教師の働き方改革に適う顧問の手を煩わさない学校単位の生徒自身運営の中学校運動部活動を模索する

2022-06-30 07:04:54 | 教育
 ――競技志向の生徒は学校運動部活動で、レクリエーション志向の生徒は地域運動部活動で――

 現在81歳と6カ月。歳を取ってから気づいたことが多々ある。いわば歳取ったからこそ、言える言葉の方が多く、ここに書いていることの殆どは歳を取ってから気づいたことばかりであることを前以って断っておく。81歳と6カ月にもなってこの程度のことしか書けないのかという評価も当然のことあるだろうが、読むのにムダな時間を使わせてしまったと謝るしかない。

 ブログで何度も繰り返し言ってきたことだが、日本人の行動様式は基本的なところで権威主義的人間関係の影響下にある。「権威主義」とは「権威を振りかざして他に臨み、また権威に対して盲目的に服従する行動様式」と「大辞林」(三省堂)には出ているが、要するに上の立場の人間が自らの上の立場を権威とし、その権威を以ってして下を従わせ、下は上の立場を権威として、その権威に無条件同様に従う行動様式を指すが、私自身が使う「権威主義」は権威を媒介物として上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向だと簡略的に意味させている。要するに日本人の殆どの場合、と言うのは、封建時代から遥か遠ざかってきたために日本人全体というわけではなくなっているが、傾向としては立場上の上下を人間関係にそのまま反映させて上下に隔て、上により価値を置いた上下方向の人間関係を意思決定の大きな力学として働かせている。いわば立場上の上下関係に無関係に水平方向の対等な人間関係を取って相互に意思決定する関係性を多くの場合取っていない。

 勿論、この上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係は学校社会の授業に於ける教師から生徒への知識授受や意思伝達にも影響を与えて、その力学として作用することになるが、同じ日本人として共通の行動様式を取る傾向にある以上、当然の影響ということになる。教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受にしても教師が自らの立場を上に位置づけて権威とし、その権威に則って生徒を下に位置づけている権威主義的な上下の人間関係に則り、上は下を従わせ、下は上に従う上下方向の力学を教師と生徒が相互に働かせているからこその自然な成り行きとしてある影響であろう。

 いわば教師が生徒を機械的に従わせ、生徒が教師に機械的に従う権威主義的な上下の人間関係が暗記教育を可能としていて、未だ色濃く残っているのであり、裏返して言うと、暗記教育は学校社会での教師対生徒の権威主義的な上下の人間関係が産み出している必然的な産物ということになる。

 逆に考えさせる教育は考える生徒生徒が主体となるから、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係は関係してこないことになる。如何に日本の教育が暗記教育となっているのか、2020年9月に一度当ブログに使ったが、《我が国の教員の現状と課題 – TALIS 2018結果より –》(文部科学省)から見てみる。ブログに使ったのは「国立教育政策研究所」の資料だったが、リンク切れしているから、同じ内容の文科省のを使うことにした。「TALIS」とは「Teaching and Learning International Survey」の略で日本語では「国際教員指導環境調査」と紹介されている。

 〈日本では2018年2月~3月に小学校約200校及び中学校約200校の校長、教員に対して質問紙調査を実施〉とある。

 教師が批判的に考える必要がある課題を与える  
  小学校11.6%
  中学校12.6%
  参加48か国平均 61.0%

 児童生徒の批判的思考を促す
  小学校 22.8%
  中学校 24.5%
  参加48か国平均 82.2%

 さらに一つ加えると、

 明らかな解決法が存在しない課題を提示する
  小学校 15.2%
  中学校 16.1%
  参加48か国平均 37.5%

 教師が教えるのをただ従うという上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的関係が大勢を占めている状況が如実に現れている、

 授業の場のみならず、運動部活動の場でも、文化部活動の場でも顧問対生徒の間に同じ日本人として同じ人間関係を取り、同じ行動様式を踏むゆえに授業の場とほぼ同じ暗記教育型の上は下を従わせ、下は上に従う知識授受や意思伝達の影響を受けることになる。教室での教師同様に顧問も自らを上の権威と位置づけ、部員を下の権威と看做して上の権威を以ってして下の権威を従わせる力学が働く。顧問の命令・指示に対して部員各自が「ハイ、ハイ、ハイ」と無条件に従う光景はこのような上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響なくして成り立たない。そしてこの人間関係の力学は当然のこととして先輩対後輩の間にも存在することになる。先輩が自身を絶対的な存在として後輩に服従を求めたり、対して後輩が先輩を絶対的な存在としてその命令・指示への服従を受け容れるのは上は下を従わせ、下は上に従う同じ人間関係に基づいた同じ行動様式の最たる影響としての現れであろう。

 教師であれ、顧問であれ、先輩であれ、上の立場にある人間が自己の権威を絶対視して下の立場の人間に命令・指示を下し、無条件に従わせる場合は当初の権威の提示は他人を支配し、服従させる権力の行使へと一段も二段も強めた色合いを帯びることになる。そしてそのような権力の行使は自己絶対視を背景としているために自己の絶対性を押し通そうとして当たり前の方法で押し通すことができなかった場合、押し通すために、あるいは自己の絶対性を否定された場合、否定への反発として、教育活動のみならず、運動部活動や文化部活動でも往々にして暴力やその他の方法を使った体罰という形で自己の絶対性を守ることになる。体罰は上の立場から下の立場に対する権力行為であり、下の立場からの上の立場に対する権力行為として現れることはない。一時期はやった生徒が教師に暴力を振るう校内暴力は教師が教師としての上の立場からの権威を示すことができずに生徒を精神的に上に立たせてしまう上下の権威関係の逆転からの暴力の形を取った生徒の権力行為だったはずだ。

 余談になるが、セクハラは一般的には年上の上司である男性が年上の上司であることと男性という存在に権威を置いて、女性であることと年下の部下であるということから二重にその権威を蔑ろにしている下の存在に対する男から女への一方的な権力行為として現れ、その逆はあり得ないが、その例外が女性が男性の上司であるといった立場が上の場合に限られ、上司等の上の立場に権威を置いて部下等の下の立場の権威を認めていないことから起こる女から男への一方的な権力行為としてしばしば見聞きすることは周知の事実となっている。だが、権威の上下関係を利用した権力行為であるという点で、年上の男性の年下の女性に対するセクハラとその本質的な構造に違いはない。

 日本人の行動様式が基本のところでは上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下関係の影響を受けていて、多くの人間関係が同じ構造を取る傾向にあることを前提としてスポーツ庁が手始めに休日のみに限定して進めようとしている運動部活動の地域移行を考えてみることにする。

 2022年6月6日、「運動部活動の地域移行に関する検討会議」が提言書をスポーツ庁に手交したとマスコミが伝えていた。「運動部活動の地域移行に関する検討会議提言 ~少子化の中、将来にわたり我が国の子供たちがスポーツに継続して親しむことができる機会の確保に向けて~」

 「提言書」題名によって検討目的はほぼ把握できるが、少子化を受けて小中高の生徒数の減少が部活動維持を困難にさせていることと、併せて教師が顧問として部活動に拘束される時間外勤務に多くの時間を取られて、教師本来の業務に影響が生じていることから取り敢えずは公立中学校の休日の運動部活動を地域の運動クラブ等に移行することによって教師の部活動顧問の役割と役割に付随する時間的制約からの解放を図ることで、この面の教師の働き方改革を推進するという内容になっている。

 移行期間は2023年度から2025年度末までの3年間を目途にしていて、将来的には平日の運動部活動の地域移行をも想定している。地域に於ける実施主体は総合型地域スポーツクラブやスポーツ少年団、クラブチーム、民間事業者等々を想定しているようだが、中学校の運動部活動の地域移行だから、便宜的に"地域運動部活動"と呼ぶことにする。少子化の影響を受けて2つの中学校や3つの中学校が合同で野球部とかサッカー部を結成したとしても、野球部とかサッカー部とかの部活動となることに変わりはないはずだからだ。体制的な変化はなく、活動場所が学校から地域に変更する変化しかないはずだ。

 「提言書」は先ず最初に運動部活の教育的意義を高々と掲げている。

 〈中学校等(義務教育学校後期課程、中等教育学校前期課程、特別支援学校中学部を含む。以下同じ。)の運動部活動は、これまで生徒のスポーツに親しむ機会を確保し、生徒の自主的・主体的な参加による活動を通じて、達成感の獲得、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するとともに、自主性の育成にも寄与するものとして、大きな役割を担ってきた。

 また、学校教育の一環として行われる運動部活動は、異年齢との交流の中で、生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築を図ったり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなどの教育的意義だけでなく、参加生徒の状況把握や意欲向上、問題行動の発生抑制など、学校運営上も意義があった。

 さらに、生徒や保護者から学校への信頼感を高めることや、学校の一体感や愛校心の醸成にも大きく貢献してきた。

 あわせて、スポーツの「楽しさ」や「喜び」を味わい、生涯にわたって豊かなスポーツライフを継続する資質・能力の育成や、体力の向上や健康の増進につながるなどの意義も有してきた。〉――

 「生徒の自主的・主体的な参加による活動」、「達成感の獲得」、「学習意欲の向上」、「責任感、連帯感の涵養」、「自主性の育成」、「異年齢との交流」、「生徒同士や教師と生徒等の人間関係の構築」、「自己肯定感の獲得」、「意欲向上」、「問題行動の発生抑制」、「生徒や保護者から学校への信頼感」、「学校の一体感」、「愛校心の醸成」等々、言うことなしの様々な価値を学校部活動に付与している。学校という社会にイジメなど存在しないかのようだ。2020年度中学校のイジメ認知件数は80877件。いじめを認知した学校数は前年度から4.1ポイント減ではあるものの8485校で総数の82.2%を占めている。

 部活動維持が困難になってきたことの単なる回避策ではなく、教師の働き方改革の推進をかねているものの、生徒が学校の部活動で手に入れてきたこれらの様々な優れた価値を地域運動部活動でも保証するだけではなく、運動部活動に所属する生徒のみならず、〈地域における新たなスポーツ環境を整備充実する際には、単に運動部活動の実施主体を学校から地域のスポーツ団体等へ移行するのではなく、現在、運動部に所属していない生徒も含めて、スポーツ活動への参加を望む生徒にとってふさわしいスポーツ環境の実現につなげていく必要がある。〉と運動部活動未所属の生徒のうち、スポーツに本格的に、あるいは趣味的に参加したい生徒をも地域運動部活動に呼び込むことのできる環境の提供をも目論んでいるから、なかなか壮大な計画ということになる。

 要するにスポーツ機会平等論に立ち、その実現を目指している。その目指す方法論が次の一文である。〈地域における新たなスポーツ環境の構築の趣旨・目的は、どの生徒にとってもスポーツに親しむ機会を確保していくためのものであり、複数の運動種目の活動があることも生徒にとっては重要なことである。また、たとえ同じ運動種目であっても、レクリエーション志向の生徒向けの活動と競技志向の生徒向けの活動を提供したり、競技志向の活動であっても、生徒がそれぞれのレベルでスポーツを楽しむことができるよう複数のレベルに分けた活動を提供したりするなど、生徒自身が自分の志向やレベルに合う活動を選べる環境を構築していくことも重要である。〉

 同じスポーツでも生徒それぞれの志向やそれぞれのレベルに合わせた技術的に複数の段階の活動を自由に選択させる新たな取組みを学校で行った場合は活動の段階に合わせた細分化が必要になり、細分化は教師の分担を分散させることになるだろうから、運動部活動から地域部活動の移動によって解放されて手にする部活動顧問の時間の新たな拘束要件となって教師の働き方改革に逆行する恐れが出てくるため、地域部活動でこそ解決可能な問題となる。その対象生徒と活動種類を次のように記述している。

 〈○ 地域におけるスポーツ環境において、生徒のスポーツの機会を確保する際、中学校等の生徒には、体力や技量が高い競技志向の生徒もいる一方で、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒もおり、生徒の志向や状況に応じた対応が求められる。

 ○ そのため、現行の運動部活動のように競技志向で特定の運動種目に継続的かつ長期間にわたり専念する活動だけではなく、青少年期を通じて幅広いスポーツ活動に親しむため、休日や長期休暇中などに開催されるスポーツの体験教室や体験型キャンプのような活動、レクリエーション的な活動、シーズン制のような複数の運動種目を経験できる活動、障害の有無にかかわらず、誰もが一緒に参加できる活動など、生徒の志向や体力等の状況に適したスポーツの機会を確保し、体験の格差の解消にもつなげていく必要がある。〉

 特定のスポーツの高度な技量の獲得を目指す継続的かつ長期間に亘って部活動に従事する生徒だけではなく、スポーツを楽しむことを重視するレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒も地域運動部活動ではスポーツ体験できる様々な場と選択可能な様々な時間の提供を図り、前者後者間のスポーツ体験の格差の解消に努めるとなっていて、学校運動部活動そのままの地域運動部活動への移行とはしない、学校部活動からこぼれ落ちていた生徒まで掬い上げることを狙ったなかなか壮大な目論見となっている。

 このように志向するに至ったのは、〈多くの学校の運動部が、日本中体連が主催する全国大会を目標としているため、スポーツを楽しむことを重視する生徒や複数のスポーツ等を経験したいと考えている生徒にとって、ふさわしい活動内容の運動部活動があまり見られない状況もある。〉ことからの学校運動部活動体制の欠陥の改善を地域運動部活動で図るということになる。

 こういった欠陥だけではなく、学校運動部活動の運営面、あるいは指導面の欠陥についても、一般的に広く指摘されていることだが、言及している。

 〈全国一位に至るまで「上を目指す」仕組みとなっており、生徒や保護者、指導者が、より上を目指そうとして、練習の長時間化・過熱化やそれによる怪我や故障を招いている。中には、勝利至上主義による暴言や体罰、行き過ぎた指導等が生じる一因となっている。〉――

 当然、学校運動部活動の地域運動部活動への移行は休日のみならず、ゆくゆくは平日も想定している都合上、中学校の運動部活動体制の欠陥の改善のみならず、部活動運営面や指導面の欠陥の改善までを想定内としていることになる。いわば「勝利至上主義」に基づいた「練習の長時間化・過熱化」、そして「暴言や体罰」、「行き過ぎた指導」、この結果としてある「怪我や故障」等の是正・解消をも頭に置いていて、このことが次の一文となっている。

 〈運動部活動の地域移行にあたり、地域における新たなスポーツ環境については、単に休日の運動部活動の練習内容、活動時間、指導体制などを、そのまま地域に移していこうとすると、地域におけるスポーツ環境において、生徒のニーズに十分に応じることができなかったり、大会での成績等を重視した活動が多くなったりするなど、学校の運動部活動が抱える課題がそのまま温存されてしまう恐れがある。このため、中学校等の生徒が参加できる地域における新たなスポーツ環境の在り方を新たな視点で具体的に示していく必要がある。〉――

 学校部活動のこのような指導面に於けるマイナス要素が「成績重視」の姿勢が招いた考え方や態度であるとするだけでは温存の危険性を抱えかねないが、「成績重視」が何によって起因しているのか、本質的な点にについては触れていない。確かに地域のスポーツクラブなど営利を目的とした組織はスポーツ庁が示すルールの都合上、客を失って利益を落とす危険性を避けるために厳しい指導は行わない可能性はあるが、体力や技量の高みを目指す競技志向の強い、結果、成績重視・勝利至上主義に染まった生徒が厳しくない指導に不満をいだいて厳しい指導を求める突き上げを行ったり、別のクラブに移籍する事態が起きたなら、経営維持のためにスポーツ庁のルールを無視して厳しい指導を行わざるを得ないケースが持ち上がる事態も想定される。となったなら、成績重視や勝利至上主義に走るのも走らないのも、学校の運動部活では顧問か生徒の、あるいは顧問と生徒両者の、地域運動部活動では主として生徒自身の姿勢の問題に帰することと捉えなければならない。

 要するに体力や技量の高みを目指す結果、成績重視や勝利至上主義に囚わることになる思いの大部分は高い体力や技量が約束してくれるだろうと想定している素晴らしい成績や輝かしい勝利の経歴が将来の自己実現を約束する大いなる要因となると見ているだろうから、彼らにその実態と価値の程度を認識させておかなかった場合、地域運動部活動であったとしても成績重視や勝利至上主義がいつ頭をもたげないとも限らなくなる。成績重視や勝利至上主義が頭をもたげて、勢いがつくと、練習の長時間化・過熱化へと走ることになり、成績という結果がついてこないと、必然的に監督や顧問の部活生徒に対する、あるいは先輩の後輩に対する、暴言や体罰、行き過ぎた指導等々、学校部活動と同じ局面に行きつく危険性は決してゼロとは言えなくなる。あるいは中学生の3年間に頭を抑えられて我慢していた成績重視や勝利至上主義が高校に入って反動で迸ることになって、生徒の方から監督や顧問を成績重視や勝利至上主義に巻き込まないとも限らない。

 成績重視や勝利至上主義がなぜ長時間の練習になるのかと言うと、監督や顧問といった上の指示を受けて、下の各部員がその指示に従って各技術の向上を図ることになるが、多くの場合、指示の範囲内で指示内容を何度も反復練習し、体で覚えさせる方法で最低限、身につけている技術のレベルを維持するか、レベルアップを図っていく方法を取るが、このような方法によるその機械性によって目指す成績や勝利の程度に応じて反復練習の回数とその積み重ねが必要となり、自ずと長時間へと向かうことになるからだろう。

 但し各部員は監督や顧問等の上の指示をそのままなぞる形で練習を成り立たせている構造は一般的な人間関係の方式となっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式そのままの反映となる。授業の場で教師が教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識をほぼ機械的に伝えて、生徒に機械的に暗記させる一方通行の知識の授受となっている暗記教育と同じ構造であり、伝える知識の量の多い少ないに応じて暗記する時間の多い少ないが決まってくるのと変わらない。上から言われた一つの指示を部員が自分で考えて二にも三にも発展させることができるだけの考える力を備えていたなら、備えるについては監督や顧問がその方向に指導しなければならないのだが、反復練習は機械的であることから免れて、体で覚えるだけではなく、頭で組み立て、頭で覚えていくことになるから、反復練習に於ける機械的な時間の経過は必要なくなり、結果的に長時間は回避可能となり、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式からの解放ともなる。

 いわば監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、指示を自分なりに咀嚼して自分なりの意味を加えて行動するようになると、野球で言うと、「しっかり捕れ」、「どこを見ているんだ。ボールをよく見ろ」、「遣り直しだ」、「バットの芯に当てることができないのか」等々次から次へと指示が飛ぶのを待たずともまずいプレーに対してどこが悪かったのか、どうしたら良くすることができるのかを頭で考えてプレーするようになり、結果を出しさえすれば、監督も顧問も選手自身に任せるようになって、その選手に対する指示を必要としなくなる。いわば一から十まで指示を受けなくても、考えたプレーで自分を律することができるようになれば、自分の力で少しずつ自分を発展させていくことができる。だが、こういった行動は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性の行動様式を当たり前としている間は望むことができない。指示を受けてそれに従う機械的反復のみを必要とし、結果として長時間の猛練習を招くばかりか、機械的な反復でしかない練習量の多さと比較した結果を求めるようになって、いわばこれだけ練習したのだからとそれ相応の成績や勝利を目指すようになって、そういった目標が成績重視や勝利至上主義へと繋がっていく。

 自分という素材をどう活かすか活かさないかの決定権は最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かっている。監督や顧問の指導が新たな技術の獲得のキッカケやモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)を与えるキッカケとなることもあるだろが、その技術を自分のモノにできるかどうかにしても、モチベーションどおりに力を発揮できるかどうかにしても、やはりあくまでも持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)に掛かかることになる。指導は何かを誘発するキッカケになるに過ぎない。個々の運動部活員の素材を活かす決定権を監督や顧問が握っているとしたら、高校野球で言うと、春夏いずれかの甲子園大会で何回も優勝に導いている名の通った強豪校の監督や顧問の指導を受けた部員の殆どがプロ野球や職業野球で大活躍することになるが、真に活躍する選手は1年にそれ程多くは存在しないはずだ。そもそもからしてプロで活躍する選手の多くが強豪校野球部出身の肩書を持っているものの、その部員の殆どはプロの野球選手として自己実現を目指す全国の中学校野球部からの越境入学者で占められている状況にある。今年2022年春の選抜優勝校大阪桐蔭高は地元選手は1人のみだという。

 いわば強豪校の優秀な監督、あるいは顧問と言えども、最初から優れた素材が指導の対象となっている。それでも指導した優れた素材の全員をプロや職業野球界に送り込んで、全員をスタープレイヤー(花形選手)に育てることができるわけではない事実はスタープイレヤーに育つかどうかは、つまり自分という素材を活かすか活かさないかの決定権はやはり最終的には持って生まれた才能+自分自身の意志と姿勢に掛かっていることの証明としかならないし、監督や顧問の意志や姿勢ではないことは誰もが理解しなければならないことだろう。

 自分という素材を本質のところでどう扱うかは最終的にはあくまでも自分自身の問題だということであって、肝に銘じておかなければならない。プロで名を成した野球選手を見ると、持って生まれた才能だけではなく、野球について本人独自の考えを持っている上に野球選手としての自分を語る言葉を持っているように見える。こうなるには監督や顧問の指示に従うだけではなく、指示を自分なりに考えてプレーするようになると、そのプレーは自分の考えを加えてしていることだから、その良し悪しは監督や顧問の評価に従うだけで済まずに自分で確かめて、なお進化を図らなければならないために外側から自分を眺める目が自然と養われることになる。外側から自分を眺めて自分自身を様々に評価することになるから、自ずと言葉を獲得していく作業と同時進行していくことになる。言葉でプレーを修正し、プレーを動きだけではなく、言葉でも確認して、常時相互反応させることによって、言葉もプレーも磨きがかかっていくはずで、このようなステップを踏んだ選手が選手としても名を残し、監督になっても名を残し、解説者になっても名を残すことになるのだと思う。

 こういったことを裏返してみると、持って生まれた才能がいくら優れていても、その才能を監督や顧問の指示に従うだけではない、部活部員自身が十分にバックアップできるだけの強固な意志と姿勢(=気持ちの持ちよう)を持ち合わせていなかったなら、折角の才能を宝の持ち腐れとしてしまうだろうし、事実、宝の持ち腐れとしてしまう例は少なからず存在するはずである。例えば高校野球や大学野球で大活躍し、プロでも通用する逸材と言われた選手がプロに入って芽を出さずに終えてしまう例である。

 尤もそのような選手でも、プロから離れた世界で今までの鳴かず飛ばずがウソのように活躍する例がある。自分という素材を本質のところでどう扱うかはあくまでも自分自身の問題だからと気づいて、腹を据え、新しい世界なりに自身の問題として取り組むことに成功するからだろう。

 持って生まれた才能は先天的に与えられたもので、それを伸ばすための極めて個人的な意志と姿勢は「自発性」(他からの影響・強制などではなく、自己の内部の原因によって行われること:goo辞書)や「主体性」(自分の意志・判断で行動しようとする態度:goo辞書)、「自主性」(他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることのできる性質:コトバンク)、「自律性」(他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動する態度:goo辞書)といった精神的資質を後天的に獲得、自らのモノとしていかなければならない。そしてこれらの精神的資質を個人の内面に育む共通する要因は考える力である。考える力がなければ、これらは育むことはできない。他人に従うだけの人間となって、その範囲内で終わる。奴隷がいい例で、奴隷は主人の考えに絶対的に従い、自身の考えを持たないことを存在理由とし、主人に従う範囲内の人生を送る。

 既に触れている監督や顧問の指示にそのままに従うのではなく、自分の頭で考えてプレーするという行為は自発性や主体性、自主性、自律性といった各資質を既に獲得しつつあるか、獲得に向かう状況にあることを示す。そしてこれらの資質を獲得するのも獲得しないのも自分自身の気づかないところで進行することになるが、例え気づかなくても、獲得するしないは自分自身の問題として付いて回る。

 また、これらの資質が考える力と関連付けが必要である以上、基本のところで日本人の行動様式として日々影響を受けることになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係はその関係性から言って、自発性や主体性や自主性、自律性獲得の阻害要因として作用することになる。なぜならこの人間関係は指示に従うのみで自分からは考えないことによって最大限機能することになるからなのは断るまでもないが、具体的には自発性や主体性や自主性、自律性はそれぞれの単語の意味が示しているとおりに極めて内発的な精神性によって獲得しうる性格傾向であるのに対して上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係は下の存在は上の存在との関係を受けて成り立たせることになり、外発的関係性を取ることになるため、自発性や主体性や自主性、自律性といった内発的な精神性の発揮に対して否応もなしに頭を抑える力学を取ることになるからである。

 このことを認識しないままに学校部活動を地域運動部活動に移行させた場合、成績重視や勝利至上主義が一定程度抑えられたとしても、残滓として生き残ることになって、高校に入ってから反動という形で取り戻して却って始末に悪い状況に至る事態も起こりうる。

 権威主義的な人間関係の影響を受けて、自発性や主体性や自主性、自律性がどのように阻害されているか、《運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書》(公益社団法人全国大学体育連合)を基に指導者からの体罰という名の暴力行為に対する体罰対象者の受け止め方から窺ってみる。

 〈1。調査の目的
 本調査の目的は、学校や社会において運動部活動の指導者となる可能性のある大学生の運動部活動における体罰・暴力の経験や意識を把握することであった。

 2。調査の方法一対象
 本連合の会員校に共同研究への参加を募集したところ、全国の13大学・2短大から協力を得られた(「共同研究参加大学募集要項」は後掲する)。所在地は、首都圏が8大学、東海地方が2大学、近畿地方が1大学・1短大、九州地方が2大学・1短大であった。これらの会員校に在学する学生3,957名(男性2504、女性1,417、無回答36)から同答を得た。調査はアンケート用紙を用いて2013年9月1日から10月31日の期間に実施した。〉

 調査は2013年9月1日~10月31日で、約9年前の少々古いものだが、「体罰の実態把握について(令和2年度)」(文部科学省)によると、小中高校から中高一貫の中等教育学校、特別支援学校を含めた2020年度に処分等が行われた体罰は2019年度 685件に対して485件の発生で、減少してはいるものの、表に現れていない件数が相当数あると仮定できるから、決して少なくない状況を示している。この仮定の根拠として児童虐待も体罰の一種に当たり、「厚労省調査」は、〈2019年度中に、全国220か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は205,044件で、過去最多。〉と伝えていることを挙げて、日本人の多くが上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な人間関係に如何に影響を受けていて、最悪の状態にまで達している例が数多く存在していることを類推できるはずである。

 要するに暴言や暴力を用いてまでして言うことを聞かせようとする究極の行動形態は児童虐待の場合は親という存在を権威とし、学校の体罰の場合は教師や顧問という存在を権威として上は下を従わせ、下は上に従うべきとする権威主義的人間関係を元々の素地としていなければ、究極にまで行き着くことはないということであり、このことは日本人の行動様式は広い範囲でそういった素地の影響下にあることを示すことになる。

 では、上出「運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書」にある権威主義的な人間関係の究極の形としてある体罰に対する大学生、短大生の受け止め方から自発性や主体性や自主性、自律性を如何に阻害することになっているのかを見ていく。

 「調査報告書」は「体罰の頻度」や「体罰の回数」、「体罰に至った経緯」等を調査項目としているが、「受け止め方」のみの画像を取り出して、貼り付けておいた。
       
 体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」、「試合に勝てるようになった」等、プラスの能力を手に入れたと見る多数派を占める肯定的な価値判断は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を積極的に、あるいは無条件に受け入れていることを示すことになる。この人間関係に於いて上の権威主義性が強まる程に上の下に対する自発性や主体性、自主性、自律性といった各人独自の精神的資質の発揮を要求する度合いが弱まり、体罰はこれら精神的資質の発揮を、備えていたとしての話だが、一切考慮に入れない考えのもとに行われることになる。

 尤も暴言や体罰を与えることで自発性やそれ以下の資質を引き出すんだと体罰に正当性を与える主張もあるだろうが、自発性等々の資質はいつ如何なる場合も他からの強制を受けて発揮するものではなく、強制は自発性等の資質を反対に歪める働きをし、十分に機能しない状態にさせて、だから体罰は繰り返される、あるいは繰り返さなければならないという性格を持つのだが、自発性とそれ以下の資質は自分が経験することになる数々の事例から直接学んだことや他人が経験した事例を直接目撃するか、情報として受け取った中から自分から学んで考える力を身に付け、自分の中に確立していくことになる各性質であって、このような構造上、自分の中にある性質として他からの強制を受けなくても自然と反応して自分自身の意志と姿勢となって現れなければならない。要するに体罰をそのまま受け入れて、なおかつプラスの評価を与えた大学生・短大生は、それぞれの年令になっても、自発性やそれ以下の資質を満足な状態で前以って備えていなかったことが監督や顧問をして誘発させることになった体罰ということにもなる。体罰受けて一見、自発性や主体性や自主性、自律性等を発揮したかのように見えるが、実際の精神性の発揮とは似ても似つかない機械的な反応に過ぎないということなのだろう。

 当然、「精神的につよくなった」以下のプラスの能力は極めて内発的なモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)に基づいて手に入れることになったものではなく、体罰が外発性であるにも関わらずに自らのモチベーション(=やる気を起こす動機づけ)にして手に入れた実態を如実に物語ることになる。
      
 かくこのように上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的上下の人間関係自体が自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質を排除する形で成り立っていて、そうであるゆえに日本人が行動様式として影響を受けている権威主義的な人間関係そのものがこのような精神的資質を育む阻害要因として立ちはだかっていることになる。

 一方の「プレーが萎縮した」、「体罰・暴力を受けることが不安になった」、「反抗心を持った」等は体罰を嫌悪し、反抗心が湧いていることからのマイナス評価であるものの、監督や顧問を上の権威に置いていて、止むを得ずか、諦めているかして体罰を受け入れていることに変わりはなく、結果として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を相互に維持し合っていることになっている状況は否定できない。とは言っても、体罰を嫌悪し、反抗心を湧かせること自体が何がしかの自発性とそれ以下の精神的資質を備えていて、その内発性と体罰という外発性との衝突が誘発したマイナス感情と見ることができる。

 但し肯定派にしても否定派にしても運動部活動の指導者や顧問が自らの立場を権威として上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を行動様式としていて、部活部員はその影響下にあることに変わりはなく、体罰という究極の形で現れなくても、その人間関係が自発性以下の資質を育むのを抑圧する力学として働いているということにも変わりはない。

 となると、権威主義的人間関係の行動様式をそのままにして学校部活動を地域部活動へと移行させた場合、体罰やイジメが減ることがあったとしても、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性の際立った育みは期待できないことになり、上は下を従わせ、下は上に従う関係性の影響下にある人間を地域部活動でも再生産し続ける恐れは否定できない。

 この再生産を断ち切って、自発性や主体性、自主性、自律性といった内発的精神性を備えた人間を育てるための核心は断るまでもなく指導者や顧問と部員との間の行動を規制して、その規制が外面的な行動だけではなく、内面的な人格形成にまで影響することになっている上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切り、この人間関係から部員を解放することであり、解放がそのまま指導者や顧問としての教師の部活動に関わる時間の短縮に繋げることができるなら、何もわざわざ学校部活動の"地域部活動"へと移行させる必要はなくなる。

 もしこういった目論見が成功した場合、授業の場で同じ人間関係を取って成り立っている暗記教育を生徒自らが自発的・主体的に進んで学び取り、自主性や自律性を確立していく考える教育、思考型の教育への転換も不可能でなくなる。

 では、その方法を模索してみる。主に野球部について述べるが、他の競技にも応用できるはずである。

 部活の顧問は教師が担うが、練習には基本的には参加しない。このことによって顧問による部活生徒に対する上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の接触は制限され、制限に応じて行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は存在しなくなる。小学校の部活は6年生の中から5人程度を選抜して集団で指導する。中学校は3年生の中から5人程度を選抜してこの役目を担う。小学校の6年生や中学の3年生の部員が5人を欠く場合は小学校は5年生から、中学校は2年生から必要人数を繰り上げる。もし小学校も中学校もチームを組むだけの人数が不足する場合は最寄りの学校と合同チームを組む。この方法はあとで述べる。

 ミーティングを全体練習と同等に重用視する。ミーティングには顧問の教師が加わるが、進行は小・中共に集団指導の5人が行う。但し教師はミーティングを行うに当たって先ず最初に自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは監督や顧問といった他人ではなく、最終的には自分自身の問題にほかならないということを教え、押さえさせて置かなければならない。ミーティングは上級生と下級生の上下の壁を取り払い、下級生も自由に発言できることをルールとする。顧問は上級生と下級生が自由に意見を言い合い、自由に質問し合う環境づくりの責任を負う。このことを義務とする。目的は勿論のこと、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係を断ち切るためである。顧問はときに応じて下級生を名指しし、「何か意見はないか」とか、「何か質問はないか」と聞いて、誰もが自由に口を利き合うことができる対等な場作り、雰囲気作りに努める。

 ミーティング開催の回数は各部で決めることを原則とするが、最低、週に1回か、2週に1回は行い、紅白試合と対外試合後はその当日か翌日に必ず開く。練習や紅白試合、対外試合の反省点や満足点を話し合い、反省部分は改善点を模索し、満足部分はさらに伸ばす方法を全員で考える。監督や顧問にああしろ、こうしろと言われれて、ハイ、ハイと頷くだけの指導ではなく、全員で意見を出し合い、考えることによって自然と言葉の力と考える力を付けて、その力は自発性とそれ以下の資質の形成に向かうことになるだけではなく、競技に関わる技術についても、自分で考えることによって自分で発展させることになるから、長時間のハードトレーニングは必要なくなるということも前以って教えておかなければならない。そして監督や顧問の指示を受けて練習するのではなく、部員が上級生から下級生まで交えて効率よくできる練習メニューを考え、考えたとおりに練習ができれば、自分がしている競技にについて学ぶだけではなく、自己達成感や自己肯定感を味わうこともできて、これらの感覚は効率のよい短時間の練習で仕上げることができる程に確実性を増すことになるから、自ずと長時間の練習は効率の悪さの証明となるだけで、自然と好まない傾向として扱われることになる。

 紅白試合と対外試合後のミーティングは各試合を動画撮影し、撮影した動画に基づいて行い、各選手の動きの良し悪しを分析し、良い点を学び、悪い点は改善策を全員で論じ、見つけ、実践していく。動画撮影は誰でもいい。最初は下手でも、次第に慣れてきて、上達する。引き受けてくれる保護者がいるかもしれない。部員でなくてもいい。このこと以外にも動画を活用することにする。部員各自は各競技ごとのそれぞれのフォームを自分に合ったものとして備えた状態でそれぞれの競技に入部することになるが、記録や成績が伸びない、もっと記録や成績を伸ばしたいという部員のための技術指導はミーティングの場でユーチューブの動画を活用する。野球で言えば、何人かの元プロ野球選手が小学生や中学生のための技術指導を動画で公開している。動画は技術指導の必要ない部員も視聴することのよって一つのフォームを紹介する説明自体に参考になる知識が含まれていて役に立つ場合があるし、自分が行っている競技について知らないことを学ぶことは視野を広げる機会となる。顧問はこういったことを部員に説明して、動画視聴を行わせる。あるいは高校や大学に進学した参加できる先輩に加わって貰って、技術指導を受けるという手もある。

 部員はより良い成績を上げるために自分に合った新しいフォームを見つけようとして試行錯誤した末にこれでやってみようと自分で決めたフォームを暫くの間続けてみて、成績が上がるかどうか様子を見てみる。そこに新たな思考作用が生じ、自分で考える習慣を積み上げていくことになって、ただ単に持って生まれた才能に任せて競技を行ったり、顧問の指導に従うだけで技術を伸ばすのではない、自分発の思考と行動をベースにした歩みをより強固にしていくことになって、自分なりの自発性や主体性、自主性といった精神的特性をより確かな状態で形作っていき、芯の強い自律性の獲得に向かうことになるはずである。

 先輩も後輩もこういった精神的特性に基づいて行動することの大切さ、価値観を知ることになれば、上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的人間関係の影響は次第に剥がされていき、このような人間関係から自由な境地に立つことになる。真の自律への旅立ちとなるだろう。当然、このような人間関係の行き過ぎた指導としてある暴言や体罰は監督や顧問と部員を律する、あるいは先輩と後輩を律する無縁の力学として忘れ去られていくことになる。要するに上の権威・立場から下の権威・立場に向けた暴言や体罰といった強制力学も、同じ関係式による長時間のハードトレーニングという強制力学も、自発性や主体性、自主性、自律性といった精神的資質の前に意味を成さなくなる。

 教師が顧問として部活動の練習に参加しないことで一番気をつけなければならないことは生徒の大怪我である。生徒が大怪我をした場合に備えて従来から保健室の養護教諭に連絡を取る、あるいは救急車を出動を依頼するといった備えのためにベンチとかにスマホを用意していると思うが、AEDにしても各部に備えるだけの台数が不足する場合は校舎のグランドから最も近い場所、昇降口等に備え付けの形で用意しているはずだが、練習場所がグランドから遠い場合はより短時間で準備するために自転車を用意しておくのも必要であろう。ミーティングでAED使用の訓練を適宜行い、使用の注意点について常時記憶を新たにさせておくことも肝心である。緊急の場合を常に想定していると、杞憂で終わることが多いが、心がけることだけは忘れてはならない。

 よく言われているように練習に休憩を挟むことは忘れてはならない。

 2007年2月13日の当ブログ《運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のようなことを書いた。

 〈これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。

* * * * * * * *

 ①<リズム&モーション>

 すべてのトレーニングに亘ってのコンセプトは<リズム&モーション>。リズムとモーションを一体化させたトレーニングを意識的、目的的に、且つ継続的に行うことで、その二つが身体に一体化して記憶され、肉体化を受ける。

 当然必要とする動きが求められたとき、身体は記憶し、肉体化していた情報に従って、リズムとモーションを一体化させた動き(<リズム&モーション>)で反応することになる。

 ダンスを考えてみれば、理解を頂けると思う。同じステップを踏み続けることで、リズムとモーションが身体に記憶され、肉体化して、逆に身体は音楽を主体とした外部からの動きの指令に従って自然とステップを踏むようになる。ダンスのステップ自体が<リズム&モーション>で成り立っている。私自身、ダンスの経験はないのだが、上達したダンサーを見ると、彼らは非常に心地よい動きをする。運動に於いても、リズムとモーションを一体化させた動きは大切で、そのことは野球の試合で解説者が好調に投げている投手を評して、「非常にリズムよく投げている」とか、勝利投手自身が「最後までリズムよく投げることができた」と勝因を分析したりする言葉が証明している。途中で崩れた投手は「リズムに乗れなかった」とか言う。

 勝利を手にしたマラソンランナーにしても、「最後までリズムよく走れた」と言うし、逆に希望したとおりに走れなかったランナーは「途中でリズムが崩れてしまった」と述懐したりする。

 かくこのようにプレーする点でリズムに則った動作(モーション)=<リズム&モーション>が重要な要素となるということなら、リズムとモーションを一体化させた身体の動きの習得を最初から目的とし、そのことを基本に据えた継続的なトレーニングが重要になる。〉――

 そのためには練習の合間に休憩を取ることの必要性に触れた。最近では休憩を取る例も出てきたようだが、休憩も取らず、水分補給も禁じていた時代があった。根性が付く、忍耐力が付くと行った根性論に支配されていた。だが、疲れることで動作(モーション)が惰性となり、リズムも失い、そのままに練習を続けたなら、練習そのものが消化するための義務となって積極性が失われ、その間の「リズム&モーション」は身体への記憶も肉体化も意味のないものとなる。途中休憩を取りながら、疲労を取り去り、気分を改めて練習を開始することで練習開始から終了まで積極的な「リズム&モーション」を維持できたなら、維持できない場合と比較して身体への記憶と肉体化への滋養分は比較にならない程に違いが出てくるはずである。滋養分の違いは成長の違いとなって現れるだろう。

 〈ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。〉といったことも書いた。

 人は運動や仕事でリズムを持って動くことができるそのリズムは運動や仕事に従事している際に心に余裕が持てているときに身に付いていくもので、余裕がなければ身につくはずはないことは誰にでも明らかであろう。身につけたリズムで運動や仕事をこなしていく。但し野球のように相手がある競技の場合は打者がいくらリズムを持ってバットを振ることができても、相手投手の投球が打者のリズムを狂わすだけの威力があった場合はリズムは封じられることになるが、動きに応じた自分に最適のリズムを獲得、備えていなければ、プロにもなれないだろうし、打者なら、ここぞというときに好球必打を見せることはできないだろうし、投手なら、登板の機会を与えられることはないだろう。そして心に余裕を持てる練習でなければ、動きに応じた自分なりのリズムは身に付かないということである。

 少子化で部員数不足の運動部活動は同じ状況にある他校運動部と合同運営を行う。スクールバス、あるいはマイクロバスで1時間以内で移動可能な中学校同士が1日交代で練習場所を変えるといった条件付きで練習を行う。移動側の中学校運動部は練習の1時間以内のロスをDVDプレイヤー内臓24型ディスプレーをスクールバスかマイクロバスに設置、部活動と同じ競技や関係しない競技の映像を視野を広げさせる勉強目的で見させる。どのような映像のDVDやBDを購入し、その日は何を見るかは部員自身に決めさせる。前以って顧問である教師が自分という素材を本質のところでどう扱い、どう発展させるかは最終的には自分自身の問題であるということ、所属する競技だけが自分自身の将来的な可能性ではないこと、可能性は様々にあるということ、何をするにしても心に余裕を持つことが大切であるということ等々を機会あるごとに言い諭していたなら、自発性や主体性や自主性、自律性等々の資質を獲得する状況に向かっていさえすれば、何事も自分自身の問題として立ち向かう意志を持つはずだし、そのような意志を持てるよう指導していかなければならない。

 こういった方法を取れば、学校部活動の地域部活動への移行は必要なしに顧問の教師が部活動に時間を取られて、自身の業務に必要な時間が削られるといった事態に対処した教師の働き方改革にも適うことになり、暴言や体罰、長時間練習を生みがちな権威主義的人間関係の排除と排除に応じて部活部員を主体性や自主性等の資質の獲得に向かわせ、彼らを自律した存在に持っていくことも可能となる。部活動の監督や顧問からやる気を出させるための体罰を受けて、「精神的につよくなった」、「技術が向上した」等々、評価する部活動員も影を消すことになるだろう。

 地域への移行は競技志向を持たないが、スポーツを楽しみたいレクリエーション志向の生徒や運動が苦手な生徒、障害のある生徒等々を募って
学校を超えてそれぞれにチームを組み、本人それぞれの技術に合わせた各レベルのスポーツの場の提供のみにとどめておくべきだろう。こういった場の学校内設置は難しいと思われるからであることは既に触れた。

 学習指導要領で学校部活動は教育課程外とされているが、学校の教育活動の一環と位置づけられていて、教育課程との関連付けを求められている以上、学校という場で行われることが理想に思われる。
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