尾木直樹こども基本法講演:"個人としての尊重"なしに「子どものことは子どもに聴こう」を掲げる愚鈍

2024-08-25 15:09:22 | Weblog
  「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3. 居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 ――尾木直樹は日本人の平等の意識化不足を無視してスウェーデンの体罰激減を"社会ぐるみの意識改革"のみに要因を置き、その点に日本の体罰激減を期待する視野狭窄に陥り、気づかないままでいる――

 2022年7月23日の日本財団主催「こども基本法制定記念シンポジウム」での尾木直樹の講演の続き、次のテーマを取り上げる。前のテーマと同じく画像で画面上に提示していたから、テキスト化して紹介しておく。
 
 「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう!

①「こども基本法」を実体化させる→“こどもまんなか”社会の実現に向け、十分
 な予算と人材の確保を!
② 当事者の視点に立った細やかで丁寧な取組→自治体や民間団体、企業等との
 協働•パートブーシップが重要
③ 「子どもの榷利条約」謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及•推進
 する→大人側への啓発活動が重要
④ 子どもに対する体罰、虐待等の禁止→「法律が変わっただけでは体罰や虐待
 はなくせない」ので、メディア等とともに地道で粘り強い啓発活動を通じ、親
 や社会、人々の意識を変えていくことが必要(例:スウェーデン)
⑤ 「コミッショナー制度」の確立と導入に向けた検討の継続→最後の砦として
 の「駆け込み寺」の機能を
⑥特にいじめ問題における実効性の伴った「勧告権」の発動を→問題が“解決”す
 るまで見届けることが必要
⑦すべての政策を「子ども参加」で→子どもに関わることは当事者の子どもに意
 見を聞き、受け止め、考慮する必要

 この記事では①番目から④番目までを取り上げる。

 尾木直樹「『こども基本法』を実体化させる。子どもをど真ん中に置いて支援していくという社会の実験に向けてやっぱり十分な予算と人材(強調する)。教育問題は殆ど予算を倍にして、先生の人数を倍にしたら、あるいはクラスのサイズは2分の1にするとか、肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています。

 2つ目は教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを自治体や民間団体、それから企業なども含めた協働とかパートナーシップが大事だろうというふうに思います。

 3つ目ですね、子どもの権利条約に謳われている子どもの権利を包括的に強力に普及する大人側への啓発活動が勿論、これは重要だと思っています」――

 以上は、〈「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 〉で掲げた提言のうち、① 番目と② 番目、③ 番目についての発言である。①については、「こども基本法」を実体化させる。実体化のバックアップ策として「十分な予算と人材」の確保。具体的には「教育問題は殆ど予算を倍」、「先生の人数を倍」、「クラスのサイズは2分の1」にする。

 こうすれば、いわば「こども基本法」の"実体化"(当方が言う「義務化」に当たるはずである)に関しては、「肝心なところで一気に問題は6割は解決するというふうに思っています」と確実性を持った予測を立てている。要するに政策的要素によって「こども基本法」が規定している諸取り決めの"実体化"は「6割は解決する」ということであって、残り4割の解決はあとの②番目、③番目が担うことになるということになる。

 ②番目は自治体や民間団体、企業などが協力して教育者の視点に立った細やかな丁寧な取り組みを行う。

 ③目は「子どもの権利条約」が謳う子どもの権利を"包括的で強力な普及"(「実体化」、あるいは「義務化」)に持っていくための「大人側への啓発活動」の重要性を言い立てている。

 最後まで触れていない肝心な点について前以って再度触れておくことにする。子どもの諸権利を保障するための教師一人ひとりが原則としなければならない基本的姿勢である。どのような子供に対しても一個の人格を有した"個人として尊重"できるかどうかという姿勢のことで、この姿勢を基本的、あるいは原則としなければ、子どものどのような権利を口にしようとも、単に舌の上で言葉を転がすだけの権利、綺麗事の権利で終わる。"個人として尊重"できなければ、如何なる権利も眼中に置くことはできないからだ。

 その極端な事例として「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在である」を動機として殺人という形でこの世から19人もの障害者を抹殺した2016年の相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園事件」を挙げることができる。

 いわば児童・生徒を"個人として尊重"できるかどうかが子どもの諸権利の保障へと向かうスタート台の役目を果たすと言っても過言ではない。

 成績の悪い子であっても、家が貧乏な子であっても、障害のある子であっても、一個の人格として"尊重"する、一個の個人として"尊重"する。その"尊重"は相手の考えや意見にまで反映することになる。既に触れたようにこの"尊重"が相互の信頼関係を築く糸口となり、相互の信頼が相手側の責任感や主体性等の姿勢を育んでいく礎となる。

 当然、教育予算と人材を倍増し、クラスのサイズが2分の1になれば、教師はどのような児童・生徒に対しても余裕を持って"個人としての尊重"姿勢を発揮することができるようになるだろう。だが、"個人としての尊重"姿勢を元々から欠いていたなら、教育予算と人材がどのように倍増されようと、クラスのサイズがどう縮小されようと、また「こども基本法」が子どもの権利についてどう謳っていようと、「子どもの権利条約」が子どもの権利についてどう約束していようと、その主張・約束はスローガンの域を出ないことになる。

 要はどのような政策の前にも、どのような法律の前にも、核となるのは教師が児童・生徒に対して"個人としての尊重"を基本的姿勢とすることができるかどうか、基本的姿勢を原則としうるかどうかであって、教育予算や人材がどうのこうのは本質的問題ではない。

 「4番目ですね。子どもに対する体罰、あるいは虐待等の禁止。これは法律が変わるだけでは体罰、虐待はなくせないので、特にメディアと共に地道に粘り強く啓発活動を親や社会、人々の意識を変えていくことが重要だと」――

 法律による禁止規定+地域社会やメディア、民間団体との連携+親や社会、人々の意識を変えていく啓発活動の総合性によって体罰・虐待等の消滅可能性を謳っている。教師や保護者による子ども一人ひとりを"個人として尊重"することのできる態度・姿勢の必要性はあくまでも問題外にしている。
 
 2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」は「第3章 基本的施策」の「第17条 関係機関等との連携等」で、〈国及び地方公共団体は、いじめを受けた児童等又はその保護者に対する支援、いじめを行った児童等に対する指導又はその保護者に対する助言その他のいじめの防止等のための対策が関係者の連携の下に適切に行われるよう、関係省庁相互間その他関係機関、学校、家庭、地域社会及び民間団体の間の連携の強化、民間団体の支援その他必要な体制の整備に努めるものとする。〉と謳っているが、イジメがなくならない状況、年々増加している状況は法律を義務化できずにスローガン状態にしていることの現れであると同時に「イジメ防止等のための対策」を目的とした「関係機関との連携」にしてもその役割を有効に機能させることができていないことの何よりの前例の一つとなるはずだが、尾木直樹は前例を省みることなく、約10年経過後も「こども基本法」が同じように規定している"関係機関との連携"を取り上げて、そのままに有効に機能するかのように主張するのは安易というだけではなく、無責任そのものであろう。

 さらには啓発活動に基づいた親や社会、人々の意識の変革の必要性にしても、同「いじめ防止対策推進法」が第21条で「啓発活動」として、〈国及び地方公共団体は、いじめが児童等の心身に及ぼす影響、いじめを防止することの重要性、いじめに係る相談制度又は救済制度等について必要な広報その他の啓発活動を行うものとする。〉ことを求めているが、条文がスローガンのままで推移しているに過ぎないことは昨今のイジメ認知件数が証明することになるだけでなく、「こども基本法」でも啓発の積極的な実施を謳わなければならない点に成果の不毛性を十分に窺わせることになる。

 となると、尾木直樹は国民一人ひとりが法律を具体化(当方が言う義務化)するにはどうすべきか、「関係機関との連携」や「啓発活動」を機能させるにはどうすべきかを解説しなければならないのだが、パネリストとして必要とする義務を果たさずに実現できるかどうかも分からない必要性だけを言う。その自身の無責任に気づかない。

 ではなぜ「いじめ防止対策推進法」が機能しなかったのか、なぜ「関係機関との連携」や「啓発活動」が有効性を発揮し得なかったのか、その理由を考えると、イジメや体罰、その他の問題行動が発生する直接的な最前線は学びの場である学校であり、体罰や虐待が発生する直接的な最前線は養育の場である家庭であって、関係機関や民間団体、地方自治体ではなく、利害の関係性に濃淡が生じて、熱心さ、あるいは切実さに差が出るからだと推測できる。

 例えば自分の子どもが学校でイジメに遭っていないだろうかと考えることはあっても、実際に遭っていなければ、一企業に身を置いていると、そこでの利害を常日頃からより切実な問題として抱えることになり、後者を優先課題とし、前者を時折り頭に思い浮かぶ心配事で片付けてしまって、連携だとか啓発だとかにまで手が回らないままに納めてしまうからだろう。

 但し学校、あるいは教師がイジメや体罰が発生することによって直接的に利害が関係してきても、その利害は事態が大きくならない前に沈静化させて学校や教師の責任を最小限に抑える場所に限度を置いているとしたら、重大事態に至らない限り、自らの責任感をさ程重く受け止めることはないのだろう。

 こういった状況に手を貸しているのは「イジメは完全にはなくすことはできない」という世間一般に流布している言説に教師までもが染まっているという事実を挙げることができる。イジメを事実そのとおりになくすことはできなくても、なくす努力を払わなければ、世間一般の言説に便乗して止むを得ないこととイジメの発生に妥協することになる。

 もし尾木直樹自身が法律は変わったとしても、法律が求める禁止規定、あるいは逆の義務規定が条文どおりに機能するわけでもないと、そのスローガン性を前提とするなら、その前提は"関係機関との連携"に関しても、「啓発活動」に関しても利害関係に差があることが原因となってスローガン性を引きずる結果を招くことを当然の道理としなければならないはずだが、優秀な教育者だからなのか、当然の道理とする考えは一切起きないようだ。

 何事も学びの最前線である学校社会に於ける教師対児童・生徒の人間関係の質が、あるいは家庭社会での保護者対子どもの人間関係の質が学校生活や家庭生活での彼らの行動に影響を与えて各種問題行動となって現れたり、現れなかったりするのだから、やはり心がけるべきは教師が、あるいは保護者が児童・生徒、あるいは子どもという存在に対して"個人として尊重"できる態度・姿勢を取ることができるかどうかに掛かることになる。

 特に1日のうち、一般的には学校での生活時間の方が長いことを考えた場合、教師の児童・生徒に与える人間関係の質は家庭に於ける保護者との人間関係が余程のことがない限り、より大きな影響を与えるはずだから、心してその質に注意を払わなければならない。

 だが、尾木直樹は教師が基本的姿勢とすべき児童・生徒に対する"個人としての尊重"を何ら問題とせずに予算の倍増等で「こども基本法」の実体化、あるいは義務化は「6割は解決する」と請け合い、あとの4割は関係機関との連携や啓発活動で、「いじめ防止対策推進法」という機能不全の前例があるにも関わらず、その前例を顧みることなくさも片がつくような安易さを見せて平気でいられる。

 尾木直樹が法律が変わるだけではなくせない例として体罰と虐待のみを挙げて、認知件数が桁違いに多く、未然防止が極めて困難な上、事後解決に追われることになるイジメを挙げていない点は不自然だが、「いじめ防止対策推進法」が施行された2013年9月末日から半年も経たないうちにこの法律を「子どもの命を救う法律」だと、いわば法律が変わっただけでイジメをなくせると見ていた(どのイジメが自殺を誘うか前以って把握できない以上、イジメの根を断たない以上、イジメ自殺はなくせない)過去の安易な過ちに対する本能的な回避意識が狡猾にもイジメを事例から抜いたと見ることができるし、見られても仕方ない安易な過ちを見せていたと指摘できる。

 「ちなみに最も体罰に厳しい国はスウェーデンなんですけども、スウェーデンは1979年に世界で初めて親の体罰も禁止するのを決めました。ところがですね、スウェーデンで60年代に体罰を肯定していた人は55%です。国民の体罰をやったよーと言っている人が95%もいるんですね。

 ところが2018年、ついこの間ですけども、体罰肯定派は1%。そして体罰やちゃったよーと言っている人が2%しかいない。激減させているんですね。そして啓発活動もポイントでした。消費者庁は全家庭に配ったり、牛乳パックに『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』とか、文句を書き込まれていたり、学校も授業の中で教えたり、第一案件で社会を意識改革させたんですね。こういうこと、日本も『子ども基本法』が制定された以上、メディアとか、社会ぐるみでやっていく必要がある」――

 尾木直樹らしい上っ面だけを見た、底の浅いゴタクとなっている。体罰もブラック校則と同様に大人が自らの価値観、考えを権威として子どもの価値観を無視して押し付ける上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を力学として引き起こされる。

 だが、尾木直樹は、既に前のところで触れているが、子ども権利条約発効に際して出演したNHKの番組で子どもの権利について喋っていたのだろう、自分の勤める学校で体罰が行われていて、それに有効な処置もできずに心因性の狭心症に罹り、教師の職を辞めざるを得なくなった1994年も、今回取り上げている「こども基本法制定記念シンポジウム」にパネリストと講演している2022年7月時点でも、体罰やブラック校則、イジメが権威主義の力学がなせる技だとは気づいていない。そして恐らく現在も気づいていないに違いない。

 権威主義の行動様式は、当然のことだが、上下の関係力学に基づいて発動される。いわば同じ目線に立ってはいない。教師の児童・生徒に対する体罰もブラック校則も同じ目線に立たず、目線を上に置いているから可能であって、児童・生徒のイジメ加害者と被害者の関係も同じ目線に立つことができず、前者が後者に対して目線を上に置いているから可能となるイジメという名の攻撃となる。

 断るまでもなく、この権威主義は人間の自由と平等を尊重する民主主義とは対立関係にある。日本は制度としては戦後に民主国家とはなったが、戦前の権威主義を、戦前程には色濃くないものの、身分制度や長幼の序としての年齢に基づいた上下関係、あるいは先輩・後輩の関係や性別に基づいた上下関係といった形で戦後も意識の中に残していて、それが地位で人間の価値を計る地位差別や学歴で人間の価値を計る学歴差別、性別で人間の価値を計る男女差別等の形で現在も残している。

 このことは2023年版「ジェンダーギャップ指数」の国際順位となって現れている。日本は教育到達度では完全な平等を達成しているが、その内容は識字率、就学率等を計った制度的平等であって、意識としての平等を示しているわけではない。一方で政治参画(閣僚や議員数の男女比)や経済参画(労働参加率の男女比、同一労働における賃金の男女格差、推定勤労所得の男女比、管理的職業従事者の男女比、専門・技術者の男女比)等で平等数値が特に低いのは憲法等で表向きは平等を謳っていても、それが意識にまで達していなくて、不平等意識を内面に抱えていることからの格差現象であり、それが日本は146ヶ国中125位の低い順位に付けているということであって、スウェーデンの世界5位からは日本と比較して遥かに意識としての平等(=平等観念の意識化)を実現させていると見なければならない。

 スウェーデンの大人たちの間のこの意識としての平等(=平等観念の意識化)の進行度合いが体罰の激減の要因となったと見るべきで、体罰や虐待、イジメを減らすためには教師、保護者、児童・生徒共々に上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動様式を極力排して、平等の意識化(このことは"個人としての尊重"の精神に重なる)を図らなければならないのだが、尾木直樹はこの点についての考えは何もなく、スウェーデンの体罰激減を"社会ぐるみの意識改革"のみに要因を置く視野狭窄に陥って、気づかないままでいる。

 当然、日本の消費者庁が真似をして牛乳パックのレッテルに「『子どもは叩かない』とかね、『叩かないでも育つ』」とか書かせて頭に記憶させることになっても、権威主義的行動様式を内に抱えている状況下で対人関係での軋轢や衝突が生じた場合、理性的な対応よりも権威主義的な対応が本能的衝動として優先され、頭の記憶を簡単に無力化させてしまうことになりかねない。

 そもそもからして大学で教育学や心理学を学んでいる教師が子どもに体罰を働く、教育を受け、社会に出て人間関係を学んでいるはずの親という人種が子どもに暴力を振るうのは上に対して下を強制的に従わせようとする権威主義的な力学に感情的に取り込まれてしまうことが一般的な原理となっていると見なければならない。

 当然、日本人が行動様式の根のところで今以って抱え込んでいる権威主義を抹消して、平等を意識化するところにまで持っていかなければ、スウェーデンのようにはいかないだろう。

 尾木直樹のこのシンポジウムでの発言とは関係しないことだが、日本人が根のところに権威主義的行動様式を残している以上、学校での授業でもその影響を受ける。その影響は暗記教育という形を取っている。暗記教育とは教師が教科書の記述と教師用の参考書の記述のほぼ範囲内でその記述をなぞる形で教え、児童・生徒は教えられたとおりに記憶していく、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的知識授受の形式を取る


 結果、例え100%記憶したとしても、自身の考えや意見、思いを付け加えない、どのようにも発展させることのないそのままの知識を受け継ぐことになる。いわば1+1=1で推移し、1+1=を3にも4にも膨らませたり、発展させたりする機会を持たない他者の知識を自分の知識とすることになる。

 この権威主義的力学に基づいた暗記式知識が日本の児童・生徒の思考力欠如や表現力欠如、あるいは言語力不足となって現れるているはずで、これらの欠如・不足はいつ頃から言われ出したのか、かなり以前から言われてきたのは事実である。

 この事実のどおりの現象が最近になって報道された。2024年4月18日実施、2024年7月29日結果公表の小学6年と中学3年の全員対象の文部科学省全国学力テストの回答に対する解説が証明することになる。NHKの記事を案内として、《令和6年度全国学力・学習状況調査の結果(概要)》(文部科学省・国立教育政策研究所)を覗いてみた。

「小学校6年評価の観点」(平均的正答率)
 国語 知識・技能 70.0% 思考・判断・表現 66.2%
 算数 知識・技能 72.9% 思考・判断・表現 51.6%

「中学3年算数評価の観点」(平均的正答率)
 国語 知識・技能 62.4% 思考・判断・表現 55.8%
 算数 知識・技能 63.5% 思考・判断・表現 30.0%

「知識・技能」はNHK記事では「基礎的知識」の表現となっている。

 「基礎的知識」は暗記で片付く。「思考・判断・表現」の各能力は各個人が如何に考えるかによって答が導き出されるから、暗記では簡単には片付かないことになる。問題は小6年生も中3年生も考えなければならない問題の正答率が暗記で片付く「基礎的知識」の正答率よりも低いことだけではなく、小6年生の国語・算数の考える力よりも中3年生の考える力の方が成長している分、高くなっていていいはずだが、逆に低くなっている事実を挙げなければならない。

 この傾向は問題が難しくなって、考える力が追いつかなくなっていることの現れと見るべきで、このことは考える教育の必要性、あるいは考える教育への転換が言われて久しいが、まだまだ暗記教育の影響が強く残っていて、考える教育への転換が十分に果たされていないことを示していると言える。

 当然、現在以上に考える教育を根付かせるためには上は下を従わせ、下は上に従う権威主義を排して、児童・生徒と同じ目線に立つ姿勢が必要になる。具体的には、「どうしてこんな問題が分からないだろう」ではなく、「どこが分からないのか」と分からない個所を見つけるのを手伝い、見つけることができたなら、答を出すヒントというものが必ずあるだろうから、一緒になって考え、そのヒントに基づいて自分で答を導き出させる。

 これは学びと言うよりも訓練と見るべきだろう。最初は手間も時間もかかるが、自分で解くコツを習得していったなら、手間も時間も掛からなくなっていく。勿論、全部が全部うまくいくとは限らないが、教師の権威主義的姿勢の排除が児童・生徒に向けて"個人として尊重する"態度を取ることになり、それは教師に対する信頼となって跳ね返ってきて、彼らの学びの力にプラスに働くだけではなく、体罰やイジメの抑制効果ともなって現れるはずである。

 要するにこの面からも児童・生徒の責任感や主体性、自主性、自律心、あるいは自立心の育みに役立っていくことになる。役にも立たないのは尾木直樹の講演である。もしここまで取り上げた尾木直樹の発言が正しい見通しに立った正しい提言であると仮定するなら、改めて結論を示すことになるが、「いじめ防止対策推進法」がイジメの禁止だけではなく、関係機関等との連携と啓発活動の必要性を併せて規定しているその骨格からしてイジメの防止に役立っていなければならないはずだが、全く逆の役立っていない状況を示している事実は尾木直樹の「こども基本法」や「子どもの権利条約」に向けた見通しそのものの錯誤を突きつけていることになる。まあ、その程度の教育評論家に過ぎない。

 以上、ここまで。残りの最後は次の記事に譲る。
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尾木直樹こども基本法講演:可能か否かの答なく"信頼に満ちた学校"を作れば、イジメは起きないの恥知らず

2024-08-11 10:15:51 | 教育
 「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

1.イジメを含めた全活動が"可能性追求"だと自覚させる「可能性
 教育」
2.「厭なことやめて欲しい」で始まるロールプレイ
3.居場所づくりと主体性教育目的の一教科専門コース導入の中学
 校改革
4.主体性教育目的の図書館の蔵書を参考書とする1日1時限の「自
 習時間」の導入
学校は一定のルールを決めて学校内でのプロレスごっこを認める)

 「こども基本法制定記念シンポジウム」講演での尾木直樹の最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》の後半部分から最初にイジメについての解説を取り上げてみる。解説していることは今までに著作やマスメディアに対して述べてきたことの繰り返しで何の新味もないし、冒頭、「こども基本法」について述べた「子どもと大人の新しい関係性の第一歩」に立っているとの示唆がイジメ問題にどう作用し、どういった効果が期待できるのかのどのような文言も見当たらない。大体が「子どもと大人の新しい関係性」とはどういうものか、その意味付けもなしに終えている。詐欺の疑いが早くも臭い立つ。

 尾木直樹は最初に、「深刻化するいじめ問題を取り立てて取り上げるのは子どもたちの命の危機を孕んでいるのはいじめ問題だけだからだ」と解説。コロナ禍で学校が休校になったことでイジメ認知件数は約9万件減少しているが、逆に自宅からでもできるタブレットやスマホを用いた「誹謗中傷、嫌がらせ、あるいはそれが原因で命を落としたんじゃないかといういじめ、そんな深刻な状況が過去最多を更新しているという問題」、その上「読売新聞などの調査」を用いて自治体を通して学校が児童・生徒に配ったタブレットがイジメに利用されている問題を挙げて、今日の講演者はタブレットをどういうふうに使うかのリテラシーを学校で教える必要性に触れているが、尾木直樹自身もその必要性は認めるが、「そこがポイントではないんです。そこんところは一定程度教えますが、今大事なのはそんなことに左右されない信頼に満ちた学習とか、学年とか、学級、学校づくりができるかという、あくまでも生活の場として安心・安全かどうかということが土台にしっかりと息づいていれば、こういうタブレットを生徒全員に配っても、何ら問題は起きないというふうに思います」と、要は学級、学年を含めた"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと当たり前の仮説を堂々と述べている。

 当然、そういった学校づくりは可能か不可能かの問題へと進み、尾木直樹自身は「可能」の答を出さなければならない。「可能」の答を出すことができずに"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないなどといった仮説はいくら尾木直樹が恥知らずでも口にはできないだろう。

 現在のところ、多くの学校が信頼関係の構築を不可能としているから、イジメや暴力行為、暴走行為、窃盗、恐喝、不登校、ひきこもり、自傷行為、自殺等々の問題行動がなくならない状況にあるということであって、その状況とはやはり子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"が教師と、あるいは両親と児童・生徒の両者関係に、あるいは児童・生徒同士の関係に機能していない状況を裏打ちしていることになる。

 となると、尾木直樹の言う「こども基本法」がその第一歩を秘めていると見ている「子どもと大人の新しい関係性」は子どもを信頼して任せる"個人としての尊重"に帰着すると思うが、前のブログで「こども基本法」の「基本理念 第3条」を別の形で取り上げているが、「第3条」は、〈こども施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない。〉と規定、その1項で、〈全てのこどもについて、個人として尊重され、その基本的人権が保障されるとともに、差別的取扱いを受けることがないようにすること。〉と謳い、その他5項目の権利の保障を謳っているが、確かに"個人としての尊重"を最初に掲げてはいるものの、この"尊重"を他の権利保障の基本に据えるとの指示を出しているわけでも、最重要の実施項目として掲げているわけでもないし、勿論、尾木直樹がこの"尊重"に最重要課題として着目しているわけでもない。目を向けさえしていない。

 だが、このような"尊重"が前のブログで述べたように、〈法律がどのように子どもの権利を認めようとも、子どもが個人として尊重される扱いを受けない限り、その他の如何なる権利も認められることなく子どもを素通りしていくことになる。〉ことから、子どもの諸権利を保障する基本とすべきを自明の理としなければならないはずで、こういった関係性の上に"信頼に満ちた学校"づくりを想定していることになるが、イジメを起こさない"信頼に満ちた学校"づくりと言うだけで、なかなか手の内を明かさない。八方美人だけで持たせている有名人だから、当然の道理なのかもしれない。

 尾木直樹は"信頼に満ちた学校"作りを述べる一方で、「『いじめ対策推進法』の28条というのがありますけれども、2の1項1号に該当する重大事態というのはですね、514件、重大事態のうち児童生徒の心身とか財産とか、重大な被害が生じた疑いのある件数が239件。それからいじめにより単純に不登校になった子が347件」だと、イジメの深刻な状況を重大事態の発生件数で伝えているが、この物言いは"信頼に満ちた学校"となっていないことの間接証言であって、"作りさえすれば"の自身の物言いを後回しにする矛盾を犯していることに気づきさえしない。

 "信頼に満ちた学校"づくりの方法論を先に持ってきて、こうすれば従来の深刻なイジメは影を潜めることになるだろうと述べるべきことを述べない矛盾である。あるいはそのように述べることに自らの責任を置くべきを置かない矛盾した責任感のなさである。

 だが、尾木直樹は自身が犯している矛盾にも責任感のなさにもサラサラ気づかずに文科省のデータでイジメ自殺した子どもは「小学校1人、中学生5人、高校生6人で、12人亡くなっているが、これは全くの実態を反映していない」とか、学校教師が「いじめの定義」を厳格に解釈できていない、学校・教師のいじめ対応の過ち、お座なりな人権解釈によって子どもたちが不登校やいじめに追いやられているなどと、"信頼に満ちた学校"づくりができたなら、多くがそれ相応に収まりが期待できるかもしれないことをムダに延々と述べている。

 尾木直樹は自身の著作の一つでイジメの定義に非常な拘りを見せているが、イジメの定義がイジメを防止するわけではない。人間関係の衝突が発生してから、それがイジメに当たるかどうかを認定する物差しの役目を担うに過ぎない。にも関わらず、"信頼に満ちた学校"を作りさえすれば、イジメは起きないと言いながら、それをイジメ未然防止の解決方法とすべく実現の具体的な方法論を提示するわけでもなく、イジメかどうかの判断基準を示しているだけのイジメの定義に異常な拘りを見せている。

 「これはですね、詳しくお話すると、いじめの定義が行われたのは1985年なんですよ。1985年の文科省の定義はですね、いじめられる子がどういういじめを受けたなら、いじめかと、認定するのは学校だと明記されている。

 1985年の文科省の定義が未だに殆どの学校を支配しているんです。文科省は2006年にすっかり定義を変えているんです。発生主義ではなくて、認知主義、認知したら、それはいじめとカウントしましょうということで、だから、たくさん件数が出れば出る程、それは子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しないんですね。本当に不思議です。

 認知主義と我々言いますけども、定義が、これまでは主語が加害者が、85年の定義では主語が加害者だったんです。ここが2006年の定義では被害者が主語になったんです。だから、被害者が辛いなと思ったり、嫌な目線を送ったなあとね、そう思えばもういじめですよというので、取り組んでくださいとか、それは誤解だったら、誤解でいいわけですから、子どもたちの被害というかなあ、そちらの側に立ったんですねえ。

 ところがですね、現場では、これ社会的にもそうですけど、いじめられる方にも問題があるとかね、子どもはいじめを通して成長していくんだとか、こんなことを言う学校の先生がいたり、いるんですね」――

 イジメの定義が加害者が何をしたのか、加害者を主語とするのではなく、被害者が何をされたのか、被害者を主語とすることに変わって、認知件数が増えることになり、このことは「子どもに密着している証拠で、素敵なことなんだと、どんだけ言っても、進歩しない」と批判しているが、認知件数は被害件数であると同時に加害件数でもあるのだから、被害側児童・生徒にとっては「密着している証拠」とはなり得ても、加害側児童・生徒にとってはいわば"密着していない"からこそ起こり得るイジメ行為ということでもあり、そのこと自体は学校にとって誇り得る点は何もないことになって、尾木直樹が言っていることは一面的事実に基づいた「素敵なこと」という評価に過ぎないことになるにも関わらず、オメデタイと言うか、本人は何も気づいていない。
 
 また、この加害側児童・生徒にイジメ行為に走らせてしまう"密着していない"状況は"信頼に満ちた学校"とは縁遠い状況――教師と一部児童・生徒間の信頼関係の不在を示していることになるし、と同時に「こども基本法」が「基本理念」として掲げている"個人としての尊重"が不満足な実施状況にあることをも提示していて、こども基本法制定記念シンポジウムにパネリストとして登場し、「こども基本法」が「子どもと大人の新しい関係性の第一歩、スタート」を約束していると見る以上、「新しい関係性」の具体図を提示するのが何よりの先決問題だが、その点をなおざりにして、「新しい関係性」が実現できたなら縮小に向かうかもしれない可能性の高い数々の問題に、これまたムダな拘りを見せて、自らの矛盾に気づかないでいられる。

 その最たるムダな拘りの幾つかを紹介する。何年か前にイジメの加害者として決めつけることが冤罪を発生させるとする「加害者冤罪論」が「弁護士の先生の間で物凄く広がったことがある」とか、イジメでということなのだろう、「亡くなった子の事件がある」が、その地域で「加害者を守る会が発足」したとか、「地元の方ばっか入った(イジメ)第三者委員会なんか機能するわけはないのに、平気でやっておられる」とか、さらに1989年11月20日第44回国連総会採択、1990年発効の「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)は国連採択から「5年後に署名、158番目の締約国になった」とその遅れと4回に亘って勧告を受けていることを批判的口調を滲ませて解説している。

 「で、僕、この子どもの権利条約のこと、おっかけていたんですけども、何回勧告を貰っても、殆どメディアも、それから政府も、一番罪深いのはメディアだと思っています。メディアが報じないから、一般社会、市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです。で、ほぼ無視してきた28年間なんです。

 だから、ホント、僕は子どもたちに『ゴメンね』と大人を代表してお詫びしたいような気持ちです。ホントーによくぞ28年間、あのー、バカにしてきたなあというふうに思います。ですから、もう子どもの、子どもの権利条約に対する理解が進まない理由をちょっと掘り下げてみるとですね、子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にあるんじゃないかと」――

 全てが尾木直樹自身が感じ取っている事実を表面的に羅列しただけで、それ以上を出ない。大体が学校で子どもの権利を教えたとしても、大人に位置する教師がその権利を子どもがよりよい形で行使できる人間関係を児童・生徒との間に構築していなければ、教えただけで終わり、教えなかったことと結果は変わらないし、大体が子どもの権利条約を教える教えないは要点ではない。

 なぜなら、繰り返し言うことになるが、教師自身が子どもを一個の人格を有した個人と看做してその意志を尊重し、何をするについてもその意志に任せる"個人としての尊重"を示す姿勢から始めることを求められているはずで、次のことは既に触れているが、1947年(昭和22年)5月3日施行の日本国憲法が「第3章国民の権利及び義務 第13条 すべて国民は、個人として尊重される」と規定していながら、学校社会では子どもたちの多くが"個人としての尊重"から排除されていて、子どもの価値観を抑圧、学校教師の、あるいは大人の価値観を強制する権威主義が横行している。

 いわば日本国憲法が権利規定として取り上げている、諸権利の出発点とすべき肝心の"個人としての尊重"が多くの子どもに対して単なるスローガン化していて、大人たちは義務化を忘却、結果、「子どもの権利条約」の「第12条」で、〈1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉と定めていることの、〈自由に自己の意見を表明する権利〉とは"個人としての尊重"を受けた状況下で可能となる主体的権利であって(個人として尊重されていなければ、どのような権利を主張しても相手にされない)、その権利が〈自己の意見を形成する能力のある児童〉に限定されてはいるが、自己の意見を形成する年齢に達していないがために、あるいは自己の意見を形成する訓練を受けていないがために自己の意見を満足に形成できなくても、大人が子どもという存在をそれぞれに"個人として尊重"していたなら、どのような意見であっても、汲み取ろうとする姿勢を向けることになる。それが、〈児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。〉に相当する扱いであって、このような扱いも大人と児童間の信頼構築の礎となり、相互の信頼が児童側の責任感や自主性、主体性あるそれぞれの姿勢を育んでいくことになる。

 にも関わらず、1947年(昭和22年)5月施行の日本国憲法から1994年5月22日発効の「子どもの権利条約」を通って、2023年4月1日施行の「こども基本法」まで"個人としての尊重"をそのままの語句によるか、あるいは間接的な物言いで繰り返し謳わなければならないのはこのことが満足に機能してこなかったことの証明としかならない。

 こういったことをこそ問題とすることができずに子どもの権利条約について「メディアが報じないから、一般社会市民のところ、まして子どもたちに伝わらないです」などと条約そのものについて、"伝わる・伝わらない"の問題に矮小化している。

 "個人としての尊重"を子どもに対して実践すべき必要性に気づかなければ、必要性に気づいていないからこそ、「ブラック校則」やイジメや体罰を延々と存在させているのだから、子どもの権利条約が子どもの権利をどう謳っていようとも、スローガンの域を出ないことになって、単にスローガンとして教え、児童・生徒もスローガンとして受け止めるだけで終える可能性が高いことに気づくべきだろう。

 前のブログで既に触れていることの繰り返しになるが、"子どもを信頼して何事も任せる個人としての尊重"の実践こそが法律が子どもに付与すべきと義務付けている諸権利を保障可能な状況に導く出発点となるという点に常に留意していたなら、「子どもの権利条約」にしても前々から言われていることの反復に過ぎないのだから、お浚いする程度に読めば済むはずである。

 子どもを"個人として尊重"できなければ、何も始まらない。子どもでなくても、大人であっても、一個の人格を有した個人として尊重されない間は権利ある主体として扱われることはない。尾木直樹はこの肝心な点に目を向けることができずに表面に現れている事実のみに目を向けて、子どもに権利について教えてこなかっただ何だと騒いでいる。

 「ブラック校則」やイジメや体罰は児童・生徒が"個人として尊重"されず、それぞれの権利を認められていないことからの教師間との信頼関係の不成立(意思疎通の困難性、あるいは断絶)を発生要因と見て、"個人としての尊重"を第一番に持ってこなければ、「いじめ防止対策推進法」を持ち出そうと、「こども基本法」を持ち出そうと、「子どもの権利条約」を持ち出そうと、子どもの権利状況は改善に向かうことはない。何十年もの間、改善しなかったことは以上のことに原因があるはずだ。

 要は大人が子どもを権利の主体として扱うことができるかどうかは、あるいは子どもの如何なる権利の保障も、子どもを一個の人格を有した"個人として尊重"できているかどうかが決め手となるということであって、「子どもの権利条約」に照らして子どもの権利状況の不備から国連から勧告を受けながら、マスコミが満足に報道しなかった、だから一般社会にも子どもたちにも伝わらない、大人を代表して子どもに「ゴメンね」とお詫びしたい気持ちだとさも子どもの味方であるかのように見せかけているが、八方美人の性格から出た綺麗事でしかない単なるポーズであって、「ゴメンね」で済むはずはなく、見当違いも甚だしい。

 例えば日本政府は「子どもの権利条約」に関して国連から女子高生サービス(JKビジネス)を含めた子どもの買春問題等で勧告を受けているとネットには出ているが、学校で常々教師から"個人として尊重"されていたなら、あるいは意見や考えを述べることと述べた意見や考えをそれ相応に"尊重"されていたなら、その信頼に対して学校価値観に反する行動に無考えに走ることになるだろうか。

 絶対走らないとは断言はできないかもしれないが、極力抑えることにはなるだろう。例えばJKビジネスが法の目を潜って行われる大人側の手っ取り早い儲け商売となっていて、それに便乗して小遣い稼ぎに走り、化粧品や洋服を買い求めてオシャレをしたりを日々の刺激的なエネルギーの発散とする、あるいはそれを個人的に行って同じく稼いだカネを小遣いにして日々の刺激的なエネルギーの発散とするのは学校で"個人として尊重"されていないことからの自身の必要性を、いわば自身の存在価値を安易に作り出してしまう現象でもあるだろうから、まずは学校社会内で"個人として尊重"することから始めて児童・生徒それぞれの必要性、存在価値を築いていく手助けをして、それ相当のエネルギーの発散へと導くべきだろう。

 ところが尾木直樹は肝心な点には目を向けることができずに、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる、あるいは我儘な子どもが育つとか、親や教師の言うことを聞かなくなるといった親の誤った子ども観とか無理解とか、根底にある」とかないとか肝心ではないことに尤もらしげに拘る。

 繰り返し言うことになるが、子どもを"個人として尊重する"ことで育まれる相互の信頼が子どもに責任感や主体性、自主性を身に付けていく流れを取ることは十分に期待できるのだから、「子どもに権利なんて教えたら、権利ばかり主張して、義務を果たさなくなる」などといった見当違いそのものの世間の一部の取り沙汰を、見当違いだと一蹴することもできずに仰々しく取り上げる尾木直樹の常識は決して正常とは言い難い。

 尾木直樹はここでどのような理由があってのことか理解に苦しむが、自身が教師を辞めたことと子ども権利条約発効との関連、条約に関わる文科省事務次官通達、子ども権利条約の学校現場に於ける知名度、その他を細切れに紹介している。

 「僕が(現場を)辞めたのは子ども権利条約、この問題で辞めざるを得なくなったんですよ。NHKの番組で特別に子ども権利条約発効のされた番組を作るわけですよね。(番組が)流れているんだけど、体罰が行われていたり、この問題で現場にいられなくなりましたね」――

 要するに子ども権利条約発効を受けてNHKで番組が制作され、出演して「体罰は子どもの権利の侵害に当たる」とか何とか発言したものの、自身が勤めている学校で体罰が行われていて、足元の世界で体罰をやめさせることができないのに体罰はいけないとか何とか発言するのは矛盾しているのではないのかといった批判を受けたか、悩んだかして、体裁が悪くなって辞めざるを得なくなったと言えばまだしも聞こえはいいが、体罰の現場から逃げたということではないかと疑いたくなった。

 この予測が当たっているかどうか、ネットを検索してみた。

 《話の肖像画 教育評論家・尾木直樹(4)狭心症で退職、研究所を立ち上げる》(産経ニュース/2014/10/9 07:20)

 尾木直樹の談話である。〈最後に勤めていた学校でも体罰が横行していました。当時、「子どもの権利条約」が批准されて、私も子供たちのためのテレビ番組に出演したり、講演会で話したりしていました。その学校には私のファンという先生がいるのに体罰をする。

 ある日、学校に行ったらクラスにいるサッカー部の生徒4人が丸刈りになっていたんです。事情を聴いたら、練習試合で小学生に負けたので、顧問が「恥を知れ」と強制したらしいのです。しかも生徒はニコニコしながら話す。保護者からクレームがあれば「先生、保護者が怒っているから考えようよ」とか言えるんですが、それもない。外では「体罰は駄目だ」と言っておいて、自分の学校では横行している。その矛盾に耐えられなくなって心因性の狭心症になってしまいました。〉―― 

 「最後に勤めていた学校でも」と断って体罰の横行を伝えている以上、勤めていたほかの学校でも体罰が行われていた。尾木直樹は普段は体罰は非人権行為・非人間行為と厳しく批判していて、マスメディアを通してそのような発信を盛んに行っているが、教師時代は体罰禁止の影響力は必ずしも持ち得ていなかったことを示すことになる。

 自分が最後に勤めた学校で丸刈りを強制する体罰が行われた。普通、自分の学校にマスメディアや世間に珍重される教育思想を抱える著名な教師がいれば、結束してその教師の思想を体現しようと努力するものだが、その影響力は日常的に平穏無事な間だけで、想定外の突発事態が発生すれば、脆くも崩れてしまう程度の影響力に過ぎなかったということなのだろう。

 但しサッカーの練習試合で小学生チームに負けたからと丸刈りにする体罰よりも、その体罰に対する尾木直樹自身の対応の方が遥かに悪質である。体罰の形は物理的には丸刈りだが、精神的な意味合いに於いては顧問の意志の強制に生徒自身が自らの意志を無条件に従属させたもので、この無条件な従属は生徒が主体性や自律心のカケラさえも備えていない下位者の権威主義性によって可能となる。

 カケラさえも備えていない、その従属性の強さによって強制的に丸刈りにされても、ニコニコとして一種の勲章とすることができる。いわば丸刈りにされたことに得意になることができた。主体性や自律心をカケラ程度でも備えていたなら、サッカーの練習試合で小学生チームに負けた上に丸刈りにされたのである、顧問の強制に異を唱えることができなければ、二重の悔しい思いをするはずで、ニコニコなどとてもできなかったろう。

 だが、尾木直樹は生徒の主体性や自律心の欠如に気づきもせず、当然、問題にすることもなかった。

 また体罰を行った顧問に対する注意は「保護者からクレーム」があるなしに関係せずに行うべきもので、それとも尾木直樹は学校内で教師の体罰を目撃した場合、「保護者からクレーム」を待ち、「クレーム」がなければ、体罰扱いから外すことを規準にしていたのだろうか。であるなら、児童・生徒が教師の体罰を保護者に訴えない限り、あるいは他の教師の目に触れもしなければ、体罰は暗々裏に大手を振って行われることになる。

 要するに尾木直樹はテレビでは偉そうな口を叩いているが、体罰を行った顧問に直接注意できない言い訳に「保護者からクレーム」のあるなしを持ち出したに過ぎない。尾木直樹にとって狭心症になったことは教師を辞める理由になって、役立ったに違いない。何も言わず、何も戦わなかったが、狭心症に助けられた。

 それでも著名な教育評論家としてやっていけるのは尾木直樹が抱えている八方美人の性格が助けとなっているからだろう。

 尾木直樹は体罰問題を次のテーマでも解説しているから、その際にこの問題を再度取り上げてみる。

 尾木直樹は以上話してきたことに時間を取られて最後は端折ることになったのか、とりとめもない解説となっていて、意味を明確に取ることができない。

 「事務次官の通達により、こういうふうに言われている。『本条約の発効により教育関係について特に法令等の改正の必要はない』。こう言ったんですね。で、学校に於いて児童生徒に権利及び義務を正しく理解させることは極めて重要だというので誤った権利と義務の撤去論というのが通知をされた。

 これは撤回は難しいから、融和的な新しい通知を出して頂かないと困りますという話なんです。それから致命的なのは子どもの権利条約第44条には条約報告義務というのが明記されている。これは日本の学校では子どもの権利条約について教えてこなかったので、これは明らかに条約違反です。

 その結果、子どもはイジメや虐待といった様々な人権侵害とか貧困や差別などの困難な中にいても声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない、こういう生き辛さを感じているんじゃないかと」――

 前半部分は意味不明だが、後半部分は「子どもの権利条約第44条には条約報告義務」があるものの、学校で教えていないから、児童・生徒は自分たちの権利状況を訴えることができない。いわば「声を何も上げることができず、何も変わらないと諦めざるを得ない」ということであって、このような手続きを経ない報告に正当性はなく、条約違反だとしているだろう。

 だが、訴えることができたとしても、教師や保護者が児童・生徒に対して"個人としての尊重"を基本的姿勢とすることができなければ、国連からの是正勧告、日本政府の是正に務めますの繰り返しで推移するのは
目に見えている。

 その理由は子どもの権利擁護が一向に改善を見ないからこそ、条文の多くが重なる「こども基本法」を新たに設ける必要性が出たのであり、この必要性自体が条文のスローガン化を証明、この証明が是正に対する繰り返しの推移を予見させることになるからである。

 当然、基本のところではやはり子どもの権利は児童・生徒一人ひとりが"個人として尊重されている"か否か、"子どもを信頼して任せる個人としての尊重"に掛かっているはずで、そのこと自体が肝要なことであり、教えてこなかっただ、条約違反だはやはり見当違いの大上段の構えに過ぎないだろう。

 例えば「子どもの権利条約 第28条 2」は、「締約国は、学校の規律が児童の人間の尊厳に適合する方法で及びこの条約に従って運用されることを確保するためのすべての適当な措置をとる」と規定しているが、国は「学校教育法」で体罰を禁止し、「いじめ防止対策推進法」でイジメを禁止し、いわば「児童の人間の尊厳に適合する方法」、あるいは措置を採っている。だが、体罰もイジメもなくならない。ごくごく直接的には国が関係している問題ではなく、学校現場や家庭現場が関係している問題、教師、あるいは保護者といった大人による法律の義務化の問題、あるいは法律が規定している子供の人権をどう考えるかに帰着する。

 また学校が「子どもの権利条約」に対応させて「児童の人間の尊厳に適合する」規律を文言を駆使してそれ相応の体裁を整えて採用したとしても、教師一人ひとりが児童・生徒一人ひとりに対して"個人として尊重する"態度・姿勢を取りうるかどうかで体罰やイジメの回避を可能とする信頼関係の構築が決まってくるのだから、条約を学校で教える教えないや規則で律するといったことは本質的問題とは言えない。

 だが、尾木直樹は本質的問題だと決め込んで、事務次官通達が何だかんだ、条約違反だ何だかんだと騒いでいる。当然、次の指摘も本質的問題とは言えない。

 「それからですね、困ったことに子ども権利条約について現職の教員の約3割が全く知らないと言っている。それから名前だけ知っている、約4人に1人。子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる。今度の遠足で違反がなければ、秋の運動会は自分たちで進めていいとかね、こんなのとんでもない間違いです。

 権利があって初めて義務が出てくるのであって、これは発達論から言って間違ってるんですね。これ、平気で言うんですね。大学の教育課程でセンター長をやってるんだけども、子ども権利条約は教えることになっていません。教育課程の一定の科目にもなっていないと」――

 尾木直樹は「子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる」は発達論から言って間違いで、「権利があって初めて義務が出てくる」と高らかに宣言しているが、ニワトリが先か卵が先かといった問題ではなく、権利と義務は一対の関係にある、あるいはコインの裏表の関係にあると見るべきで、権利を主張した場合、主張した権利に相当する義務が付随し、義務を果たす場合、果たした義務に相当する権利が生じる、そういう関係にあるはずである。

 つまり権利を主張する際は権利に付随する義務を念頭に置き、義務を果たす際は義務によって生じる権利
の正当・有効な利用を念頭に置く。後者の場合、国民は納税の義務があるが、納税したカネが正しく使われているかどうか、国家権力及び地方権力を監視し、物申す権利が生じる。

 どうも尾木直樹は自分は子どもの味方だと振る舞ってはいるが、味方を気取っているだけのことで、味方でも何でもない。

 以上、2回に亘って最初のテーマ、《問題山積の教育現場と子どもたちの実態》を見てきた。尾木直樹が扱う教育現場にしても、子どもたちの実態にしても、表面的に掬い取って、表面的な解釈で終える新味は何もない解説となっていた。「こども基本法」がその効果を備えていると確実視していた、いわばびっくりするような「子どもと大人の新しい関係性」とはどのような内容のものなのかについても、どう作るのかについても、"信頼に満ちた学校"づくりについても、最初に持ってくるべき課題のはずだし、最初のテーマに一区切りがつくにも関わらず、期待を振りまくだけで、ここまでは一切語らずじまいで片付けている。

 こんな男が「大学の教育課程でセンター長をやってる」、と言うよりも、やっていられる。適材適所と思う人間が多数占めているからだろう。

 次回は次のテーマ、《「こども家庭庁」に期待すること―子どものことは子どもに聴こう! 》に移るが、子どもと大人の新しい関係性を、さらには"信頼に満ちた学校"づくりをどう決着づけるのか、おいおい眺めていくことにするが、当方は尾木直樹の講演発言を既に最後まで読み通しているから、いわば体の良いハッタリで終えることを予め伝えておく。
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