――歴史修正主義者は“数の根拠の希薄”を持ち出して歴史の事実そのものを無きものにしようとする謀り事を常套意志としている――
9月1日日朝協会等市民団体主催の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に小池百合子知事が都知事恒例の追悼文送付を中止したと8月24日(2017年)付のマスコミが伝えていた。
その一つ「The Huffington Post」がその背景を次のように伝えている。文飾は当方。
〈小池氏は3月、都議会で自民都議が、主催団体の案内文に虐殺の犠牲者数が「6千余名」とあるのは根拠が希薄などとして問題視し、追悼文送付を見直す必要性を指摘したのに対し、「毎年慣例的に送付してきた。今後については私自身がよく目を通した上で適切に判断する」と答弁して見直しを示唆した。都建設局はこの答弁などを受けて追悼文の送付中止を検討し、その方針を小池氏も了承したという。〉
要するに都の役人から「毎年慣例で送付しているだけですよ」と言われ、その説明に従って小池百合子は昨年は慣例だからと機械的に追悼文を寄せたことになる。
記事は昨年の小池百合子の追悼文の一部を紹介している。
「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」
都の役人が文章を用意し、一応小池百合子に目を通して貰って了承を得てから、そのまま送付したのかもしれない。あるいは代理の役人が式典に出席して読み上げたのか。
慣例で追悼文を送付するとは恐れ入る。
安倍晋三の広島・長崎の原爆死没者慰霊式の出席も慣例で出席し、役人が書いた追悼文を慣例で読み上げているだけなのだろう。本当は出席したくはないはずだ。慰霊式主催者やマスコミから核廃絶に向けた姿勢の及び腰を毎年批判される。
安倍晋三の核に対する本質的な姿勢は憲法は核の使用を禁じていないとするものである。原爆死没者慰霊式で核廃絶を訴えているが、心にもないことを喋っているに過ぎない。
最初に書いたように歴史修正主義者は南京虐殺もそうだが、“数の根拠の希薄”を持ち出し歴史の事実そのものを無きものにしようとする謀り事を常套意志としている。
“数の根拠の希薄”を以って虐殺の事実を抹消しようとするなら、可能な限り正確な数字を出さなければならない。その数字によって、虐殺の程度を計らなければならない。
だが、自民党都議古賀俊昭はそこまではしていない。
上記記事が自民党都議が“数の根拠の希薄”を持ち出したのは3月の都議会と書いているから、ネットでその質疑を探してみたところ、うまく見つけ出すことができた。
平成29年東京都議会会議録第4号(平成29年3月2日)
古賀俊昭「まず、都内墨田区に所在する東京都立横網町公園に建つ朝鮮人犠牲者追悼碑などの問題について質問を行います。
本年は、10万人余が犠牲となった大正12年の関東大震災から94年になります。この震災の混乱の中での不幸な事件により生じたのが、朝鮮人犠牲者であります。
横網町公園内に朝鮮人犠牲者を追悼する施設を設けることに、もとより異論はありませんが、そこに事実に反する一方的な政治的主張と文言を刻むことは、むしろ日本及び日本人に対する主権及び人権侵害が生じる可能性があり、今日的に表現すれば、ヘイトスピーチであって、到底容認できるものではありません。
追悼碑には、誤った策動と流言飛語のため6千余名に上る朝鮮人が尊い生命を奪われましたと記されています。この碑は、昭和48年、共産党の美濃部都知事時代に、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会が建てて、東京都に寄附したものでありますから、現在、碑文については東京都に全責任があります。
本来は、当時、都が受領に際し、6千余名、あるいは流言飛語などの表記、主張に対しては、公的資料などによる根拠を求めるべきでありましたが、何せ共産党を中核とする革新都政でありましたから、相手のいうがままであったと思われます。
私は、小池知事にぜひ目を通してほしい本があります。ノンフィクション作家の工藤美代子さんの「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」であります。工藤さんは、警察、消防、公的機関に保管されている資料を詳細に調べ、震災での死者、行方不明者は2700人、そのうち不法行為を働いた朝鮮独立運動家と、彼らに扇動されて追従したために殺害されたと思われる朝鮮人は約800人、また、過剰防衛により誤って殺害されたと考えられている朝鮮人は233人だと調べ上げています。
この書籍は「SAPIO」に連載され、現在、産経新聞から単行本として出版されています。
6千余名が根拠が希薄な数であることは、国勢調査からもわかります。日本で初めての国勢調査が、関東大震災の3年前、大正9年に実施されていますが、その中の国籍民籍別人口では、朝鮮人の人口は、埼玉県、千葉県、東京府、神奈川県全てを合わせて3385人なのであります。
・・・・・(中略)・・・・・・
歴史の事実と異なる数字や記述を東京都の公共施設に設置、展示すべきではなく、撤去を含む改善策を講ずるべきと考えますが、知事の所見を伺います」
・・・・・(以下略)・・・・・・
小池百合子「古賀俊昭議員の一般質問にお答えを申し上げます。
まず、都立横網町公園におけます関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑についてのご質問でございます。
この追悼碑は、ご指摘のように、昭和48年、民間の団体が資金を募集し、作成したものを受け入れる形で、犠牲者の追悼を目的に設置したものと聞いております。
大震災の際に、大きな混乱の中で犠牲者が出たことは、大変不幸な出来事でございます。そして、追悼碑にある犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知はいたしております。
都政におけますこれまでの経緯なども踏まえて、適切に対応したいと考えます。
そして、この追悼文についてでありますけれども、これまで毎年、慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方において、例に従って送付したとの報告を受けております。
今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断をいたします」 |
小池百合子は事務方から追悼文を送付したという報告を受けただけで、追悼文に目を通すことすらしなかった。6000名が不正確な数字なら、そのことも問題となるが、追悼文送付の主が目を通さずに機械的に送付することの方がより問題に思える。
古賀俊昭の「歴史の事実と異なる数字や記述を東京都の公共施設に設置、展示すべきではなく、撤去を含む改善策を講ずるべきと考えますが」という発言自体に“数の根拠の希薄”を持ち出して歴史の事実そのもののの抹消を謀ろうとする意志が現れている。
そしてこの手の遣り方が歴史修正主義者の常套意志となっている。
古賀俊昭はノンフィクション作家の工藤美代子の著書を根拠に〈震災での死者、行方不明者は2700人〉から、〈不法行為を働いた朝鮮独立運動家と、彼らに扇動されて追従したために殺害されたと思われる朝鮮人は約800人〉+〈過剰防衛により誤って殺害されたと考えられている朝鮮人は233人〉の合計1033人を差し引いた1667人が流言飛語を原因とした実質的な虐殺の犠牲者だとしていることになる。
そして古賀俊昭は一般的に流布している虐殺犠牲者約6千人と比較した工藤美代子の1667人という少ない検証を大正9年実施の日本最初の国勢調査を補強証拠として持ち出している。
大正9年の〈朝鮮人の人口は、埼玉県、千葉県、東京府、神奈川県全てを合わせて3385人〉なのだから、6千人の犠牲者を出しようがない。全員虐殺されたとしても、6千人に2千人不足することになる。工藤美代子の1667人が妥当な犠牲者数ではないのかとの文意となる。
その多くが無抵抗の朝鮮人を大勢で寄ってたかって無差別に虐殺していって1667人を数えたということは、その残虐さを決して無視できない。
古賀俊昭は3つの点を見落としている。一つ目は出稼ぎ朝鮮人が多く存在していた問題である。
「朝鮮人労働者の内地及外国出稼状況」(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 労働)なるサイトが関東大震災5カ月前の1923年(大正12年)4月14日付の「京城日報」に基づいて朝鮮人出稼ぎ労働者について触れている。
主なところを拾ってみるが、漢数字を読みやすくするために算用数字に変え、段落無しとなっているために適宜段落を用いた。
〈大正6年から大正11年上半期の間に於て団体的出稼者は2万1千7名単独出稼者は1万7千113名総数3万8千120名の多きに達した
是等は概ね鉱山土木紡績製鉄所其他各種工場に於て労役に従事するもので内地各府県に散在するが就中大阪府に在住するもの最も多く福岡県之に次ぎ兵庫県、北海道、京都府、広島県、山口県、東京府の各府県には何れも1千人以上の居住者がある〉
〈従来朝鮮人が内地に渡航するに当って規定に依り居住地警察官庁に旅行の目的と旅行先とを届出て旅行証明書の下付を受け朝鮮最終の出発地の警察官に之を提示ずるを要したのであったがこの規定は朝鮮人間に兎角の非難があり且夥しい手数を要するので大正11年11月15日を以て右の規則は廃止されたのである
以降朝鮮人の内地往復は極めて自由となりその結果朝鮮人の内地渡航者は俄かに激増の趨勢を生ずるに至ったのである〉
大正6年から大正11年上半期の間に於て団体的出稼者は2万1千7名、単独出稼者は1万7千113名、総数3万8千120名の多きに達していて、尚且つ関東大震災発災の大正12年9月1日を約9カ月半遡る大正11年11月15日を以って右の規則は廃止され、結果、内地渡航者(=出稼ぎ朝鮮人)の数は激増した。
しかも旅行証明書の発行を受けるだけで、住民登録をするわけではないから、国勢調査には現れない人口となる。
古賀俊昭が挙げていた1府3県のうち、千葉は乗っていないから、他の人数を画像から拾ってみる。
大正12年の東京府は男1121人、女27人の合計1148人、神奈川男502人、女ゼロ、合計502人、埼玉男57人、女7人、合計64人の総勢1714人となる。
これらが国勢調査には載らない数字として東京を中心とした神奈川・埼玉に存在していた。
見落としている2つ目が当時の朝鮮人不法入国者である。
「Wikipedia」の「日韓併合」(1910年(明治43年)8月)
「移入制限と解除」
1919年(大正8年)4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限され、1925年(大正14年)10月にも渡航制限を実施したが、1928(昭和3年)年には移民数が増加した。朝鮮では1929年(昭和4年)から続いた水害や干害によって、国外に移住を余儀なくさせられる者が増えた。
1934年(昭和9年)10月30日、岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化する。
1937年(昭和12年)に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年(昭和9年)の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した。
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1919年(大正8年)4月に朝鮮半島からの日本への移住が制限された。
「Wikipedia」の「韓国併合」の項目には、〈日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになった。〉との記述もある。
このことは注釈から調べてみると、「国立公文書館 アジア歴史資料センター」に昭和9年の措置が最初となっている。
要するに1919年(大正8年)4月の移民制限から「内地の失業率上昇や治安が悪化」する程に大量の朝鮮人が日本に移住し続けたことになる。この中には旅行証明書の発行を受けて入国した朝鮮人の出稼ぎ労働者も入っているだろうが、彼らは容易に人数制限ができる。人数制限のできないところでの増加が多分に内地の失業率上昇や治安悪化を招く原因となっているということであるはずだ。
移住する側にとっては必要に迫られての行動だから、制限されれば、不法移住が増えることになる。江戸時代の自分の土地では食えない逃げ百姓の多くが無許可で江戸や大阪に集まったように関西は大阪、関東では東京や横浜と言った大都会により多く集まったはずであり、この数は正確には分からないが、この人数も決して無視することはできない。
古賀俊昭が見落としている3つ目は国内の朝鮮人人口が国勢調査時のままではないということである。
「Wikipedia」の「在日韓国・朝鮮人」の項目の「戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景」には、〈「大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)」を記載した1938年(昭和13年)発行の年鑑 によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。したがって、この十年で人口増は378,254人ということになる。〉との記述がある。
古賀俊昭が掲げた大正9年の〈朝鮮人の人口は、埼玉県、千葉県、東京府、神奈川県全てを合わせて3385人〉は1府3県の朝鮮人口であって、それに対して「Wikipedia」が記述している大正9年(1920年)の「40,755人」は本土全体の朝鮮人人口を示す。
中央のたったの1府3県に全体の1割近くの朝鮮人が住んでいたということは都会集中を物語っていて、役所に届け出ない違法移住者も同じく都会に集中していたことを示すことになる。
要するに大正9年の国勢調査に於ける1府3県の朝鮮人人口だけでは割り出すことはできない。
上記「Wikipedia」には国勢調査による大正9年(1920年)の朝鮮人人口40,755人に対して昭和5年(1930年)の朝鮮人人口は419,009人と、10年で約10倍に一挙に増えている。その人口増は378,254人。
単純計算になるが、1年で少なく見積もって約3万7千人ずつ増えた計算になる。大正9年の国勢調査から関東大震災の大正12年(1923年)9月までの2年9カ月の増加数は3万7千人×2年+{(3万7千人/12カ月)×9カ月}≒10万人。
要するに大正9年の朝鮮人人口は40,755人は大正12年9月には約10万人と約2.4倍に増えている。、
この倍数を古賀俊昭の大正9年1府3県の3385人に当てはめてみると、3385人×2.4倍≒8124人。これに東京府と神奈川、埼玉男の出稼ぎ労働者総勢1714人を加えると、9838人。これに決して無視できない数字であったはずの不法移住朝鮮人を加えると、優に1万人を超える。
もし朝鮮人虐殺が徹底的に行われたとしたら、6千人という数字は決して非現実的とは言えなくなる。
「朝鮮人暴動」の流言飛語がたちまち首都圏を中心に飛び交い、瞬く間に在郷軍人、青年団、消防団が主体となって町内単位の自警団が迅速に組織されたという。
このことは特に強い形で現れていた戦前の日本人の集団主義・権威主義の行動様式から十分に理解できる。
自警団組織のこの迅速さはまた、当時の朝鮮人差別に対する朝鮮人の反抗の可能性を恐れる余りの恐怖心が暴動を現実のものに描いてしまう効果として働いた迅速さでもあるはずだ。
どれ程に過酷であったのか、出なかったのか、呉林俊(オ・リムジュン)なる在日著者の『朝鮮人のなかの日本』(三省堂・昭和46年3月15日初版)の中に「横浜市震災史」から引用したという朝鮮人虐殺の場面から見てみる。
ヒゲ面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウイスキーを二、三滴たらして飲んだ。足が痛みだしてたまらない。俄に降りつのってきたこの雨が、いつまでもやまずにいてくれるといいとさえ思った。
「旦那、朝鮮人はどうです。俺ア今日までに六人やりました」
「そいつあ凄いな」
「何てっても、身が守れねえ。天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさあ」
雨はますますひどくなってきた。焼け跡から亜鉛の鉄板を拾って頭にかざして雨を防ぎながら、走りまわっている。ひどいヒゲの労働者は話し続ける。
「この中村町なんかは一番鮮人騒ぎがひどかった・・・・」という。「電信柱へ、針金でしばりつけて、・・・・焼けちゃって縄なんかねえんだからネ・・・・。
しかしあいつら、目からポロポロ涙を流して、助けてくれって拝むが、決して悲鳴を上げないのが不思議だ」という。・・・・
「けさもやりましたよ。その川っぷちにごみ箱があるでしょう。その中に野郎一晩隠れていたらしい。腹は減るし、蚊に喰われるし、箱の中じゃ身動きが取れねえんだから、奴さんたまらなくなって、今朝のこのこと這い出した。それを見つけたから、みんなでつかまえようとしたんだ。・・・・」
「奴、川へ飛び込んで、向う河岸へ泳いで逃げようとした。旦那、石ってやつはなかなか当たらねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ。で、とうとう舟を出した。
ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分ぐらい水の中にもぐっていた。しばらくすると、息がつまったと見えて、舟のじきそばへ顔を出した。そこを舟にいた一人が、鳶(トビ)でグサリと頭を引っかけて、ズルズルと舟へ引き寄せてしまった・・・・。まるで材木という形だあネ」という。「舟のそばへくれば、もう滅茶々々だ。鳶口一つで死んでいる奴を、刀で切る、竹槍で突くんだから・・・・」
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好き放題に、あるいは朝鮮人と見たら、手当たり次第に、本人は残酷さを意識しない虐殺が次々を行われていった様子を窺うことができる。
1人で6人の朝鮮人を殺す。「何てっても、身が守れねえ。天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさあ」と自慢する。
頭の中では存在している暴動に立ち向かって先手を打って一人ひとりを殺していくことで潰していくために現実には存在しない暴動、武器も心構えも何ら準備していないに暴動に立ち向かっていくことになったのだから、好きなように相手の息の根を止めていくことができたはずだ。
結果、虐殺は過酷さを徹底的に極めることになった。朝鮮人が首都圏で優に1万人を超えていて、朝鮮人虐殺が徹底的に行われたとなると、犠牲者が6千人という数字は決して非現実的とは言えなくなる。
よしんば6千人が4千人だったとしても、あるいは2千人だったとしても、無抵抗の人間を竹槍や鳶口で次々と無差別に殺していく、いくら時代が時代だったとしても、その非人間性は長く語り継がなければならない。時代が巡って、似たような状況に立たされない保証はないのだから。