。近現代の日本も和魂洋才という言葉のとおり、東洋と西洋の文化を融合させ、欧米先進諸国へのキャッチアップ(追いつくこと。特に、発展途上国が先進国に追いつこうと努力すること)を実現しました。こうした文化の共存と融合こそが、新たな価値を生み出す源泉であり、それを可能にする柔軟性こそが日本の強さです。自然環境との共生の思想や、木石にも魂が宿るといった伝統的な価値観は大切にしつつも、新たな文化交流、その根幹となる人的交流に積極的に取り組み、架け橋としての日本、新しい価値や文化を生み出し、世界に発信する日本を目指していこうではありませんか」と格調高く提起している。

 「文化融合の国、日本」と言えば聞こえはいいが、より強い文化、より上位の文化に従う権威主義性を伴った節操のない「文化融合」の一面はなかっただろうか。戦後簡単に戦勝国アメリカの文化にどっぷりと染まるアメリカナイズを可能としたにも関わらず、中央集権という権威主義性を残して真の民主主義を確立できなかったことは「文化融合」が節操のない性格のもので終わったことの証明でもあろう。

次も大きなテーマが続いて、「東アジア共同体のあり方」への提起。

 「アジアにおいて、数千年にわたる文化交流の歴史を発展させ、いのちを守るための協力を深化させる、『いのちと文化』の共同体を築き上げたい思いで提案した」という、鳩山首相の昨年の所信表明演説で言及した「東アジア共同体構想」の提唱。「一部の国だけが集まった排他的な共同体や、他の地域と対抗するための経済圏」となってはならない「様々な分野での国と国との信頼関係の積み重ね」と、「東アジア共同体の形成の前提条件として欠くことができない」「日米同盟」及び「多角的な自由貿易体制」の確立と強化を提起している。

 だが、日本の存在感を高めるには「東アジア共同体」に対する経済的な恩恵に如何に寄与できるかどうかに偏にかかっている。先に首相が言っていたアジアに「新たな需要を創出し、自律的な経済成長に貢献する」とした日本の主体的な経済的貢献意志とは裏腹に景気回復が先行しているアジアの経済が吐き出すカネを頼りにした場合、その可能性が高いのだが、日本の外交・政治力から言って「東アジア共同体」の取り巻きの位置に甘んじることを強いられはしないだろうか。

 次に「東アジア共同体の実現に向けての具体策として」、「いのちと文化の共同体」をテーマに掲げている。

 それは「いのちを守るための協力、そして、文化面での交流の強化」だと提起している。多分主体的な経済的貢献に自信がないからではないだろうか。

 第一番に地震、台風、津波国日本が培った防災文化をアジア全域に普及させると同時にその方面に関わる人材育成に力を入れることと、「人道支援のため米国が中心となって実施している『パシフィック・パートナーシップ』に今年から海上自衛隊の輸送艦を派遣し、太平洋・東南アジア地域における医療支援や人材交流に貢献」することを提起している。

 このこととの関連から、次は「人的交流の飛躍的充実」をテーマに掲げている。  

 「次世代を担う若者が、国境を越えて、教育・文化、ボランティアなどの面で交流を深める』ことを目的に「今後5年間でアジア各国を中心に10万人を超える青少年を日本」へ招待する「アジアにおける人的交流の大幅な拡充」、「域内の各国言語・文化の専門家を、相互に飛躍的に増加させることにより、東アジア共同体の中核を担える人材の育成」を提起している。

 そして、「経済発展を基盤として、文化・社会の面でもお互いを尊重できる関係を築いていくため、新たな成長戦略の策定に向けて積極的な議論を導きます」と訴えている。

 「経済発展を基盤として」というこの言葉を裏返すと、経済発展への寄与度なくして「文化・社会の面でもお互いを尊重できる関係」は築けないということであろう。

 戦後の日本の経済復興は殆んどアメリカ経済の恩恵によってもたらされた。その経済的な寄与度に応じて、アメリカ文化・アメリカ社会の影響を受けてアメリカナイズされていった。いわば経済と文化・社会面に於ける尊重関係は一体のものとして存在している。

 となると、日本が経済・文化・社会面、すべてに亘ってアジアと尊重できる関係を築くには、あるいはアジアに存在感を示すには日本経済の影響力にかかっているということである。

 勿論、中国もインドも韓国も同じ条件下にあるならいい。だが、中国、インドの経済的な存在感は日本を遥かに上回り、韓国も力をつけつつある。経済の面で取り残された日本のアジアに対する影響力は果して期待できるのだろうか。

 オバマ米大統領が〈27日の一般教書演説で、大型景気対策の一環として進められている高速鉄道網計画に言及した際、「欧州や中国が最速の列車を持たなければいけない理由はない」と指摘。同計画には日本も新幹線やリニアの売り込みを続けているが、競争相手のドイツやフランス、中国については触れたが、日本への言及はなかった。〉(SankeiBiz)と伝えているが、単に言い忘れたに過ぎないにしても、頭の中の記憶が言葉として訴える程の存在感が希薄だったことにならないだろうか。

 最近のアメリカは日本よりも中国に顔が向いていると言われているが、次に「日米同盟の深化」をテーマとしている。
 
 今年が「日米安保条約の改定から50年の節目」に当たるが、「冷戦による東西の対立とその終焉、テロや地域紛争といった新たな脅威の顕在化など大きく変化」した、「今後もその重要性が変わることは」ないとして、「重層的な同盟関係へと深化・発展」を提起。オバマのアメリカと共に「『核のない世界』の実現」への取り組み、「米国との同盟関係を基軸として、わが国、そしてアジアの平和を確保しながら、沖縄に暮らす方々の長年にわたる大変なご負担を少しでも軽くしていくため」の一環としての「普天間基地移設問題」の解決、そして最後に「気候変動の問題」の解決を提起している。

 次に「アジア太平洋地域における二国間関係」をテーマとしている。
 
 「日中間の戦略的互恵関係の充実化」、「過去の負の歴史に目を背けることなく、これからの百年を見据え、真に未来志向の友好関係を強化」した「日韓関係」の構築、「北方領土問題を解決すべく取り組むとともに、アジア太平洋地域におけるパートナー」として「ロシア」との関係強化を提起している。

 北朝鮮に関しては、「アジア太平洋地域の平和と安定のためにも重要な課題」として「拉致、核、ミサイルといった諸問題の包括的な解決」、「不幸な過去を清算」した「日朝国交正常化の実現」、「すべての拉致被害者の一日も早い帰国の実現」の提起。

 次のテーマは発展途上国に於ける「貧困や紛争、災害からいのちを救う支援」の提起。

 「発展途上国で飢餓や貧困」、イラクやアフガニスタンの紛争から逃れて国外に出て不安な生活を送る難民の問題、国際テロ犠牲者、自然災害で住む家を失った人々等に対する支援、ハイチ地震に対して、「国連ハイチ安定化ミッションへの自衛隊の派遣と約7千万ドルにのぼる緊急・復興支援」(国連から少ないと言われて増額した7千万ドルだが)を行ったように、「国際社会の声なき声にも耳を澄まし、国連をはじめとする国際機関や主要国と密接に連携した困難の克服と復興の支援」を表明している。

 カネを出す、あるいは軍隊(自衛隊)を派遣することはどこの国でもできる。だが、支援対象国の独裁政治や政治の欠陥・矛盾といった障害を前にしてそれぞれの国の飢餓や貧困を解決して「命を守る」知恵、政策の創造こそがより困難な課題であることに留意しなければならない。ハイチにしても、黒人奴隷が蜂起し革命フランスから独立した世界最初の黒人共和国でありながら、独立を承認する国が存在しなかったためにフランスからの独立の承認を得る代償として多額の賠償金の支払いに応じたものの、この賠償金が長年借金としてハイチを苦しめることとなったことと、国内の混乱、クーデーター、独裁政治、混乱収拾を名目としたアメリカの占領等々(Wikipediaから)、民主国家として自律(自立)できなかたために世界の最貧国の一つとなったこと、極端な貧富の格差と一部富裕層の富の独占等が地震被害からの復興を妨げる大きな要因となるだろうから、単に経済的・物理的に復興を支援したからと言って、簡単には解決はしないことを肝に銘じなければならない。

最後に「 七 むすび」――

「いのちを守りたい。

 私の友愛政治の中核をなす理念として、政権を担ってから、かたときも忘れることなく思い、益々強くしている決意です。

 今月十七日、私は、阪神・淡路大震災の追悼式典に参列いたしました。十五年前の同じ日にこの地域を襲った地震は、尊いいのち、平穏な暮らし、美しい街並みを一瞬のうちに奪いました。」

 そして昨年総選挙の二番煎じなのか、「式典で、16歳の息子さんを亡くされたお父様のお話を伺いました」とその話を持ち出す。

 「地震で、家が倒壊し、二階に寝ていた息子が瓦礫の下敷きになった。

 積み重なった瓦礫の下から、息子の足だけが見えていて、助けてくれというように、ベッドの横板をとん、とん、とんと叩く音がする。

 何度も何度も助け出そうと両足を引っ張るが、瓦礫の重さに動かせない。やがて、三十分ほどすると、音が聞こえなくなり、次第に足も冷たくなっていくわが子をどうすることもできなかった。

 『ごめんな。助けてやれなかったな。痛かったやろ、苦しかったやろな。ほんまにごめんな。』

 これが現実なのか、夢なのか、時間が止まりました。身体中の涙を全部流すかのように、毎日涙し、どこにも持って行きようのない怒りに、まるで胃液が身体を溶かしていくかのような、苦しい毎日が続きました。

 息子さんが目の前で息絶えていくのを、ただ見ていることしかできない無念さや悲しみ。人の親なら、いや、人間なら、誰でも分かります。災害列島といわれる日本の安全を確保する責任を負う者として、防災、そして少しでも被害を減らしていく「減災」に万全を期さねばならないとあらためて痛感しました。

 今、神戸の街には、あの悲しみ、苦しみを懸命に乗り越えて取り戻した活気が溢れています。大惨事を克服するための活動は地震の直後から始められました。警察、消防、自衛隊による救助・救援活動に加え、家族や隣人と励ましあい、困難な避難生活を送りながら復興に取り組む住民の姿がありました。全国から多くのボランティアがリュックサックを背負って駆け付けました。復旧に向けた機材や義捐金が寄せられました。慈善のための文化活動が人々を勇気づけました。混乱した状況にあっても、略奪行為といったものは殆どなかったと伺います。みんなで力を合わせ、人のため、社会のために努力したのです。

 あの15年前の、不幸な震災が、しかし、日本の『新しい公共』の出発点だったのかもしれません。

 今、災害の中心地であった長田の街の一画には、地域のNPO法人の尽力で建てられた『鉄人28号』のモニュメントが、その勇姿を見せ、観光名所、集客の拠点にさえなっています。

 いのちを守るための『新しい公共』は、この国だからこそ、世界に向けて、誇りを持って発信できる。私はそう確信しています。

 人のいのちを守る政治、この理念を実行に移すときです。子どもたちに幸福な社会を、未来にかけがえのない地球を引き継いでいかねばなりません。

 国民の皆さま、議員の皆さん、輝く日本を取り戻すため、ともに努力してまいりましょう。

 この平成22年を、日本の再出発の年にしていこうではありませんか」(以上)――

 この所信表明演説のすべてが鳩山首相の思いであろう。思いを現実の形とすることが最大の課題となる。

 ガンジーは世界が彼が理想とする世界とは真逆の状況にあったから、「7つの社会的大罪」を持ち出すこととなった。それを「80数年前に記した」。いわば80年経過しても、人類は自らの世界の矛盾を何ら是正できずに真逆の状況を引きずっている。人類が80年是正できなかったことが日本の一政権が例え世界の協力を得るからと言っても、実現できるとは思えない。今後とも「7つの社会的大罪」の世界を延々と引きずることになるに違いない。

 もっと単純に考えて、国の経済の回復と維持、国民の生活を守る各種セーフティネット、国の財政再建と健全化の維持、対外的には平和外交、相互主義を掲げるだけで実現可能性の点からも十分ではなかったか。

 何よりも初めに景気回復アリである。景気回復なくして財政再建と健全化の維持もない。支持率の回復もない。国民のいのちを守るとする社会保障政策も絵に書いた餅と終わる。断るまでもなく、国の巨額の借金を国民の将来へのツケとして残すことになるからだ。

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2006年記事「中国が日本を超える日」(1)

2010-01-29 08:31:15 | Weblog

 

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。

 中国の09年の名目国内総生産(GDP)が前年比8・7%増の高い数値を記録、2010年内に名目GDPで日本を抜き、世界第2位の経済大国に躍り出ることが確実になったという。日米欧の主要国が今回の金融危機から確かな足取りで景気回復に進めない中、世界経済の牽引役と目されている一方、不動産バブルで失速のリスクもと伝えるマスメディアもある。

 尤も中国経済が失速した場合、日本はもとより、多くの国が打撃を受ける。グローバル化の連動を受けているからなのはわざわざ断るまでもない。2006年1月8日に私のHP「市民ひとりひとり」に《中国が日本を越える日》をアップロードしている。

 題名が言っている「中国が日本を越える日」の実現する確立は高まったが、書いた内容が全部が全部でないにしても、部分的でも妥当なものとなっているかどうか、内容の妥当性を吟味してもらいたいのと、殆んどが新聞記事頼りの内容で、2006年当時の新聞記事を振返ってみるのもいいかなと思って改めてここに転載してみることにした。
 
 05年12月20日の朝日新聞夕刊に次のような記事が載った。

 『中国、GDP、仏国並みに』

 「中国政府は20日、国家統計局が実施した経済センサス(統計調査)によって、第3次産業や個人企業などの実態を反映させた結果、04年のGDP(国内総生産)が16.8%増えたと発表した。

 ドル換算すると、04年は世界5位の仏に近い約1・9兆ドル、05年は英国並みの世界4位になる可能性がある。中国政府の想定以上に、第3次産業や民間企業の存在感が高まっていたといえそうだ。

 発表によると、04年のGDPは、15兆9878億元(約1・9兆ドル)。従来より、2兆3千億元増えた。増加分の93%は、第3次産業だった。

 中国政府は合計3千万余の事業主に対して、千万人の調査員を動員した統計調査(04年12月末時点)を実施。第3次産業や個人企業まで細かく調査したのは初めて。既に一部の結果が発表され、就業人口は第2次、第3次産業とも1億5千万人ずつだった」――

 いくらGDPが「仏国並みに」なったとしても、中国の人口は13億、フランスの人口は6千万強として計算すると、一人当りのGDPはフランスに遙かに及ばない20分の1近くにしかならない。また、フランスが中国にGDPで追いつかれたと言っても、フランスの人口を日本の人口に置き換えると、GDP額はさして差はなくなる。日本人一人一人の生産能力が特に高いというわけではない。そこを勘違いして、日本人は優秀だと思い上がらない方がいい。実際に特に優秀なわけではないのだから。日本が中国に追いつかれて、アジアでの日本の活躍の場が狭められたとき、当然GDPも下がる。

 逆に中国は国内のみならず、アジアでの活躍の場の拡大に応じて、その生産能力は比例して高まり、GDP(国内総生産)に跳ね返っていく構造を取る。

 中国の国民一人当りのGDPの低さは13億人の中国人人口のうち、約60%に相当する8億人の農村住民の都市住民と比較した極端な収入格差が原因と以前から言われている。

 中国政府は2004年から2008年まで5年掛けて農民の負担となる農業税の全廃を通して農民収入の向上を図り、都市住民との1人当りの純収入が3分の1とされている収入格差の是正を目指す方針でいたが、それを2年繰り上げて、06年内に全廃に持っていくという。

 05年12月6日の朝日新聞朝刊にそのことの記事が載っている。

 『中国税収5年で倍増 貧富の差縮小へ農業税全廃』

 「中国の05年の税収は3兆元(1元=約14円)に達し、前年比で2割増、5年前の5倍強に達すること見通しとなった。06年度は農業税の全廃や個人所得税の課税最低限の引き上げなどで、広がる貧富の格差に対応するとともに、内需の拡大を目指す。一方、遺産相続税や燃料税など負担増につながる税制度の導入は先送りされそうだ。

 中国の財政省によると、05年1~10月の税収は、前年同月比17.5%増の2兆4583億元。とりわけ、企業所得税(法人税に相当)や個人所得税収が3割強も伸びた。05年通年での税収は全体で3兆元に達する勢いで、00年の2倍を超える。国内総生産(GDP)の伸びを上まわる。

 中国政府は好調な税収の伸びを背景に、高成長下で広がる貧富の格差の縮小に向けて税制改革を進める。

 まず、06年に農業税を全廃する。都市住民には所得税の控除基準があったが、農民はどんなに貧しくても税金を支払わなければならず、中国税制上最大の矛盾とされてきた。さらに、個人所得税を計算するときに所得から差引ける基礎控除額を25年ぶりに全面的に見直し、06年1月から現行の月額800元から1600元に引き上げる。

 最低基準の引上げで年280億元の減収が見込まれるため、財政省は『高額所得者からの徴収管理を強化する』(幹部)としている。ただ、遺産相続税や固定資産税といった財産にかかる税については「個人の財産に関わる情報把握が十分でない」「(同)として、早期の導入は見送られた。急増する富裕層の存在と「無産階級」を前提とした従来の税制間の矛盾は残ったままだ。マイカーの普及に伴って検討されてきた燃料税の06年度導入は延期される見通しだ。

 また、批判が強まっている外資系企業の優遇税制については、企業所得税率を内外企業で統一する方針が決まった。しかし、外資の直接投資の減少を懸念する商務省を中心とした消極的な意見も残り、結論はまだ出ていない。

 『共富』目指し進む弱者対策(田中修・日中産学官交流機構特別研究員の話

 中国は改革開放以来、経済政策の柱としてきた『先富論』を『共同富裕論』に転換しようとしている。そのなかで、農業税の全廃や個人所得税の給与所得控除額の引上げといった『弱者』の負担を減らす動きが出ている。不公平感を薄めると共に、内需を刺激し、投資主導から消費主導の成長方式への転換を目指すものだ。

 所得再分配の仕組みの改革に当たって、地方交付税に当たる財政移転支出の見直しや社会保障制度の整備も重要になる。財政の役割はこれまで以上に大きくなるだろう。また相続税・贈与税の導入も重要な課題だ」――

 「中国の05年の税収は3兆元(1元=約14円)」を日本円に換算すると、42兆円。日本の05年度の税収当初見込みは44兆円で、景気回復を受けて、46兆円を超えると見込まれている。税収額だけで見てみると、4兆円程度の差である。

 42兆円を人口の13億で割ると、一人当りの税金は3万2000円。収入は低くても、物価も安い上に税金も安い。色々な見方ができる。否定的な一つの評価ですべてをくくる人間がいるが、そうでもないと言うことである。

 勿論平均値だから、農民により負担が重いだろうことは無視することはできない。「共富」を目指す中国の税制改革は緒についたばかりではあるが、貧富の格差の是正が国民全体の活力を増大させる。農業税の撤廃は省単位ごとの実施で、上海市は2004年時点で既に全廃を果たしたという。

 制度改革も技術革新もカネがモノを言う。有数の貿易港であり、商・工業都市でもある上海市は(世界最大級の新港が05年11月に一部開港したという)財政が潤沢だからだろう。日本のように財政がジリ貧状態にあり、赤字国債でやっと手当てしている国は、改革が“改悪”にウエイトを置いた内容となる。各種増税、社会保障費の圧縮、給与所得控除額の引下げ、行く行くは定率減税の廃止等々。

 さらに人口減という悪要因が重なって、暗い話ばかりで、活力を発揮しようにも発揮できない。そのような状況の中で、株式市場活況がもたらすうまい話が以前にも増して投機的傾向への傾斜を強め、その反動が実業への虚しさを一段と増しかねない。たいしたこともない給料を手に入れるために、コツコツと真面目に働くことがバカらしくなって、カネと頭のある人間は株や土地、マンション、あるいは金に投資して、汗をかかずに大金を手に入れようとする。

 カネも頭もない人間は、銀行かパチンコ店の景品所を襲うか、スーパーの売上げを狙って大金を手に入れようとする。何かでムシャクシャし、それを発散させるための女と遊ぶカネもない男は、女児に悪戯して、バレるのを恐れて殺してしまう。

 中国は国を豊かにするために開放経済に向かい、外資導入を図った。但し、主要産業を担う大型外資の全額出資による企業設立は認めず、合弁方式のみ許可した。トヨタも日産も、さらにドイツのBMWも、その他の自動車メーカーも、また他の重要産業の外国企業に関しても、出資比率が半々か、半々前後の合弁のみの許可となっている。

 この方式の中長期的な狙いは、100%出資を認めることで経営と製造の支配権を相手に与えて、そのことによって中国人従業員を製品を組み立てるだけの要員に貶めることを避け、逆に経営と製造に対等な資格で参加させて、技術移転を中国側にスムーズに移転させるための政策だったろう。

 各種の技術習得に他国に大きく後れを取っていたから、1から始めるのではなく、西欧の現在の水準に早い時間経過で一気に追いつくための、極めて政治的な戦略としてあったものに違いない。

 2006年記事「中国が日本を超える日」(2)に続く

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2006年記事「中国が日本を超える日」(2)

2010-01-29 08:19:00 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。


 《2006年記事「中国が日本を超える日」(2)》

 そのような狙いを象徴的に示す記事がある。『中国 エアバス150機を購入 総額1兆円 自国組立も視野』(05.12.6.朝日新聞朝刊)

 「フランス訪問中の温家宝・中国首相は日、仏首相府で、仏に本社を置くエアバスの中型機A320を150機購入する契約を結んだ。カタログ価格で総額1兆円を超すような大型発注は前例がないという。エアバス社は中国での現地生産も検討しており、中仏は航空機という戦略産業で濃密な協力関係に踏み込む。

 温首相は4日、南部トゥールーズのエアバス本社を訪れ、同社と産業協力強化の合意書を交わした。中国が大量発注したA320の最終組立工場を中国に造ることも視野に入れた内容。エアバスはコスト削減も兼ねて中国製部品の調達を増やすほか、新型機の開発に中国技術者を加える。

 今回の大量発注はこうしたメーカーの姿勢に応えたものだ。エアバスは、中国の旅客機需要を今後20年間で2千機以上と推測する。中国でのシェアはボーイングの60%に対して34%だが、13年までに50%に引き上げるのが目標だ。

 仏政府は中国の高速鉄道に1億5千万ドル(約200億円)を援助する契約も結んだ」――

 大型の商機を得るためには、求められる前から技術移転を契約条項に付け加えなければならない状況と化している。このことは高速鉄道に関しても、当然のことながら同じ構造となって現れている。05年11月22日の朝日新聞朝刊に載っている。

 『中国高速鉄道 川重など車両受注へ 時速300キロ 新幹線「はやて」改良』

 「中国の高速旅客鉄道網計画で、時速300キロ級の車両40~60編成(1編成=8両)を川崎重工業などの日本企業連合が受注する見通しなった。これとは別に、ドイツ・シーメンスによる60編成受注も正式に決まった。先進技術の導入を目ざす中国政府は日独企業に限って、現地企業と組むよう要請。日中韓の政治的な溝を超え、日本勢も受注することになった。

 独シーメンスも受注 

 南西四方機車車両(山東省青島市)を提携相手とする日本勢は、JR東日本の東北新幹線「はやて」の改良車両で準備を進める。契約額は1千億円前後の見通し。今回の受注分は、時速300キロ級だけでなく、同200キロ級が一部含まれる可能性がある。

 北車唐山機車車両(河北省唐山市)と共同受注したシーメンスの発表によると、60編成のうち3編成と重要部品だけをドイツから輸出し、残りは中国で製造する。7割以上の現地調達率が課せられ、08年以降は現地生産できるような技術の移転を求められている。将来の国産化と輸出を目指す中国政府は、日本勢に対しても同様の対応や列車事故の発生時の補償を強く求めている。

 小泉首相の靖国神社参拝問題を受け、インターネット上を中心に日本の新幹線受注に反対する意見が広がり、中国政府も慎重な発言が目立った。だが、各国を競わせて、優れた技術を安く導入したい中国は今秋の『反日デモ』以降、『日本排除』の姿勢を修正。長年の技術協力関係がある日本の排除は得策ではないと判断した。

 中国政府は2020年までに総延長1万2千キロの高速旅客鉄道網を新設する方針。都市間の移動を円滑にすると共に、急増する貨物と旅客の輸送を分離する狙いがある。早期着工分のうち、北京-天津はドイツ系の走行が決まっており、『はやて』は武漢(湖北省)-広州などの路線が有力視されている。

 中国の高速鉄道商戦では昨年、時速200キロ級の車両を日仏が60編成ずつ、カナダが40編成を受注。今後は信号や運行システムなどの受注が『主戦場』となる。

 日本、ドイツ、フランス、カナダ、韓国などの企業が引き続き競いあう。」

 1995年、マレーシアの当時のマハティール首相が提唱した「中国雲南省の昆明とシンガポールを結ぶ東南アジア縦断鉄道は97年のアジア通貨危機で頓挫しかけたが、01年、中国がにわかに『全面協力』を打ち出した。現在3ルート、約9千キロが計画中だ」(05.11.27.朝日新聞朝刊)

 この事業計画に対して日本は、05年「11月18日にラオスのビエンチャンで開かれた東南アジア諸国連合と日本の交通相会議終了後の共同記者会見」で、「『日本は東南アジア縦断鉄道構想を支援するのか』という地元記者の質問を受けて」「『事業にどれくらい需要があり、採算があるのか、慎重に検討しなければならない』」とする日本の北川国土交通相の対応と比較して、中国の交通相は、「『構想は地域経済発展のために、壮大で素晴しいプロジェクトだ』」(同記事)と実現への積極姿勢を見せたという。

 中国はドイツやフランス、日本から移転を受けた高速鉄道の技術をアジア縦断鉄道建設に活用することは間違いない。日本が参加しなかった場合、ASEAN諸国に対して主導権を独り占めすることになる。日本が参加したとしても、中国は鉄道を介してASEANとの動脈の一端を常に担い、政治・経済の関係をより直接的に密接化できる。鉄道完成と共にその場を去らなければならない日本はカネと技術の提供者で終わりかねない地の利を活用できない位置にいる。

 ASEAN諸国に対して経済力で圧倒的に優位に立つ中国は、やはり日本の存在に関係なく主導的立場に立ち、政治的にも影響力を強めていくことに変りはないだろう。日本が参加した場合、カネと技術の提供者で終わらないためにも政治と外交の出番が重要となるが、それだけのテクニックが元々欠けているだけではなく、小泉首相の靖国参拝問題が中国との間に政治問題化していることが阻害要因となって、ASEANと中国に対する日本の政治・外交の関わりを無力化しかねず、中国の優位は変らないのではないか。

 日本としては、「靖国参拝は内政問題だ」に拘っていればいいわけだが。

 『経済漂流8 空回り続くYENパワー 国益に生かす戦略乏しく 』という、2002年12月22日の朝日新聞朝刊は日本のODAについて、「カモネギ日本」との小見出しで次のように伝えている。

 「アジアへの戦後賠償に始まる日本の途上国支援は、黒字批判にさらされた80年代後半から『資金環流』を含めて膨らみ、年1兆円規模に。01年に米国に抜かれるまでの10年間、日本は世界一の援助大国だった。円借款はアジアの経済的離陸を助けた。だが、日本には円パワーを国際社会での地位向上に使う明確な意思はなかった。労せずして伸びる援助予算は、使途と効果の検証を曖昧にした。

 政策研究大学院大学の大野健一教授は言う。『欧米は例え少額でも援助に自国の理念を反映させている。資金はあるが戦略のない日本は、援助の世界でいいカモだった』

 援助政策の本格的な見直しは、景気低迷と財政悪化に外務省の不祥事が重なる01年まで始まらなかった。自民党のODA(政府の途上国援助)改革ワーキングチーム事務局長、武見敬三・参議院議員は語る。『外交の武器と言いながら、何のために誰を助けるのかという理念が乏しかった。利他的な援助が国益にどう結びつくのか、一度きちんと整理したい』」――
 
 まさしく日本の政治の貧困な戦略性がもたらした「空回り続くYENパワー」に反して、「中国経済の急速な拡大に伴って、人民元のプレゼンスが高まっている。」(『「力増す人民元 韓国の関心 円から転換 (上)』
(04.8.11.朝日朝刊)

 元か円かで、元が勢いある位置につけているということである。中国が人民元の存在感や貿易量を背景に自らの主導性をASEAN各国に対して効果的に定着させるために日本を選ぶか、中国を選ぶかの二者択一を迫ることができる日本との緊張関係は好機とし得る制約事項でもあるだろう。

 日本と中国が友好関係にあったなら、そのような直接的で露骨な方法は採れない。勿論日本もASEAN各国に、日本を選ぶか中国を選ぶか迫ることはできる。但し、ASEANに対して中国と日本が置かれている地理的条件とそのことが相互に関連し合う政治的・経済的な距離的影響の差が中国と同じ方法を許すかどうかである。

 いわば日本は地政学的にはかなり不利な状況に置かれている。中国には許されるが、日本には許されない二者択一なら、二者二択で、中国と共存する形でしかASEANに関わっていくしか道はないのではないか。中国は二者択一を既に利用し、成功を収めている。日本が安保理常任理事国入りを目指して「安保理拡大案」への賛成票を投じるよう、開発援助でのこれまでの日本の多大な貢献をアピールできるアジア・アフリカ諸国に、特にアフリカ諸国にさらなる援助ををちらつかせまでして根回ししたが、逆に中国にアジアばかりか、アフリカにまで根回しされてあえなく挫折した経緯は、二者択一による結末だろう。中国は日本のアジアに於ける中国に優越する政治的プレゼンス(=政治的な指導者となること)を許さないだろう。

 それを中国の覇権主義だという人間がいるが、日本がアジアで政治的な指導者となること自体を、その資格はないと許したくないからではないだろうか。 日本が戦後すぐから、意識の上でも正直な態度で自分たちが仕出かしたことの戦後処理を行っていたなら、日本が蹂躙したアジア各国のわだかまりは短時間には消えないものの、時間の経過がそれを風化し、経済だけではなく、政治上のプレゼンスも受入れていったのではないだろうか。

 自動車事故を起こして人一人殺したが、自動車保険の対人賠償の無制限条項を利用して何億という保険金を支払ったから、俺は責任を果たした、もうこれですべてチャラだと考えるような人間が、何十年経過したとしても、人の上に立つ資格があるだろうか。日本はカネでは十分に支払ったろう。だが戦後長く、侵略戦争であったことを認めず、資料が発見されるまで従軍慰安婦の事実も、強制連行・強制労働の事実も認めなかった。戦争に於ける日本兵の残虐行為を素直に認めず、虐殺行為を認めようとしなかった。

 認めたのは、認めざるを得ず、仕方なく認めるプロセスを踏んだ受身の認知であった。今なお認めない日本人が政治家にも多くいる。その不正直さ・狡猾さが指導者になるにふさわしくない態度だと見られているのではないだろうか。

 中国は政治的にも経済的にも、また対内的・対外的に拡大を続けている。様々な問題を抱え、特に経済の過熱化をどうにか抑えながらの危うい操縦ではあるが、成長の飛行を力強く上昇させている。中国が墜落すれば、乗客の利益を受けている日本も、ただでは済まない。日本は逆の状況にはないから、中国には様々な矛盾に辻褄を合わせて墜落しない範囲内で力強く飛行を続けて貰わないわけにはいかない。

 そのような飛行の行き着く一つの場所が、中国がアジアで日本を超える日であろう。「中国の軍事力の大幅増強は、アジア・太平洋の諸国を自国の制圧下に置き、アジアで君臨することが中国の長期的地域戦略だとしている」などと言う人間がいるが、日本に取って代わってアジアで政治的・経済的に主導権を獲得することが自明となっている中国が、「アジア・太平洋の諸国を制圧下に置」くといった冒険主義は、アメリカが太平洋地域に存在している以上、完璧に不可能事に属す事柄というだけではなく、国際世論の反撥に加えて、中国が建国以来初めて築き得た虎の子とすべき対内外の政治と経済の力を失って自国を危険にさらす自殺行為となり得る愚かしい破滅への道でしかない。

 大体が常識的に考えて、中国は、日本を――軍国主義が台頭した戦前から敗戦を経て、奇跡の回復と言われる経済成長とその凋落のプロセスを辿ってきた日本を良くも悪くも反面教 としているだろうから、日本の歴史を逆転させて中国の歴史とするような二の舞となるバカを自ら演じはしないだろう。

 情報を自分の頭で考えることができず、鵜呑みにするだけの皮相的人間が言う戯言か、時代錯誤の黄禍論を今の時代にまで引きずっている人間の妄言に過ぎない。上記の情報がアメリカ発なら、日本と中国の緊張関係が東南アジアの不協和音となって全体のチームワークを弱め、逆にアメリカがバランサーとしてアジアへの関与をより求められて、その価値を相対的に高めて国益につなげることができると考える勢力の情報ということもあり得る。特に日本と違って、お釈迦様の手のひらの中に閉じ込めておくことが難しい中国単独の発展・膨張は、アメリカには国益上好ましくない状況であろう。(以上)――

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児童虐待防止、親権を停止しても機能しない恐れ

2010-01-28 14:06:12 | Weblog

 

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《親権制度の見直し諮問、一時停止も》msn産経/2010.1.22 22:40)記事――

 法務省設置の「児童虐待防止のための親権制度研究会」が虐待を繰返す親から子供を守るための一時的な親権制限などを盛り込んだ報告書を今月纏めたのを受けて、千葉景子法相が民法の親権に関する制度の見直しを法制審議会(法相の諮問機関)に諮問することを22日の記者会見で明らかにしたと伝えている。

 報告書は〈児童虐待に適切に対処できるような親権制限の枠組みの必要性を指摘。家庭裁判所の審判により、一時的な親権制限が可能になるための制度設計などを論じ、児童養護施設長や里親の権限を、部分的に親権より優先させる考え〉を示しているという。

 要するに現行民法は親の虐待からの子どもの保護に親権がネックとなっていて有効に機能していない。〈児童相談所などの施設が保護した子供を親が親権を理由に連れ帰る事例や、子供に必要な医療を受けさせない医療ネグレクト、学校に退学届を出し、辞めさせるなどのケースも多い。〉、だから一時的な親権制限といった強制措置が必要になったということなのだろう。

 現行民法でも親権の乱用や親権者の著しい不行跡を要件として「親権喪失」の規定(834条)があるということだが、戸籍に記録が残るなど影響が大きいため申し立てや宣告が躊躇(ちゅうちょ)され、適切に活用されていなかったと記事は書いている。だが、親の虐待で子どもの命を失わせてしまう、あるいはそこまでいかなくても心に大きな傷跡を残してしまうことと「戸籍に記録が残る」こととどちらが取るべきだろうか。

 「親権喪失」の規定を有効に活用できなかった周囲の取扱いは一時的な親権制限を法律で規定することになっても、同じく有効に活用し得ない状況で推移する恐れは生じないだろうか。

 親権の全部を奪う「親権喪失制度」については、「YOMIURI ONLINE」記事――《虐待防止へ親権制限…民法改正方針 子供保護しやす》(2010年1月5日)は、〈期限の定めがなく、親子関係に与える影響が大きすぎるとして、適用されるケースは少ない。このため、児童養護施設などの現場から、より使いやすい制度を設けてほしいとの要望が出ていた。〉と書いている。

 そして改正の予定事項を次のように伝えている。

 〈1〉一定の期限を設けて親権を停止
 〈2〉親権の一部である、子どもの世話や監督をする「監護権」などを停止する

 その仕組みは――、

 〈親族や児童相談所からの申し立てを受けて家庭裁判所が決定する。この後、虐待を受けた子どもを保護する児童養護施設などに対し、親が子どもの引き取りを主張しても、施設側は家裁の決定を根拠に拒むことができる。〉としている。


 千葉景子法相が親権制度の見直しを法制審議会に諮問すると発表した22日の記者会見から2日後の1月24日、警視庁小岩署が小学1年生、7歳の長男が死亡した事件で両親を傷害容疑で逮捕している。

 死亡に至るまでの経緯を「時事ドットコム」記事――《昨年9月に暴行把握=区側に歯科医連絡-東京・江戸川の小1男児死亡》(2010/01/25-13:35)から見てみる。

 昨年の9月、長男が通っていた歯科医院の医師が顔がはれていることに気づいて、親の虐待と疑ったのだろう、区子ども家庭支援センターに連絡、センターは学校に確認の電話を入れた。

 「東京新聞」記事――《昨年9月『虐待の疑い』 江戸川の小1死亡》(2010年1月26日)では、多分虐待を疑った歯科医の声掛けに答えてのことなのだろう、「パパにぶたれた。ママは見ていて何も言わない」と話したと出ている。

 「時事ドットコム」記事はこの連絡に学校が行動を起こしたのは「数日後」と書いている。民主党政権のハイチ地震対応のように即座の対応となっている。昨年の9月にセンターから確認の電話が入った「数日後」に小原サナヘ校長(60)と副校長、担任の男性教諭(28)が家庭訪問。三人が一緒に行けるスケジュールが取れるまで「数日間」待ったということなのだろうか。

 31歳の父親が子どもを叩いたことを認め、「二度とやらない」と約束した。大の大人である上に学校教育者でもありながら、この手の約束が往々にして口先だけで終わることを学習していなかったからなのか、約束が今後の面倒を省いてくれる期待をも約束してくれて、学校の責任を解放してくれる責任回避意識からなのか、約束で終わらせて警察への通報はしなかった。

 もしも学習していたとしたら、責任回避意識の前に霞んでしまい、学習事項を打ち消してしまったということになる。

 記事は区教育委員会の担当者のコメントを取っている。

 「協力的で、保護者会にも積極的に参加しており、様子を見ることになった」

 あそこの母親は保護者会にも満足に出席しないという批判を恐れる世間体からこまめに出席する母親もいるだろう。

 小原サナヘ校長か副校長か、いずれかが学校側から区教委へそのように報告し、区教委は新聞社からの問い合わせに学校からの報告をそのまま伝えたということなのだろう。

 いわば学校は規則に則って区教委に報告し、区教委は規則に則った学校の報告を以って了として済ませ、学校共々昨年の9月から今年の1月24日まで、「様子を見る」と約束したことでもある保護観察行為を忠実に守って約4ヶ月間を過ごし、7歳の児童の死という現実の状況とは懸け離れた「協力的で、保護者会にも積極的に参加しており、様子を見ることになった」という4ヶ月前の報告どおりの状況をそのまま新聞に伝えることとなった。

 虐待が露見した経緯を「YOMIURI ONLINE」記事――《「食べるの遅い」両親が小1暴行→病院で死亡》2010年1月25日03時08分)から見てみる。

 母親(22)と再婚相手の夫(31)の二人が1月23日午後8時頃、自宅アパートで7歳長男を「ご飯を食べるのが遅い」と言って正座させ、顔面を平手打ちしたほか、左足をけるなど約1時間に亘って暴行。

 長男がぐったりしたため母親が119番通報。1月24日朝、搬送先の病院で死亡。警察が両親を傷害容疑で逮捕。取調に二人「しつけのつもりで叩いた」と容疑を認め、父親は「普段からうそをついた時などに平手で殴っていた」と供述。

 死因は司法解剖でも特定できず、病理検査にまわして詳しく調べると記事は書いている。

 学校と区子ども家庭支援センター、児童相談所にもセンターから報告が入っていたと言うことだから、児童相談所の各対応がどんなものだったかを《親の暴力、事件前に区が把握 小1虐待死、情報生かせず》asahi.com/2010年1月26日6時44分)から見てみる。

 〈昨年夏から休みがちで、同10月は11日、12月は6日、今年1月も8日欠席していた。今月22日には身体測定があったが、傷やあざは確認できなかったという。〉

 父親が昨年9月に「二度とやらない」と約束したものの、子どもを叩いていた事実は父親が自ら認めたことで、学校側は9月の時点で把握していた。そして昨年10月から今年の1月まで通算25日も休校しているにも関わらず、そのような継続的な休校と「様子を見ることになった」保護観察行為を責任を持って結びつけることはしなかったようだが、身体測定の際には保護観察行為を働かせて傷やあざを探したが、確認できなかったとしている。

 最近の身体測定は着衣のまま行うことが通例となっているが、この学校では下着だけで行ったのだろう、だから、目で見るだけの保護観察行為を可能とすることができた。しかし、傷やあざの確認はできなかったため、父親は学校に約束したとおりに子どもを叩くような虐待は行っていないと判断したということなのだろう。

 だが、2日後に病院に搬送され、死亡。父親が暴力を振るったことを認めた。

 小原校長の会見での発言。

 「その時々できちんとやってきたつもりだが、できることがもっとあったかもしれない」

 継続的休校と保護観察行為を有効に結びつけることができなかったのだから、校長の言葉は空々しく聞こえる。

 都墨田児童相談所。

 「学校で対応し、親も従ったということなので、それ以上の対応はしなかった」

 これは学校の報告を受けた区教委の対応と同じで、学校から受けた報告をそのまま児童相談所の新聞に対する報告としているに過ぎない。最初の報告以降、何か手落ちがないか、事態の急変はないか、自身で確かめる確認行為を役目の一つとして担ってもいるはずのチェック機関としての機能を児童相談所は果たしていなかった。自らは何も動かず、報告の鵜呑みを役目としたに過ぎない。学校に対しても、両親に対しても、何よりも7歳児童に対して、どのような声掛けも行わなかった。単にそれぞれの地位に胡坐(あぐら)をかいていただけだった。

 だが、声掛けについては記事から窺う範囲では学校の対応も児童相談所と同じとなっている。子どもが継続的に休校を繰返していることに対して、学校がどのような声掛けを行ったか学校の報告として記事は書いてもいないし、身体測定を行った際にも、〈今月22日には身体測定があったが、傷やあざは確認できなかったという。〉と書いているのみで、学校が7歳児童に対して言葉で確認する声掛けを行った様子を伝えていない。

 学校が声掛けについて何も言ってなかったから、報道しようがなかったのかもしれないが、事実を知るために何らかの声掛けを行ったのか新聞の方から聞くべきではなかったろうか。

 身体測定に関しては「47NEWS」記事――《死亡小1、暴行発覚後も欠席続く 学校と区、虐待疑わず》(2010/01/25 21:57 【共同通信】)では次のようになっている。

 〈今月登校したのは21、22日だけで、22日に長期欠席のためできなかった身体測定を実施。海渡君は長袖、長ズボンを着用し、測定は身長と体重だけだったが結果に問題はなく、養護教諭も異常に気付かなかったという。〉――

 今年1月の出席が21、22日の2日間のみ。身体測定は長袖、長ズボンを着用して行い、身長と体重の測定のみの結果で問題はないとし、養護教諭は異常に気づかなかった。

 養護教諭は職員会議等で父親に叩かれたこと、父親が「二度とやらない」と約束したこと、だが、継続的に何日も休校を繰返していること等々を聞かされていて、そういった事実を把握していたはずであるにも関わらず、あるいは把握していなければならなかったはずであるにも関わらず、ここでもどのような声掛けが行われたのか記事は書いていない。

 また「asahi.com」記事の〈身体測定があったが、傷やあざは確認できなかったという。〉情報は例え警察を介した情報であっても、発信元は学校のはずで、警察の捜査で〈全身にやけどなどの古い傷が残っていた。〉(YOMIURI ONLINE)としている以上、長袖、長ズボンから覗いている僅かな身体部分に異常がないことを以って「傷やあざは確認できなかった」とする、一種のウソの情報を学校は発信したことになる。

 この手のウソの情報発信、情報操作は責任回避から生じる。

 「47NEWS」記事は、〈担任の男性教諭(28)が家庭訪問であざを確認した昨年9月以降も欠席が相次ぎ、同10月には「頭痛」を理由に11日間連続で休んでいたことを明らかにした。〉と伝えた上で、校長の発言と担任教諭の昨年12月の3回の家庭訪問を伝えている。

 小原サナヘ校長(60)(10月の11日間連続の欠席について)「親から欠席の連絡が毎日あり、家庭訪問時に父親が『二度と暴行しない』と約束したので疑わなかったが、これだけ続くのはおかしいと当時も思った」

 「親から欠席の連絡が毎日あ」ったことから家庭訪問したような言い回しとなっているが、歯科医からの虐待疑惑の連絡が区子ども家庭支援センターを介して学校に伝えられたことからの家庭訪問であり、そのとき「父親が『二度と暴行しない』と約束した」ということでなければ他の記事との整合性が取れない。校長はここでも微妙に自分に都合のいい言い回しに変える情報操作を行っているが、この場合の都合の悪い情報から都合のいい情報への操作はやはり責任回避意識から発していると見なければならない。

 この責任回避は都合の悪い事態が勃発したことから生じた意識変化ではなく、元々責任を果たしてこなかったことから生じた産物なのは 「これだけ続くのはおかしいと当時も思った」と言っている言葉自体が証明している。学校長の立場にある以上、「これだけ続くのはおかしいと当時も思った」なら、それが事実として存在する疑いなのか、単なる疑いに過ぎないのか確認する責任を負っているはずだが、確認を怠る責任放棄を演じているからだ。

 昨年12月の担任の3回の家庭訪問について記事は次のように伝えている。

 〈また昨年12月中に3回、担任教諭が家庭訪問したが、父親には会わず、母親にも虐待の有無を聞いていなかった。小原校長は「顔に傷があったり、児童から申告がないと、家族に聞くのは難しい」と述べた。〉

 この記述で記事は終えている。

 〈父親には会わず、母親にも虐待の有無を聞いていなかった。〉程度の家庭訪問だった。歯科医から区子ども家庭支援センターへの連絡、センターから学校への連絡、そして父親が子どもを叩いたことを認め、「二度とやらない」(「47NEWS」では「二度と暴行しない」)と約束したこと、これらの経緯が約束以降も7歳の児童に役立って、虐待を受けない状況に置かれているか、「虐待の有無」ぐらいは声掛けによって確認すべきを、声掛けするだけの責任さえ果たさなかった。

 校長「顔に傷があったり、児童から申告がないと、家族に聞くのは難しい」――

 ここで校長が言っていることは目に見える身体上の異常や児童自身の申告等の、いわばそういった他からの要請を受けた他律性に立たなければ行動は起こせないということの白状でしかない。顔に傷があった場合、それを見たなら、学校保護者として理由を尋ねなければならない他からの要請としてあるサインの一つであろう。

 他からの要請を受けた他律性に立たなければ行動を起こすことができない行動性は自らの要請から発して行動を起こす自律性を欠いていることの証明以外の何ものでもない。

 だから、長袖、長ズボンを着用した身体測定では着衣から覗いている身体箇所は僅かしかないにも関わらず、傷やあざといった他からの要請を促す他律性を持ったサインは何ら見当たらなかったというだけのことで何ら異常なしと判定することができた。

 立派。誰も彼も立派である。

 12月の担任教諭の家庭訪問も「時事通信出版局」記事――《先月家庭訪問、男児と会えず=小1死亡》(2010年01月27日11時30分)では題名どおりの展開であったことを伝えている。

 〈担任の男性教諭(28)は昨年12月、学校行事の連絡などのために3回家庭訪問したが、いずれも千草容疑者が対応するなどし、海渡君には会えなかった。〉――

 担任の家庭訪問が〈父親には会わず、母親にも虐待の有無を聞いていなかった。〉、〈海渡君には会えなかった。〉といった性格のものだったということは「学校行事の連絡」という他からの要請を受けた他律性からの家庭訪問だったからで、自らの要請によって行動を起こす自律性を持った虐待の確認ではなかったことを否応もなしに物語っている。

 要するに「学校行事の連絡」という他からの要請がなければ行われなかった家庭訪問だった。

 要するに虐待の「ギャ」の字も頭になかった家庭訪問、単に学校行事の連絡を行うための家庭訪問だった。

 記事は〈区教委によると、海渡君は小学校側が暴行を把握した昨年9月から今月までに、計31日間欠席していた。〉と書いているが、学校に出席していた日が欠席していた31日以上はあったはずだから、例え他からの要請となる「顔に傷」がなくても、あるいは同じく他からの要請となる本人からの直接的な「申告」がなくても、欠席が多いことの懸念から何らかの声掛けをするとか、残された最後のチャンスだった、死亡する2日前の身体測定のときに長袖、長ズボンから僅かに覗いている身体箇所に傷やあざがなかったとするのではなく、少なくとも上着をめくらせるくらいの自らの要請に基づいた自律性を見せて確認すべきだったが、学校教師として持つべきそういった責任さえ果たさなかった。

 責任とは他からの要請を受けた他律性に従った行動性からではなく、自らの要請に基づいた自律性に則った行動性によってよりよく発揮されることは断るまでもない。


 例えこの7歳児童の死亡が親の虐待を死因としていなかったとしても、虐待を学校もセンターも児童相談所も区教委も把握できなかった。把握できなかったということは虐待は存在しないとしていたことを示す。

 一時的親権停止は虐待の存在の把握を前提とする。先に「親権喪失」の規定を有効に活用できなかった周囲の取扱いは一時的な親権制限を法律で規定することになっても、同じく有効に活用し得ない状況で推移する恐れは生じないだろうかと書いたが、虐待の存在を今回のように把握できなかったケースでは、親権停止にまで至らないまま子どもを殺すことになる。

 但し虐待の情報を他からの要請を受けた他律性に従う形式で把握していながら、そこに自らの要請に基づいた自律性に則った行動性を加えることができずに虐待死に至らしめてしまう例が数多くあるが、こういったケースでは一時親権停止という法律による他からの要請を受けた他律性は十分に発揮することができるに違いない。

 兎に角他からの要請を受けた他律性に従った行動性は学校も児童相談所も得意中の得意、十八番としているのだから、きっと責任が自分に回ってこないように早い段階で親権停止を乱発することになるのでないだろうか。そんな恐れが出てくるような気がする。

 学校や児童相談所の他からの要請を受けた他律性に従った行動性は断るまでもなく、上は下に従わせ、下は上に従う権威主義の他律的行動性からきている。

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名護市長行選結果に見せた平野官房長官の詭弁・論理のすり替え

2010-01-27 05:05:37 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。


 昨日の当ブログで書いたが、1月24日の名護市長選の基地受入れ反対の稲嶺氏の当選について平野官房長官が翌25日午前の記者会見で、「民意の1つであることは事実であり、それを否定はしないが、今後の検討では、そのことを斟酌して行わなければいけない理由はないと思う。名護市辺野古への移設という選択肢をすべて削除するということにはならない」NHK)と述べたことが批判され、26日の記者会見で改めて自身の発言を正当化している。

 《移設先 政府責任で決定の趣旨》NHK/10年1月26日 13時18分)

 市長選挙の結果を巡る自らの発言について――

 平野官房長官「選挙結果は一つの大きな民意であり、民意を軽視しているわけではない」

 市長選の結果を斟酌する理由はないと述べたことについて――

 平野官房長官「選挙結果がすべて、国の安全保障の一環である基地問題についての民意として受け取るのか、そうではない。選挙は、基地問題一本で行われたわけではないと思う。検討委員会としては、この結果をもって即、辺野古への移設を外すとか外さないということにはならないという意味で言った」
 
 移設先を決めるに当たっての受入れ先との調整について――

 平野官房長官「5月までに地元と合意できるかどうかは別問題だ。理解を求めていかないといけないテーマだが、日本の安全保障にかかわる問題であり、合意がとれないと物事が進められないものなのか」


 選挙結果としての民意を国の安全保障の一環である基地問題と結びつけた発言箇所は「asahi.com」記事――《名護新市長 官房長官「発言は大きな民意ではあるが…」》2010年1月26日12時37分)では次のようになっている。

 「新しい市長が生まれ、その発言はひとつの大きな民意ではあるが、国の安全保障の一環である基地問題を含めて民意として受けとるのかというと、そうではない」

 ここには狡猾な論理のすり替えがある。名護市長選挙の結果は沖縄県民の民意をも反映した名護市民の民意であろう。そしてそれは民主党が火をつけた民意でもあると昨日のブログで書いた。

 いわば市長選挙で表した県外・国外移設の民意、沖縄の米軍基地負担軽減を求める民意はあくまでも名護市民及び沖縄県民の民意であって、それを平野官房長官はここで基地問題を含めた日本全体の安全保障の問題に置き換えるすり替えを行って、そのことまで意思表示した民意ではないとすることで、名護市民及び沖縄県民の民意の否定を企む詭弁を弄している。

 そしてその理由として「選挙は、基地問題一本で行われたわけではない」ことを挙げている。あるいは暗に日本全体の安全保障まで考えた民意ではないとしている。

 当たり前のことを逆手に取って、当たり前のことを以って民意を否定しようとする論理のすり替えを平野長官はここでもやらかしている。

 だが、名護市長選挙は基地移設問題が大きな争点として争われ、名護市辺野古沖移設受入れ派と県外・国外移設派との対決の構図での戦いであったことは否定できない事実だったはずである。それを「選挙は、基地問題一本で行われたわけではない」と何が争点となったのかまでを誤魔化す詭弁を働かせている。

 「日本の安全保障にかかわる問題」だからと、それを絶対前提に据えつけて、少なくとも水戸黄門の葵の印籠のように振りかざして、「合意がとれないと物事が進められないものなのか」と強権意識を覗かせているが、「合意」が取れないからと合意を経ないまま、いわば民意を無視して事を進めると言うなら、本土の沖縄基地受入れ反対の民意に対しても受入れ賛成へと転じせしめる「合意」が取れなかった場合は同じく無視して、受入れ賛成の「合意がとれないと物事が進められないものなのか」と本土の岩国基地へでも何でもいいから、普天間基地の移転を強引に推し進めるべきがバランスある政策というものであろう。

 もしも名護市に関してのみ、あるいは沖縄に関してのみ「合意がとれないと物事が進められないものなのか」と合意を経ない移転を可とするのは不公平そのものとなる。

 当然、本土を含めた移転先の様々な可能性に立った検討を情報公開を同時進行させながら経た上で辺野古以外にないということならまだしも、そういった経過を経ないうちから、選挙「結果をもって即、辺野古への移設を外すとか外さないということにはならない」と、単に名護市長選挙の結果だけを把えて、辺野古のみを対象とした選択肢の範囲内で発言するのは時期尚早、バランスを欠いた不公平な性格のものとなる。

 民意を「斟酌」しないからこそできるできる辺野古限定発言ということではないのか。

 政府の役目は、沖縄県民の県外・国外移設の民意を可能な限り検討課題に加えて、日本にある米軍基地を含めたすべての基地に亘って抑止力の点でもバランスの取れた基地及び兵力の配置を米政府と共に検討・デザインしながら、新しい日米安保体制、日本全体の安全保障を構築することであろう。

 日本の安全保障の全体像を描く上でどうしても辺野古を抜かせないということなら、あるいは沖縄を抜かすことができないということなら、あくまでも「合意」を前提として辺野古、あるいは沖縄を抜かすことができないことの説明を尽くすことが政府の次の役目としてあるはずである。

 平野長官は「(地元との)合意がなかったら、物事が進まないということですか? そこは十分検証したいと思います。そうでなくても、法律的にやれる場合もあるでしょうし、いろんなケースがあると思います」《官房長官、法的措置での決着に言及》 TBS/10年1月26日20:44)と法的措置にまで言及しているそうだが、あらゆる可能性を検討しないうちから「法律的にやれる場合もあるでしょう」と法的措置を持ち出すのは何様だか知らないが、一種の威嚇に当たる。

 そういった手続きが控えていることを考えもせずに名護市長選の結果のみで即反応するから、「斟酌して行わなければいけない理由はないと思う」とか、「選挙結果がすべて、国の安全保障の一環である基地問題についての民意として受け取るのか、そうではない」と愚かしくも狭い考えに立つことになる。
 
 この男の顔をテレビで見るたびにうんざりして、民主党支持の意志が萎える。

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沖縄基地、現在の“県外・国外移設”の民意に火をつけたのは民主党ではなかったのか

2010-01-26 11:08:28 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》
 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。


 1月24日日曜日に行われた沖縄県名護市の市長選挙は名護市辺野古への基地受入れ反対の新人64歳の稲嶺進氏が基地受入れ容認の現職を破って当選。民主、社民、国民新の与党三党に加えて、共産党、沖縄社会大衆党の推薦を受けての当選である。

 民主、社民、国民新の与党三党が辺野古への基地受入れ反対の稲嶺氏を推薦したこと自体が基地受入れ反対の意思表示を示したことになる。推薦が県連独自の判断で、党本部の判断ではないということなら、そのことの意思表示を別個に示す責任を負うはずだが、その種の意思表示がなかったのだから、稲嶺氏の当選は与党三党の基地受入れ反対の意思表示が名護市民を通して結実したことを示す。

 民主党の政権交代の意思表示が昨2009年8月30日の総選挙で国民を通して結実したようにである。

 当然、与党三党の稲嶺当選を受けた反応は自らの受入れ反対の意思表示を当選市長と名護市民の基地受入れ反対の意思表示と響き合わせて県内移設反対を強くアピールする、当選大歓迎の内容とならなければならない。民主党の反応を見てみる。

 《民意受け止め 国の責任で結論 》NHK/10年1月25日 15時19分)

 鳩山首相「名護市長選挙の結果は、名護市民の民意の一つの表れだと認識しており、民意は民意として受け止める・・・・いずれにしても、大事なことは、国の責任で、しっかりと普天間基地の移設先の結論を出すことだ。逃げてはいけない。平野官房長官を長とする検討委員会で、今、精力的に、移設先をどこにするか議論しており、5月までに政府として結論を出す強い決意だ」

 岡田外務大臣(辺野古沖移設への可能性について)「政府・与党の検討委員会では、普天間の移設先について、ゼロベースで議論している。ゼロベースということは、あらゆる可能性が含まれるということだ」

 決して大歓迎とはなっていないコメントとなっている。 

 「ゼロベース」と言うことは鳩山首相も言っている。

 《“あらゆる可能性含まれる”》NHK/10年1月25日 19時46分)

 ――選挙結果を受けて、5月末までに決める政府の結論に、名護市辺野古へ移設するとした現行案はまだ含まれているのか。

 鳩山首相「ゼロベースで最適なものを選びたいということなので、あらゆる可能性がまだ含まれている」

 鳩山首相「去年暮れに政府・与党の検討委員会を立ち上げ、そこでゼロベースであらゆる可能性を検討し、ベストの案を選ぼうという話になったので、当然あらゆるものが入ってくると理解してもらいたい。あらゆる可能性がまだ含まれている」

 《普天間移設、首相「まさにゼロベース」 稲嶺氏当選受け》asahi.com/2010年1月25日12時16分) 

 鳩山首相「選挙の結果は名護市民の一つの民意の表れだ。ただ、いずれにせよ、まさにゼロベースで国が責任を持って、5月の末までに結論を出す。必ず履行をする」

 「asahi.com」記事は首相の「ゼロベース」発言を次のように解説している。

 〈首相はこれまで「名護の市民の思いも斟酌(しんしゃく)しながら結論を早く導くよう努力したい」と述べ、名護市長選の結果を尊重する姿勢を見せていた。〉が、〈市長選の結果だけで判断すれば、国の安全保障政策を地元の判断に委ねるのかといった批判を招きかねず、「ゼロベース」で考えるとの姿勢を強調したと見られる。〉

 北沢防衛相の場合は「ゼロベース」という言葉は直接使っていないが、決定権は名護市の民意ではなく、政府の判断だと、政府が握っていることを表明している。

 北沢「これは名護市民の意思の表明だから極めて慎重に受け止めなければいけない。政権交代により、沖縄全体の中で県外、国外(移設)という気持ちの高まりは感じていた。そういうことも影響した結果という気がする。・・・(但し)政府が本来決めるべきものを、過重に選択をお任せする風潮はよくない」――

 「ゼロベース」とは白紙の状態から検討することを言う。いわば、「選挙の結果は名護市民の一つの民意の表れだ」と、「民意そのもの」と言わずに民意の「一つ」に過ぎないと貶めることで自らの決定に前以ての正当性を与えるべく、汚い言葉となるが、民意もクソもない、白紙の状態だと言っているのである。

 2006年5月に辺野古沖現行案案を含む米軍再編の日米合意が成立、閣議決定した(Wikipedia。もし自民党政府が続いていたら、自民党政権下の今回の名護市長選挙で今回と同じように受入れ反対派が勝利しようと、日米合意どおりに辺野古沖への移設に向けて計画は進められたはずだ。元々国の判断とすべき安全保障政策を一地方自治体の判断に委ねるのかという批判は自民党から民主党に向けた批判だったのだから、市長選の民意は自民党には関係ない判断基準とされたはずだからだ。

 民主党の普天間移設問題対応の経緯について簡単にではあるが、《民主党、県外移設言及せず 地位協定は「改定提案」》琉球新報/2009年7月24日)が教えてくれる。

 民主党マニフェスト07年版、「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化に応じて国外への移転を目指す

 衆議院選挙に向けた09年版(「政策集インデックス2009」)、〈「普天間県外移設」の文言はなく、「米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進める」との表現にとどまっている。〉――

 09年版に触れていないことについて民主党が衆議院選挙で勝利した後の、まだ内閣を発足させていない2009年9月11日の時点で岡田首相が言及している。鳩山発足は2009年9月16日。

 岡田幹事長(3党連立合意書に「県外・国外」との表現を盛り込まなかったことを問われて)「民主党のマニフェスト(政権公約)では、そういう(県外・国外との)表現は使っていない。3党連立合意の表現は党マニフェストのままだ」《政権公約に「県外」ない 普天間移設で民主・岡田氏》琉球新報/2009年9月12日)

 07年版には触れていることは隠して言っている。

 だが、《普天間問題 鳩山首相は「ゼロベース」を連呼 現地では現行計画撤回への期待高まる》FNN/09/01/26 00:13)は――

 〈2009年の衆議院選で、鳩山首相は海外や県外への移設を声高に訴えてきた。

 2009年8月、鳩山首相は「海外に移設されることが、移転されることが望ましいと思っておりますが、最低でも県外移設が期待をされると思っています」と述べていた。〉と書いている。

 そして民主党鳩山内閣が発足した。琉球新報社と毎日新聞社が合同で2009年10月31日、11月1日の両日に実施した米軍・安全保障問題に関する県民世論調査では、〈県外・国外移設70% 「辺野古」反対67%〉(琉球新報となっている。

 記事は、〈衆院選直前の世論調査では、県外移設と海外撤去を求める県民の割合は55・6%だったが、今回調査では14・1ポイント上昇し、政権交代で県外移設に対する県民の期待値が高まっている状況も示した。〉と解説している。

 民主党による政権交代の可能性が高まるに連動して、県外・国外移設の民意が高まり、政権交代を果たし、民主党鳩山政権を発足させたことによって県外・国外移設7割、「辺野古」反対約7割へと高まっていった。

 少なくとも07年版マニフェストに「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化に応じて国外への移転を目指すと書き、衆議院選挙中、当時の鳩山代表は海外や県外への移設を声高に訴えてきたのだであり、そのことに反応した沖縄県民の世論調査に現れた県外・国外移設への期待値ということなのだろう。

 言ってみれば、民主党は沖縄県民の民意に県外・国外移設の火をつけたのである。日米合意破棄の民意に火をつけたと言い直しても過言ではあるまい。

 そして今回の名護市長選挙で沖縄県民の民意に県外・国外移設の火をつけた当事者としての自らの立場を守って民主党は社民、国民新と共に辺野古への基地受入れ反対の稲嶺氏を推薦、名護市民の県外・国外移設の民意の結実に力を貸した。

 と言うことなら、移設は「ゼロベース」だと白紙の状態から検討するのではなく、県外・国外移設をベースに検討すべきであって、「ゼロベース」とすること自体が民主党のこれまでの姿勢を裏切るマヤカシとなる。

 ところが鳩山首相は昨年暮れになって先ず国外移設を沖縄県民の民意から外す、いわば国外移設に関してのみ「ゼロベース」とする態度を打ち出している。《普天間:鳩山首相の国外移設案否定 社民党が猛反発》毎日jp2009年12月27日21時09分)

 12月26日、27日の2日も同じ発言をしているそうだ。

 鳩山首相「グアムに8000人の(在沖縄)海兵隊が家族も含めて移ることは(日米合意で)決まっている。それ以上どうかというと、なかなか難しいのではないか。特に抑止力を考えれば難しい」

 記事題名どおりに福島社民党首が敏感に反応した。  

 福島党首「グアムは極めて有力な移設先と考えている。内閣を挙げて県外・国外移設を目指すべきだ。・・・・(結論時期について)大事なのは期限ではなく解決策。無期限にやるわけにはいかないが、多くの人、とりわけ沖縄の人々が納得する解決策を内閣を挙げて探すべきだ」――

 極めつけの「ゼロベース」は名護市長選の結果を受けて記者会見で示した平野官房長官の態度である。名護市民の民意(と同時に沖縄県民の民意)をバッサリと切り捨てて、究極の「ゼロベース」――民意をまっさらの白紙とする検討を主張している。

 民意は白紙だから、当然政府に決定権を持たせることになる。

 《“選挙 しん酌する理由ない”》NHK/10年1月25日 12時26分)

 平野(基地受入れ反対派の市長が当選したことについて)「民意の1つであることは事実であり、それを否定はしないが、今後の検討では、そのことをしん酌して行わなければいけない理由はないと思う。名護市辺野古への移設という選択肢をすべて削除するということにはならない」――

 平野「政府・与党の検討委員会は、ゼロベースで移設先を検討している。5月末までに結論を出すというのは、鳩山総理大臣の強い指示なので、それに向けて全力で努力する。地元に対して当然理解は求めるが、最終判断は政府が決める」

 もう少し別の言い方があると思うのだが、県外・国外移設の民意は否定しないが、それを斟酌しなければならない理由はないと非情にも言い放ち、最終判断は政府が決めると県外・国外移設の民意を否定する矛盾を平気で犯している。

 では、市長選挙は何のためだったのかと言うことになる。何のために与党三党は移設受入れ反対の稲嶺候補を推薦したのか。何のために県外・国外移設の民意に火をつけたのか。

 推薦したことも火をつけたことも歓心を買って選挙で票を得るためのマヤカシ、見せ掛けだったと言うことなら、説明がつく。火をつけ、推薦しておきながら、民主党は市長選挙期間中、応援に大物議員を狩り出すこともなかったと上記「FNN」記事が伝えているが、県外・国外移設が表向きの態度だったということなら整合性が取れる、その表れとしてあった大物議員の応援なしだったということなのだろう。

 例え県外・国外移設が不可能となって、日米合意通りに辺野古沖移設に落着くことがあっても、移設反対の民意を「斟酌(しん酌」した着地点としなければならないはずだ。また「最終判断は政府が決める」にしても、民意を「斟酌」した同意の取り付けも必要となる。

 それを何様になったつもりなのか、沖縄県民の市長選勝利の余韻も醒めないうちに一刀両断に「しん酌して行わなければいけない理由はない」と頭から否定している。

 勿論平野官房長官のこの発言に社民党の福島党首は反対している。

 「海上基地を作るべきではないという方が当選したのだから、地元の民意は重い」(NHK)――

 少なくとも自分たちが火をつけた県外・国外移設の民意の完璧な「ゼロベース」を貫いて決着を果たしたなら、ますます国民の信用を失い、支持率を下げていくに違いない。

 国家の重要な外交に関わる一地方の民意であったとしても、暫定税率廃止問題や子ども手当と同様、前後の態度の整合性を喪失させるような政治決定は沖縄県民だけではなく、全国民に信用のなさを印象づけることになるからだ。

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舛添は足利事件を何ら学習できずに検察捜査に冤罪も不起訴も存在しないと言っている

2010-01-25 09:28:08 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。


 昨1月24日日曜日、フジテレビの「新報道2001」で自民党の舛添要一前厚労相と民主党の細野豪志副幹事長が小沢民主党幹事長が資金管理団体土地購入に関わって政治資金規正法違反の疑いが掛けられている問題について是非の議論を戦わしていた。

 当たり前のことだが、舛添は自民党議員という立場上、“非”の態度に終始、細野は民主党という立場上、“是”の姿勢を取り続けたいたようだ。分かり切っていた上に、舛添の小沢問題を通した民主党批判はその他の自民党幹部の民主党批判の焼き直し、あるいは繰返しに過ぎないことも分かり切っていたことだったから、舛添をエセ政治家だと頭から信じ切っていることもあって、ビデオにも撮らずにパソコンを叩きながら適当に聞き流していた。

 【エセ】=似非――「似てはいるが本物ではない、見せ掛けだけの、の意を表す」(『大辞林』三省堂)

 次の発言だけを耳がしっかりと把えた。

 「日本は法治国家であって、独裁国家ではない。検察も法と証拠に基づいて捜査をする。検察が参考人として事情聴取するといったことは大変なことなんですよ」

 これも谷垣総裁か大島幹事長か、町村かが同じように言っていたセリフで、その焼き直し、あるいは九官鳥かオームが同じ言葉を立て続けに言うような同じ繰返しに過ぎないから、自然と耳に入ったのだろう。

 「法と証拠に基づいて」がすべて絶対正しいと言うことになったなら、冤罪も不起訴も存在しなくなる。

 だが、冤罪は存在するし、逮捕、取調べた結果、立証できなくて不起訴ということも存在する。

 足利事件も検察は「法と証拠に基づいて捜査」をしたはずだ。それが冤罪だったということは「法と証拠に基づいて」冤罪をデッチ上げたと言うこともできる。見事な逆説ではないか。

 いわば検察がいくら「法と証拠に基づいて」自らの職務を遂行していたとしても、検察という存在を絶対とすることはできないと言うことである。

 当然、その証拠も絶対とすることはできない。絶対とすることができない間違った証拠を基に捜査したから、無実の罪を着せることになったはずだ。〈当時のDNA型鑑定の精度について、弁護側が足利市だけでも約50人が一致したと質問すると、「それくらいの知識はあった」〉(時事ドットコム)と述べているにも関わらず、検事は疑ってかかることをせず、鑑定結果から絶対犯人だを固定観念化させ、その固定観念に基づいて犯人だとする自白を引き出すべく、そこに狙いをつけた自白のみを求め、狙いに反する自白は排除・否定して、それぞれを積み上げていって起訴に持ち込んだのだろう。

 菅谷利和氏の供述・自白が二転三転することからも、それをウソと看做す固定観念を働かすのみで、自分たちの「証拠」を疑ってかかることをしなかった。

 検察・警察がつくり上げた固定観念は菅谷利和氏が法廷で否認に転じても揺らぐことなく、判決をも左右した。

 “法と証拠に基づいた捜査”が絶対ではないからと言って、小沢幹事長に対する現在の検察捜査や事情聴取が間違っているとすることは勿論できない。小沢氏自身が不正なカネの流れに直接関与した証拠が上がる可能性も否定できない。

 しかし現在は検察の捜査段階であって、すべてが決定事項であるわけではない。小沢幹事長が例え逮捕・起訴され、有罪が確定しても、鈴木宗男が狙っているように最高裁まで争う可能性も否定できないのだから、最終結末まで待つしかない。

 町村も同じ24日の朝日テレビ「サンデープロジェクト」で、「検察が何の確信もなく動くはずはない」と言っていたが、やはり“検察の確信”を絶対と看做す固定観念を前提とした予断ですべてを判断しようとしている。

 現在足利事件の再審が行われていて、法廷で残されていた検事の取り調べテープを再生、取調べのどこに過ちがあって冤罪が引き起こされたか検証している最中であるにも関わらず、舛添もその他自民党の面々も足利事件から何ら学習できていない。客観的な合理的判断能力を著しく欠くからだろう。

 足利事件で再審で、菅家利和氏が次のようにかつての取調検事に尋ねている。

 「森川さん。17年半もの間、無実の罪で捕まっていました。あなたはこのことをどう思いますか」

 森川元検事「私は当時、主任検事として証拠を検討し、その結果、菅家氏が(松田)真実ちゃんの殺害事件(足利事件)の間違いないと判断しました。新たなDNA型鑑定で犯人でないとうかがって、非常に深刻に思っているところです」(msn産経

 菅家利和氏「自分に無実の罪をきせたことについて、謝ってください」

 森川元検事「先ほど申したとおり、私も厳粛に、深刻に受け止めています」(同(msn産経

 1991年12月2日、45歳で逮捕なのか、それから17年半、62歳で釈放。無実の罪で17年半も刑務所に囚われ、人間としての自由を奪われてきた。無実であるだけに遣り切れなさや居たたまれなさ、苛立ちに満ちた苦痛と絶望の17年半の生活だったに違いない。

 言ってみれば、一個の人間に対する一種の精神的殺人に相当する身体拘束と自由の抑圧ではなかったかと言える。精神的殺人に相当する社会からの残酷な隔離であったろう。

 検察と警察が自らの「法と証拠に基づいて捜査」した挙句に犯すことになった精神的殺人である。

 人一人を17年間半もの間、精神的殺人の状態に置き、精神的な後遺症を一生引きずらせることになるだろう心的外傷を与えながら、菅家利和氏の「自分に無実の罪をきせたことについて、謝ってください」の問いかけに謝罪の一言も述べずに、「厳粛に、深刻に受け止めています」の一言で済ませる。

 一言で済ませることができる精神の持主だからこそ、「法と証拠に基づい」た固定観念で犯人だとデッチ上げることができたに違いない。

 小沢幹事長が「本来ならばこの種の問題は形式犯だから修正で済む」と言っていることに対して、町村はサンデープロジェクトで、「形式犯であっても政治資金法違反は一番重い。5年以下の禁錮、100万円以下の罰金だ」とか言っていたが、罰則事実を述べただけのことで、罰則の確定を行うのは町村自身ではなく、また他の自民党の面々でもなく、またマスコミでもないはずだが、小沢幹事長の政治資金法違反を前提とした罰則確定の上に立ち、罰則事実を述べている。

 これは足利事件を取り調べた警察・検事の固定観念を前提とした犯人確定に重なる。冤罪や不起訴といった可能性を一切排除して、先ず犯罪や犯人を確定し、そこにすべての事実を当てはめようとしている。

 疑わしきは罰せずの鉄則を忘れ、疑わしい時点で銘々勝手に裁いて罰則まで下そうとしている。

 舛添をエセ政治家だしているのは、当ブログで色々と批判しているが、特に、「自民党再生は駄目だ。悪いものを再生してもしょうがない。叩き割って新しいものをつくらないといけない」とか、「自民党の歴史的な役割は終わっており、名前を変えるくらいのことをして作り替えることが必要だ」等々、自身が所属する自民党をクソ味噌に悪く言うことで自身を逆の状況に置いて自分の評価を上げようと謀っている狡猾・巧妙な点をエセ政治家だとする一例として挙げることができる。
 

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自民党はすべての人に公正ではなかった政府経営をしてきたと自ら暴露している

2010-01-24 07:06:10 | Weblog

  ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 《民主党に夏の参院選挙で勝利させて、衆・参両院とも過半数のチャンスを与え、民主党政治を存分に発揮できる活躍の場を提供してみてはどうだろうか――

 民主党は民主党政治を存分に発揮できる衆・参両院の過半数を求めて、国民に夏の参院選での勝利を訴えるべきではないだろうか――》


 自民党は1989年の参院選で社会党に大敗、プラス連合の会を向こうにまわして参議員過半数割れ、それ以後、自民党分裂を受けた1993年の第40回総選挙でも過半数割れ、9カ月足らず野党に転落の歴史を抱えているが、2007年7月の参院選で民主党に敗れるまで戦後ほぼ一貫して、衆・参とも過半数を維持、自民党政治を恣(ほしいまま)とするチャンスを独占してきた。

 次は民主党にも衆・参過半数のチャンスを与えて、衆・参過半数下の民主党政治がどう展開されるか、じっくりと眺めてみるのもアリではないだろうか。

 
 1月22日の「NHK」記事――《自民 綱領案は小さな政府転換》

 今日24日の自民党党大会で、2005年の小泉政権の際に改定した綱領で掲げた「小さな政府」を転換して「すべての人に公正な政策を実行する政府」を目指すとする綱領案を採択の予定だそうだ。

 その他の骨子は、鳩山政権が進める子ども手当などの政策を念頭に、「国民の自立心を損なう社会主義的政策はとらない」

 「政治主導という言葉で、反対意見を無視して、判断を独裁的に押しつける国家社会主義的統治と断固、対峙する」

 「常に進歩を目指す保守政党」として、「誇りと活力ある日本像」を実現する。――

 確かに素晴らしい言葉を連ねてはいるが、あくまでも言葉であって、実行可能な政策へと反映させることができ、国民生活に恩恵を与える形で実現可能とすることができるかどうかが常に問題となる。果してこういった政策経緯を取ることができるのだろうか。

 鳩山政権が進める子ども手当が「国民の自立心を損なう社会主義的政策」だと言うなら、麻生政権が始めたエコカー減税や家電エコポイント制度は企業の自立心を損ねかねない、困ったときの政府頼りの社会主義的政策と言えないことはない。

 また民主党の政治手法が「政治主導という言葉で、反対意見を無視して、判断を独裁的に押しつける国家社会主義的統治」だとするなら、かつての与党自民党が数の驕りで野党の反対意見を無視して自分たちの判断を独裁的に押しつけきた国家主義的統治の歴史からすると、謂れのない矛盾した批判とならないだろうか。

 だからこその野党転落を契機として「小さな政府」から「すべての人に公正な政策を実行する政府」へと転換せざるを得なくなったということではないのか。野党になったからと言って、与党時代の負の体質が綺麗さっぱりなくなるわけではあるまい。

 「小さな政府」への転換については「47NEWS」記事――《自民新綱領「小さな政府」を修正 24日の党大会で承認へ》(2010/01/20 19:01 【共同通信】)からも知ることができる。

 〈自民党は20日、従来の「小さな政府」路線を軌道修正する新綱領の執行部原案について、所属議員らから意見を聞く会合を党本部で開き、大筋で了承を得た。24日の党大会で承認する見通し。〉と書いている。

 この記事では〈目指すべき国家像として1995年の改定以来掲げてきた〉としていて、その「小さな政府」という表現が格差社会を生んだ市場原理主義の負のイメージを招くとの観点から「すべての人に平等な政策を実行する政府」と改めたと、「NHK」記事が「公正な政策」としているところを「平等な政策」と表現している。

 その他の骨子として「次世代の意思決定を損なわぬよう国債残高の減額に努める」と財政再建重視の立場を掲げているということだが、これも無規律・無軌道に散々に赤字国債を発行して財政規律を粗略に扱ってきた自民党の過去の歴史から生じた問題なのだから、自分たちの杜撰な財政運営の尻拭いだと位置づけなければならないはずで、と同時に民主党にも協力を求めるとしなければ、責任のない人間が責任を果たしますと言うような滑稽な矛盾を曝すことになる。

 この「小さな政府」から「すべての人に平等な政策を実行する政府」への転換に関して出席者から、〈「平等という言葉には違和感がある」(柴山昌彦衆院議員)、「民主党の子ども手当のようなばらまきを認めるのか、との誤解を与える」(増原義剛元衆院議員)と疑問の声も相次いだが、取りまとめ役の伊吹文明元幹事長が「さらに良い言葉があったら変えたい」と再修正を約束して引き取った。〉という。

 安倍元首相がかつて掲げた「再チャレンジ政策」は美しい言葉で終わった「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」をテーマとしていたが、厳密に言うと、「機会の平等」も「結果の平等」もこの世に存在しない。だから、美しい言葉で終わった。

 となると、「平等という言葉には違和感がある」は正しい見方となるが、だからと言って、国民の負託を受けた国会議員が格差の形成要素ともなる不平等を是としていいわけがなく、より平等であることを求め、格差を小さくし、決してなくなることはないにしても社会の矛盾を少しでも是正していく闘いを担うことが政治家の務めなのだから、「平等という言葉には違和感」を持たれたのではかなわない。

 「47NEWS」記事は最後に自民党谷垣総裁の言葉を伝えている。

 「昨年の(衆院選)大敗を受け、党が国民のために何をやるのか、ようやく整理できてきた」

 そう、「整理できてきた」。どのような整理か改めて問うと、自由民主党は今までは「すべての人に平等(公正)」ではなかった「政策を実行する政府」だった、自民党政治はそういった歴史を過去に於いて担ってきた。今後は「すべての人に平等(公正)」ではなかった「小さな政府」を転換して「すべての人に平等(公正)な政策を実行する政府」を目指すとする「整理」である。

 いわば自民党がすべての人に平等(公正)ではなかった政策を実行してきた政府を経営してきたと自ら暴露する「整理」でもある。野党に転落して、そこから転換せざるを得なくなった。

 自民党政治がすべての人に平等(公正)ではなかった政策を実行してきた政府であることは“政・官・財癒着”なる自民党政治の本質的な実態そのものが象徴的に証明している。富の配分を“政”と癒着した“官・財”と“政”自身に重点的に行ってきた。すべての人に「平等(公正)」な配分ではなかった。

 その典型的な例が天下り、渡りに見る“政・官・財癒着”であり、財も巻き込んだ族益・省益政治に見る“政・官・財癒着”であろう。

 だが、自民党は戦後60年近くもほぼ政権を担当してすべての人に平等(公正)ではなかった“政・官・財癒着”の政策を実行してきたのだから、当然、そういった“政・官・財癒着”は構造的体質となっていると疑ってかからざるを得ない。“政・官・財癒着”から離れて「すべての人に平等(公正)な政策を実行する政府」には簡単には体質変換は難しいと見なければならない。

 野党に転落した自民党は“みんなでやろうぜ全員野球”を党運営の柱と主張した谷垣新総裁を選出して“新生自民党”を誓った。そしてここにきて「小さな政府」から「すべての人に平等(公正)な政策を実行する政府」への転換を図ることにした。

 ここでの“新生”とは今までの命が新しく生まれ変わることを言う。河野太郎が総裁選で、「古い政治の手法を引きずった人を再びベンチに入れることはない。森元首相や比例復活の派閥の領袖は退場して、若い世代に議席を譲るべきだ」と主張したが、それが正しい主張か否かは受け止める者によって違いは生じるだろうが、少なくとも新旧交代の命の生まれ変わりを求めたもので、“新生”の意図を担っていた。

 だが。谷垣が“みんなでやろうぜ全員野球”を宣言して自民党新総裁に当選した時点で、河野太郎の言葉を借りると、新も旧も「ベンチに入れる」、“新生”とは相反する党運営を決定したことになる。

 にも関わらず、“新生自民党”を看板としている。政・官・財癒着”をリードし、古い政治の手法を引きずった森、古賀、青木、利権顔と言われた二階等々を野党転落後も今までどおりにベンチに温存する、どこが“新生”か分からない谷垣新総裁の“みんなでやろうぜ全員野球”だったわけである。

 “みんなでやろうぜ全員野球”という組立てで森、古賀、青木、二階等々が今以て自民党を支配する陰の君臨者を構成している限り、“新生自民党”の“新生”は見せ掛けであり続けるだろう。

 自由民主党が“政・官・財癒着”を旨としてすべての人に公正ではなかった政策を実行してきた政府経営が自民党の構造的体質となっているだろうということ、“みんなでやろうぜ全員野球”とすることで古い政治の手法を引きずった政治家を従来どおりにベンチに温存していること、これらのことによって“新生自民党”の“新生”が見せ掛けとなっていて、いわば全然新しく生まれ変わっていないことから、いくら「小さな政府」から「すべての人に平等(公正)な政策を実行する政府」への転換を掲げようとも、生まれ変わってもいない旧体質に新しく生まれ変わる要素をいくら注入しても、受けつけるとは到底思えない。

 自民党が“政・官・財癒着”の不公正な利益配分を政府経営の構造的な体質としてきた古い政治手法から真に“新生自民党”を果たすには河野太郎が言うように「古い政治の手法を引きずった人を再びベンチに入れることはない。森元首相や比例復活の派閥の領袖は退場して、若い世代に議席を譲るべきだ」の劇薬を以ってして荒療治に出るべきだったが、谷垣総裁はそれを否定、“みんなでやろうぜ全員野球”でもって政・官・財癒着”をリードし、自民党支配の陰の実力者として君臨してきたおどろおどろしい政治屋までも温存することとなった。

 いくら新綱領で「すべての人に公正な政策を実行する政府」を目指すと美しい言葉を連ねたとしても、すべての人に公正ではなかった政策を実行する政府経営をしてきたことの裏返しでしかなく、“政・官・財癒着”をリードし、古い政治の手法を引きずった面々を排除しているというならまだしも、温存したままではその転換を実現可能とし、国民生活に恩恵を与える期待は限りなく低いと言わざるを得ない。

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