教員の行為が、学校教育法で禁じる体罰に当たるかどうかが争われた民事訴訟では初めての最高裁判決(「毎日jp」)だそうだ。
同記事によると、<熊本県本渡(ほんど)市(現天草市)で02年、同市立小2年の男児(当時8歳)が、男性臨時教員から体罰を受けて心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして、市に約350万円の賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(近藤崇晴裁判長)は28日、教員の行為を体罰と認め賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告側の請求を棄却する逆転判決を言い渡した。>とのこと――。
同記事は体罰基準を、<学校教育法11条で「教育上必要があると認める時は懲戒を加えることができる。ただし体罰を加えることはできない」と規定>しているが、<文部科学省は07年2月、体罰に関する考え方を初めてまとめ全国に通知>、<「殴る、ける、長時間直立させるなど肉体的苦痛を与える懲戒は体罰」と明示する一方「体罰に当たるかどうかは、生徒・児童や保護者の主観ではなく、行為が行われた場所的、時間的環境、態様等の諸条件を客観的に考慮して判断される」とし、有形力行使が許される可能性にも言及している。>と解説して、今回の最高裁の判断は後者の「場所的、時間的環境、態様等の諸条件」の客観的考慮を基準としたものとしている。
では、児童の側が体罰だと訴え、臨時講師の側がそれを否定した双方の具体的な行為内容は<生徒は小2だった02年、休み時間中に廊下で友達と一緒に通りかかった女児をけり、さらに、注意した講師の尻をけった。講師は追いかけて捕まえ、洋服をつかんで壁に押しつけ、「もう、すんなよ」としかった。>(「asahi.com」)というもので、<生徒は講師から怒られた後に食欲が低下するなどして通学できず、03年2月に病院で心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。>(同「asahi.com」)ことを理由に講師の行動を体罰だとして裁判所に訴えた。
「中国新聞」は次のように書いている。
<02年11月の休み時間、少年(現在14歳)は、しゃがんで別の児童をなだめていた講師におおいかぶさるなどし、通り掛かった女子児童をけるという悪ふざけをした。講師が注意し職員室に向かおうとしたところ、少年は尻を二回けって逃げた。講師が捕まえ、胸元を右手でつかみ、壁に押し当て大声で「もう、すんなよ」としかった。>・・・・
殆どの記事が小2児童の行為を「悪ふざけ」だとしているが、判決の臨時講師の児童に対する行為は<「男児の悪ふざけを指導するために行われた。やや穏当を欠く点がなかったとはいえないが、目的や態様、継続時間から判断すれば、教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰には当たらない」と判断。「損害賠償を認めるような違法性はなかった」と原告側の主張を退けた。>(「東京新聞」)との指摘を受けて、一様に「悪ふざけ」と規定したのだろうか。
上記「asahi.com」記事は、<その後、回復して元気に学校に通うようになったが、生徒の母親は学校側の説明に納得せず、学校や市教育委員会に極めて激しく抗議を続けた。>と母親の過剰反応を匂わせているが、「YOMIURI ONLINE」記事が<判決も「男児の母親が長期にわたり、学校関係者に対して極めて激しい抗議行動を続けた」と言及、訴訟の背景に保護者の過剰なクレームがあったことを示唆した>と、最高裁自体が母親の過剰反応がある意味つくり出した“体罰”だと判断していることを伝えている。
「msn産経」記事も、<授業中に騒いだ児童を廊下に立たせるといった指導は体罰や人権侵害だと批判され、授業中にメールをしていた生徒から携帯電話を取り上げただけで保護者らから抗議を受けることもあるという。こうした状況から、“モンスターペアレント”という言葉すら生まれた。>と、親の過剰反応に言及している。
いずれにしても小2男子児童の女子児童をけるという「悪ふざけ」を発端として、そのことに対する有形力を伴った臨時講師の注意制止が体罰か否か――いわば体罰に相当するのか、そうではなくて教育的指導の範囲として認めることができるのかを争点として裁判は最高裁まで争われることとなった。
体罰か否かが争点なのだから、裁判がそこから一歩も出ていないのは当然と言えば当然で不思議はないが、それ以前の問題として、女子児童を蹴った小2男子児童の行為自体が実際に「悪ふざけ」に過ぎないとすると、それを見つけて臨時講師が注意したこと自体が母親の過剰反応を言う前に過剰反応と見なければならないのではないだろうか。
小2男子児童から見た場合、女子児童を蹴った「悪ふざけ」を意図したに過ぎない自身の行為に対して通りかかった臨時講師に注意を受けた。抗議の意味から、あるいは面白くない気持から反発心が頭をもたげて職員室に戻ろうとしていた講師の尻を背後から蹴った。対して講師は蹴った後逃げる小2児童を捕まえて、胸元を右手でつかみ、壁に押し当て大声で「もう、すんなよ」と叱った――という経緯なら、自分自身の行為は謂れあることとすることができるが、講師の行為は謂われのない過剰反応とすることができる。
過剰反応に驚いて、そのショックから、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症した」・・・・。
いわば体罰云々をする前に、臨時講師の「悪ふざけ」を注意した行為が教育的配慮に適っていたかどうかが問題となる。
確かに表面的な経緯だけ見たなら、小2男子児童を捕まえて、胸元を右手でつかみ、壁に押し当て大声で「もう、すんなよ」と叱っただけの行為は体罰とは言えないかもしれない。だとしても、「悪ふざけ」だと前提とした場合、一度目の注意に対する返礼が講師を蹴る行為だとしても、判決が指摘しているように「やや穏当を欠く点がなかったとはいえない」で片付けるのは少々無理が生じないだろうか。
もし小2男子児童の女子児童に働いた行為が「悪ふざけ」でも何でもなく、悪質なイタズラだったなら、二度の注意を必要として、胸元を右手でつかみ、壁に押し当て大声で「もう、すんなよ」と叱った行為は「やや穏当を欠く点がなかったとはいえない」で十分片付けることができると言える。
裁判が「悪ふざけ」だとしているのだから、「悪ふざけ」は「悪ふざけ」だったろうが、問題はどの程度の「悪ふざけ」だったのかに焦点を当てなければならなくなる。その認定から始めるべきだが、裁判で扱っていたのかどうかはどの記事もそのことに触れていない。
先ずは蹴った女児と男児との関係は子猫同士がじゃれ合うような狎れ合い、ふざけ合う関係にあって日常的に悪ふざけをし合うごく親しい間柄にあったのかどうか。
そういった関係ではなく、男子児童の方は「悪ふざけ」だと思っていたとしても、一方的なイタズラに過ぎず、女生徒に不愉快を与え、毛嫌いされていたのか。一種の悪質ないじめ、暴力行為にまでエスカレートしていて、毛嫌いを通り越して精神的苦痛を与えるまでになっていたのか。
当然、女生徒は母親、もしくは担任教師に訴えていたのかどうかも問題となる。。
両者の関係が後者の状態にはなく、前者の関係でその程度の「悪ふざけ」だとしたら、注意するに当たらない「悪ふざけ」ということになる。
体罰に当たらない有形力行使があるとするなら、悪ふざけであるなら、その程度に応じて注意するに当たらない有形力行使を認めてもいいはずである。
臨時講師の注意がそのような「悪ふざけ」に向けた注意で、そのことからエスカレートした胸元を右手でつかみ、壁に押し当て大声で「もう、すんなよ」の叱責だとしたら、体罰に当たらなくても、「やや穏当を欠く点がなかったとはいえない」で片付けることはできない教育配慮に欠けた指導とは言えないだろうか。
勿論、事はそう簡単には済まない難しい問題を孕んでいることは認める。
自民党の元幹事長加藤紘一が4月24日テレビの収録で麻生太郎総理大臣の取材対応が「傲慢な態度で大変よくない。すぐ改めるべきだ」と苦言を呈したとマスコミが伝えている。
ぶら下がり記者会見でそのことを突いた我が麻生と記者との遣り取りを「毎日jp」記事≪ぶら下がり取材「これは記者会見とは違うんでしょ」 4月24日午後7時20分ごろ~≫2009年4月24日)を参考引用して、先ずは安保理制裁委員会の北朝鮮資産凍結問題について記してみる。
<◇北朝鮮の安保理制裁委
Q:TBSです。よろしくお願いします。まず北朝鮮のミサイル問題なのですけど。
A:ミサイル、はい。
Q:安保理の制裁委員会が北朝鮮の3団体について資産凍結をするということで最終調整をしています。国連として初めて凍結で合意する見込みですけれども、総理としての受け止めをお聞かせください。
A:まずそれは正確に言わないといけないと思いますね、報道する立場からすれば。まだ正式に終わっていないと思いますね。従って今まだ途中の経過段階、経過だ、状況、段階ですから、経過の段階ですから、あの簡単なことは言わないほうがいい。それが最初に対する答えです。
我々としては1718の履行ということを過日の議長声明で決められていますんで、あの議長声明の出た通りにきちんと実行していただく、というのが一番大事。どの団体をどうするかというのは、これは安保理、制裁委員会は安保理のメンバーと同じ国ですので、この段階で我々としては今、対応を日本の代表を含めたところでやっているところで、最終的には決まっていないと思ってますから。
Q:おっしゃる通り最終調整段階なんですけれども、日本は14団体の指定をこれまで求めてきているわけですけども、今3団体で調整しているということなんですけれども、この点について総理はどのように。
A:ああ、それはもうきちんとまとめて動くというのは、みんなでそういう段階で決まれば、それはそれなりに結論ですからそれが。
Q:3団体であっても一定の評価と。
A:それは当然です。>・・・・
記者が北朝鮮団体に向けた資産凍結の安保理制裁委員会の決定が3団体に落ち着く「見込み」について質問したのは、それがかなり確定的方向に向かっていたからだろう。向かっていなければ質問できないし、実際にも3団体で決着を見た。
麻生首相はそのような情報を手に入れていないはずはない。手に入れていないとしたら、怠慢の謗りを受ける。当然、麻生首相はかなり確定的となったその「見込み」が実際に確定した場合についての感想を述べれば片付くことだが、まだ途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていない、と3団体で決着するような確定的状況にはなっていないとする態度を取った。
だが、記者に「3団体で調整している」現在の情勢について再度質問を受けると、確定的状況にはなっていないとした最初の態度を貫くと思ったら、一貫性もなくあっさりと捨て、「それはそれなりの結論ですから」と、その確定性をいとも簡単に受入れる。
だったら、最初から「それはもうきちんとまとめて動くというのは、みんなでそういう段階で決まれば、それはそれなりに結論ですからそれが」と言えば、事は簡単に片付いたはずである。
当然、まだ途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていないなどと言ったことは言わなくても済んだ、二言も三言も余計なことということになる。
このような受け答えは傲慢と言うよりも軽薄短小と称すべき態度であろう。麻生らしい軽薄さであり、スケールの小ささと評すべきである。
日本の「新決議」要求に対して中ロの反対で「議長声明」で妥結が図られようとしていたとき、麻生首相は「日本としては決議が望ましいとの立場だが、強い内容が確保され、国際社会が一致して迅速にメッセージが出せるのであれば、最終的には形式に固執する必要はない」と、「強い内容」と「国際社会の一致」を条件とした「議長声明」の受入れを自らのスタンスとした。
そのスタンスに一貫性を持たせるとしたら、例え日本の14団体要求に対して3団体となろうとも、北朝鮮に与える影響度(=「強い内容」)と「国際社会の一致」を「結論」とすべきなのだから、「国際社会の一致」は「きちんとまとめて動く」としたことでブレはないが、3団体が14団体に劣らないそれなりに効果を与える「強い内容」を持ち、北朝鮮に与える影響の大きさを説明すべきだったが、説明もせずに“それなりの結論”としたのは自らの姿勢にブレを見せたということだけではなく、そう誤魔化さざるを得なかったからだろう。
そもそもからして、日本が拘束力を持つ「新決議」から、例え強い内容を盛り込むことができたとしても、非拘束力性を否定できない、そのことを常に前提としなければならない「議長声明」に後退したのは最初に商品に高い値段をつけたものの、値引きして安く売ったのと同じで(最初から「新決議」で売れないことは承知していたはずだ。)、対して中ロは最安値商品の報道機関向けの非公式な「プレス声明」で対抗、最終的に一歩踏み込んだ印象を与える「議長声明」に持っていって高く売りつけることに成功した。
高く売りつけるために最初から着地点は「議長声明」と決めて、相手が安物過ぎて買うつもりもないと分かっていながら、「プレス声明」という安い商品を囮に使ったに違いない。
それを日本は「拘束力を持つ決議が望ましいと考える。しかし、決議にこだわったために内容が何となくわからんというようなものになるのでは意味がない。声明、決議文、いろいろなものがあるが、きちんとした国際社会のメッセージが伝わるのが一番大事だと考える」(麻生)といったコメントを用いて、日本が値引きしたことは誤魔化した。
その誤魔化しが「資産凍結」問題でも14団体から3団体が後退を示す厳然たる事実であることに逆らい、麻生自身が自らの人格として抱える軽薄短小さも手伝って、途中の経過段階だ、簡単なことは言わないほうがいい、最終的にはまだ決まっていないなどと二言も三言も余分なことを言ってかわす次なる誤魔化しを生むことになったのだろう。
加藤紘一の首相の取材対応は「傲慢だ」と批判したことの記者の質問に対する麻生の返事を同「毎日jp」記事は次のように伝えている。
<◇加藤紘一氏の首相態度批判
Q:次にですね、総理と私たちとのやり取りについてなんですけれども。
A:やり取り? はい。
Q:きょう、加藤紘一元幹事長がですね。
A:加藤紘一元幹事長? はい。
Q:テレビの番組収録で、総理のやり取りについてですね、総理の態度がごう慢だと。
A:はい。
Q:「わが党の総理総裁がああいう態度でお話しになっているというのは、少し考え込んでしまいます。総理のお孫さんで生まれた方なので分からなくもないんですけども、目線が高いのではないか」、というようなことをおっしゃってますけども、こうした批判について総理はどのように?
A:あの、僕は、これは立ち話ですから。これは記者会見とは違うんでしょ。ちょっと確認しておこう。
Q:そうですね。違います。
A:これ止まってるけど。立ち話。ね。歩きながらの話、立ち話。これ記者会見じゃないんだと、僕はそう理解してます。これ正しいね? いや正しいねって聞いてる。
Q:はい、正しいです。
A:正しい。ありがとう。何となく答えたのに答えたことはないなんていつも言われちゃうんで。あの、立ち話。立ち話ってのは普通、歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだと僕はそう思ってます。みんなテレビの前できちっとしてやるという種類のものじゃないんじゃないのと、僕はそう思ってますから、なるべく普通にしゃべるように努めてます。
だいたい私の息子さんくらいの世代ですから、ですから普通に気安くしゃべるのを努めてるんですけども、そういうことではないということをどなたか言っておられる。人からどう言われようと、あんまりあれはないんですが、きちんとして僕はどの場面を見られて加藤先生がそう言われたかっていうのは分かっておられるんですか?
Q:一応分かっておりますが、例えばですね、最近は4月17日のやり取りでですね、3.5島発言っていうのが、谷内さんの発言についての質問が出た時にですね、「内容は承知していませんし、毎日新聞を読んでませんから、答えようがありません」。
A:んー、だけどそりゃ、あの、谷内さんがどう発言されたかって内容を毎日新聞でしたっけ、何か出されたってのは。僕は全然読んでないから読んでないというのを、あなただったらどう答えるのが正しい答え方ですか?
Q:まあおそらく、読んで、大きく報道されていたので、まあ夕方段階ではお読みになってるのではないかというふうにみなさん思われたのではないか、ということだと思うんですけど。
A:そうすると、今のような、読んでません、というんじゃなくて、読んでいるべきだったということですか?
Q:まあそういう意見もあるのではないかと。
A:読んでいないのに、読んでいたかのごとく話をするのはちょっと危ないと思いますんで、読んでないのは読んでないというお答えする以外に、ほかに方法はないと思いますけどねえ。>・・・・
この説明を以って、「傲慢」だとは言えまい。軽薄短小、ここに極まれり、とは確実に言える。「立ち話」は「歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだと」決めつけることができる感覚は軽薄短小の性格なくして叶わない素晴らしい信念ではないか。
麻生総理大臣のこれまでのぶら下がり記者会見での応答のすべては、北朝鮮のミサイル発射問題でも拉致問題でも、鴻池祥肇官房副長官の女性問題でも、金正日の後継問題でも、自身の失言問題でも、「立ち話」を理由にすべて「気安くしゃべ」ってきた。真剣に応答したことは一度もなかったということになる。
新聞やテレビを媒体として国民に総理大臣の言葉として情報伝達されることをも無視して、例え拉致問題で拉致家族にとって不都合な情報がもたらされたとしても、邦人がイラクやアフガンで過激派に拉致された、殺害されたといった自国民の生命にかかわる事件が起きたとしても、ぶら下がり記者会見で聞かれた場合は、「歩きながらしてる話なんで、気安くしゃべるもんだ」というスタンスを頑なに守って「気安くしゃべる」のだろう。
その程度に扱われるマスコミも、マスコミを通してその程度の質の情報しか伝達されない国民も軽く見られていることになって、マスコミも国民も軽く見られているという点で麻生の態度は「傲慢」と言えるが、元々はぶら下がり記者会見に抱いている「気安くしゃべる」ものと固定観念的に解釈している軽薄短小なスタンス自体が発生させている対人態度・対国民態度だろう。
話す態度は話の内容に応じて異なる。話す相手の年齢や立ち話であるとか立ち話ではないとかの話をしているときの状況によって決まるわけではない。それを「だいたい私の息子さんくらいの世代ですから、ですから普通に気安くしゃべるのを努めてるんです」を固定観念としている。
夫が妻に、あるいは妻が夫に離婚問題を、それがたまたま立ち話だったからと、「気安くしゃべる」ことができるだろうか。
あるいは親がまだ年齢の行かない子どもに両親の離婚を大人が息子の世代にする話だからと、「普通に気安くしゃべ」って無事片付くとでも思っているのだろうか。
離婚は夫婦にとっても子どもにとっても深刻な問題であるはずである。自ずとその深刻さに応じて、話す態度も異なってくる。政治の問題でも、同じはずだが、麻生太郎にはこういったことは理解できないようだ。
また毎日新聞を読んでいないことを以って「答えようがありません」としている同じ態度をクリントン米国務長官の金正日後継に関する発言を伝える報道にも見せている。
<――アメリカの複数の有力紙、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなんですが、クリントン国務長官が北朝鮮の権力継承問題について「仮に平和的な継承でも、一層の先行き不安が生まれ、国内の権力基盤固めのため、さらに挑発的な行動が誘発される可能性がある」と発言したと伝えています。ミサイルなどの脅威もある中、日本政府の認識を。
麻生「あの、少なくとも、外国の外務大臣が言った言わないって話を、外国の報道機関を通じて入った、そのことに関して、裏もとれない間に、コメントすることはありません。>(「asahi.com」)
「外国の報道機関を通じて入った」クリントン発言を実際に言ったか言わないかは本人からなのか、他の誰かなのかは分からないが、確認(=裏)を取っていないからコメントできないとする文脈でマスコミの報道自体を「読んでいない」ことと同じ次元に貶めている。
要するに、「読んでませんから、答えようがありません」を確認の問題にすり替えて回りくどく言ったに過ぎない。
読んでいないから、答えようがない、記事が取り上げていることは事実だとしても、確認が取れていなければ答えることができないでは、例えそれが「立ち話」相応のぶら下がり記者会見であっても、遣り取りする意味だけでなく、報道機関が報道することの意味まで失う。
二階利権顔(と菅直人に言われた)経産大臣の政治団体が西松建設からの政治資金の処理をめぐって捜査の対象となっていることについて問われたときも、
<「あの、新聞情報しか知りませんので、個別の案件についてコメントすることはありません」
――説明責任を果たされるべきだというふうには考えないか。
「新聞情報だけで、その種の話をコメントすることはありません」 >(「asahi.com」)・・・・
これも「裏もとれない間に、コメントすることはありません」と同様に「新聞情報」を無意味化しているし、金正日の後継問題でもニュースソースを聞いたうえで、
「聯合ニュース、はい、新聞の、他国の新聞の一情報をもとにして、私どもがそれに対してコメントすることはありません」(「msn産経」)と「新聞情報」を同じく意味のないものと貶め、済ましている。
失言問題でマスコミに散々叩かれたから、マスコミに対する恨みつらみは理解できないこともないが、金正日後継問題は現在のところ「他国の新聞の一情報」であったとしても、いつかは日本に関係してくる重要な外交問題であると同時に世襲か否かで北朝鮮の政治体制に違いが生じるだろうし、その違いに応じて日本に対する影響も違いが生じるとことは自明の理となっている将来的事実なのだから、「外交の麻生」と言うのであるなら、「他国の新聞の一情報」であることを前提としつつも、何らか説明があってもいいはずである。それが国民に対する説明責任というものであろう。
だが、「コメントすることはありません」と何ら説明を行わない。
こう見てくると麻生の新聞記事を無意味化するぶら下がり対応はマスコミの情報に対する自身の側からご都合主義的にバリエーションを持たせつつ、答えないことを旨とした情報操作の常套的態度と見ることができる。
この答えることができる範囲内で限りなく丁寧に答えるというのではなく、新聞報道を無意味化してまで答えまいとするご都合主義は「傲慢」から来ている態度が窺えないこともないが、やはり軽薄短小ゆえの親切心のなさ、無節操から来ている説明責任の放棄と見るべきだろう。
読んでなかったなら、どういうふうに新聞に書いてあるのか質問をした記者に詳しく問い質して、問い質したその内容を基に新聞はそう見ているが、自分はそうは見ていないとか、あるいは新聞が書いてることについて自分はこう考えている、こう受け止めているとすれば、記事の内容と自身の答の間に否定・肯定を含めた解釈の整合性は確保できる。
それを「読んでませんから」とか、「裏もとれない間に」、「他国の新聞の一情報をもとにして」といったことを口実に答を避ける。説明責任を果たさない。中身ある内容の答を咄嗟に用意できないから、あれこれ口実を設けることになるのだろう。
中身ある内容の答を用意できさえすれば、「読んでませんから」とかを口実にする必要はない。
オリンピック開催の条件は優れた施設、効率的な運営計画、運営に過不足ない財源の裏打ち、国民の支持等で決まり、オリンピック憲章が謳っている精神は条件としていないようだ。
オリンピック憲章は「根本原則」として次のような精神を謳っている。
「根本原則 3」オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することを視野に入れ、あらゆる場で調和のとれた人間の発達にスポーツを役立てることにある――
「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会」を確立していない都市、国家はオリンピック開催の資格はないと宣言している。
「根本原則 8」で「スポーツを行なうことは人権の一つである」と言っているが、「人間の尊厳を保つ」とは、自由と人権の全面的な容認によって可能となる人間の存在性であろう。そこにどのような差別があろうとも、尊厳は傷つけられ、歪められる。差別は自由と人権の否定要素として立ちはだかる。
だから、「根本原則 6」で差別について言及することになる。「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」
差別を伴ったなら、友情も連帯もフェアプレーの精神も未到達の領域へと追いやることになる。自由と人権を認めない差別ある場所に精神の平和も社会の平和も確立不能となる。
いわばオリンピック開催国として立候補し、開催するにはその都市とその都市が所属する国家は自由と人権の全面的な容認を武器に人間の尊厳を保障する差別とは無縁の社会・国家でなければならないはずである。
国際オリンピック委員会は中国が自由と人権の容認姿勢に問題があり、政治活動や人権活動に制限を加えて国民の尊厳を損なっているにも関わらず、その首都北京でのオリンピック開催を決定、世界に失望と怒りを与える苦い経験を味わったはずだが、そのことを何ら教訓とせずに立候補都市東京都知事と東京を支援する立場にある日本国総理大臣が共に人間の尊厳を損なうことを厭わない人種差別主義者・性差別主義者であることを無視して、東京に第一次選考通過の機会を与え、16日(4月)に国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会が来日、現地調査に入っている。
そして18日の麻生首相主催の晩餐会では麻生首相と石原都知事は差別主義者の顔を仮面の下に隠して次のように挨拶している。
麻生「日本のもてなしを満喫してください。日本は2016年のオリンピックとパラリンピックを開催し、世界の平和に貢献できると思います。またお会いできることを楽しみにしています」
石原「人類の平和と友情と調和が永遠に続くことを願います」(「NHK」
共に平和を口にしているが、オリンピック憲章が謳う「人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立」は既に触れたように自由と人権を無条件に認め、すべての差別を排除する姿勢によって実現可能となるが、麻生と石原は双子の兄弟みたいに人種差別・民族差別、女性差別・弱者差別を自らの血としている。
一部の人間によって繰返し指摘されていることだが、麻生の場合は1983年の「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と女性の判断能力を一段も二段も低く見る女性蔑視、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」とする日本民族優越主義とその反動としてのアジア人蔑視や民差別。
石原の場合は――
1999年東京都知事として身体障害者療育施設を視察した際の「ああいう人ってのは人格あるのかね」と語った障害者を人間と看做さない障害者無人格論から窺うことができる障害者差別。
あるいは「これは僕が言ってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババアなんだそうだ。女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です、って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね」と生殖能力の維持・喪失のみで男女の優劣を語る差別観。
あるいは2001年5月8日の産経新聞に投稿した『日本よ/内なる防衛を』で、当時多発した中国人犯罪の手口を以ってして、「日本人ならこうした手口の犯行はしないものです。・・・・こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはすまい」と手口の恐ろしさが「民族的DNA」に埋め込まれているかのような日本民族優越論に立った中国人評価等々。
このように差別は人格を全面的に認めない他者を存在させることによって生じ、差別に応じて尊厳意識は濃淡を描くことになる。
人格は断るまでもなく自由と人権の保障を得て十全な姿を取ることができる。
多分麻生や石原の自民族優越意識とそれと対を成している差別意識は個人の問題であって、東京も日本も全体としては人間の尊厳が確立された都市、社会となっていると言うだろう。
だが、麻生・石原が持つ優越意識と差別意識の政治性を自覚的に支持する者がいる一方、多くはそのことに無自覚に支持することによって総理大臣となり、都知事となっているのだろうが、自覚的な支持にしても問題だが、無知からくる無自覚の支持は二人が持つ差別と優越意識を社会の底流に生きづかせて、そのなくならない延命に手を貸す役目を永遠に担うことになる。
石原は国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会への施設や運営計画の説明後、都内で記者会見した際、英国人記者から「知事は日本の朝鮮半島への行為を矮小(わいしょう)化しているため開催地に選ばれるべきではないという、韓国での報道を知っているか」と問われて次のように答えている。
「ヨーロッパの国によるアジアの植民地統治に比べ、日本の統治は公平だったと朴大統領(朴正熙(パク・チョンヒ)・韓国元大統領)から聞いた」(「asahi.com」)
「日本の韓国の統治がすべて正しかったと言った覚えはまったくない。日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだったということをじかに聞いた」(同「asahi.com」)
「日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだった」としたら、植民地朝鮮に於いて日本人と朝鮮人が「非常に優しくて公平な」関係を築いていなければ成し遂げることができなかった統治風景だったはずである。敵対関係、あるいは優劣の差別関係にあったなら、関係内容はその内容のままに統治行為にも反映されて、敵対的・差別的統治風景を描いたはずである。
だが、過酷で情け容赦のない朝鮮人の土地に対する日本人の暴力的な収奪、日本に強制連行して労働力に仕立てるべく手当たり次第に力づくで行った人狩り、朝鮮女性を従軍慰安婦にすべく強引に狩り集めた暴力的拉致の例を挙げるまでもなく、戦前・戦後を通じた日本本土に於ける日本人の朝鮮人に対する差別は日本の植民地に於ける日本人の朝鮮人に対する差別、身分の扱いを正直なまでに見事に反映した姿としてある両者間の上下・優劣・尊卑関係の成果としてあった姿であろう。
このような関係が最も過激・先鋭に濃縮された形で現れた事件として関東大震災のときのデマが起こした全国で数千人の朝鮮人が殺された朝鮮人虐殺事件を挙げることができる。多くの日本人が無防備・無力な朝鮮人を見れば追い回し、殺していった。
もし植民地に於いて日本人と朝鮮人が「非常に優しくて公平な」関係を築いていたなら、日本本土に於ける日本人と朝鮮人にしても「非常に優しくて公平な」関係を築けていたはずだが、そうはなっていなかった。
もし「日本のやったことはむしろ非常に優しくて公平なものだった」としたら、1919(大正8)年3月1日を期して勃発し、朝鮮全土に拡大した朝鮮民族の植民地支配者日本に対する激しい独立運動は起こるはずもなかっただろうし、その独立運動に対して日本は死者7500人、負傷者4万5千人、検挙者4万6千人まで出す武力鎮圧に乗り出しす必要もなく、ありもしない歴史的事件となったに違いない。
石原のみにととまらず、麻生にしてもそうだが、差別を隠して平和を語る彼らの発言を許しているのは多くの日本人が麻生や石原といった差別主義者を無知・無自覚に支持し、総理大臣や都知事の職に就けているからだろう。
麻生や石原が発する差別主義に無知・無自覚であってはならないということである。
それは国際オリンピック委員会に対しても言えることである。オリンピック憲章で「人間の尊厳」や人権を謳っている以上、いくら口では平和を語ろうとも、内に人種差別や性差別を抱えて人間の尊厳や人権を蔑ろにしている人物がオリンピック開催に支配的に関わっている場合、それを個人の問題とせず、またそういった差別意識を社会の底流に生きづかせて、そのなくならない延命に手を貸さないためにも、それらの有無を財源や運営計画より上の開催の主たる条件に付け加えるべきはないだろうか。
だが、現実はそうはなっていない。政治家の抱える差別意識に無頓着となっている。
自らの差別主義を隠して世界の平和を語ること程、性質(たち)の悪い冗談はない。だが、麻生にしても石原にしても平然と語っている。
人気アイドルグループ「SMAP」のメンバー草なぎ剛が4月23日木曜日午前3時に公園で酒に酔って全裸になって芝生に胡座(あぐら)をかき、意味不明なことを叫んでいたとして公然猥褻容疑で警察に逮捕され、拘留、家宅捜索まで受け、翌24日午後2時過ぎ、逮捕から約35時間ぶりに処分保留で釈放。東京区検は今後、在宅のまま捜査を継続する方針だとのこと。
何のために?――
「SMAP」のファンでも何でもないが、酒に酔っていた上、全裸になった。場所と時間は暗いうちの世間一般はまだ寝静まっている深夜午前3時の公園。
そこに自分以外に誰かがいると想定する人間がいるだろうか。人一人っ子いない――いわば暗い中での無人を前提とした全裸であって、公然猥褻罪に於ける不特定または多数の人間を対象としておおっぴらに行う「公然」にも当たらないし、裸体や下半身を露出して他人に見せると同時に他人に見られることによって性的快感を得る種類の「猥褻」行為とも言えない。
明らかに周囲に誰もいないと分かる場所、他人の視線の関与がないと分かる場所で公然猥褻罪に相当する行為を行うことができる人間がいるとしたら、余程器用な人間と言うことになる。世渡り器用な政治家・鳩山邦夫なら、持ち前の器用さに助けられて不可能を可能とすることができるかもしれない。
素っ裸になったといっても、やたらとうろつくわけでもなく、芝生に胡坐をかいていた。慎ましいばかりに抑制的な姿を髣髴とさせる。声のみを活動させていた。何か卑猥な言葉を発していたと言うのだろうか。報道のどこにもそうしていたという説明は見当たらない。警察の発表もない。
小便を我慢できなくなった男が路地裏の人気のない場所を見つけて、電柱の陰で立ち小便を始めた。ところが間が悪いことに女性の通行人が現れたものだから、作業途中だったが、小便を出し切って解放感を味わう暇もなく慌ててズボンにしまいこんだが、相手の女性にチラッと見られてしまった。
この場面を以ってして、公然猥褻罪に問わなければならないとするだろうか。目的はあくまでも立小便であって、立小便を装った下半身の露出でも、あるいは直接的な下半身の露出でもない。
本人以外に誰もいない午前3時の暗い公園で全裸になって芝生に胡坐をかく行為も意図の点では上記立小便とたいして変わらないのではないのか。
いい方に解釈するなら、人気芸能人として普段は羽目を外してバカなことはできない抑圧的な慎みから装うこととなった自分ではない自分から酔いも手伝って抑えに抑えていた鬱屈した感情と共に自分を解放したくなった。
それが全裸となり、大声で騒いだということではないのか。他人との関わりを目的としてではなくまた性的行為からでもなく、自己自身と関わるために裸になることも、大声で叫ぶことも、自己解放の象徴行為である。
あるいは酔って熱く火照った全身を裸になってひんやりとした夜気に包み込み、清々しい解放感を全身全霊でもって味わいたかっただけかもしれない。
単に夜中の静まり返った中で大声を出して叫んだことが他人に異様な出来事を思わせた、あるいは不安を与えたことから、警察に通報されたということだろう。
それを逮捕し、家宅捜索まで行った。相手が芸能人でよくあることだからと薬物乱用による錯乱行為だと疑ったなら、尿検査で片付く。
個人差、体調によって違いはあるものの、「1回のみの経口使用では、投与された覚せい剤の76~92%が48時間以内に排泄され、更に4日目の尿までに残りの数%が排泄されることがほぼ明らかになってい」て、乱用者の場合は「最終使用から10~14日間程度は、その尿から覚せい剤が検出される可能性があ」り、「刑事裁判の実務では、尿から覚せい剤が検出された場合、採尿からさかのぼって2週間以内に覚せい剤を使用したものと考え」(「なぜ、尿検査なのか。薬物の尿検査・3/ 弁護士小森榮の薬物問題ノート」)るということだから、尿検査で薬物に関しては陰性であったなら、過度のアルコール摂取を原因とした全裸行為であり、大声騒動とのみ見るべきで、陰性を無視しての家宅捜索なら、本人の名誉を傷つける名誉毀損に相当するのではないのか。
鳩山邦夫総務大臣は自身が管轄している地上デジタル放送普及推進のメインキャラクターに草なぎ起用の責任問題が絡む懸念からだろう、逮捕の知らせに、「事実だとすればめちゃくちゃな怒りを感じる。最低の人間としか思えない」と自らを最高の人間に位置づけ、国際会議の記者会見で酔っ払いの醜態を見せて世界に恥を曝したお仲間がつい最近まで閣内にいたことも忘れて批判したそうだが、24日の閣議後の記者会見では「草なぎさんはたいへんな国民的な人気、実績もあるし、環境や日韓友好の問題にも力を尽くしている。人間は多面的に評価しなければならず『最低の人間』と言ったことは取り消ます。人間は人間を評価できないと、ということについて率直に私も反省してですね、最低、最悪の行為だと、いうふうに言い直させていただきたいと思います」(≪総務相 批判の発言を取り消し≫ NHK/09年4月24日 12時47分)と、「最低の人間」から「たいへんな国民的な人気、実績もあるし、環境や日韓友好の問題にも力を尽くしている」と180度転回の持ち上げようで殊勝気に批判を訂正。
たが、「最低、最悪の行為だと」と言ったとき、口の中で軽い笑いを何気なくを吐き出していたところを見ると、本心からの賛辞ではないようだ。
閣議後の豹変だから、閣議で麻生か他の大臣に何か言われて、急遽批判のトーンを弱めたのだろうか。
一番に考えられる理由は、鳩山自身が言っている「草なぎさんは」とさん付けで、「たいへんな国民的な人気」を持っていて、その「国民的」の対象の多くが若者だということではないだろうか。
若者をキーワードにしている人物は他ならぬ我が日本が誇る麻生首相その人が存在する。自民党の首相だから、取り敢えずの支持は得ているが、個人的な人気という点では若者に理解があり、マンガやファッションといった若者の文化に理解があることから日本の若者に絶大な人気を博していると自負している麻生太郎である。特に秋葉原を文化圏としているアキバの若者には異常なまでに人気がある。
当然、麻生のファンである若者と草なぎをのみならず、他のメンバーも含めた「SMAP」のファンである若者が重なっていることも考えておかなければならない。
若者の多くを対象として「国民的人気」のある「SMAP」の草なぎを「最低の人間」だと麻生内閣の一員たる総務大臣が批判して若者の反発を受けたとしたら、その反発が一大臣を超えて麻生までが側杖を食って、その若者人気に影を落とさない保証はない。
「SMAP」ファンの若者と麻生ファンの若者がどのくらいの広がりで重なっているか、早急には判断できないところがその影響の程度もを判断不可能にして不安を与えてもいるに違いない。
アキバに再び訪れても、かつてのような歓呼で迎えられるだろうか。「麻生コール」が「帰れコール」となったら、麻生太郎はテレビの前で大恥をかくことになる。解散・総選挙となったなら、マスコミ受けを目的にアキバに再度訪れて人気の程を誇る積りでもいるだろうから、逆の歓迎は飛んでもない計算外となる。
また、「SMAP」人気が若者のみにとどまらず、オバサンたちにも人気があるとしたら、西松効果は泡となって消えかねない。若者からオバサンまでの幅広い層の反発が喉元通って暑さ忘れないうちに総選挙がおっぱじまった場合、票の流れは明らかに逆流の形を取りかねない。
早々に批判を撤回して、若者やオバサンたちファンの反発を宥め、支持率にまで影響しないことを防ぐ必要から生じた殊勝気な批判撤回ではなかったろうか。
西松事件で民主党代表の政策秘書の逮捕が小沢代表の政治生命を絶つための国策捜査だとの疑いが囁かれているが、もし事実としてあった捜査なら、草なぎ釈放は麻生太郎が若者やその他の人気を失わないための国策釈放ということもあり得る。
世界に冠たる日本国総理大臣・麻生太郎の女房役、見た目はかなり頼りないし、話しぶりもボソボソ、声が優し過ぎて頼りないし、言っている内容自体も頼りないことしか言わないが、それでも麻生が見初めてプロポーズした女房役である。
もしかしたら記者会見を機会にマスコミへの露出度が高い官房長官、下手に人気を取られたら叶わないからと、麻生太郎の最初からの計算で頼りない人間を当てたのかもしれない。そう考えると女房役と言いながら頼りない点で辻褄が合う。
その総理大臣女房役・河村健夫が22日(4月)都内で講演、解散・総選挙の時期は公明党の希望に配慮すべきだとあからさまに述べた。
NHKの動画を見ると、次のようにボソボソと喋っている。
「都議会は公明党が全力をかけて、やっているから、このときもし解散したら、我々、自民党の応援なんか、している暇ないよ、と、こういう警告を、いただいておりますから、あの、これ、その、国政選挙と関係あるかどうか、んー、ですけども、しかしまあ、政権与党一緒にやっている公明党がそう言うんですから、それは無視できないだろうと・・・・」
自民党にとって「国政選挙と関係」することからの「無視できない」配慮なのだから、「国政選挙と関係あるかどうか、んー」と惚けるところは麻生に負けない役者振りである。
公明党に関する言及の部分で「無視できないだろう」に続く言葉を「時事ドットコム」(≪官房長官の発言要旨≫2009/04/22-13:21)だと次のようになっている。
「首相もそのことも考えながら、どの時点でやるのがいいのか(考えているだろう)。」――
そして続けて、「一番大事なのは景気対策で、2009年度補正予算案を仕上げることに最大の力を入れる」と、解散・総選挙回避の特効薬としてきた「景気対策」の新手(あらて)である「2009年度補正予算案」を持ち出して、優先度をそこに置くことで発足以来の麻生政権の運営方法を正当化し、返す刀で緊急に解散・総選挙を迫る民主党をバッサリ。
「一番大事なのは景気対策で、2009年度補正予算案を仕上げることに最大の力を入れる。このときの民主党の出方を見なければならない。世界経済の一角を背負う日本の経済が落ち込むとは一体どういうことなのか。政権担当能力があると言いながら、それが理解できない民主党なのか。『国民に聞くこともあり得る』と(首相が)言うのは、そこ(それだけ経済が重要ということ)にある。まずは補正予算案を通すことが大事で、解散はその次の話というのが首相の偽らざる気持ちだ。(了)」(同「時事ドットコム」)――
言っていることに矛盾があると気づかないのは麻生が官房長官に指名しただけあって、さすがに単細胞兄弟として通じ合っている。「補正予算案を通すことが大事で、解散はその次の話」と順番を決めておきながら、都議会選挙時期の解散・総選挙は公明党に配慮しなければならないと、その時期を外す決定を前以て行おうとしている。
最大の問題は麻生内閣作成の景気対策・経済対策が絶対だと信じ込んでいるところにある。景気の初期的対策に位置づけた定額給付金からして、国民の7~8割が効果はないと判断し、続く各補正、09年度本予算、いわゆる麻生が得意になって言い触らしてきた「3段ロケット」をバラ撒きと見、今度は「4段ロケット」だと称することになった「3段ロケット」に継ぎ足す「2009年度補正予算案」を国民は借金を後世に残す最たるバラ撒きだと見ている。
「朝日」の4月18、19日実施の世論調査の質問項目「麻生首相は、追加の景気対策として、過去最大の15兆円の補正予算案を国会に提出する方針です。その財源として、国の借金にあたる国債を10兆円規模で発行します。麻生首相のこの追加の景気対策を評価しますか。」に対する回答は、「評価する 25% 評価しない 60%」と、非評価が半数以上を占めていること自体が麻生経済対策の無効果評価の証明であろう。
いわば経済の専門家や識者、国民の過半数が麻生景気対策の出来栄えに支持を与える状況にあったとき、当然麻生内閣の支持率も高い数字を維持するはずだが、自らの景気対策にお墨付きを得た根拠として解散・総選挙を迫る民主党の対応を批判できる正当性を獲ち得る。
景気対策の出来栄え及び内閣の支持を得ていなにも関わらず、自らの景気政策・経済政策の出来栄えを正しいとする矛盾は、正しくないと認めたなら、自らの存在証明を失って自己否定に向かう破局を避ける自己保身からの矛盾であろう。
ここから麻生の政権へのしがみつき、景気対策を口実とした解散・総選挙の先延ばしが本格化している。
だが、景気対策の出来栄えは結果が出るのは先だから誤魔化せても、支持率は目に見える数字となって現れて、誤魔化すことができない。西松効果で「次の首相は誰がふさわしいか」で再逆転し、内閣支持率が少し上がったといっても、リードをほんの少し確保したに過ぎない。解散した場合の安心を少しでも多く手に入れるためには公明党の協力は欠かすことはできない切り札である。
当然、公明党の選挙都合に耳を貸す必要が生じる、景気対策ばかりを言ってはいられない。就任早々から、「私は決して逃げません」と言いながら、何のためにここまで解散・総選挙を逃げに逃げまくってきたのか。選挙に負けたなら、すべてを失うばかりか、政権を野党に手渡した首相として不名誉の名前を後世に残すことになる。
そこで河村発言となった。
政策面では自民党が好き放題にやるには必要ない、かえって邪魔になる存在だが、選挙では公明党の応援は必要不可欠、お陰を蒙っているから、定額給付金にも応じた。応じたお陰でかなり損もしている。「高額所得者で貰う人はさもしい」だとか、「矜持の問題だ」とか言わずもがなのことまで喋ってしまい、お陰で支持率を相当に下げた。
選挙となったら、その分、倍返しして貰わなければ、割りに合わない。地域振興券も小渕内閣が政権基盤を強化する頭数増やしに連立を組む必要が生じて公明党のゴリ押しを止むを得ず受け容れた、言ってみれば政略結婚のための交換条件に過ぎない。
4月17日から開催のパキスタン支援の国際会議で、「パキスタンの安定なくして、アフガニスタンの安定もなく、またアフガニスタンの安定なくして、パキスタンの安定もない」と当たり前のことを特別なことのように言ったが、選挙で必要ということだから、我々の場合の公明党なくして、自民党なし、自民党なくして、公明党なしは別れたくても別れられない腐れ縁といったところだ。
4月17日に公明党の太田代表が我が首相官邸に密かに来訪、その夜には公明党幹事長北側一雄と都内のホテルのバーで密会。あれ程都議選・衆議院選ダブル選挙アレルギーを患っている公明党の幹部が解散権を握る総理大臣と会って、解散・総選挙の時期についての愛の語らいが行われなかったはずはない。つまり、「我々、自民党の応援なんか、している暇ないよ」と、こういう警告をいただき、つれない振りをしてこちらの気を引いたというわけである。
マスコミが早速飛びついて話の内容を聞いてきたが、誰が正直に喋る。焦らすことによって、解散時期を曖昧にすることができる。例え支持を受けていない景気対策であっても優先させる口実を維持できる。
「公明党から、選挙の日にちを言われたことはありません」
決してウソをついているわけではない。何日にして欲しいと明確な「選挙の日にち」は口には出さないが、選挙の“時期”については7月の都議選を避けて欲しいという要望はあって当然、勿論あった。そんな要望がなければ、公明党ではなくなってしまう。都議選前後1カ月以内の総選挙は差し控えて欲しいと、大体の選挙“時期”を言ったに過ぎないし、だから、日本国総理大臣とし国民に正直に「公明党から、選挙の日にちを言われたことはありません」とマスコミを通して説明責任を果たした。麻生太郎、至って正直な政治家です。
我が愛しの女房役、決して総理大臣の人気を奪う心配のない河村官房長官が解散・総選挙の時期は公明党の希望に配慮すべきだと喋ったことに関する感想を聞かれたときも、至って正直に答えた。
「公明党という与党、友党にいろいろと配慮するというのは、常日頃からそういった配慮は持っているとは思います。思いますけども、それに合わせて選挙の日にちを考えるということはありません」(「asahi.com」)
「選挙の日にち」は選挙の時期を想定しないことには自ずから決まることはない。時期の想定は7月の都議選前後1カ月を除く期間ということで、正直に答えたとおり、「選挙の日にち」まで想定しているわけではない。
官房長官発言を「解散のフリーハンドを維持するために発言できない麻生太郎首相との役割分担との見方もある」(「47NEWS」と伝えているマスコミもあるが、「解散のフリーハンドを維持」することが難しくなった場合に備えての役割を演出させたに過ぎない。
つまり2009年度補正が例え難産の末であっても無事通過することによって、あるいはその他の不測事態が生じて解散・総選挙先延ばしの口実を失い解散・総選挙としければなくなったとしても、その時期が都議選と重なるために回避した場合の悪影響を前以て危機管理しておくためである。
どのような危機管理かというと、批判を覚悟で公明党配慮のカードを見せておいて、予め批判を出し尽くさせておけば、万が一にも実際に公明党配慮のカードを切らざるを得なくなったとしても、前以ての予想があるから、「やっぱりな」程度に抑えることができると踏んだ高度な危機管理であって、この麻生太郎の頭でしか思いつかない素晴らしい計算ではないか。
決して河村官房長官が思いついたわけではない。この麻生太郎がそうしろと命じて、操ったに過ぎない。
前以て予想させておくと、心の準備ならぬ感情の備えが知らず知らずのうちに働いて、後で予想通りのことが起きても、やっぱりそうか、予想通りということで怒りや不快の感情を和らげる役目を果たしてくれる。
いわば公明党に配慮して解散・総選挙を都議選期間を避けて行った場合に蒙るに違いない不評と、それが実際の総選挙で影響するに違いない票の減少を少しでも抑える二段階作戦の選挙対策。当然、いざ総選挙となった暁には公明党にはそのマイナスを補ってもらわなければならない。
万が一選挙に負けたとき、公明党に配慮したのが間違いだったと責任を擦り付けることもできる。
靖国神社では21日から3日間の日程で春の例大祭が開かれており、麻生総理大臣はこれにあわせて「内閣総理大臣 麻生太郎」名で5万円相当の「真榊(まさかき)」と呼ばれる鉢植えの供え物を奉納したという(「NHK」)。
21日夜の首相官邸でのぶら下がり記者会見の真榊奉納に関する遣り取りを「msn産経」が次のように伝えている。
--最初の質問です。靖国神社に「内閣総理大臣」名で真榊を奉納したということだが、いかなる考えに基づいているのか
「昨年10月も、真榊を納めたと記憶しますが。昨年10月にはこの種の質問をいただいていないのかしら」
--おそらく。記憶が確かなら…
「はい。昨年の10月にも納めさせていただいたと記憶しますぞ。僕は基本的に、国のために尊い命を投げ出された方々に対して、われわれとして、国民として、感謝、敬意というものを表するものだと思ってますけど」
中国に対する影響に関しては「NHK」の動画から。
麻生太郎「中国―に関して、中国とはこれまでも何回となく、未来志向、いうことを考えてやっていく、ということを申し上げてきましたし、歴史を直視してということも、申し上げてきましたし、今までどおりです」
もう一つ「NHK」の動画から河村官房長官の記者会見。
河村「事実関係については、私は、あの、確認を、しておるわけではございません。公費で、個人の立場で、自分のポケットマネーで、おやりになったということは、間違いない、と思います。政府の方から、このような公費を出すことはあり得ないわけですから」
確かに公費からではなく、私費で奉納した。しかし「内閣総理大臣 麻生太郎」と札に名前を記した以上、公人たる内閣総理大臣麻生太郎として真榊奉納を以って参拝に代えたということであろう。
身も心も「内閣総理大臣」として麻生太郎は「真榊」を奉納、天皇陛下のため、お国のために尊い命を捧げて斃れた英霊の御霊を追悼する参拝に代えた。
奉納したのが秘書官か誰なのかは知らないが、内閣総理大臣麻生太郎に代わって、神殿に向かって恭しく頭を下げては拍手を打った。
「国のために尊い命を投げ出された方々に対して」「国民として、感謝、敬意というものを表する」ために。
命を投げ出す目的対象物としての国が個人を犠牲にさせて天皇と国家に奉仕させ、アジア侵略の戦争に駆り立てた軍国主義国家だったことなどは問題ではない。どのような国家体制であろうと、それが軍部独裁の全体主義国家であろうと、「国のために尊い命を投げ出」すことが国民の国家に対する美しい当然の奉仕であり、そのような美しい奉仕に対して後世の国民が国家と先人に対する当然の務めとして「感謝、敬意というものを表する」。
いわば後世の国民が「感謝、敬意というものを表する」ことによって、先人の「国のために尊い命を投げ出」した天皇及び国への奉仕が当時偉大な行為だと価値づけられたままに現在に於いてもその価値を等身大に残すことになる。
軍国主義の時代に価値があったとする行為を今の民主主義の時代にも同じ価値が損なうことなくあるとすることになるが、そうするためにこそ、内閣総理大臣麻生太郎は本心は総理大臣となった以上、国家・国民を代表する形で正々堂々と靖国神社に参拝したいところだが、中国・韓国を諸に刺激するのはまずいから、軍国主義時代の日本国民の天皇・国家に対する奉仕精神・奉仕の価値観を今に伝え、後世に受け継ぐべく参拝に代えて真榊奉納を行ったというわけである。
後世への受け継ぎが断ち切られることなく連綿と受け継がれていくことによって、国民の「国のために尊い命を投げ出」す奉仕と、そのことに対する「感謝、敬意というものを表する」礼法・顕彰が確たる国民の務めとして日本の歴史に根付き、伝統・文化となっていく。日本人の血となっていく。素晴らしいことではないか。
安倍晋三の著書『この国を守る決意』に「命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」という一節が書いてあるというが、まさに“国への命の捧げ”とそのことへの感謝・顕彰を日本及び日本人の歴史・伝統・文化としたい衝動を見ることができる。
麻生太郎と安倍晋三は「お国のために命を捧げる」行為を国民の美しく尊い価値観だとする点に於いて、双子の兄弟だと言える。
また、戦前の軍国主義時代の国民「方々」の「国のために尊い命を投げ出」す奉仕が侵略戦争を通してアジア各国の多くの国民の命を奪い、犠牲にしたことも、問題としてはならない。問題だとしたら、天皇陛下のため・お国のために命を捧げるという日本民族の戦前の優れた価値観を否定することになるからだ。
国民が天皇陛下と国に抱く命を捧げるという日本民族の戦前の優れた価値観を否定しないために、否定せず、日本の歴史・伝統・文化として、日本人の血として受け継いでいくために、どのような行為を以ってして「国のために尊い命を投げ出」したのか、そしてその行為が誰に向けられたのかの対象も一切不問に付さなければならない。アジアの人間をどのくらい犠牲にしたか。いや、大日本帝国軍隊が自己保身のために自国民さえ、どのくらい犠牲にしたか、「国のために尊い命を投げ出」す行為が及ぼしたそれらの事実は一切消し去り、無視し、「国のために尊い命を投げ出」したと言葉で言う事実とそう「された方々」の存在のみを取り上げていかなければならない。
そうしなければ日本民族の存在証明を失うからだ。日本民族として自慢できる存在証明は「国のために尊い命を投げ出」す国家奉仕以外、見るべきものがないからだ。
中国や韓国の抗議などどうでもいい。 「『大変だ、大変だ』と言って靖国の話をするのは基本的に中国と韓国、世界191カ国で2カ国だけだ」(麻生太郎/05年金沢市内での講演/「しんぶん赤旗」より)
「未来志向、歴史を直視しで誤魔化せばいい」というわけなのだろう。
そこで麻生太郎は「asahi.com」記事(≪イラン外相に米国との対話促す 麻生氏、会談で≫/2009年4月16日19時55分)によると、イランの核開発問題について「国際社会の信頼を回復するのが最も重要だ」と述べ、国連安全保障理事会の求めに応じてウラン濃縮活動を停止するよう促したという。
さらに記事は<外務省の説明によると、麻生氏は、オバマ米政権が対話に前向きな姿勢を示していることに言及。「この機会を逃すべきではなく、イランの方からも積極的に取り組むべきだ」と述べた。モッタキ氏は「イランとしてもオバマ政権の最近の発言については、尊敬の念を持って真剣に聞いている」と応じたという。>と続けている。
要するに記事は「外務省の説明」を元に作成された。麻生太郎のウラン濃縮活動停止要請に対してイラン外相がどう返事したか、記事が書いてないのは、外務省が麻生太郎の手柄とすべく公表する価値がある反応を得ることができなかったからだろう。
イランは2006年12月、2007年3月、2008年3月の3度の国連安保理制裁決議を無視し、ウラン濃縮活動を続ける、北朝鮮以上のつわものぶりを発揮しているし、4月10日の「msn産経」記事(≪イランがウラン濃縮活動拡大へ 「新型分離機テスト」と大統領≫)が、<イランのアハマディネジャド大統領は9日、従来型より「数倍の能力」があるウラン濃縮用の新型遠心分離機をテストしたと述べ、濃縮活動をさらに拡大する姿勢を示した。>(一部抜粋)と伝えてもいる。麻生太郎如きの要請に、ハイ、分かりました、停止しますと答えるはずはない。
裏を返すと、停止要請はしないで済ますわけにはいかない単なる形式に過ぎなかったと言うことである。つまり、言えば済む儀式として行った。
米国との対話要請も大統領就任前からブッシュ大統領の対イラン政策から転換、新たなアプロ-チで臨む姿勢を明らかにしていたオバマのイラン外交に追随し、その尻馬に乗って、単に日本からの振り向けとしたに過ぎない。
オバマ大統領は4月5日、チェコの首都プラハで演説、「核のない世界」の実現に向けた新政策を打ち出している。
「イランはまだ核兵器を完成させていない。イランに対し、私の政権は相互の利益と尊敬に基づく関与を追求し、明快な選択を示す。我々はイランが世界で、政治的、経済的に正当な地位を占めることを望む。我々はイランが査察を条件に原子力エネルギーの平和的利用の権利を認める。あるいは一層の孤立や国際圧力、中東地域での核兵器競争の可能性につながる道を選ぶこともできる。
はっきりさせよう。イランの核や弾道ミサイルをめぐる活動は、米国だけでなく、イランの近隣諸国や我々の同盟国の現実の脅威だ。チェコとポーランドは、これらのミサイルに対する防衛施設を自国に置くことに同意した。イランの脅威が続く限り、ミサイル防衛(MD)システム配備を進める。脅威が除かれれば、欧州にMDを構築する緊急性は失われるだろう。」(≪オバマ大統領、核廃絶に向けた演説詳報≫asahi.com/2009年4月5日23時14分)
例えスピーチライターの関与があったとしても、日本の首相が口にすることはできない哲学を持った言葉の展開を見せている。
パキスタン支援国会議では我が麻生太郎は景気対策でも持ち前のバラ撒き精神を遺憾なくフル回転させてパキスタンに対して最大1,000億円の支援を表明。そして今が世界的テロ撲滅の正念場にあると一席ぶった。
「パキスタンの安定なくして、アフガニスタンの安定もなく、またアフガニスタンの安定なくして、パキスタンの安定もないと存じます」(≪パキスタン支援の一連の国際会議始める 麻生首相、世界的テロ撲滅の正念場と訴え≫FNN/09.4.17)
これはバカでも言える言葉だろう。解決策を何ら示唆する言葉ではなく、ごくごく当り前の事実を表面的になぞって説明したに過ぎないからだ。
つまりバカでも言える言葉だから、少なくともバカではない大国の指導者は口にすることのできない言葉と言える。
麻生の言葉を「イラク安定なくして、中東の安定なし。中東の安定なくして、イラク安定なし」と言い換えることもできるし、「パレスチナの安定なくして、中東の安定なし。中東の安定なくして、パレスチナの安定なし」とも言い換えることができる。単なる常識的呪文を唱えるだけといったところだろう。
「麻生自民党政権の崩壊なくして、日本国民の生活の安定なし。日本国民の生活の安定なくして、日本の安定はなし」にしても今や常識的呪文と化しているはずだ。
「テロ撲滅」と言っても、前途多難といった思いは単純な麻生の頭には一瞬たりともよぎらなかったに違いない。
「外交の麻生」と言いながら、世界の動きを表面的に把えるか、他国の外交をなぞって日本の外交の役割の一つに加えるしか頭の働きのない自作外交を持たないのだから、「経済の麻生」も推して知るべし。
だから、オバマがグリーンニューディール政策を掲げると、日本が早速借り物して自作とは言い難い日本版グリーンニューディールを打ち出す。
4月18日に麻生首相主催、1万1千人が盛大に招待を受けた新宿御苑開催の「桜を見る会」で披露した自作短歌も、自作と言いながら、外交や景気対策と同様、限りなく自作ではない、借り物の疑いが濃い。
自作ではない疑いの第一は、披露の際に言い間違えたところにある。「ふるさとにはや桜満(み)つゆゑ問へば冬の寒さに耐へてこそあれ」が正確な文字面だそうだが、「ふるさとにはや桜咲くゆゑ問へば冬の寒さに耐へてこそあれ」と、「満つ」を「咲く」と言い間違えている。
例え他人が作った短歌であっても、気に入れば、何度も口の中で反芻するのがごく自然な人情で、反芻するうちに歌に託した思いと言葉は一体化する。ましてや自作で尚且つ自信作なら、反芻することによって短歌としてその言葉は完璧に一体化するはずで、一体化したまま口を突いて出てくるものだが、こともあろうに麻生は歌の思いと言葉を一体化させていなかった。
1万1千人も前にして自作ですと得々と披露しようとしたなら、図々しい麻生のことだから、言い間違えるはずはない。得々と披露できないものがあったから、一体化を果たすこともできなかったと見るべきではないのか。
疑いの第二として正確な作りは桜が咲いた状態を「満つ」と少々高度な非日常語を当てている。単に日常語の「咲く」とするのとでは思い入れの強さが違ってくる。出来栄えの満足度も相当に違うはずである。当然記憶の密度も違ってくる。それをありきたりの平凡な「咲く」という表現に言い間違えた。使い慣れない非日常だったからこそ、「みぞゆう(未曾有)」と同じで、「咲く」に変わってしまったのではないのか。
疑いの第三は、NHKの動画を聞くと、短歌としての読みの間を成していないことを上げることができる。
間を入れる箇所に便宜的に(□)を入れて示すと、
「ふるさとに□はや桜咲く□ゆえ問えば□冬の寒さに耐えてこそあれ」と区切りを入れて読むべきところを、「ふるさとにはやぁー□桜咲くゆえ問えば□冬の寒さに耐えてこそあれ」と一般的な区切りと違うばかりか、ほぼ棒読みとなっている。特に「桜咲くゆえ問えば」とつなげていて、この箇所は完璧に棒読みとなっている。悪いことに、ぶっきらぼうにさえ聞こえる。
大勢の人間に披露する――いわば短歌に託して訴えようとしている思いを共感させるべく聞かせる短歌を棒読みする者がいるだろうか。
短歌を披露した後、次のように演説している。
「一次補正ー、二次補正―、そして本年度の平成12年度本予算。さらに経済成長、の、ための新しい政策とー、これを入れますとー、4段ロケットぉー、いうことになります。これが今ぁー、冬の時代に、ずうっと仕込んでいったぁー、我々の政策であって、いよいよ花開いてくる、のが、これから後だと、思っております・・・・」
自作景気対策を「3段ロケットだ」、「3段ロケットだ」と散々と言っておきながら、3段ロケットのバラ撒きだけでは景気回復に自信が持てなかったからだろう、「4段ロケット」だとさらに1段気前よくバラ撒きを上積みさせている。
最初に散々言っていたとおりに「3段ロケット」で自作景気対策を完成させてこそ、政策に首尾一貫性を持たせることができるばかりか、「経済の麻生」と胸を張って宣言できるのに対して国民も麻生なる人間に信用が置けることになるのだが、短歌の言い間違えが自作だとの触れ込みを疑わせているのと同じく、「4段ロケット」だとしたことが最初の「3段ロケットだ」を間違いだとすることとなっている。
それでも麻生太郎は口癖としているこの言葉を使って、「ぶれてはいません。言っていることはずっと同じことです」と言うに違いない。
バラ撒きが「3段」で終わらず、「4段」に積み上がった。消費税増税で跳ね返ってくる分も「3段」どころか、「4段」相当となるに違いない。
麻生内閣が11年度に景気回復を見込んで消費税を増税し、財政健全化を策しているのに対して、民主党は当面行政のムダをなくすことで消費税増税を補うことと、いわゆる埋蔵金等を活用してそれらの範囲内で予算を執行、政治を行うとしている。
これは民主党の前々からの持論だが、こういった持論を展開するに至ったそもその原因は自民党政府に於ける税金のムダ遣いと政策の誤りが余りにも目に余る現実があったからだろう。この目に余る現実は国民も承知しているはずである。
民主党の菅代表代行が4月18日に名古屋市で「政権交代を実現した際には官僚の天下りを禁止するなど行政のムダを徹底してなくし、税金の使いみちを根本から見直したい」(≪“政権交代し ムダをなくす”≫「NHK」インターネット記事/ 09年4月18日 19時3分)と街頭演説したのも、民主党の持論を改めて強調する必要からだろう。
菅直人「『官僚の悪口を言うと政権を取ったときに困る』とよく言われるが、官僚は一般の国民と感覚が180度逆転しているときがある。税金が増えれば『配れる金が増えた』、『権限が増えた』と思うのが官僚の感覚だ。・・・・税金は使いみちによって意味のある金になるが、今は官僚の天下り先を作るために使われており、財政赤字の原因になっている。これを変えなければせっかく払われた税金が国民の手に戻ってこない」(同「NHK」インターネット記事)
日本の官僚の業務上の金銭感覚が、それが業務上示すべき金銭感覚でありながら、国民の利益のみに向かっているのではなく、プールした裏ガネや随意契約を利用してキックバックしたカネを飲み食いの代金や臨時収入等に当てる役得、あるいは天下りを利用して高額給与や高額退職金を手にする財産形成といった自己利益にも欠かさず向かって彼らの体質と化している状況は官僚の管理・監督者の立場にある内閣の管理・監督無能からきている惨状なのは断るまでもない。
いわば自民党一党独裁政治がつくり出した日本の官僚体質・官僚的金銭感覚であり、その偉大な成果としてある行政のムダであり、官僚の私欲体質だと言える。
当然、満足な政策など実現しようがない。
麻生首相は就任直後の所信表明演説(08年9月29日)で、「行政改革を進め、ムダを省き、政府規模を縮小することは当然です」と言い、「わたしは、その実現のため、現場も含め、公務員諸君に粉骨砕身、働いてもらいます。国家、国民のために働くことを喜びとしてほしい。官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません。しかし、信賞必罰で臨みます。
わたしが先頭に立って、彼らを率います。彼らは、国民に奉仕する政府の経営資源であります。その活用をできぬものは、およそ政府経営の任に耐えぬのであります」と言っているが、自民党の歴代内閣は満足に「彼らを率い」てこなかった。満足に「率い」る力もなく、「国民に奉仕する政府の経営資源」として満足に「活用」できなかった。
いわば日本の官僚を能率よく働かすための管理・監督の責任を十分に果たすことができなかった。その結果の跡を断つことのない予算の膨大な“ムダ遣い”であり、ムダ遣いにエネルギーを殺がれて生じせしめることとなる非能率・非効率であろう。
麻生太郎は日本の官僚を称して、「官僚とは、わたしとわたしの内閣にとって、敵ではありません」と言っているが、「敵」どころか、ムダ遣いをなあ、なあで大目に見てきたお仲間だったのである。
当然、「政府経営の任に耐えぬ」はずだが、頭数にモノを言わせて見て見ぬ振りで見逃してきた。ムダ遣いを含めて省益を擁護し、政治家側の族益をのさばらせる政官癒着を成り立たせてきた。
そのような自民党内閣に「信賞必罰で臨みます」は自らの管理・監督の無能力を省みないおこがましい限りの麻生らしい大口叩き、口先だけのゴマカシに過ぎない。
麻生は4月8日に都内開催の国家公務員合同初任研修開講式に出席し、新人官僚約700人を前に訓示を垂れたと「msn産経」記事(≪首相が新人官僚に訓示 「私は公務員バッシングにくみしない」≫)が伝えている。
「私は公務員バッシングにくみしない。公務員は内閣の従業員だ。優秀さを疑ったことはない。・・・・問題は公務員を使いこなせない政治家にある。・・・国民に分かる言葉でしゃべること。君たちのお客は国民だ。現場の意見を聞き、求められていることは何かをつかんでほしい」――
自民党政治家と官僚が馴合い仲間だから、言っていることが支離滅裂、矛盾だらけの訓示内容となる。最初に「公務員は内閣の従業員だ。優秀さを疑ったことはない」とその能力を信任し、評価したまではいいが、そのあと「問題は公務員を使いこなせない政治家にある」と、公務員を「使いこな」すことができなかった自民党歴代内閣に問題があるとしたなら、そのことを主たる問題として論ずるべきだが、「国民に分かる言葉でしゃべること」などと公務員に対する注意に摩り替えるゴマカシを働いている。
もし使いこなすことができていたなら、「問題は公務員を使いこなせない政治家にある」といったことを言う必要はないし、なり立ての公務員に「国民に分かる言葉でしゃべること。君たちのお客は国民だ」云々と頼み込まなければならない情けない姿を曝す必要も生じない。
使いこなせていたなら、先輩公務員が承知していて、順次後輩に伝えていくあるべき公務員の姿となるから、総理大臣がわざわざ訓示する必要もなかったろう。訓示は公務員がそういう姿とはなっていないことの暴露であり、同時に内閣が公務員を「使いこなせ」ていないことを歴代内閣の歴史・伝統・文化としていることの暴露でしかない。
いわば麻生は口では「問題は公務員を使いこなせない政治家にある」と言いながら、自民党歴代内閣の問題に据えることは自己保身もあるからだろう、客観的認識能力を欠いているからできなかった。使いこなせず、ムダ遣いを放任してきたことも、政官癒着の馴れ合いで、お互いの保身を図ってきたことも見据えることができない。
このような自己都合な矛盾に満ちた麻生太郎に公務員改革などできようはずはない。
自民党は民主党が政権を奪った場合のムダ遣いをなくして予算を組むとする財政運営を非現実的だと攻撃している。4月12日の「NHK日曜討論」(≪「どうなる暮らし 激論 新経済対策」≫に出席していた自民党の町村信孝にしても、同じ態度を取っている。
NHKのHPでは番組を次のように銘打っていた。
<「どうなる暮らし 激論 新経済対策」
政府・与党は補正予算案としては過去最大の15兆円超の新たな経
済対策を決定。景気の底割れは防げるのか?景気回復への効果は?
財源は?与野党の経済政策責任者が徹底討論。
(自由民主党日本経済再生戦略会議会長)町村 信孝
(民主党政策調査会長)直嶋 正行
(公明党政務調査会長)山口那津男
(日本共産党政策委員長)小池 晃
(社会民主党政策審議会長)阿部 知子
(国民新党政策審議会長代行)下地 幹郎
(NHK解説委員)島田 敏男>――
一部抜粋すると、予算に組む財源に関して、
政府案は
経済緊急対応予備費
特別会計準備金
赤字国債・建設国債――10兆円
民主党案
経済緊急対応予備費
特別会計準備金
税金のムダ遣いをなくす――としている。
違いは国債発行か、ムダ遣いの削減かにある。
町村「あのー、そのー、あんまり、私は民主党さんのね、えー、あれこれ言う積りはありませんが、このムダ遣いをなくして、10兆も20兆もできるんなら、それはやったらいいです。我々も協力しますし、努力もします。現にやってきました。
しかし、これはいつも議論になるんですけれどもね、や、トータルで、え、1200兆ですかね、違ったかな、一般会計と特会と合わせるとね、ええー、膨大な、アレがあるんだからと。
しかし、そん中で精査していくと、実際にその削減できるかどうかという対象って言うのは、ですね、そんなにないんですよ。多分30兆少々だったと思います。そのうち20兆円も10兆円もね、できるわけがない。防衛予算5兆円とか、教育関係の予算5兆円とかですね。
それは共産党のように自衛隊なくせって言うなら、話は別ですけれども。そうではなくしてね、どーおやってこのムダ遣いをなくしてね、その10兆円なりを生み出すことができるか、是非具体的に示していただきたい」
直嶋正行「かなり具体的なことも含めて、ええ、申し上げてきた積りなんですが、さっきおっしゃったように一般会計と特別会計で、併せて210兆円ありますから、これ大体民間の人の感覚で言うと、一割削減と言うのは難しくないとおっしゃいますよ。ですから、確かに聖域だとか、色々言われているものもありますが、見方を変えて、きちっと決めていきますと、十分代用できる。特に私たちが言っているのは、天下りの問題。天下り先にたくさんのお金が流れている。だから、それはゼロにできないかもしれないけれども、半減するだけで、あるいは天下り制度を変えていくだけで、しっかりお金が出てくる」(以上)・・・・
東大出だからだろう、町村の言っていることがよく分からない。「そのうち20兆円も10兆円もね、(削減)できるわけがない」と言っているが、09年度の防衛予算は約4兆7千億円計上されているにも関わらず、首尾一貫もなく「防衛予算5兆円とか、教育関係の予算5兆円とかですね」と続けている。
防衛予算から削減できる余地はないと言うことなら、98年の旧防衛庁調達実施本部の発注に対する三菱重工業やNEC等防衛商社関係企業の億単位の水増し請求、その請求に対する過払い事件や06年の施設庁の元官僚天下り先企業に便宜を図るための官製談合等によるムダ遣い。そして最近では、守屋前事務次官の防衛商社山田洋行からの収賄、接待疑惑事件を忘れたらしい。
収賄にかかったカネにしても、接待にかかったカネにしても、受注した兵器等の値段につけて請求を受けることになるから、その金額はムダ遣いの形を取るし、元々からして随意契約もしくはそれに近い形で防衛商社の言い値で発注する商慣習からのムダ遣いも発生させてきている。
01年に山田洋行は当時の防衛庁に納入したヘリ装備品金額を見積書を偽造、正規金額の倍以上の2億円近くを水増し請求している。そのいくばくかは守屋やその他の官僚に接待等の形で流れたに違いない。
高値発注、高値予算執行となる随意契約は防衛省に限ったことではない。一般入札と言いながら、入札企業を天下り元官僚が在籍する特定企業に限定したりして、限りなく随意契約に近い一般入札を行うムダ遣いも行っている。
民主党の直嶋正行が「大体民間の人の感覚で言うと、一割削減と言うのは難しくないとおっしゃいますよ」と言っていることはこのことに当たるのだろう。
ムダをなくすと言うことは限界ギリギリの予算で効果を上げることができる政策を立案し、実行する予算の効率的な編成と効率的な執行を要件とする。創造力の発揮なくして、その効率性は満たすことはできない。
創造力の発揮による効率性の獲得は公務員の仕事の効率をも上げ、彼らの生産性をも上げることを意味する。
これらすべては国民の利益につながっていく。単なるムダ遣いで終わらない。菅直人が名古屋の街頭演説で言っていた「払われた税金が国民の手に戻」るを意味する“国民の利益”である。
政権交代は政治家や官僚の尻を叩くことに意味があると言ってきた。尻を叩くとは仕事の効率を上げ、ムダをなくすことでもある。政治家も官僚もうかうかしていられなくなるだろう。
町村はムダ遣い削減によって「10兆円なりを生み出すことができるか、是非具体的に示していただきたい」と頭から否定的態度だが、赤字国債発行もせず、当面は消費税増税もせず、ムダ遣いをなくして予算を組んでいくという公約を民主党がもし違えたなら、例え政権を獲ったとしても自分で自分の首を絞めることになる。
民主党としたら、ムダ遣い削減、行政のムダの徹底的排除を公約に掲げた以上、自分で自分の首を絞めないためにもその実現に必死にならざるを得ない。これまで官僚及び行政のムダを許してきた自民党とその必死さに於いて違いが生じる。
民主党政権のメリットは偏にここにある。自民党に政権を任せて、国民の利益の喪失にも絡んでくる行政のムダ、官僚のムダ遣いを放任し続けるか、それを断ち切るために一度民主党に任せてみるか。国民の選択にかかっている。
―〈『ニッポン情報解読』by手代木恕之〉の麻生批判はとどまるところを知りません―
≪温首相「完全に理解」何度も 熱帯びた日中首脳会議≫(msn産経/2009年4月17日(金)08:05)
■麻生首相訴え「北の違反」勝ち取る?
タイで行われた麻生太郎首相と中国の温家宝首相による11日の会談で、北朝鮮のミサイル発射に対する日本の立場を訴える麻生首相に対し、温首相が繰り返し「完全に理解する」と表明し、「その通りだ」と大声で応じる場面があったことが16日、分かった。外務省は、この会談などでの麻生首相の訴えが、国連安全保障理事会の議長声明への「(北のミサイル発射は)安保理決議違反」という文言盛り込みにつながったとみている。
「北朝鮮のミサイルが頭上を飛んでいった東北地方をはじめ、国民感情を考えると(公式記録に残らない)報道声明でいいとは絶対いえない」
会談でこう麻生首相が主張すると、温首相は「日本国民の関心と日本政府の立場は、完全に理解する」と深くうなずいた。温首相は会談中、4~5回にわたりこの言い回しを用い、日本側に理解を示したという。
その上で、麻生首相が国連安保理の文書について「形式も重要だが、内容も重要」と指摘すると、温首相は、手にしたペンを頭上に掲げるようにして「是的(シーダ=その通りだ)」と大声で賛意を表明してみせた。
日中首脳会談は、互いに事務方が用意した文書を読み上げることが多いが、「この会談はまさに実質的な『交渉』となった。麻生首相は先頭に立って戦う姿勢を示した」(外交筋)という。会談は予定の30分間を超えて、50分間に及んだ。
この結果、続く日中韓首脳会談で温首相は「文言は専門家に任せよう」と折れてきた。外交筋は「米中両国は、米国の素案にあった安保理決議に『(北は)従っていない』との表現でほとんど決着していたが、それを『違反』に格上げしたのは麻生首相の力だ」と話している。
さすがは日本が世界に誇る「外交の麻生」である。4月11日に行われた麻生と中国の温家宝首相の会談の場面で麻生首相が「先頭に立って戦う姿勢」が獲ち取ることとなった“違反への格上げ”というわけである。
「『違反』に格上げしたのは麻生首相の力だ」と誇る程に外交に有能であるなら、ではなぜ、中ロの当初からの反対姿勢を覆して拘束力のある「決議」への“格上げ”に持っていくことができなかったのか。
獲得した果実が拘束力のない「議長声明」で、そのような限界を抱えた中での強い非難と「決議違反」の言葉を盛り込んだに過ぎない成果ということではないのか。
「(北は)従っていない」から「違反」への格上げとは米国が日本に打診していた議長声明案を基にした中国案が「決議1718の『完全な履行』を要求し」、「発射への非難を盛り込」んでいるものの、「北朝鮮の核・ミサイル放棄を義務付けた安保理決議1718に『従っていない(not in conformity)』」とし、「日米が主張する決議の『違反(violation)』よりは弱い表現」(≪北ミサイル、議長声明で決着の公算…中国が「非難」案≫「YOMIURI ONLINE」/ 2009年4月10日14時31分)となっていたことを日米の主張どおりに正したことを言うのだろう。
このことだけを見ると、麻生の強い意向が議長声明に反映されたように見えるが、議長声明案採択決定に至る経緯を窺うと、別の風景が見えてくる。
「決議」採択に持っていった場合、中ロが拒否権行使に出るのは分かっていた。いわば最初から「決議」なるカードは存在しなかった。だが、日本はアメリカと共に新決議を主張して行動した。
安保理常任理事5大国が一国でも拒否権を行使したなら、決議は葬り去られて何も残らない。
日米が最後まで決議に拘り、採択の段階まで行って拒否権に遭った場合、拒否権に遭い、成立しなかったという記録は残るものの、決議が目指した非難も制裁も効力を発しないまま終わる。北朝鮮はミサイル発射が正当化されたと主張することになるだろう。
いわば中国が(そしてロシアもだが)北朝鮮の後ろ盾ともなっているゆえに決議に賛成を示さなかった時点で、日本の決議の芽は摘み取られていた。
その中国は日米の最も非難色・制裁色の強い「決議」に対して正反対の最も非難色・制裁色の弱い報道陣向けの非公式な「報道声明」を立ち位置としていた。
当然、そこに駆引きの力学が発生する。日米は「決議」がダメなら、「議長声明」は是が非でも手に入れなければならない譲れない一線だから、否応もなしに要求する立場に立たされる。中国は要求を受けて立つ側に位置する。力関係の強弱で言うと、要求する側がより弱い立場に立つことになるのは断るまでもない。
その最終結果が4月13日議長声明の全会一致での採択であるものの、中国は「報道声明」から一歩前に出て「議長声明」を着地点とした。日米にとっての「議長声明」は「新決議」から一歩後退した着地点であった。
要求を受けて立つ側と要求する側の強弱の差が否応もなしに出た結末であろう。いくら「議長声明」に強い非難の言葉と決議「1718」違反の文言を盛り込もうと、議長声明が拘束力を持たないという事実と「決議」から一歩後退した「議長声明」であるという事実は拭い去ることはできない。
このような決定過程自体が中国議長声明案の文言変更に麻生が力があったとすることは矛盾を示している。
中国は北朝鮮の後ろ盾となり、外交カードとしているものの、金正日が制御が利かなくなる危険性を認識していないはずはない。独裁体制崩壊という土壇場に立たされた場合、金正日が自暴自棄から日本、あるいは韓国に向けてミサイルを撃ち込まない保証はないぐらいの危機管理を想定していないはずはない。
北朝鮮が暴走した場合、「決議」に反対した中国の立場は窮地に立たされる。だが、北朝鮮擁護の立場から、「決議」に拒否権を行使せざるを得ない。中国自身を要求を受けて立つ立場に置くために最初は最も非難色・制裁色の弱い「報道声明」を主張して、最終目標地点と策していた「議長声明」で日本の要求を入れ、「決議1718」違反とミサイル発射に対する非難の文言を取り入れたことは金正日が暴走した場合、中国の立場が窮地に立たされないための保険となり得る。
北朝鮮を6カ国協議に復帰させるためには「決議」に賛成はできないが、ミサイル発射等の活動を制約させるために議長声明にそれなりの非難を込めたと。
そういった駆引き上の条件に過ぎなかった可能性も十分に考えられる。「麻生首相の『先頭に立って戦う姿勢』が獲ち取ることとなった“違反への格上げ”」などと手放しで喜んでいていい場合だろうか。北朝鮮の6カ国協議離脱声明が駆引きだとしても、難題を吹きかけてくるに違いない拉致問題に向けた取組みも待ち構えている。
大体が「msn産経」記事は「日中韓首脳会談で温首相は『文言は専門家に任せよう』と折れ」たとしているが、「専門家」であろうと、作成する「文言」はそれぞれの政府の意向を反映させた範囲内に限定される。政府の意向を反映させない、専門家のみに任された「文言」など存在しない。
温首相の態度をそう解釈すること自体から見ても、麻生外交活躍はマユツバだと見なければならない。
3月28日(09年)の「NHK」インターネット記事。
≪“国際社会で厳しく対応を”≫
麻生総理大臣は高知市で開かれた大学生との意見交換会に出席し、北朝鮮が人工衛星の打ち上げを名目に長距離弾道ミサイルを発射する構えをみせていることを非難し、発射を強行した場合は、国際社会が連携して厳しく対応すべきだと強調しました。
この中で、麻生総理大臣は「来週、4月4日から北朝鮮がロケットと称してミサイルを撃つと言っている。途中で失敗したら分解されたものが日本に落ちるが、世界中で人の国の真上に向けて自国の衛星やロケットを実験している国は北朝鮮しかない」と述べ、北朝鮮を非難しました。
そのうえで、麻生総理大臣は「国連の安全保障理事会で発射に断固反対と言っているのは、日本やアメリカ、韓国などで、発射してもいいのではないかという国もある。日本だけで『おかしい』と言っても、ずっとやり続けられるので、みんなで『ダメだ』と言うことが必要だ」と述べ、北朝鮮が発射を強行した場合は、国際社会が連携して厳しく対応すべきだという考えを示しました。
一方、公明党の太田代表は京都市で講演し、北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射した場合には、日本独自の追加の制裁措置に踏み切る方向で検討すべきだという考えを示しました。このなかで太田代表は、北朝鮮が事実上長距離弾道ミサイルを発射する構えをみせていることについて、「日本ひいてはアジアの安全を脅かす、たいへんな事態であり、何としても発射の中止を求めたい。仮に発射された場合には、日本独自の追加の制裁措置も積極的に検討すべきだ」と述べました。
動画は麻生の発言の一部のみ取り上げている。太字は言葉を強めて強調した箇所。例のだみ声と語尾をことさら伸ばす話しぶりを想像して欲しい。
「世界中で、人のォ、国のォ、真上に向けてェ、自国のォ、衛星やら、ロケットやらを実験している国は、世界中、北朝鮮しか、ありません。日本だけがおかしいと言っているだけでは、絶対にィ、ずっとやり続けられるから、みんなでダメよと、いうことを言っていく・・・・・」
手振りよろしく話しているが、自分は人気があると見ている若者世代の大学生が相手だからなのか、普段よりも語尾をことさら伸ばす気取りを見せた言葉遣いになっているのはいいとして、その分、記事の「国際社会が連携して厳しく対応すべきだという考えを示しました」という解説の言葉とは裏腹に顔の表情共々全く緊張感を欠いた意見表明となっている。
いくら相手が大学生だとしても、国際社会のルールや常識が通じない唯我独尊の独裁国家の国際社会の反対を押し切って行おうとしている世界に脅威を与えかねないミサイル実験を断念させるメッセージに「みんなでダメよ」は言葉として幼稚に過ぎるのではないだろか。
緊張感を欠いていたから、「みんなでダメよ」などという言葉を飛び出させることになったのか、そういう話し方しかできないから、緊張感を欠くことになるのか、多分後者ではないだろうか。
その程度の日本国総理大臣だと言うことである。
国際社会のルールや常識が通じないのは前々から分かっていることで、そのことを前提に通じる言葉を工夫して初めて外交と言えるのだが、その努力さえ怠っている「外交の麻生」に逆説する幼稚な言葉と言えないだろうか。
麻生自身の幼稚さに合わせたというなら、納得がいく。
聞いていた大学生の中で、これが日本の総理大臣なのか、もっとましな言葉遣いができないのだろうか、情けないなと何人ぐらい思ったのだろうか。
それとも言葉への向上心もなく、分かりやすい、同じ目線で話をしていると感心し、すっかりファンになったといったところなのだろうか。日本の大学生の程度の低さは前々から有名とはなっている。
だが、「みんなでダメよと、いうことを言っていく」と言っていたにも関わらず、ミサイル発射を阻止できなかった。4月5日、北朝鮮は予定のコースでミサイルを発射させた。「みんなでダメよと、いうことを言っていく」という戦術が何ら役に立たなかった。「外交の麻生」は今回も虚構でしかなかったということなのだろう。。
3月28日の大学生との意見交換会に2週間遡る3月14日にソマリア沖へ向かう護衛艦見送りのために訪れた広島県呉市で講演して、「衛星と称してロケットを打ち上げると言ってきた。日本の上を通過すると言っている。真下にいる県の人たちにしてみれば、途中で落っこちたら『てめえのところに落ちるなあ』と計算する。ふざけた話じゃないかという国が隣にある」(「asahi.com」)とさも勇ましくタンカを切るみたいに断罪しておきながら、タンカ紛いのその断罪も単なる言葉で終わってしまった。
麻生首相は北朝鮮のミサイル発射を「極めて挑発的な行為で、日本として断じて看過できない。国際社会と協力して、安保理決議違反であることははっきりしている(ので)、そういうところも含めて対応していきたい」(「asahi.com」)として、安保理で拘束力のある新たな決議案の採択を求めて常任理事国への働きかけを開始した。
記者会見での質疑応答。
< --日本は北朝鮮の今回の行為が安保理決議に違反しているという立場を取っている。安保理で新たな決議案の採択を求めているが、中国やロシアはこれに慎重な姿勢を取っている。両国への働きかけをどうすべきと考えるか
麻生首相「少なくとも安保理において、一致して迅速にメッセージを送る。そうしないと北朝鮮に、誤ったメッセージが伝わるというのを避ける。優先順位としてはそれが一番です。従って、米国、英国、フランス、P5(安保理常任理事国)のうちの3つは賛成をしている状況にもありますので、この状況に関して、われわれとしては引き続き中露に対しても働きかけをしていく。それが基本です」>(≪【麻生首相ぶら下がり詳報】北ミサイル「誤ったメッセージを避ける」(6日夕)≫msn産経/2009.4.6 20:22 )――
だが、 「外交の麻生」の力がなぜかと言うべきか、いつもどおりと言うべきか、及ばず、日本は働きかける主体から降り、逆に働きかける主体を中ロに譲って、拘束力のある新たな決議案の採択要求を断念、中ロが主張する拘束力のない「議長声明」を受け入れることとなった。
日本が議長声明の内容に拘ったとしても、中心はあくまでも中ロであった。中ロとも最初から落し所を議長声明と決めていて、その誘導に日本は乗らざるを得なかった。
麻生太郎は次のように述べたと言う。
「決議にこだわったために内容が分からなくなるのでは意味がない。・・・・国際社会全体の強い意思を早く示し、北朝鮮に明確なメッセージを送ることは極めて重要。決議だからといって、その内容が緩くても意味がない」(≪議長声明を容認=対北朝鮮「緩い決議意味ない」-麻生首相≫「時事ドットコム」/2009/04/10-19:21)
記事は麻生の言葉を次のように解説している。
<北朝鮮に対して国際社会が厳しい姿勢を示す内容が担保できれば、日本が主張する新決議ではなく、法的拘束力のない議長声明であってもやむを得ないとの認識を示したもの>であり、<安保理の結束を優先させる考えをにじませた>ものだと。
「決議にこだわったために内容が分からなくなるのでは意味がない」――決議に拘ると、どうして「内容が分からなくなる」のだろうか。「内容が分からな」い「決議」など二律背反以外の何ものでもなく、存在するのだろうか。
また「緩い内容」は決議とは言えない。決議の体裁を失うことになる。ミサイルの開発及び核開発を縛るために必要な禁止と履行の各項目を明確に備えてこそ、決議と言える。「緩い内容」など、入る余地はない。
要するに麻生の言っていることは「外交の麻生」及び日本政府の力不足を誤魔化す狡猾な詭弁に過ぎない。
尤もかつての決議「1718」が有効な力を持ち得なかったことがそれなりの内容を備えた新しい決議が採択されたとしても、北朝鮮を国際社会が望む体制でその行動を縛ることはできないことを教えている。例えどのような形式で採択されたとしても、受け容れるつもりはないだろうからだが、但し拘束力の有無は記録として残る。
いわば「議長声明」は拘束力がないものとして記録される。
となると、河村官房長官が記者会見で述べた「声明は、ミサイル発射を安保理決議1718違反として非難するとともに、決議履行を徹底するための具体的手続きを盛り込むなど、わが国の主張に沿った異例に強い内容だ。・・・・・形式より実を取りたい。実質的に決議と同等の効果を有する」(「時事ドットコム」)は得点を稼ぎたいだけの我田引水の類に堕す。
麻生首相の「国連決議1718への違反、(発射への)非難、決議の履行、この3つがきちんとした形でこの時期に出せるのは評価すべきことだ。・・・・決議にするために言葉の内容を弱めるなら、この方がいい。このスピードで、まとまったメッセージが正確に伝わることが大事だ」(「時事ドットコム」)にしても、拘束力を持たない以上、自分の都合だけのために言っている、それゆえに国内向けにしか通用しないご都合主義な自己採点に過ぎないだろう。
中ロとしたら、どうせ拘束力を持たないのだから、ここは妥協して強めの表現にしておこうといったところだったのかもしれない。
「CNN」が北朝鮮が議長声明に反発して、6者協議への不参加と核抑止力の増強を図るとの外務省声明を出したと伝えている。
体制の保障と経済支援を得る重要な窓口である6者協議である、その不参加表明は大方の予想通り問題を米朝直接交渉に持っていこうとする単なる駆引きに過ぎないだろうが、以前日本が拉致解決を優先させて北朝鮮に対するエネルギー支援の話し合いに加わらなかったとき、北朝鮮は日本を6者協議から排除する動きを見せて牽制した。
日本にしても6者協議は対北朝鮮政策最優先の課題としている拉致解決の重要な窓口である。今回の北朝鮮のミサイル発射、そして安保理決議採択への働きかけ、中ロの反対による決議採択の断念と議長声明に落ち着いた一連の経緯と並行させて、例え北朝鮮が日本の動きに対して6者協議から排除するような動きに出たとしても、あるいはアメリカの圧力で北朝鮮が排除の動きから一転して拉致問題で日本と直接交渉を持つことになったとしても、どちらでも対応できる拉致問題解決の成算ある道筋を練っていたはずである。
もしも安保理活動と併行させて拉致解決の成算ある道筋を計画立てるといったことをせず、そのことを抜きに安保理を舞台に北朝鮮に対する制裁だけを目指していたとしたら、拉致問題を対北朝鮮最優先の政策としていることに反すると言うことだけではなく、国民に対する裏切りを働くことになる。
「外交の麻生」は「外交の麻生」らしく、成算ある確たる道筋を拉致被害者家族及び日本国民に示して、日本の外交の健全さ、優秀さを示すべきだろう。