「日本の警察に感謝します」

2006-06-29 03:24:21 | Weblog

 東京渋谷の昼下がりの路上で資産家の一人娘である21歳の女子大生が身代金目的で誘拐されたが、1日も経たずに犯人たちは逮捕され、被害者は無事保護された。

 娘が誘拐された母親として、犯人をスピード逮捕し、被害者救出に成功した警察に 感謝したい気持は分かる。しかし「警察に感謝します」で十分であるにも関わらず、「日本の」という形容詞をわざわざつけたのはなぜなのだろう。ここは日本の国であり、断るまでもなく社会の治安と一般市民の生活上の安全を守ることを日本の警察は役目としている。アメリカの警察が管轄しているわけではない。分かりきっているのに、「日本の」である。

 母親にさすが日本の警察という気持があったからこそ出た殊更な断りではなかったろうか。日本の警察は優秀だという認識を従来から固定観念としていた。そこへきてこの一件である。優秀だという思いを新たにした。他の国の警察ではない、やはり日本の警察のやることは違うという賛美が「日本の――」と特定することとなったということだろう。

 事件捜査の間、警察は犯人特定に関する情報を何もつかんでいなかったわけではない。母親は捜査員から捜査進展の一部始終を聞いていたはずである。被害者をまさに拉致していく瞬間の情景と連れ込んだ車両の目撃情報があったこと、目撃した女性が車種・色・ナンバーをはっきりと確認していて、その情報をもとに犯人使用の車両がレンタカーであり、貸したレンタカー会社も割り出したこと、犯人が使用している携帯電話から大体の位置が分かること、犯人逮捕にさして時間がかからないといったことを逐一伝えられて、安心してすべてを任せてください、娘さんは必ず無事保護しますと励まされていただろう。そうすることも警察の役目である。

 それとも警察は自らの捜査能力に自信がなく、犯人逮捕に失敗した場合のことを考えてすべての情報を伏せていたのだろうか。偽装は村上世彰や福井日銀総裁、あるいはホリエモンだけの特許ではなく、日本の警察の特許ともなっている。やりかねないことではあるが、今回の場合はトントン拍子に捜査は進展していただろうから、そんなことはあるまい。

 犯人逮捕のすべては有力な目撃情報を鍵としていたが、そのキッカケを簡単に許したのは犯人側の間の抜けた計画が原因となっている。白昼20歳代の女性を強引に車に連れ込む誘拐を計画するなら、不特定人物に目撃される可能性を予定表に組み込まなければならないし、今の時代、どこに監視カメラが設置されているかも分からないから、その備えもしなければならない。ところが犯人側は借りるとき面識を持つことになるレンタカーを使用して犯行に及んでいる。重大な犯罪を決行するというのに、レンタカー会社から提示した免許証と目撃によって人物・人相が割れる可能性を考慮していなかった上にレンタカーをいつまでも乗り回していた間抜けさである。

 緻密な計画を立てるとしたら、盗んだ車を使用すべきであるし、それでも念を入れてナンバープレートに細工して、パトロール中の警察車両に不用意な職務質問を受けないよう用心する。誘拐に成功し、被害者を一定の場所に監禁した後は盗んだ車を関係ない場所に放置し、後の行動は自分の車で行う。どこで検問に引っかかっても、免許証の提示・車検証の提示を不審を持たれずに行えるようにするためである。自己所有の車がなければ、サラ金から20万30万借りて、中古車の1台も用意することをしなければならない。

 但し、身代金の受け取りは再び別の車を盗んで、その車を使用する。それくらいの念入りさは必要であろう。そういったことが危機管理というものである。

 客観的・公平に見るならば、目撃という偶然と(時間帯、場所柄からいって確率の高い偶然であったはずである)目撃される可能性を考慮に入れておかなかった犯人たちの間抜けさ加減に助けられたスピード逮捕であり、「日本の」とわざわざ頭に断りをいれる程に警察捜査が優れていたことからの事件解決というわけでは決してない。

 母親が目撃情報があったことを含めて捜査の一部始終の情報を聞かされていて娘の顔を見るまでの経緯を様々な情景をも含めて記憶していただろうことと、日本の警察が検挙率や職務姿勢といった点で優秀でも何でもないことが世間一般の評価情報となっていることを考え併せると、いくら娘の身の安全に心を痛めていて、その反動と合わさった無事保護の喜びからの感謝の気持があったとしても、「日本の警察に感謝します」という言葉が口を突いて出たと言うことは、もしそれが皮肉でなければ、母親自身がそれぞれの情報を公平・的確に分析するだけの客観的認識能力に元々欠けていたと受け取るしかないのではないだろうか。

 テレビに出演して、自分の資産家として築いた豪邸やリッチな収入、所有している馬鹿にならない値段の宝石類を自己宣伝し、それが情報として全国に流される。同じテレビが難病に苦しむ人間や本人の努力に関わらず貧しい生活を余儀なくされている人間の情報も流している。地震や津波、あるいは大雨による洪水で生命や財産を失う者が多くいることを我々は情報によっていやでも知らされる。警察の捜査怠慢で死ななくても済んだ人間が死ぬ羽目に追いやられていることも情報は教えている。

 テレビを通した私生活に関わる自己宣伝行為自体が他の様々な生活や人生に関わる世間から得ていたであろう情報を自己自身の情報と比較対照して〝相対化〟するだけの力を持ち得ていないからこそできることで、そのとき既に本人の社会に対する客観的認識能力の欠如を証明していたと言える。

 日本の警察が母親の「日本の警察に感謝します」という最大限の能力評価を真に受けて日本の警察は優秀なのだと思い込んだとしたら、日本の警察自体も客観的認識能力をクスリにしたくてもまるきり持ち合わせていないことを暴露することになるだろう。

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宮崎死刑囚もやはり人の子

2006-06-28 00:53:02 | Weblog

 連続幼女誘拐殺人事件を起こして死刑が確定した宮崎死刑囚が月刊誌に手記を寄せて、「日本で実施されている絞首刑について『踏み板が外れて下に落下していく最中は、恐怖のどんぞこに落としいれさ(ら)れるのである。人権の軽視になってしまいます』」(06.6.7.『朝日』朝刊)と述べているそうである。

 絞首刑否定の代わりに「『(米国のように)薬使用死刑執行だと、「遺族にはやはりすまないことになったなあ」と反省や謝罪の言葉を述べる確立(確率)も高い』」(同記事)と「薬使用死刑」を支持している。

 殺人者であっても、やはり人間である。今後の制度自体と方法の是非は別として死刑判決が他者の生命を犠牲にしたその残忍さに対する懲罰であることを当然の認識として、その懲罰(=死)と日々向き合っていく段階を経なければならないのは既定された事実であるにも関わらず、価値判断が自己中心に立った自己利害の制約を受け、そこから逃れられないでいる。そもそもの幼児誘拐殺人自体が他を一切顧みない異常なまでに自己中心的な自己利害行為であり、それをそのまま引きずった自己中心性でもあろう。世の中、こういった人間が多いのは、それが人間本来の姿でもあるからだ。利害の自己中心性が強いか強くないかの違いしかない。

 政治にしても国民のためと言いながら、直近の選挙(参議院選)への影響を考慮して消費税の増税率を曖昧とする国民ではなく自分たちのことを考えた自己中心的な自己利害を優先させる。

 人間は幼くても自己中心性を抱えている。それでも幼く生き・幼く笑い、ときには幼いままに泣き、幼いままに怒る。食べ、寝て、遊び、父親、母親と親しみ接し、友達と触れ合う。自己中心性を抱えながらも、感情と意志ある生きものとして無心・無邪気に生き、それがずっと遠い将来まで続くという生命自体に本来的に与えられ、人間の当然の権利としても与えられている意識・無意識の生命の予定調和を自己中心の歪んだ欲望・歪んだ自己利害のために無残にも暴力を以て破壊し、抹消した自らの残忍な仕打ちは打ち忘れてしまったらしく、誘拐し、殺した幼い子どもたちにどれ程に深い「恐怖のどんぞこ」を味わわせたことか、それがどれ程に残酷な「人権の軽視」であったか、〝相対化〟の差引計算すらできずに絞首刑が宮崎死刑囚に与えるとする「恐怖のどんぞこ」、「人権の軽視」の不当を訴える。

 少なくとも宮崎死刑囚には自らが犯した「人権の軽視」と比較した場合、絞首刑の「人権の軽視」を言う資格はない。それでも言うのは、犯罪者であったときから死刑囚となった現在まで、他者の生きて在る事実は存在せず、生きて在る自己にのみ目を向けているからだろう。自己あるのみ、の自己中心性なのである。

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納得しよう村上世彰のインサイダー取引

2006-06-27 04:14:57 | Weblog

 村上世彰記者会見「検察がライブドアの宮内さんから聞いたんでしょ、って言うんですね。聞いちゃったと言われれば、聞いちゃっているんですよね」

 記者会見まで開いて、日本放送株の買い占めは意図的・計画的なインサイダー取引ではなく、結果的にそうなってしまったインサイダー取引だったと表明。いわば儲けようと狡い気持でやったわけではなく、私は狡くはないと言うわけである。

 実際は日本放送株の3分の1を買い占めることができれば、村上ファンド所有の日本放送株と合わせてフジテレビを乗っ取ることができると村上氏自身からライブドア側に話を持ちかけ、時間外取引という手もあることを教えて買い占めさせ、自身も値上がりを見込んで買い増し、ライブドア側の日本放送株買い付けが公表されて株価が上がったところで、村上ファンドの株と合わせてという最初の約束を破って市場で売り抜け、30億の利益を得た完璧無比なインサイダー取引行為だったという。

 自分から話を持ちかけ、約束を裏切って利益を得ていながら、裏切り行為・不正利益行為を隠そうと自分から持ちかけた話ではないように装う。記者会見を開いて世間にそう公表したら、検察側はそう受け取ると信じたのだろうか。世間にだけそう信じさせることができたとしても、検察が信じなければ、相手のいる事実は遠からず露見する。少なくとも検察まで信じ込ませようと意図して開いた記者会見だろう。なかなかに狡猾・巧妙な陰謀ではあるが、いずれバレることだから、どこか抜けている。

 村上被告がかつて日本の官僚であったことを考えると、インサイダー取引で一儲けしようと企んで実行したことも、記者会見を開いて罪薄めを図ろうとしたコスカラさも、その狡猾・巧妙な陰謀は十分過ぎる程に納得できる話ではないだろうか。ああ、やっぱり日本の官僚の代表者たちと同類だったんだなと。そして福井日銀総裁も似た者一味といったところだろう。

 福井日銀総裁の潔く責任を取って辞任しない総裁職へのしがみつきが、村上世彰の記者会見を開いて意図的インサイダーではないと見せかけた姑息さと響き合う情景であることもそのことを証明している。まあ、日本の政治家・官僚によくある響き合いではあるが。

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教育論からの日本サッカー強化の処方箋

2006-06-26 04:05:36 | Weblog

 日本時間6月23日、日本チームが対ブラジル戦を4-1で敗れて、1勝もできないままに1次リーグ敗退が決定、06年度サーカーワールドカップ挑戦の幕を閉じた。

 最終戦となった対ブラジル戦開始前に確か清水エスパルスでかなり前にゴールキーパーを務めていたと思うのだが、ブラジル人のシジマールが(かなりのおっさんになっているようだった)静岡県の浜松市で暮らしているらしく、ブラジルチームではなく、日本チームを応援すると言うのを静岡を地元とするテレビ局が映し出していた。額には日の丸の鉢巻きをして、日本チームのサポーターになり切っている。リポーターの質問に、「3―0で日本が勝つ」と即座に宣言した。

 日本チームが幸先のよい先取点を入れたものの、前半戦の終了間際に同点とされた瞬間、シジマールの予想は崩れた。リポーターが予想が早々に外れたことを指摘すると、シジマールに「日本の選手、ボール見てるけど、周りの選手見ていないよ」と逆に怒るような口調で日本チームの欠点を指摘されてしまった。面倒見切れないといった調子だ。

 23日夜のNHKテレビでは、98年の日本チーム監督の岡田武史氏がアナウンサーに日本サッカーの今後の課題は何かを問われて、「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」と言っていた。

 6月24日の『朝日』新聞は中小路徹氏(単なる記者なのか、サッカー関係者なのか分からない)と04年度の日本チーム監督のトルシエ氏、それに元日本代表の北沢豪氏の解説を別々の記事で載せている。

 まず中小路徹氏の記事を簡単に見てみると、「組織か個人か。理想とする戦術に合わせて選手を選び、細かく教え込んだトルシェ監督に対し、戦術の大枠だけを示し、あとは選手個人に自分の能力を最大限に引き出すことを求めたジーコ監督」

 「指示されるのではなく選手自らが状況判断を下す自主性を求めた」

 トルシエ元監督が血肉となっている日本人の行動様式・思考様式を十分に承知していて、「細かく教え込む」指示方式を採用したのかどうかは分からない。しかしジーコ監督が知らなかったのは事実だろう。知らなかったからこそ、「選手個人」の判断・自主性に任せることができた。知っていたら、とても「自主性を求め」ることなどできなかったろう。

 何度でも言うことだが、暗記教育にしてもその一つ現れに過ぎない、上からの指示に従い、それをなぞる方法で自分の行動・思考を決定していく習性(権威主義)を日本人は一般性としている。判断・自主性に関して言うとするなら、如何に従い、如何になぞるかに関する判断と、判断に応じてその方向に向けた自主性は、その限りに於いては勿論十分に発揮し得る。指示に従って、指示されたとおりになぞっていく上での発展はあるが、指示にない自分の判断がないから、それが必要となる相手がある場合は相手の動きを追いかけるのが精一杯の、なぞることに関する自主性は何ら役に立たないといった事態に陥る。その忠告として、岡田武史氏は「コーチが言ったとおりのことをするだけではダメで、何をするか分からないというところがなければダメだ」と選手個人個人が自らの判断を持ち、それに従った自己独自の動きを求めたということだろう。 

 また「日本の選手、ボール見てるけど、周りの選手見ていないよ」と言っていたシジマールの言葉は、ボールの動きに従い、その動きをなぞることには慣れているが、それだけで、相手チーム・自チーム含めた周囲の選手の動き・位置に関する咄嗟の判断とその判断に応じたボール扱いがないという判断の限界(=動きの限界)を指摘したと解釈できるはずである。判断と動きは表裏一体を成すから、相手選手の裏をかくような自主的な動き(=岡田氏が言う「何をするか分からないという」動き)は特に期待できないことになる。

 結果として「結論から言うと、ジーコ監督のやり方は時期尚早だった」と指摘しているが、民族性としてある日本人の行動様式・思考様式である。保育・幼稚園時代から小中高大学と暗記教育離れを経験しないことには従い・なぞる行動様式からの卒業は難しく、「時期尚早」どころか、永久に実現不可能な「ジーコ監督のやり方」ということになりかねない。

 記事は「日本はこれまで、個人能力の劣勢を、組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた。現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない、逃げでもあった」と一般的な分析となっている日本チームの体質的な特徴に言及した上で、その問題点を指摘している。同じ団体競技であっても野球みたいに一定の順序(相互の関係)が前以て決まっている(ピッチャーがキャッチャーのサインを受け、ボールを投げ、打者が打ち、その打球を野手が追いかけるといった相互の選手の関係と順番性)だけではなく、監督からサインを受け、その順序とサインに従属する中で選手は一人ずつその能力が試され試合が展開していく、決められている指示(全体的ルール)に対する従属の形式に則った上での個人能力の発揮は日本人の行動様式・思考様式とは調和し合うが、だからこそワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本チームの王ジャパンは力を発揮して初代チャンピオンの座に輝くことができたのかもしれないが、サッカーは選手一人一人が自らサインを出していく判断と判断に応じた技術が不特定多数との絡み合いの中でその場その場で順序(相互の関係)を組み立て試合全体を構成していく一定の形式を超えた団体競技であって、日本人の行動様式・思考様式とは本質的には相容れない構造となっている。

  外国勢相手のサッカーの勝敗を決定する主要因がそのことに占められている以上、「組織力」を以て臨むのは永遠の限界を抱えることになる。郷に入らずんば、郷に従え。サッカーが要求する勝敗決定要因に従う以外に道はないのは言うまでもない。それとも永遠の三流に甘んじるか。

 誰しも三流は望んでいないようで、最後に次のように結んでいるが、「ジーコ監督は選手を信頼しすぎてしまった。懸念されるのはこの4年間が否定されてしまうことだ。組織と個人能力は対立軸ではなく、両方備えてこそ、強いチームになる。やっぱり個人能力重視はダメだと、組織頼みに針を戻すようでは、日本サッカーは退行するだけだろう」は当然の警告であろう。

 但し、では具体的にどうしたら「個人能力」が育成できるのかの処方箋は示されていない。

 前回日本の監督だったトルシエは「敗因はまず選手の経験不足。たしかにこの4年間で、彼らは経験を積み進歩したが、それでもまだリアリズム(現実に即してプレーする判断力)が足りない。ロナウドの同点ゴールも豪州戦の悪夢の10分間も、選手に状況を的確に見分ける力があれば起こりえないことだった」(一部抜粋)と言っている。

 最初の記事の中小路徹氏はトルシエ元監督を組織力重視派に位置づけていたが、要求しているのは「状況を的確に見分ける」個人能力としての「リアリズム(現実に即してプレーする判断力)」の向上である。

 尤も「4年前はコレクティブに(集団で)戦い1次リーグを突破した。今回は個人の強さを前面に出したが、不十分だった。日本の誇る中盤は、技術レベルは高いが、結果は何ももたらさなかった」と自身の戦術が組織力重視であったことを披露しているが、そのことに反してジーコ監督の「個人の強さを前面に出した」戦術に選手の個人能力が不足していたためについていけなかったと言うことだろう。当然、その不足を補う向上が要求される。

 日本サッカー協会の川端会長は「02年のトルシェ前監督のように、選手を枠にはめるような方向には絶対しない。選手の個々の特徴を大事にするジーコの流れを変えない」(06.6.24『朝日』朝刊)という方針で次期監督の人選に入っているとのこと。〝日本的〟ではダメだ。非日本的な〝自主性〟を基本とした戦術を求めると言うことだろう。そういった主体的行動性を日本人に求めるのは本質のところでは無理があると承知しているかどうかである。

 元日本代表の北沢豪氏は「ブラジルを見て思ったのは個性があり、バリエーションが豊かなこと。日本は特徴、武器を持った選手が少ない。個人の武器を伸ばすことは個の力を伸ばすことになる。それが日本が強くなっていく一つの方法だと思う」(一部抜粋)

 言葉は違えても、言っている内容は3氏とも同じである。個人能力の向上を訴えるものの具体策は示せないでいる。

 今朝の『朝日』朝刊(06.6.25)が、次期監督にJリーグ1部・ジェフ千葉のオシム監督の就任が確実になったと報じていた。「オシム監督が選手に求めるのは約束事を守ることではなく、チームにとって何が必要なのかを常に考える姿勢だ。
 規律で縛った02年W杯のトルシエ監督から、自主性を求めた06年のジーコ監督、そしてオシム監督へ。日本協会は両極端に振れた舵を、真ん中へ持っていこうとしているのだろう(中小路徹)」)

  オシム監督は90年W杯で旧ユーゴスラビア代表の監督を務め、チームをベスト8にまで導いた実績があるとのことだが、個人能力に劣る日本人選手が相手である。例えジェフ千葉を強いチームに変える能力を見せたとしても、いわば日本というコップの中で子供同士を戦わせて頭一つ抜け出た程度の成果を上げたといったところで、外国勢という大人を相手の戦いの中でジェフ千葉を変身させたわけではない。いわば素材自体に差があることも考えなければならない。誰が監督になろうと日本チームを率いるのは難事業であって、簡単には行かないことを覚悟しなければならない。

 今年8月に07年アジアカップ予選が開始すると言う。4年後には再びW杯(南アフリカ大会)が待ち構えている。保育・幼稚園から暗記教育離れを促すことで上の指示に従って、指示されたとおりになぞっていく一般性となっている行動・思考様式を薄め、それに代わる主体的判断を裏づけた〝自主性〟を身につけさせ個人能力の向上につなげていく方法を本質的には必要とするが、それでは時間がかかり過ぎ、アジアカップ予選はともかく、4年後の南アフリカ大会にしてもとても間に合わない。
  
 では日本人の行動・思考様式には手をつけずに、判断能力と運動性両方の個人能力を高めるにはどうしたらいいか。サッカーに関してはド素人に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないが、大胆不敵・不遜にも具体的な処方箋を示してみようと思う。

 まず最も強いチームと対抗できる力を養うために、23日1次リーグ最終戦のブラジルチームと日本チームの実力差はどの程度か、数値で弾き出す。もしブラジルチームが日本チームの2倍の実力があるとするなら、新監督のもと新たに編成された日本チームは試合形式の練習を多用し、日本チームのイレブンに対して、相手チームは常にゴールキーパーに当たる1人を抜いた21人編成として、11人対21人のチームで練習試合を行う。

 もしブラジルとの実力差が1.5倍なら、11人×1.5≒16人を相手チームとする。当然日本チームはどの選手も普段以上の多人数の厳しいマークを受けることになるが(ブラジルのロナウジーニョなどは日常的に3人4人のマークを受ける)、パスにしてもドリブルにしてもシュートにしても、阻もうとする力とかいくぐろうとする力のせめぎ合いの中で阻もうとする力が強ければ強い程、かいくぐっていく判断と動きはいやでも優る形でその場その場で決定していかなければならないわけで、いくら選手が指示に従い、それをなぞっていく行動・思考様式を同じ日本人として一般性としていたとしても、それを働かす余地は与えてもくれないはずだし、優る形への努力が瞬間的な判断力と身体的敏捷性を少しずつ育む方向へ導いてくれるはずである。

 21人相手、16人相手では多勢に無勢過ぎて技術を身につけるどころか話にならないということなら、相手チームは12人から始めて、徐々に増やしていき、ブラジルとの実力差と対等となる人数に限りなく近づけていくという方法もある。

 動物にしろ植物にしろ生き物は環境への適応を余儀なくされて進化や退化を繰返すように、判断力にしても運動能力にしても多人数相手の試合という環境への適応を余儀なくされて、能力は進化の方向に向かわなければならないはずであるし、向かうようにしなければならない。15人から20人の多人数チームとの試合を少なくとも5分で戦えるレベルにまで達したとき、大人に位置する外国勢と対等に戦える力を獲得できたと言えるのではないだろうか。

 この方法は非現実的だろうか。

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安倍晋三の靖国参拝論に見る〝事実提示〟

2006-06-24 06:02:17 | Weblog

 自民党の偉大な政治家・安倍晋三は常々こう公言していた。

 「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝すべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」

 これは自分が「次の首相」になった場合は公約となるものであろう。

 最近言わなくなったのは、次期総裁選の争点とされた場合、自分に不利になるという計算があってのことだというから、なかなか巧妙・したたかである。だとしても、安倍晋三が「次の首相」となった場合、公約となる性質上からも、当然「リーダーの責務」を果たすために「靖国神社に参拝すべき」として実行することは、国民の前に信念の政治家を演ずる必要上からも間違いないはずである。靖国参拝の実行如何が安倍晋三が公約を守る政治家かどうかの試金石となって立ちはだかるであろうし、なるかどうかの象徴的行為にもなるだろう。

 我々は〝歴史〟の中に生きている。過去の歴史を受け継ぎ、歴史の現在を生き、そのありようを未来の歴史へと受け渡す。

 当然、そのように生きる〝歴史〟は正確に記録されなければならない。不正確であったら、間違った情報を未来に伝えることになる。

 安倍晋三の「小泉首相の次の首相も」云々が示す事実関係を正確な〝歴史〟として未来に向けて伝えていくためには、実際の歴史(=実際の過去)に即したより普遍性を持った事実の提示に務めなければならない。

 正しい内容に改めよということではない。なぜなら、事実は解釈次第でその正当性を変え得る部分を含むからである。

 より普遍的な事実の提示と言うことなら、こう翻訳されるべきだろう。

 「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝すべきだ。日本という国のためにアメリカ・中国・朝鮮、及びその他のアジアの国々に向けて侵略戦争を戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と。

 安倍晋三が未来の歴史への受け渡しとなる歴史の現時点での自らがそうあるべきとする姿をこのような事実の提示で示さないのは、彼の事実解釈に於いて日本の戦争を〝侵略戦争〟だとしていないからだろう。事実は自らが正しいとする解釈によって、正しい事実となる。いわば本人の判断次第だが、「アメリカ・中国・朝鮮、及びその他のアジアの国々」と戦った戦争であることの事実は解釈によって変えようがない、あるいは解釈の余地を与えない絶対性を抱えているはずである。

 となれば、少なくとも次のようには改めなければならない。

 「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝すべきだ。日本という国のためにアメリカ・中国・朝鮮、及びその他のアジアの国々と戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」

 それでも〝正しい戦争〟だったと事実解釈するなら、そのことを付け加えて、「国のために正しい戦争を戦った方に」とすべきだろう。

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愚かしいばかりの〝愛国心〟教育

2006-06-22 20:09:00 | Weblog

 06年6月16日のNHKの夜9時台のニュースで、「どう教える愛国心」と題して実際の授業の取材を通した〝愛国心〟教育を取り上げていた。舞台は国の研究指定校だという西東京市の向台小学校6年生の教室である。同校は道徳教育に力を入れているという。

 授業を受持つのは30歳前半と思われるイケメンの男性教師明石先生(6年生担任)。〝愛国心〟をテーマとする授業は初めてだそうで、テレビのどんな授業をするつもりかの問いかけに、「愛国心ということで僕自身が教育を強く受けた経験はあまりないです。難しいと思うのですが、テーマがテーマだけに――」

 「あまりない」ということは厳密に言うと全然「ない」ということではなく、少しはあるということだが、日本人は経験が全然ないことでも、「あまりない」と体裁を装うことが間々、どころか頻繁にある。Yes・Noをはっきり言わずに程よく自己のプライドを維持しようとする性格傾向を民族性として持っているのだが、そういった日本人の歴史・伝統・文化から考えると、私立の特殊な学校を卒業したのでなければ、年齢から言っても、〝愛国心〟教育を「強く受けた経験」は実際はゼロなのではないだろうか。

 それは後の展開を見てみれば予測がつく。

 「愛国心を育てる授業は国の学習指導要領に基づいて行われています」との解説があり、指導要領の<国を愛する心を持つと共に>の文言がカメラで映し出された。学習指導要領の「主として集団や社会とのかかわりに関すること」とする項目に於ける「郷土や我が国の文化と伝統を大切にし、先人の努力を知り、郷土や国を愛する心をもつ」との定めを言うのだろう。

 向台小学校では週1回の道徳の時間に年に1度か2度、〝愛国心〟教育に取り組んでいるということである。毎日朝から晩までやればいいのに。客観的認識能力を持たない日本人をいつまでも絶やさないためにも。

解説「どんな授業にしたらいいのか、明石先生はミーティングで道徳が専門の吉本校長に相談しました」

校長「自身の経験をふとしたことで語っていく。という中で、子どもたちが心の中にすうっと沁みいるものがあって――」(先生たち、それだけで理解できたらしく、ただ頷いている。上位権威者の言うことをかしこまって機械的に頷くのも日本人の顕著な民族性となっている)

解説「吉本校長に明石先生自身の身近な体験から子どもに考えさせるよう、アドバイスされました。明石先生が教材に選んだのは、ブラジルで歌った『故郷』と言う物語です。日本から移り住んだ人たちの祖国に寄せる気持が書かれています。明石先生自身が子供の頃フィリッピンに住んだ経験があり、同じように日本のことを考えたことがあります」

 授業風景が映し出される。

解説「授業に吉本校長も参加しました」

校長「外国の人たちと仲良く暮らしていきたいなあ――」と生徒に語りかけるが、最後まで取り上げなかったのはたいして意味もないことを喋っただけだったからだろう。

解説「まず明石先生が移住したお年寄りが日本の童謡を聞くシーンを読み聞かせます」

明石「アンコールがかかる。その曲は再び『ふるさと』だった」

  ラジカセで『ふるさと』をかけ、生徒たちに聴かせる。「ウサギ、追ーいし、彼の山~」(生徒たちがテレビカメラが回っていることと曲の雰囲気に合わせてのことからだろう、一様に顔を俯かせる様子でしんみりと聴いている)

明石「会場の人たちも歌い出し、その歌声は大合唱となって、僕達を包み込んだ。周りを見回すと、あっちにもこっちにも涙をぬぐっている人たちがいる――」

解説「吉本校長は、なぜお年寄りたちが歌を聴いて涙を流したと思うか子どもたちに尋ねました」

生徒「日本がなぜか懐かしくなって、涙を流した」

生徒「生まれ育ったりして、何か、そういう他の人との触れ合いとかを思い出した」

吉本校長、黒板に赤チョークで、「日本への思い出」と大きく書く。

解説「子どもたちはお年寄りが日本にいた頃のよかったことを思い浮かべて涙したようだと考えたようでした。そこで吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけました」

校長「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」

女子生徒「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」

男子生徒「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」

女子生徒「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」

解説「明石先生は自身も子供の頃ふとしたキッカケで日本のよさを考えたことがあると語りかけました」

明石「フィリッピンの小学校のみんなとお互いの文化とかを紹介しあった。仲良くしようねという会があったのですね。なかなか日本のいいところとか素晴しいところを考えることはなかった、正直――」

解説「愛国心をテーマにした明石先生の初めての授業が終わりました」

テレビカメラを向けられての感想――

女子生徒「自分の国のよいところを考えたり、そういう身近なことを素晴しいことがあるっていうことを考えるのは難しかったです」

男子生徒「何か時々考えてみようと思った」

解説「明石先生は授業の中で愛国心と言う言葉を一度も使いませんでした。子どもたちに自分が住む日本のよさを考えさせようというものでした」

明石「キッカケ作りとしては、多分共通してできると思うのですが、後は子どもたちがこのキッカケをどう自分のものとして消化していくか、どう、そういう気持ちにつなげていくか、その作業はまたこれから試行錯誤していかなければならないのかなと思います」

女子アナウンサー「先生自身も探しながら、戸惑いながら、悩みながら・・・・(後は聞き取れない――多分、「試行錯誤しているのですね」と言ったのかも知れない)」

 アナウンサー自身、客観的認識を働かすこともせず、批判も何もなく、放送された一切を頭から肯定的に把えている。果たして一切を肯定することができるのだろうか。
* * * * * * * * * * * * * * * *
 どうでもいいことだが、明石先生の〝愛国心〟授業が吉本校長の「アドバイス」の忠実な再現に過ぎないことから、〝愛国心〟教育を「強く受けた経験」は実際はゼロなのが予測できる。

 解説は「子どもたちはお年寄りが日本にいた頃のよかったことを思い浮かべて涙したようだと考えたようでした」と言っているが、担任の明石先生が『故郷』という物語を読み聞かせ、ラジカセで『ふるさと』という曲を流すことまでして、年寄りたちが涙を流したことを伝えた上、吉本校長が「なぜお年寄りたちが歌を聴いて涙を流したと思うか子どもたちに尋ね」たこと自体が、既に答を用意していたことになり、子どもたちが「考えた」というよりも、誘導されたと言った方が正確であろう。

 〝誘導〟に応じたに過ぎないからこそ、「日本がなぜか懐かしくなって、涙を流した」とか「生まれ育ったりして、何か、そういう他の人との触れ合いとかを思い出した」とか、1+1の答が2しか導くことができないようにごくごく当然の答しか出てこなかったのだろう。
    
 ブラジルに渡り、その地で年老いた日本人が日本を思い出して涙する。しかし、アメリカに渡り、その地で年老いたイタリア人、アイルランド人、イギリス人にしても、それぞれが母国を思い出して涙することもあるだろう。日本人だけが特別に持っている感情ではない。母国にいた頃の「よかった」ことの経験にしても、日本人にのみ特有な現象ではない。読み聞かせた物語からそれ以上の発見が何かなければ、「教材」とした意味は出てこない。〝発見〟は番組を見た限り、何もないようである。

 移住した人間にとっての一般的な感情の働きであり、経験であることを省き、無視して、日本人だけを問題とし、「日本のよさ」だけを抽出すべく拘る。最初からそういった〝相対化〟のない場所から教え(=教育)が入っている。逆に言うと、校長・担任共に〝相対化〟意識を持ち合わせていないからこそできる授業とも言える。何しろ国の研究指定校である。

 〝相対化〟作用を持つことによって生徒の意識の世界は広がっていく。それがなければ生徒の世界が広がるはずはなく、これでは客観的認識能力が育つどころか、逆に視野(生徒の世界)を限定する方向にのみ役立つ。他を排除し、日本の国の長所だけを教えようとする構造自体が、既に客観的認識性獲得の埒外の教育内容となっている。

 また涙したことが「日本への思い出」だったとしても、涙した対象を以て、それを「日本のよさ」とすることはできない。母国での過ぎし若い頃の生活上の忘れ難い一コマが単なる〝私〟の経験――ごく個人的な出来事に過ぎないということもあるだろうからである。

 例えば友達と喧嘩別れになってしまった。仲直りしようしようと思っていたが、仲直りのキッカケがつかめずにブラジルに渡ってしまった。そのことがいつまでも心残りとなっていた。彼はどうなったのだろうかとかつての友達に懐かしさを感じて涙したといったことは「日本のよさ」ということにはならない。

 「日本への思い出」の対象を「日本のよさ」に結びつけること自体に既に無理がある。あるばかりか、結び付けたとしたら、間違ったことを教えることになる。ところが「吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけ」ることで、「日本のよさ」に結びつける誘導を行っている。

 明石先生にしてもブラジルに移住して年老いた日本人の祖国へ寄せる気持を「日本への思い出」とし、「子供の頃ふとしたキッカケで日本のよさを考えたことがあると語り掛け」ることで「日本のよさに」に吉本校長共々結びつけている。

 その結果、子どもたちは校長や担任の「日本への思い出」=「日本のよさ」の誘導に同調して、その文脈で自らの答を導き出している。

 そのような舞台をわざわざ作って、「日本のよさ」を誘導する。生徒は〝誘導〟に応じた同調を行う。小学校低学年の生徒が先生の引率(=誘導)におとなしく従って2列縦隊で遠足か美術館に導かれて行くようにである。そういった構造の授業となっている。

 これは他の暗記授業と形式的には何ら変わりはない。他の授業が教科書やそれを解説する教師の言葉の中に既に答が準備されていて、それをなぞって反復するだけで答を形作ることができるように、〝誘導〟自体に既に答が準備されていて、誘導すべく期待している答に添って生徒は答を形作っていく。「日本のよさは何だと思うか」――「日本のよさはこれこれです」で完結させることができる。

 解説が「そこで吉本校長は子どもたちに自分たちが住む日本のよさは何だと思うか問いかけました」と説明し、吉本校長自身の「僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」との〝誘導〟を受けた生徒たちすべての答が〝誘導〟に添うことだけに向かったのは、校長・担任がブラジルに移住して年老いた日本人が故郷を思って涙した物語を〝相対化〟できなかったことの当然の反映でもあるのだろう。学校教育者でありながら〝相対化〟意識が欠如している状況はどのようなパラドックスを意味するのだろうか。

 生徒が答えたいずれの「日本のよさ」も、年齢相応の新鮮な視点からの発見ではなく、多くの日本人が既にどこかで言っている言葉であって、いわば使い古された言葉に過ぎず、当然月並みで紋切り型、悪く言うと、手垢のついた決まり文句並みなのは、〝誘導〟自体が既に答を準備していて、生徒がその〝誘導〟に添うことのみを目的としているから、手軽に、あるいは手っ取り早く誰かが既に言った言葉の借用と言う形を取ることとなったのだろう。

 使い古されている言葉を学校の生徒が使用するのも問題だが、大の日本人が日本、もしくは日本人特有の価値観であるかのように言っていることの方が如何に客観的認識能力が欠如しているか物語っていて、問題である。

 個々の発言内容を具体的に見てみると、「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」は日本人が「正直さ」を絶対としている倫理観であるかのような言い回しとなっているが、絶対どころか、人間はウソをつく生きものであり、日本人もその例外ではない。人間は一つの価値観で成り立っているわけではなく、逆に一つの価値観で成り立たせる能力もなく、正直な人間もいるし、不正直でウソつきな人間もいる。正直な人間であっても、ときにウソをつく、あるいはついてしまうのが人間であると言う認識は誰もが持たなければならない客観性でありながら、多くの日本人が持てずに「日本人は正直な民族」だとか、「日本人は親切で優しい」とか言う。あるいは「日本人はサムライ民族だ」と抜けぬけと高言する。政治家、・官僚をチョット見ただけで。「コジキ民族だ」とは言えるが、「サムライ民族だ」などとはとてもとても言えないのが分かる。

 多くの日本人が持つそのような客観的認識性の欠如がストレートに小学校6年生の生徒にも反映している。ストレートにとは、小学校6年生であっても普遍性としてある人間の現実の姿をテレビドラマやマンガ、雑誌、あるいは日常的な対人関係を通した親や兄弟姉妹を含んだ他者、さらには自己自身の中に見てきていて、学んだであろう人間という生きものに関わる小学6年生なりの認識――フィクションの世界にもいくらでもあるし、親や兄弟、さらに友達や自分までもがウソをつく、その記憶――を活用できずに、いわば年齢相応の客観的認識性すら示せずに、それら一切を「日本のよさ」への同調の前に無化し、「日本人は正直」という同調のための虚構を借用してしまうのだから、これほどのストレートさはないだろう。

 女子生徒を含めた多くの日本人が言うとおりに「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直」だとしたら、日本の学校・社会にいじめは存在しないことになる。男性教師の女子生徒に対する淫行・性犯罪などは外国の話ということにしなければならない。外国の人間が聞いたら、いや、確かに我々の国にもあるにはあるが、日本の教師ほど多くはないと言うかもしれない。

 少なくとも日本人の犯罪は存在しないこととなり、犯罪報道を自己存在証明の重要部分としているマスコミは利き腕をもぎ取られた苦境に陥ることになるだろう。朝の時間帯、みのもんたの顔も見れなくなる。

 「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」にしても、「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」にしても、多くの日本人が言っていて耳にタコができるくらい聞き古された「日本のよさ」ではあるが、日本に限った「よさ」、日本に限った固定された特色ではなく、多くの外国にある一般性であろう。あるいは四季がなくて雨季と乾季のみであったとしても、それなりに素晴しい自然があり、それぞれに旬の食べ物もあるだろう。そうでなければ中国料理とかイタリア料理、フランス料理、タイ料理、ベトナム料理、インド料理、その他その他の外国料理の恩恵を日本国内で受けることはなかったろう。日本料理にしても外国の地に進出している。いわば相互性としてある文化であり、「旬の食べ物」であって、そういった〝相対化〟なくして認識の世界を広げることはできない。

 一つの答に対して、その答をどう思うか、他の生徒の意見を聞くこともないし、異なる考えがあるかどうかも尋ねない。あるいは教師自身が妥当な認識に導くといったこともしないから、つまり生徒の言いっ放しで終わらせるから、当然議論は生まれず、議論が生まれなければ、〝相対化〟も生まれず、一度答えさせるだけで誘導すべく狙った答に外れる内容でない限り答として罷り通らせてしまう。勿論そうさせているのは学校である。教師が問い、生徒が答えるほぼ1回限りの返球のないキャッチボールで完結させてしまうことが主流となっている日本の教育に従った知識の授受なのは言うまでもない。何度でも言うが、西東京市の向台小学校の場合は何しろ国の研究指定校である。

 解説は明石先生が「授業の中で愛国心と言う言葉を一度も使」わなかったと説明しているが、続く「子どもたちに自分が住む日本のよさを考えさせようというものでした」という言葉の中に〝愛国心〟教育が〝日本のよさ〟の発見へと〝公式化〟の一歩を踏み出していることを物語るものだろう。

 「郷土や国を愛する心をもつ」〝愛国心〟教育が〝日本のよさ〟の発見だというふうな公式化は日本及び日本人の欠点や不足、矛盾な点には目を向けない客観性を欠いた〝誘導〟を当然の条件とするが、教師の〝誘導〟に合わせて生徒が答え、それで完了する械的対応によって、もし教師の側から日本のいいところはこれこれです、歴史・伝統・文化の点でこういったいいところ、素晴しいところがありますと答まで出してしまう〝誘導〟へと進み、その答が国(文部科学省)が準備した〝誘導〟としてあるものなら、戦前のような国家主義教育のいとも簡単な再現とならない保証はない。その恐れは決して的外れではない。多くの保守政治家が国家主義を植えつけたくてうずうずしているし、生徒の側は機械的対応を得意中の得意としているのである。

 例えそういうコースに進まなくても、既に指摘したように小学校6年生の人間にも日本の絶対性意識の影響が現れているのである、〝日本のよさ〟の発見へとパターン化した〝愛国心〟教育が国の指導で年に1~2回が10回20回と増えていった場合、粗製濫造される〝相対化〟を経ない〝日本のよさ〟は〝相対化〟を経ないという唯一その理由によって、当然の結末として日本だけが優れているとする意識(=自己文化中心主義、あるいは日本民族優越主義)へと多くの生徒を導かないはずはない。世界も日本もそれぞれによい点もあり、悪い点もあるという〝相対化〟意識の育み、世界の中の日本、あるいは世界あっての日本という相互性に関わる視点・認識の育みを犠牲として手にする反対給付なのは断るまでもない。

 「学力向上は心の勉強を通して生きる力を養うのです」と「百ます計算」の陰山英男がキレイゴトを言っているが(06.6.21.「教育朝日2006」)、「生きる力」とは暗記教育による「学力向上」といった機械的な積み重ね、もしくは「心の勉強」といった抽象的な営みからではなく、〝考える力〟を身につけることによって獲得し得る能力である。どう生きるか〝考える力〟に応じて、それぞれの生き方、人生が決まっていくからである。

 〝考える力〟は〝相対化〟の訓練を通した客観的認識能力の獲得にかかっている。〝相対化〟が個々人の視野・生きる世界を広げていく。日本の教育にはそれがない。〝愛国心〟教育がその最たる位置を獲得することは間違いない。

 〝愛国心〟教育バンザイと言ったところか。

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日本サッカーの実力と評価

2006-06-20 04:43:44 | Weblog

 サーッカーワールドカップ、0対0の引き分けで終わったクロアチア戦。テレビでの試合後のコメントを宮本選手は「30度近くもあって、きつかった。ブラジル戦は夜9時からだから、体力的には楽だ」といった敗因の理由にもならないことを話していた。

 相手だって暑くてきつかったろう。柔道やボクシングの体重別階級とかいったように、試合は気温何度以下で行われるといった制限がルールされているわけのものではない。寒暖は乗り越えなければならない条件と最初から決まっている。

 対日本戦の夜9時からの気温の恩恵はブラジル選手にも同じように配分される。日本選手のみに惠となった降り注ぐわけではない。相手のことまで考えに入れることができない自己中心性は戦う相手があって成り立つスポーツ選手には致命的な感覚としてあるものではないだろうか。

 テレビのニュースを見た限りだが、走りながら目指した相手にパスをまわすにしても、走りながらそのパスを受け取ってシュートするにしても、正確性に欠けていたことが得点につながらなかったのではないだろうか。確度に欠けるパスであっても、それを補ってシュートを決める技術力があれば、少ないチャンスをモノにすることも可能だが、その技術力さえ劣るから、ボールがバーを越えたり、ポールを大きく外れたりする。技術力に匹敵した試合運びがもたらした0対0の引き分けといったところではないか。

 点を取る・取らないによっても、疲れは違ってくる。チャンスを潰してばかりいたら、疲れは普段の体力の消耗以上に襲いかかってくるだろう。勝てば、どんなに疲れていても、快い疲れとなる。試合後にあれこれ言うのではなく、そういったことまで前以て予想しておくべきだろう。

 新聞やテレビは日本チームの決定力不足を言うが、正確性に欠けるから、決定力不足となって現れているのであって、決定力なるものが他と無関係の単独の能力として存在しているわけではないはずだ。

 朝日新聞のスポーツ欄の見出しは2面ぶち抜きの横書きの大文字で「侍魂 耐え抜いた 攻めた あと一歩」となっていた。どこが「侍魂」なのか、実力相応の結果であって、それを「侍魂」と美化する。宮本選手の弁解以上に悪趣味で倒錯的な、敗因を曖昧にする煽て以外の何ものでもない。日本の選手やサポーターをその気にさせて甘やかすには役に立つ。日本の愛国者たちが日本という国を実体以上に美化するのと同じ線上にあるマヤカシに過ぎない。

 クロアチアよりもシュート数・ボール獲得率も優っていたということだが、それで1点も取れなかったということは世間一般で言う決定力不足ということにもなるだろうが、実態としてはシュートにしてもパス回しにしても無駄が多かったことの証明でしかない。その結果の0対0でもあり、このことのみを以てしても「侍魂」は過大評価そのもので、日本というチッポケな島国では通用する評価だろうが、世界の強豪と比較した場合、その実力差からおこがましい限りではないか。

 宮本選手の弁解にしても、「朝日」の見出しにしても、日本の愛国者たちの日本礼賛にしても、マヤカシをマヤカシと気づかないのは、物事を〝相対化〟する感性に欠けるからだろう。〝相対化〟とは断るまでもなく他との関係で考えを構成することを言う。他者を省いて自分だけの立場・自分だけの能力を材料として価値判断を下そうとすると、そこに比較対照する他者を存在させていないから、自己をすべてとする独善に陥る危険に付き纏われることとなる。

 日本チームが強くなるには、まず〝相対化〟の感性を磨くことから始める必要があるのではないのか。「他との関係で考えを構成する」〝相対化〟は結果として自己の位置、あるいは自己の裸の実力を知る謙虚さにつながっていく。

 それでもブラジルとの最終戦は何が起こるかわからない。それだけを頼りにスタミナ切れも何も考えずに動きに動いて、走りに走って、挑戦するしかないだろう。

 勝ちに行く姿勢なら、得点に執着することとなって、硬さや焦りにつながり、正確性をなお損ないかねない。その反対にスタミナ切れを考えない動きは当然後半の息切れを誘って、動きが鈍くなり、点を取られやすい不利な状況を招くが、それでも相手の能力がすべての点で上である以上、負ける覚悟で相手以上に動きまわり、相手以上に走りまわる無我夢中のうちに自分を置く戦術を何が起こるかわからない意外性を誘う唯一の方法として、そこに活路を求めるしか道は残されていないのではないか。

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日本の首相は権力闘争の産物なのか

2006-06-18 11:40:43 | Weblog

 事実上小泉政権最後の国会が閉幕した16日(06.6)午後、小泉首相が国会内で行われた自民党代議士会の挨拶で9月に行われる総裁選までのポスト小泉レースを「今年は解散はないが、また暑い夏になる。自民党にとってきかなりつい権力闘争になりますが、これを身近に経験することはいい機会だと思います」というふうに形容した。

 日本の首相という大事な責任を次に担うにふさわしい人物は誰か、その決定にかかる総裁レースが「権力闘争」になると、まだ退任していない現首相が公言したのである。

 いわば総裁レースが首相を目指す者同士がそれぞれの政策を闘わせ合い、党所属議員や党員等にその内容を問う選挙を経て決定される民主的な体裁を取ったそんなカッコイイものではなく、実態はドロドロした「権力闘争」そのものだと自ら公表したようなものである。そればかりかテレビで見た印象は言葉のニュアンスから民主的な選択よりも「権力闘争」の方がさも立派な選択肢であると自慢するような響きすらあった。

 小泉ファンにしたら単になぞらえたに過ぎないと弁護するだろうが、「身近に経験することはいい機会」だと、自民党代議士会に出席した議員全員に勧めたのである。単なるなぞらえなら存在しない「権力闘争」は「身近に経験する」〝機会〟とはなり得ない。

 「身近に経験する」とは、議員及び党員全体が自ら1票を投じる形式で関わる総裁レースである以上、傍観者の立場からの「経験」ではなく、全議員・全党員が内側にあって関わることを意味するから、会社ぐるみの粉飾決算とか省ぐるみの不正経理とかの事件と同様に、その「権力闘争」は当然自民党ぐるみと言うことになる。

 自民党ぐるみの「権力闘争」――凄い見ものではないか。小泉首相自身が、その総裁選が政策闘争に見えたが、実態は「権力闘争」を手段として獲得した経験からの言及であろう。

 「権力闘争」などはかつての旧ソ連や林彪とか華国鋒、あるいは江青の4人組時代の中国、それでなければ発展途上国に限った話で、民主制を取った国では既に過去の遺物と化した闘争形態だと思っていたが、民主国日本では現在でも総裁を決定する手段として民主的方法を取ることができずに、「権力闘争」によって決定すると言うのである。

 経済大国との評価に連動した、既に日本の歴史・伝統・文化となりつつある政治三流国なる世界的声望は、なる程妥当な格付けだと納得しなければならない声望ということになる。

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日本民族優越性の象徴としての靖国神社

2006-06-17 06:25:56 | Weblog

 それは侵略戦争及び靖国参拝の正当化から始まる。

 正当化の相互補完。靖国参拝を続け、A級戦犯を合祀し続けることによって、意識の上では戦前の戦争が正当化可能となり、戦前の戦争を正当化するためには、靖国参拝とA級戦犯合祀は必要条件を成す。
 
 「国のために戦った戦没者」
 「国に殉じた兵士」

 そこには一般民間人・非戦闘員70万人余の死者は存在しない。意識の中に於いても戦死者200万人の前に70万人など物の数ではなく、忘却の底に埋葬の置き去りを喰らっている。

 日本国家を肯定しないからだ。「国のため」とは国民が国を〝奉公〟(朝廷・国家のために一身を捧げて尽くすこと/『大辞林』)の対象とするということで、国への役立ちを意味する。国のために戦った・殉じたとすることによって国は肯定され、国も、戦った・殉じた側も共々美化することができるが、国のヘマによってその犠牲がもたらされたとすると、国は悪者にされ、その適格性・優越性を問われることになる。

 だから、アジアの国々から戦争被害に対する個人補償を求める裁判が起こされたとしても、一切国の責任を認めない。日本が悪者にされることは許されない。

 「アジアに対して多大な被害をもたらした」と口では言うが、靖国神社思想には2000万人以上と言われるアジアの戦争死者が席を占める場所はどこにもない。「国のために戦った戦没者」・「国に殉じた兵士」のみしか意識されない。
 
 国への奉公によって命を落としたのではない一般日本人と同列に位置するからだ。日本という国を悪者とし、その国家の適格性や優越性ばかりか、歴史まで問われることとなるために、意識の外に置かなければならない。日本という国家がすべてであって、〝奉公〟やその他で国を肯定できる内部の人間だけが意識されることとなる。そのような日本という国だけを考える国家中心意識が単一民族意識を生み出している。それを支えているのが日本民族優越意識であろう。日本民族は優秀であるとすることができるから、単一民族を唱えることができる。

 16日(06年6月)に閉幕した開催地東京の『世界経済フォーラム・東アジア会議』で、「シンガポールからの参加者は、日本企業が海外現地法人の幹部を日本人で固めていると指摘し、『外国人を使いこなせる多国籍企業ではなくてはならない』と述べた」(『ダボス会議東アジア会合 経済統合 日中関係が影』06.6.17.『朝日』朝刊)と出ているが、世界のグローバル化の流れに反するこのような状況も、日本人が優秀だとしているからこそ拘ることができる日本民族優越意識からの日本人優先人事であろう。

 靖国神社こそ、現時点に於いて天皇についで二番目に日本優越民族国家を体感できるなくてはならない記念碑であろう。何しろ日中戦争・太平洋戦争で国に奉公した国家指導者を含む戦死者英霊200万人もが眠ったままその〝奉公〟という偉業によって日本を肯定し、戦争を肯定する役目を担い、日本を戦前から引き継いだ瑕疵なき国家・無誤謬国家(=優越民族国家)と見せているのだから。

 天皇の参拝が再現され、かつての国への奉公に慰謝を与えたとき、靖国神社は天皇と合体して〝天壌無窮〟の光を放つ。多くの日本人の意識の中に神国の再来をもたらすだろう。多くの日本人の中に勿論、「日本は神の国」と言った森前首相を真っ先に入れなければならない。二番目の椅子は小泉首相に与えよう。

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中途半端な国会質疑の源を探る

2006-06-16 11:59:36 | Weblog

福井日銀総裁の村上ファンド出資問題

 早朝の『日テレ24時間』テレビでもやっていたが、福井日銀総裁の村上ファンド出資問題での福井氏自身に対する質疑が昨日の参院予算委員会で行われた。民主党の平野議員は福井氏が解約を申し出たのが2月であることを福井氏自身に確認してから、日銀の量的緩和政策解除が3月に行われたことを指摘したあと、解除によって予想される株価下落に備えた「『(量的緩和解除前に)一種の売りぬけができる。インサイダー取引に問われても仕方がない』と詰め寄り、福井氏が『日銀の政策は合議制であり、私が独裁で決めているわけではない』と語気を強めて反論する場面があった」(『時時刻刻 福井総裁苦しい弁明』06.6.16.『朝日』朝刊)

 そこまで攻めていながら、追いつめることができず仕舞いでお開きと言うわけである。釣り上げ寸前のところまでもって行きながら、詰めの甘さから獲物を逃してしまう。こういった追及の尻切れトンボが国家質疑での決まりきったパターンとなっているはなぜなのだろう。

 これは相手の言葉尻を咄嗟に捕らえて、その言った事実を崩しにかかる方法で攻め込むのではなく、自分が用意した言葉、あるいは用意した資料でのみ攻め込もうとするから、そこから外れた場合、用意していなかったために対応しきれない事態に立ち入ってしまうことによって生じるパターンではないだろうか。

 福井氏の反論に対して、「合議制であり、独裁で決めているわけではなくても、あなたは日銀のトップであり、トップの意志がより大きく反映した解除決定ということもあり得るはずではないか。トップにはトップなりの意志決定権があるはずだ」となぜさらに詰め寄ることをしなかったのだろう。

 世の中には民主主義を体制としていても、民主主義の装いのもと、実質は〝独裁〟である例がいくらでもある。例えばトップの意志が強すぎて、周囲が押されてしまう状況にあり、結果としてイエスマン的な雰囲気が当たり前となって、合議とは名ばかりで、トップが決めたことを全会一致の形で承認するケースや、責任を取りたくない自己保身からトップやそれに準ずる力ある者の意見に追随する状況での合議を経た決定といった例である。派閥のトップが決定したことを反対でも、派閥従属によって成り立たせている自己利害を崩すわけにいかずに派閥一致の賛成の態度を取るといったこともあるはずである。

 小泉首相はその政治手法が独裁者になぞらえられが、民主義を体制としても、部分的には独裁はあり得ることを示すものだろう。

 勿論福井総裁は自分の意志が大きく反映して決まった量的緩和解除ではないと否定するだろうが、「あなたが否定していることで、実際のところは誰にも分からない。事実かどうか確かめるためには量的緩和政策解除決定メンバー全員の国会での証言が必要になる」と証人喚問を求める。

 追及が同じ不発に終わるにしても、問題を大きくして、その過程で相手の否定を繰返させ、失言を誘う手に出るか、それらの否定のなかで不審を与える主張が出てきたなら、その言葉尻を捉えてさらに追及する。

 あるいは「独裁」ではないとした反論が語気を強めた点を捕らえて、「人間はウソをついているときほど、語気を強める」と相手の神経を逆撫でする。相手が「私をウソつきだと言うのか」と反論したら、「一般論を述べたに過ぎない。馬鹿にムキになったようだが、冷静でいられないほど、疑われることになりますよ」とさらに神経を逆撫でする心理戦も必要だろう。

 自分が用意した質問の範囲にほぼ添ってしか質疑応答ができない習性の拠ってきたる原因を考えるとしたら(だからこそ国会質疑では質問者に質問趣意書を提出させ、応答する側は趣意書に添って想定問答集を作成して質疑の場に臨み、双方の〝用意〟の間のやり取りとする制度を当たり前としているのだろう)、学校教育が議論形式の授業となっていないためにこれといった議論の経験がなくて、そのことに代わって用意した授業内容を用意したままになぞらせる暗記形式となっているために、教師の質問が行われた授業の範囲内の事柄と決まっている既に用意できている状態にあり、そのことに対応する準備のみで生徒の答が果たせる機械的な教育習慣の積み重ねを遠因として培ったものだろう。

 尤もそういった機械的対応の素地は学校教育以前の子供の頃から親や周囲の人間から植え付けられることとなる日本人の基本的な行動様式が起因している。

 親に連れられた幼い子供が言葉を年齢相応に喋れるようになっていても、近所の人間に「おはよう」と声をかけられても何も答えることができずにいて、親に「おはようは?」と促されて初めて「おはよう」と言える、自分から言葉を用意するのではなく、親が用意した言葉に対応して同じ言葉を繰返す意志伝達に於ける反復的な反応性がそのまま学校教育にまで引き継がれてなお一層強固に刷り込まれ、さらに大人になってまで引き継いでいって、国会質疑の場面でも〝用意〟の範囲内といった現象が生じているのではないだろうか。

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