3月22日付(2014年)で各マスコミが今年1月から先月2月にかけて全国20歳以上男女1万人対象、約62%6186人回答の内閣府「社会意識に関する世論調査」で、61%が今の社会に満足している状況にあるとする趣旨の記事を流した。
まるで過去最多を更新中の生活保護受給者の問題も、若者の貧困問題も、年々増加していく非正規社員の問題も、どこかに消えてしまった印象を受けた。
《「今の社会に満足」は61% 去年より増加》(NHK NEWS WEB/2014年3月22日 18時00分)
今の社会に全体として「満足している」+「やや満足している」61%(昨年調査+7ポイント)
今の社会に全体として「あまり満足していない」+「満足していない」39%
前者はこの質問を調査に取り入れた平成21年以降で最多だそうだ。
社会の満足度とは違うが、今の日本の状況についてよい方向に向かっていると思う分野を複数回答で聞いた調査結果も記事は取り上げている。
「医療・福祉」28%
「科学技術」25%
「景気」22%
最後の「景気」に関しては、昨年の11%から倍増だそうだ。
悪い方向に向かっていると思う分野。
「外交」38%(平成10年にこの質問を取り入れてから初めてのトップ)
「国の財政」33
「雇用・労働条件」28%
内閣府「国民の社会に対する意識が、特に経済面で改善し、社会全体への満足感につながっている」――
他の記事も似たり寄ったりの論調となっている。世論調査で出た数字を基に報道することになるから、違いようがないのかもしれない。
だとしても、若者の貧困や非正規社員の増加、生活保護受給世帯の更新、若者の非婚、独居生活者の増加、介護離職等々の様々な問題を39%の〈今の社会に全体として「あまり満足していない」+「満足していない」〉という状況ですべて括(くく)ることができるのだろうか。
もしこの39%が、「全然満足していない」という回答を寄せたとしたなら、納得がいく。なぜなら、現在の日本社会が抱えている負の側面を「あまり満足していない」という状況まで加えた場合、どうしても違和感が生じるからだ。
記事発信の日付で内閣府のHPを覗いたが、まだ載せていいなかった。2、3日して見つけることができた。記事も世論調査の解釈次第で伝える姿を変えることになる。まるで報道がマジックを用いて、結果を変えているか、調査自体にマジックがあるように思えて、意図したものではないだろうが、一種の情報操作さえ感じる。
《社会意識に関する世論調査》(内閣府/2014年1月調査)の《調査結果の概要》、『図23 社会全体の満足度』」から見てみる。
今の社会に全体として「満足している」+「やや満足している」61%(実際は60.8%)の具体的な内訳は、「満足している」7.7%+「やや満足している」53.1%であって、「満足している」が圧倒的に少ない。
但し、今の社会に全体として「あまり満足していない」+「満足していない」39%(実際は38.7%)にしても、「満足していない」6.9%+「あまり満足していない」31.8%で、「満足していない」は合計39%のうちの約6分の1程度で収まっているから、全体としての不満足度はさして高くないことになる。
では、若者の貧困とか非婚とか、負の状況はどこへ行ってしまったのだろうか。
年代別の満足度・不満足度を見てみる。
「20~29歳」419人の「満足している」は4.3%で、全体の「満足している」7.7%をかなり下回っている。
「やや満足している」53.9%
「あまり満足していない」32.5%
「満足していない」8.4%
「満足していない」8.4%も、全体の「満足していない」6.9%を若干上回っている。
ではあっても、全体として見た場合、若者の満足度は不満足度を17ポイント上回っていて、決定的な不満足状態とはなっていない。
次に70歳上1481人を見てみる。
「満足している」12.4%
「やや満足している」54.8%
「あまり満足していない」25.7%
「満足していない」6.6%
70歳上の「満足している」12.4%は若者の「満足している」4.3%の3倍近くもあり、「満足していない」の6.6%も若者の「満足していない」8.4%よりも1.8ポイント下回っている。
70歳以上は社会的満足度に於いて若者を優に凌いでいることが分かる。
だが、問題は「やや満足している」の「やや」、「あまり満足していない」の「あまり」がどの程度なのかである。この言葉の解釈によって、満足度の姿を変えていくことになる。
「やや」という言葉を量的な意味でどう解釈しているか辞書で引いてみた。
【やや】「分量・程度が僅かであるさま」(『大辞林』三省堂)
とすると、「やや」いう言葉は「少しは」と訳すことができるはずだ。「やや満足している」は「少しは満足している」ということになって、満足はしているものの、その満足度は低い状態を指すことになる。
政治は高い満足度の国民生活の圧倒的多数化を目指しているのであって、満足度の低い国民生活の圧倒的多数化を目指しているわけではあるまい。
だが、そうはなっていない。いずれの場合も、「やや満足している」(=「少しは満足している」)の満足度の低い満足度が半数を超えている。
政治の目標から言うと、「やや満足している」は、後者の「あまり満足していない」+「満足していない」の枠に入れなければならない回答であるはずだ。満足している側に入れた場合、政治がそれで満足してしまう恐れが出てくる。
後者に入れた場合、国民の生活に関わる意識はかなり様相が違ってくる。
では、「あまり満足していない」の「あまり」の意味を見てみる。
【あまり】(下に打消しの言葉を伴って、)「程度が予想ほどではないさま。さほど。大して。あんまり」(『大辞林』三省堂)
と言うことは、「あまり満足していない」は「さほど満足しているわけではない」、あるいは「少ししか満足していない」という意味となるはずだ。つまり「満足していない」に限りなく近い満足度と言うことになる。
以上を纏めてみると、社会全体としての満足度は「満足している」7.7%のみで、「やや満足している」53.1%+「満足していない」6.9%+「あまり満足していない」31.8%となって、91.9%が不満足度の部類に入ることになる。
「20~29歳」若者の場合の満足度は「満足している」の4.3%のみで、「やや満足している」53.9%+「あまり満足していない」32.5%+「満足していない」8.4%=94.8%が不満足の部類に入る。
「70歳上」の場合、「満足している」12.4%は全体的に高い数値ではあるが、満足度はそれのみで、「やや満足している」54.8%+「あまり満足していない」25.7%+「満足していない」6.6%=87.1%が不満足度を占めることになる。
このような解釈をすると、この解釈から見えてくる光景は改めて言うまでもなく、格差拡大社会であって、アベノミクスの現在の答と言うことになる。
勿論、この解釈自体が言葉のマジックだと批判する向きもあるに違いない。言葉のマジックだとしたら、情報操作となる。
読者がこの解釈をどう解釈するかである。
――親の所得格差が子の教育格差の世代間連鎖は日本人の思考・行動様式権威主義がそもそもの発祥――
あさひテレビの3月24日(2014年)『ビートたけしのTVタックル』は 3時間スペシャルということで夜の7時から始めていた。NHKニュースを見てから、録画しながら覗いてみたのだが、「第1部ニッポンが抱える大問題!格差」の「教育格差を解消して『世襲ビンボー』を救え!」のコーナーに出演していた下村博文が相変わらずバカなことを言っているなと思って、9時頃には寝てしまった。
録画しておいても、同じ録画してあるフジテレビの「ホンマでっか!?TV」とか、TBSの「ジョブチューン 〜アノ職業のヒミツ ぶっちゃけます!」といったバライティを時間があると先に見る習慣になっているので、やっと今朝(3月30日日曜日)になって録画で見直して、下村博文の発言が如何にバカげているか取り上げてみることにした。
取り上げてみることになった理由の一つに3月28日になって、親の所得が子どもの学校の成績に影響を与える関連性を伝える記事を目にしたからでもあった。
但し、所得格差が教育格差へと関連して、それが世代間連鎖へと拡大していく現象は既に前々から言われていたことである。子どもの教育にしても、投資によって成り立っているのであって、国や地方自治体の教育への予算という名の投資は子どもにほぼ平等に行き渡ることはあっても(予算で採用された教員の質によって平等が微妙に崩れることはある)、親の投資は如何にカネをかけることができるかの財力に負うことになって、必然的にそこに格差が生じることになる。
但しこのような構造を支えている日本人の精神性は金権精神とは関係ない。
記事の一つ。《親が高所得ほど子の成績良好》(NHK NEWS WEB/2014年3月28日 16時18分)
文部科学省が昨年2013年4月実施全国学力テスト参加の小学6年生と中学3年生保護者のうち約4万人を抽出、テスト結果と家庭状況との関連性をアンケートしたものだという。
その結果、所得などが高い程テストの正答率も高くなる傾向が見られた。
算数や数学の活用力を問う問題では、所得や学歴が最も高いグループと最も低いグループとで正答率に20ポイント余りの差が出た。
但し、所得等が最も低いグループで正答率が上位4分の1に入っていた子どもの場合は、幼い頃に絵本の読み聞かせをしたり、新聞や本を読むよう働きかけたりしていると答えた保護者が多かったほか、毎日、朝食を摂るなど規則正しい生活をしているといった特徴があったという。
アンケート分析担当者の一人。
耳塚寛明お茶の水女子大学副学長「家庭環境が子どもの学力に大きく影響し学力格差につながっているが、家庭での取り組みが難し くても学校できめ細かく指導することで学力を伸ばすことはできる。教員を増やすなどの対策のほか保護者の雇用の安定など社会的な支援策も必要だ」――
副学長が言っていることは、是正可能性であるが、アンケート対象は義務教育の小中学生の保護者限定であって、義務教育外の高校・大学の保護者が対象ではない。義務教育でありながら、小・中学校で親の所得格差が子どもの教育格差となって既に現れている傾向は、この傾向をつくり出している日本人の精神性が如何に強固に働いているかの証明でしかなく、そのことを考えた場合、義務教育外の上の学校に進む程に日本人の精神性はより強固に働くことになって格差はより確実性を持ち、大学受験時には決定的な格差となって現れるだろうことを考えると、簡単には是正できないように思える。
だが、副学長はこのことの視点を欠いている。
同じ内容を伝えているもう一つの記事を見てみる。《高収入・高学歴の家庭、学力も高く…文科省調査》(YOMIURI ONLINE/2014年3月28日16時55分)
年収が「1500万円以上」と「200万円未満」の家庭では、学力テストの平均正答率が小6で最大26ポイント、中3で最大23ポイントの差。
知識の活用力などを見る小6の算数のB問題の場合。
親の年収が「1500万円以上」の子どもの平均正答率は71・5%
親の年収が「200万円 未満」の子どもの平均正答率は45・7%
中3の数学Bの場合。
親の年収が「1500万円以上」の子どもの平均正答率は53・4%
親の年収が「200万円未満」の子どもの平均正答率は30・0%と差
小中学生の段階で既に親の所得格差がNHK記事も伝えているように20%以上の成績格差となって現れている。まして高校・大学の段階での格差を推して知るべしや、である。同じ20%程度で推移したとしても、その20%の差の固さは如何ともし難い突き崩すことのできない壁となって立ちはだかるに違いない。
では、『ビートたけしのTVタックル』で放送された、必要箇所だけを抽出した教育格差を見てみる。
このコーナーの最初の方で親の所得格差が子の教育格差の世代間連鎖の象徴的な例として小学校6年生対象の中学受験のための塾費用について取り上げている。
都内の東大合格率の高い有名塾。
年間費用 約115万円(授業料・教材費その他)
栄光ホールディングス(株)広報室長の発言。
横田保美(男性)「受験の最後の1年間の追い込みですね。小学校6年生1年間でおよそ115万円の費用がかかります。ちょっと高いなあという印象を持たれるかもしれませんが、少人数指導で、難関中学のとても高度で、応用の高い、工夫された問題を解くには、それだけの専門指導をしていかなきゃいけません」
解説「年間100万円以上の(学校外の)教育費となると、年収300万~400万の家庭では気楽に出せる金額ではない」
「年収300万~400万の家庭」でも、子どものために無理して出している親も存在するかもしれない。だが、「少人数指導で、難関中学のとても高度で、応用の高い、工夫された問題を解く」「専門指導」を授かるためには、親の所得が年収500万円以上の選ばれた子どもしか安心して利用できないという制限を小学校生のときから受けることになる。
阿川佐和子(司会者)「先ず下村大臣にお伺いしたいんですけども、格差の勢いというのはどんな感じでご覧になっていらっしゃいますか」
下村博文「あのー、私もですね、母子家庭で、9歳のときに父が交通事故で亡くなって、で、当時から極貧生活だったんですが、ま、当時よりもですね、今の方が、もっと格差が進んでいて、ま、残念ながら、この経済的な格差が教育格差で、負の連鎖がどんどん続いているという、深刻な状況だと思いますねえ。
貧困がまた、貧困を生むという、固定化しているっていうのが、この国の、その、さらなる硬直化につながると思いますから、非常にまずいと思いますね。これを変えていかないと」
何のことはない、教育行政を預かる身でありながら、教育に関心のある者なら誰でもできる表面的な分析にとどまっている。下村博文は現在59歳。後1ヶ月ちょっとで60歳になる。この50年間で当時よりも経済格差が教育格差へと連動していった原因、あるいは経済格差が教育格差を生むそもそもの原因が何に起因しているのかの分析が何一つない。
また、50年間の教育格差と連動した経済格差の進行は、それを是正することのできなかった政治の無力を物語る社会傾向でもあるはずだが、そのことに向ける目を持たずに、今さらながらに「非常にまずいと思いますね。これを変えていかないと」というノー天気は、果たして大臣が口にする言葉なのだろうかと疑わないわけにはいかない。
下村博聞の頭の足りないところを小池晃共産党議員が補った。
小池晃共産党議員「問題はどうするかって言うことで、OECD加盟している国で大学の授業料が無料、もしくは給付制の奨学金が全部ありませんよね。日本は学費は取るし、奨学金は利子をつけて返さなければいけない。やっぱ、これを変えなければいけないですよ」
確かに授業料無料化や奨学金給付化へと制度を変えていかなければならないだろうが、それだけでは解決できない問題の存在に気づかない。
このことはあとで纏めて話す。
親の所得に応じた子どもの塾の利用が成績を分ける話題となる。
阿川佐和子「塾に行かないと、ドロップアウトされちゃうんですか」
勝間和代(評論家)「入学・入試自体が塾に行かないと受からない仕組みになっている。中学受験にしろ、大学受験にしろ」
下村博文「受験勉強についてはやっぱり、その、どんどん加熱してきている。個人の努力だけでは、なかなか合格できない。まあ、そういう意味では、そのテクニック的な、技術的な部分で、塾とか予備校とか家庭教師にどの程度学べるかどうかで合否が決まる。残念ながらね」
相変わらず表面的な分析のみで文部科学省大臣で御座いますの役目履行となっている。
ここで、「教育機関への公的支出(GDP比)」(出典OECD )のキャプション
OECD平均 5.8%
日本 3.8%
下村博文「2%(の差)でも、額で言うとですね、10兆円くらいの額ですね。文部科学省の今年度の予算が、科学技術入れてもですね、5.4兆円ですから、これは相当ですね・・・・」
阿川佐和子「科学技術に取られちゃいますねえ」
下村博文「入れても、5.4兆円ですから」
大竹まこと「どう考えても、少な過ぎると思いませんか、日本の(予算は)」
下村博文「思います」
小池晃「高校のだけではなくて、大学まで無償にできると、大臣、答弁されてるんじゃないですか。やっぱり、そのくらい目指していかなければいけないし、すぐにそこまでいかなくても、例えば高速増殖炉もんじゅって、4000億円・・・・」
周りで一斉に笑い声を上げたために聞き取れない。
下村博文「もんじゅは別にしてね、例えば、私大臣なんですけどね、第2次教育振興基本計画にそれを書き込もうと思ったんですよ。つまり、OECD並みのね、ま、平均ですから、それくらいを出すのは当たり前の話で、そしたらなかなか財務省が財源を・・・・・」
勝間和代「文教族の議員が非常に力が弱くて――」
下村博文「そんなレベルじゃない。文教族が弱いとか、そういうんじゃなくてね、今の、今までの日本の社会コンセンサスっていうのは、やっぱ、社会保障と言えば、お年寄りの年金・医療・介護で、子どもは広い意味では社会保障と把えていなくて、それは、まあ、自助努力だと、本人が頑張って、貧しい家庭の子どもだって、東大、早稲田、慶応行けるんじゃないかと。
本人の努力が足らないんだという、それまではそういう意識がありました。(何人かが頷いている。)
今日、もっと格差社会が進んでいて、まあ、本人の努力以上に環境がやっぱ影響するから」
現役東大生の花房孟胤が教育格差をなくすために自身が授業を行っている動画をインターネットで無料配信する「manavee」を立ち上げて、共感した大学生らがボランティアで参加、その輪を広げた活動の紹介。
予備校等の授業動画は年間1講座約7万円だとのキャプションが出る。
下村博文「私が既に着手しているのは、大学入試試験が今のままではいいとは思えないんです。日本みたいに学力一発勝負の一点機材のテストで、その先社会でどんな能力を発揮するという意味で、還元性があるのかと考えたら、それはさっきから出ているように、学力よりも志ですね。
その後大学へ入って、何を学ぶか、社会に出て何をするのか。
ですから、大学入学試験の仕方も、こういうふうな学力一発勝負ではなくてですね、高校時代のトータル的な、あの、クラブ活動とか、生徒会とかのリーダーシップとか、ボランティア活動とかを含めた、大学入学試験が、そういう面接とか、小論文とかですね、トータル的にどう人間力を判断するかというふうに変えていかなくてはいけない」
・・・・・・・・・
下村博文「大切なのは(大学に)入るときに、力を入れて、後は関係ないと。問題は大学教育も出口を厳しくして、きちっとした大学で学んで、大学側も責任を持って社会に送り出すという、入学試験を出口を含めた大学教育そのものを根本的に変えていかなければならない、そういう時期にきている」
これが下村博文の親の所得差は子どもの教育格差の世代間連鎖に向けた解決策の結論である。
所得格差が教育格差を生み出している社会状況は日本人の精神性から出ていると既に触れたが、いわば日本人全体がつくり出した完成物としてある社会状況であるはずである。日本以外の国で日本と似たような状況があるとしても、そこに共通点を見出すことができたとしても、あくまでもその国の国民全体がつくり出すことになった社会的状況であるはずである。
繰返すことになるが、日本の所得格差は学歴格差という状況は日本人性がつくり出した。
では、どのような日本人性かというと、日本人は本質的には権威主義を思考様式・行動様式としている。人間の営為によって形作られる社会生活上の様々な形式を上下に権威づけて、上下の権威に従って思考し、行動する権威主義である。
学歴・地位・職業・家柄・財産の程度等々の社会生活上の様々な形式を上下に権威づけて、その権威づけに従って上下に価値づける。
学歴で言うと、東大や京大等の一流有名大学を最上位に権威づけて、無名大学程下位方向の権威つけを行い、その上下の権威に従って上下に価値づける権威主義を日本人性としている。
かつて小学校6年だけが義務教育であった戦前(昭和16年に高等科2年が加えられたが)、職人の子や小商人の子は親の家業を継ぐことが慣習となっていて、この手の職業には学問は要らないからと、一般的には子どもがいくら勉強好きでも、いくら学校の成績が優秀であっても、上の学校には行かせて貰えなかった。
これが自らの職業を下に権威づけた者の“分を弁える”社会を生きる知恵とされていた。
いわば各種職業自体を上下に権威づけて、上に権威づけた職業には上の学歴が必要だとか、下に権威づけた職業には小学校以上の学歴は必要ではないとか、権威主義に応じた価値観で判断された。
だが、戦後義務教育が小学校6年・中学校3年までとなって、日本が高度成長期に入ると、中学校を卒業して金の卵と持て囃されて親の家業から離れて会社勤務や工場勤務に労働移動するようになると、権威主義社会であることに変わりはなく、そこに学歴による地位の格差が既に存在していたことを知ることになって、その格差解消を自らの子どもに託すことになり、高卒進学が年々増加することになった。
最低高卒を手にすれば、汗や脂にまみれずに事務所で働く地位を獲得できるからであり、それを人並みであることの基準とした。
だが、高校進学率は1974年度に90%を超えたということだが、高卒がほぼ当たり前になると、汗や脂にまみれなければならない工場勤務は中卒ではなく、高卒によって占められていくという滑稽な現象が生じることになったが、当然、金銭的に余裕のある親は子どもを更に上の大学卒を望むようになる。工場内での出世ではなく、事務所内での出世を望むようになっていったということである。
工場内での最高の地位である工場長よりも、事務所内の常務や専務、社長・会長をより上の権威と価値づけているために後者の地位を欲を言えばと狙うためには、その地位を得るための一般的な条件となっている大卒を先ずは手に入れなければならない。しかも、同じ大卒でも、上位に権威づけている有名大学卒がより上位の地位を得るためには有利となるということで、単なる学歴競争を超えた自己権威づけ競争が生じることになる。
このような価値づけは世間的に作業服よりもホワイトカラーが尊重されていることに現れている。
そして学歴競争、あるいは自己権威づけ競争が年々激しくなって早い年齢から備える必要が生じて低年齢化することになり、それが現在の大枚のカネをかけた、有名大学合格実績を持った有名進学塾を利用した中学受験競争となって現れているということであろう。
子どもが有名進学塾で学ぶこと自体が既に自己を権威づける、あるいは親が自分の子供を権威づける機会となっている節があり、この面からの競争原理も働いていている格差競争と言えないこともない。
学歴や地位等を上下に権威づける権威主義とは、既に触れたように、それらが人間の営為によって形作られる社会生活上の形式であるにも関わらず権威づけを行っているのだから、そこに裸の個人・裸の個の価値を重要視しない思想を内在させていることになる。
貧しいがゆえに大学に行くことができなかった人間であっても、機会さえ与えれば、志高く優れた能力を発揮する人間はいくらでもいるはずだが、個人を見ずに学歴という権威を基準にその人間を判断するために、優れた能力を発揮する機会さえ与えられないケースが多々あるはずだ。
だとすると、このような権威主義から脱しない限り、例え大学授業料を無料にしたとしても、奨学金の給付化を実現させたとしても、下村博文が言うように、「学力一発勝負ではなくてですね、高校時代のトータル的な、あの、クラブ活動とか、生徒会とかのリーダーシップとか、ボランティア活動とかを含めた、大学入学試験が、そういう面接とか、小論文とかですね、トータル的にどう人間力を判断するかというふうに変え」ることができたとしても、既に前々から言われていることをさも自分の主張であるかのように繰返したに過ぎないのだが、それらが極々当たり前に一般化した場合、いわば受験のために殆どの生徒が右へ倣えの選択を行った場合、やはり最終的にはカネをかけた受験回答のテクニックが合格のためにモノを言うことになる。
面接にしても小論文にしても、そのテクニックを教える塾が現れるだろうし、その教えに従って前々から備えて訓練に励むことによって手に入れることのできる技能に過ぎなくなる。
例えば面接や小論文、そして学力試験を用いた1人採用枠の入社試験で受験の二人がほぼ同じの成績で、どちらを採用するかと迫られた場合、大学のランクの上下や、ランクが同等の場合、親の地位や職業がより上であることを採用の基準としない保証があるだろうか。
親の存在性がより上であることを以って安心感を得る材料とした場合、権威主義の思考様式・行動様式が働いた決定となる。
権威づけよって価値判断の基準とするということはまた、冒険をしない精神性の現れを意味する。権威づけに従属するだけで、自身の主体的な判断を活用しないからだ。
だから、金銭的担保のないアイディアの内容のみに投資するといった冒険が日本人には不得手となる。
ボランティアによる無料動画で多くの優れた知識を学んだとしても、それが高卒であった場合、余程の学力の差を証明しないことには、日本人が囚われている権威主義性から判断した場合、同じ程度の知識の大卒を入社の対象とすることになるはずだ。
要するに権威主義に縛られている間は、下村博文が言う、「トータル的にどう人間力を判断するか」の価値づけは有効な力を持ち得ないということである。
日本人の思考様式・行動様式となっている、何事も上下に権威づける権威主義が原因をなしていることを頭に置かない下村博文の所得格差が子の教育格差の世代間連鎖の是正策は決して有効足り得ない。
人間を個の価値観で判断せずに、子どもの学力や学歴で人間を判断し、親の地位や職業や財産、家柄で人間を判断する。
安倍晋三の「女性の活躍」にしても、日本人が伝統としていた、男と女を上下に権威づけた男尊女卑の名残りである権威主義からの男女差別意識を排除しないことには、「女性の活躍」がパートとかアルバイトとかの低収入の場での活躍で終わり、広い意味での真の活躍とはならないのと同じである。
いずれにしても、下村博文の心許ない的外れな教育論でしかなかった。
《生活の党PR》
《3月24日(月)、小沢一郎生活の党代表定例の記者会見要旨》
『鹿児島県補選、皆でまとまれば必ず勝てる』
【質疑要旨】
・大阪市長選挙について
・国家戦略特区について
・鹿児島県2区補欠選挙について
・結いの党との合流報道について
《3月30日(日) 鈴木克昌生活の党代表代行・幹事長NHK『日曜討論』出演》
【放送内容】
○外交・安全保障について
○集団的自衛権について
○消費増税で景気はどうなるか等
3月26日(2014年)、韓国軍合同参謀本部が北朝鮮が同日未明、最大射程距離1300キロ、日本を射程圏内に収め得る中距離弾道ミサイル「ノドン」と推定されるミサイル2発を日本海側に発射したと発表した。
この発射は北朝鮮の核兵器や弾道ミサイルの開発を禁止する安保理決議に違反する。当然、違反を承知で発射し、例え新たな安保理決議に中国が反対してくれたとしても、発射に対する各国独自の追加の経済制裁や金融制裁等は免れることはできないだろうことを承知で発射したはずだ。
ましてや中国が反対しなかったケースを想定した場合、各国共同の一段厳しい経済制裁や金融制裁を招くことになって、素直に考えた場合は北朝鮮を経済的困窮状態に追い込むことになる。
これくらいの危機管理を頭に入れて、北朝鮮はノドンを発射したはずだ。
このことの裏を返すと、新たなミサイル発射によって想定される経済制裁や金融制裁が北朝鮮の国家運営に決定的に打撃を与える程ではないとの計算に立った発射ということになる。
もし逆であるなら、安保理決議違反のミサイル発射は国家体制的にも国家経済的にも相互関連的な自殺行為となる。
いわば経済制裁や金融制裁が制裁としての役目を果たさず、金正恩体制に対する決定的な圧力となっていないということにならないだろうか。
経済制裁や金融制裁のこの圧力無効はその背景に中国の存在を無視することができないことは誰の目にも明らかである。北朝鮮が昨年2013年2月に3回目の核実験を行った際には制裁措置を大幅に強化する安保理決議を中国も賛成して全会一致で採択していながらである。
現実問題からしても、〈2013年の中国と北朝鮮の貿易は前年比10.4%増の65億4,700万ドルで、過去最高だった2012年の59億3,100万ドルを6億ドル余り更新した。〉と、次の記事、《2013年の中朝貿易は10.4%増で過去最高を更新》(ジェトロ中国北アジア課/2014年3月4日)が伝えている。
〈とりわけ注目されている原油の輸出は、数量では2010年から2012年までは52万トン台で推移していたが、2013年は北朝鮮が中国の反対にもかかわらず核実験を行ったことから、減るのではないかとの見方もあったが、57万8,000トンと10%程度増加した。〉という件(くだり)は、中国の北朝鮮に対する関係を物語って余りある。
中国は北朝鮮を貴重な外交カードとし、北朝鮮の保護者として振舞っている。上記記事は、〈ただ、中国と太いパイプを持つとされた張成沢氏が2013年末に粛清されたことで、今後の中朝貿易に影響が出てくるか注目される。〉と北朝鮮にとっての懸念を書いているが、中国の人権状況が比較善と映る最悪の人権状況を抱え込んだ北朝鮮の、この観点からの体制維持の必要性は張成沢粛清を呑み込んで、その価値を失うことはないように思える。
北朝鮮が経済の現状から飛躍するためには日本の戦争賠償や経済支援が必要だろうが、中国の保護のもと、国家体制と経済体制を維持可能な経済状況に置いているなら、いわば経済制裁・金融制裁という圧力を無効とする状況にあるなら、多くの北朝鮮国民が信じて止まない金正日の正義を、拉致問題によって万が一生じるかもしれない剥奪する危険を冒すとは考えられない。
簡単に言うと、金正日の正義と拉致問題解決を交換するかということである。交換しなければならない切羽詰まった経済状況にあるなら、交換の可能性も生じるが、そうでなかったなら、わざわざ交換する必要は生じない。
それに北朝鮮にとって先ず解決しなければならない優先順位の第一番はアメリカとの間で北朝鮮の核の保有を認めさせるかどうかであって、それが解決しなければ、日朝間で拉致問題が解決しても、日本は戦争賠償や経済支援に動くことはできないはずだ。その資金が北朝鮮の独裁体制維持資金や核開発資金、ミサイル開発資金に回されることは予定事項としなければならないからだ。
北朝鮮のノドン発射によって、以上のような状況を読み取らなければならないはずだが、読み取りが間違っているというなら、論外だが、この読み取りに立って、日本政府の対応を見てみる。
3月26日のノドン発射2日後の3月28日閣議後記者会見。《北朝鮮が誠意みせれば制裁緩和も》(NHK NEWS WEB/2014年3月28日 12時15分)
3月30日に再開される北朝鮮との政府間協議について。
古屋拉致問題担当相「協議に応じてきているのは北朝鮮の変化の表れだ。『交渉を進展させなければ、国が立ちゆかなくなる』ということを、北朝鮮にしっかり理解させなければいけない。
我々の基本原則は行動対行動なので、もし今後、北朝鮮が拉致問題の解決、拉致被害者の帰国に向けて、誠意ある前向きな取り組みをすれば、わが国独自の措置というのは段階的に解除されるということは当然ありえる」――
古屋は「交渉を進展させなければ、国が立ちゆかなくなる」と言っているが、安倍晋三も同じ趣旨のことを言っている。
安倍晋三「日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ。
そこで思い切って大きな決断をしようという方向に促していく必要がありますね。そのためにはやっぱり圧力しかないんですね」
この発言は一度きりではない。機会あるごとに同じような言葉を繰返している。
だが、これまでの経済制裁・金融制裁を使った圧力によって「国が立ちゆかなくなる」兆候は見せていないし、政権、国が崩壊する兆候も見せていない。当然、拉致交渉の進展が北朝鮮経済のプラスになることはあっても、国家存立自体の条件とはならないことになる。
条件となるなら、とっくの昔に全面解決に動いているはずだ。
だが、古屋にしても安倍晋三にしても拉致解決が北朝鮮存立の決定的な条件であるかのように言っている。この判断能力も問題だが、「誠意ある前向きな取り組みをすれば、わが国独自の措置というのは段階的に解除されるということは当然ありえる」と言っていることの判断能力はお粗末としか言いようがない。
各国の経済制裁・金融制裁が国家体制維持の決定的な圧力とはなっていないとしても、日本政府独自の制裁の段階的解除は核開発やミサイル開発等に対するアメリカの経済制裁・金融制裁の圧力を相対的に弱め、北朝鮮により有利な状況を提供することになる。核・ミサイル問題の解決を待たずに拉致問題進展を以って許される制裁の段階的解除なのだろうか。
上記記事は古屋圭司の発言に対する加藤官房副長官の発言を伝えている。
加藤官房副長官「古屋大臣は今月18日の記者会見で、 『拉致被害者が戻ってこなければ、 制裁の解除はおろか、1円の支援もすることはない』と述べており、今回もそういう趣旨で発言したものと理解している。そういう意味で、政府の方針とは何ら異なるものではない。今後の対応については、交渉とも関係することであり、具体的なことは控えたい」――
要するに拉致被害者が戻ってこれば、制裁の解除はあり得ると言ったことになって、何ら矛盾はないが、2003年8月27日~29日北京開催の6者会合での日本の立場を外務省HPは次のように説明している。
〈核及びミサイル問題更には拉致問題は日朝国交正常化の前に解決されなければならない。日朝国交正常化があってはじめて北朝鮮に対する経済協力を実施することとなる。拉致問題については、日朝間での具体的話し合いを通じて解決していく考えであるが、問題の包括的解決を図る上で、拉致問題の解決が不可欠。〉――
要するに米国、北朝鮮、日本、韓国、中国、ロシアの6カ国はこの6カ国を枠組みとして「核及びミサイル問題更には拉致問題」を包括的に解決していくことを日本の立場として約束した。拉致解決のみで日朝間に横たわる障害除去とはならないと自らに制約をかけたのである。
別の言葉で言い替えると、「核及びミサイル問題更には拉致問題」の包括的解決があって初めて、日本からの北朝鮮に対する経済支援、戦争賠償が核開発資金、ミサイル開発資金に回されることのない保障を得ると言うことになる。
もし核所有を認められたなら、日本からの支援が核開発資金・ミサイル開発資金に回す正当性を得ることになる。
このような見方からすると、古屋圭司の拉致問題担当相としての判断能力は程度が低いと言わざるを得ない。当然、安倍晋三の任命責任を問わざるを得なくなる。
安倍晋三が3月28日~3月30日から北朝鮮との政府間協議が再開されるの前にして首相官邸で拉致被害者家族と面会している。《首相 拉致家族と面会「全面解決図る」》(NHK NEWS WEB/2014年3月28日 19時34分)
安倍晋三「横田さん夫妻が孫のウンギョンさんと面会を果たすことができたが、すべての拉致被害者の家族の皆さんが、その手ですべての家族を抱きしめることができるよう、安倍内閣としては、対話と圧力の基本姿勢のもとオールジャパンで取り組み、拉致問題の全面解決を図りたいと考 えている」
飯塚繁雄家族会代表「今回の日朝協議は拉致問題解決に向けた大きなチャンスだ。ここで終わらせずに今後につなげていくようお願いしたい」――
3月26日に北朝鮮が安保理決議に反するノドン発射に出た。ノドン発射は圧力ばかりか、対話をもその効果を無効とするサインでもあるはずだ。このサインを読み取る頭を持ち合わせずに安倍晋三は相変わらずバカの一つ覚えのように「対話と圧力」を言う。
「対話と圧力」の効果を無効としている理由は中国のバックに他ならない。
北朝鮮の人権に関する国連調査委員会が3月17日に国連人権理事会に提出した北朝鮮に関する報告書は「人道に対する罪」の責任者を訴追するため安保理に国際刑事裁判所(ICC、オランダ・ハーグ)への付託を勧告し、勧告を受けた国連人権理事会は3月28日、安保理に対して北朝鮮による日本人拉致などの人権侵害を国際法上の「人道に対する罪」に当たるとして、北朝鮮の責任者を処罰するための国際的な司法手続きを始めることや、国連人権高等弁務官事務所に新たな組織を設けて継続的な調査を行うことなどを要求する決議を30カ国の賛成多数で可決した。
但し中国やキューバなど6カ国反対票を投じている。安保理が国連人権理事会の要求を受入れたとしても、常任理事国の中国が安保理でも反対すれば、効力を失う。中国の賛成を得るために決議内容を弱めれば、決議自体の効力を最初から備えていなことになりかねない。
このように中国の北朝鮮に対するバックが効いている。
国連人権理事会が安保理に要求を出したのは安倍晋三が拉致被害者家族と面会した同じ3月28日となっているが、現地時間と日本時間の関係でどちらが後先か分からないが、例え国連人権理事会の方が後のことであったとしても、過去の例を教訓として以後の状況を読む目を持たなければならないはずだから、中国のバックを前提としない「対話と圧力」以外の何ものでもないことになる。
古屋圭司と状況判断が同じ程度だと言うことである。同じ程度だからこそ、安倍晋三は古屋圭司を拉致担当相として任命できたのだろう。
だとすると、安倍晋三の古屋圭司に対する任命責任どころか、自身の首相としての任務自体がその資格を失うことになる。
ウクライナ情勢を巡ってオランダで3月24日夜(日本時間3月25日未明)開催のG7=先進7カ国首脳会合後の対記者団発言。《首相 G7で協調行動で一致》(NHK NEWS WEB/2014年3 月25日 5 時37分)
安倍晋三「今回の会合では、ロシアへの対応、ことし6月のロシアのソチでのG8サミット=主要国首脳会議の取り扱い、ウクラナ支援を中心に濃密な議論を行った。
私から『力を背景にした現状変更は断固として許すことはできない。この問題はウクライナの問題にとどまらず、 特にアジアなど国際社会全体の問題だ』と申し上げた。私の考え方に対し複数の国から強い賛同の意見が表明された。今後も対話を継続し、この問題を平和的外交的に解決していくべきだ。
G7として、このたびの違法なロシアの行動を非難し、今後、協調して行動していくことで一致した。ソチのG8サミットには参加しないこと。そして同じ時期にベルギーのブリュッセルでG7の会議を開き、ウクライナ問題を中心に議論していくことを決定した。さらにウクライナ支援について、国際経済、世界経済、そしてウクライナの経済の安定のためにG7で一致団結していくことで一致した」――
記事付属の動画での安倍晋三自身の発言は次のようになっている。
安倍晋三「ロシアへの対応でありますが、私から、力を背景とした現状変更は断固として許すことはできない。そしてこの問題はウクライナの問題にとどまらず、 特にアジアなど国際社会全体の問題であると申し上げました。私の考え方に対して、ま、複数の国々から強い賛同の意見が表明されました。そして今後もですね、 対話を継続し、この問題を平和的外交的に解決していくべきだとこのように述べました」――
「私から、力を背景とした現状変更は断固として許すことはできない」と「申し上げた」。その主張に対して「複数の国々から強い賛同の意見が表明され」たと言うことになる。
要するに安倍晋三はロシアへのクリミア編入は「力を背景とした現状変更」だとする非難を自身から最初に言い出して、「複数の国々から強い賛同の意見が表明され」たのは自身の議論のリードによるものだとのニュアンスで自画自賛している。
但し「力を背景とした現状変更」に対する原状回復は「対話を継続し、この問題を平和的外交的に解決していくべきだ」と、議論のリードの割には、いわば自画自賛の割には遥かにトーンダウンしている。
なぜなら、対話は継続されるだろうが、もはや「平和的外交的」解決策の選択肢はないからだ。
いや、このような選択肢は力の信奉者プーチンに対しては最初からなかった。欧米の対ロシア制裁が実効性を挙げて経済的・政治的に追い詰めることが原状回復の唯一の解決策となることは誰の目にも明らかである。制裁を手段とした解決策は欧米は勿論、日本にしても経済的な打撃を受ける可能性から、到底、「平和的外交的」解決策とは決して言えない。
いわば話し合いという意味での「平和的外交的」解決策が有効であるなら、プーチンはロシア軍をクリミアに送り込み、それを増派させることもしなかっただろうし、ロシアの伝統的な軍事社会集団「コサック」のメンバーまでも送り込むといった念入りなこともしなかったろう。
ロシア6月開催予定の主要国(G8)首脳会議へのG7参加中止は「平和的外交的」解決策が絶望的であることからの一つの制裁であろう。
要するに、「平和的外交的」解決策がプーチンに対してもはや決定的に無効な状況下で、安倍晋三が「私から、力を背景とした現状変更は断固として許すことはできない」と議論をリードした以上、日本が制裁の点でもリードすることが整合性ある態度となるはずだが、相変わらず直接的な対ロシア制裁の点では腰が引けた状態で、無効でしかない「平和的外交的」解決策を口にするのみとなっているのだから、議論のリードが、実際に行ったとしても、如何に形ばかりなのかが分かろうというもので、当然、非難は口先だけ、ハッタリでしかない自画自賛ということになる。
大体が欧米は「現状変更は断固として許すことはできない」という意思表示を制裁という具体的な形で既に実際行動に移しているのである。
右派親ロ派のヤヌコーヴィチ政権に対する激しい反政府デモを経て、最高議会による2014年2月22日の大統領解任決議によって大統領はロシアに逃亡、政権崩壊を受けて、プーチンは3月1日、ロシア系住民保護を理由にウクライナへのロシア軍投入の承認を上院に求め、同3月1日、ロシア上院はクリミアへの軍事介入を承認。プーチンはクリミア半島内のロシア系住民保護を名目に軍事介入を開始。
これ以前から、ロシア軍と分からない装備で既にクリミア自治共和国に軍を進めていたという情報もある。
アメリカはオバマ大統領とプーチンとの電話会談や外相会議等を経て、いわば「平和的外交的」解決の話し合い・模索を経て、3月7日、オバマ大統領はクリミア自治共和国制圧に向けた軍の活動活発化を見せているロシアに対して政府高官へのビザ発給制限などの制裁を発動している。
そして3月16日のクリミアでロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施されたことを受けて、翌日の3月17日、オバマ大統領はロシア政府高官らの資産凍結と渡航禁止の第2弾目となる制裁発動に踏み切った。
さらに4日後の3月20日午前、オバマ米大統領がホワイトハウスで声明を読み上げ、ロシアがクリミア編入の既成事実化を進めた場合、対象を一連の行動に関与したロシア政府高官ら20人と関連する銀行を含めてロシアの主要産業への制裁を可能にする大統領令に署名したと発表。
EUも3月6 日の渡航の際の査証 (ビザ)免除などに関するEU とロシアの交渉凍結決定にひき続いて、アメリカの追加制裁に追随、3月20日、クリミア併合に関係したロシア人とウクライナ人合わせて12人対象の資産凍結や渡航禁止といった追加制裁措置を決定している。
これらの制裁はクリミアのロシア編入はウクライナ憲法と国際法に対する明らかな違反であって、「ウクライナの主権と領土の一体性尊重」の立場からの実際行動であって、いわば安倍晋三がG7の場で議論をリードしたと自画自賛している、「私から、力を背景とした現状変更は断固として許すことはできない」と「申し上げた」意思表示に相当する。
実効的な実際行動に既に移している欧米に対する安倍晋三の実効的な実際行動を伴わせることのない議論のリード、自画自賛ということになる。
欧米の制裁が既に実効性を上げていることはロシア経済発展省の3月24日の発表が証明してくれる。今年1月から3月までの第1四半期で投資家がロシア国外に資金を引き上げるなどした海外への資本流出が最大で700億ドル近く、日本円にして7兆1600億円余りになるという見通しを示したと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。
さらに別の「NHK NEWS WEB」記事が、世界銀行が3月26日、クリミア編入によってロシアと欧米各国との対立が長引いた場合、貿易などを対象にする制裁強化が行われなくても、ロシアの企業が投資に必要な資金を海外から確保するのが難しくなると指摘、投資の急激な落ち込みによって、今年のロシアの成長率が去年12月の予想のプラス2.2%よりも大幅に下がり、マイナス1.8%になるとの見通しを示している。
勿論、既に触れたように欧米も日本もその影響を受けるが、オバマ大統領は追加制裁の声明発表時に、「新たな制裁で、ロシア経済だけでなく、世界経済も打撃を受ける恐れがある」(日経電子版)と、その影響を既に覚悟している。
オバマ大統領の制裁に現れているこの意志強固な「ウクライナの主権と領土の一体性尊重」の絶対性から見た場合、安倍晋三の「私から、力を背景とした現状変更は断固として許すことはできない」と「申し上げた」議論のリード、自画自賛からは絶対性のカケラも探すことはできない。
自画自賛の自己宣伝だけは一人前のようである。
《生活の党PR》
《3月20日(木)鈴木克昌代表代行・幹事長平成26年度予算可決・成立参議院本会議終了後定例の記者会見 10月23日(水)鈴木克昌代 表代行・幹事長定例記者会見要旨》
平成26年度予算、しっかりとチェックをしていく』
【質疑要旨】
・野党連携について
・集団的自衛権に関する議論について
・国民投票法改正案への対応について
・石原環境大臣の委員会遅刻への対応について
安倍晋三は、そもそもからして主権が国民に所属する以上、個人の理想的な在り様の追求の上に国家形成が成されなければならないのだが、理想的な国家追求を優先させて、国民を理想的な国家追求の奉仕者に仕立てる国家主義者である。
女性の社会参加も働き方の多様化を図る雇用改革も、国家経済優先の政治であって、国家経済に資する目的からのそれぞれの利用に過ぎない。結果として、雇用者は国家に対する奉仕者に位置づけられることになる。
男女平等の思想に立った女性の社会参加でもなければ、雇用者平等の考えからの雇用改革でもない。もし双方共に平等を図る女性参加であり、働き方の多様化であるなら、学歴とか職歴に関係なしに従事する仕事の能力だけを見て、同一労働・同一賃金の平等化を図るべきだろう。
あくまでも賃金抑制の観点に立った女性の社会参加であり、働き方の多様化であって、結果として国家経済優先の国家主義に支配されることになる。
このような国家主義者である安倍晋三が2013年4月27日に千葉市幕張メッセ・イベントで陸海空自と米陸軍ブースを訪れて迷彩服を着用、飛行ヘルメットを頭に被って戦闘兵士に早変りし、展示中の陸自最新型戦車「10式戦車」に試乗して、晴れ姿を披露するかのように右手を得意げに上げる。
さらには2013年5月12日、宮城県松島市の航空自衛隊基地を訪れて、飛行服に身を包まなかったものの、T-4練習機に試乗して、ご丁寧にも得意気に左手の親指を突き立て、右手の親指を突き立てる。
常々「積極的平和主義」を掲げている安倍晋三である。国家主義者の「積極平和主義」とは国家優先・国民従属の積極平和主義という構造を取ることになって、そのこと自体が逆説性を帯びていることになるが、戦車と練習戦闘機に試乗して得意がる積極的平和主義者というのも極めて危険な逆説性としか言いようがない。
果たしてこのような積極的平和主義者が世の中に存在するのだろうか。極めて稀な例に違いない。
積極的平和主義者が戦車に乗り、練習戦闘機に乗った!!!!!!
得意気に親指を突き立て、右手を上げて得意げなポーズを取った!!!!!!
安倍晋三の頭の中では機銃掃射し爆弾を落とす戦闘機にこそ積極平和主義者が乗り、大砲を撃ち込む戦車にこそ乗り込むと考えているのだろう。
外交をこそ優先的属性とすべき積極的平和主義者が戦車や戦闘機をアピールする。安倍晋三は積極的平和主義者を名乗りながら、軍事をアピールしたのである。
《生活の党PR》
《3月25日民主党・みんなの党・結いの党・生活の党4党共同『東日本大震災復興特別区域法改正案』衆議院提出》
3月23日日曜日のフジテレビ「新報道2001」。《【新報道2001抄録】河野談話、新事実出れば新たな談話発表も 萩生田氏》(MSN産経/2014.3.23 19:35)
司会者「慰安婦募集の強制性を認めた『河野談話』の検証について。嘘が明らかになれば見直しをせざるを得なくなるのか」
萩生田光一「新たな事実が出てくれば新しい談話を発表すればいい。安倍晋三首相は『見直しを考えていない』と言ったが、新しい談話を出すことを否定していない」
松原仁民主党「石原信雄元官房副長官が国会で裏付け調査をしていないと言った。日 本の名誉に関わるので事実関係を明らかにしたいという国会の思いがあって当然だ」――
萩生田が言っている「新たな事実」とは「河野談話」が歴史的事実だとしている従軍慰安婦募集への旧日本軍の関与と募集の拉致・連行の強制性の否定を前提とした「事実」であって、安倍晋三がいくら「見直しを考えていない」と言っても、「出すことを否定していない」「新しい談話」は見直しそのものの内容となる。
しかも安倍晋三は第1次安倍内閣で「河野談話」を既に否定している。安倍内閣が「河野談話」の定義自体が変わったとしていることについての辻元清美の質問書に対して2007年3月16日に「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」とする答弁書を閣議決定、これが「河野談話」自体の否定となる。
但し否定しながら、〈(河野)官房長官談話は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである。〉として、〈政府の基本的立場は、官房長官談話を継承しているというものであり、その内容を閣議決定することは考えていない。〉と、定義自体を否定しながら、内閣としては 「河野談話」を引き継ぐとしている。
但し否定に基づいた表面的な引き継ぎを構図とすることになり、その構図を現在も引きずっている。
そしてこの構図には妻としての価値は認めないが、夫婦関係は続けるといった類いの仮面性を見ないわけにはいかない。
菅官房長官は萩生田発言翌日3月24日午前の記者会見でその発言を否定しているが、その否定にしても、「河野談話」否定に基づいた表面的な引き継ぎという仮面性の観点から判断しなければならないことになる。
菅官房長官「今まで安倍総理大臣からそういうことを聞いたことはなくあり得ない。安倍総理大臣が国会でも明言しているように検証は行うが、そのことが見直しに及ぶことはあり得ない。萩生田氏の個人的な発言だと承知している。」
記者「戦後70年に合わせて発表したいとしている安倍総理大臣の談話に検証結果を反映させる可能性があるか」
菅官房長官「それはない。戦後70年に未来志向の談話を出したいということは当初から申し上げているとおりだ」NHK NEWS WEB)――
戦後70年に合わせた新談話発表にしても、「河野談話」否定に基づいた表面的な引き継ぎでしかない仮面性を纒わせたままであることの証拠は2012年5月11日の自民党政権獲得前の安倍晋三に対する産経新聞インタビュー発言に見ることができる。インタビューは尖閣の土地の国購入や日米関係にも及んでいるが、関係個所のみを引用する。
《【単刀直言】安倍晋三元首相 尖閣「国が購入すべき」 維新の会、石原新党と も「連携できる」 憲法96条改正で衆参ダブル選も》(MSN産経/2012.5.11 21:34)
安倍晋三「自民党も下野してずいぶん歯がゆい思いをしてきたが、ムダではなかったと思ってるんですよ。
例えば先日まとめた憲法改正草案は平成17年の新憲法草案よりはるかに良くなったでしょう。前文に「日本国は国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」と記し、国防軍も明記した。やはり与党時代は現行憲法に縛られ、あらかじめ変な抑制を効かせちゃうんだな…。
それにかつて自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない。これは大きいですよ」――
これが国家主義者・歴史修正主義者安倍晋三の「河野談話」、「村山談話」に対する仮面性を投げ捨てたホンネ中のホンネであることは疑い得ない。
にも関わらず、3月14日の参院予算委員会ではいつもどおりのホンネを隠して仮面性を纒わせた答弁を行っている。《河野談話をめぐる安倍首相・菅官房長官の発言詳細》(asahi.com/2014年3月14日12時29分)
菅官房長官の発言は省く。
有村治子自民「河野談話の内容は歴史的事実と受け止めているか」
安倍晋三「歴史認識については、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されている。安倍内閣としてはこれらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。慰安婦問題については筆舌に尽くしがたい辛い思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む。この点についての思いは私も歴代総理と変わりはない。
この問題についてはいわゆる河野談話がある。この談話は官房長官の談話ではあるが、安倍内閣でそれを見直すことは考えていない。歴史に対して我々は謙虚でなければならないと考えている。歴史問題は政治・外交問題化されるべきものではない。歴史の研究は有識者や専門家の手に委ねるべきだと考えている」――
有村治子は「河野談話の内容は歴史的事実と受け止めているか」と質問した。対して安倍晋三は「村山談話」や「小泉談話」に関しては「歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と答弁、「河野談話」に関しては「見直すことは考えていない」と答弁している。
この「見直すことは考えていない」が「歴史的事実」であるから「見直すことは考えていない」と言うことなのか、「歴史的事実」ではないが、「見直すことは考えていない」と言うことなのか、明確には答えていない。いわば「歴史的事実」であるか否かの答弁を避けている。
このことは第1次安倍内閣での「河野談話」否定に対応する答弁回避であるはずだ。
そしてこの答弁回避はまた、「村山談話」や「小泉談話」は安倍内閣として引き継いでいるとしているのに対して「河野談話」は「引き継いでいる」と安倍晋三自身の口から答弁していないこととなって現れている重複性であるはずだ。
以上見てきたことを結論づけると、「河野談話」見直し否定は第1次安倍内閣が「河野談話」が定義づけていた歴史的事実をそもそもから否定している以上、その否定に基づいた表面的な引き継ぎでしかない仮面性を纒わせていることに何の変化もないことになる。
と言うことは、萩生田総裁特別補佐は総裁特別補佐らしく、安倍晋三のホンネを代弁したに過ぎないことになり、菅官房長官の萩生田発言否定は内閣全体を監督する立場から、仮面性保持者としての役割を忠実に果たしたことになる。
歴史修正主義者安倍晋三にとって、「河野談話」否定に基づいた表面的な引き継ぎでしかない仮面性を纏い続けることが「歴史に対して我々は謙虚」と言うことになる。
オランダ・ハーグ核安全保障サミット出席のためにオランダを訪れている安倍晋三が「歴史の事実と向き合う」と二度述べたことを二つの「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。二つの記事共に3月24日(2014年)付である。
一度は「歴史の事実と向き合う」と言葉通りに言い、もう一度は「過去に向き合う」と、「歴史」という言葉を「過去」という言葉に置き換えて、同じ趣旨のことを発言している。
東京都内の図書館などで書物「アンネの日記」などが相次いで破られた事件が起きたことから、安倍晋三はオランダ訪問ついでにアンネ・フランクの家を訪れている。自衛隊基地を訪れてはヘルメットをかぶり。戦闘服に身を包んで戦車に乗り込んだり、私服ではあったが、戦闘機に乗り込んで得意気に親指を突き立てたりしているのだから、アンネ・フランクの家訪問は平和愛好家を見せかけるパフォーマンスに違いない。
安倍晋三「(書物が破られたことについて)大変残念な出来事だった。こうしたことが2度と起こらないようにしていきたい。
過酷な状況の中でも夢を持ち続けたアンネに、私も含め て多くの人が共感している。20世紀は戦争の世紀であり、人権が抑圧された時代だったが、21世紀はそうしたことが起こらないよ うにしたい。そのためにも歴史の事実と謙虚に向き合い、事実を次の世代に引き継ぐことで世界の平和を実現したい」――
「20世紀は戦争の世紀」だと言っていることは日本だけが戦争をしたわけではないとの相対化と情状酌量化の意味が込められている。
なぜなら、特に最も悲惨であった第2次世界大戦では日本はドイツと共に侵略側であったことを度外視しているからだ。
もう一度は3月24日未明のルッテ・オランダ首相との会談時のオランダとの関係についての発言である。日本は第2次世界大戦でインドネシアを植民地としていたオランダと戦争している。
安倍晋三「過去に真摯(しんし)に向き合いつつ、未来志向の外交を進めることを重視している。日本とオランダの平和交流事業のもとで、第2次世界大戦中の元戦争被害者らの心の和解と相互理解を継続したい」――
安倍晋三は合理的判断能力を欠き、頭が単細胞のに仕上がっているから、「歴史の事実」、あるいは「過去」を誰もが例外なく同じ解釈で把えているとする文脈で発言している。
「歴史の事実」の把え方、あるいは「過去」の把え方は全ての人間が同じだとは限らない。このことの証明は安倍晋三が絶好のサンプルとなる。
誰もが分かっている当たり前のことを言うが、把え方の違いが歴史認識の違いとなって現れる。にも関わらず安倍晋三は等しいとする前提に立った発言を行っている。
例え「歴史の事実」、あるいは「過去」を一般的な目とは異なる見方をしていたとしても、いわば一般的な歴史認識と異なっていたとしても、自らの歴史認識を正しいとしている以上、正しいとしているその歴史認識に忠実であることが真に「歴史の事実と謙虚に向き合う」 姿勢となるはずだ。
あるいは「過去に真摯(しんし)に向き合う」ことになるはずだ。
安倍晋三は従軍慰安婦募集に関して旧日本軍の関与と強圧等による強制性を認めた「河野談話」を、日本という国にとって「孫の代まで不名誉を背負わ」されたものと歴史認識している以上、ルッテ・オランダ首相との会談では日本軍占領下のインドネシアでオランダ人女性を未成年女性まで含めて日本軍兵士が彼女たちの意志に反して軍トラックに乗せて強制的に連行、過酷にも慰安婦に仕立てた「歴史の事実」、あるいは「過去」は根拠なき虚構と否定して初めて、「歴史の事実と謙虚に向き合う」 姿勢を真に演じることとなったはずだ。
あるいは「過去に真摯(しんし)に向き合う」姿勢を示すことになったはずだ。
さらに言うなら、「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていない」と言って戦前の日本の戦争の侵略性を否定している以上、日本の戦前の戦争は侵略戦争ではなかった、民族自決の戦争、あるいはアジア解放の戦争だったと断言することによって、歴史にも過去にも「謙虚」で真摯」という評価を得ることができるはずだ。
「歴史の事実」の把え方、あるいは「過去」の把え方から生じている自らの歴史認識を隠して、しおらしげに「歴史の事実と謙虚に向き合う」と言い、「過去に真摯に向き合う」と言う。
信用できないこの狡猾なゴマカシは如何ともし難い。
安倍晋三が3月23日、3月24・25両日開催のオランダ・ハーグ核安全保障サミット出席のため、政府専用機で羽田空港を出発した。現地ではサミットに合わせてウクライナ情勢に関する主要7カ国(G7)首脳会議や日米韓首脳会談も行われるという。
出発時の羽田空港での対記者団発言。
安倍晋三「唯一の戦争被爆国として、そして原子力先進国としてサミットに臨む。核テロ対策強化への日本の貢献を積極的に発信していきたい」(NHK NEWS WEB)――
「唯一の戦争被爆国」は日本のトレードマークとなっている。そこには何しろ戦争で原子爆弾を落とされた経験は日本だけだからといったニュアンスが込められている。その思いが、日本は他の国が経験したことのない唯一の核被害国だから、核問題について大いに発言権があるといった姿勢となって現れているはずだ。
日本の多くの政治家や評論家などが陥っているこのような一種の自負が安倍晋三の発言にも見て取ることができる。
経験の唯一性がある種の自負を生むことになる。
果たしてただ単に「唯一の戦争被爆国」であることを自らの経験として振りかざすだけでいいのだろうか。あるいは自負の側面でのみ「唯一の戦争被爆」の経験と把えて、だから悲惨な惨状を招くだけの戦争での核の使用には反対であると答を単純化させていいのだろうか。
物事には常に因果関係が存在する。原因もなく、「唯一の戦争被爆」という結果を招いたわけではない。その原因を検証しないままの「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化とその自負めいた振りかざしは被害者であることの位置づけのみを突出させることになる。
既にご存知のように米・英・中の三国が第2次大戦末期にエジプト・カイロで会談を開き、日本の戦後処理に関する連合国の基本方針を示す「カイロ宣言」を発した。
カイロ宣言はその最後で、「日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」と、日本の無条件降伏を戦争の最終目的とした。
そしてこのカイロ宣言はナチス・ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダムで開催され、1945年(昭和20年)7月26日に発せられた13条のポツダム宣言に受け継がれた。
ポツダム宣言の最後の13条に、カイロ宣言の最後と同じように、「我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について日本国政府が示す誠意について、同政府による十分な保障が提供されることを要求する。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ」と、日本に改めて無条件降伏を求めた。
ポツダム宣言発出の翌々日の1945年(昭和20年)7月28日、当時の鈴木貫太郎首相が記者会見で日本政府の態度を次のように表明することとなった。
鈴木貫太郎「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う。政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」(Wikipedia)
英米に対して戦争を継続するだけの能力を失っていたにも関わらず、無条件降伏によって懸念される「国体護持」(天皇制維持)の断固死守に執着していた軍部の圧力に屈し、ポツダム宣言を「黙殺」、戦争継続を宣言した。
1945年の主な歴史を振り返ってみる。
硫黄島の戦い(1945年2月16日~3月17日玉砕)
沖縄戦(1945年4月1日~6月23日)
ポツダム宣言――対日降伏勧告(1945年7月26日)
鈴木貫太郎首相「黙殺」の声明(1945年7月28日)
広島原爆投下(1945年8月6日)
ソ連、対日宣戦布告(1945年8月8日)
長崎原爆投下(1945年8月9日)
ソ連、対日開戦(1945年8月9日未明)
ポツダム宣言無条件受諾(1945年8月14日)
玉音放送(1945年8月15日)
日本の運命は既に始まっていた破局から1945年7月28日の鈴木貫太郎首相の「ポツダム宣言黙殺」の声明と軍部の「国体護持」の執着によって最終章の破局に向かって慌ただしく急転直下の変化を迎えることとなった。
こう見てくると、一種の自負を帯びさせることとなっている、トレードマーク化した「唯一の戦争被爆国」の経験――広島・長崎の2度の原爆投下は否応もなしに日本の「ポツダム宣言黙殺」と軍部の「国体護持」の執着の代償の色合いを帯びることになる。
となると、戦前日本の政治と軍部の在り様を原因とし、その結果としてあった、あるいは言葉を替えて言うと、戦前の日本の政府と軍部が加害者でもあった広島・長崎への原爆投下と位置づけることが可能となり、当然、その因果性を検証しないままの「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化、一種の自負経験はまさに滑稽な倒錯性から発しているとしか言い様がなくなる。
安倍晋三は元々戦前日本の戦争肯定論者である。滑稽な倒錯性は既にこの歴史認識に発している。その延長線上にある「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化、一種の自負経験の滑稽な倒錯性と言うことであるはずだ。
【謝罪】
昨日のブログ題名でトルコ首相の名前を「エルドレアン」と間違って表記してしまいました。本文中の表記は間違っていませんでしたが、あとで訂正しておきました。謝罪します。
謝罪ついでに、アメリカ政府のカーニー米大統領報道官が3月21日に早速声明を出し、エルドアン首相のツイッター遮断は表現の自由や民主主義に反すると「深い懸念」を表明、遮断措置を撤回するよう促したと、「MSN産経」記事が伝えていた。
この声明はアメリカ政府によるトルコ国民の言論の自由・表現の自由を守るための基本的人権上の集団的自衛権の行使と言えないこともない。トルコ国民の言論の自由・表現の自由を守る闘いにアメリカ政府が「声明」の形で共に闘うべく参戦した。
安倍晋三の自らのお友達に対する音無しの構えとは雲泥の差である。外国民の基本的人権の侵害に対して外国民と共に闘う集団的自衛権の考えは持ち合わせていない。
エルドアン首相のツイッター遮断に対して米ツイッター社がトルコ国民に対して結果的に集団的自衛権の行使となる迂回措置を公表している。
「日経電子版」が3月22日付の記事で伝えているが、勿論、「集団的自衛権の行使」という言葉は使っていない。
携帯電話のショートメッセージ機能を使った代替の投稿手段だそうで、メッセージの宛先に決まった数字を入力すると、内容が禁止措置をかいくぐってツイッター上に投稿される、いわば“自衛権”の行使で、2月にベネズエラ政府がサービスを遮断した際も同様の対抗策を取ったと伝えている。
この“自衛権”に加えて、ツイッター上ではネットの接続場所がトルコと分からないようにする“自衛権”も急速に拡散していて、〈調査会社によれば禁止後の半日でトルコ語による「つぶやき」は600万を超え、通常時より3割以上増加している〉と解説している。
集団的自衛権は何も軍事に限ったことではない。
安倍晋三が昨日(2014年3月22日)、防衛大学校の卒業式で訓示を行っている。首相官邸HPを覗いたが、日曜日の朝になってもアップされていない。インターネット上を探してみると、次の記事が全文を伝えていた。ここから必要な箇所を引用することにした。
《「現実を踏まえた安全保障政策の立て直しを進める」安倍首相が防大卒業式で訓示》(BLOGOS編集部/2014年03月22日 22:04)
安倍晋三「雪中松柏愈青青(せっちゅうのしょうはく、いよいよせいせいたり)」という言葉があります。
雪が降り積もる中でも、青々と葉を付け凛とした松の木の佇まい。そこに重ねて、いかなる困難に直面しても、強い信念を持って立ち向かう人を称える言葉です。
もちろん、このような事故(15年前の海上自衛隊機の墜落事故)は二度とあってはならない。我々はそのために全力を尽くさねばなりません。しかし、国家の存立にかかわる困難な任務に就く諸君は、万が一の事態に直面するかもしれない。その時には、全身全霊を捧げて、国民の生命と財産、日本の領土・領海・領空は断固として守り抜く。その信念を固く持ち続けてほしいと思います。そのために、どんな風雪にもびくともしない、あの松の木のごとく、諸君には、いかなる厳しい訓練や任務にも、耐えていってもらいたいと思います」――
安倍晋三「日本を取り巻く現実は一層厳しさを増しています。緊張感の高い現場で、今この瞬間も、士気高く任務に当たる自衛隊員の姿は、私の誇りであります。南西の海では主権に対する挑発も相次いでいます。北朝鮮による大量破壊兵器や弾道ミサイルの脅威も深刻さを増しています。
日本近海の公海上において、ミサイル防衛のため警戒にあたる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれない。これは机上の空論ではありません。現実に起こりえる事態です。そのときに、日本は何もできないということで本当に良いのか。
戦後68年間にわたる我が国の平和国家としての歩みは、これからも決して変わることはありません。現実から乖離した観念論を振りかざして、これまでの歩みを踏み外すようなことは絶対に無い。我が国の立場は明確です。
しかし、平和国家という言葉を口で唱えるだけで平和が得られるわけでもありません。もはや現実から目を背け、建前論に終始している余裕もありません。必要なことは、現実に即した具体的な行動論と、そのための法的基盤の整備。それだけです。私は、現実を踏まえた安全保障政策の立て直しを進めて参ります」――
安倍晋三「日露戦争の後、学習院長に親任された乃木希典陸軍大将は、軍人に教育などできるのか、との批判に、こう答えたと言います。どんな任務が与えられても、誠実に、真心をもって全力を尽くす。その一点では、誰にも、絶対に、負けない。その覚悟をもって、諸君にはこれからの幹部自衛官としての歩みを進めていってもらいたいと思います。
その第一は、何よりも、諸君を支えてくれる人たちへの感謝の気持ちです。乃木大将は、常に第一線にあって兵士たちと苦楽を共にすることを信条としていた、といいます。諸君にも、部下となる自衛隊員たちの気持ちに寄り添える幹部自衛官となってほしい。同時に、諸君を育んで下さったご家族への感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います」――
雪の中の松の木の譬えを持ち出して、「全身全霊を捧げて、国民の生命と財産、日本の領土・領海・領空は断固として守り抜く。その信念を固く持ち続けてほしい」にしても、乃木希典の喩えを利用した、「どんな任務が与えられても、誠実に、真心をもって全力を尽くす。その一点では、誰にも、絶対に、負けない。その覚悟をもって」にしても情緒的な精神論に過ぎない。このような精神論が勢いだけの突撃精神を生む。
必要とするのは合理的に考える力であるはずだ。否応もなしに人間が陥る恐怖や怯えや迷い、あるいは損得の打算と戦い、その時々で選択しなければならない行動を的確に把握して即座に実際行動に移す責任能力を発揮可能とする思考能力であるはずだ。
15年前の海上自衛隊機の墜落事故で殉職した二人の自衛隊員にしても、危機的状況に遭遇しても情緒一方の感情では決して成すことはできない、責任能力発揮可能な冷静な思考能力を失わなかった代償としてあった殉職であったはずだ。
戦前の日本軍は精神論に頼った勢いだけの突撃を主たる戦術としたがゆえに死を招くだけの玉砕を結末とすることになったと聞く。
安倍晋三は戦前の日本軍の精神論を引き継ぐ古い頭の持ち主であることをここで曝した。
ここで取り上げた安倍晋三の発言のうち、日本を取り巻く安全保障環境の厳格化以下の発言は自身が掲げている憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認を訴えたものであるのは誰の目にも明らかである。
それが「現実を踏まえた安全保障政策の立て直し」というわけである。
だが、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認であろうと憲法9条改正による集団的自衛権の行使容認であろうと、軍事面に限った自衛権に過ぎない。このことは「ミサイル防衛のため警戒にあたる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれないと言っていることが証明している。
但し、軍事だけが対外国問題の解決手段ではない。
今回のウクライナのクリミア自治共和国のロシア編入問題でも、クリミアがロシア系住民が人口の60%以上を占めると言っても、40%近くは他民族が存在することとウクライナの憲法を無視して、ロシアの軍事的制圧下でロシア系住民が過半数を占めることを民主主義を装った賛成多数の予定調和としてクリミアの住民投票を行い、タタール人等の他民族が住民投票をボイコットしたために結果として90%以上の民主主義的賛成多数を獲得したものの、国土と主権の一体性を保障する国際法の違反行為であることに変わりはないこれらの経緯に関しても、安倍晋三はロシアに対して制裁と言える制裁は見送ることで、アメリカやEUと共にウクライナの領土と主権の一体性の破壊と国際法違反でしかないロシア編入阻止の外交上の集団的自衛権の発動には加わらなかった。
自国の国益だけを考えたこのような一国平和主義的な外交上の集団的自衛権の機能停止は、例え軍事的に集団的自衛権行使の場面に遭遇しても、国益や自国経済の損得が絡んできた場合、軍事上も最後まで運命を共にする集団的自衛権を機能させることができるかは疑わしい。
何しろ精神論だけで軍事を語る単細胞な国家主義者・軍事バカである。
先ずトルコのエルドアン首相が安倍晋三のお友達であることを記す。2013年5月4日、安倍晋三はトルコを訪問、エルドアン首相と首脳会談を行い、経済関係強化や科学技術分野の協力を謳った。
そして5カ月経っただけの2013年10月30日、安倍晋三は再びトルコを訪問。エルドアン首相と首脳会談を行い、経済関係強化や科学技術分野の協力を謳った。
5カ月経ったばかりであるし、急を要する課題を抱えていたわけではないから、中身は変わり映えのしない訪問であったはずだ。
トルコ・イスタンブールと日本・東京はスペイン・マドリードを加えて2020年オリンピック候補都市として争っていた。最初の2013年5月4日の訪問時、安倍晋三はエルドアンに対して次のようなお願いをしている。
安倍晋三「イスタンブールが五つの輪を射止めたら、私は誰より先に『イスタンブール万歳』と言いたい。もし東京が五つの輪を射止めたら、誰よりも早く『万歳』と叫んで頂きたい」(MSN産経)――
エルドアン首相がどう答えたのかインターネット上を調べてみたが、見つけることができなかった。常識的には逆のことを言ったはずだ。
エルドアン首相「東京が五つの輪を射止めたら、私は誰より先に『東京万歳』と言いたい。もしインスタンブールが五つの輪を射止めたら、誰よりも早く『万歳』と叫んで頂きたい」・・・・
そして2013年9月7日のアルゼンチン・ブエノスアイレスのIOC総会は東京に決定を下した。安倍晋三はその翌日の2013年9月7日にフジテレビ「新報道2001」に出演。
安倍晋三「勝利が決まった瞬間にですね、トルコのエルドアン首相が駆けつけてきていただきまして、握手をして、そして、抱き合って、祝意を示していただきました。5月に2人で約束したことを、(エルドアン)首相が果たしていただきまして」(NAVER)――
固い抱擁の瞬間、その固さにも優る固い友情で結ばれたはずだ。
安倍晋三お友達のそのトルコ首相エルドアンがツイッターを遮断したという。国民の言論の自由を奪った。勿論、情報統制を目的としている。
エルドアンが任命した複数の閣僚がマネーロンダリング(資金洗浄)や金密輸の疑惑、あるいは国営銀行での汚職疑惑がかけられ、警察当局の捜査が行われていたが、エルドアンの家族にも捜査の手が及んだことで、エルドアン自身にも国民から疑惑の目が向けられて、ツイッター等のソーシャルメディアで批判や糾弾の声が広がっていたという。
国営銀行での汚職疑惑では3閣僚が辞任。そのうちの1人が首相は事情を知っており、辞任すべきだと述べたと「ロイター」は伝えている。
では、ツイッター遮断を次の記事からみてみる。
《トルコ政府がツイッター遮断》(NHK NEWS WEB/2014年3月21日 21 時41分)
トルコのエルドアン政権がインターネットのツイッター上で、首相自らの汚職への関与を指摘する投稿が広がるのを防ごうとツイッターを遮断する措置を取ったものの、逆に国の内外で反発が広がっているという。
記事が、〈政権批判の手段として重要な役割を果たしている。〉としているツイッターの遮断なのだから、火に油であるのは目に見えていたはずだが、安倍晋三と同様の単細胞らしい。
3月20日の西部ブルサでの演説。
エルドアン「ツイッターを根絶やしにする。国際社会が何と言おうが構わない」――
相当に頭に血を上らせている。
これはインターネットが存在しない時代の独裁者による情報遮断措置であった“焚書”に近い。
ツイッターを遮断したにも関わらず、投稿は続いているとして、次のような投稿を紹介している。
▽ツイッターのロゴマークになっている鳥がエルドアン首相に一斉にふんを落としている画像
▽イスタン ブールの空港で鳥が検査官に呼び止められ、「武器や麻薬、ツイッターは所持していないか」と質問される風刺画
この言論の自由の抑圧は安倍晋三が掲げる「自由や民主主義、人権、法の支配」に基づいた価値観政治に反するが、エルドアンがお友達である以上、批判の声を上げることはあるまい。
だが、まさしく現代の民主主義の時代に逆行する政治がどう行われようと、その逆行を国民は許すはずはなく、手段を見つけていつかは立ち上がるだろうから、ツイッター遮断は汚職疑惑を隠そうとする壮大なる臭い物に蓋でしかないだろう。
その臭い物が何であるかは国民に既に知られているのだから、いくら蓋をしようと、臭い匂いは漏れ続けて、臭い物自体(=汚職)を「根絶やし」にしなければ収まりはつかないはずだ。
このことに気づかないエルドアンのこの愚かしさが何となく安倍晋三の歴史認識等で見せている愚かしさに似ている。