高市早苗と安倍晋三の歴史認識に見る頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた日本国家優越主義

2022-01-31 08:21:38 | 政治

 2021年12月20日付け「毎日新聞」記事(後半有料)が自民党高市早苗の戦前の日本の戦争に関わる歴史認識を、自民党総裁選に名乗りを上げたことによる月刊誌「Hanada」10月号のインタビュー紹介という形で載せている。記事題名は〈「開戦詔書」そのまま受け止め?80年後の自民「保守」派の歴史観〉

 自衛か侵略か、戦争をどう捉えるかは「当時の『国家意志』の問題です」と持論を述べた高市氏、「先の大戦への認識」を問われてこう答えた。

 「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます。先の大戦開戦時の昭和天皇の開戦の詔書は〈米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え(中略)帝国は今や自存自衛のため、決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり〉というものでした」

 要するに当時の日本国民は昭和天皇の開戦の詔書によって太平洋戦争を自存自衛の戦争であるとする国家意志を理解し、承認したのだから、侵略戦争という歴史認識は決して存在させていなかったということになる。

 但し一つ問題が生じる。侵略戦争ではないとする歴史認識は当時の日本国民に限ったことで、戦後の国民は必ずしも侵略戦争ではないと見ていないのではないかという疑義である。尤も高市早苗はこの疑義に対して答を用意している。毎日記事自体が高市早苗の2002年8月27日付ブログからその答を紹介している。〈「田原総一朗さんへの反論」(高市早苗ブログ/2002年08月27日)〉内の発言である。  

 〈私は常に『歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか』で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている〉(毎日記事紹介文章)

 毎日記事はこの高市早苗と同じ考えの歴史認識に当たる安倍晋三の言葉を2013年の著書『新しい国へ』の中から取り上げている。「当時を生きた国民の目で歴史を見直す」

 著書の実際の文言は、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』の小見出しで、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか」。そしてその根拠を次のように挙げている。

 「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」

 対米英戦争はマスコミを含めた民意の賛同の上に成り立っていたということなのだろう。実際もそうであったはずだが、果たして正当な歴史認識と言えるだろうか。ただ、高市早苗と安倍晋三は共同歩調を取った歴史認識を構えていることになる。二人は歴史認識に於いてベッドを共にしていると比喩することもできる程に親密な見解となっている。

 記事は高市早苗の、安倍晋三も含めてのことなのだろう、このような歴史認識をどう見るか、戦争責任研究の第一人者である関東学院大教授の林博史氏に尋ねているが、結論は有料箇所に回されていて、無料読者は覗くことはできない。当方はド素人、専門家には敵わないのは分かりきっているが、当方なりに高市早苗と安倍晋三の歴史認識の正当性を解釈してみることにする。

 両者共に国民がその当時、何に賛成し、何に反対したのか、そのことによってのみ、歴史は価値づけられる、あるいは歴史は解釈されるとしている。だが、二人のこの考え方自体が論理矛盾に彩られている。なぜなら、日本が米英に宣戦布告した出来事自体は当時はまだ歴史にはなっていない、国家の政策遂行(=国家行為)に過ぎないからである。何らかの国家のその時々の政策遂行(=国家行為)が歴史の形を取るためには時間の経過、時代の経過が必要条件となる。つまり当時の国民ができたことは開戦、あるいは戦争という国家の政策遂行(=国家行為)に対する賛否――是非の解釈のみである。

 逆に後世の国民ができることは戦前当時の国家状況及び世界状況や社会状況等を起因とした国家の政策遂行(=国家行為)が時間の経過、時代の経過を経て歴史となった時点で時間・時代の経過と共に蓄積することになった知識を背景とした現在の国民の目を通した是非の解釈である。決して国家の政策遂行(=国家行為)に当時のままそのとおりに同調することが歴史解釈ではない。

 その一例が1942年2月19日にルーズベルト大統領が署名した大統領令により日系米国人が「敵性外国人」とされ、約12万人が全米各地で数年間強制収容されることになった国家の政策遂行を1988年8月10日になってレーガン大統領が「1988年市民自由法」に署名、その過ちを認めて謝罪したことに見ることができる。対日戦争当時の米国国家の政策遂行を時間・時代の経過を経た歴史として顧みることになったとき、その間に蓄積することとなった知識を背景としたその当時の時代の目を通して是非を判断した結果の謝罪であろう。と言うことは、米国国家の政策遂行として日系人を敵性外国人として収容した当時は、国家レベルに於いても、そして多くの米国民のレベルに於いても、間違っていたという考えは起きなかった時代性であったことを証明することになる。

 こういったことに対応した戦前当時の日本人の間でも日中戦争も太平洋戦争も、間違っていたとする考えは起きなかった時代の戦争に関わる国民の認識であったと見ることができるが、高市早苗も安倍晋三も、そのような制約を受けていた当時の時代に限った国民の認識をさも歴史認識であるかのように見せかけるペテンを働かせていることになる。そしてペテンをペテンでないと見せかける仕掛けが高市早苗の場合は「現代の常識や法律で過去を裁かない」とする時間と時代を経て形を取ることになる歴史と、同じく時間と時代を経て蓄積することになる知識とその知識の駆使の否定であり、安倍晋三の場合は直接的には言及していないが、当時の国民の考え方を採用することによって現在から過去に遡った歴史的事実に対する眺望、あるいは検証を許さない点、高市早苗の仕掛けと同じ形式のペテンを踏んでいることになる。

 また高市早苗の「現代の常識や法律で過去を裁かない」は戦前の日本国家――大日本帝国を当時の国民が支持していることを根拠に裁くことのできない対象、無謬の存在に祭り上げ、絶対化していることになる。絶対化は高市早苗による大日本帝国擁護に他ならない。安倍晋三が2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」にビデオメッセージを寄せて、「占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」と主張していることも、占領軍によって改造される前の大日本帝国を擁護する考えに基づいているのであって、その擁護は大日本帝国を無謬の存在とし、絶対化する考えがなければ成り立たない。

 そして戦前国家に対するこのような扱いはそもそもからして大日本帝国国家自体が皇国史観(日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観「goo辞書」)に基づいて日本の歴史の優越性を抱え込み、このことと相まって日本は神国(大日本は神国なり「国体の本義」)であるとしていた選民思想が日本民族の優越性を培養する素地を成していたのだから、高市・安倍にしても、日本民族優越主義を精神の素地としていることになる。戦前国家の政治決定に無条件に同調することだけでも、大日本帝国国家が抱え込んでいた日本民族優越主義(=大和民族至上主義)の側に寄り添っていることに他ならない。 

 歴史は「その時代に生きた国民の視点」に立つのではなく、あくまでも後世に生きている国民の視点で眺めなければならない。日本の戦争を歴史という文脈で補足可能となるからである。そしてその当時の「国民の視点」にしても、それが正しかったのか、正しくなかったのかが歴史判定の対象となる。当時の視点は正しかった・正しくなかったの両意見があるだろうが、いずれの場合も正しい・正しくないの検証が必要であって、当時の視点にそのままに同調することではない。同調したら、すべての歴史が正しくなってしまう。何のために時間・時代を経たのかも、その間の知識の蓄積も意味を成さなくしてしまう。歴史解釈に関して「現代の常識や法律で過去を裁かない」、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」方法のみに正当性を与えたなら、ナチスのホロコーストも歴史的に正しい行為と評価しなければならなくなる。

 要するに「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とする絶対化は日本民族優越主義と相互呼応した関係を取る。日本民族優越主義を精神の素地としているからこそ、「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とし、絶対化することができる。そうすること自体が日本民族優越主義の発動なくして成り立たない。

 だが、高市早苗も安倍晋三も、当時の国民の考え方を絶対とし、その考え方への同調を迫っている。大日本帝国の無謬化・絶対化・擁護には好都合だからなのは論じるまでのないことだが、単なる同調は歴史をどう認識するのか、どう解釈するのか、そういったことへの思考の発動とは全く以って異なる。そもそもからして当時の日本国民がどのような国家的・社会的状況に制約された環境下に置かれていたのか、高市早苗も安倍晋三も、どのような制約も考慮せずに当時の国民の判断・認識に頭から正当な価値づけを施している。当時は表向きは天皇を絶対君主とする、内実は軍部・政府が実権を握る二重権力構造下の思想・言論統制の時代にあり、天皇を含めた国家権力に対するどのような批判も許されなかった。許されたのは天皇と国家に対する無条件の従属のみだった。当然、昭和天皇の開戦の詔書に対して当時の日本国民は誰が表立って批判し得たであろうか。

 つまり戦前の大日本帝国は国家の意思が国民の意思を常に覆っていた。譬えるなら、当時の大日本帝国はお釈迦様であり、国民はその手のひらの中でのみ自由な行動を許されていた孫悟空に過ぎなかった。にも関わらず、高市早苗が「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます」の言葉で示している「当時の日本国民」が、あるいは安倍晋三が「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」の言葉で示している「その時代に生きた国民」がどのような思想・言論の統制下に置かれていたのか、そのことによって国家行為に対する国民の主体的判断が可能であったのかどうかの要件として考慮することができないのは高市早苗も安倍晋三も、頭の中では戦前国家を国民という存在の上に常に鎮座させているからだろう。

 もし両者共に国民という存在の上に国家を鎮座させていなかったなら、思想・言論統制の時代下にあった戦前の国民を国家の政策遂行(=国家行為)に対して主体的判断の主語とさせ得るかどうかぐらいの区別をつける頭はあるはずだが、その頭はなく、その当時の実情に反して主体的判断の主語として扱い、戦前の大日本帝国をまともな国家であったと見せかけるペテンをものの見事にやってのけている。大日本帝国を無謬の存在と看做して絶対化し、擁護するためには自分の判断に基づいて意思表示できる国民の存在は必要不可欠な条件となるからだろう。いわば当時の日本国民は自由意志を持って帝国国家の政策に賛成し、支持していたかのように見せかけるペテンを必要とせざるを得なかった。

 歴史認識に関してこういった仕掛けを施すことができるのは高市早苗も安倍晋三も、戦前を振り返るとき、国家のみに目を向け、国民には殆ど目を向けていないからである。結果的に当時の国民が天皇という存在と大日本帝国国家によってどのようなコントロール下に置かれ、主体的存在たり得ていたのか、いなかったのかの視点を欠いた認識を必然的に持つに至った。

 大日本帝国国家の国民を国家の従属物とするような(実際にも従属物としていた)この関係は当然のことだが、日本民族優越主義にしても、国民を国家鎮座の下に置いた形式を採ることになる。いわば国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた構造の日本民族優越主義である。まさに戦前の大日本帝国国家と国民はこのような関係にあった。でなければ、日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開と捉える皇国史観は身の置所を得ることはなかっただろう。

 このような日本民族優越主義は、国民の権利など認めていなかったその実質性に鑑みて、日本国家優越主義と表現した方がより現実に適う。今後、そう表記することにする。

 高市早苗の頭の中に国家というもののみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に置いた思想――高市早苗の日本国家優越主義を反映させた国家観は2021年9月29日投開票の自民党総裁選に向けて自身の思想と政策を纏めた『美しく、強く、成長する国へ。私の「日本経済強靭化計画」』(電子書籍から)にも、当然のことと言えば、当然のことだが、反映されている。

 序章「日本よ、美しく、強く、成長する国であれ」

日本人の素晴らしさ

 「日本人が大切にしてきた価値」とは何なのか、と思われる方も居られるだろう。例えば、ご先祖様に感謝し、食べ物を大切にし、礼節と公益を守り、しっかりと学び、勤勉に働くこと。困っている方が居られたら、皆で助けること。そして、常に「今日よりも良い明日」を目指して力を尽くすこと。

 かつては家庭でも当たり前に教えられてきた価値観が、近年まで称賛された日本の治安の良さや国際競争力の源泉だったのだろうと考えている。

 幕末以降に来日した外国人が書き残された当時の日本の姿からも、日本人の本質が見えてくる。先ず、E・S・モースの『日本その日その日』の記述だ。「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 次に、H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』の記述だ。「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」「日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」「教育は、ヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。(中略)アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」

 そして、シーボルトの『江戸参府紀行』の記述だ。「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、大麦・小麦・菜種や甜菜の仲間、芥菜・鳩豆・エンドウ豆・大根・玉葱などが1フィートほど離れて1列に栽培されている。雑草1本もなく、石1つ見当たらない。(中略)旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果である」

 大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩みに、感謝の念とともに喜びと誇らしさを感じずにはいられない。現在においても、126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている。

 高市早苗が「日本人の本質が見えてくる」と感じ、「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている」と結論づけた訪日外国人の日本及び日本人を褒めちぎった日本の景色は"矛盾なき国家"、"矛盾なき社会"、"矛盾なき人々"に仕立て上げられ、善なる存在としか映らない。

 最も時代を遡るのはシーボルトの『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)であり、次がH・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』は江戸幕府終了3年前の1865年(慶応元年)のもので、最後がE・S・モースの『日本その日その日』の1877年(明治10年)6月18日から1883年(明治16年)2月までの5年余のうちの実質滞在の2年5カ月間の見聞録となる。古い時代から新しい時代へと順を追って眺めてみることでその間の日本社会と人々の生活を概観できると思うから、その方法でそれぞれの描写の的確性、日本人なるものに対する洞察力の確かさを見定めてみる。

 シーボルト『江戸参府紀行』の文政9年(1826年)は1603年に徳川家康が江戸に幕府を開設してから224年、明治まで40年余を残す幕末に当たる。江戸時代はほぼ一貫して日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民と1割の町人・商人その他を支配して、8割の農民に対して四公六民とか、五公五民とかの年貢を課し、武士が4割、5割の収穫米を取り上げ、農民には6割、5割の収穫米しか分かち与えない過酷な税制を敷いていた。結果、ちょっとした出水や日照りで田畑が損傷を受け、その損傷が長引くと、ときには年貢減免の措置が取られこともあったそうだが、殆どは納める年貢の量は変わらないために高持百姓(本百姓――江戸時代、田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の負担者として検地帳に登録された農民。農耕のための用水権・入会 (いりあい) 権を持った、近世村落の基本階層『goo辞書』)の中でも田畑をたくさん持っている者以外は食うに事欠くことになった。

 そして究極の生活困窮が百姓一揆という形で暴発することになった。「コトバンク」に出ていた数字だが、江戸時代を通して約3200件もの百姓一揆が発生することになる。1603年の江戸開幕から1868年江戸閉幕までの266年間で計算すると、年間12件の百姓一揆となり、日本のどこかで月1の割合で発生、計算上はそれが266年間も続いていたことになり、なおかつ明治時代に入ってからも百姓一揆が起きていることから見て、農民の生活困窮はある種、在り来たりの日常的な光景となっていたことを窺わせる。

 また、こういった村落単位の集団の闘争だけではなく、個人的に食えなくなった百姓が土地を捨て、村を捨てて、江戸や大阪といった大都会に逃げ出す走り百姓が跡を絶たなかったという。江戸では無宿人が溢れ、治安対策から収容所(寛政年間1789~1801の人足寄場が有名)を設けて収容し、今でいう職業訓練を施したそうだが、文政(1818~1830)の次の天保(1830~1844)になって、江戸人別帳(今で言う戸籍)に無記載の者を帰村させる「人返しの法」(帰農令)を出すに至ったが、効果はなかったという。食えなくなって出奔した同じ村に帰されるのだから、本人自身が希望を見い出すことができない幕府の命令と言うことだったのだろう。

 「百姓一揆義民年表」から文政年間の百姓一揆を眺めてみる。文政元年の大和国吉野郡竜門郷15か村は旗本・中坊広風の知行所だったが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を企てたため、西谷村又兵衛ら6百人程が平尾代官所や平尾村大庄屋宅を打ちこわした竜門騒動

 文政4年の松平宗発(むねあきら)の猟官運動で財政が窮乏した宮津藩で沢辺淡右衛門らの主導で年貢先納や万人講とよばれる日銭の賦課が行われたため、これに反対した農民が大挙して宮津城下で打毀しを行った宮津藩文政一揆

 文政5年の三大名間で行われ三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)で桑名藩主松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられたことに伴い、助成講の掛金が返還されないことを危惧した農民が城下に押しかけ、やがて数万人規模の全藩一揆に発展し、庄屋宅の打ちこわしなどが行われた桑名藩文政一揆

 この一揆は領地替えの際、大名がその地での借金を踏み倒していってしまう事例を情報としていた可能性を窺わせる。

 文政8年の特産物の麻の不作や米価高騰で困窮した信濃国松本藩領の四ヶ庄(今の長野県北安曇郡白馬村)の農民が発頭(ほっとう「先に立って物事を企てること」)となり、3万人ほどが庄屋や麻問屋などを打ち壊しながら松本城下に迫ったが、藩に鎮圧された赤蓑騒動

 そして文政11年にシーボルト事件(シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。 シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された「コトバンク」)が起きている。

 文政12年間に4件もの大きな百姓一揆が発生していた。江戸時代という封建時代に忍従の生活を強いられていた農民が余程のことがない限り百姓一揆にまで持っていくことはなかっただろうという意味からしても、百姓一揆前の生活の困窮の程度が知れる。農民を苦しめたのは年貢上納の過酷な割合だけではなく、江戸中期の儒学者が1729年(享保14年)に著した書物の中で伝えている年貢取り立て行為自体の不合理なまでの過酷さを取り上げてみる。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)が紹介している一文である。

 『経済録』(太宰春台著)

 〈代官が毛見(けみ・検見――役人が行う米の出来栄え(収穫量)の検査と年貢率の査定)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には庄屋名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢賦課の割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民(りみん・さとびと)は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(うえ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。このように代官が私曲をなし、民が代官に賄賂を贈る状況は、自分が久しく田舎に住んで親しく見聞したことである。これは一に毛見取(けみとり)から起ることで、民の痛み国の害というのはこのことである。定免(一定の年貢率)であれば、毎年の毛見も必要なく、民は決まったとおりに納めるので代官に賄を贈ることもなく使役されることもなく苦しみがない。それ故に、少しは高免であっても定免は民に利益がある。毛見がなければ代官を置く必要もない。代官は口米(くちまい)というものがあって多くの米を上(うえ)より賜る。代官を置かなければ口米を出す必要もなく国家の利益である。今世の田租の法として定免に勝るものはない。〉――

 江戸幕府の基本法典『公事方御定書』は、勿論賄賂を禁止している。

  賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に取持いたし候もの 軽追放
  但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事。

 この『公事方御定書』は8代将軍徳川吉宗が中国法の明律(みんりつ)に素養があり、それを参考に1720年(享保5)に編纂を命じ、1742年(寛保2)に完成している。各藩は中国法の明律を直接参考にするか、徳川吉宗の『公事方御定書』を参考にするかで自藩の刑法典を用意したという。また、賄賂を取る者、差し出す者はいつの時代になってもなくならないという分かりきった事実の点からも、断るまでもないことだが、太宰春台の『経済録』1729年(享保14)からシーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)まで100年近くあるが、『明治初期の告訴権・親告罪』に、〈大政奉還の後、徳川慶喜からの伺に対して明治新政府は1867年(慶応3年)10月22日に新法令が制定されるまでは徳川時代の慣例(幕府天領には幕府法(公事方御定書)各大名領地には各藩法)を適用する(「是迄之通リ可心得候事」)との指令を出した。〉との記述があるから、『公事方御定書』は文政年間も生きていて、取り締まる側の代官自身の年貢取立てに関わる賄賂強要がその当時も百姓を苦しめていたことは想像に難くない。

 ところが、シーボルトの『江戸参府紀行』は「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して」云々と日本の農業文化の伝統的で高度な進歩性を称賛するのみで、その光景からは過酷な年貢で生活困窮を強いられている百姓の持つ宿命的側面など一切窺わせない。

 現実の農民の多くは「驚くほどの勤勉さ」の裏で過酷な重税に苦しめられていた。「勤勉さ」は主体的な行動ではなく、年貢納付、あるいは小作料納付というノルマが強制する従属的な行動に過ぎなかった。過酷な年貢徴収、小作料徴収に応じて、どうにか命を繋いでいくための必死な足掻きは実質的には「勤勉さ」とは異なる。

 シーボルトが「旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果」と見た、その実態は悲惨と苦渋と百姓という宿命への諦めに満ちた内実で成り立っていて、そこで働く農民の姿や田畑の状景を表面的に眺めただけでは見えてこない。にも関わらず、高市早苗は驚く程に無邪気にシーボルトが描いた農民の姿をそのままそっくりに素直に受け止めて、勤勉と見た黙々とした作業を「日本人の本質」と解釈するに至った。「大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩み」をそこに見ることになった。

 このお目出度さはどこから来ているのだろう。いつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない社会は存在しない。そしてその矛盾の多くは政治権力者によって作り出される。その一方で政治は大本のところで国家の政治機能を通して社会の矛盾の解消に努めることを役目の一つとしている。高市早苗は政治家でありながら、このような矛盾に関わる諸状況を頭に置くことができずに過去の訪日外国人のまっさらな日本及び日本人描写に対してその裏側の日本社会を覗く理解能力を完璧に失っていた。

 国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた日本国家優越意識が仕向けてしまう理解の限界と見るほかはない。安倍晋三に取り憑いている自分は優秀で特別な存在だと思い込む自己愛性パーソナリティ障害がそうであるように優越意識なる感性は自身が優越と見る対象に対してはどのような矛盾も欠点も認めまいとする意識が働いてしまうように高市早苗にしても矛盾のない時代も社会も存在しないという簡単な事実さえも見落としてしまって、自身の日本国家優越主義を満足させる情報のみに、その真偽を確かめずにアンテナを向けてしまうから、日本人や日本についていいことが書いてある情報のみを書いてあるままに受け入れて、日本国家の優越性やその二番手に置いた日本人の優越性を再確認したり、再発見したりすることになっているのだろう。

 こういった認識が働くのも、国民がどう存在していたのか、向ける目を持っていないことが災いした見解と言うほかはなく、結果的に日本の歴史を美しい姿に変える歴史修正まで同時並行的に行っていることになる。日本国家優越主義自体が歴史修正の仕掛けを否応もなしに抱え持っている。

 不正な手段で利益を得て、社会の矛盾を作り出している収賄や贈賄は年貢取り立ての代官やその手代たちと百姓の間だけで行われたわけではない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は将軍の推挙を受けて天皇から与えられる正三位とか従三位といった官位によって決まり、将軍の朝廷への推挙は老中の情報が左右するために大名たちは老中に賄賂を贈ることを習慣としていたという。当然、賄賂の額を競うことになるばかりか、官位による席次の違いがそれぞれの名誉と虚栄心と政治力に影響し、自らの権威ともなっていたのだろうが、賄賂資金の原資は百姓から取り立てた年貢米をカネに替えた一部であり、彼らの汗と苦痛の結晶ではあるものの、年貢を取り立てていることに支配者という立場から何ら痛痒を感じていない点、感じていたなら、虚栄心や名誉心のために賄賂のためのカネに回すことなどできなかったはずだが、支配者としての武士という立場上、こういった矛盾が矛盾として認知されていなかったことの矛盾は恐ろしい。

 幕末を3年後に控えた1865年(慶応元年)の日本訪問の見聞記H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』には「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」の描写がある。前記シーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)から39年経過していて、その経過で政治は社会の矛盾を綺麗サッパリと拭い去ることができて、初めてH・シュリーマンの描写は生きてきて、100%の説得力を持ことができる。ところが、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航以降、尊王攘夷派と開国派、公武合体派が入り乱れて武力衝突を繰り返し、世情不安を招くと、大名や商人が米の買い占めに走って物価高騰を引き寄せ、生活面からも社会不安を引き起こして、年貢の重税と借金に苦しむ小作人に都市貧民が加わり、幕末から明治初期に掛けて「世直し」を唱え、村役人や特権商人、高利貸などを襲撃、建物を打ち壊す世直し一揆が多発することになった。

 「Wikipedia」には『シュリーマン旅行記』見聞と同年の〈慶応2年5月1日(旧暦)(1865年)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた(世直し)一揆はたちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方は一揆おからさる(起こらざる)所なし」(『幕末珎事集』)と評された。〉と出ている。

 同じ慶応2年には武蔵国秩父郡で武州世直し一揆が起きているし、1749年(寛延2)の陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)に跨り起こった大百姓一揆が慶応2年に信達(しんだつ)世直し騒動と名を変えて再発している。この再発は百姓の困窮の恒常性を物語る一例となる。だが、シュリーマンは情報未発達時代の情報収集の限界なのだろうが、武士以外の国民の困窮や不平不満の気配、これらに起因した騒動を舞台裏に置くこともなく、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」をその目に入れていた。 

 だが、高市早苗は情報発達時代の今日に政治家として呼吸していながら、それぞれの時代の内実を眺望することなく、訪日外国人たちの時代の矛盾や社会の矛盾と乖離した底の浅い日本見聞の夢物語を日本国家優越主義には好都合な情報だからだろう、オレオレ詐欺に引っかかるよりもたやすく騙されてしまっている。

 百姓の困窮は生活そのものの困窮であって、生まれてくる子供にまで影響する。食い扶持が増えると、家族全体の生活が逼迫されることになる。「Wikipedia」に、〈堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。〉とある。

 間引きは産んでから殺す、堕胎は生まれる前に堕胎薬や冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導くことを言う。間引きの多発に幕府は1865年(慶応元年)の『シュリーマン旅行記』から遡ること約100年前の1767年(明和4年)に〈百姓共大勢子共有之候得は、出生之子を産所にて直に殺候国柄も有之段相聞、不仁之至に候、以来右体の儀無之様。村役人は勿論、百姓共も相互に心を附可申候、常陸、下総辺にては、別て右の取沙汰有之由、若外より相顕におゐては、可為曲事者也〉(百姓ども、大勢の子どもこれありそうろうえば、出生の子を産所にてじかに殺しそうろう国柄もこれあり段、相聞く、道に背く(不仁)の極みである。以来、このようなことがないよう、村役人は勿論、百姓共の相互に気をつけるよう申しべくそうろう。常陸、下総辺りではわけて右のような子殺しがあるよし、もしほかよりお互いに明らかになった場合はけしからぬことをなす者である。)と、間引き禁令を出すことになり、各藩もこれに倣うが、生活の困窮を手つかずのままにして禁令だけを出しただけではなくなるはずはない。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館))の記述を見てみる。

 「美作の久世と備中の笠岡および武蔵久喜の代官であった早川八郎左衛門正紀(まさとし)」が「美作・備中の任地に赴いた時に、いたるところの河端や堰溝に古茣蓙(ござ)の苞(つと)があるのを怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだもので、男子には扇子、女子には杓子を付けてあって、その惨状に目を覆ったということである」

 早川八郎左衛門正紀が代官として美作国に赴いたのは推定で2万人の死者を出した天明の大飢饉のさなかの1787年(天明7年)のことで、幕府が間引き禁令を1767年(明和4年)に出し、各藩が倣ってから20年経過しているが、飢饉が原因しているものの、このような有様であった。堕胎と間引きを免れた子どもであっても、長男以外の男の子なら、10歳前後まで育てて口減らしのために商家の丁稚奉公か職人の見習い小僧などに出して、親が支度金とか前渡金の名目でそれ相応のカネにするか、女の子なら6、7歳の頃まで育てててから同じく口減らしのために女衒を通して女郎屋に禿(かぶろ・遊女見習い)として売って、10両前後の、百姓にしたら大金となるカネを手にするかしたりしている。後者の場合、親が売って得たカネは女衒の手数料を上乗せして借金として背負うことになり、遊女になるまでの経費をプラスして稼いで支払うことになる。要するに子どもを10歳近くまで育てる余裕のない親が子どもを堕胎したり間引いたりした。生活の困窮が全ての原因だった。

 『シュリーマン旅行記』の慶応年間を跨いで明治時代まで口減らしの堕胎は続いていたことは1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)施行の現行刑法に堕胎罪が設けられていることと、貧困が続く限り、法律が制定されてピタッと止むものではないことが証明することになる。但し両刑法に「間引き」なる文字は出てこないが、殺人罪でひと括りしていたとしたら、闇で行う者が存在していた可能性はあるが、「第336条」は「八歳ニ滿サル幼者ヲ遺棄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處ス 2 自ラ生活スルコト能ハサル老者疾病者ヲ遺棄シタル者亦同シ」とあるから、間引きや堕胎以外に同じく江戸時代に行われていた捨て子や姥捨てが引き続いて行われていたことになって、否応もなしに生活困窮の光景が浮かんでくる。

 2011年の「asahi.com」の記事だが、20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を研究用に受け入れてきた国立科学博物館が分析したところ、日本の全ての時代の中で最も小柄な上に特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪く、伝染病がたびたび流行したことも一因だということだが、栄養状態が悪いからこそ、伝染病に罹りやすいのだろう、死亡率が低いはずの若い世代の骨が多かったという。つまり若死にを強いられていた。農民が過酷な年貢取り立てに応じるために満足に食事をせずに激しい労働を日常的に余儀なくされていただけではなく、町の住人も多くが貧しい生活を余儀なくされていた。

 政治の矛盾が社会の矛盾となって跳ね返る。H・シュリーマンの「平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」は異国の地に於ける情報の未発達に守られた旅先での感傷に過ぎないだろう。多分、自分の生まれた国と社会が余りにも矛盾に満ちているから、矛盾のない国と社会に憧れる余り、少ない表面的な様子を見ただけで、ユートピアを見てしまったのかもしれない。あるいはその他の訪日外国人も含めて矛盾のない如何なる時代も、如何なる社会も存在しないというごくごく当たり前の常識を未だ情報とするに至っていない時代に棲息することになっていた知識の限界を受けてのことなのかもしれない。しかし何度でも言わなければならないことは高市早苗はこのような当たり前のことを常識としていなければならない現在の情報化社会に生息しているはずで、政治家なのだからなおさらのことだが、各時代の日本人の実際の姿とは異なる訪日外国人が描いた日本人の姿を「日本人の本質」と見て、「美しく生き」てきたと価値づけ、日本人の歴史を通した恒常的な姿だと結論、それを以って「日本人の素晴らしさ」だと、日本人という民族全体の評価にまで高めている。当然、この評価は支配権力が政治を行い、社会を成り立たせていく過程でどうしようもなく生み出してしまう各方面に亘る様々な矛盾というものを眼中に置いていない見識と言うことになって、日本国家優越主義なくして成り立たない思考停止であろう。国家なる存在だけを見ていて、国家を構成する実際の国民、その姿は見ていない。

 H・シュリーマンは当時の日本の教育について、「アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と称賛しきっているが、確かに江戸時代の民衆の識字率は高かったと言われている。だが、教育の機会は教育を受ける権利の保障が一定程度整っている(それでもまだ様々な矛盾を抱えている)現代と違って江戸時代の教育を受ける機会は武士も町人も農民も各家庭の経済力任せであったから、産まれてくる子に対して捨て子や間引き、堕胎を迫られる貧しい農民や貧しい都市住民、あるいは走り百姓となって故郷の村を捨てる農民たちや、収穫米の中から本百姓に小作料を物納すると殆ど残らず、あとは粟、稗などの雑穀で命をつないでくといった貧農にとって縁のないもので、貧富の影響をまともに受けることになる。こういった限定条件下での「読み書き」が実態であったはずだから、「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は過大も過大、買いかぶりの過大評価であろう。

 勿論、このように言うからには証明が必要になる。「日本の就学率は世界一だったのか」(角知行)が先ず1986年9月22日の静岡県で開催の自民党全国研修会での当時首相であった中曽根康弘の発言を紹介してる。人種差別発言だと非難を浴びることになって、当時評判となった発言である。

 中曽根康弘「日本はこれだけ高学歴社会になって相当インテリジェント(知的)なソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。(中略)

 徳川時代になると商業資本が伸びてきて、ブルジョアジーが発生した。極めて濃密な独特の文化を日本はもってきておる。驚くべきことに徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい。世界でも奇跡的なぐらいに日本は教育が進んでおって、字を知っておる国民だ。そのころヨーロッパの国々はせいぜい20―30%。アメリカでは今では字をしらないのが随分いる。ところが日本の徳川時代には寺子屋というものがあって、坊さんが全部、字を教えた」

 「坊さんが全部、字を教えた」は恐れ入る。寺子屋師匠は僧侶だけではなく、武士、浪人、医者などが担っていたと言われている。寺子は入門料である「束脩(そくしゅう)」と授業料である「謝儀」を納めていたから、特に浪人にとっては生計を成り立たせていく大きな糧となったに違いない。

 中曽根康弘は当時日本国総理大臣だったが、識字率・文盲率が必ずしも人間性判断の基準とはならないという常識は弁えていなかったらしい。弁えていたなら、識字率だけで人種の優劣のモノサシとするような発言はしなかったろう。

 角知行氏はイギリスの社会学者のロナルド・フィリップ・ドーア(1925年2月1日~2018年11月13日)が著した『江戸時代の教育』を用いて、〈明治維新当時、「男児の40%強、女児の10%」が家庭外であらたまった教育をうけ、よみかきできたと推計〉し、〈補論においては先行研究をふまえて、よりくわしく「男児43%、女児10%」とみつもっている。〉と幕府末期から明治維新当時の日本の教育事情を紹介している。と言うことは、中曽根康弘の「徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい」とする日本の教育の進歩性の証明は相当程度当たっていることになる。但し大きな男女格差に触れないのは一種の情報隠蔽、あるいは情報操作に当たる。

 角知行氏はドーアの研究を紹介する一方で、現東北大学教育学部教授八鍬友広(やくわ・ともひろ)氏の明治初期文部省実施の自署率(6歳以上で、自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に基づいた学制公布(1872年(明治5年))まもない時期の、分かっている県のみの識字状況を紹介している

 滋賀県:64.1%(1877年・明治10年)
 岡山県:54.4%(1887年・明治20年)
 青森県:19.9%(1884年・明治17年)
 鹿児島県:18.3%(1884年・明治17年)

 そして、〈八鍬は、近世日本では一部の地域では識字がかなり普及していた反面、ごく一部の人だけがよみかきをおこなって大半はそれを必要としない地域もあったことをあげ、地域間格差のおおきさに注意をうながしている。〉と解説を加えている。

 津軽藩のあった青森県は、「第5章 ケガツ(飢饉)と水争い」(水上の礎/(一社)農業農村整備情報総合センター)の情報を要約すると、〈元和5年(1619年)、元禄4年~8年(1691年~1695年)、宝暦3年~7年(1753年~1757年)、天明2年、7年(1782年、1787年)、天保4年、10年(1833年、1839年)と飢饉が襲い、餓死者が数万人単位から10万人も出したという。生死を問わず犬・猫・牛・馬等の家畜類を食べ、親や子どもを殺して食した。時疫(じえき・はやり病)による死者も何万と出て、天明の飢饉時には他国に逃れた者が8万人もあった。〉と出ている。

 この家畜食・人肉食は『近世農民生活史』も触れている。〈農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」

 最下級の武士は内職を営まなければ生活をしていけなくても、飢饉に際して命に関わる悲惨な境遇に見舞われることのない安住地帯にいた。

 こういったことも時代や社会の矛盾そのものであるが、上記記事に青森県の最後の飢饉が記されている天保10年(1839年)は『シュリーマン旅行記』の1865年(慶応元年)から遡ること27年も前となるが、青森県は寒冷地ゆえに農業ではまともな生活を維持できない宿命を背負わされていたことは戦後の日本の1960年代の高度経済成長期に青森県や他の東北県は集団就職や出稼ぎ労働の一大供給地で、成長を支える側にあったことが証明していて、こういった事実を踏まえると、津軽藩が厳しい寒冷地帯であったことから貧しい生活を余儀なくされていて、一方の鹿児島藩は年貢の取り立てが厳しく、農民は貧しかったということからの明治に入ってからのそれぞれの自署率20%以下と捉えると、滋賀県、岡山県の自署率50、60%以上は貧富の格差が招いた教育の格差という答しか出てこない。

 そしてこの地域ごとの貧富の格差は江戸時代も似たような状況にあったことから類推すると、当然、教育の格差を引きずっていたことは確実に言えることで、例え自署率が滋賀県、岡山県が50%を超えていたとしても、江戸幕府末期の日本の全ての地域で自署率100%という事実は存在しないことになり、シュリーマンの「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は美しい思い込みで成り立っているファンタジーに過ぎないことになる。だが、高市早苗のこの非現実的な美しいファンタジーをそのまま事実として受け止め、「日本人の本質」と見抜く事実誤認はやはり自身の精神に根付いている日本国家優越意識に適う情報であることと、いつの時代の国民にも向ける目を持っていないと解釈しなければ、事実誤認との整合性が取れなくなる。

 ここでシュリーマンが日本人の賄賂を拒絶する潔癖性について触れている姿を紹介している一文を参考のために取り上げてみる。 

 「ひと息コラム『巨龍のあくび』」(東洋証券)の「第98回:清国と日本・・・シュリーマンは見た!」

 シュリーマンは日本訪問の前に清国を訪れていた。〈そんな不潔な清国をほうほうの体で脱出して辿り着いた日本をシュリーマンは絶賛している。彼によると日本人は世界で最も清潔な国民であり、それは街の様子や日本人の服装だけではないという。たとえば、賄賂の授受は当時の未開発国では当然の現象であったが日本では違った。シュリーマンが横浜港に到着したとき、彼の荷物を埠頭に運んでくれた船頭は、わずか4天保銭(13スー)しか受け取らなかった。もしも天津のクーリーだったらその4倍は平気で吹っ掛けただろうとシュリーマンは記している。また横浜の税関でトランクを開けろと命じられたシュリーマンは、そのトランクを一旦開けてしまうと閉め直すのに苦労することから、清国と同じように賄賂を渡したところ、税関の侍は自分を指して「ニッポン・ムスコ」と言い、賄賂の受け取りを拒否したという。江戸時代に「ニッポン・ムスコ」という表現が存在したか不詳だが、たぶん「日本男児」という日本語を聞き取れなかったシュリーマンが、あとで誰かに発音を尋ね、その聞きとりのなかで誤解を生んだよう。〉

 「世界で最も清潔な国民」の清潔さは身体的もの等々に関してだけではなく、道徳的にも「世界で最も」潔癖であった。何しろ賄賂を拒絶したのだから。だが、1767年(明和4)に完成した江戸時代の基本法典『公事方御定書』も、1880年(明治13年)制定の旧刑法も、明治41年施行の現刑法も、共に贈収賄を禁止していることは贈収賄が現代にまで続いて延々と密かに、どこかでやり取りされていることを物語っている。要するにシュリーマンは一事を以って万事に当てはめる勘違いを起こしたに過ぎない。モースのように何度かの来日で数年に亘った日本見聞であったとしても、情報の未発達な時代の情報過疎の檻の中での見聞の機会しかなかった。横浜の税関の侍はほかに誰かがいたか、外国人ということでいいところを見せるために賄賂を断った程度のことだった可能性は疑い得ない。何しろ江戸時代はワイロが文化として横行した時代と言われているぐらいである。

 最後に動物学者E・S・モースの明治10年頃から明治15年頃の日本を描いた『日本その日その日』の記述が高市早苗が評価しているとおりに日本人全般に亘って当てはめることができる「日本人の素晴らしさ」の表現となっているのか、祖先が「美しく生き」たことの証明とすることができるのかどうか、「日本人の本質」を突いているのかどうかを見てみる。

 「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 恵まれた階級の日本人も貧しい日本人も等しく備えている「特質」だとしている以上、この文章から窺うことのできる日本人が全般的に備えている性格は質素で、驕ることのない物静かな謙虚さと寛大さと言うことができる。質素で、謙虚で寛大な性格だからこそ、挙動は礼儀正く、他人の感情に思いやりを持つことができる。

 つまりどのような境遇に置かれていようと、恨み言一つ吐かず、その境遇を心穏やかに受け入れることができていた。でなければ、謙虚とは言えなくなる。明治時代に入ってからも百姓一揆が起きているということは既に触れたが、1873年(明治6)7月から始まった地租改正に対する百姓一揆は全国各地で発生、打毀や焼打ちに発展することもあったという。さらに1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)制定の現行刑法に堕胎罪と幼者、老者、疾病者、身体障害者を遺棄することを禁止していることは現実には行われていることの裏返しだということも既に触れた。

 妊娠した子どもの堕胎、間引きは江戸時代、明治に続いて大正、昭和に入ってからも続けられていたことは「歴史の情報蔵」(三重県の文化)が取り上げている。避妊技術の未発達と恒常的な貧困が動機の慣習化となっていた。農民人口は1900年(明治33年)には総人口の70%近くまで減少することになったが、『日本の農地改革』(大和田啓氣著・日本経済新聞社)に、〈国民の8割は農業に従事し、国庫収入の8割は地租(土地に対して課した租税)であり、農産物の輸出額が総輸出額の8割を占めるというのが明治初年の日本であった。農業が最大の産業であったのである。〉(15P)と出ていて、明治の初期までは江戸時代と変わらない農民人口であったが、〈(地租改正条例発布の明治6年)当時の小作地は3割弱であったと推定されるが、(小作地での取り前は国34%、地主34%、小作人32%と決められていて)政府は小作料を現物納のままとし、地租(土地に対して課した租税)だけを金納としたので、米価が上昇する過程で地主が有利に、小作が不利になった。〉(16P)結果、自作田が減っていって、小作田が増えていき、〈小作田の面積が自作田をこえたのは、明治42年である。大正11年には田では小作地が51.8%、昭和5年には53.8%となった。農地改革(1946年~1950年)直前の状況もこれとそれほど変わらず、昭和20年11月23日現在の小作地が45.9%、自作地が54.1%であった。〉(21~22P)と出ている。

 小作地は地主の所有物で、地租は土地に対して課した税金だから(明治6年の地租改正条例発布の際、地価の3%を地租とする地券を発行)、小作人は国に対しては税金を納める義務はなく、地主に対して収穫物のうち小作人の取り分32%を残して、68%分の田なら米で、畑なら、収穫野菜で物納し、地主は物納された68%のうち自身の取り分34%を残して、残り34%を国の取り分としてカネに変えて、国に対して金納した。勿論、地主は自身の所有する土地屋敷と田畑に対する地価3%の地租を金納しなければならないが、この地租3%は江戸時代の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたそうで、一部の富裕な地主を除いて地主一般にとっては負担が大ききく、だからこそ、中小の地主が自前の田畑を大地主に売って、小作人化し、小作地の割合が増えることになり、そもそもの悪の根源を地租改正に置くことになって、地租改正反対一揆が全国的に発生し、明治政府は1877年(明治10年)に地租率を3%から2.5%に引き下げることになった。但し一番割りを食ったのは小作人だそうで、作物のうち、68%もの収穫物を持っていかれて、残り32%から種籾代・肥料代等々を差し引くと、小作人の取り分は20%を切ったという。要するに自作田の減少とこれと対応した小作田の増加は明治時代を通して農民が全国民の70~80%を占めている以上、明治社会全体と言っていい、江戸時代以上の貧困化への傾斜を示すバロメーターでもあった。農村だけではなく、魚山村でも堕胎、間引きが行われていたことも明治社会全体の貧困を示す証明となる。貧困は人間性への拘りを無頓着にさせる。

 しかしモースの言葉「挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり」が「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」としている以上、人間性豊かな日本人の提示であり、貧困ゆえに人間性への拘りに無頓着にならざるを得ずに堕胎や間引きや捨て子や姥捨てや身体障害者の遺棄を行う現実の多くの日本人の姿を消し去っている。

 要するに日本人について触れたE・S・モースの言葉にしても、H・シュリーマンの言葉にしても、シーボルトの言葉にしても、非現実そのもので、何を勘違いしたのか、人間という存在の本質も、時代というものの本質も、社会というものの本質も見ない、ユートピア(理想郷)仕立てにした美しいお伽噺を作り上げたに過ぎない。結果的としていつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない国家も社会も人間集団も存在しないにも関わらず、その真逆の矛盾というものを消しゴムで消し去ってしまったシミ一つない日本人像・日本像をデッチ上げてしまった。

 尤も訪日外国人が異国情緒も手伝ってか、あるいは生国の社会の矛盾等への反動からか、それぞれが見た日本人をお伽噺の国の住人に仕立てたとしても無理はないと言えるが、高市早苗はそれぞれの訪日外国人が訪れた時代時代の日本の歴史を振り返ることのできる位置に立っている以上、それぞれの歴史が本質として抱え込んでいるそれぞれの矛盾に留意して眺め直す作業を通して、彼らの日本人描写が適正かかどうか判定しなければならないにも関わらず、それぞれの矛盾に向ける目を持たずにそれぞれの訪日外国人が描いた日本人の矛盾一つない姿と日本像をそっくりそのまま受け入れて、「日本人の本質」を突いていると感服し、「美しく生き」た祖先の姿を各描写に見ることになった。

 モースの日本人観察が如何に非現実的か、モース自身の言葉が証明している。「江戸東京博物館開館20周年記念特別展 明治のこころ モースが見た庶民のくらし」

 〈世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。〉(E.S.モース『日本その日その日』二巻(石川欣一訳)より抜粋)

 通算2年5カ月程に過ぎない日本滞在で子どもたちがニコニコしている所を見て、「朝から晩まで幸福であるらしい」と解釈するのはお前の勝手だと言いたくなるが、国全体の子どもがそういう境遇にあり、それが世界一だと断定的に価値づけるには一事が万事なのか、一事が例外的事例なのか、明らかにし、前者であることを証明して初めて日本程子ども天国の国はないと断定すべきだったろう。問題は日本人自身がほんのちょっとの間日本を訪れた外国人の書いたことだと無視するならいいが、それぞれの国がそれぞれに抱えている時代の現実、社会の現実がそれぞれに背負い込むことになっている何らかの矛盾というものの存在は日本という国も抱えているはずだと合理的に判断するのではなく、世界一日本の子どもが親切に取り扱われいると観察された通りの情報と看做して無条件に後世にまで生き永らえさせている。

 日本人自身が国家の矛盾も時代の矛盾も社会の矛盾も、人間が自らの生き様にそれぞれに抱えてしまう矛盾も一切無縁の完璧な存在として作り上げた訪日外国人の日本人像、あるいは日本像を何の疑いもなく積極的に受け入れてしまうのは日本人自身の内面に同じ日本人像、あるいは同じ日本像を抱えていて、両者を響き合わせるからであって、その日本人像は過ちのないパーフェクトな人種として存在させていることになるし、戦前を対象とした内面性として発揮させているなら、大日本帝国という国家を、その運営・人材も含めて常に正しい国家と見ていることになる。その典型的な例が高市早苗であり、安倍晋三ということであろう。日本人は人種的に優れているとしていながら、その実、国家を国民の上に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座させた関係に置いて日本国家を優れているとする日本国家優越意識を精神の下地としていなければ、どのような国家体制であったのかを無視したり、国民の人権状況に無頓着であったりはできない。

 高市早苗の先に挙げた「126代も続いてきた世界一の御皇室」とか、「優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさ」云々にしても、自らの精神に日本国家優越意識を大雨が降ったあとの川の水のように満々と湛えていていなければ、口に出てこない言葉であろう。論理的な判断に基づいて「世界一の御皇室」としているわけでもなく、単に日本国家優越性証明のスローガンとして口にしているに過ぎない。日本人が「優れた祖先のDNAを受け継いている」が真正な事実だとしても、そのことによって国家の矛盾も、時代時代の矛盾も、社会の矛盾も、日本人が人間存在として抱えることになる様々な矛盾も絶対的に無縁とすることができるわけではなく、特に政治の矛盾は今後も、様々な場面で噴き出ることになるだろう。

 高市早苗は皇室が「126代」も続いた理由を万世一系であること、男系であること、いわば血の優秀さに置いているだろうが、このことも高市早苗や安倍晋三だけではなく多くの日本人に日本国家優越意識を育む誘因となっているが、歴代天皇自身が自らの力で126代の地位の全てを紡いできたわけではない。大和朝廷成立近辺からは世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の伝統的な常套手段となっていた。

 例えば蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのおう)を生ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍が斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる例は、外祖父として権力の掌握を目論んだことの失敗例であろう。成功した一例として、蘇我稲目が2人の娘を欽明天皇の后とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生んでいる例を挙げることができる。

 藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子(けんし)を入れて中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立を生じると、天皇の眼病を理由に退位に追い込んで、長女彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させ、自らは後見人として摂政となっている。
1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り、後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子(たけこ)を入れて中宮となし、「一家立三后」(いっかりつさんこう)と驚嘆された。そして藤原氏の次に権力を握ることになった平清盛も娘を天皇に嫁がせて、外戚(がいせき・母方の親戚)となって権勢を誇ることになった。

 要するに世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父か外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段として忠実に受け継がれていった。時代が下って自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇に据える傀儡化――血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、源頼朝以降、距離を置いた支配が主流となっていったが、天皇の権威を国民統治装置に利用し、天皇の背後で実質的政治権力を好きに握る権力の二重構造は引き続いて源氏から足利、織田、豊臣、徳川、明治に入って薩長・一部公家、そして昭和の軍部に引き継がれて、終戦まで歴史とし、伝統とすることとなった。歴代天皇を歴史的・伝統的に国民統治の優れた装置とするための必要性から生じた、いわば国民向けの勿体づけのための万世一系であり、男系という一大権威であって、世俗権力者にとってのその手の利便性から結果的に126代も延々と続いたということであろう。

 そもそもからして多くの歴史学者が神話上の人物としか見ていない神武天皇を初代天皇として、その即位年から日本建国の年数を数える日本式の紀年法である"皇紀"なる名称は4世紀末頃から5世紀頃の大和朝廷成立当時からあったものではなく、1872年(明治5年)に「太政官布告第342号」を以ってして制定したものであって、政府は1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たるとしてその年に大々的に奉祝行事を行うことになったが、明治に入ってから使い始めたという経緯からすると、皇紀元年を西暦紀元前660年に当てていることから、西洋の歴史よりも長いとする日本の歴史及び大日本帝国と天皇を権威付ける仕掛けであったことがミエミエとなる。

 戦争中は大本営は天皇直属の最高戦争指導機関でありながら、国民に対してだけではなく、天皇に対してもウソの戦況報告をした。軍部は実質的には天皇の下に位置していたのではなく、天皇の上に位置していた。だから、対米戦争反対の天皇の意向を無視して、対米戦争に突入することができた。

 要するに戦前日本に於ける軍部を含めた政治権力者たちは歴史的に伝統的な権力の二重構造に従って天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制する国民統治装置として利用したが、国策の場では「大日本帝国憲法」で規定した「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とか、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」といった天皇像が実在することを許さず、お飾りとも言える名目的な存在にとどめておく巧みな国家運営を行った。あるいはそのような権力の二重構造によって大日本帝国憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮させ、国民統治装置として機能させていたが、軍部を含めた政治権力層には通用させず、そのような権限の埒外に常に存在させていた。

 各武家政権時代は歴史的踏襲としてその権威だけが利用され、存在自体は蔑ろにされてきた天皇は江戸幕府末期になって将軍という一方の権威に対抗する他方の権威として薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力に担ぎ出されることになって、再び歴史の表舞台に躍り出ることになった。この経緯自体も天皇の権威のみが必要とされた事情を飲み込むことができる。その一端を窺うことができる記述がある。『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に明治維新2年前の慶応2年に死去した明治天皇の父である幕末期の孝明天皇(満35歳没)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 大宅壮一は岩倉具視孝明天皇暗殺説を全面否定しているわけではない。岩倉具視以外の誰かが行った可能性を残している。「数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と言っていることは藤原道長が一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后とし、彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させて、自らは後見人として摂政となり、好きに政(まつりごと)を行った例を窺わせ、薩長・一部公家が明治天皇の後見人となって自分たちの思い通りの政治を行った可能性は十分に考えられる。そういった中での1872年(明治5年)、明治天皇21歳のときの「太政官布告第342号」による皇紀年号の制定である。薩長・一部公家にとっては天皇の名に於いて政治を行う関係上、若い天皇により大きな権威付けが必要になったといったところなのだろう。熱烈な天皇主義者は現在でも改まった時と場合には皇紀年号を使う。

 こうのように歴代天皇が歴史的・伝統的に置かれてきた実態を眺め渡してみると、天皇の権威なるものは歴史を彩ってきた世俗権力者たち歴代に亘る政治的産物以外の何ものでもなく、高市早苗の「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴いてきた」とする最大限の称揚は中が空洞の巨大な竹の骨組みを紙で覆った程度の空疎な内容しか与えない。科学的な合理性はどこにもなく、万世一系だ、男系だと騒ぐのは滑稽ですらある。だが、高市早苗の精神の中では天皇家126代の権威は歴代天皇が自らの政(まつりこと)によって自ら育み、歴史を経て積み重ねられ、重みを持つに至った価値あるものとして根付いていて、彼女の日本国家優越意識をしっかりと支えている。

 頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた、いわば真に国民に向ける目を持っていない日本国家優越主義を内面の奥底で信条とする政治家に、当然の成り行きとして一般国民に寄り添った政治は行うことはできない。安倍晋三のように「国民のため」は方便で、国民よりも国家を優先させて、国家の繁栄だけを目的とすることは間違いない。
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高市早苗と安倍晋三の歴史認識に見る頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた日本国家優越主義

2022-01-31 08:00:40 | 政治

 2021年12月20日付け「毎日新聞」記事(後半有料)が自民党高市早苗の戦前の日本の戦争に関わる歴史認識を、自民党総裁選に名乗りを上げたことによる月刊誌「Hanada」10月号のインタビュー紹介という形で載せている。記事題名は〈「開戦詔書」そのまま受け止め?80年後の自民「保守」派の歴史観〉

 自衛か侵略か、戦争をどう捉えるかは「当時の『国家意志』の問題です」と持論を述べた高市氏、「先の大戦への認識」を問われてこう答えた。

 「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます。先の大戦開戦時の昭和天皇の開戦の詔書は〈米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え(中略)帝国は今や自存自衛のため、決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり〉というものでした」

 要するに当時の日本国民は昭和天皇の開戦の詔書によって太平洋戦争を自存自衛の戦争であるとする国家意志を理解し、承認したのだから、侵略戦争という歴史認識は決して存在させていなかったということになる。

 但し一つ問題が生じる。侵略戦争ではないとする歴史認識は当時の日本国民に限ったことで、戦後の国民は必ずしも侵略戦争ではないと見ていないのではないかという疑義である。尤も高市早苗はこの疑義に対して答を用意している。毎日記事自体が高市早苗の2002年8月27日付ブログからその答を紹介している。〈「田原総一朗さんへの反論」(高市早苗ブログ/2002年08月27日)〉内の発言である。  

 〈私は常に『歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか』で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている〉(毎日記事紹介文章)

 毎日記事はこの高市早苗と同じ考えの歴史認識に当たる安倍晋三の言葉を2013年の著書『新しい国へ』の中から取り上げている。「当時を生きた国民の目で歴史を見直す」

 著書の実際の文言は、『その時代に生きた国民の目で歴史を見直す』の小見出しで、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか」。そしてその根拠を次のように挙げている。

 「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」

 対米英戦争はマスコミを含めた民意の賛同の上に成り立っていたということなのだろう。実際もそうであったはずだが、果たして正当な歴史認識と言えるだろうか。ただ、高市早苗と安倍晋三は共同歩調を取った歴史認識を構えていることになる。二人は歴史認識に於いてベッドを共にしていると比喩することもできる程に親密な見解となっている。

 記事は高市早苗の、安倍晋三も含めてのことなのだろう、このような歴史認識をどう見るか、戦争責任研究の第一人者である関東学院大教授の林博史氏に尋ねているが、結論は有料箇所に回されていて、無料読者は覗くことはできない。当方はド素人、専門家には敵わないのは分かりきっているが、当方なりに高市早苗と安倍晋三の歴史認識の正当性を解釈してみることにする。

 両者共に国民がその当時、何に賛成し、何に反対したのか、そのことによってのみ、歴史は価値づけられる、あるいは歴史は解釈されるとしている。だが、二人のこの考え方自体が論理矛盾に彩られている。なぜなら、日本が米英に宣戦布告した出来事自体は当時はまだ歴史にはなっていない、国家の政策遂行(=国家行為)に過ぎないからである。何らかの国家のその時々の政策遂行(=国家行為)が歴史の形を取るためには時間の経過、時代の経過が必要条件となる。つまり当時の国民ができたことは開戦、あるいは戦争という国家の政策遂行(=国家行為)に対する賛否――是非の解釈のみである。

 逆に後世の国民ができることは戦前当時の国家状況及び世界状況や社会状況等を起因とした国家の政策遂行(=国家行為)が時間の経過、時代の経過を経て歴史となった時点で時間・時代の経過と共に蓄積することになった知識を背景とした現在の国民の目を通した是非の解釈である。決して国家の政策遂行(=国家行為)に当時のままそのとおりに同調することが歴史解釈ではない。

 その一例が1942年2月19日にルーズベルト大統領が署名した大統領令により日系米国人が「敵性外国人」とされ、約12万人が全米各地で数年間強制収容されることになった国家の政策遂行を1988年8月10日になってレーガン大統領が「1988年市民自由法」に署名、その過ちを認めて謝罪したことに見ることができる。対日戦争当時の米国国家の政策遂行を時間・時代の経過を経た歴史として顧みることになったとき、その間に蓄積することとなった知識を背景としたその当時の時代の目を通して是非を判断した結果の謝罪であろう。と言うことは、米国国家の政策遂行として日系人を敵性外国人として収容した当時は、国家レベルに於いても、そして多くの米国民のレベルに於いても、間違っていたという考えは起きなかった時代性であったことを証明することになる。

 こういったことに対応した戦前当時の日本人の間でも日中戦争も太平洋戦争も、間違っていたとする考えは起きなかった時代の戦争に関わる国民の認識であったと見ることができるが、高市早苗も安倍晋三も、そのような制約を受けていた当時の時代に限った国民の認識をさも歴史認識であるかのように見せかけるペテンを働かせていることになる。そしてペテンをペテンでないと見せかける仕掛けが高市早苗の場合は「現代の常識や法律で過去を裁かない」とする時間と時代を経て形を取ることになる歴史と、同じく時間と時代を経て蓄積することになる知識とその知識の駆使の否定であり、安倍晋三の場合は直接的には言及していないが、当時の国民の考え方を採用することによって現在から過去に遡った歴史的事実に対する眺望、あるいは検証を許さない点、高市早苗の仕掛けと同じ形式のペテンを踏んでいることになる。

 また高市早苗の「現代の常識や法律で過去を裁かない」は戦前の日本国家――大日本帝国を当時の国民が支持していることを根拠に裁くことのできない対象、無謬の存在に祭り上げ、絶対化していることになる。絶対化は高市早苗による大日本帝国擁護に他ならない。安倍晋三が2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」にビデオメッセージを寄せて、「占領時代に占領軍によって行われたこと、日本がどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、それをきっちりと区切りをつけて、日本は新しスタートを切るべきでした」と主張していることも、占領軍によって改造される前の大日本帝国を擁護する考えに基づいているのであって、その擁護は大日本帝国を無謬の存在とし、絶対化する考えがなければ成り立たない。

 そして戦前国家に対するこのような扱いはそもそもからして大日本帝国国家自体が皇国史観(日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観「goo辞書」)に基づいて日本の歴史の優越性を抱え込み、このことと相まって日本は神国(大日本は神国なり「国体の本義」)であるとしていた選民思想が日本民族の優越性を培養する素地を成していたのだから、高市・安倍にしても、日本民族優越主義を精神の素地としていることになる。戦前国家の政治決定に無条件に同調することだけでも、大日本帝国国家が抱え込んでいた日本民族優越主義(=大和民族至上主義)の側に寄り添っていることに他ならない。 

 歴史は「その時代に生きた国民の視点」に立つのではなく、あくまでも後世に生きている国民の視点で眺めなければならない。日本の戦争を歴史という文脈で補足可能となるからである。そしてその当時の「国民の視点」にしても、それが正しかったのか、正しくなかったのかが歴史判定の対象となる。当時の視点は正しかった・正しくなかったの両意見があるだろうが、いずれの場合も正しい・正しくないの検証が必要であって、当時の視点にそのままに同調することではない。同調したら、すべての歴史が正しくなってしまう。何のために時間・時代を経たのかも、その間の知識の蓄積も意味を成さなくしてしまう。歴史解釈に関して「現代の常識や法律で過去を裁かない」、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」方法のみに正当性を与えたなら、ナチスのホロコーストも歴史的に正しい行為と評価しなければならなくなる。

 要するに「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とする絶対化は日本民族優越主義と相互呼応した関係を取る。日本民族優越主義を精神の素地としているからこそ、「大日本は神国なり」とする大日本帝国国家を無謬の存在とし、絶対化することができる。そうすること自体が日本民族優越主義の発動なくして成り立たない。

 だが、高市早苗も安倍晋三も、当時の国民の考え方を絶対とし、その考え方への同調を迫っている。大日本帝国の無謬化・絶対化・擁護には好都合だからなのは論じるまでのないことだが、単なる同調は歴史をどう認識するのか、どう解釈するのか、そういったことへの思考の発動とは全く以って異なる。そもそもからして当時の日本国民がどのような国家的・社会的状況に制約された環境下に置かれていたのか、高市早苗も安倍晋三も、どのような制約も考慮せずに当時の国民の判断・認識に頭から正当な価値づけを施している。当時は表向きは天皇を絶対君主とする、内実は軍部・政府が実権を握る二重権力構造下の思想・言論統制の時代にあり、天皇を含めた国家権力に対するどのような批判も許されなかった。許されたのは天皇と国家に対する無条件の従属のみだった。当然、昭和天皇の開戦の詔書に対して当時の日本国民は誰が表立って批判し得たであろうか。

 つまり戦前の大日本帝国は国家の意思が国民の意思を常に覆っていた。譬えるなら、当時の大日本帝国はお釈迦様であり、国民はその手のひらの中でのみ自由な行動を許されていた孫悟空に過ぎなかった。にも関わらず、高市早苗が「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます」の言葉で示している「当時の日本国民」が、あるいは安倍晋三が「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」の言葉で示している「その時代に生きた国民」がどのような思想・言論の統制下に置かれていたのか、そのことによって国家行為に対する国民の主体的判断が可能であったのかどうかの要件として考慮することができないのは高市早苗も安倍晋三も、頭の中では戦前国家を国民という存在の上に常に鎮座させているからだろう。

 もし両者共に国民という存在の上に国家を鎮座させていなかったなら、思想・言論統制の時代下にあった戦前の国民を国家の政策遂行(=国家行為)に対して主体的判断の主語とさせ得るかどうかぐらいの区別をつける頭はあるはずだが、その頭はなく、その当時の実情に反して主体的判断の主語として扱い、戦前の大日本帝国をまともな国家であったと見せかけるペテンをものの見事にやってのけている。大日本帝国を無謬の存在と看做して絶対化し、擁護するためには自分の判断に基づいて意思表示できる国民の存在は必要不可欠な条件となるからだろう。いわば当時の日本国民は自由意志を持って帝国国家の政策に賛成し、支持していたかのように見せかけるペテンを必要とせざるを得なかった。

 歴史認識に関してこういった仕掛けを施すことができるのは高市早苗も安倍晋三も、戦前を振り返るとき、国家のみに目を向け、国民には殆ど目を向けていないからである。結果的に当時の国民が天皇という存在と大日本帝国国家によってどのようなコントロール下に置かれ、主体的存在たり得ていたのか、いなかったのかの視点を欠いた認識を必然的に持つに至った。

 大日本帝国国家の国民を国家の従属物とするような(実際にも従属物としていた)この関係は当然のことだが、日本民族優越主義にしても、国民を国家鎮座の下に置いた形式を採ることになる。いわば国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた構造の日本民族優越主義である。まさに戦前の大日本帝国国家と国民はこのような関係にあった。でなければ、日本の歴史を万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開と捉える皇国史観は身の置所を得ることはなかっただろう。

 このような日本民族優越主義は、国民の権利など認めていなかったその実質性に鑑みて、日本国家優越主義と表現した方がより現実に適う。今後、そう表記することにする。

 高市早苗の頭の中に国家というもののみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に置いた思想――高市早苗の日本国家優越主義を反映させた国家観は2021年9月29日投開票の自民党総裁選に向けて自身の思想と政策を纏めた『美しく、強く、成長する国へ。私の「日本経済強靭化計画」』(電子書籍から)にも、当然のことと言えば、当然のことだが、反映されている。

 序章「日本よ、美しく、強く、成長する国であれ」

日本人の素晴らしさ

 「日本人が大切にしてきた価値」とは何なのか、と思われる方も居られるだろう。例えば、ご先祖様に感謝し、食べ物を大切にし、礼節と公益を守り、しっかりと学び、勤勉に働くこと。困っている方が居られたら、皆で助けること。そして、常に「今日よりも良い明日」を目指して力を尽くすこと。

 かつては家庭でも当たり前に教えられてきた価値観が、近年まで称賛された日本の治安の良さや国際競争力の源泉だったのだろうと考えている。

 幕末以降に来日した外国人が書き残された当時の日本の姿からも、日本人の本質が見えてくる。先ず、E・S・モースの『日本その日その日』の記述だ。「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 次に、H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』の記述だ。「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」「日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」「教育は、ヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。(中略)アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」

 そして、シーボルトの『江戸参府紀行』の記述だ。「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、大麦・小麦・菜種や甜菜の仲間、芥菜・鳩豆・エンドウ豆・大根・玉葱などが1フィートほど離れて1列に栽培されている。雑草1本もなく、石1つ見当たらない。(中略)旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果である」

 大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩みに、感謝の念とともに喜びと誇らしさを感じずにはいられない。現在においても、126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている。

 高市早苗が「日本人の本質が見えてくる」と感じ、「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている」と結論づけた訪日外国人の日本及び日本人を褒めちぎった日本の景色は"矛盾なき国家"、"矛盾なき社会"、"矛盾なき人々"に仕立て上げられ、善なる存在としか映らない。

 最も時代を遡るのはシーボルトの『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)であり、次がH・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』は江戸幕府終了3年前の1865年(慶応元年)のもので、最後がE・S・モースの『日本その日その日』の1877年(明治10年)6月18日から1883年(明治16年)2月までの5年余のうちの実質滞在の2年5カ月間の見聞録となる。古い時代から新しい時代へと順を追って眺めてみることでその間の日本社会と人々の生活を概観できると思うから、その方法でそれぞれの描写の的確性、日本人なるものに対する洞察力の確かさを見定めてみる。

 シーボルト『江戸参府紀行』の文政9年(1826年)は1603年に徳川家康が江戸に幕府を開設してから224年、明治まで40年余を残す幕末に当たる。江戸時代はほぼ一貫して日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民と1割の町人・商人その他を支配して、8割の農民に対して四公六民とか、五公五民とかの年貢を課し、武士が4割、5割の収穫米を取り上げ、農民には6割、5割の収穫米しか分かち与えない過酷な税制を敷いていた。結果、ちょっとした出水や日照りで田畑が損傷を受け、その損傷が長引くと、ときには年貢減免の措置が取られこともあったそうだが、殆どは納める年貢の量は変わらないために高持百姓(本百姓――江戸時代、田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の負担者として検地帳に登録された農民。農耕のための用水権・入会 (いりあい) 権を持った、近世村落の基本階層『goo辞書』)の中でも田畑をたくさん持っている者以外は食うに事欠くことになった。

 そして究極の生活困窮が百姓一揆という形で暴発することになった。「コトバンク」に出ていた数字だが、江戸時代を通して約3200件もの百姓一揆が発生することになる。1603年の江戸開幕から1868年江戸閉幕までの266年間で計算すると、年間12件の百姓一揆となり、日本のどこかで月1の割合で発生、計算上はそれが266年間も続いていたことになり、なおかつ明治時代に入ってからも百姓一揆が起きていることから見て、農民の生活困窮はある種、在り来たりの日常的な光景となっていたことを窺わせる。

 また、こういった村落単位の集団の闘争だけではなく、個人的に食えなくなった百姓が土地を捨て、村を捨てて、江戸や大阪といった大都会に逃げ出す走り百姓が跡を絶たなかったという。江戸では無宿人が溢れ、治安対策から収容所(寛政年間1789~1801の人足寄場が有名)を設けて収容し、今でいう職業訓練を施したそうだが、文政(1818~1830)の次の天保(1830~1844)になって、江戸人別帳(今で言う戸籍)に無記載の者を帰村させる「人返しの法」(帰農令)を出すに至ったが、効果はなかったという。食えなくなって出奔した同じ村に帰されるのだから、本人自身が希望を見い出すことができない幕府の命令と言うことだったのだろう。

 「百姓一揆義民年表」から文政年間の百姓一揆を眺めてみる。文政元年の大和国吉野郡竜門郷15か村は旗本・中坊広風の知行所だったが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を企てたため、西谷村又兵衛ら6百人程が平尾代官所や平尾村大庄屋宅を打ちこわした竜門騒動

 文政4年の松平宗発(むねあきら)の猟官運動で財政が窮乏した宮津藩で沢辺淡右衛門らの主導で年貢先納や万人講とよばれる日銭の賦課が行われたため、これに反対した農民が大挙して宮津城下で打毀しを行った宮津藩文政一揆

 文政5年の三大名間で行われ三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)で桑名藩主松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられたことに伴い、助成講の掛金が返還されないことを危惧した農民が城下に押しかけ、やがて数万人規模の全藩一揆に発展し、庄屋宅の打ちこわしなどが行われた桑名藩文政一揆

 この一揆は領地替えの際、大名がその地での借金を踏み倒していってしまう事例を情報としていた可能性を窺わせる。

 文政8年の特産物の麻の不作や米価高騰で困窮した信濃国松本藩領の四ヶ庄(今の長野県北安曇郡白馬村)の農民が発頭(ほっとう「先に立って物事を企てること」)となり、3万人ほどが庄屋や麻問屋などを打ち壊しながら松本城下に迫ったが、藩に鎮圧された赤蓑騒動

 そして文政11年にシーボルト事件(シーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件。 シーボルトは翌年国外追放、門人ら多数が処罰された「コトバンク」)が起きている。

 文政12年間に4件もの大きな百姓一揆が発生していた。江戸時代という封建時代に忍従の生活を強いられていた農民が余程のことがない限り百姓一揆にまで持っていくことはなかっただろうという意味からしても、百姓一揆前の生活の困窮の程度が知れる。農民を苦しめたのは年貢上納の過酷な割合だけではなく、江戸中期の儒学者が1729年(享保14年)に著した書物の中で伝えている年貢取り立て行為自体の不合理なまでの過酷さを取り上げてみる。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)が紹介している一文である。

 『経済録』(太宰春台著)

 〈代官が毛見(けみ・検見――役人が行う米の出来栄え(収穫量)の検査と年貢率の査定)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には庄屋名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢賦課の割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民(りみん・さとびと)は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(うえ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。このように代官が私曲をなし、民が代官に賄賂を贈る状況は、自分が久しく田舎に住んで親しく見聞したことである。これは一に毛見取(けみとり)から起ることで、民の痛み国の害というのはこのことである。定免(一定の年貢率)であれば、毎年の毛見も必要なく、民は決まったとおりに納めるので代官に賄を贈ることもなく使役されることもなく苦しみがない。それ故に、少しは高免であっても定免は民に利益がある。毛見がなければ代官を置く必要もない。代官は口米(くちまい)というものがあって多くの米を上(うえ)より賜る。代官を置かなければ口米を出す必要もなく国家の利益である。今世の田租の法として定免に勝るものはない。〉――

 江戸幕府の基本法典『公事方御定書』は、勿論賄賂を禁止している。

  賄賂差し出し候者御仕置の事
一、公事諸願其外請負事等に付て、賄賂差し出し候もの並に取持いたし候もの 軽追放
  但し賄賂請け候もの其品相返し、申し出るにおいてハ、賄賂差し出し候者並に取持いたし候もの共ニ、村役人ニ侯ハバ役儀取上げ、平百姓ニ候ハバ過料申し付くべき事。

 この『公事方御定書』は8代将軍徳川吉宗が中国法の明律(みんりつ)に素養があり、それを参考に1720年(享保5)に編纂を命じ、1742年(寛保2)に完成している。各藩は中国法の明律を直接参考にするか、徳川吉宗の『公事方御定書』を参考にするかで自藩の刑法典を用意したという。また、賄賂を取る者、差し出す者はいつの時代になってもなくならないという分かりきった事実の点からも、断るまでもないことだが、太宰春台の『経済録』1729年(享保14)からシーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)まで100年近くあるが、『明治初期の告訴権・親告罪』に、〈大政奉還の後、徳川慶喜からの伺に対して明治新政府は1867年(慶応3年)10月22日に新法令が制定されるまでは徳川時代の慣例(幕府天領には幕府法(公事方御定書)各大名領地には各藩法)を適用する(「是迄之通リ可心得候事」)との指令を出した。〉との記述があるから、『公事方御定書』は文政年間も生きていて、取り締まる側の代官自身の年貢取立てに関わる賄賂強要がその当時も百姓を苦しめていたことは想像に難くない。

 ところが、シーボルトの『江戸参府紀行』は「日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して」云々と日本の農業文化の伝統的で高度な進歩性を称賛するのみで、その光景からは過酷な年貢で生活困窮を強いられている百姓の持つ宿命的側面など一切窺わせない。

 現実の農民の多くは「驚くほどの勤勉さ」の裏で過酷な重税に苦しめられていた。「勤勉さ」は主体的な行動ではなく、年貢納付、あるいは小作料納付というノルマが強制する従属的な行動に過ぎなかった。過酷な年貢徴収、小作料徴収に応じて、どうにか命を繋いでいくための必死な足掻きは実質的には「勤勉さ」とは異なる。

 シーボルトが「旅行者を驚かす千年の努力と文化の成果」と見た、その実態は悲惨と苦渋と百姓という宿命への諦めに満ちた内実で成り立っていて、そこで働く農民の姿や田畑の状景を表面的に眺めただけでは見えてこない。にも関わらず、高市早苗は驚く程に無邪気にシーボルトが描いた農民の姿をそのままそっくりに素直に受け止めて、勤勉と見た黙々とした作業を「日本人の本質」と解釈するに至った。「大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩み」をそこに見ることになった。

 このお目出度さはどこから来ているのだろう。いつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない社会は存在しない。そしてその矛盾の多くは政治権力者によって作り出される。その一方で政治は大本のところで国家の政治機能を通して社会の矛盾の解消に努めることを役目の一つとしている。高市早苗は政治家でありながら、このような矛盾に関わる諸状況を頭に置くことができずに過去の訪日外国人のまっさらな日本及び日本人描写に対してその裏側の日本社会を覗く理解能力を完璧に失っていた。

 国家の優越を主体とし、その下に国民の優越を置いた日本国家優越意識が仕向けてしまう理解の限界と見るほかはない。安倍晋三に取り憑いている自分は優秀で特別な存在だと思い込む自己愛性パーソナリティ障害がそうであるように優越意識なる感性は自身が優越と見る対象に対してはどのような矛盾も欠点も認めまいとする意識が働いてしまうように高市早苗にしても矛盾のない時代も社会も存在しないという簡単な事実さえも見落としてしまって、自身の日本国家優越主義を満足させる情報のみに、その真偽を確かめずにアンテナを向けてしまうから、日本人や日本についていいことが書いてある情報のみを書いてあるままに受け入れて、日本国家の優越性やその二番手に置いた日本人の優越性を再確認したり、再発見したりすることになっているのだろう。

 こういった認識が働くのも、国民がどう存在していたのか、向ける目を持っていないことが災いした見解と言うほかはなく、結果的に日本の歴史を美しい姿に変える歴史修正まで同時並行的に行っていることになる。日本国家優越主義自体が歴史修正の仕掛けを否応もなしに抱え持っている。

 不正な手段で利益を得て、社会の矛盾を作り出している収賄や贈賄は年貢取り立ての代官やその手代たちと百姓の間だけで行われたわけではない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は将軍の推挙を受けて天皇から与えられる正三位とか従三位といった官位によって決まり、将軍の朝廷への推挙は老中の情報が左右するために大名たちは老中に賄賂を贈ることを習慣としていたという。当然、賄賂の額を競うことになるばかりか、官位による席次の違いがそれぞれの名誉と虚栄心と政治力に影響し、自らの権威ともなっていたのだろうが、賄賂資金の原資は百姓から取り立てた年貢米をカネに替えた一部であり、彼らの汗と苦痛の結晶ではあるものの、年貢を取り立てていることに支配者という立場から何ら痛痒を感じていない点、感じていたなら、虚栄心や名誉心のために賄賂のためのカネに回すことなどできなかったはずだが、支配者としての武士という立場上、こういった矛盾が矛盾として認知されていなかったことの矛盾は恐ろしい。

 幕末を3年後に控えた1865年(慶応元年)の日本訪問の見聞記H・シュリーマンの『シュリーマン旅行記』には「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」の描写がある。前記シーボルト『江戸参府紀行』の1826年(文政9年)から39年経過していて、その経過で政治は社会の矛盾を綺麗サッパリと拭い去ることができて、初めてH・シュリーマンの描写は生きてきて、100%の説得力を持ことができる。ところが、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に来航以降、尊王攘夷派と開国派、公武合体派が入り乱れて武力衝突を繰り返し、世情不安を招くと、大名や商人が米の買い占めに走って物価高騰を引き寄せ、生活面からも社会不安を引き起こして、年貢の重税と借金に苦しむ小作人に都市貧民が加わり、幕末から明治初期に掛けて「世直し」を唱え、村役人や特権商人、高利貸などを襲撃、建物を打ち壊す世直し一揆が多発することになった。

 「Wikipedia」には『シュリーマン旅行記』見聞と同年の〈慶応2年5月1日(旧暦)(1865年)に西宮で主婦達が起こした米穀商への抗議行動をきっかけに起きた(世直し)一揆はたちまち伊丹・兵庫などに飛び火し、13日には大坂市内でも打ちこわしが発生した。打ちこわしは3日間にわたって続き米穀商や鴻池家のような有力商人の店が襲撃された。その後、一揆は和泉・奈良方面にも広がり「大坂十里四方は一揆おからさる(起こらざる)所なし」(『幕末珎事集』)と評された。〉と出ている。

 同じ慶応2年には武蔵国秩父郡で武州世直し一揆が起きているし、1749年(寛延2)の陸奥国信夫(しのぶ)・伊達両郡(福島市周辺)に跨り起こった大百姓一揆が慶応2年に信達(しんだつ)世直し騒動と名を変えて再発している。この再発は百姓の困窮の恒常性を物語る一例となる。だが、シュリーマンは情報未発達時代の情報収集の限界なのだろうが、武士以外の国民の困窮や不平不満の気配、これらに起因した騒動を舞台裏に置くこともなく、「この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」をその目に入れていた。 

 だが、高市早苗は情報発達時代の今日に政治家として呼吸していながら、それぞれの時代の内実を眺望することなく、訪日外国人たちの時代の矛盾や社会の矛盾と乖離した底の浅い日本見聞の夢物語を日本国家優越主義には好都合な情報だからだろう、オレオレ詐欺に引っかかるよりもたやすく騙されてしまっている。

 百姓の困窮は生活そのものの困窮であって、生まれてくる子供にまで影響する。食い扶持が増えると、家族全体の生活が逼迫されることになる。「Wikipedia」に、〈堕胎と「間引き」即ち「子殺し」が最も盛んだったのは江戸時代である。関東地方と東北地方では農民階級の貧困が原因で「間引き」が特に盛んに行われ、都市では工商階級の風俗退廃による不義密通の横行が主な原因で行われた。また小禄の武士階級でも行われた。〉とある。

 間引きは産んでから殺す、堕胎は生まれる前に堕胎薬や冷たい水に腰まで浸かり身体を冷やしたり、腹に圧迫を加えたりして死産を導くことを言う。間引きの多発に幕府は1865年(慶応元年)の『シュリーマン旅行記』から遡ること約100年前の1767年(明和4年)に〈百姓共大勢子共有之候得は、出生之子を産所にて直に殺候国柄も有之段相聞、不仁之至に候、以来右体の儀無之様。村役人は勿論、百姓共も相互に心を附可申候、常陸、下総辺にては、別て右の取沙汰有之由、若外より相顕におゐては、可為曲事者也〉(百姓ども、大勢の子どもこれありそうろうえば、出生の子を産所にてじかに殺しそうろう国柄もこれあり段、相聞く、道に背く(不仁)の極みである。以来、このようなことがないよう、村役人は勿論、百姓共の相互に気をつけるよう申しべくそうろう。常陸、下総辺りではわけて右のような子殺しがあるよし、もしほかよりお互いに明らかになった場合はけしからぬことをなす者である。)と、間引き禁令を出すことになり、各藩もこれに倣うが、生活の困窮を手つかずのままにして禁令だけを出しただけではなくなるはずはない。『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館))の記述を見てみる。

 「美作の久世と備中の笠岡および武蔵久喜の代官であった早川八郎左衛門正紀(まさとし)」が「美作・備中の任地に赴いた時に、いたるところの河端や堰溝に古茣蓙(ござ)の苞(つと)があるのを怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだもので、男子には扇子、女子には杓子を付けてあって、その惨状に目を覆ったということである」

 早川八郎左衛門正紀が代官として美作国に赴いたのは推定で2万人の死者を出した天明の大飢饉のさなかの1787年(天明7年)のことで、幕府が間引き禁令を1767年(明和4年)に出し、各藩が倣ってから20年経過しているが、飢饉が原因しているものの、このような有様であった。堕胎と間引きを免れた子どもであっても、長男以外の男の子なら、10歳前後まで育てて口減らしのために商家の丁稚奉公か職人の見習い小僧などに出して、親が支度金とか前渡金の名目でそれ相応のカネにするか、女の子なら6、7歳の頃まで育てててから同じく口減らしのために女衒を通して女郎屋に禿(かぶろ・遊女見習い)として売って、10両前後の、百姓にしたら大金となるカネを手にするかしたりしている。後者の場合、親が売って得たカネは女衒の手数料を上乗せして借金として背負うことになり、遊女になるまでの経費をプラスして稼いで支払うことになる。要するに子どもを10歳近くまで育てる余裕のない親が子どもを堕胎したり間引いたりした。生活の困窮が全ての原因だった。

 『シュリーマン旅行記』の慶応年間を跨いで明治時代まで口減らしの堕胎は続いていたことは1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)施行の現行刑法に堕胎罪が設けられていることと、貧困が続く限り、法律が制定されてピタッと止むものではないことが証明することになる。但し両刑法に「間引き」なる文字は出てこないが、殺人罪でひと括りしていたとしたら、闇で行う者が存在していた可能性はあるが、「第336条」は「八歳ニ滿サル幼者ヲ遺棄シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁錮ニ處ス 2 自ラ生活スルコト能ハサル老者疾病者ヲ遺棄シタル者亦同シ」とあるから、間引きや堕胎以外に同じく江戸時代に行われていた捨て子や姥捨てが引き続いて行われていたことになって、否応もなしに生活困窮の光景が浮かんでくる。

 2011年の「asahi.com」の記事だが、20年程前から開発業者などが持ち込む江戸時代の人骨を研究用に受け入れてきた国立科学博物館が分析したところ、日本の全ての時代の中で最も小柄な上に特に鉄分が不足していて、総体的に栄養状態が悪く、伝染病がたびたび流行したことも一因だということだが、栄養状態が悪いからこそ、伝染病に罹りやすいのだろう、死亡率が低いはずの若い世代の骨が多かったという。つまり若死にを強いられていた。農民が過酷な年貢取り立てに応じるために満足に食事をせずに激しい労働を日常的に余儀なくされていただけではなく、町の住人も多くが貧しい生活を余儀なくされていた。

 政治の矛盾が社会の矛盾となって跳ね返る。H・シュリーマンの「平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序」は異国の地に於ける情報の未発達に守られた旅先での感傷に過ぎないだろう。多分、自分の生まれた国と社会が余りにも矛盾に満ちているから、矛盾のない国と社会に憧れる余り、少ない表面的な様子を見ただけで、ユートピアを見てしまったのかもしれない。あるいはその他の訪日外国人も含めて矛盾のない如何なる時代も、如何なる社会も存在しないというごくごく当たり前の常識を未だ情報とするに至っていない時代に棲息することになっていた知識の限界を受けてのことなのかもしれない。しかし何度でも言わなければならないことは高市早苗はこのような当たり前のことを常識としていなければならない現在の情報化社会に生息しているはずで、政治家なのだからなおさらのことだが、各時代の日本人の実際の姿とは異なる訪日外国人が描いた日本人の姿を「日本人の本質」と見て、「美しく生き」てきたと価値づけ、日本人の歴史を通した恒常的な姿だと結論、それを以って「日本人の素晴らしさ」だと、日本人という民族全体の評価にまで高めている。当然、この評価は支配権力が政治を行い、社会を成り立たせていく過程でどうしようもなく生み出してしまう各方面に亘る様々な矛盾というものを眼中に置いていない見識と言うことになって、日本国家優越主義なくして成り立たない思考停止であろう。国家なる存在だけを見ていて、国家を構成する実際の国民、その姿は見ていない。

 H・シュリーマンは当時の日本の教育について、「アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と称賛しきっているが、確かに江戸時代の民衆の識字率は高かったと言われている。だが、教育の機会は教育を受ける権利の保障が一定程度整っている(それでもまだ様々な矛盾を抱えている)現代と違って江戸時代の教育を受ける機会は武士も町人も農民も各家庭の経済力任せであったから、産まれてくる子に対して捨て子や間引き、堕胎を迫られる貧しい農民や貧しい都市住民、あるいは走り百姓となって故郷の村を捨てる農民たちや、収穫米の中から本百姓に小作料を物納すると殆ど残らず、あとは粟、稗などの雑穀で命をつないでくといった貧農にとって縁のないもので、貧富の影響をまともに受けることになる。こういった限定条件下での「読み書き」が実態であったはずだから、「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は過大も過大、買いかぶりの過大評価であろう。

 勿論、このように言うからには証明が必要になる。「日本の就学率は世界一だったのか」(角知行)が先ず1986年9月22日の静岡県で開催の自民党全国研修会での当時首相であった中曽根康弘の発言を紹介してる。人種差別発言だと非難を浴びることになって、当時評判となった発言である。

 中曽根康弘「日本はこれだけ高学歴社会になって相当インテリジェント(知的)なソサエティーになってきておる。アメリカなんかよりはるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだ低い。(中略)

 徳川時代になると商業資本が伸びてきて、ブルジョアジーが発生した。極めて濃密な独特の文化を日本はもってきておる。驚くべきことに徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい。世界でも奇跡的なぐらいに日本は教育が進んでおって、字を知っておる国民だ。そのころヨーロッパの国々はせいぜい20―30%。アメリカでは今では字をしらないのが随分いる。ところが日本の徳川時代には寺子屋というものがあって、坊さんが全部、字を教えた」

 「坊さんが全部、字を教えた」は恐れ入る。寺子屋師匠は僧侶だけではなく、武士、浪人、医者などが担っていたと言われている。寺子は入門料である「束脩(そくしゅう)」と授業料である「謝儀」を納めていたから、特に浪人にとっては生計を成り立たせていく大きな糧となったに違いない。

 中曽根康弘は当時日本国総理大臣だったが、識字率・文盲率が必ずしも人間性判断の基準とはならないという常識は弁えていなかったらしい。弁えていたなら、識字率だけで人種の優劣のモノサシとするような発言はしなかったろう。

 角知行氏はイギリスの社会学者のロナルド・フィリップ・ドーア(1925年2月1日~2018年11月13日)が著した『江戸時代の教育』を用いて、〈明治維新当時、「男児の40%強、女児の10%」が家庭外であらたまった教育をうけ、よみかきできたと推計〉し、〈補論においては先行研究をふまえて、よりくわしく「男児43%、女児10%」とみつもっている。〉と幕府末期から明治維新当時の日本の教育事情を紹介している。と言うことは、中曽根康弘の「徳川時代には識字率、文盲率は50%くらい」とする日本の教育の進歩性の証明は相当程度当たっていることになる。但し大きな男女格差に触れないのは一種の情報隠蔽、あるいは情報操作に当たる。

 角知行氏はドーアの研究を紹介する一方で、現東北大学教育学部教授八鍬友広(やくわ・ともひろ)氏の明治初期文部省実施の自署率(6歳以上で、自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に基づいた学制公布(1872年(明治5年))まもない時期の、分かっている県のみの識字状況を紹介している

 滋賀県:64.1%(1877年・明治10年)
 岡山県:54.4%(1887年・明治20年)
 青森県:19.9%(1884年・明治17年)
 鹿児島県:18.3%(1884年・明治17年)

 そして、〈八鍬は、近世日本では一部の地域では識字がかなり普及していた反面、ごく一部の人だけがよみかきをおこなって大半はそれを必要としない地域もあったことをあげ、地域間格差のおおきさに注意をうながしている。〉と解説を加えている。

 津軽藩のあった青森県は、「第5章 ケガツ(飢饉)と水争い」(水上の礎/(一社)農業農村整備情報総合センター)の情報を要約すると、〈元和5年(1619年)、元禄4年~8年(1691年~1695年)、宝暦3年~7年(1753年~1757年)、天明2年、7年(1782年、1787年)、天保4年、10年(1833年、1839年)と飢饉が襲い、餓死者が数万人単位から10万人も出したという。生死を問わず犬・猫・牛・馬等の家畜類を食べ、親や子どもを殺して食した。時疫(じえき・はやり病)による死者も何万と出て、天明の飢饉時には他国に逃れた者が8万人もあった。〉と出ている。

 この家畜食・人肉食は『近世農民生活史』も触れている。〈農民の生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の一割ぐらいに相当する人々を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出した時でさえも、武士には餓死するものがなかったという」

 最下級の武士は内職を営まなければ生活をしていけなくても、飢饉に際して命に関わる悲惨な境遇に見舞われることのない安住地帯にいた。

 こういったことも時代や社会の矛盾そのものであるが、上記記事に青森県の最後の飢饉が記されている天保10年(1839年)は『シュリーマン旅行記』の1865年(慶応元年)から遡ること27年も前となるが、青森県は寒冷地ゆえに農業ではまともな生活を維持できない宿命を背負わされていたことは戦後の日本の1960年代の高度経済成長期に青森県や他の東北県は集団就職や出稼ぎ労働の一大供給地で、成長を支える側にあったことが証明していて、こういった事実を踏まえると、津軽藩が厳しい寒冷地帯であったことから貧しい生活を余儀なくされていて、一方の鹿児島藩は年貢の取り立てが厳しく、農民は貧しかったということからの明治に入ってからのそれぞれの自署率20%以下と捉えると、滋賀県、岡山県の自署率50、60%以上は貧富の格差が招いた教育の格差という答しか出てこない。

 そしてこの地域ごとの貧富の格差は江戸時代も似たような状況にあったことから類推すると、当然、教育の格差を引きずっていたことは確実に言えることで、例え自署率が滋賀県、岡山県が50%を超えていたとしても、江戸幕府末期の日本の全ての地域で自署率100%という事実は存在しないことになり、シュリーマンの「日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」は美しい思い込みで成り立っているファンタジーに過ぎないことになる。だが、高市早苗のこの非現実的な美しいファンタジーをそのまま事実として受け止め、「日本人の本質」と見抜く事実誤認はやはり自身の精神に根付いている日本国家優越意識に適う情報であることと、いつの時代の国民にも向ける目を持っていないと解釈しなければ、事実誤認との整合性が取れなくなる。

 ここでシュリーマンが日本人の賄賂を拒絶する潔癖性について触れている姿を紹介している一文を参考のために取り上げてみる。 

 「ひと息コラム『巨龍のあくび』」(東洋証券)の「第98回:清国と日本・・・シュリーマンは見た!」

 シュリーマンは日本訪問の前に清国を訪れていた。〈そんな不潔な清国をほうほうの体で脱出して辿り着いた日本をシュリーマンは絶賛している。彼によると日本人は世界で最も清潔な国民であり、それは街の様子や日本人の服装だけではないという。たとえば、賄賂の授受は当時の未開発国では当然の現象であったが日本では違った。シュリーマンが横浜港に到着したとき、彼の荷物を埠頭に運んでくれた船頭は、わずか4天保銭(13スー)しか受け取らなかった。もしも天津のクーリーだったらその4倍は平気で吹っ掛けただろうとシュリーマンは記している。また横浜の税関でトランクを開けろと命じられたシュリーマンは、そのトランクを一旦開けてしまうと閉め直すのに苦労することから、清国と同じように賄賂を渡したところ、税関の侍は自分を指して「ニッポン・ムスコ」と言い、賄賂の受け取りを拒否したという。江戸時代に「ニッポン・ムスコ」という表現が存在したか不詳だが、たぶん「日本男児」という日本語を聞き取れなかったシュリーマンが、あとで誰かに発音を尋ね、その聞きとりのなかで誤解を生んだよう。〉

 「世界で最も清潔な国民」の清潔さは身体的もの等々に関してだけではなく、道徳的にも「世界で最も」潔癖であった。何しろ賄賂を拒絶したのだから。だが、1767年(明和4)に完成した江戸時代の基本法典『公事方御定書』も、1880年(明治13年)制定の旧刑法も、明治41年施行の現刑法も、共に贈収賄を禁止していることは贈収賄が現代にまで続いて延々と密かに、どこかでやり取りされていることを物語っている。要するにシュリーマンは一事を以って万事に当てはめる勘違いを起こしたに過ぎない。モースのように何度かの来日で数年に亘った日本見聞であったとしても、情報の未発達な時代の情報過疎の檻の中での見聞の機会しかなかった。横浜の税関の侍はほかに誰かがいたか、外国人ということでいいところを見せるために賄賂を断った程度のことだった可能性は疑い得ない。何しろ江戸時代はワイロが文化として横行した時代と言われているぐらいである。

 最後に動物学者E・S・モースの明治10年頃から明治15年頃の日本を描いた『日本その日その日』の記述が高市早苗が評価しているとおりに日本人全般に亘って当てはめることができる「日本人の素晴らしさ」の表現となっているのか、祖先が「美しく生き」たことの証明とすることができるのかどうか、「日本人の本質」を突いているのかどうかを見てみる。

 「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」

 恵まれた階級の日本人も貧しい日本人も等しく備えている「特質」だとしている以上、この文章から窺うことのできる日本人が全般的に備えている性格は質素で、驕ることのない物静かな謙虚さと寛大さと言うことができる。質素で、謙虚で寛大な性格だからこそ、挙動は礼儀正く、他人の感情に思いやりを持つことができる。

 つまりどのような境遇に置かれていようと、恨み言一つ吐かず、その境遇を心穏やかに受け入れることができていた。でなければ、謙虚とは言えなくなる。明治時代に入ってからも百姓一揆が起きているということは既に触れたが、1873年(明治6)7月から始まった地租改正に対する百姓一揆は全国各地で発生、打毀や焼打ちに発展することもあったという。さらに1880年(明治13年)制定の旧刑法と1908年(明治41年)制定の現行刑法に堕胎罪と幼者、老者、疾病者、身体障害者を遺棄することを禁止していることは現実には行われていることの裏返しだということも既に触れた。

 妊娠した子どもの堕胎、間引きは江戸時代、明治に続いて大正、昭和に入ってからも続けられていたことは「歴史の情報蔵」(三重県の文化)が取り上げている。避妊技術の未発達と恒常的な貧困が動機の慣習化となっていた。農民人口は1900年(明治33年)には総人口の70%近くまで減少することになったが、『日本の農地改革』(大和田啓氣著・日本経済新聞社)に、〈国民の8割は農業に従事し、国庫収入の8割は地租(土地に対して課した租税)であり、農産物の輸出額が総輸出額の8割を占めるというのが明治初年の日本であった。農業が最大の産業であったのである。〉(15P)と出ていて、明治の初期までは江戸時代と変わらない農民人口であったが、〈(地租改正条例発布の明治6年)当時の小作地は3割弱であったと推定されるが、(小作地での取り前は国34%、地主34%、小作人32%と決められていて)政府は小作料を現物納のままとし、地租(土地に対して課した租税)だけを金納としたので、米価が上昇する過程で地主が有利に、小作が不利になった。〉(16P)結果、自作田が減っていって、小作田が増えていき、〈小作田の面積が自作田をこえたのは、明治42年である。大正11年には田では小作地が51.8%、昭和5年には53.8%となった。農地改革(1946年~1950年)直前の状況もこれとそれほど変わらず、昭和20年11月23日現在の小作地が45.9%、自作地が54.1%であった。〉(21~22P)と出ている。

 小作地は地主の所有物で、地租は土地に対して課した税金だから(明治6年の地租改正条例発布の際、地価の3%を地租とする地券を発行)、小作人は国に対しては税金を納める義務はなく、地主に対して収穫物のうち小作人の取り分32%を残して、68%分の田なら米で、畑なら、収穫野菜で物納し、地主は物納された68%のうち自身の取り分34%を残して、残り34%を国の取り分としてカネに変えて、国に対して金納した。勿論、地主は自身の所有する土地屋敷と田畑に対する地価3%の地租を金納しなければならないが、この地租3%は江戸時代の年貢額を減らさない方針で地租率が決定されたそうで、一部の富裕な地主を除いて地主一般にとっては負担が大ききく、だからこそ、中小の地主が自前の田畑を大地主に売って、小作人化し、小作地の割合が増えることになり、そもそもの悪の根源を地租改正に置くことになって、地租改正反対一揆が全国的に発生し、明治政府は1877年(明治10年)に地租率を3%から2.5%に引き下げることになった。但し一番割りを食ったのは小作人だそうで、作物のうち、68%もの収穫物を持っていかれて、残り32%から種籾代・肥料代等々を差し引くと、小作人の取り分は20%を切ったという。要するに自作田の減少とこれと対応した小作田の増加は明治時代を通して農民が全国民の70~80%を占めている以上、明治社会全体と言っていい、江戸時代以上の貧困化への傾斜を示すバロメーターでもあった。農村だけではなく、魚山村でも堕胎、間引きが行われていたことも明治社会全体の貧困を示す証明となる。貧困は人間性への拘りを無頓着にさせる。

 しかしモースの言葉「挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり」が「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」としている以上、人間性豊かな日本人の提示であり、貧困ゆえに人間性への拘りに無頓着にならざるを得ずに堕胎や間引きや捨て子や姥捨てや身体障害者の遺棄を行う現実の多くの日本人の姿を消し去っている。

 要するに日本人について触れたE・S・モースの言葉にしても、H・シュリーマンの言葉にしても、シーボルトの言葉にしても、非現実そのもので、何を勘違いしたのか、人間という存在の本質も、時代というものの本質も、社会というものの本質も見ない、ユートピア(理想郷)仕立てにした美しいお伽噺を作り上げたに過ぎない。結果的としていつの時代も多くの矛盾を抱えていて、矛盾のない国家も社会も人間集団も存在しないにも関わらず、その真逆の矛盾というものを消しゴムで消し去ってしまったシミ一つない日本人像・日本像をデッチ上げてしまった。

 尤も訪日外国人が異国情緒も手伝ってか、あるいは生国の社会の矛盾等への反動からか、それぞれが見た日本人をお伽噺の国の住人に仕立てたとしても無理はないと言えるが、高市早苗はそれぞれの訪日外国人が訪れた時代時代の日本の歴史を振り返ることのできる位置に立っている以上、それぞれの歴史が本質として抱え込んでいるそれぞれの矛盾に留意して眺め直す作業を通して、彼らの日本人描写が適正かかどうか判定しなければならないにも関わらず、それぞれの矛盾に向ける目を持たずにそれぞれの訪日外国人が描いた日本人の矛盾一つない姿と日本像をそっくりそのまま受け入れて、「日本人の本質」を突いていると感服し、「美しく生き」た祖先の姿を各描写に見ることになった。

 モースの日本人観察が如何に非現実的か、モース自身の言葉が証明している。「江戸東京博物館開館20周年記念特別展 明治のこころ モースが見た庶民のくらし」

 〈世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。〉(E.S.モース『日本その日その日』二巻(石川欣一訳)より抜粋)

 通算2年5カ月程に過ぎない日本滞在で子どもたちがニコニコしている所を見て、「朝から晩まで幸福であるらしい」と解釈するのはお前の勝手だと言いたくなるが、国全体の子どもがそういう境遇にあり、それが世界一だと断定的に価値づけるには一事が万事なのか、一事が例外的事例なのか、明らかにし、前者であることを証明して初めて日本程子ども天国の国はないと断定すべきだったろう。問題は日本人自身がほんのちょっとの間日本を訪れた外国人の書いたことだと無視するならいいが、それぞれの国がそれぞれに抱えている時代の現実、社会の現実がそれぞれに背負い込むことになっている何らかの矛盾というものの存在は日本という国も抱えているはずだと合理的に判断するのではなく、世界一日本の子どもが親切に取り扱われいると観察された通りの情報と看做して無条件に後世にまで生き永らえさせている。

 日本人自身が国家の矛盾も時代の矛盾も社会の矛盾も、人間が自らの生き様にそれぞれに抱えてしまう矛盾も一切無縁の完璧な存在として作り上げた訪日外国人の日本人像、あるいは日本像を何の疑いもなく積極的に受け入れてしまうのは日本人自身の内面に同じ日本人像、あるいは同じ日本像を抱えていて、両者を響き合わせるからであって、その日本人像は過ちのないパーフェクトな人種として存在させていることになるし、戦前を対象とした内面性として発揮させているなら、大日本帝国という国家を、その運営・人材も含めて常に正しい国家と見ていることになる。その典型的な例が高市早苗であり、安倍晋三ということであろう。日本人は人種的に優れているとしていながら、その実、国家を国民の上に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座させた関係に置いて日本国家を優れているとする日本国家優越意識を精神の下地としていなければ、どのような国家体制であったのかを無視したり、国民の人権状況に無頓着であったりはできない。

 高市早苗の先に挙げた「126代も続いてきた世界一の御皇室」とか、「優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさ」云々にしても、自らの精神に日本国家優越意識を大雨が降ったあとの川の水のように満々と湛えていていなければ、口に出てこない言葉であろう。論理的な判断に基づいて「世界一の御皇室」としているわけでもなく、単に日本国家優越性証明のスローガンとして口にしているに過ぎない。日本人が「優れた祖先のDNAを受け継いている」が真正な事実だとしても、そのことによって国家の矛盾も、時代時代の矛盾も、社会の矛盾も、日本人が人間存在として抱えることになる様々な矛盾も絶対的に無縁とすることができるわけではなく、特に政治の矛盾は今後も、様々な場面で噴き出ることになるだろう。

 高市早苗は皇室が「126代」も続いた理由を万世一系であること、男系であること、いわば血の優秀さに置いているだろうが、このことも高市早苗や安倍晋三だけではなく多くの日本人に日本国家優越意識を育む誘因となっているが、歴代天皇自身が自らの力で126代の地位の全てを紡いできたわけではない。大和朝廷成立近辺からは世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の伝統的な常套手段となっていた。

 例えば蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのおう)を生ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍が斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる例は、外祖父として権力の掌握を目論んだことの失敗例であろう。成功した一例として、蘇我稲目が2人の娘を欽明天皇の后とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生んでいる例を挙げることができる。

 藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子(けんし)を入れて中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立を生じると、天皇の眼病を理由に退位に追い込んで、長女彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させ、自らは後見人として摂政となっている。
1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り、後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子(たけこ)を入れて中宮となし、「一家立三后」(いっかりつさんこう)と驚嘆された。そして藤原氏の次に権力を握ることになった平清盛も娘を天皇に嫁がせて、外戚(がいせき・母方の親戚)となって権勢を誇ることになった。

 要するに世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子を後に天皇の地位に就け、自身は外祖父か外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする二重権力構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段として忠実に受け継がれていった。時代が下って自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇に据える傀儡化――血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、源頼朝以降、距離を置いた支配が主流となっていったが、天皇の権威を国民統治装置に利用し、天皇の背後で実質的政治権力を好きに握る権力の二重構造は引き続いて源氏から足利、織田、豊臣、徳川、明治に入って薩長・一部公家、そして昭和の軍部に引き継がれて、終戦まで歴史とし、伝統とすることとなった。歴代天皇を歴史的・伝統的に国民統治の優れた装置とするための必要性から生じた、いわば国民向けの勿体づけのための万世一系であり、男系という一大権威であって、世俗権力者にとってのその手の利便性から結果的に126代も延々と続いたということであろう。

 そもそもからして多くの歴史学者が神話上の人物としか見ていない神武天皇を初代天皇として、その即位年から日本建国の年数を数える日本式の紀年法である"皇紀"なる名称は4世紀末頃から5世紀頃の大和朝廷成立当時からあったものではなく、1872年(明治5年)に「太政官布告第342号」を以ってして制定したものであって、政府は1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たるとしてその年に大々的に奉祝行事を行うことになったが、明治に入ってから使い始めたという経緯からすると、皇紀元年を西暦紀元前660年に当てていることから、西洋の歴史よりも長いとする日本の歴史及び大日本帝国と天皇を権威付ける仕掛けであったことがミエミエとなる。

 戦争中は大本営は天皇直属の最高戦争指導機関でありながら、国民に対してだけではなく、天皇に対してもウソの戦況報告をした。軍部は実質的には天皇の下に位置していたのではなく、天皇の上に位置していた。だから、対米戦争反対の天皇の意向を無視して、対米戦争に突入することができた。

 要するに戦前日本に於ける軍部を含めた政治権力者たちは歴史的に伝統的な権力の二重構造に従って天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制する国民統治装置として利用したが、国策の場では「大日本帝国憲法」で規定した「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とか、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」といった天皇像が実在することを許さず、お飾りとも言える名目的な存在にとどめておく巧みな国家運営を行った。あるいはそのような権力の二重構造によって大日本帝国憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮させ、国民統治装置として機能させていたが、軍部を含めた政治権力層には通用させず、そのような権限の埒外に常に存在させていた。

 各武家政権時代は歴史的踏襲としてその権威だけが利用され、存在自体は蔑ろにされてきた天皇は江戸幕府末期になって将軍という一方の権威に対抗する他方の権威として薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力に担ぎ出されることになって、再び歴史の表舞台に躍り出ることになった。この経緯自体も天皇の権威のみが必要とされた事情を飲み込むことができる。その一端を窺うことができる記述がある。『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に明治維新2年前の慶応2年に死去した明治天皇の父である幕末期の孝明天皇(満35歳没)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。

 大宅壮一は岩倉具視孝明天皇暗殺説を全面否定しているわけではない。岩倉具視以外の誰かが行った可能性を残している。「数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と言っていることは藤原道長が一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后とし、彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させて、自らは後見人として摂政となり、好きに政(まつりごと)を行った例を窺わせ、薩長・一部公家が明治天皇の後見人となって自分たちの思い通りの政治を行った可能性は十分に考えられる。そういった中での1872年(明治5年)、明治天皇21歳のときの「太政官布告第342号」による皇紀年号の制定である。薩長・一部公家にとっては天皇の名に於いて政治を行う関係上、若い天皇により大きな権威付けが必要になったといったところなのだろう。熱烈な天皇主義者は現在でも改まった時と場合には皇紀年号を使う。

 こうのように歴代天皇が歴史的・伝統的に置かれてきた実態を眺め渡してみると、天皇の権威なるものは歴史を彩ってきた世俗権力者たち歴代に亘る政治的産物以外の何ものでもなく、高市早苗の「126代も続いてきた世界一の御皇室を戴いてきた」とする最大限の称揚は中が空洞の巨大な竹の骨組みを紙で覆った程度の空疎な内容しか与えない。科学的な合理性はどこにもなく、万世一系だ、男系だと騒ぐのは滑稽ですらある。だが、高市早苗の精神の中では天皇家126代の権威は歴代天皇が自らの政(まつりこと)によって自ら育み、歴史を経て積み重ねられ、重みを持つに至った価値あるものとして根付いていて、彼女の日本国家優越意識をしっかりと支えている。

 頭の中に国家のみを鎮座させ、国民を国家鎮座の下に位置させた、いわば真に国民に向ける目を持っていない日本国家優越主義を内面の奥底で信条とする政治家に、当然の成り行きとして一般国民に寄り添った政治は行うことはできない。安倍晋三のように「国民のため」は方便で、国民よりも国家を優先させて、国家の繁栄だけを目的とすることは間違いない。
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